﹁泰西画法﹂の師石川大浪︵ 1︶

2016 年 12 月
人間発達文化学類論集 第 24 号
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﹁泰西画法﹂の師石川大浪︵
一、石川大浪の出生と大番役
︶
五六歳にて没したと思われる。
磯 崎 康 彦
大浪は、多くの絵師と同様にまず狩野派を学んだ。
﹃古画備考﹄にも
﹁狩野派を学ぶ﹂とある。しかし師が誰か、書かれていない。師は、鈴
も ぎん
木 源 太 左 衛 門 茂 銀 で あ っ た と 考 え ら れ る。 茂 銀 は、 号 を 隣 松 と い い、
みち のぶ
石川大浪は、江戸後期の幕府直参の武士である。大浪は谷文晁の蘭
画の師であるから、文晁論には欠かせぬ人物であろう。しかし、その
じゃ
狩野典信︵栄川︶のもとで学び、奥絵師四家のうちの木挽町狩野の流
れをくんだ。鈴木隣松は、大槻玄沢の依頼で︽麝獣図︾を描いている
くん しょう けん
から蘭画にも関心があったのであろう。大浪が隣松から教えをうけた
・
こ と は、 大 浪 の 別 号 薫 梥 軒 か ら 証 明 で き よ う。﹁ 梥 ﹂ は 松 の 古 字 で、
隣松からとられた一字である。
松は、実は後述する芝山源三郎の実父であった。芝山源三郎
鈴木隣
まさつね
は名を正庸といい、﹃寛政重修諸家譜﹄に次にようにある。
りん まい
豊五郎 源三郎 実は鈴木源太左衛門茂銀が二男、母は鈴木七兵
まさとし
衛正友が女、正利が養子となる。
明和六年八月五日家を継。時に十九歳廩米二百俵 天明四年十二
月二十二日はじめて浚明院殿に拝謁し、寛政八年三月二十三日小
一二月二三日とし、年五六歳とする。大槻如電も、﹃新撰洋学年表﹄で
源三郎を養子としてむかえたのである。源三郎は、大浪より一二歳あ
う け た が、 明 和 二 年︵ 一 七 六 五 ︶ に 一 六 歳 で 先 立 っ て し ま っ た た め、
元年
芝山源三郎は、明和六年︵一七六九︶一九歳とあるから、宝ま暦
さたか
︵一七五一︶鈴木隣松の次男として生まれた。芝山正利は長子正喬をも
普譜組頭となる。妻は津田六之助政恒が女。
寛政八年でこのとき三五歳という。これらの資料から逆算すると、大
まり年長であり、﹁蘭学者相撲見立番付﹂に東方前頭十枚目にあげられ
勇 健 日 進 居 士 ﹂ と あ る。 ま た 大 槻 磐 水 は、 大 浪 の 没 年 を 文 化 一 四 年
浪 は 宝 暦 一 二 年︵ 一 七 六 二 ︶ の 出 生 と な る。 し か も 大 浪 の 弟 孟 高 は、
るから蘭学者としても知られた。
ご だい ゆう
ある。すると石川大浪は、
宝暦一二年に生まれ、文化一四年︵一八一七︶
︵一︶
東岳と号し、幕臣小栗五大夫で宝暦一三年︵一七六三︶出生のようで
﹁名乗加、通称七右︵左︶
赤沼伍八郎氏の﹃赤沼掃墓叢書﹄によると、
衛門、文化十四年十二月二十三日︵没︶、五十六︵歳︶、法号智徳院殿
これは誤りのようである。
の威信をかけての編纂であるところから、明和二年説をとった。しかし、
明和二年︵一七六五︶の出生となる。私は、﹃寛政重修諸家譜﹄が幕府
とある。大浪は遺跡を継いだ明和八年︵一七七一︶、七歳であったから
時服をたまふ。妻は前川玄徳雄氏が女。
浚明院殿に拝謁し、八年十二月二十五日大番となり、後的を射て
乗加 甲吉 七左衛門 母は政栄が女。明和八年六月四日遺跡
を継。時に七歳、廩米四百俵、天明四年十二月二十二日はじめて
﹃寛政重修諸家譜﹄第百二十四によると、
出生から難題に突きあたった。幕府の編纂した諸家系譜集大成である
1
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磯崎康彦 :「泰西画法」の師石川大浪
たは三年に没したため、養子として出た源三郎は、実家所蔵の探幽縮
芝山源三郎は、大浪に狩野探幽の縮図を模写するよう依頼した。こ
れは、狩野派の絵師で実父隣松の愛蔵品でもある。隣松は享和二、ま
淀川舟で大坂を発足する大浪は、蒹葭堂に京橋まで送ってもらったの
に蒹葭堂宅を訪れた。一年間の大坂勤番を務めおえた八月一五日の朝、
同年八月十五日石川甲吉殿朝立ツ京橋ニ送り申候
とある。大浪は寛政四年八月に来坂し、木村蒹葭堂と知りあい、三月
︵二︶
図 を 容 易 に 観 ら れ ぬ と 判 断 し、 大 浪 に 模 写 を 依 頼 し た と 考 え ら れ る。
である。
しゅうちん
門上坂
入 り、 四 百 俵 と り と な っ た。 京 大 坂 役 の 夜 間 勤 務 だ っ た よ う で あ る。
天明八年︵一七八八︶一二月二五日、大浪は大番組の白須甲斐守組に
を お え、 寛 政 一 一 年︵ 一 七 九 九 ︶ 八 月 に 江 戸 に 戻 る 予 定 で あ っ た が、
この年、通称の甲吉を七左衛門と改めた。大浪は、一年間の大坂勤番
同月八日︵日付上部に︶石川城入
とある。大浪は寛政一〇年八月大坂に赴き、蒹葭堂と交遊をかさねた。
同月四日石川七左衛門来
同月七日石川七左衛門
﹃蒹葭堂日記﹄の寛政一〇年︵一七九八︶の項では、
八月朔日石川七左衛門旅宿ニ行、︵日付上部に︶石川甲吉改七左衛
大 浪 の 探 幽 縮 図 の 模 写 は、 表 紙 を 蘭 書 風 に 装 丁 さ れ、 享 和 三 年
︵一八〇三︶
﹃ 聚 珍画帖﹄として出版された。
隣松から狩野派を学んだ大浪は、﹃寛政重修諸家譜﹄や内閣文庫の﹃御
のり ます
番方代々記﹄によると、明和八年︵一七七一︶父石川乗益の相続人と
し ごう
なり、天明四年一二月に浚明院殿に拝謁した。浚明院は、十代将軍徳
いえ はる
川家治の諡号である。家治は天明六年︵一七八六︶五〇歳にて他界し
大番は、一二組からなる幕府の軍事組織で、江戸城や江戸市中の警護
どうしたわけか大坂に留った。
﹃蒹葭堂日記﹄の寛政一二年︵一八〇〇︶
おお ばん
にあたった。編成は大番頭・組頭・番士・与力・同心からなる。組頭
の項に次のようにあるからである。
たから、大浪は二三歳のとき、四八歳の家治に御目見したことになる。
は通常四名からなり、大浪はやがて一一番組の組頭に抜擢され、江戸
二月八日石川七左衛門□行蜂巣彦三郎始逢
すると大浪は、天明八年以後、寛政元年・同七年・享和元年・文化四年・
午の年が大坂城勤番であった。前者は四月、後者は八月の交代である。
組は、大番頭が白須甲斐守で、卯と酉の年が二条城勤番であり、子と
大 浪 は 寛 政 一 二 年 大 坂 勤 番 中 と わ か り、 勤 番 中、 大 番 組 一 〇 番 の 蜂
巣彦三郎、大番組一二番の石川頼母、大番組九番の佐橋左源太らと会っ
八月十一日早朝六時石川七左衛門京橋
七月三十日石川七左衛門 蜂巣彦三郎 佐橋左源太始逢
七月十七日行城内行石川七左衛門 石川頼母
六月十九日早朝登城七左衛門□昼過帰
城二ノ丸、西ノ丸の警護、また市中の警衛にあたったのであろう。
きん ばん
番も割りあてられ、一年交
大番組は、これらの職務のほかに上方勤
代で二組ずつ二条城と大坂城の警護にあたった。大浪の属した一一番
同一〇年が卯と酉の年にあたり、寛政四年・同一〇年・文化元年・同
た。こうした大番の面々と会っているところをみると、勤番制に問題
とり
七年・同一三年が子と午の年にあたるから、これらの年に京都、並び
が生じたのかもしれない。
ともあれ大浪は、
寛政一二年八月帰京となり、
う
に大坂に赴いたことになる。
を京橋まで見送った。こうした送別の姿をみると、蒹葭堂は、幕臣大
浪に一目置いていたとわかる。
同月一一日の早朝、蒹葭堂は、以前と同様に淀川舟で大坂をたつ大浪
上方勤番のうち、寛政四年︵一七九二︶と同一〇年︵一七九八︶は、
﹃蒹葭堂日記﹄からもわかる。同日記に、
寛政五年三月十三日石川甲吉
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る。
江戸に戻った大浪は、休む間もなく翌享和元年︵一八〇一︶春、京
都勤番の任にあたった。
﹃蒹葭堂日記﹄の享和元年の項に次のようにあ
山 村 才 助 は、 寛 政 元 年︵ 一 七 八 九 ︶ 大 槻 玄 沢 の 芝 蘭 堂 に 入 門 し た。
玄沢は寛政六年︵一七九四︶、閏一一月一一日が西暦一七九五年一月一
山村才助の名が浮上しよう。
世界地理に詳しい蘭学者と接したと考えられ、大槻玄沢や、とりわけ
万 国 全 図 に の る ア フ リ カ 南 端 の 大 浪 山 か ら と ら れ た。 す る と 大 浪 は、
︵日付上部に︶
六月二十九日京広嶋ヤ忠兵衛、京扇ヤ広嶋忠兵衛来 石川七左衛門出入
日にあたるところから、おらんだ正月を祝い酒宴をひらいた。新元会
享和元年までである。享和二年︵一八〇二︶、蒹葭堂は病身であるにも
七月二十九日京嶋ヤ忠兵衛
京都にいた大浪は、出入りの扇屋忠兵衛なる人物を大坂の蒹葭堂宅
にしばしば遣わしていた。
﹃蒹葭堂日記﹄での大浪と蒹葭堂との関係は、
あげられている。大浪と才助は、すくなくとも寛政一〇年には知りあっ
西関脇に、大浪は﹁江戸石川七左衛門﹂として西前頭一七枚目にとり
一〇年︵一七九八︶の新元会の﹁蘭学者相撲見立番付﹂では、才助が
られた。ここに山村才助の名はあるが、大浪の名はない。しかし寛政
である。新元会は天保八年︵一八三七︶まで続けられたが、寛政八年
七月四日京石川様取次ノ人広嶋屋忠兵衛来
かかわらず、二四年間書きつづけた日記を欠かすことはなかった。し
ち
こん よ
世界地図を付していた。しかし、貞享二年︵一六八五︶の目録に国禁
︶こ
方外紀﹄がある。これは、明末のイエズス会士アレーニ︵ J. Aleni
がい じゅ りゃく
と艾儒 略 の世界地理書で、五大州の地理・風俗・産物について述べ、
﹁幼より輿地紀載の書を好﹂んだ才助は、師玄沢から﹁大地渾輿の学
に志す﹂門弟といわれた。才助が若いころより読んだ地誌の一冊に﹃職
よ
ていたとわかろう。
の新元会で余興として都座の初春興行に見立て、
﹁芝居見立番附﹂が作
かし正月中旬床につき、二五日帰らぬ人となった。
大浪の最後の大坂勤番は、文化一三年︵一八一六︶であった。大浪
が大坂にいたことは、加藤曳尾庵の﹃我衣﹄からわかる。大浪は没年
﹀と蘭号入りの模写図
Tafel Berg
に至るまで、大番役を勤めたのである。
二、大浪の蘭号︿
軍吉宗が、漢訳洋書の禁令をゆるめたことにより、天文書、幾何学書
那蘇書としてあげられ、簡単に目にすることはできなかった。八代将
蘭画に興味をもった石川大浪は、多くの蘭学者と交遊した。大浪は、
天明末か寛政初めに高齢の前野良沢に接したと思われる。というのは、
などとともに﹃職方外紀﹄が持ち込まれ、その内容は出版物を通して
か い
西洋哲学者の訓言集といえる寛政二年の﹃仁言私説﹄がある。これは
は、﹃職方外紀﹄を種本としての増補であり、天明七年︵一七八七︶の
知られていった。宝永五年︵一七〇八︶の西川如見の﹃増補華夷通商考﹄
森島中良の﹃紅毛雑話﹄、その続編ともいえる﹃万国新話﹄も外紀の内
た ら
良沢が口訳し、大浪が筆記した。大浪はこのとき、大蠟山人と号した。
にあり、世界第一の高山といわれた。絶頂は常に晴天、雲霧は下界と
容を採択した。玄沢は﹃環海異聞﹄に、司馬江漢は﹃春波楼筆記﹄に
あ
その由来となった亜太蠟山は、当時﹁アフリカ大洲の西北三五度の地﹂
いわれた亜太蠟山は、大浪の高志と一致したのであろう。大浪は、太
外紀をとりあげた。﹃職方外紀﹄は江戸後期に、海外地誌の紹介書とし
ターフェル ベ ル ク
山村才助は、﹃職方外紀﹄を熟知した一人であった。才助の大業とも
て広く活用されたのである。
﹀を教え
Tafel Berg
蠟山と同音の大浪山を知り、かつオランダ語の︿
﹀などの号を用いた。
られ、大浪山、大浪、
︿ Tafel Berg
り ま とう
こん よ
︶こと、利馬竇の坤與
大浪なる号は、マテオ・リッチ︵ Matteo Ricci
︵三︶
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磯崎康彦 :「泰西画法」の師石川大浪
いえる﹃訂正増訳采覧異言﹄は、ピーター・ホース著﹃ゼー・アトラス﹄
︶
、 ヨ ー ハ ン・ ヒ ュ プ ネ ル の 蘭 訳 本﹃ 新 増
︵ Pieter Goos De Zee-Atlas
カ ウ ラ ン テ ン・ト ル ク
︵ Johann Hübner : De nieuwe, vermeerderde en
補改良時事解説事典﹄
りん う
とう りん
︵四︶
余カープ滞留中、霖雨フリツゝキ此山ニ登臨セシ故ニ、コレヲ詳
へだた
おおざら
獅
盤ヲノ名アル所以ナリ、山麓
イフ
ニセストイヘトモ﹁カープ﹂ノ岸ヲ 距 ルコト数里山ノ頂上平坦ニ
コレ﹁ターヘル﹂
シテ 盤 ノコトシ、
ノ 左 右 ニ 小 山 有 リ、 自 ラ 獅 子 頭 尾 ノ 形 ヲ 成 ス、 故 ニ﹁ レ ー ウ・
、此山格別ノ
尾
コップ﹂﹁レーウ・スタールト﹂ノ名アリ
頭
︶ を 主 要 文 献 と し、 新 井 白 石 の﹃ 采 覧 異 言 ﹄
verbeterde Kouranten-tolk
を訂正増補した世界地理書である。同時に中国の引用書目として、﹁艾
トナリ、洋船此山ヲ見
猶富士﹁ベルク﹂ノ宝
永山有ルカコトシト
め あて
ツクレハ曷叭布工程ナク着岸スル事ヲ喜フナリ、故ニ和蘭人コレ
大山ナラ子トモ、海上ヨリ渡海ノ人ノ験
カ ツ ヘ ラ
氏 万 国 図 説 ﹂ こ と﹃ 職 方 外 紀 ﹄ を 使 用 し た。 才 助 は 書 籍 の か た わ ら、
カープ
カップ
カップ
ターフェル
ヲ名ケテ、此港ヲ﹁グーテ・ホープ・デ・カープ﹂ノ名有リト
望峰ト訳スル
コノ所ナリ
﹀、また︿ Tafel Berg
﹀と署名した最初の作品は、現在
大浪が︿ Tairou
知られる資料から判断するかぎり、寛政一一年と同一二年の︽ヒポク
︶は、
蘭学者のなかでも比較的早い時期の蘭号であっ
ルベルク︵ Tafelberg
たといえよう。
をもっていた。これらは文化年間、商館長ヘンドリク・ドゥフ︵ Hendrik
︶ が 贈 っ た 蘭 名 で あ っ た。 大 浪 が ラ ス に 書 い て も ら っ た タ ー フ ェ
Doeff
︶、阿蘭陀通詞の馬場佐十郎はアブラハム︵
der Stolp
中津藩士の神谷源内はピーター・ファン・デル・ストルプ︵ Pieter van
︶の蘭号
Abraham
大 浪 の よ う に 蘭 号 を 用 い る こ と は、 蘭 学 者 に と っ て 珍 し い こ と で な
︶、
かった。官医の桂川甫賢はウィレム・ボタニクス︵ Willem Botanikus
﹀の蘭語を自らの署名とした。
Berg
大浪は、玄沢から対話の内容を聞き嬉しかったであろう。寛政一一
﹀と、翌一二年に︿ Tafel
年︵一七九九︶に大浪をアルファベットで︿ Tairou
な形であるという。
上が平たく、机のようであり、その左右の小山は獅子の頭と尾のよう
︶は尾の意味である。ラス書記官は、ターフェルベルクのスペ
︵ staart
ルを教えたばかりか、登山した体験も話した。ターフェルベルクは頂
叭︵
︶は岬、ターヘル︵ t a f ︶
k
aap
e l は 机、 ベ ル ク
文中のカープや曷
︶は山、レーウ︵ leeuw
︶は獅子、コプ︵ kop
︶ は 頭、 ス タ ー ル ト
︵ berg
按ニ明
人ノ喜
マテオ・リッチの地図﹁坤輿万国全図﹂を用いた。この万国全図が流
布したことは、各地の博物館に所蔵される模写図を見ればわかろう。
石川大浪は、
﹃職方外記﹄に載る大浪山の説明、また﹁坤輿万国全図﹂
に書かれたアフリカ先端の大浪︵山︶について才助から聞いたという。
﹃職方外紀﹄や﹁坤輿万国全図﹂に載る地名・国名など漢字
才助は、
名で列記し、それらに該当するラテン語とオランダ語を調べ、寛政八
年︵一七九六︶に﹃外紀西語考﹄を著した。ただ西語の出典は書かれ
﹀と書
ていない。ともあれ才助は、大浪山のオランダ語を︿ Tafel Berg
けたと考えられる。にもかかわらず大浪は、理由はよくわからないが、
参府するオランダ商館長にターフェル・ベルクのスペルを聞いてもら
うよう大槻玄沢に頼んだのである。
寛政一〇年︵一七九八︶春、ヘイスベルト・ヘンミ︵ Gijsbert Hem︶
、レオポルト・ウィレム・ラス︵ Leopold Willem Ras
︶、ヘルマヌス・
mij
︶ 一 行 が、 江 戸 参 府 を お こ な っ た。 同 年 三
レ ッ ケ︵ Hermanus Letzke
月二五日、桂川甫周、息子の甫謙、大槻玄沢、杉田伯元、松本玄之らは、
オランダ人の宿泊する長崎屋を訪れた。そして玄沢は、次のような質
問をした。
セ與ヘヨトイフヲ筆者阿蘭陀ニ乞フテ書シム、談次其山ノ事ニ及
ターヘルベルク
問
或号ヲ 大 浪 ト称シ、蘭客ニ﹁ターヘルベルク﹂トイフ文字ヲ書
ラス答
フ
依頼した作品であった。このことは、緒方富雄氏が大著﹃日本におけ
ラテス像︾である。寛政一一年の︽ヒポクラテス像︾は、大槻玄沢が
をヒチと読んでの頭文字と中野操氏はいわれる。
げん しゅん
漢方医は、神農像を冬至の日に掲げて尊奉したように、蘭方医はヒ
ポ ク ラ テ ス を 医 聖 と 知 り、 そ の 肖 像 画 を 求 め た。 大 浪 は 寛 政 一 二 年
事候、此節出来候間、蒹葭堂方江相頼御届申候、小子義当月十日ニ浪
キ
を京都に移し、京都蘭学の祖となった人物である。
とある。
﹁可鹿涅乙吉の描く師﹂であるヒポクラテス像は生気に満ち、
江御頼ヒッホカラテス像染筆仕早々可呈候処俗事多用ニ而甚延引恐入
二千年をすぎた今でも尊敬の念をおこさせるという。玄沢は景慕のあ
花 ヲ 出 立 仕 候 間、 猶 江 戸 よ り 万 可 申 上 候、 早 々 頓 首、 石 川 七 左 衛 門 八月朔日﹂とある。すると大浪は、寛政一一年杉田伯元を介して頼ま
イ
るヒポクラテス賛美﹄で詳述された。この大著は労作ですぐれた著書
ネ
︵ 一 八 〇 〇 ︶ に も、 小 石 元 俊 の 依 頼 に よ り ヒ ポ ク ラ テ ス 像 を 描 い た。
ル
つちのとひつじ
コ
であるが、最後に至るまで﹁可児涅乙吉﹂の意味を解明できなかった
元俊は名を道、丈愚と号した。漢方医学を学ぶが、オランダ医学に魅
ス
点は残念である。というのは﹁コルネイキ﹂に基づく肖像画こそ、わ
テ
了されて蘭方医らと交わる一方、芝蘭堂で蘭学を学んだ。江戸の蘭学
ポ カ ラ
が国における最多のヒポクラテス像だからである。玄沢の﹃磐水存響﹄
大浪より小石元俊に宛た寛政一二年八月一日の書簡が、﹃究理堂の資
料と解説﹄に載る。﹁去冬中江戸御出府之頃、杉田伯元より小子︵大浪︶
ヒ
の﹁兮撥哈拉跕斯伝 寛政 己 未 八月﹂の末部に、
このごろ
コ ル ネ イ キ
しんさい
しょうぜん
頃 得可鹿涅乙吉描師肖像、神彩如生、使人 悚 然起敬于ニ千載之
きんきょう の あまり
下九万里之表矣、欽 嚮 之 余 請大浪子模写、訳其要語及所出履歴、
これ
まり、その模写を大浪に依頼し、完成した模写像にヒポクラテスの要
れ て い た ヒ ポ ク ラ テ ス 像 を 大 坂 で 完 成 さ せ、 木 村 蒹 葭 堂 に お 願 い し て
以為小伝、題諸其上以配ニ聖云
語 や 履 歴 を 画 賛 と し て 書 き 加 え た。 し か し、 こ の︽ ヒ ポ ク ラ テ ス 像 ︾
京都の小石玄俊に送ったのである。このとき大浪は、大坂勤番中であっ
HIPPOCRATES cüs. In Griekenland. Getekent in quansij 12. door
寛政一二年の︽ヒポクラテス像︾は、前年制作の画像と酷似し、右
手をあげた右向きの肖像である。画像にオランダ語で、
た。
は現在所在不明で見ることができない。
ところで大浪は同年︵寛政一一年︶、もう一点︽ヒポクラテス像︾を
描き、大垣藩医吉川宗元に贈った。片桐一男氏はこれを発見され、先
の玄沢画賛の︽ヒポクラテス像︾と同じ図柄と推定された。吉川宗元
は玄沢の門弟であり、
﹁蘭学者相撲見立番付﹂で東前頭二枚目にあげら
I : H : Tafel Berg
・
・
・
の組みあわせローマ字印が
H
れ る 蘭 学 者 で あ る。 玄 沢 の も と、 大 浪 と 宗 元 は 知 人 の 間 柄 で あ っ た。
・
I
K
吉川家の︽ヒポクラテス像︾は、当主の逝去により平成三年古河歴史
によって描かれる﹂と訳せる。
と書く。︿ ﹀は︿
﹀に、︿ getekent
﹀は︿ getekend
﹀とすべきだが、
cüs
coüs
﹁ヒポクラテス、コス︵島︶
、寛政一二年、 ・ ・ターフェルベルク
S
ポクラテス像︾は、大浪が︿
︵五︶
﹀なる蘭号を用いた最初の作品
Tafel Berg
一二年︶に小石学契のために書き加えた画賛とわかる。ともあれこの
︽ヒ
晩 春 拝 題 為 小 石 学 契 ﹂ と あ る。 信 道 が、 四 一 年 後 の﹁ 辛 丑 ﹂︵ 天 保
かのと うし
の文字を組みあわせたモノグラム
捺されるが、緒方富雄氏は ISIKAWA
式のものとされる。画面上部に蘭方医坪井信道の画賛が書かれ、﹁辛丑
I
博物館に寄贈された。大浪は画像の下に次のようなオランダ語を書い
HIPPOCRATES coüs. In Grieken Land.
ている。
は石川の頭文字、 は七左衛門の七
H
I
I
︶はかすれてよく見えない。
H
︵ ︶
Getekent in quanseij 11, door I. H . Tairou
・
・
﹀
は︿
﹀
とすべきだが、
﹁ヒポクラテス、ギリシア
getekend
︿ getekent
のコス︵島︶
、寛政一一年 ・
︵ ︶・大浪により描かれる﹂と訳せる。
︵
H
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人間発達文化学類論集 第 24 号
56
︵六︶
︶という。
Historische CHRONYCK
日本に将来された蘭訳本﹃歴史年代記﹄には、各種の名称があった。
コ ル ネ イ キ
この蘭書を所蔵した大槻玄沢は﹁可鹿涅乙吉﹂と、吉雄幸作︵幸左衛門︶
と思われる。
大浪は、
このほか斎藤方策からの依頼と考えられる︽ヒポクラテス像︾
を描いた。方策は小石元俊の門人で大槻玄沢から蘭学を学び、大坂の
イキとして﹁西洋全史﹂と訳した。司馬江漢は﹁コロートヒストリイ﹂
上 部 に 吉 雄 権 之 助 の 蘭 文 に よ る ヒ ポ ク ラ テ ス 略 伝 を 載 せ、 天 保 二 年
・ フ ロ ー ト ﹀、 ヒ ス ト リ イ は
と 言 っ た。 ち な み に コ ロ ー ト は︿ groot
や松浦静山は﹁コルネーキ﹂と呼び、近藤重蔵はヒストリセ・ゴロネ
﹀
蘭学を担った蘭方医である。この︽ヒポクラテス像︾は、︿ Tafel Berg
の蘭号が見られるものの左向きの肖像画で、かつ制作年がない。画面
︵一八三一︶と記す。このとき権之助四七歳、方策六一歳である。問題
﹀ で 大 歴 史 書 の 意 味 で あ る。 つ ま り、 い ろ い な 名 称 が つ け ら
︿ historie
れたのである。
は、蘭文ヒポクラテス略伝のあとに書かれた次のようなオランダ語文
である。
蘭訳本﹃歴史年代記﹄は、巻頭の第二表にギリシアの哲人二四名の
胸像を載せた。第一はアテネの将軍ミルティアデス、第二がその息子
聖医ヒポクラテスである。横向きのヒポクラテスは、頬ひげをはやし、
キモン、第三が政治家で将軍のテミストクレス、第四がここで問題の
doctoor Saijtoo Hoosak geschreven door Josiwo Gonnoskij
訳は、
﹁有名な博士斎藤方策の依頼により、吉雄権之助によって書かれ
はげ頭の痩せた哲人の姿で、
ten verzoecke van den beroemede
る﹂となる。するとこれは、大坂の斎藤方策のために描かれた︽ヒポ
クラテス像︾であり、江戸でなく大坂で制作されたといえよう。大浪
対話するような姿のヒポクラテスとしたのである。
ヒポクラテス、優秀な医師であり、すべての医師の教師
と注釈する。大浪はこの胸像を基に、右手を胸元にあげて指をひらき、
﹀の蘭号を鑑み、寛政一二年の作と考
の大坂勤番、並びに︿ Tafel Berg
えられる。そして吉雄権之助の蘭文画賛が、三一年後の天保二年に書
された。ともに蘭学に関心のある趣味人であり、
しかも山片重芳は蘭学・
大坂勤番中の大浪は、木村蒹葭堂のみならず豪商山片重芳とも知り
あった。重芳は升屋第四代平右衛門で、升屋別家の山片蟠桃から教育
これまであげた寛政一一年の二点の︽ヒポクラテス像︾│一点は所
コ ル ネ イ キ
在 不 明 │ そ し て 寛 政 一 二 年 の 二 点 の 肖 像、 合 計 四 点 は﹁ 可 児 涅 乙 吉 ﹂
儒学・国学の書籍から諸道具・書画・古物などを収集した。儒書、国
き加えられた。
の 描 く ヒ ポ ク ラ テ ス 像 に 依 拠 し た。 さ て 問 題 の﹁ 可 児 涅 乙 吉 ﹂ と は、
西洋開闢之図 但大横もの石川七左衛門殿画 代銀百目 はり九
とある。重芳は、升屋出入りの商人はりまや九兵衛から大浪の︽西洋
家蔵記に
書 や 収 集 品 を 調 査 さ れ、 書 物 目 録・ 家 蔵 記 を 一 覧 表 に ま と め ら れ た。
書に比べ、蘭書の多さに特徴がある。有坂隆道氏は﹃重芳覚帖﹄の蔵
オランダ語のクロニク︿
・・・・・・・・
﹀の音読であり、蘭書﹃歴史年代記﹄
chronyck
﹀のクロニクが、
を指すと考えられる。標題︿ Historische CHRONYCK
大きく太文字で書かれているからである。
﹃歴史年代記﹄は、ドイツ人聖職者ヨーハン・ルートヴィヒ・ゴット
の組み
開闢之図︾を銀百目で購入した。もっともこれ以外にも、池大雅の竹画、
と
︶により一六三〇年に書かれた。こ
フリート︵ Johann Ludwig Gottfried
れは好評を博し、一六六〇年にアムステルダムで蘭訳出版され、さら
﹀と款記され、
J : H : Tafel Berg
大西圭斎の孔雀図なども、はり九から買っている。
Jon. Lud. Gotfridi ︽西洋開闢之図︾は、︿
にレイデンで一六九八年に再版された。オランダ語の標題は、﹃ヨーハ
ン・ルートヴィヒ・ゴットフリートの歴史年代記﹄︵
S
K
55
磯崎康彦 :「泰西画法」の師石川大浪
立って世界の起源から現時の一七世紀中頃までの歴史書であり、著者
を見出せる。天地創造図である。
﹃歴史年代記﹄は、キリスト教史観に
ポクラテスの肖像と同様に、ゴットフリートの﹃歴史年代記﹄に原図
ダムの体から出現するエファが描かれる。︽西洋開闢之図︾は、先のヒ
星が、そして大地と植物・鳥・魚・動物が創造され、眠るアダムとア
あわせ印が捺された紙本淡彩墨画である。光と闇が分離され、太陽・月・
大浪にターフェルベルクを説明した山村才助の大業といえば、﹃訂正
増訳采覧異言﹄といって異論はなかろう。これは、新井白石の﹃采覧
である。
を、さらに︽天地開闢之図︾を大坂勤番中の寛政一二年に制作したの
を参照し、京都の小石元俊や大坂の斎藤方策依頼の︽ヒポクラテス像︾
大 浪 は、 重 芳 所 蔵 の﹁ ア ル ヘ メ ー 子 ヒ ス ト リ ー﹂ こ と﹃ 歴 史 年 代 記 ﹄
しており、才助から天地開闢、アダム、エファなどを教えられていよう。
ゴットフリートは、オフェンバッハ教区の新教聖職者であった。
異言﹄を訂正し、増補した世界地理書である。白石の﹃采覧異言﹄は、
︶がオ
四大州に必要な事柄がもれ、詰問されたシドッチ︵ G.B. Sidotti
ラ ン ダ 語 を 理 解 で き な か っ た た め に 誤 謬 が 生 じ、 か つ 刊 本 で な く 筆 写
さて大浪は、︽ヒポクラテス像︾や︽西洋開闢之図︾を﹃歴史年代記﹄
いち べつ
一 の 記 憶 の み で は 描 け ず、 直 接 参 照 し な が ら 模 写 し た と 思 わ れ る。
先の﹃重芳覚帖﹄には、次のような注目すべき蘭書があげられている。
の知識も蘭書の解読も進み、蘭学の水準は上昇していた。
をくり返したため魯魚の誤りが生じた、
と才助はとらえた。もっとも
﹃采
覧異言﹄著述後、九〇年あまりをへての訂正増補であったから、地理
ほう はん
アルゲメー子ヒストリー 拾九巻 但剖判総史 天地剖判セル開
闢ノ初ヨリ今時ニ至ルマテノ数千載ノ際ノ史録也
これは、一六九八年版の蘭訳本﹃歴史年代記﹄をさすと考えられる。
﹁天地剖判セル開闢ノ初﹂は、
﹃歴史年代記﹄の旧約聖書創世紀の天地
期間であり、説明内容が一致する。さらに一六九八年版﹃歴史年代記﹄
︶を見落とすわけにいかない。前者は二〇版を数えたが、才助はホー
tolk
ス未亡人社出版の一六七六年版﹃ゼー・アトラス﹄を入手し、﹃万国航
と ヒ ュ プ ネ ル の﹃ コ ー ラ ン ト・ ト ル コ ﹄
︵
山村才助は、蘭漢和書や地図を駆使して訂正増訳したが、なかでも
︶
ピ ー タ ー・ ホ ー ス の﹃ ゼ ー・ ア ト ラ ス ﹄
︵ Pieter Goos : De Zee-Atlas
﹀ ︱︱ 一 般 的 な 歴 史
Algemeene historische Gedenck boecken
年 代 記 ︱︱ と 書 か れ て い る。 当 時 の 蘭 学 者 が よ く お こ な っ た よ う に、
創造であり、
﹁今時ニ至ルマテノ数千載﹂は現今の宗教改革運動までの
表 紙 に、
︿
海図説﹄と訳した。一方、後者はコウランテントルコと一般に呼ばれ、
Johann Hübner : Kouranten-
こ の 標 題 を 簡 略 化 し た り、 通 称 化 し て﹁ ア ル ゲ メ ー 子 ヒ ス ト リ ー﹂
正増訳采覧異言﹄を享和三年︵一八〇三︶に纏めあげた。
︶ を 用 い、
﹃万国伝信紀事﹄と
meerderde en verbeterde kouranten-tolk
訳した。才助は、主にこの両蘭書を参考に増訳し、本文一二巻の﹃訂
才助は一七四八年版の蘭書﹃新増補改良時事解説事﹄
︵ De nieuwe, ver-
自らの蘭書を山片重芳に送ったが、﹁アルゲメー子ヒストリー﹂が玄沢
︶と呼んだのであろう。一六九八年版﹃歴史年代記﹄
︵ Algemeene historie
は、江戸の大槻玄沢が所蔵していた。玄沢は、借金返済の信義として
所蔵の蘭書であったのか、この点は不詳である。
友人山村才助が、世界の開闢からローマ帝国の滅亡までの古代史を訳
し かん
︵七︶
木 子 観 か ら 軸 物 蛮 国 人 物 図 を 借 り、
大 槻 玄 沢 は、 寛 政 末 に 知 人 の 但
この人物図は西川如見の﹃四十二国人物図説﹄の写しと知るも、如見
ただ き
を持参して大槻玄沢を訪れ、人物図の説明を求めた。
山家の養子となり、蘭学に
この年︵享和三年︶、鈴木隣松の実子で芝
る はん
興味をしめした幕臣芝山源三郎が、﹁和蘭鏤版男女人物図残本三十一葉﹂
の組みあわせ印から判断して、寛政一二年頃大坂で模写された
︽天地開闢之図︾は、猿や虎が追加され、多少姿態を変えたラクダや
象 が 見 ら れ る が、
﹃ 歴 史 年 代 記 ﹄ か ら の 模 写 図 で あ る。 大 浪 の 蘭 号 や
・
K
作品と思われる。のみならず、天地創造の内容も知っていたであろう。
S
2016 年 12 月
人間発達文化学類論集 第 24 号
54
芝山源三郎は、
﹃訂正四十二国人物図説﹄を知見しての玄沢訪問であっ
れが享和元年︵一八〇一︶
、才助の﹃訂正四十二国人物図説﹄である。
の人物解説に満足できず、門弟の才助にかさねて解説を依託した。こ
技として︽パリの婦人図︾や︽ハバナの婦人図︾を描き、かつこれら
蘭鏤版男女人物図残本三十一葉﹂を模写中、また模写前後に試作や余
よる細部に至るまでの高度な模写は、大浪作と推察される。大浪は﹁和
大浪が享和三年に描いたのではなかろうか。確証はないが、面相筆に
︵八︶
たと思われる。
写図のなか、絹本淡彩の︽紅毛婦人図︾もある。神戸市立博物館所蔵
﹀の蘭号と
の︽紅毛婦人図︾は、原図が不詳だが、︿ Tafel Berg
・
以 外 の 婦 人 像 も 模 写 し た と 想 像 さ れ る。 こ れ ら 西 洋 婦 人 像 の 一 連 の 模
山村才助の専門家・鮎沢信太郎氏は、﹃磐水漫草﹄を参考に芝山源三
郎の訪問を纏められている。鮎沢著﹃山村才助﹄︵昭和三十四年︶をお
薦 め し た い。 源 三 郎 の 人 物 図 の 質 問 は、 才 助 の﹃ 訂 正 増 訳 采 覧 異 言 ﹄
の組みあわせ印が捺される。
K
イソップ物語は、今さら言うまでもなかろうが、動物を主人公とし、
寓話を通して処世術や人生訓を説いた。わが国最初のイソップ物語は、
三、大浪、﹃イソップ物語﹄を入手する
か ら 回 答 さ れ、 か つ 不 明 な も の に は 才 助 に 別 の 蘭 書 を 訳 さ せ て 答 え、
人物図の脇に回答文を略記させたという。さらに源三郎は、パタゴニ
ア地誌の長入図とニエーホフの印度諸島及びアメリカ地方人物図説を
才助に訳してもらい、人物図のあとに加筆した。芝山源三郎の持参し
た﹁和蘭鏤版男女人物図残本三十一葉﹂は模写され、現在﹃蛮国人物図﹄
の名称のもと早稲田大学図書館に所蔵される。
S
﹀ハバナ港と、下部にオランダ語で︿ getekent
Havana portus
バナの婦人図︾は海と連山を背景に一人の西洋婦人が立ち、上部にラ
テン語で︿
﹀と書かれる。享和三年︵一八〇三︶に大
in kijaewa 3. door Tafel Berg
浪によって描かれた墨画とわかる。︽パリの婦人図︾と︽ハバナの婦人
図︾は、すでに岡村千曳氏が指摘されたように、芝山源三郎所蔵の﹁和
蘭鏤版男女人物図残本三十一葉﹂に原図を見出せる。私は、これら二
さて新村出氏は、著作﹃天草本伊曽保物語﹄によると、昭和三年金
沢を旅行し、前田男爵邸で六枚のオランダ語文入り動物寓話模写図を
見た。画が六面、詩が六面で、画と詩を裏合せに貼りつけてあったと
かのと い
いう。うすい日本紙に墨筆で書いてあったとされるから、原図を引き
写したのであろう。包紙に﹁阿蘭陀画写 六枚﹂と、﹁寛政三 辛 亥仲
夏 念 五︵ 一 七 九 一 年 五 月 二 五 日 ︶ 烏 画 四 如 軒 写 之 書 山 口 為 範 模 之 ﹂
し じょ けん
との識語があった。加賀藩の絵師矢田六郎兵衛こと四如軒が画を模写
に掲載された写真を参照して判断した。
新村氏はこれら模写図の原本を探していたところ、英文雑誌﹃版画
を写しとったとわかる。
﹀と蘭文
し、同藩の山口為範が、オランダ語標題︿ Warande der Dieren
そもそも早稲田大学図書館所蔵の﹃蛮国人物図﹄は精巧な模写図で、
点の大浪墨画を見ておらず、
松田・勝盛両氏により﹃大和文華一〇五号﹄
漢や為永春水が、挿絵入りのイソップ物語を紹介した。
文禄二年︵一五九三︶に天草キリシタン学林で刊行されたローマ字体
大浪の紙本淡彩墨画に︽パリの婦人図︾がある。婦人は右手に一輪
︶であった。その後、国字本
の﹃イソポのハブラス﹄
︵ Esopono Fabvlas
の花を左手に扇子を持った立ち姿で、上部にオランダ語で︿
Een
parijs
い そ ぽ
﹀と蘭号と ・ の
﹃伊曽保物語﹄が刊行されるも、本文のみで挿絵がなかった。挿絵が入っ
Tafel Berg
たのは、万治二年︵一六五九︶が最初である。江戸後期には、司馬江
﹀︱︱パリの婦人︱︱と書かれ、︿
vrouw
組みあわせ印が捺される。
K
また大浪の紙本墨画に︽ハバナの婦人図︾がある。これには、昭和
初年に長野県の個人から新村出氏に送られた毛筆の模写図もある。︽ハ
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磯崎康彦 :「泰西画法」の師石川大浪
2016 年 12 月
人間発達文化学類論集 第 24 号
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蒐集家季報﹄
︵ Print Collector's Quarterly
︶ に 運 よ く 接 し、 同 誌 中 の 論
文﹁老マルキュス・ゲーラールツの蝕画版﹂から加賀藩の六枚模写図
ゲーラールツの最初の銅版画挿絵入りイソップ物語は、一五六七年
中の一枚は、ゲーラールツの銅版画を原図とすると知った。
︶ で、
出 版 の﹃ ほ ん と う の 動 物 寓 話 ﹄
︵ Warachtige fabulen der dieren
一 〇 八 枚 の 銅 版 画 か ら な る。 一 〇 八 枚 中 の 標 題 を 除 い た 一 〇 七 枚 は、
その後活用され、各種の再版本イソップ物語が出版された。有名な一
ヨースト・ファン・デン・フォンデルの文章と一二五枚の挿絵からなる。
︵
ペルッセ 一六一七年
︶
﹃気高い動物園﹄は、道徳哲学を根底に、階級のある人間社会にとっ
て有益となることを目標とした。銅版画挿絵は、画家マルクス・ヘラ
︶による。新村氏の英書からの﹁ゲーラールツ﹂
ルス︵ Marcus Gerards
の名が、現今に至るまで踏襲されているが、蘭名マルクス・ヘラルス
とした方がよい。
マルクス・ヘラルスは、父親と息子が同名である。父親は一五三〇
年頃ブルュージュに生まれ、一五五七年同地の聖ルカ組合の親方とな
り、一五九〇年頃死亡したとする説が多い。一方息子は一五六一年に
有り難いことに、新村氏は加賀藩の六枚模写図のうちの一点を写真
︵九︶
図 2. 上図の古オランダ語文釈文
その後、幸いなことに、菅野陽氏が﹃気高い動物園﹄
の表紙を写真掲載された。どのような内容か、表紙を訳
して補記しておこう。
的に印象的に、
かつ楽しく人目を引くように述べる。
気高い動物園
ここには道徳に富んだ哲学を、詩的に倫理的に歴史
古い歴史からの実例を詩文であらわし、押韻をとも
なって説明する。又加えられたすばらしい挿絵は精
巧な銅版画であり、画家マルクス・ヘラルスによる
ものである。変った話に至るまですべてが、全階級
の人々のために役立ち、かつ実益となる。
アムスデルダム、ディルク・ピーテルスゾーン書店、
︵住所︶ワーテル、
食料市場をこえて右側、ウィッテ・
図 1. 動物園・食物を運ぶロバ
﹀のみを﹃動物の公苑﹄と訳され、加
一部である︿ Warande der Dieren
賀 藩 模 写 図 の 原 書 と す る こ と に 不 可 能 で な い と さ れ た。 こ の 蘭 書 は、
出生、一五七七年アントウェルペンの同業者組合の親方となり、英国
加賀藩の絵師は、ゲーラールツの挿図を踏襲し、一六一七年にアム
ステルダムで出版された﹃気高い動物園﹄︵ Vorstelijke Warande der Di- に渡って改宗し、ロンドンで一六三五年に没した。父親没後、二七年
︶を見たのである。新村氏は原本を直接見なかったため、標題の
あまりして﹃気高い動物園﹄が出版され、亡き父の銅版画を活用した
eren
こうえん
とわかる。
︶ が あ る。
冊 に、 一 五 七 九 年 の 第 三 版﹃ 道 徳 寓 話 ﹄︵ Mythologia ethica
ここでは、新たに一四枚の銅版画が加えられて一二二枚となった。
1
る こく
︵一〇︶
て中の巻あるはすくなし。大浪先生珍蔵の拂郎察国鏤刻の此物語
ポ ル
りの画本よりみれば、此本は其十の一也。所蔵甚すくなし。波爾
ル
掲 載 さ れ た。
︿ De spijse-draghende Ezel
﹀﹁ 食 物 を 運 ぶ ロ バ ﹂ で あ る。
加賀藩の山口為範の写した古オランダ語文は、未だ翻訳されていない
杜瓦爾人より口授して国語にせしものなるべし。
ト ガ
ため釈文し、逐語訳しておこう。
そ し て 奴 隷 と さ れ、 哀 れ な ロ バ の よ う に 厳 し い 労 働 を 強 要 さ れ、
帝は、ペルシア・サポール王の捕虜となり、わなに縛りつけられた。
動物園
食物を運ぶロバ
みじめにも捕えられたローマ皇帝ファレリアヌスは、この︵上の
図の︶重荷を運ぶロバよりはるかに不幸であった。というのは皇
たということで、フランス語版とは限定できなかろう。
郎 察 国 鏤 刻 ﹂ の 物 語 と い う。 し か し 、 こ れ は フ ラ ン ス で 銅 版 画 と さ れ
そのさい大浪所蔵の画本イソップ物語を引きあいに出し、それを﹁拂
二〇年あまり以前の寛永十六年版イソップ物語は、珍しく貴重である。
とある。この添書きによれば、万治二年︵一六五九︶版イソップ物語
王が馬に乗るさいには踏み台とされた。又みじめに打ちたたかれ、
︶ は、 一 六 五 九 年、
フ ラ ン ス 語 の イ ソ ッ プ 物 語︵ Fables d’Esope
一六八九年にパリで出版された。これら以外にもかなりあろうが、す
蔵 の イ ソ ッ プ 物 語 は、 い ま だ 特 定 で き な い が、 フ ラ ン ス 語 版 で な く、
べてを調査できなかった。ただフランス語版の挿絵も、マルクス・ヘ
・
は上中下巻からなり、はじめて三巻すべてに挿絵が入った。これより
粗末な食物しか与えられず、上図のロバのように働かされ、つい
ラ ル ス の 銅 版 画 を 改 作 し た も の が 多 い。 挿 絵 の 背 景 は 変 え ら れ た り、
︶
これは、重荷を運ぶロバの挿絵をかり、ファレリアヌスの辛苦を教
ゆ げん
え さ と す 喩 言 で あ る。 こ の 模 写 図 に よ り、 金 沢 の 前 田 侯 は 寛 政 三 年、
時 代 を 経 る に つ れ 新 に 追 加 さ れ た 銅 版 画 も あ る。 出 版 年 不 詳 の 大 浪 所
と
オランダ語版イソップ物語を所持していたとわかる。
ラテン語版であったのではなかろうか。
大浪は文化二年︵一八〇五︶
、絹本着色の︽獅子図︾を描いた。画面
上部にオランダ語で、
︵獅子 文化二年 ター
getekent in boenkwa 2 Door Tofel Berg
Leo
フェルベルクにより描かれる︶
字翻訳本であろう。そして﹁此の書は西洋書にて、シンネベールと云っ
て譬諭なり、いま和蘭の書を学ぶ者解しがたき 辞 にして、二百年以前
と款記される。やはり同じ頃の作品と思われるが、弟の石川孟高も横
ことば
西洋の学をある事を知るべし﹂とある。すると紀州侯のイソップ寓話
長の画面で絹本着色の︽獅子図︾を描いた。ライオンのみならず背景
ひ ゆ
は蘭書でなく、ラテン語版かポルトガル語版と考えられる。
高は画面左上に、
浪のフランス語版所蔵説は、亀田次郎氏による寛永一六年︵一六三九︶
版
﹃和刻伊曽保物語﹄
調査での所見添書きによる。明治四五年の添書に、
つちのとい
寛永十六年上木の本︵
﹃和刻伊曽保物語﹄︶は稀也。万治二年 己 亥
正月吉とある本︵
﹃伊曽保物語ゑ入り﹄︶も上の巻・下の巻のみに
Leo
ウベルク︵
Leeuw Belg
︶という山名で、当時獅子山などと訳された。
Leeuwberg
と 署 名 す る。︿ Belg
﹀ は︿ Berg
﹀ と す べ き だ が︿ Leeuw Berg
﹀は孟高
の蘭号である。もとは喜望峰のターフェルベルク近くにある低山レー
まで酷似しており、兄大浪の︽獅子図︾を模写した可能性が高い。孟
さて各種のイソップ物語が、わが国に持ち込まれるなか、フランス
語版イソップ物語を所蔵したと伝承されるのは、石川大浪である。大
の書は二百年以前の書にて、皆かな書なり﹂というから江戸初期の国
﹁此
侯にあり、予直に見たり、皆 譬 を以て教を設く﹂という。同時に、
たとえ
に命を絶ったのである。
︵図
紀州侯も別種の物語を所蔵していた。司馬江漢は、﹃春
前田侯のほか、
い そ ぽ
波楼筆記﹄で﹁伊曽保物語と云ふ書は西洋の訳書なり、其の原本紀州
1
2
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磯崎康彦 :「泰西画法」の師石川大浪
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50
カ
きっ とう
石川大浪は、文化六年の﹃蔫録﹄に挿絵﹁満刺加国人吃烔図﹂を載
せた。その原因は、ヨアン・ニエーホフ著﹃東西海陸紀行﹄に見出せる。
ラ
大浪と孟高の︽獅子図︾は、蘭書﹃気高い動物園﹄のマルクス・ヘ
ラルス銅版画︽ライオンと鼠︾の網にかかってもがくライオンと相似
山村才助は、先にふれたように、享和三年玄沢宅を訪れた芝山源三郎
マ
する。つまり大浪所蔵のイソップ物語の挿絵は、マルクス・ヘラルス
第一部の表紙には次のように書かれる。
記憶すべき海陸紀行 アムステルダム、ヤーコブ・ファン・メー
ルス未亡人書店より 一六八二年
ヨ ア ン・ ニ エ ー ホ フ の 東 西 イ ン ド に お け る 主 要 な 風 景 を 介 し て、
︶とは、どのような蘭書なのであろう。まず標題を
West en Oostindien
訳しておこう。
Gedenkwaerdige Zee en Lantreize door de voornaemste Landschappen van
さ て、 大 浪 の 見 た ニ エ ー ホ フ 著﹃ 東 西 海 陸 紀 行 ﹄︵ Joan Nieuhofs
めたのである。
地理・風俗・産物の箇所を抄訳し、文化初年に﹃東西紀游﹄として纏
那 行 程 記 ﹂ な ど と も 訳 さ れ た。 才 助 は 、 こ れ ら ニ エ ー ホ フ の 著 書 か ら
︶である。シナの都市・歴史・政治・風俗・地理・産物などを
na, 1665
述べた蘭書だが、のちに渡辺崋山も興味を示し、わが国では﹁奉使支
aan den Grooten Tartarischen Cham, den tegenwoordigen Keizer van Chi-
節 派 遣 ﹄︵ Het gezantschap der Neerlandsche Oost-Indische Compagnie
行とは、ニエーホフ著﹃東インド会社の現支那皇帝、大韃靼公への使
三年夏、杉田玄白からニエーホフの支那紀行を借りて読んだ。支那紀
て興味ある蘭書であったのであろう。﹃東西海陸紀行﹄以外にも、享和
のために﹃東西海陸紀行﹄を抄訳した。ニエーホフの著書は、才助にとっ
大 浪 も 孟 高 も、 標 題 の 獅 子 に ラ テ ン 語 の︿
﹀ を あ て る。 フ ラ ン
Leo
銅版画の改作である。
﹀と何故しなかったのであろう。原図がラテン語表記だっ
ス語の︿ Lion
たからである。大浪所蔵のイソップ物語は、フランスで出版されたラ
テン語版であったと思われる。その出版年は特定できないが、︽獅子図︾
の制作年が文化二年とあるから、
大浪は文化二年前にラテン語版イソッ
プ物語を所有していたことになろう。
四、文化六年﹃蔫録﹄の挿絵︽満刺加国人吃烔図︾と︽荅
跋菰草並荅跋鶴島土人図︾
きょうてい
大槻玄沢は、タバコに関する記事を漢書や蘭書から集め、それらを
寛政年間中頃から訳し、草稿として残した。玄沢自身が、タバコをこ
おくのは忍びがたく、師の許可のもと草稿を整理し修補した。才助は
よなく愛したからである。山村才助は、師玄沢の草稿を 筺 底に秘して
えん ろく
文化四年︵一八〇七︶に亡くなったが、おそらく才助の遺稿にそって
文化六年︵一八〇九︶に出版されたのが﹃蔫録﹄である。玄沢著、江
戸芝蘭堂版で三巻からなり、上はタバコの名称や歴史、中は禁忌、解毒、
喫煙具、下は詩歌である。
一六四〇年から一六四九年までのわが国とポルトガルとの戦争や
信 仰 な ど、 オ ラ ン ダ 領 ブ ラ ジ ル の 簡 明 な 説 明 を す る。 と り わ け
ヨーハン・ニエーホフの記憶すべきブラジル海陸紀行 未知のも
のすべてを含み、加えて風景・都市・動植物・住民の衣服・習慣・
タバコ島の産なり﹂といい、
タバコの大害について述べた。そして﹃蔫
反乱のなか、九年間のブラジル滞在中に起ったきわめて珍しい出
録﹄について、
﹁大槻玄沢と云ふ人は、仙台侯の外科にて蘭学に名あり、
来事・事件に関する冗漫な話も加える。通例のごとく数々の挿図
タバコ記事を考証した﹃蔫録﹄を、司馬江漢は入手して読んだので
くわ
あろう。江漢は、
﹁タバコの起原は大槻玄沢著蔫録に委し、亜墨利加の
頃日タバコの起原の書を引きて、皆漢文なり。タバコは多くは愚人卑
ちょうろう
賤の好む者にて、故に此書は世の 嘲 弄ものとなりぬ﹂と批判した。
︵一一︶
49
磯崎康彦 :「泰西画法」の師石川大浪
を入れて飾るが、それらはその地での実写に基づく。
︶
アムステルダム、
ケイセルス・フラハト︵運河名︶にあるヤーコブ・
︵
︵一二︶
︶は一七〇九年、二巻
た。ノエル・ショメル︵ Noel Chomel, 1632-1712
本百科辞典を出版した。好評を博し、増訂版が次々に出版され、英・仏・
独語にも翻訳された。わが国に将来されたのは、オランダ語版百科事
︶は
典 で あ る。 蘭 訳 本﹃ 家 庭 百 科 事 典 ﹄︵ Huishaudelyk Woordenboek
一七四三年に二巻本、一七六八年から七七年にかけて七巻本、売れゆ
ファン・メエール未亡人書店、一六八二年
第二部の表紙は次のようにある。
ヨアン・ニエーホフの東インド各地をめぐる海陸紀行。珍しく不
きが良く一七七八年に七巻本が重版された。その後、時代を経るにつ
れ新たな項目を加えつつ、九巻本、一六巻本、一八巻本となった。
大槻玄沢を翻訳の任にあたらせた。同八年、ショメル七巻本﹃家庭百
思議な多くの出来事と話を含む。加えて風景・都市・動植物・住
科事典﹄翻訳の命があり、馬場・大槻両人が翻訳を開始、以後宇田川
民の衣服・習慣・信仰を記述し、とりわけ都市バタビアには冗漫
ニエーホフは、国命により一六四〇年ブラジルに向かい九年あまり
滞在し、かつ一六五三年にはバタビアに赴いた。﹃東西海陸紀行﹄はニ
榕庵、宇田川玄真︵榛斎︶
、小関三英、湊長安ら多くの蘭学者が協力し
な話を加える。
︵書店名、住所は第一部と同じ︶
エーホフの体験記であり、
﹁東﹂とは主にバタビアを、﹁西﹂とはブラ
かん か
ジルを意味した。才助はニエーホフの著作を﹁漫然としてその閑暇を
た。訳稿が、﹃厚生新編﹄となったことは贅言を要しまい。もっとも全
がん ろう
消するために録して、以て玩弄に供するものには非ず﹂と高く評価す
項 目 の 翻 訳 で な く、 か つ 一 項 目 で も 不 要 な 部 分 は 訳 さ れ な か っ た が、
して静岡県立図書館に残され、刊本とならなかった。
ショメルの﹃家庭百科事典﹄は、天明年間すでによく知られた蘭書
であった。森島中良は﹃紅毛雑話﹄でこの蘭書の挿絵を活用し、司馬
カ
︶を模写した。︽満刺加国人吃烔図︾としている。
op Batavia Gekeet gaan
﹃蔫録﹄の草稿はかなりあり、
大浪が何年に模写したか確定できないが、
江漢もこの百科事典を見た。大槻玄沢は、天明三年︵一七八三︶に成
稿し、同八年に公刊した﹃蘭学階梯﹄の巻下﹁書籍﹂に、
ショメール・ホイスホウデレキウヲールデンブック二冊、増続七冊、
︽満刺加国人吃烔図︾は、
ブックと呼び、二巻本と七巻本を所蔵していた。玄沢の七巻本﹃家庭
しかし大浪は夫妻を大きく描いたため、長管は図中に収めきれず枠外
百 科 事 典 ﹄︵ Algemeen Huishoudelijk-, Natuur-, Zedekundig- en Konstば こ
にはみだす。それにしても細かな点までよくいき届いた模写図である。
た
跋鶴島土人図︾
精巧な模写図は、﹃蔫録﹄に掲載された︽荅跋菰草並荅
も同様である。これは、
ショメルの
﹃家庭百科事典﹄からの模写図であっ
大浪は、おそらく玄沢から依頼され、︽荅跋菰草並荅跋鶴島土人図︾
︶ は、 ド ド ネ ウ ス や ヒ ュ プ ネ ル の 蘭 書 と と も に﹃ 蔫 録 ﹄
Woordenboek
に利用された。
と記す。玄沢は、﹃家庭百科事典﹄をホイスホウデレキ・ウヲールデン
居家纂要ノ全書ナリ
男所把煙管甚長斉於一身高
ろ かん
管石頭小者其図如左
女用蘆
おっと
と説明される。原因は、
マライ人 夫 の長管のパイプを図中内に収めた。
化初め頃写したと思われる。
早稲田大学図書館の大槻家旧蔵の草稿に模写図が見られないから、文
マ ラ
石川大浪は、才助か大槻玄沢の依頼で﹃東西海陸紀行﹄の挿絵﹁バ
タビアの服を着たマライ人夫婦図﹂︵ Een Maleijer met sijn Vrouw soo sij
江戸時代の最大の翻訳事業となった。﹃厚生新編﹄は、六八冊の稿本と
︶も多く入っていたのである。
るが、冗漫なむだ話︵ wijtloopig verhael
幕 府 は 蘭 学 の 必 要 を 痛 感 し、 文 化 八 年 ︵ 一 八 一 一 ︶ に 天 文 方 に 蕃 書
和解御用を設けて外国文書の翻訳事業を始め、馬場佐十郎︵貞由︶と
2
2016 年 12 月
人間発達文化学類論集 第 24 号
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物をもとに描写されたタバコ・ニコチン図﹂の模写である。タバコ草
を描いた。これは、
ショメル﹃家庭百科事典﹄第六巻に載る図版五七﹁実
そうすることにより玄白に近づき、感化されると信じたのである。
の組みあわせ印
天明二年︵一七八二︶に杉田玄白の養嗣子となった杉田伯元は、文
化七年︵一八一〇︶
、玄白の肖像画を大浪に依頼した。﹃形影夜話﹄の
巻頭に父の肖像を載せるためであった。
﹃形影夜話﹄は、七〇歳の玄白がすでに享和二年︵一八〇二︶に執筆
し、大槻玄沢が校訂を託された医学書である。享和二年冬、小浜藩で
ため八〇歳の長寿を迎えられ喜びもひとしおであったのであろう。
大浪の絹本着色︽杉田玄白肖像︾は、ひざを組み、左手をひざにの
せた安らかな姿である。頭は禿あがり、額、頬、首、鼻下や目のまわ
りに深い皺がよる。頑固で大志を抱くというより、穏やかで気高い趣
を印象づける。左側に﹃解体新書﹄らしき和書を、右側に二冊の蘭書
を置く。そして背後に、白梅と寒椿を白磁の壷に入れて、初春の喜び
じん ぜん
てん しん
えん か
のどかに
と長寿の祝賀を演出する。玄白は、迎春と長寿を祝い画賛を加えた。
話したのである。
﹃形影夜話﹄は、影法師が質問し、玄白が答えるとい
浪に気持の変化があったのかもしれない。
は、世俗の欲に心を乱されない﹂という意味であるから、五一歳の大
玄白は晩年、九幸の号を好んだ。玄白像の左隅に、﹁大浪子写﹂と﹁大
隠居塵不染﹂の方印が捺される。後者は、﹁世間の煩わしさを避けた人
荏苒大平世 無事保天真 復是煙霞改 閑 迎八十春 文化九
壬申正月元日 九幸老人書
う自問自答書であった。影法師は医術を学ぶ心得、医術の妙所に至る
は出産が相次いだため、藩医の玄白は万一にそなえて中屋敷に宿直し
方法、医術の理論、治療の注意点などを問い、玄白は自らの考えや体
秋日同建 広載釣伯、近藤 守重正斎、花禅翁、石川大浪、遊仁正侯別
文化九年、大浪は江戸の文人墨客らと詩酒を楽しんだ。大田南畝の﹃壬
申掌記﹄や南畝全集に、
とある。日付を﹁ 壬 申 桂月念七日﹂としているから、文化九年陰暦
に しょう じ
みづのえさる けい げつ
鷧斎杉田先生い肖さ像
大浪写
い
と款記される。鷧斎は、玄白の号である。肖像画は柔和で品のある顔
八月二七日である。大田南畝、大浪、建部釣伯、近藤重蔵︵正斎︶、佐々
業
だちだが、頭髪はなく、鼻下や頬に深い皺が見られる。玄白の真写の
︵一三︶
次いで同年一〇月二四日、市橋長昭は、南畝らを再び招いた。長昭は、
近江国仁正寺藩に藩校日新館を新設した好学の大名である。
南畝、大浪、
酒に興じた。
木花禅らは、仁 正 寺侯市橋長昭の本所にある下屋敷楽山楼に赴き、詩
伯 元 は、 玄 白 の 肖 像 画 を 拝 し て﹃ 形 影 夜 話 ﹄ を 読 む こ と を 望 ん だ。
先生今茲七十八齢矣、請大浪石川君、為写其真、後来子孫末流弟子、
こいねがわくは
しん し ゃ
拝此像読此書、 庶 幾 有親炙意志
描写であろう。伯元は、玄白の肖像画に次のような識語をよせた。
﹃形影夜話﹄出版にあたり、七八歳の玄
杉田家と交情の厚い大浪は、
白像を描いた。
験をもとに答えた。
た。夜長の時間をもてあました玄白は、自らを映しだした影法師と対
玄白は、元来頑健な身体でなく、自らを﹁草葉のかげ﹂と称し、友
人より早死すると思っていた。ところが大病もせず、健康に留意した
、杉田玄白は八〇歳となった。伯元は父の寿賀
文化九年︵一八一二︶
の記念として、父の肖像画を再度大浪に依頼した。
・
とタバコを吸う土人は、陰影を施し克明に精写される。かつタバコ花
を拡大して載せる。画面の右側に、大浪特有の
が捺される。
K
五、文化七年、同九年大浪、杉田玄白の肖像画を描く
S
47
磯崎康彦 :「泰西画法」の師石川大浪
て訳述した。杉田立卿はこれを増補し、文化十三年﹃眼科新書﹄とし
︵一四︶
て新鐫したのである。
うた ひめ
花禅、菊池五山、藤正斎、そして尾張屋の歌妓今鶴といちしげが随伴
ふなざお
如余親観厥物履厥実、則知此図之不欺焉耳
且請諸大浪公、自側随写其真、而毫無爽焉者也、冀四方覧者、亦
履 厥 実、 則 其 色 彩 形 状 或 有 取 焉、 余 因 求 眼 球 一 雙、 以 躬 解 剖 焉、
眼球之図泰西之書固載之、而其精覈雖無以尚焉哉、然非親観厥物
せい かく
した。一行は、謝安が芸妓をつれて山で遊ぶ絵画を鑑賞し、また庭の
舟遊びに興じた。二人の歌妓が舟を揺らしたため 篙 を失い、大浪は
︶
rook
杉田立卿は、大浪に挿図を依頼したことを識語で次のように述べて
いる。
その様子を戯画した。
話もでたのであろう。大浪は、
タバコの
鼻
烟
スノイフ、ヘドム︵蛮語︶
明
人
清人、烟草ヲノマザルモノヲ称シテ、ミンシャウと云
︶、烟はローク︵
と話した。もっとも鼻はオランダ語でネース︵ neus
であるから、大浪の蛮語はどこの言葉かわからない。
たん ぷう
文化壬申春三月 錦腸 杉田豫︵立卿︶識
眼球の図は、西洋の書物に精確に載せてあり、これに加えることは
そ
そ
ふ
ない。﹁然れども親しく厥の物を見、厥の実を履むに非れば、則ちその
これ
楓図︾を描いた。紅葉したかえでの背後に
大浪は楽山楼で︽富嶽丹
白雪の富士をとらえた風景画であろう。大浪画を見た南畝と五山は聯
すこし
たが
て躬から解剖し、かつ諸を大浪公に請い、側より随ってその真を写し、
みず
色彩・形状、或は誤りとること有らん。余因て眼球一雙を求めて、もっ
丹楓二月花
南畝
句を詠んだ。
白雪千秋嶺
而うして 毫 も爽うこと無きものなり﹂とある。杉田立卿は、蘭書の眼
球図を確かめるため自ら解剖し、大浪が傍で写生したという。
白如美人粉 丹似我顔酡 五山
諸具図
一.外が部
んけん
二.眼瞼の筋図
るいかん
管鼻管連続図
三.涙
四.眼球六筋図
五.眼球六筋を去り白膜を剝す図
六.眼球を横断して前部の内面を視る図
横断して後部の内面を視る図
七.眼ぶ球どを
うまく
うら
蒲桃膜を展開し顕微鏡を以て其の裡面を視る図
八. ごうまく
膜を翻えし網膜を剝す図
九.剛
一一
一〇
.眼球を縦断して三液を見る図
.器を以て水晶硝子の二液連接する者を盛り、而して箍 晶 線の毛
こ しょうせん
七・五センチ、また一二・〇、七・五センチの小画面に
大浪は六・〇、
眼球略図として次の一一点を描いた。
一行の楽山楼での一日は、楽しい詩酒の日であった。
りつ けい
六、大浪、文化一二年刊﹃眼科新書﹄の眼球図を描く
卿 は、 文 化 元 年
杉田玄白の庶子として天明六年に生まれた杉田立
︵一八〇四︶小浜藩侍医となった。西洋眼科医をめざした立卿は、文化
きのとい
一二年︵一八一五︶
﹃眼科新書﹄を公刊した。﹁文化乙亥新鐫 杉田立
卿訳述 眼科新書 浪華書肆 群玉堂蔵版﹂とある。
セ ル マ ニ ア
ヨ ー セ ッ プ ヤーコツ プ
眼科新書﹄の原本は、凡例によると﹁入爾瑪尼亜国医郁泄弗牙哥勃
﹃
プ レン キ
︶ が 蘭 訳 し た﹃ 眼 病 論 説 ﹄︵ Verhandeling
Martinus Pruys
不冷吉﹂ことヨーゼフ・ヤーコプ・プレンク︵ Joseph Jakob Plenck
︶の
マ ル テ ヌ ス
プ ロ イ ス
ラテン語本を、
﹁和蘭国医麻爾低奴斯、不路乙期﹂ことマルティヌス・
プ ラ イ ス︵
︶であった。この蘭書は、玄白の弟子市川隆甫が購
over de Oogziekten
入し、宇田川榛斎が寛政一一年︵一七九九︶に﹃泰西眼科全書﹄とし
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人間発達文化学類論集 第 24 号
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様線に連なる者を露わす図
一一図の末部に大浪写と書かれる。立卿は眼球を解剖したであろう
が、あくまで原本のプライス著﹃眼病論説﹄を確かめるためであった
ろう。したがって大浪も解剖した眼球を写したのでなく、原本の挿図
を模写したと思われる。一一図はすべて各部分の名称を記し、丁寧に
写しとられている。
七、文化一四年﹃蘭畹摘芳﹄の挿絵︽椰樹図︾と︽同前花
実之図︾
﹃ 蘭 畹 摘 芳 ﹄ は、 写 本 と 刊 本 が あ る。 写 本 は、﹁ 自 寛 政 至 文 政、 凡
四十余年﹂のあいだに、大槻玄沢の物産に係わる訳述稿を門人らが筆
きよ まさ
録 し た も の で あ る。 筆 録 本﹃ 蘭 畹 摘 芳 ﹄ は、 初 編 よ り 四 編 ま で 各 々
きっ かわ さだ のぶ
一〇巻、附録二巻、全四二巻本である。初編巻一から六は、蓮沼清緝
はザリカニ図、駝鳥図、オラウータンなど六図が載る。大浪が係った
ばい た
ら よう
のは巻二で、同巻は次の四図からなった。
多羅葉図
貝やし
椰樹図
同前花実の図
及
不
焼
布
諸
図
石麻
このうち大浪が描いたのは、
︽椰樹図︾と︽同前花実の図︾である。
、李
刊本﹃蘭畹摘芳﹄では、貝多羅について貝原益軒の﹃大和本草﹄
時珍の﹃本草綱目﹄
、ウエインマンの﹃顕花植物図解﹄
︵ J.W. Weinmann :
Taalryk Register der plaat- of te Figuur-Beschryvingen der Bloemdragen-
せん よう
舶来貝多羅葉図画 二梵文 一写真図 江戸本多氏明蔵、按暹羅字、泉
シャム
︶ を 使 用 し て 葉・ 実・ 色・ 形 態 な ど を 解 説 す る。 そ し て
de Gewassen
挿絵の説明は、
涌寺蒹葭堂、所蔵全與 レ此同
ら
とある。すると江戸の本多氏明、京都の泉涌寺、大坂の木村蒹葭堂が
ら
ばい た
が筆録・山村才助が校訂、巻七は吉川定惟が筆録、その後長谷川宗僊
珍品として貝多羅葉を所蔵した。しかし葉に記された文字は、梵字で
ばい た
シャム
が筆録をひき継ぎ、さらに大槻玄幹が加わり四編四二巻となった。
なく暹羅の文字という。
やし
この筆録本をもとに、文化一四年︵一八一七︶初編三巻一冊の﹃蘭
畹摘芳﹄が公刊された。刊本﹃蘭畹摘芳﹄は、江戸の須原屋茂兵衛と
ウ タン
がん せい
す
い とう
て帆となり、実は飢えを療し、のどをうるおし、酒・醋・油・飴糖と
み
多羅は、ヤシ科のヤシであるから、次いで﹁椰樹訳説﹂を載せる。
貝
この訳説でヤシの産地、地元での名称やラテン語、オランダ語の呼称、
オ ラン オ
もつ しょく し
伊八、大坂の河内屋義助と太助との共同出版で、﹁大槻磐水︵玄沢︶訳
じゃこう
ソナレ マツ
開花、群葉、実や色などを解説する。葉は屋を覆き、紙となり、編し
マ
定、大槻玄幹、山村才輔︵才助︶校、吉川良祐︵定惟︶、長谷川宗僊筆
ケ
なるなどの効用を述べる。
イ
録﹂とある。刊本は、目録に﹁次編目録 近刻﹂と報告するから、以
後継続出版される計画だったが、未刊となった。
大浪はここに、︽椰樹図︾と︽花実の図︾を添えた。前者は芽を出し
たヤシ、生長するヤシ、樹木となり実をつけたヤシ、そして葉一枚を
ろ わい
薈、乙刼首、 絲 杉、没 食 子、蛇皮木、馬銭、含生
そう刊本の巻一は蘆 ばい た ら
カ ナ ノー ル
ほう さ
か かん ぷ
草、阿魏。巻二は貝多羅、蛤納諾児、逢砂、火浣布、吸毒石。巻三は
とり出すなど、生長していくヤシの描写である。後者は花と実を描き、
か けい
かつ群花並びに一花をとり、花弁を一枚ずつとらえた挿図である。
オクリカンキリ
鮓答、 蝲 蛄 、火鶏、駝鳥、麝香、阿郎悪烏当。計一九の項目が、主
に薬用の観点から紹介された。
︽椰樹図︾と︽花実の図︾をヘン
大浪はヤシを直接見たことはなく、
ドリク・アドリアーン・ファン・レーデ著﹃マラバル植物園﹄︵ Hendrik
やし
巻一の挿絵はアロエ図、没食子図など八図で、うん市たん河寛斎の次男で鏑
木梅渓の養子となり、文晁のもとで学んだ鏑木雲潭が協力した。巻三
︵一五︶
物中、もっとも珍しい品種を含む。さらに同地の花卉・果実・種
マラバル植物園、マラバルの王国で発見されたあらゆる種類の植
︶ か ら 模 写 し た。 ど の よ う な
Adriaan van Rhede : Malabaarse Kruythof
蘭書か、表紙を訳して紹介しておこう。
子をも加える。アブラハム・ポットによりラテン語から訳された。
︵平成二十八年十月七日受理︶
アムステルダム、一六八九年 二冊本
︶
つ ま り 原 本 は ラ テ ン 語 本 で、 ア ブ ラ ハ ム・ ポ ッ ト︵ Abraham Pott
によって二冊本に蘭訳され、
蘭訳本がわが国に舶載されたのである。︵以
下次号へ続く︶
註
︵
menschen uytgheven.
Amstelredam, Bij Dirck Pietersz. boeckvercooper op ’t Water, in de Witte Persse, recht over de Koren-merct. Anno 1617.
rards, Schilder. Alles tot sonderlinghen dienst ende nutticheyt voor alle staten van
aerdige Afbeeldingen geciert, ende constich in coper gesneden, door Marcus Ge-
uyt de oude Historien, in Prose ; ende Vytleggingen, in Rym verclaert : Oock met
︶
Vorstelijke Warande de Dieren : Waerin de Zeden-rijcke philosophie, Poëtisch,
Morael, en Historiael, vermakelijck en treffelijck wort voorghestelt. Met Exemplen
︵
1
verciert met verscheide afbeeldingen, na ’t leven aldaer getekent.
voor de Weduwe van Jacob van Meurs, op de Keizers gracht. 1682.
d’onzen, zich sedert het jaer 1640 tot 1649 hebben toegedragen.
t’Amsterdam,
Doorgaens
zijn negenjarigh veblijf in Brasil, in d’oorlogen en opstant der Portugesen tegen
verhael der merkwaardigste voorvallen en geschiedenissen, die zich, geduurende
draghten, zeden en godsdiens der inwoonders : En inzonderheit een wijtloopig
gantsch Neerlants Brasil, zoo van lantschappen, steden, dieren, gewassen, als
︶
Joan
Njeuhofs
gedenkweerdige
Brasiliaense
Zee- en Lant-Reize, Behelzende al
het geen op dezelve is voorgevallen.
Benessens een bondige beschrijving van
2
45
磯崎康彦 :「泰西画法」の師石川大浪
Ishikawa Tairo mit Kunstlernamen ›Tafel Berg‹
ISOZAKI Yasuhiko
Ishikawa Tairo war direkter Vasall des Tokugawa-Schogunats. Er hat zahlreiche Figurenbilder und
Abbilder hinterlassen. Wir hat ihn als Malereitheoretiker kennengelernt. Von holländischem Malbuch
»Het Groot Schilderboek«, dessen Buch von seinem Lehrer Tani Buncho geschenkt wurde, lernte er die
westlichen Maltheorie : Licht und Schatten werden kombiniert dargestellt. Er beobachtete den Standort
der Lichtquelle, dann konnte er jede Seiten der Dinge und des Menschen plastisch wiedergeben.
︵一六︶