見付屋跡 矢野道場跡 唐津屋跡 備前屋跡 中村楼跡 越後屋跡

文久元(1861)年10月、明治維新の立役者
やのどうじょうあと
矢野道場跡
明治5(1872)年7月、明治天皇が丸亀へ行
みつけやあと
坂 本 龍 馬 は、長州藩の勤王志士・久坂玄瑞を
見付屋跡
訪ねる道中に、丸亀の矢野道場へ立ち寄った。
が宿泊したのが見付屋であった。当時は多くの
土佐勤王党の盟主・武市半平太も岡田以蔵
蘇鉄が植えられた庭園があった。
ら門人を連れて、矢野道場へ剣術修行に訪れ
文化5(1808)年9月には、伊能忠敬も丸亀測
ている。矢野道場の南二軒隣には、丸亀藩の代
量のために訪れた際に見付屋へ宿泊しており、
表的な勤王志士であった土肥大作・七助の生
丸亀市城西町二丁目24番地
家があり、兄弟ともに久坂との交流があった。
からつやあと
唐津屋跡
江戸時代後期には、この見付屋は土佐藩本陣
丸亀市通町96番地
としても使われた。
びぜんやあと
慶応4(1868)年1月、鳥羽・伏見の戦いで高
備前屋跡
安政3(1856)年、江戸の北辰一刀流・千葉
松藩が朝敵となり、土佐軍は丸亀・多度津両藩
道場師範代で、後に坂本龍馬の剣術師匠とな
と共に高松征討に向かった。その中には、坂本
る千
千葉重太郎が、丸亀へ剣術指導のために訪
長岡謙吉がいた。
龍馬の秘書であった長
れ、その折に宿泊したのが備前屋であった。
備前屋は旧藩時代から続く歴史ある旅館で、
長岡は丸亀藩の勤王志士であった各務半左
明治時代以降は伊佐和旅館と商号を変えて営
衛門と唐津屋で会い、高松征討に向けての丸
丸亀市浜町123番地
丸亀市西平山町92番地
亀藩の勤王姿勢を確認していたとされている。
なかむらろうあと
中村楼跡
幸された際に、そのお供として訪れた西
西郷隆盛
業していた。
えちごやあと
慶応4(1868)年1月19日、鳥羽・伏見の戦い
越後屋跡
慶応元(1865)年、高
高 杉 晋 作 は琴平の勤王
で高松藩が幕府軍に加担したことで朝敵とさ
家・日柳燕石のもとへ訪ねる道中、丸亀藩の勤
れ、土佐軍は追討の勅書を受け、高松に向か
王志士・村岡宗四郎の屋敷で醤油醸造をして
う中、丸亀に訪れ、見付屋に本陣を敷いた。
いた越後屋に身を寄せた。
土佐軍の中には、乾退助(後の板
板垣退助)率
宗四郎の母・箏子(ことこ)も有名な勤王家
いる迅衝隊も加わっており、迅衝隊が丸亀に宿
で、当時、越後屋には地下室があり、火砲・弾丸
丸亀市西平山町292番地
丸亀市葭町47番地
陣とした場所が中村楼であった。
等を製造していた。