博士学位論文 中世後期京都の社会構造 - R-Cube

博士学位論文
中世後期京都の社会構造
立命館大学大学院文学研究科
人文学専攻 博士課程後期課程
酒匂由紀子
1.目次・章構成
序章
本論文の課題
第一章
戦国期京都の「土倉」と大森一族
―天文一五年の分一徳政令史料の再検討―
はじめに
第一節 大森一族の活動とその特徴
第二節 京郊の「土豪」とその活動
第三節 天文一五年の分一徳政令史料にみえる貸借の背景
おわりに
第二章
室町期京都の土倉について ―『看聞日記』・『建内記』を中心に―
はじめに
第一節 『看聞日記』にみえる土倉
第二節 『建内記』にみえる土倉
第三節
土倉の者の人脈
おわりに
第三章
「土倉」の解釈の形成過程 ―『古事類苑』政治部を手がかりに―
はじめに
第一節 『古事類苑』政治部における「土倉」の説明
第二節 『古事類苑』政治部以前の「商業史」研究
おわりに
付論1
中世の節供について ―祗園社を中心に―
はじめに
第一節 「御節供」について
第二節 「節供」について
おわりに
付論2
蔵人所御蔵小舎人真継家の終焉―幕末における枚方の鋳物師田中家の史料から―
はじめに
第一節 田中家と「鋳物師」の由緒
第二節 文久年間における田中家の周辺
第三節 慶応四年(明治元年)の鋳銭と鋳物師
おわりに
終章
中世後期の京都研究の問題と展望
2.全体の要旨
中世後期の京都の研究は、京都を「都市」と位置づけつつ考察してきたものが多い。そ
うした研究のなかで、林屋辰三郎氏が唱えられた「町衆論」は、後々の研究に多大な影響
を及ぼすことになった研究である。同氏は、
「町衆」を「この内乱(応仁・文明の乱を指す)
を契機に都市生活の全面に進出し来った「町」に拠って地域的な集団生活をいとなむ人々
を指」すと定義付けた。具体的には、
「町衆」による自治に関しての研究を展開され、特に
祇園会における山鉾巡行の再興は、権力に抵抗する「民衆」の自治の象徴と位置付けられ
た。
林屋氏は、
「町衆」のなかで指導者的な立場にあったのが、富裕層であった土倉・酒屋と
される。この定義の影響は甚大なもので、都市史研究、民衆史研究、経済史研究のみなら
ず、
「町衆」
である土倉・酒屋による土一揆撃退や法華一揆としての戦争行為を行ったとし、
土一揆研究や宗教研究史へも「町衆」の自治の論理は波及していった。
他方で、
「町衆」の指導者的立場にあった土倉・酒屋について、経済史研究の分野で挙げ
られる先行研究は、奥野高広氏・小野晃嗣氏・豊田武氏といった、戦前から戦後に活躍さ
れた研究者のものである。特に、奥野氏・豊田氏の研究は、土倉・酒屋=金融業者、質屋
という前提を基に進められている。この奥野氏・豊田氏の捉え方は、今日までも継承され
ており、史料中にて「土倉」と明記されていなくても金融を行う有徳人を「土倉」と位置
付けて展開している研究をいくつも確認できる。
このことが示すのは、研究者が「土倉」という史料用語を用いていたとしても、研究者
ごとに検討対象の特質が異なっていたということである。すなわち、史料用語であるはず
の「土倉」
「酒屋」は、研究者それぞれに都合よく解釈できる、とても曖昧な概念用語とし
て扱われてきたという、研究史上の大きな問題が浮かび上がってくるのである。また、そ
れは同時に「町衆」の代表的立場にとしての「土倉・酒屋」についても同様の問題をはら
んでいることを意味している。
本論文ではこうした研究史上の問題を解決し、中世後期の京都における社会構造を明ら
かにする道筋を立てるべく、
「土倉・酒屋」の実態について、史料中に「土倉・酒屋」とあ
るものに限定して検討を加えた。また、従来の研究方法の問題点についても分析を行い、
当該分野の研究が、今後どのように進められていくべきかを検討した。
3.各章の要約
第一章
戦国期京都の「土倉」と大森一族
―天文一五年の分一徳政令史料の再検討―
本章では、これまで土倉名簿と位置付けられてきた天文十五年の分一徳政令史料につい
ての解釈を再検討した。この天文十五年の分一徳政令史料は、桑山浩然氏が「これまで幾
度か分一徳政令は行われてきたが、土倉と認めうる者がこれだけ多数発見されたこと
はなかった」と評価をされた史料である。この桑山氏の論は、脇田晴子氏が都市と農
村の対立論を展開されたのをはじめとして、多数の研究の論拠ともなっている。一方
で、応仁・文明の乱後の京都では、多くの土倉・酒屋が退転したことが史料から明ら
かにされてきた。
上記の問題を解決すべく、天文十五年の分一徳政令史料の再検討を行った。また、
同史料の解釈の再検討から従来の研究が土倉と捉えてきた者は、どのような素性の者
であったのかということについても検討を加えた。
検討の結果、天文十五年の分一徳政令 史料の内容の多くは、京都の土倉が農村に対し
て貸付を行ったものではなく、京郊土豪と京郊の村々との間で生じた貸借関係であったこ
とが判った。したがって、研究の上で同史料を土倉名簿として利用できないことが判明し
たのである。本章での検証により、本来、土倉ではなかった者を、研究者が土倉の身分に
据えていた例があることが明白となった。このことは、今後の研究で再検討を加えていか
ねばならない。同時に、脇田氏論をはじめとする桑山氏論を論拠にした研究もまた、再検
討を要することを意味している。
第二章
室町期京都の土倉について ―『看聞日記』・『建内記』を中心に―
本章では、これまであまり検討されてこなかった土倉の身分・立場の検討を行った。従
来の研究において京都の土倉の多くが、比叡山延暦寺の山徒か日吉社の神人であったこと
は、既に明らかにされてきた。しかし、この事実から展開されてきた主な研究は、山門が
山徒や神人の土倉に賦課した役の徴収の仕組みと、それに関連した室町幕府の土倉・酒屋
役についてであった。そのため、土倉の本質に関する研究は、未だ不足している状況にあ
る。
本章ではこれらを検討するため、従来の同分野の研究のように法制史料を中心に用いる
のではなく、主に古記録を用いた。また、古記録の執筆者と土倉との関係に注目した。
結果、両者との間に主従関係が認められる事例が確かめられた。本章での検証により、
土倉は京都において、延暦寺の山徒や日吉社の神人というだけでなく、多くの都市民と同
様に複数の権門に兼属していた者であったことが明らかとなった。
第三章
「土倉」の解釈の形成過程 ―『古事類苑』政治部を手がかりに―
本章では、従来の土倉・酒屋に対する認識が、いつどのようにして形成されていったの
かということについて検証した。明治期に編纂が開始され大正初期に完成をみた『古事類
苑』には、土倉に関して、すでに今日の認識と同様のことが記されていた。
『古事類苑』の制作にあたり、編纂者らが参考にされたであろう先行研究を探したとこ
ろ、明治 20 年~30 年代の研究にたどり着いた。当時の研究方法は、史料収集を網羅的に
行うものの、包括的な社会構造や経済構造のなかで事象を捉える方法が、いまだ確立して
いなかったと見受けられた。そのため、中世の事例と近世の事例を並列させて考察してい
るのである。その証拠に、『古事類苑』もまた、中世の事例と近世の事例が並列してある。
すなわち、従来の土倉・酒屋に対する認識は上記のような研究方法から生み出されたも
のだったといえよう。
付論1
中世の節供について ―祗園社を中心に―
本章では、社領から神社に納入される年貢がどのように利用されていくのか「節供」行
事を通じて検討した。従前の研究において、節供は詳細な史料が無く、あまり取り上げら
れてこなかったため、いまだよくわからない行事の一つである。一方で、寺社の算用状に
は、年貢の用途の中に節供が含まれていることが多い。年貢がどの様に消費されていくの
かということを考察するには、適した素材であると思われる。
節供とは、
「一月一日の人日、三月三日の上巳、五月五日の端午、七月七日の七夕、九月
九日の重陽などの節日に供える供御を指す」とされる。これに対して、本章で使用した『祇
園執行日記』のうち、顕詮の執筆分に注目すると、
「御節供」と「節供」の 2 種類に書き
分けられていることがわかる。
「御節供」は、祇園社の節供行事であったことが判った。社家それぞれが経営する祗園
社領より供物を運上させ、社頭で儀式を行い、祇園社構成員に分配している。他方で、
「節
供」は、顕詮のもとで行った行事で、顕詮の配下の者が、顕詮から供物や銭を受け取るも
のであった。
すなわち祇園社において、節日は「御節供」・
「節供」ともに、当人が帰属する神社や人
から物や銭が下賜される日であったことがわかった。他の寺社の節供行事が祇園社と大き
く異なるものなのか、これからさらに検討を進めていかねばならない。
付論2
蔵人所御蔵小舎人真継家の終焉―幕末における枚方の鋳物師田中家の史料から―
本論文にて扱ってきた概念である「町衆」には、触口・小舎人・雑色等の身分を有した
者が多かった傾向があったことは、先行研究でも明らかにされている。本章で扱った真継
もまた、蔵人所の小舎人の身分を有しているなど、
「町衆」の条件を満たしている者の一人
といえる。
真継家は、中世史研究において、広くその名が知られている。研究史上において真継家
を有名にしたものは、中世に作成されたとする鋳物師支配の内容の偽文書をもって、全国
の鋳物師支配を行っていたという史実である。本稿では、真継家の鋳物師支配行為がどの
様に破綻していくのかということに注目し、中世「町衆」の終焉の一事例を検討した。
また、素材には真継家配下の鋳物師であった河内国鋳物師の田中家の史料を扱った。田
中家は、鍋・釜・農具の制作を専門とする鋳物師であったが、同家の史料群のうち、幕末
頃のもので鋳銭に関する内容の史料が存在する。この理由を探ってみると、幕末の田中家
が窮乏により鍋・釜・農具の制作では立ち行かなくなっていたことがわかった。
しかし、田中家のこの状況に、真継家は救済の手を差し伸べることが出来なくなってい
た。なぜなら、真継家は明治新政府に由緒や経歴が無視されていたからであった。すなわ
ち、中世以来の文書によって鋳物師を支配していた真継家は、新政権に従来の由緒が認め
られなかったことによって終焉を迎えたことが判明した。
他方、真継家配下の鋳物師らは協力し、明治新政府のみならず、旧幕府、宮家、公家と
いった権力に働きかけ、新たな権利を得ようと奔走していた。このことは、彼等もまた、
真継家の権力低下を認めていたからに他ならないのである。
4.成果のまとめ
本論文によって明らかになったこと、また新たに浮上した問題は以下の通りである。
まずは、土倉・酒屋に関する研究史上の問題として、第一章にて示したように、当該史
料にて土倉と捉えられてきた多くの者は、京郊の土豪であったことが判明したことである。
すなわち、従来の土豪研究で取り上げられてきたように、土豪が周辺地域の者に年貢納入
分を貸し付けることによって生じる貸借関係が、幕府の分一徳政令史料に現れたものだと
いえるのである。このように分一徳政令史料に京郊の土豪が現れるようになる状況につい
て、改めて当該期の幕府の評価と京都・京郊の評価が必要になってくるのであるが、本論
文で注目したい結果は別のところにある。
それは、
「土倉」が史料用語であるにもかかわらず、研究上の概念用語として捉えられて
きたという現実である。しかもその概念には、どのような条件を満たしたら「土倉」
「酒屋」
であるといった規定がない。このことは、研究によって「土倉」と位置付ける対象の条件
が異なっていた可能性を意味している。
いうなれば、土倉・酒屋を用いた経済研究や京都研究は、研究の蓄積が厚い分野のよう
にみえるものの、実は土倉・酒屋以外を検討対象としていた可能性が高い。また、第二章
で論じたような史料中の「土倉」の本質は、本来ならば、研究の前提として行われている
べきものだったことからしても、当該分野の研究の蓄積は必ずしも厚いものであるとはい
えない状況が明白となった。
こうした状況になった理由として、第三章に示したように明治期に成立した酒屋・土倉
の認識が、そのまま引用され続けてきたことが考えられる。明治 20 年~30 年代の研究
日本経済史の研究において、確固たる礎であることは間違いないことである。本論文
が問題としたいのは、明治期の研究ロジックによって形成された概念を、これまで再
検討されてこなかったことである。
次に、本論文にて問題に取り上げてきた研究上の概念は、戦前・戦後あたりまでに
形成されたものである。その当時は、概念用語を創出し、研究上における歴史の大き
な枠組みを構築して、簡便に理解できる歴史学を目指していたのではないかと見受け
られる。だがそれは、史料に基づきつつも、その殆どは論理的に創出されてきたもの
が多いのではないだろうか。他方、近年の中世後期・戦国期研究においては、そうし
た従来からの概念や枠組みに沿ってきた研究に対して、多くの史料を用い実証的に捉
え直す研究や、通説を塗り替える研究が増えつつある。
そうした研究上の流れがあるなかで、従前の京都の経済史・都市史は、研究上の概
念や論理的な枠組みで成り立っている部分が多い。先に示した、近年の京都・京郊の
研究との兼ね合いを考慮するならば、京都の経済史・都市史もまた、概念や枠組みを
実証的に捉えなおしていく必要があるだろう。しかしながら、本稿の第一章にて使用
した「土豪」も研究上の概念の一つである。現時点では、「土豪」という概念用語を
使用するほか、相応しい方法が見つからなかった。この点についても、今後、模索し
ていかねばならない。
5.主な引用文献・参考文献
奥野高広「室町時代に於ける土倉の研究」(『史学雑誌』44 編8号、1933 年)
小野晃嗣「室町幕府の酒屋統制」
(
『日本産業発達史の研究』法政大学出版、1981 年、初出
1932 年)
河内将芳『祇園祭の中世‐室町・戦国期を中心に‐』(思文閣出版、2012 年)
桑山浩然「室町幕府の徳政―徳政令と幕府財政」
(同『室町幕府の政治と経済』吉川弘文館、
2006 年、初出 1962 年)
同『室町幕府引付史料集成(下)
』解題(近藤出版社、1986 年)
桜井英治「職人・商人の組織」
(後、同『日本中世の経済構造』岩波書店、1996 年、初出
1994 年)
桜井英治「土倉の人脈と金融ネットワーク」(村井章介編『「人のつながり」の中世』山川
出版社、2008 年)
下坂守「中世土倉論」
(同『中世寺院社会の研究』思文閣出版、2001 年、初出 1978 年)
豊田武『日本商人史』中世編(東京堂、1949 年)
同「座と土倉」
(
『豊田武著作集』吉川弘文館、1982 年)。
早島大祐「中世後期社会の展開と首都」(同『首都の経済と室町幕府』吉川弘文館、2006
年、初出 2003 年)
林屋辰三郎「町衆の成立」
(同『中世文化の基調』東京大学出版、1953 年、初出 1950 年)
同「郷村制成立期に於ける町衆文化」(同『中世文化の基調』、初出 1951 年)
同『町衆‐京都における「市民」形成史‐』(中央公論社、1964 年)
脇田晴子「徳政一揆の背景―天文一五年を中心として―」(『日本中世都市論』東京大学出
版会、1981 年、初出 1970 年)