ここかな - 星空文庫

ここかな
空軒シラビ 作
かちこち、と動く時計、静まる部屋、僕はその真反対さが諦めたよう
に同居するのを「真夜中だ」と思う。
眠りから醒めるのが決められていたみたいに、すんなりと開いた瞼だ
が、消灯されたエルイーディーの丸照明はいつもと同じ。
ただの偶然か。
まるで僕独りを残して世界が滅びたみたいな無音さに自分をゆだねる。
近くの夜間営業のパチンコ屋のネオンも消えていて、窓の外はただ暗い
だけ。
でもどこかに違和感がある。
物理的にざわざわしてるわけじゃないけれど、空気がどこかおかしい。
この部屋をまるっとコピーした別の場所に連れてこられたような、慣れ
ないような感覚だ。
考えていると、僕は誰かが窓辺にたって、外の景色を遮断しているこ
とに気付く。
風が吹いたときにはもう確信を抱くしかなかった。昨日は窓をしっか
り閉めて寝たはずなのだ。外の音も遮断して独りになりたかったし。
次に僕はなるほどと納得する。特別なこととはまさにこれだ。とする
と侵入者は僕に危害を与えやしないだろう。 誰か は救いに来たのだ。
目の前の誰か、を横になったまま眺める。
ようやく退屈で空虚な日常から脱出できる日が来た。童話に出てくる
ような魔法などなく、淡々と毎日が過ぎる。友人との他愛のない会話に
嫌気がさす日々。しかし、もうおしまいにできる。
ふと、 誰か が体を斜めにして、その後ろにあった月明かりがその
人を照らしあげた。
性別という檻にとらわれていないような中性的な真っ直ぐな立ち姿。
神の使いだ、と素直に思った。
神、という大嫌いで信用していないやつに例えるくらいだから、自分
は相当魅入られているに違いない。
その人を見ていると自分と顔がよく似ていることに気付いた。きっと
僕に似せて来訪してくれたのだろう。
けれど、神などいないと思う自分もいた。
なぜ顔が似ているのか、目的は在るのか分からないけれど、この人は
僕と同じ人間だ。
だから慎重に、もう一度自分の思考に疑問を持つことにした。幻覚と
いうことはあり得ないだろうか。
非現実的なことに、顔が酷似しているのだ。神というのが存在しない
以上、幻覚というのには頷ける。
僕は静かに彼を目で射抜いた。
どうして僕が幻覚など見る。巷に溢れるような精神異常者などでは断
じてないというのに。幻覚を鋭い視線で突き刺して消滅させてやろうと
思っていたとき、頭の中に一つの人名が浮かんだ。友里誠人。でも惑わ
されることはなく、幻覚であるという考えを支持し続ける。名前など自
分で作り出せる。きっと無意識のうちに僕は作り出しているのだ。
自分は馬鹿な奴だ。無意識までもから、誰かに救ってくれることを切
望していた馬鹿な奴。あくまでここは自分の部屋というのに変わりはな
い。
すべては日常という枠に収まる出来事に戻ってしまったのに、なぜか
幻覚はいまだに湖面みたいに音もなく立っていた。
他人なら、殴ったりして怒りをぶつけられる。でも自分に対してはど
うしようもない。やりどころがない。無理に寝るなんてできない。
でも起きているにも、そこには幻覚がいる。
シーツを鷲掴みにすると、当たり前のようにくちゃっと丸まった。枕
を投げると机の上にある本に当たり、重力に従って落ちた。
そのあと目が痛くなるくらいに幻覚を睨みつけた。
「友里誠人、消えろ。はやく消えろ」
幻覚が、まるで人のようにゆっくりと頭を傾けた。僕の言葉に反応し
て目覚めたかのように。人間もどきが、と笑ってやる。
「望、くん」
名前を呼ばれた。
意思を持っているかのような友里誠人という幻覚。もちろん僕の無意
識がこいつを喋らせている。それが意味するのは、僕が幻覚に名前を呼
ばれたがっているということ。また、これほど絵画的な綺麗さを纏って
いるのは、僕の理想だから。まあ、しょせん画面の向こう側的なもので
しかない。
「綺麗な目だこと。嫉妬しちゃうね」
けれども友里誠人は真面目な口調で返した。僕は、嫌味を言ったのだ。
「君の目も綺麗だよ。鏡を見てきたら分かることだ」
「濁りきってる。ドロドロに違いないじゃん。お前のようになりたいけ
どさ、一度濁ってしまえば元には戻らないの。世界が空虚って認識は、
もう僕の中で固まってんの。阿呆が」
彼は首を振った。やはり絵画的なもので、そこには錆びた絵具のにお
いしかない。
「待って。でも君は生きてる。目の奥から光が見えるよ。濁ってなんか
いないよ。本当は君の目だって綺麗なんだよ」
くだらない宗教家みたいな典型的な言い回し。
「お前に何が分かる」
真面目に描かれたみたいな目が僕を捉えた。宗教家がよくする目と同
じだ。沢山の信者を獲得するために使い古された目。その視線に価値な
んてなくなっている。ファストフードみたいに。そんな目で、「君は終
わってなんかいないよ」というつもりか。そう思って見ていると、幻覚
は予想外の言葉を僕にさし向けた。
「王国へ行こう」
むしろ戸惑った。はじめて幻覚らしいとんちかんなことを口にされた。
少し王国という言葉が意味するところを考えたが、よくは分からなか
った。けれども、王国を文字通り、あの黄金で埋め尽くされたイメージ
で捉えるならば、彼のキャラクターが見えてくる。その王国とやらから
僕を救うために来たという設定だ。どこぞの絵本の中に登場する王子様
みたいに。
幻覚は王国について完結に説明した。
「世界のどんなところよりも平穏で、一番自然に近いところにある。み
んな日々のんびりと過ごしていて、争いが起こることもない」
よく聞けば王子様らしい声音をしている。
「僕らの王国に住む誰もが安息を求めているんだ。そして、もうそれは
果たされている。だから誰も、何かを代償にしてでもお金や土地、名誉
を望むことはない。永遠に本当の平和がある場所だ」
まさに、そこは僕の望んでもやまない地だ。しかし幻覚が語ることも、
また幻である。
「……もういいよ。そんな王国、神様がいることよりも理に適っていな
い。どうせあなたは幻覚なんだから」
口にすることによって、自分の言葉が全身に沁みわたり、いつも通り
のだるさが帰ってきた。
理想郷が存在するはずがないと、気付いていながらも、心のどこかで
求めていたのだ。でも自身の分身である「友里誠人」の言葉を聞いてよ
うやく、希望を葬り去れそうな気がする。人間というものは欲を生じる
のを制することができない生き物で、安息の地など作る途中から破綻し
てしまうはずなのだ。
感情が闇に飲まれていき、僕は漠然とした。この世に存在する全ての
ものは虚無に適うはずもない。
そして僕は心の中で弱弱しく言うしかなかった。
̶̶安息なんて言葉は誰が創り出したんだろうね。
虚しさに身を任せていれば、すぐに眠りにつけそうな気がした。よう
やく、僕は目をつむることができた。
「君は独りじゃない」
幻聴がして、目が開かれる。彼が僕を憐れんでいる。
なぜ憐れむ。お前も僕だろう。孤独だからこんな幻覚を見る。しょせ
ん僕と同じ孤独のお前が、僕を独り扱いする。独りなんてこと、言われ
なくても分かってる。
胸がくすぶっていた。虚しさに負けてなんかたまるか、と僕はベット
から体を起こし、幻覚の目の前に立つ。
この手でこいつを引っ掻けば、きっとこの手はこいつの体を突き抜け
る。掻き乱して消滅させてやればいい。
「消えて」
固く目を閉じて、手を突き出し、そのまま横方向にスライドさせる。
予想通りになると思ったけれど、温かく柔らかい感触が指先に走った。
まさかと思ったが、見るのは怖い。その代りに恐る恐る指先に力を込め
る。強くなる感触。
やはり。これは幻覚などではなく、人間だ。
僕は混乱した。そして次の瞬間、さらなる混乱が襲ってきた。背中に
人と密着しているようなあたたかさが感じられてきたのだ。まさか僕は
抱かれている――。
なぜ僕を抱く。疑問が体じゅうを駆け巡っていても、背中は固まった
まま動くことはなかった。その間も誰かの懐かしい何かが僕に沁みこん
でいきそうだということは分かった。
混乱の末、ゆるやかに視界が滲む。胸に小さな滴が着実に溜まってい
く感覚。その感覚は本当に久しぶりだった。そして、それが安心を呼ぶ
ことは小さいころの経験から分かっていた。
それでもいい。今起きていることは現実に違いないのだから。誰かが
僕を抱いてくれている。
「あなたは友里誠人さん?」
彼の名を確かめたい。もしも本当ならばこの世にはまだ不思議なこと
があり、僕は信じられなかった沢山のことを信じることができる気がす
る。
彼はこくりとした。
「君は空軒望くんだ」
僕も同じように頷いた。神様は信じられなくとも、これは運命だと感
じることができる。
ならば運命に従うのが理に適っているに違いない。
「僕、友里さんの言う王国に行きたいです。友里さんと一緒に」
僕の頭の中の理想郷の風景が伝わったみたいに、
「よかった」
と一言だけ誠人は言った。
彼はその場にしゃがみ込んで僕を手招く。生まれたての人の子を抱く
みたいに手を差し出している姿は、たぶん僕を抱きかかえようとしてい
る。 誠人に体を預けたら、それからはすぐだった。視界が突き上げられる
ように高いところに上がり、いつもとは違った自分の部屋が見える。
「それじゃあ行こうか」
その声を合図に、映画のスクリーンみたいに視界が大きく動き始めた。
何もしなくても景色が変わっていく。部屋を出て、電気のついていない
階段を一歩ずつ降りていく。玄関へ出て、立ち止まりもせずにドアを押
し開けて外へ出た。
誠人の髪がわずかに風に揺れている。
すぐに夜の住宅街が後方に過ぎ去ったけれど、僕は見返すこともなか
った。
道路沿いに出ると、深夜の車の往来があって、真夜中のネオン街から
酔いつぶれた人たちが出てくる。
今日はこの野暮ったい街が、潮騒のようにどこか遠いものみたいに思
える。
ふと誠人への礼がまだのことに気が付いた。
「迎えに来てくれてありがとうございます」
「うん」 一言だけ歯切れよく言った彼の瞳には、あらゆる色の光が映り込んで
いた。手を伸ばせばそれが何なのか分かりあえるような、懐かしい輝き。
見つめていると眠くなる。
眠りに就く前、ふらふらとする酔っ払いが目についた。きっと彼らは
すぐに寝て、僕たちが王国へ行く途中だなんてことも忘れてしまだろう。
頭にのぼるのは彼ら自身の酒臭さと二日酔いだけだ。
真っ黒の世界の中、周期的にくる微かな揺れ。何も見えなくて、手足
の感覚も喪失しているからこそ、この揺れはひどく大きかった。これは
どこから来るのか、なぜ僕はこんな世界にいるのか。
強く眉を寄せると、それを合図にしたみたいに瞼の裏から白く染めら
れた。
「眩しい」
条件反射のように目を開くと、思いのほか暗かった。でもぼうっと眺
めていると状況が理解できてきた。ここは森だ。僕は誠人に抱きかかえ
られ、森を移動している。僕の顔は空を向けられているのだ。この蒼さ
からすると夜明けは近い。
「どうしたの」
頬に誠人の手が触れていて、顔をわずかに動かすと頬は彼の手によっ
て撫でられた。
「なんで眩しいって思ったんだろう」
人手の付けられていない鬱蒼と育った森を眺める。
「面白い話をしてあげようか」
友里が囁いて返す。また顔をわずかに動かした。
「王国にはたくさんの言い伝えがあって。言い伝えというか、逃げてき
た人が教えてくれたことだけど」
「眩しく思ったのにも理由があるの?」
「無意識のうちに光を取り込んだ、とかね。全体的に眩しくはなくて、
視界の淵が眩しくなかった?」
確かにその通りかもしれない。
「科学的に証明されてる、とかですか。知らなった」
「知らない。証明されてるかもしれないけれど、あくまで言い伝え。そ
んな体験をした人は、どこかしら良い影響があるみたい」
「変化」
既に変化しているのではないだろうか。肩の重荷が取れた。漠然とし
た不安もなくなった。
「確かにそうかもね。友里さんのおかげだ」
僕は久々の冗談を交わすように言った。
「ね、他の言い伝えってどんなのがある?」
友里は空を見上げた。一点だけ一際明るく輝く星がある。
「たとえばあの北極星。あれがすごく輝いてるときは、何かに進んでい
るってことを示す」
「つまり僕は進んでいる。あ、僕だけじゃないか」
以外とシンクロしている。非科学的に違いないが、運命というものが
証明された以上、僕は科学的なことに固執するのはやめにすることにし
た。堅苦しくないし、そのほうが楽だ。しばらく歩いていくと、不自然
に開けたところに着く。やけに縦に長い洋館で、一番上には十字架があ
る。教会。王国と何か関係があるのかもしれないが、誠人は館の横を通
り過ぎていく。
でも森の中にある教会というのは、異質で興味深い。
「友里さん、あの教会で少し休みません?」
「まだ歩けるからいいよ」
「でも寝てないんでしょう? それに僕、ちょっと酔ったかも」
「それもそうだね。少し中に入ろうか」
教会の扉の前まで戻ると僕は地面に降り立ち、先だって扉に触れてみ
た。硬くて冷たい石で造られている。試しに押してみると少しだけ開い
たから、今度は全身を使って押し開ける。
中にはずらりと長椅子が並んでいた。東向きの、壁一面のステンドグ
ラス。ほのかに彩られた月光が祭壇を照らしている。祭壇はステンドグ
ラスに呑まれそうなほどちっぽけだった。
僕は祭壇に近い一番前の椅子に腰かけた。ひざ元に月の光が落ちた
誠人が言った。
「ちょっとここで待ってて。水を汲んでくる」
反響する声が丸みを帯びていた。
「井戸なんてありましたっけ?」
「一度使ったことがあるんだ。裏手にある」
そう言いながら友里は祭壇にある銀のコップを二つ持ち出した。
僕はひとりで凪のように静かな空気に身を任せた。厳かな場であるこ
とに緊張は生まれず、昔からここに住んでいたような感覚。そっと見回
してみると、当然暗闇しかない。けれど僕は、頭上の天井が暗いだけで
ないことを察知していた。天井に描かれた画は昼間に白日のもとになる。
たぶん壁にも。
立ち上がり、壁なら、と思い隅へ行った。するとそこには銀色の、異
世界に通じているようなドアくらいの四角い平面があった。触れる。け
れど、映画のように手はその向こうへ行かない。僕は自分の姿が映って
いることにようやく気づき、鏡であることを知った。
ここにも月光が射している。
顔の半分は闇に埋もれ、片方の目が浮かび上がっている。ステンドグ
ラス越しの月明かりによって。控えめに言っても鏡に映る目は澄んでい
た。
「僕をうつしている」
月光のおかげかもしれないけれど、どこまでも外の世界の汚れが落ち
たみたいな僕が立っていた。
鏡に映る自分に手をやる。向こうの自分は手のひらを僕に向けた。鏡
は滑らかな手触りで向こうになど通じていないけれど、僕は確かにここ
で息をしてる。
誠人が鏡の向こうから歩いてくる。すぐ横にまで来て、もうすぐ鏡か
ら出てくる。けれど彼もここで息をしていた。教会の入り口から来て、
僕の横へ立ったのだ。
誠人の持つ銀の器には水が満たされていて、暗闇においては深淵な色
を映し出していた。
「ありがとう」
口に含んだ液体がするりと胃に落ちていく。誠人も銀の器を傾けた。 「山の水ですね」
僕たちは何か不思議なものを共有していた。その正体は説明がつかな
いけれど、よいものだ。
「そろそろ行こう」
口元をぬぐった誠人は僕の部屋でやったように、僕を抱きかかえよう
とした。振り向き、鏡よりも大きな視界の中で彼に言った。僕は教会の
空気を吸う。
「歩きたいな」
「望くんを抱えていきたい」
でも純粋に歩きたかったし、自分で歩けるようだから、首を小さく振
った。
「ここまで抱きかかえてくれてありがとう。でも、ここからは隣で歩け
ると思うんだ」
僕を映した鏡に見送られるような気分で教会を出て、しばらく誠人の
隣で歩いた。だいぶ広い道だったようで、林と同化した部分を差し引い
ても僕たち二人はのんびり歩けた。分かれ道はないから、ただ奥へ歩く
だけでいい。
なんだ、と僕は誠人の先を行った。
「早いね」
「迷子にならないしね」
僕は言う。
到着地点はすぐに分かった。道の突き当りにある、人工物。その向こ
うにある広大な空間。朝になれば王国の全体像が見えるのだろう。
「友里さん、ここが?」
石造の鳥居。遠い昔から、潜り抜ける者を見守ってきたみたいな貫禄
を持って建っている。その先にはすすきの生い茂る道が延びている。
僕たちは潜り抜け、王国へ足を踏み入れた。
「ここかな王国だ」
誠人はほっと溜息をついた。
「ここかな?」 それが王国の名前なのか。不思議な名前。でもそれに劣らず、夜に埋
もれた家たちから感じ取れるものもまた、不思議だった。夜になれば皆
寝静まる。当たり前のようなことが当たり前で、僕は懐かしく思えた。
ここで暮らしていれば何も恐れる必要などないだろう。将来に対する
不安とか、自分の存在意義とか。ここにはのんびりとした時間がある。
僕は誠人の手をとって道を駆け始めた。
「行こう、誠人さん」
僕は風が頬を撫でていくのを感じた。
夜から歩き始めて早朝に到着したとはいえ、ずいぶんな距離を歩いた。
そのせいでくたびれてもいたから、まず誠人の家に上がって布団に入っ
た。誠人のにおいが染みついた布団がなんとも心地よかったので、久し
ぶりにぐっすりと寝れた。今は起きて、誠人は囲炉裏で朝食の支度をし
ている。
そういえばこの家といい他の家といい、外観は瓜二つだった。熟した
落ち着いた木で造られた家々は、都会みたいに規則的に配置されず、気
ままに点々と建てられていた。たぶん中身も似た造りだろう。ただ広々
とした一つの空間がある。真ん中に囲炉裏があり、簡易的なタンスがあ
る。都会なんて元々なかったみたいに、名残が一切ない。
囲炉裏の方へいくと、鍋から立ち上る湯気が香ばしいのを拡散してい
る。
「朝食?」
尋ねてみた。
「と思いきや、実は昼食」
誠人が言った。開けられた玄関から青い昼の空が見える。僕たちは寝
すぎたらしい。
しかし誰も咎めやしないから、とてもいい。
「今、何時くらいですか?」
「時計はね、この王国では使ってないんだよ。必要もないし、あの休み
もしない秒針を見ているのがみんな嫌だそうだからね」
「へえ。じゃあみんな感覚で分かるんですね」
確かに時計というのは見ていて気持ちのいいものではない。この王国
の長がそういう方針なのだ。
誠人は火を消して、傍にあったパンに鍋の中のものを塗り広げた。黄
土色をしたペースト状ものだ。乾いた刺激の味がしそうだと思った。
実際に食べてみると予想は当たって、予想以上に目が覚めた。空腹の
せいもあるだろうが、ほっとした気分で食べるのは最高だ。なにより味
わう余裕もできる。。刺激的だけど、どこか甘みがある。
「なるほど」
僕はもう一切れ口に運んだ。
「これはね、僕の得意な料理。得意すぎて作りすぎちゃうことがあるん
だけどね」
誠人が嬉しそうに言った。
「素晴らしいですね」
僕は言葉に出したりしないが、料理以外にもう一つ素晴らしいと思っ
ているのだ。なぜなら難しいことを考えずに人と会話したのは久しぶり
だから。
パンを一通り食べ終わると僕たちは重大なことを見逃していたことに
気付く。僕がこのままチャール王のもとへ行くとしたら、この王国の雰
囲気であってもさすがに無礼だ。
「王のとこへ行くのに、パジャマはまずいですよね」
「背丈がだいぶ違うけれど、今日はこれで我慢して」
すると誠人は自分の服を引っ張り出してきてくれた。ちょうど彼が今
着ているのと似たものだ。肌触りがよさげで、ちょっと大きい。
「ありがとう」
「まだ昼ごはん、着るものしかあげてないけどね」
空の下に出た誠人は伸びをしながら呼びかけた。
「じゃあ着替え終わったら出てきて。王のとこまではすぐだよ」
はーい、と返事をして、あの夜から来ていたパジャマを脱ぎ始めた。
いくつもの寝れない夜を共にしたパジャマとはこれでおさらばだ。さよ
なら、と一言だけ呟いて、僕は最後のボタンをはずした。布きれが床に
そのまま落ち、僕はやっと裸になってせいせいする。
王の館はどこの地域でも変わりはせず、地形的に高いところにあるら
しい。周りには比較的家が多く、誠人の住む場所は人があまりいないこ
とが分かる。でも人は歩いていなくて、家でくつろいでいるのが伺えた。
「どこがチャール王?」 誠人は目の前の家を指さした。王国に建っている他の家をわずかに拡
大したくらいで、とても館には見えない。しかしチャール王が望んだこ
となのだろう。飾らない王様だと僕は評価した。
扉がこんこんと叩かれる。
「チャール、僕です」
誠人は何の断りもなしに扉を開いて、中に入った。ここではこれが普
通なのだ。
家の中はさすがに違っていた。まず小さな書斎があり、奥にどこかへ
繋がっているだろう扉があった。その中に、紙の古びたインクの匂いに
似合う老人がいる。
「その少年がどうしたのかね」
僕に向けられた言葉。でも返答に困る。まるで僕が来るのを予知して
いたような言い方だ。
「僕が連れてきた少年です」
代わりに誠人が答えた。いや、誠人が答えるべきだったのだ。
「普通に連れてきたというだけではないのだろう。私はその少年とお前
に、何か事情があると直感した」
チャールの眼光は誠人の奥底にあるわずかな思考さえ抉り取るみたい
に鋭い。今僕はチャールの注目を浴びていないけれど、少し身構えた。
「その通りです。でも話すと長い」
僕はちょっと関わりづらいなと思った。物腰の柔らかい王様を想像し
ていた自分を恥じなきゃいけない。
「誠人、それは私でも経験したことのなさそうなことだ。少年と話した
いのだが、いいか」
僕と対話する。
誠人を見た。長いことチャールを知っているだろう彼は、いたって普
通に笑った。大丈夫、という意味か。
「僕も話したいです」
するとチャールは扉を開け、その中にすっと入っていく。奥は暗闇だ。
それでも僕は続いていき、闇の中を歩く。手を這わせたら両脇には壁が
あり、ここは随分と狭い通路であることが分かった。
長い廊下を出た先は、洞窟のように小さな世界を切り取ったような部
屋だった。食卓があり、壁に松明が立てかけられている。
チャールと僕は対面するように座り、誠人は横に座ってくれた。
「少年も誠人も腹をすかしているだろう。もうすぐ昼食をとるが、運の
いいことに今日は鍋を用意してくれるそうだ。後で言って、多めに入れ
てもらうよ」
「助かります」
チャールを見ると、あの鷲のような目ではなく、誰でも浮かべている
ような表情で見返された。僕の中にあった垣根がちょっと低くなった。
そして、彼がなぜ王国をつくるに至ったのか、興味が湧いてきた。 硬くなった背中を伸ばして意思を伝える。するとチャールはぴんと伸
ばしていた背を椅子に預けた。
「そうか、少年。王国に来たものはこの王国は何であるかを尋ねる。だ
が少年、おまえは全ての種を知りたい。私はそのような考え方がとても
好きだ。真実が見えるからね」 チャールがここではないどこかに
意識を飛ばせる。
「私はね、代々小国を治めていた一家のものだったんだ。もちろん私自
身も王座についたよ。ただアジアの隅っこにあるような、さして目立た
ない国で華々しくなどはなかったがね。言ってみれば質素。でもウィッ
トー国はとても平和で、家畜も草木ものびのびと育つ。そのおかげか人
々は生き生きとしていた。ヨーロッパのように、毛皮のコートやら科学
の恩恵を受けた生活ではなかったけれど、本当の意味で豊かだったはず
だ。私は四十になるまでこの国の王であることに誇りを持っていた。発
達していく世の中で、豊かさの本質がある数少ない地と自負していたよ。
でも人々の中には欲にほだらかされる者もでてきた。彼は商人だった。
金のために生きる輩はあまり好きではないが、金はやはり必要だったか
ら、私も強くは批判できない。あいつらの言うことは決まってこうだっ
たよ。
『なぜ国を広げない? あなたは先代よりかは若い歳で王座につき、柔
軟な考えができるはずだ』とね。今のままで満足ではないのかと尋ねれ
ば
『海に接する隣国を侵略すれば魚も捕れるし宝石も得られる』
つくづく物欲的人間たちだ。
もちろん私はそんな考えなど微塵も持っていなかったから、あいつら
を追い払った。人を殺してまですることじゃない。現状を維持するには
必要もないことだ。
でもそんな私の考え方が奴らの神経を逆なでしたんだと思う。交渉慣
れして、私たちよりも民衆の心のつかみ方がうまい奴らは、国土拡大論
を講じ始めた。農作をして生きるような者たちの中に、物欲を生んだ。
中身もない言葉に惑わされてね。物に囲まれた生活は本質的には豊かで
はないのにね。きっと本当の幸せに囲まれていた人々は、幸せなのが当
たり前だと感じていたんだろう。当たり前――それをないのと同じと錯
覚して、きっと彼らは飢えていると思い込んだんだ。
ついに、私たちの家に人々がやってきた。親戚、家臣たちが説得しよ
うとしたけれど、欲の権化の彼らは止められない。目の前で暴動が起き、
私はかろうじて逃げおおせた。二人の子供とひとりの使用人とね。私の
仲間たちが生きているのか、殺されてしまったのかは分からない。けれ
ども、おそらく、死んでいるだろうね。でも私にはどうしようもない。
捨ててきてしまったから……。
それからは各地を放浪してさまざまな人と出会って、悩める人々と気
持ちを分かちあったりもした。心を共有した我々は共にいることを望み、
集団になって旅を始めた。その中にいる人々は皆、生きることに深い疑
問を持っていたり、過去に大きな傷を負った者たちだ。私たちは皆似た
者同士であるわけだよ。これが、ここかな王国の原点の話」
チャールは一区切りを置き、目をつむる。沢山喋ったから疲れたのか
もしれない。彼にとって辛い記憶であり、聞かれた際にしか語らないの
だから、わざわざ話してくれたことに僕は敬意を覚えなきゃいけない。
「僕なんかちっぽけですね」
「私の置かれた状況がたまたま壮大だっただけだ。違いはあれどもみん
な同じだ
さて少年、なぜこの国では安息が保たれていると思う?」
チャールから質問があった。
「悪魔の真似ごとをしても、結局本質的には同じだから? むしろ……
苦しくなるだけだから?」
「しかしね、おそらく君が̶̶君のような年代にある者が考える空虚さ
は王国にはないんだ。もちろんそれが本質であるのだけれど。漠然とし
た喪失感は、この王国にはない」
「穏やかに暮らしていけるってことですか?」
この点において、僕は想像をめぐらすこともできなかった。経験がな
いからかもしれない。
「我々は世界の終焉を̶̶近いうちに来ないとすれば、何代もこの地で
暮らして̶̶見届けることを望んでいる。穏やかに、どう世界が壊れて
いくか、暮れていくかを見物するんだ」
チャールの目は濁ってなんかいなくて、むしろ澄んだものだった。き
っと崇高に高められた理想なのだろう。 「世界は結局虚しいってことを分かっていながら、寿命を終えるまで生
きていくってことですか」
「その通りだ」
チャールが言うような考えを持つことが空虚でないというのは納得で
きないが、それは恐らく国としてのスローガンみたいなものだろう。お
どろおどろしいと言えばそうなるが、あくまでもスローガンだ。
「ネガティブな考えではないですね」
思ったままを口にする。僕自身、世界が憎いと思ったことはある。空
虚の中にわざわざ落とされた意味が分からなかったからだ。でも破壊し
たいとは思わなかった。この国もそうではないと思う。本当に見届ける
だけだ。 「お父さん、新しい人に難しいことをあまり言うもんじゃないわ。混乱
するでしょう」
女性の声だった。入り口に立っている人はチャールと顔立ちがよく似
ていた。
「娘さん?」
「話の中にでてきた、ウィットー国から逃亡した人のひとり」
彼女は湯気の立ち上る鍋を手に持っており、どうも想像がしがたい。
でも現にそうなのだろう。彼女もつらい過去を背負っている。髪を明る
くして短く切りそろえ、落ち着いた表情をしていても。どこか人を警戒
するような目は似ている。 でも思い込みかもしれない。
「私、シェマ・ウィットー。シェマって呼んでね」
シェマは鍋を置いて、誠人の前の席に座る。
「はい。僕は空軒望っていいます。よろしくお願いします」
するとシェマは僕のことを以前から知っていたみたいに、親しみ深く
笑んだ。
「望くんか。君、しっかりしてるね」
どういう意味だろう。
「あー、ほら。この部屋よく響くじゃない。すぐ近くのキッチンまで聞
こえてくるのよ」
僕は三回くらい頷いて納得したことを示した。
「聞き耳立てたようで感じが悪かったね。ごめんなさい。だからもう話
題に遠慮なく参加していいみたいなことじゃないけれど、ちょっと訂正
させてもらうわね。父さんのいったことに。私はあの頃絶望してたけど、
今は普通に生きてる。きっと他の人々も同じよ。絶望はここで暮らして
いるうちに、知覚できないくらいに小さくなったと思うわ」
そこに誠人が口を添えた。シェマの言葉を補強するみたいに。
「僕もあの頃絶望していたけど、ここに来てから全部変わった。いろい
ろな物を受け入れられるようになった」
シェマはそれを笑って返す。
「そんなちゃんとしたこと思ってるの誠人くんくらいよ。他の人たちは
私と同じように、普通に生きているの。嫌なこともあるけど生きてるの
よ。……もちろん王国の目的はいつも頭の隅においてるけどね」
僕は最後のその一言で質問したいことがたくさん出てきたが「さ、い
ただきましょう」というシェマの声で遮られた。お腹もまた空いてきた
ころだし、疑問はすぐに遠く行ってしまった。僕はシェマを普通の人、
と認識した。
しばらく僕たち四人は、誠人と僕の出会いについて話あったりした。
その話の中で誠人がウィットー家の使用人であったことが判明して僕は
おおいに驚いた。日本人の名前であることに疑問を持ったが「いろいろ
あって」という言葉で片付けられた。あまり踏み込んではいけない領域
だったのかもしれない。でも僕はあまり気にしなかった。堅気そうなチ
ャールが意外と冗談好きだったりして、かなり楽しい時間を僕は持てた。
帰るときになってようやく、この老人がこの広い国を作り上げたのだ
と思い出す。
家から出て、丘の上から夕陽に透かされる草原を見渡した。風はこの
時間になると止まるようで、草原はぴたりと静止している。
僕と誠人は、ウィットー親子に見送られて丘を下っていく。
「これからよろしくお願いします」
僕は遠くにいる二人に届くように大きな声を出した。遠くの二人だけ
がこの景色の中にいて、手を振っている。シェマとチャールの姿がだい
ぶ小さくなったら、誠人の肩を叩いてみた。
「チャール王の考え、完全には理解できないけれど、少し賛成できるか
も」
これは僕の本心だ。
誠人はにっこりとした。ただし僕が王国の理念に賛成したことにでは
ないらしい。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。なにしろチャールは僕のお父さんみた
いな人だから」
「なんだか、生きる目的ができたみたい。それも沢山の人と同じ目的が」
「それも王国の素敵なところだね」
誠人が同じ調子で返す。
僕は歩いているうちに不思議な高ぶりを覚えていっていた。またそれ
を何か言葉にして誠人に示したいと思ったが、なかなか見当たらない。
でも形にすることがすべてではないと思い直したから、地面でしゃっし
ゃっと小気味のいい音を鳴らした。
国の中心部の丘から出て、軒を連ねる家々の前を過ぎ、畑の傍を歩い
て、家がきまぐれに点在するところに戻ることができた。
息をついていると、誠人は休むこともなく幾つかある家の一つの前に
向かった。
「どうしたの?」
「ここら辺に服飾をやっていたお爺さんが住んでいるんだ」
今、僕が着ているのはぶかぶかとした誠人の服だ。自分の体にあった
物の方がいいだろう。
「おーい、ノールさん」
誠人が呼びかけたその人の家の周りには、それほど背の高くない植物
が生えている。春はもうすぐだから、鮮やかな色の花を咲かせるのかも
しれない。玄関が開いて老人が姿を現した。老人といってもチャールの
ようではなくて、ただ年を重ねていっただけの、僕たちと同じような人
だった。もちろん、ずっと人生経験は豊富だろうけれど。
僕はチャールと話すときに比べて、軽い気持ちで挨拶することができ
そうだった。
「ノールさん? 初めまして、僕空軒望っていいます」
小さな老人の目で僕たちを見比べる。
「新しい王国の人か」
僕は頷いた。
「新しい王国民です。この子に服を仕立ててほしいんですが」
誠人が言う。
「かまわないよ。私もそろそろ暇になってきたところだしね。空軒くん、
どんなのがいい?」
「友里さんと似たような物がいいです。着心地もよかったし」
ノールはもう一度僕と誠人を眺める。
「承知した。一か月くらいでできるから、しばらく誠人のを借りておい
ておくれ」
僕は今日からお隣さんになるお爺さんに頭を下げ、大切なことに気が
付く。この人も王国にいるのだから、悲しい過去を持っている。
しかし目の前の老人はあくまでもお爺さんにしか見えない。余暇を楽
しむお爺さん。彼は誠人と言葉を交わしている。
「誠人くん、服の仕立のかわりと言っちゃあなんだが、あれを演奏して
くれんか?」
どうやら誠人は楽器を演奏するようだ。快諾して家まで楽器を取りに
行った。誠人に似合う楽器といえば何だろうか。僕はチャールの家での
「すべてを受け入れるようになった」という言葉を思い出す。解放的な
音色の楽器か。南国あたりを彷彿とさせる音色の。
でも誠人が持ってきたのは手のひらサイズの陶器人形だった。原始的
な色使いの人形はインドかそこらで使われていた物のように思える。
僕はそれを誠人がどう演奏するのかを見守っていると、誠人はそれを
地において数歩離れた。しゃがみ、地べたに胡坐をかく。人形が蛇壺だ
ったらそれこそインド人だ。そのまま瞑想するように目を瞑り、深呼吸
をする。それは僕に聞こえるくらいの大きさで、おおいに精神を落ち着
かせるみたいな効能があるように感じられた。たぶん正解だ。誠人の表
情がどんどん弛緩していっている。
見慣れない僕には随分と異常な光景なのに、ノールにとっては日常ら
しい。
人形から第一声が発されると思わず息を呑んだ。
人間と動物の狭間にあるような、どこかよく知っている音色。元々自
分の中に合ったような音だ。だから百人がきいたら全員頷くだろう。
僕の理解を超えたそれらは誠人によって動かされ、旋律として形を取
り始めていた。フレーズが繰り返される。さざ波のような抑揚をつけて、
吟遊詩人のように気まぐれに空気を震わせて僕の耳に残っていく。
僕自身が誠人の旋律の中にいるようだ。流れるようなそれに、体が心
地よく揺らされる。
誠人が表現しているのだ。
僕は演奏が終わると、あまりの素晴らしさに感想を言うのをためらっ
た。でもこれが日常であるノールは何気なく口にする。
「すごくよかった。誠人くんの演奏を聴くと安心しますなあ。やっぱり
演奏にしろ服飾んしろ、その人の性格がでるものです」
僕の耳元ではまだ、空気が優美に振動しているような感覚があった。 今日はここかな王国に来て初めての朝を迎える日だ。時計などはもち
ろん無いけれど、僕は誰にも起こされずに目が覚めた。窓から差し込む
光は控えめな具合で、少しひんやりとしている。やはり朝だった。僕は
本能的に朝に起きたのだ。
学校に行かなくてもいいことがどれほど自由なのか、僕はあくびをし
ながら実感する。しばらく何も考えずに家の中を見回していると、玄関
が開いて誠人が姿を見せた。外へ行っていたのか。
「おはよう」
僕は言う。
「おはよう」
誠人が朝に似つかわしい、控えめな大きさの声で返した。そして誠人
は昨日のように囲炉裏の前に座って朝食を作り始める。器に卵を割って
入れてるのを見て僕は不思議に思った。新しい卵。
「これはね、ここから少し歩いたところに鶏小屋を持つ家があるんだ。
そこから分けてもらった。僕は畑でいろいろと育てているから、作物と
交換してきたんだよ」
「自給自足ですね」
納得した。王国にスーパーマーケットはない。
僕は昨日の誠人の演奏を思い出し、王国の人々は誠人のことをよく信
頼しているのだろうなと想像する。
「そうだ、あの楽器すごく気になります」
僕は言ってみた。どんな仕組みで動いているのかよりも、どうすれば
あれほど綺麗な旋律が生み出せるのかが気になった。
誠人は火にかけた卵から目を離さないようにしつつ、白い歯を見せた。
「これはね、マインドールっていう楽器」
てっきりインドの言葉やアラブの言葉といった独特な響きを想像して
いたが、名前は英語のようだ。この名前の元が何かはすぐに予想がつい
た。
「マインド・ドール?」
心の人形。あの演奏はまさに誠人の心を映し出したものだと思う。
「ううん、マインドール」
誠人はあくまでもそういった。訳せば「私の人形」となり、意味が全
く違ってくる。私の所有物の人形。まあ、名前は便宜的なものだと思う
し、注目すべき事柄ではない。
少々難しい顔をする僕に誠人が尋ねる。
「この楽器、どうやって演奏すると思う?」
「テレパシー」
即答できるのは当たり前のことだ。マインドールから離れていても音
が鳴っていた。それ以外に考えられない。
「その通り! 心で演奏する楽器なんだよ、マインドールは」
それならば余計に「マインド・ドール」という名前がふさわしくない
か。しかし取るに足らないことだ。僕はしょうもないことに気を取られ
がちな頭を正して、心で演奏する、と反芻する。改めて「心」というの
が不思議な響きの単語だと思えてきた。
「音楽が心でどうこうなるっていうのは理解してるけど、どういう仕組
みなの?」
僕は訊いた。訊いたというより、この不可思議な楽器について突っ込
んだという方が正解かもしれない。なんでも科学的か非科学的かで信憑
性を分ける世界で生きていたせいだ。どうやら僕はまだこの癖から抜け
出せていないらしい。思わず苦笑する。
「仕組みってのは特にないんだけど、そういうのがあるとしたら……」
僕にでも理解できるような言葉を探しているみたいだった。
「マインドールにはね、自然界の音すべてが詰まっているんだと思う。
それらと僕は心を通わせているんだ。するとマインドールの音が僕の音
に反応する。その日その日で音色は微妙に変わるし、気分とかも影響す
るんだろうね」
「不思議な楽器だね」
しかし、誠人でさえ熟知していないこの陶器人形は素敵な音を奏でる
ことができる。まだ明かされていないところが沢山ある。
あの楽器の内側には細やかなな万華鏡のような世界が広がっている。
僕の心にある世界を余すことなく映し出してくれるだろう。どんな響き
が生じるだろうか。日暮れの郷愁と似たもの、昼下がりの平和的でどこ
か退屈な青空。僕にはまだ、自覚しきれていない部分が隠れている気が
する。マインドールみたいに。
「友里さん、僕マインドールやってみたい」
「じゃあ食べ終わったら練習しようか」 僕は早々と箸を進めた。
汁物をすするときに誠人の姿が見えた。胡坐をかいていても、どこか
程よく芯が通っている。僕も顎を引いて真似をした。誠人に気付かれな
い程度に。
◆ ◆ ◆
「まず、音を出す練習ね」
一体の陶器人形を挟んで向かい合う。誠人がゆっくりと目を瞑り深呼
吸するのを見ると、胡坐の意味が分かる。瞑想だ。誠人の気配がすっと
消えていく。目の前にいるのは誠人の姿をした殻だ。魂はマインドール
に飛んで行った。
魂の移動。テレパシー。
あの音が鳴る。真実の音色。でも今日はただ単音だけを鳴らしていた。
僕にやり方を示すためだ。
音が小さくなって消えると、魂は誠人の方へ戻った。マインドールを
扱った後の誠人は、儀式を終えた後の巫女みたいにどこまでも深い目を
していた。
「次、僕がやります」 誠人がしてみせたように瞼をおろし、闇を見つめた。この際に何か特
別な心持でもあるのかと思ったのだが、何も思いつかなかったので形式
的に目を瞑った。あまりに形から入りすぎていてこれでいいのかと尋ね
たくなるが、吸って、また吐くことに集中する。
でも、あのすばらしい音色は響かない。周りの空気は、ただの春の昼
下がりだった。僕はただ深呼吸をしているだけなのかもしれない。
目を開けてマインドールを見た。融通の利かないお爺さんみたいに表
情を変えない、置物としてのマインドールがある。
「難しいね」
そう言った僕を誠人はまっすぐと見据えた。先生の目をしている。
「マインドールっていうのは、前に望くんが言ったみたいに心の人形な
んだ。その人が思い浮かべている世界が音として姿を現す。だから自分
の心を見るようにやってごらん」
てっきり僕はマインドールが自動的に僕の内面を読み取ってくれるの
かと思っていた。
僕はもう一度それを意識してチャレンジしてみた。心を見るというの
は自分の奥底に潜む「声」をとらえることだ。どこにいても変わらない、
渦巻いているものは何だろう。
空虚さだ。すんなりと浮かんだ、つまり僕の本音だ。
どくどく、どくどくと心臓が打つ。いつもと違う緊張感があるのに、
なかなかマインドールは鳴ってくれなかった。表現する材料はあるのに、
音として出せない。
じれったくなって目を開いた。
「友里さん、絶望なんてないよ。もっと強い絶望が必要なのかな」
誠人は一瞬固まるけれど、なぜかそのあと笑って首を振った。 「馬鹿にしているわけじゃないよ。たまげたんだ。そう深く考えずに、
ただ心を見ればいい。自分がどんな人間か、どんな考え方をしているの
か。どんな未来を夢見ているのか。それを突き詰めていくんだ」
ずいぶんと明るいな、と拍子抜けする。
もう一度一連の動作を繰り返した。
僕はきっと、自分がなぜ生まれて、生きてるのかを知りたいのだ。現
時点では意味はないという解釈に留まっているが、いつか違う答えがで
てくることを願っている。ずっとこれは心で渦巻いていた。 久しぶりに僕は願い事があるのを自覚した。自分は何かを願うことが
できる。
ふいに空気が振動し始めた。マインドールを動作させることができた
のだ。
「音、出せた」
◆ ◆ ◆
つい先日は誠人が旋律を奏でる方法を教えてくれた。当たり前のこと
だが旋律とは単音の動きだ。マインドールにおける旋律とは、願い事が
叶ったときの世界を想像することで発生するらしい。
でも僕はそこで一つの疑問を覚えた。演奏というのは楽譜と切り離せ
ない。けれど「マインドールには楽譜なんてないよ」と当たり前のよう
に言われた。
即興演奏と似ている。テーマだけは決まっていて、後は思い思いに演
奏すればいい。
誠人は僕をこの広い家に残して畑の手入れに行っていた。だから今は
いなくて、いつも以上に集中できそうだった。僕を救ってくれた誠人の
前で「生きる意味を見つけたい」と考えるのは抵抗がある。まだ、僕は
完全に救われてはいない。
僕の性格をよく表していると思う、鳥に似た音色が空間を駆けていく。
心の中で願いを唱える。しばらく生きる意味についての解釈を生み出
そうと思ったけれど、言葉が出てこない。ないのかもしれないなと、あ
くまで冷静に思って方向転換をする。無である可能性が大きいのなら、
その反対を考えてみよう。
自分に存在意義はあるのか。僕は誰かに必要とされていたのだろうか。
親ではなく、血の繋がっていない誰かに。たとえば友人の宇佐。幼い頃
からの知り合いである彼は、内気な僕とよく遊んでくれた。外の世界で
は僕は中学生なのだが、中学校でも宇佐は一緒だった。一番の友人だ。
たぶん将来の夢を話したのも彼くらいだろうし、秘密を打ち明けたのも
宇佐だけだ。そしてその秘密は人によって嫌悪感を齎すものに違いない
のだが、彼はすんなりと「まあ人それぞれだしいいんじゃない」と受け
入れてくれた。
彼は僕にとって非常に存在意義がある。じゃあ僕が宇佐にしてあげた
ことといえば――思い当たる限りない。
つまり僕は誰かを救ったり、人生を変えさせたりすることをしていな
い。これは事実だ。 なんだかつらいなあ。僕は自分で自分を見定めて
おきながらも全世界に否定されたようで、怖く思えてきた。
存在する理由がないのなら死んでしまえばいい。首を絞めるとか手首
を切るとか、簡単だ。でも痛いのは恐ろしい。炎に呑まれるだなんて想
像もつかない。火に少し触れるだけでも全身が拒絶反応を示すのに。死
に手をだせないのなら生きるしかない。
すなわち。僕はこれからも無意味に生き続けることを強要されるのだ。
空っぽのまま長い時を過ごす。
無意味という解釈を覆すのはどうやら不可能に近いらしい。でも僕は
それでいいやと思う。そして、自分がぬるい世界で生きるさまを想像す
る。
するとそのとき旋律がした。鳴ったのだ。僕は目を瞑ってその旋律を
体にしみこませるように静かに聴く。
まるでマインドールが僕の意識から剥離して動作しているみたいに。
たぶん僕の無意識で、世界が繰り広げられている。
この問いかけ、議論は自分では止められない。
旋律は誠人のものとは真反対で、どこかこじんまりとしていてうねる
ような動きがあった。やはり僕の感情を的確に表している。でも嫌っち
ゃいけない。僕の投影が、僕に寄り添う。自作自演。
「素敵な演奏だね」
邪魔にならないような静かな声は誠人だった。。
僕は気が済むまでうねりを聴き終えると、誠人を眺める。
「なんだか初めての感覚です。自分が自分でないみたいに思えます。妙
に落ち着いていて」
「いい演奏だったよ。望くんらしくて」
それは誠人の率直な感想だった。ニヒリストに近い考え方を話した覚
えはないけれど、僕らしいと誠人は直感している。話さなくても伝わっ
ているのだろう。運命ということも存在したのだから頷ける。
たぶん彼と僕の演奏は真反対の性質を持っているのだろうけど、やは
り彼の性格は僕をも受け入れてくれている。
ふと誠人の顔に、銅が柔らかくなったみたいな赤茶色の泥がついてい
ることに気付く。不思議と汚くなくて、むしろ自然のそれが誠人の姿を
引き立てているように思えた。
「泥ついてますよ」
僕は人差し指を伸ばして誠人の顔から泥をとる。指についた泥は何の
変哲もないただの泥だった。何か彼を引き立てる要素だったのだろう。
指をまじまじと見つめたかったけれど、敢えて気にしないことにして
家の外へ出て、手を払った。長いこと暗いところで胡坐をかいていたせ
いでくらっとした。背に午後の光を感じつつ家に戻り、誠人に微笑みか
ける
まあ、何を思おうが僕は僕なのだ。
◆ ◆ ◆
夕方の丘から見える景色を見るのは二度目になる。
草原から見下ろせる景色の中にいる人たちが家路についている。畑仕
事をしていたのだ。彼らは少し疲れている。明日になればすっきりと取
り除かれる種類の疲れだ。いつまでも続くような不安に似たものではな
くて。
太陽は僕を含めた沢山の人々を見守っているはずだった。
なぜ丘にいるのかというと、誠人が「夕焼けの中で演奏するといい気
分だよ」と提案したからだった。僕はその気分を想像できて、なるほど
と思った。
「じゃあ、始めます」
誠人は僕の演奏を楽しみに待つように一足先に夕暮れの景色をシャッ
トアウトしていた。
演奏していると、まるで自分が別人になったかのような感覚を味わえ
た。瞼の裏にまで差してくる夕陽のせいだ。
溜息が口から出でいこうとした。しかし異様な風景が目の前にあった
ために、それは変な声になった。鏡合わせのように僕と同じ体勢で座る
少女とはどういうことだ。まさか僕の旋律によってこの少女が召喚でも
されたのか。
どことなく彼女は品がよさげで雲みたいに現実感がなくて、目を瞑っ
ているのがデフォルトだと言われても納得してしまいそうだ。このまま
永遠に彼女の瞳を見ることはないような気がするくらいに、ずっと眠っ
ていそうだ。細かい作業が得意な職人によって作られたような切りそろ
えられた前髪は、揺れることのない草原と同じく凪の中にいる。
僕は彼女の出現がどことなく誠人と似ているような感じがして、幻覚
とは思えなかった。
「あの、ちょっといいかな」
凪が揺らいだ。彼女は瞳を思い切り僕に晒す。文字通り、思い切り。
そして口から出てきたのはおしとやかさとは真逆の快活さだった。だ
から僕は体を少し後ろに逸らせなければならなかった。
「あなたの演奏すっごくよかったわ! 聴いてると心が地についたみた
いになる」
どこからかやってきて僕の演奏を耳に止めてくれたのか。
「まだこれを始めて一週間足らずだけどね。聴き入ってくれて嬉しい」
若干の照れくささがあった。なぜだろうと思ってみると、それは彼女
が僕と同じくらいの年だからだ。同年代の女の子というだけで意識して
しまう、僕はそんな年頃だった。でも彼女は目の前にいるのが異性だと
意識していないらしい。
いや、所詮そんなことを考えるのは僕くらいか。
僕たちには共通点があるから、彼女は興味深く見つめているのだ。
閉塞的な中学校という環境から抜け出し、とても新鮮な地にやってき
た同年代の人間として見ている。外の世界にいれば二人とも中学生。同
じような教育を押し付けられ、それを苦にして俗世間を後にした。
少女がふいに僕から目を逸らし、誠人にものを尋ねた。
「誠人があの子にマインドールを教えたの?」
誠人は僕を見守っていた。
「そうさ。でもほとんどひとりでできるようになった」
「ひとりで? こんなに表現できたの?」
心底驚いた様子だ。
誠人が「すごいと思わないかい?」また僕を持ち上げるから、僕は戸
惑った。まだマインドールとは何かなんて、理解していないんだけど。
少女の瞳がちらっとだけだが、再び僕に向いた。
「私、あの子初めて見た。あの子はどこから――ううん、いつきたの?」
「つい最近。ここにきて、今日で一週間と数日かだね」
へえ、と首を振る。また興味深そうにはにかまれる。
「私、加賀涼子っていうの。よろしくね。あなたはなんていうの?」
涼しい子と書いて涼子か。その名前はぱっと感じた、涼子の印象とと
てもマッチしている。
「空軒望って名前」
「へえ。じゃ、望くんって呼ぶわね」
僕たちは名前を教えあうことで一瞬にして友達どうしになったと思う。
まるで同じ中学校にいて毎日見ていたという過去があるみたいに。
いいよ、と言うと涼子はすうっと言葉を紡いだ。
「望って希望って感じに入ってる文字よね。夢があるっていいことね」
「どんな夢かは教えられないけどね、確かに持ってるよ」
次は自分が言う番だろう。
「涼子、涼子さんの名前もすごくいいよ。涼しそう」 けれど目の周りが硬くなって細まってしまった。何か気に障ることを
言ってしまったのだろうか。
「ありがとう。でも無理して褒めてくれなくていいの。私、この名前あ
んまり好きじゃないし」
「ふうん」
「名前ってなくなると都合悪いじゃない。一応涼子って使ってるだけよ」
「分かる気がする。名前って一方的に親から与えられるからね」
僕自身は望という名を嫌ってはいない。というかあまり意識したこと
がない。
「本当に親って変な生き物だったわ。今は一人で暮らしててすごく楽。
ところで望くん、あなたは誠人と住んでるの?」
「僕は一人暮らしじゃないけどね」
すると涼子は手を振った。なんとなく品がよさげだ。生まれつきなの
だろう。
「一人暮らしなことを馬鹿にしてるわけじゃないのよ。ただ興味があっ
て聞いたの」
僕はそっか、と言って彼女の奥に見えるあの太陽に目を移した。
空虚というのを涼子は知っている気がする。直感だけど。
鏡合わせだ、と思ってまた涼子を見る。お互いに瞳を見合わせる。夕
陽が虹彩を露わにしてくれていた。瞳の中心の黒い点。
涼子は言った。
「私ね、ずっと北に行ったところに住んでるの。この季節だと雪も積も
るし霜もできる。そんな場所よ。遠くて寒いけど、望くんさえよければ
遊びに来てみない?」
「もちろん行くよ」
彼女は寒いところに住んでいる。わずかな塵でさえ凍って動くことは
ない。そういうところの空気は決まってすばらしく澄んでいる。
「誠人が私の家を知ってる。教えてもらって」
そして涼子は腰を上げた。僕はそれを座りながら眺め、上からファン
キーににこりとされた。
「じゃあね、暗くなる前に家に帰らなきゃ。今日は望くんみたいな人に
会えてよかったわ。さよなら、また会いましょうね」
「さよなら」
僕も涼子のようなさらっとした別れ言葉を真似た。その後調子よく眉
を上げてみせると彼女は少し目を細めてから背を向けた。
そして丘を降り、家路につく。丘の上から涼子の姿は小さくなってい
くが、注意して見なくても彼女がどこを歩いているのかは分かった。北
へいく道をまっすぐ歩く。家につく前に日が暮れないように、太陽に手
のひらを向けた。
手に僕が持っているのは涼子の家までの道のりが書かれた地図だ。誠
人は用事があると言って、僕をひとりで行かせる。歩くのは実に新鮮な
道だった。
ちょうど丘を越えて王国の北部分に入ったわけだが、地図上ではだい
ぶ距離がある。まずは涼子の家までにある「北の井戸」のところを目標
に歩く。この地図を見てみると、チャールの住む丘が中心に描かれ、丘
の四方には井戸が配置されていた。まるでチャールを守っているみたい
に。
まだ昼頃だというのに外には人ひとりでていない。ときおり春を感じ
させる風が吹いて未発達な作物を揺らすが、人々は春なんかに興味がな
いみたいに思えた。人の住んでいるはずの家はただの遺跡みたいに見え
た。僕は取り残された過去の町を歩いているのだ。土肌の上で僕の影だ
けがやけに存在感を放っていた。
しばらく昼間の光は降り注ぎながらも道を行くと北井戸についた。石
造りの表面には水によるぬめりがあったり黒黴がこびり付いていたりし
た。木の屋根によって陰のもとに存在する井戸の不気味な涼しさも随分
と昔から存続しているようだ。重々しい。
なぜこんなものが王国にあるのだろう。王国をつくるときにこれを保
護する必要がチャールにはあったのだろうか。
屋根の裏につけられた滑車のロープを引くことさえためらわれる雰囲
気だ。あれは触ってはいけない、と僕は頷く。 本当にここは王国の一部なのだろうか。王国は南の入り口から丘の部
分までで、そこから先は旧日本の遺跡だろうか。僕は迷い込み、独り狐
に化かされているのだろうか。
地図を見るとそんなはずはないと分かるが。陰に入らないようにして
井戸を早足で通り過ぎ、何も振り返らないようにして、早く涼子のとこ
ろへ行こうと思った。彼女ならばここがどれほど異国っぽいのか、暖の
効いた家で理解してくれるはずだ。南へ来るとき彼女は歩いたはずだ、
ここを一直線に通り過ぎて。僕も行こう。
そして景色はがらりと変わる。土肌など見えないくらいの白雪があっ
て、どこまでも冷たい光を放つ。雪の上では僕の影はとてもぼんやりと
動くようだ。それ故ふっと息をつくことができた。はっきりした白は良
い。
透明な冷気の中顔を回すと、灯りのついた一軒の家だけが見えた。
苦なく歩き、中と外とを隔てる一枚のドアをノックする。
「僕です。空軒です」
ドアのすぐ真横に埋め込まれた、曇った窓ガラスの影が動く。その後
すぐにドアが開けられた。寒い外とは異なる温かさを頬に宿した涼子が
そこにいる。
丘の上で見たときよりもずっと穏やかな目をしている。
「あの井戸すごくへんだ」
気付けばそんなことを言っていた。これでは僕の言動こそが変に違い
ない。
しかし涼子は当たり前の日常会話をするみたいに表情を変えずに「カ
オスだよね。なぜあんなものがあるのかしら」と言ってくれた。一般的
に唐突なこの状況は、彼女にとって眉をひそめるものではないらしい。
日常。
「寒かったでしょう。中にお入り」
外からでもこじんまりした家だと分かったが、中はなおさらだ。分厚
そうな石造りの壁がそうさせているに違いない。茶褐色の岩に縁どられ
た彼女の空間は、暖炉とベットと食卓の三つのエリアに分かれている。
しかもその三つはひしめきあっている。
でも悪くはない。狭いというより、押しくらまんじゅうみたいにひし
めきあって寒さをしのいでいるように見えたからだ。実際ここは温かい。
椅子に腰かけると、暖炉を背に座る涼子が見える。
この家の主、ずっと北にある雪だけの世界に住む少女。綺麗に切りそ
ろえられた黒い髪。そよ風を線で表したならばちょうどこんな感じにな
るはずだ。
「唐突さを承知でいうけどさ、なんだか精霊みたい」 僕は言った。
「精霊? それは私がってこと?」
「うん。くさい?」
涼子はすぐさま首を振って否定した。
「あなたが言うとくさくない」
ならば、ともう一つ感じたことをそのまま口にする。
「ここはグリム童話に出てくる家みたい」 膝の載せていた手をテーブルに置き、頬杖をついた涼子は口ずさむよ
うに言った。
「じゃ、私は魔女か」
「超人的だね」
僕は言う。
薪がオレンジの中で姿を変えていく。家を温める炎に舐められ、小さ
くなる。黒く変わった部分以外は天にでも蒸発してしまった。
「魔女でも精霊でもなんでもありね。私自身はふつうの人間なんだけど。
普通ってことは今は気にしないとして」
「そうだね。僕たちは普通の人間だ」
ぬるま湯に浸かっているみたいだと思いながら、「今日来てもよかっ
たのかな」とそれとなく訊いた。
「いつでもよかったよ。暇だし、来てくれてうれしい」
そっか、と頷く。僕を見て涼子は話を続けた。
「学校がないから自由なんだけどね、すっごく暇よ。望くんも一か月く
らい住んでたら感じるようになるわ。きっと」
「涼子さん独り暮らしだもんね。なおさら暇でしょ」
暇ね、と涼子はたいそう気だるげそうにあくびをした。猫のようにな
めらかに宙に口を剥いた。
精霊は雪を舞うこともなく惰性に過ごしている。退廃的ではなく、そ
う過ごすのが涼子の当たり前なのだと直感できる。雲が風に吹かれるみ
たいに当たり前のことだ。
涼子が頬杖をつき、目が細くなる。
「毎日ただぼーっとしてね、積もってく雪を見ながら考え事をしてるの。
私はどんな風に年を取っていくのだとか、どんな風に死ぬのだとか。ど
うでもいい思いにふけってるの。変でしょ、カオスでしょ」
「それもそれでカオスだね」
すると、悪戯っぽい笑みを涼子は浮かべた。人を惑わせて喜ぶ手品師
みたいに造作してみせた。僕は惑わされるどころか、初めて現れた彼女
の表情に新鮮さを覚える。そして、ここは涼子の家なのだと改めて認識
した。涼子らしさが一番現れてくるところだ。
「一つきいていい?」
僕はふと涼子に尋ねた。ただし質問するのは今感じていることとは関
係ない。
「王国に十代の少年少女は僕たちだけ?」
「そう。王国に子供は私たち二人だけ」
涼子は顔色一つ変えずに答えた。
僕がしたのは確認程度のことだから、僕はなるほどと思っただけだっ
た。空気にとけるように燃える暖炉を聞きながら、思ったことを口にし
た。
「なんだかそれもカオスだね。僕らには一応未来があるのに、あえてこ
の王国にいるってことが」
しかし、そこで彼女は前置きなく怪訝な顔をした。
「未来? まさか望くんには夢があるの?」
おかしいことを僕は口走ったのだ。違いない。理由はすぐに分かった。
ここは王国だ。空虚さがテーマの王国なのだ。それに僕には、俗世間に
いたころから夢なんてなかったはず。マインドールを演奏しているとき
に芽生えたのは願いであり、夢ではない。
僕は発言を打ち消そうとして笑うつもりだったが、途中でひっかかっ
た。
本当にそうだろうか。ぼんやりとした夢は誰の心にも、僕にもあるん
じゃないか?
――居場所。
ふっと言葉が頭に生まれた。
涼子は変わらず僕を見ていたが、黒い虹彩は制止していた。
唐突に浮かんだ言葉。しかし僕は考えることに抵抗を感じた。涼子に
見られているという意味でも、深淵に入り込むのは今のところやめた方
がいいという直感でも。
「自分でもよくわからないな」
彼女は瞬きをして、僕はひとまず胸を撫で下ろす。
「望くんもカオスね、どっこいどっこい。でも私はその点においてはカ
オスじゃないのよ」
「それはどういうこと? 涼子さん、夢があるの?」
「漠然としてない夢。言葉で的確に表すこともできる。これ、もしかし
たら野望って言えるかもしれないけど」
なんだ。夢がある人間を嫌悪しているわけじゃなかったのか。
「野望? いい響きだね、気になる」
「ダメ。秘密」
そこでおしゃべりの一区切りが置かれた。涼子は椅子から立ち上がり、
僕に背を向けて火を見る。僕も目じりを緩め、ぱちぱちと揺れる火を聴
く。静かな空間に途切れることなく流れている音。曇った真っ白な窓ガ
ラス。ここはとても温かいのだ。
しばらくして涼子は振り向く。
「ね、マインドールしない?」
暖炉の火が一際大きくぱちりと鳴った。一瞬。
「涼子さんもするの? ぜひ聴いてみたい」
涼子は机の下から例の陶人形を出した。誠人のとはデザインが違う。
長い年月銅像が雨風に晒されたときみたいな色が全体に塗られている。
太古のにおいがする。
その太古をテーブルのちょうど真ん中に置き、涼子は長い間、燃える
火の音を体に取り込んでいるみたいに、涼子はじっと物音を立てずにい
た。
彼女の音楽は嵐の一言で言い表せた。一つの音が何かを壊して回るく
らいの勢いを持っている。それが旋律となり、留めなく破壊の限りを尽
くす。
しかし演奏する彼女はただの物静かな少女だった。
僕は瞬きをして、涼子がそこにいるのを再度認識する。
何度か印象深いフレーズが繰り返されたのち、静止した。激しい冬の
みぞれが止むみたいに。
「私の演奏どうだった? 感想をお願い」
涼子が意味ありげにゆっくりと瞳を露わにする。
でも僕は少し戸惑い、嘘をついてしまう。
「力強くてしっかりしてた。きっちり足を地につけて一つ一つ歩いてい
るみたいに」
世界を心底憎んでいるようだった。その意味が含まれないように細心
の注意を払って感想した。触れてはいけない事柄だと僕は思ったから。
「どんなふうに?」
涼子が僕を見た。しかし声が掠れてしまっていたのでもう一度言い直
す。「どんなふうに力強かったの? 私は」
いわば神聖な場所と同じだ。ずけずけと踏み入った発言はだめだ。き
っとあれが涼子の本当の姿なのだろうが、出会って一週間しか経ってい
ない。僕はまだ口にする権利がない。
「……生まれたての赤ちゃんみたいに力強かった。ただ一心に母親を探
す赤ちゃんみたいに」
やはりオブラートに包んだ表現では、彼女を少しばかり落胆させたよ
うに見えた。
「そう。ありがと」
涼子は僕の感想を自分の中に押しとどめるように目を瞑り、開く。蓋
をしてしまったみたいに普通の少女の目に戻る。
「望くん、ここから少し歩いたところに浜辺があるんだけど行かない?」
「演奏で疲れてないの?」
涼子は平穏に言う。
「ううん、すごく気分がいいの」
机上の楽器がまるで涼子の抜け殻みたいで、もう意味をもたないもの
みたいだった。
僕は静かに椅子から腰を浮かす。
「そっか。それは行くに限るね」
十分もたたないうちに僕たちは真っ白な雪の壁に遭遇した。ベルリン
の壁のように高くて横方向にずーっと広がっているように見える。
「ここから浜辺まで。どういくの?」 涼子は平然としていて白い息まで冷静そうだ。
「こっちよ」
何歩か歩いていくと、これが一続きの壁というのは間違いであると気
付く。涼子の前には、雪の壁が左右に分かれたような隙間。ちょうど人
ひとりが通れる。
「ここを通ればすぐ浜辺」
リズミカルに言うと、涼子は先に進んでいった。ちょこまかと。空を
舞う粉雪。全て白の景色。
「なんだかモーゼみたいだね」
僕は言った。
不思議な物語、という何度か使いまわした言葉。白の中で対比するよ
うなおしとやかな黒髪が揺れて、ふふという。
「だから私は普通の人間だって。魔女でも神でもない。私がモーゼだっ
たら海どころか地球を割ってやるわよ。太陽だって割るわ」
彼女らしい表現にくすりとした。魔女とか神とかいう、禍々しい言葉
を使うところとかが。
両側から冷気が漂う雪壁を通ると、開けた空間に出た。そこも一面、
雪景色だ。砂浜があり、太陽の光が降り注ぐような海岸ではない。
涼子の目は先の地平線に向いていた。また歩きはじめ、僕はついてい
く。
すると何の前触れもなく、透明な水がつま先に滲んだ。すると、と僕
は思ってつま先から遠くに目を向ける。水本来の透明な色が先の地平線
まで満ちている。何も映らない広大な鏡みたいだった。
砂浜と海の区別もなく、あらゆる要素をそぎ落とし、無に近い透明の
世界。
「綺麗でしょ、海。冬だといつもこんなふうに見えるの」
僕は心から頷いた。
「私ね」
僕は凪のようにとまる水面に、二人が映っているのを見た。風はなく、
僕たちの姿は乱れていない。
「ちょっと語ってもいいかしら。私の演奏を聴いて赤ちゃんみたいって
言ってくれたでしょ。すごく的確だった。だから私、なんでこの王国に
きたのか喋っていいかしら。望くんに」
あれはただの嘘なのに。しかし僕は黙っていた。
「お母さんとお父さんは優しい人だったわ。私、一人っ子だったからわ
りと愛情を注いでくれたの。そのおかげで学校での勉強も友達付き合い
も楽しくて、優等生だった。
でも、それが災難したのよ。人って同じ種類の人とつるむのがすきだ
から、周りには自然と頭の出来がいい人がいたの。おしゃべりの話題は
いっつも堅苦しい哲学とか。馬鹿な子たちがしてるテレビの話のほうが
よっぽど楽しそうだった。
いまさらそんな子たちとつるむのも気がひけるじゃない。だけど哲人
もどきたちと一緒にいてもむかむかするわけね。それでぱっと浮かんだ
こと言ってやったの」
涼子がそのときの口調を、肩をいからせて再現する。
「哲学なんて所詮、人が創り出した考え方じゃない。答えじゃないわよ。
それに神話もそう。真に受けちゃって馬鹿じゃないの。ちっともあんた
ら楽しんでないじゃない。あれは全部物語よ。ま、どうせ無理でしょう
けど。そんな頭してんだから」
制服姿でそれを言う彼女を想像した。髪はきちんと後ろにまとめられ
ているだろう。
「言ってやったらね、スッキリした。そいつらから反発くらって疎外さ
れたけど。でもその後何かが変わったの。吹っ切れたって言うのが正解
かもしれない。そのとき私は初めて両親に反抗したのよ。もうその年ご
ろだったら反抗期に入ってもおかしくなかったけど、私はしてなかった。
夕食の家族団らんの時間にしてやったわ」
そこでいったん彼女は伸びをする。水面に気持ちのよさそうな伸びが
映った。
「頭のいい人間が一体できあがり。でも中身は空っぽ。――あなたたち
はこれがお望みなんでしょ?
両親は突然の娘の言葉に唖然としたわ。いつものにこにこ、希望たっ
ぷりとはかけ離れたもの。
その次の日からは引きこもりになってやった。もうどうにでもなれと
思ったわ。巷にあふれる偏見報道的に見れば私は異常ね。両親も同じ見
方だったわ。家にカウンセラーを連れてきた。自分で精神病じゃないっ
ての、分かってたから何もしゃべってやらなかった。
でも人の心を診るって名前ばかりのカウンセラーは『うつ病』って診
断しやがったの。そして育ちだけいい両親は、カウンセラーの『これく
らの年頃の子ですから。悪化しないうちに入院を勧める』って言葉に頷
いたのよ。やぶにも程があるわ。親は親でその言葉を疑わないのよ。も
う呆れたから、家出してやった。すべてに呆れた」
深く目を閉じている。
「街中を歩いているとどいつもこいつもノータリンに見えてくる。で、
その中に親の立場にある人はどれくらいか見てみたの。まあ見当はつい
た。そいつらの顔を見てみるとね笑えるわよ。やっぱりノータリンよ。
ぼけーっとしてへつら笑いして乏しい表情で歩いてんの。それだったら
産んだ子供もきっとノータリンよね。そしてノータリンは連鎖していく。
世間は阿呆だらけになる」
「それが涼子さんの王国にきた理由なんだね」
僕はできるだけ静かに言った。
涼子は興味深そうに僕に尋ねた。
「望くんはなぜ?」
僕は涼子に比べると、きっと中途半端な理由だ。ただ世界が虚無的に
感じただけ。誰かが僕を不快な気持ちにさせたわけでもない。
「……僕はジサツしようと思ってたんだ。生きてるのが面倒くさくなっ
て」
また嘘をついてしまった。
「そっか」
それ以上彼女は詮索してこずに、ただ鏡のような水面を見ていた。舞
う白雪が水にとけ透明に帰していく。
そのあと涼子はちょっとおかしな行動をとった。雪の塊ができている
ところまで行き、その足で塊を蹴り崩す。表情はにこやかだ。無垢だ。
粉々に、まるで砂のように雪が散る。 ふと、とてもそれも彼女らしい
と思った。
もしかすると僕と涼子の似ているところは、ただ虚無を感じていると
こだけなのかもしれない。でも僕にとって涼子は友達であることは確か
だ。
「ねえ、これすっごく楽しい」
雪が次々と弧を描いて飛び散っていく。
僕は涼子のそばへ行き、一緒に蹴った。涼子の散らかした雪が僕にも
かかるし、僕のも涼子の髪にかかった。雪まみれ。
「そうだね、すごく」
塊がすべて粉々になるまで、僕たちは蹴り続けた。
同じ王国にいても南と北では気候がずいぶんと違う。ぬるい。ここが
誠人の家のあるところだ。
「涼子ちゃんのところ、どうだった?」
朝食のパンを頬張る。昨日は長く歩いたせいで帰るとすぐに寝込んで
しまったのだ。
「なかなか面白い子だね。個性的だ」
誠人は行儀よく一つまみずつちぎってパンを食べている。 涼子が個性的と言えるのなら、誠人は普通そのものだ。何かを憎んで
いるわけでもない。そういえば誠人は「いろんなことを受け入れられる
ようになった」と言っていた。そのせいなのか、僕には穏やかさが過ぎ
るように見える。
でもあの夜、彼は素敵に見えた。
さして意味を持たないことを僕は言う。
「あの子もマインドール吹けたんだね」
誠人はとても懐かしそうに言った。
「あの子はね、僕が演奏してるのを聴いて、望くんと同じようにすぐに
興味を持ったんだ」
「へえ」
涼子の演奏の感想を言おうと思ったが、言わないことにした。彼に理
解できるだろうか? 僕と涼子の、胸にぽっかりと穴が開いたような感
覚を知っているだろうか?
それから少し沈黙が漂った。
「ね、望くんに専用のマインドールがあったほうがいいと思うんだけど」
ふいにそう切り出された。
「え? それはぜひ。いただけるのなら」
確かに専用のものはほしい。でも南にいることのほうが多いので、誠
人に聴かれるかもしれない。そのとき、彼が「この子のことが分からな
い」と感じてしまったらどうだろう。見捨てられたくない。
しかし僕の言葉を待つ暇もなく誠人は立ち上がった。
「じゃあまた王のとこに行かなきゃね」
仕方がない。持っておくだけ、持っておけばいい。僕は曖昧な笑みを
浮かべた。
「へえ、チャール王ってマインドール造るんだ」
「ううん、彼の息子のワーメヌトが造るんだよ。シェマの弟の」
ワーメヌトはシェマにもチャールにも似てもつかない大男だった。胸
板は盛り上がり、二の腕は獣のように太い。作業着の上からでも分かる。
こういうタイプの人は苦手だ。でも誠人は彼とうまく話している。チャ
ールの息子、ということは何十年もの付き合いだろう。
「坊主、どんな性格だ」
唐突に尋ねられた。マインドールを造るのに必要な問いなのだろうか。
あるいはただ興味本位か。
後者のにおいしか感じられなかったが答えてしまっていた。
「少し冷めたやつだと思います。それ以外は普通です。特に偏屈でもな
いし、卑屈でもない」
ワーメヌトはわざわざ確認するように繰り返す。
「少し冷めている」
シェマと全然ちがう。苦手だ。
まあ苦手と言っても、僕が冷めているのは合っているけれど。
「坊主と誠人、ついてこい。地下へ行く」
チャールの書斎の床のある一点に、彼は迷いなく手を這わせた。僕か
ら見れば特徴のない片隅だけど。
ワーメヌトの周りに四角い枠が浮かび上がる。きっと地下へ続く通路
だ。
彼はその枠の外へ出て、手をぱちんと鳴らした。そこだけ床板が消え
て、ぽっかりと暗い穴ができる。書斎に似つかわしくない近未来な穴。
すごい。ワーメヌトが職人であることを実感しながら、穴の中にある
梯子を下りて、もっと暗いところへ出る。
ワーメヌトは淡々と述べる。
「これは魔法じゃない。ただの機械仕掛けの床さ。全部に仕掛けがある」
「全部に、ですか。それだったらマインドールにも?」
しかし彼は難しい顔をした。
「あれは俺にも全容がわからない。なぜ人によって音色が変わるのか、
旋律が勝手に生成されていくのか。どこか人の力を超えたものがあるに
違いない」
「ってことは、ワーメヌトさんも予期してなかったってことですか?」
「それも違う。マインドールはもともと、よそのやつが開発したものだ。
俺はそれを量産しているだけに過ぎない。繊細な作業が必要なだけだ。
だから俺がやってる」
確かに作業机の上にはなくしそうなくらい細かな部品が散らばってい
る。
彼は机の前に行き、袖をまくった。僕はそこからは見物客だった。
「あの人、子供の頃からああなの?」
とても親しげな目をする誠人。
「うん。昔から黙々と作業するのが得意だった」
口を堅く結び、小さな部品をしっかり支え、つなぎ合わせる。ガラク
タのように見える部品を淡々と一つの形へと導く。彼はただ淡々と指を
動かしている。
彼という人間はあまり好きじゃないけれど、これには心を動かされる。
出来上がったマインドールを手に、その日のうちに涼子の家へ行った。
今日でなければいけないような気もするし、僕だけのこの楽器で早く演
奏したい。なにより、一番に聴かせるのは涼子でないとならない。
「今、忙しい?」
涼子はううん、と首をかしげた。
「忙しいからって望くんを追い払うわけないよ。ご飯ももう出来上がっ
たし。それに、何か用があるから来たんでしょう?」
僕は口を結ぶ。言葉で説明しちゃいけない。涼子のは演奏があり、言
葉はその次だった。僕も同じ手順を踏むべきなのだ。
「……伝えたいことがあるんだ」
それだけを言う。すると僕の眼差しを察したのか、涼子は無言で中へ
招いた。
昨日と同じように暖炉は燃えていて、涼子は椅子に腰かける。僕はそ
のままドアの前で目を瞑る。
マインドールはうねるような旋律を吐き出しはじめた。できる限りす
べての思いを旋律として吐き出せるよう、一心に集中する。この先もず
っとあるかどうかわからない、誠人の僕への感情。
心から十分に吐き出せたら、僕は現実へ戻った。
旋律はすべてを伝えてくれただろうか。
涼子は静かにまつ毛を上下させた。
「それが望くんなのね」
伝わった。それだと嬉しい。僕は確認するように尋ねた。
「ねえ、どんな風に感じた? 僕の演奏」
「落ち着いてたわね」 でも、もっと具体的なのがほしい。
「どんな風に落ち着いてたの?」
目が細められた。
「このやり取り、昨日とは逆ね。昨日は私が尋ねてた側だったわ」
僕は顎を引いて黙る。
「今から言うことは、けっこう適当かもしれない。おぼろげには分かっ
たんだけどね、言葉にするとなったらずれちゃうかもしれないの。それ
でもいい?」
「うん」
「冬みたいだと思った。春に行くつもりは全然なくて、ずっとその季節
に留まるって決めた冬みたい」
「確かにおぼろげだね」
これから言葉で、虚無にとどまっている理由を言うつもりだ。
「春にいかないっていうのは、僕が何も受け入れられていないってこと
だと思う」
「例えば何かしら」
「……友里さんとか。なんだか僕とは真反対だと思うんだ」
僕は本音を口にしていた。
「でも誠人と一緒の家なんでしょ?」
「ううん、それとこれとは別かもしれない。心がね、なんだか違うんだ」
少々話がずれていく気がしたので、彼女と共通している虚無について
話す。
「涼子さんのとは違う、軽い動機だと思うんだけど。確かに僕は虚無感
に行きついたんだ」
その経緯について僕は感情的にならずに淡々と語った。目的はあくま
で涼子に伝えることにある。
姿勢よく聴いてくれていた涼子は、僕がしゃべり終えると椅子に背を
預けた。まるでゆりかごで眠るように。どこか安心した雰囲気でいる。
「私と同じよ」
僕は首を振ろうとした。
「経緯なんてどうでもいいよ。今の状態、私と同じでしょ?」
そして彼女は指先で自分の手の甲を撫でた。
「望くんのこと知れてうれしいわ。でもどうして教えてくれたの? わ
ざわざ過去を口に出すなんていい気分じゃないのに」
僕は椅子に腰かけた。
「黙ったまま、この先もずっと涼子さんと関わりたくなかったからだよ」
そしてもう一つ言うべきことが浮かんできた。もう僕たちはずいぶん
と親しい仲だ。彼女もそう認識している。
「昨日の演奏聴いてね、僕は涼子さんが何かに憤怒しているように感じ
たんだ」
「その通り」
「ごめんね昨日言えなくて」
一通り暖炉がパチパチと鳴り終えると涼子は微笑んだ。バイオリンが主
役の小曲を聴き終えたあとみたいな感じで。
「言わなくたって分かってくれてたんでしょ。でもハッキリ、お互いに
理解しあえたってことね。素晴らしいことよ」
涼子はそう言い切った。
そして机にある新鮮そうなサラダの器のふちに触れた。
「昨日と今日とで疲れたでしょ。無事に家に帰るために食べていきなさ
いな」
なんだか涼子が姉のように見えた。僕よりもしっかりしていることは
間違いないし、僕と似た存在だ。
僕はありがとう、と手を合わせた。確かにお腹が空いている。
季節は春から初夏に変わり、一か月以上涼子と会えない日が続いた。
なぜなら夏に向けての作物の手入れが毎日のようにあったからだ。若い
僕は戦力として駆り出され、重宝された。もちろん当事者である僕は疲
労困憊であったが。
一か月という期間は思ったよりも長い。というのも王国には月日とい
う概念がなく、誰も時間を計っていないのだ。僕自身が日を数えればい
い話だが、とても忙しくて無理だった。終わりが見えなくて非常に長い
一か月だった。
今日は涼子と久しぶりに会える。
もう涼子の家が見えていた。水に変わりかけの雪が一面を覆っていて、
やはり夏が近いのだと思う。
僕はまだ田植えの感覚が残る手でドアをノックした。
「夏ね、望くん」
ドア越しからでも来訪者が誰かかは分かったらしい。
「久しぶり」
暖炉からは火と薪が消え、綺麗に掃除されて炭もない。冬の名残がま
ったくなかった。まだ三回しか来ていないのに、そう思うのだ。
それを言うと「三度も来れば常連よ」とさらりと流すように返された。
これでこそ涼子だ。
「そうだね。ところでさ、この一か月間どうだった?」
「私のとこは家畜の世話よ。豚は出産。乳離れまだしてないのよ、あの
子たち。疲労したわ。家畜さま家畜さまーってね」
「汚れなかった?」
「汚れは気にならない。でも何考えてるかわかんなかったわ、特に子供
を産んだお母さん豚なんか」
彼女にとって親とは意味不明の生物なのだ。
「それが僕たちの胃に入ってくるわけだ」
「おめでたいことね。食べられるためだけに生まれてきたんだから、本
望でしょうよ」
「少なくとも彼らの目的はそれだね。明確にある」
「やっぱり望くん、そういうのね」
声を立てて笑った。
「そう変な顔しないで。一か月の間ずっと、望くんならどう言うかなあ
ってある意味楽しんでたの。豚のくだりは考えてたのよ」
「そっか。でも涼子さんが言いそうなことだね」
「他にもあるのよ。一緒に家畜の世話してる人がね、牛やら鶏やらに名
前を付けるの。望くんなら何て思うのかしら?」
「家畜が友達みたいだね」
僕は言った。
窓からの昼の日差しが机の上に置かれた二人の手を健康的に照らして
いる。
「あら。『名前があってもなくても同じじゃないか。どうせ記号なんだ
し』って言うと思ってた。私想像力が足りなかったわね。こりゃ失敬、
失敬」 明らかに涼子のペースだ。しかもノッてきている。
「望くんとこはどんな感じだったの?」
一つ、面白そうな話があるのを思い出した。僕は期待させるように体
を後ろに引く。
「友里さんが不思議なことを見せてくれたんだ。あの人ね、動物と喋れ
るんだよ」
「まさかぁ……と思いそうだけど、とてもあの人らしいわね」
「マインドールで話すんだよ。あのときは猫だった。にゃあと鳴くと、
友里さんは短く旋律で返すんだ。すると猫はその旋律に似た鳴き声をす
る。真似だね、つまりコミュニケーションが成り立っているんだ」
あのときの誠人は自然と一体化しているようで、肌が不思議な質感を
帯びていた。マインドールで動物と会話できるなんて、と思って、猫は
なんといっているのか訊いた。どうやら言葉を覚えたての幼児のように
意味不明なことを言っていたらしい。それでも辛抱強く誠人は付き合っ
ていた。
僕たちは近状報告を終えると、お互いの手の甲を眺めた。脱力したみ
たいに、自分と涼子の緩やかな呼吸が聞こえる。どこまでも続く平坦な
田舎道のように、素朴だった。
その中でなんとなく口にする。
「浜辺に行かない?」
雪がとけていた。砂が見えている。波が砂をもてあそぶみたいに、砂
浜に波のあとをつけている。あの壮大なモーゼの雪壁も消えていた。太
陽の光が海を青くさせて、砂浜の色を見せている。これも本来も姿なの
だろう。
すっと波風が服を通り抜けた。
もうあの地平線も冷たさを極めていなくて、温かい南国のような浮遊
感を醸し出していた。
涼子もそう見えているのだろうか。
砂に染み入るような波。僕はそれを聞いてからこの場所について思っ
たことを口にした。喋っていると舌をも風が撫でていく気がする。
「南は王国の入り口。ここは一番北だけど出口じゃないんだ。王国が世
界の終着点だとすると一番最後だ。地平線が見えたとしても、あそこか
らは誰もやってはこれない」
涼子は波風に吹かれながら耳に入れてくれている。
しばらく同じ調子で水面を見ていた。冬のように鏡みたいじゃなかっ
たけれど、風が吹くたびにゆらぐ二人の姿がそこにある。
涼子が体ごと僕を向いたのが分かった。
「面白い」
声が耳元で聞こえる。僕は水面の彼女に向かって答えた。
「海が?」
「ううん、あなたの話が」
そう言って、涼子は僕の前に立つ。本物の僕が映るように。
「ねえ、今なら私の夢をはなしてもいいと思ってるんだけど」
風が涼子の額をあらわにする。
「秘密が今解かれるんだね」
彼女は口だけを動かして、やはりさらっと言う。
「私の夢は、世界を破壊して終わりにすることよ」
もう一度頭で繰り返す。しっかりしているとはいえ、非力な少女が世
界を火の海にする。文明を雪のように粉々に破壊する。どういうことだ
ろう。
だから僕は喉の奥で小さく「え」と鳴らすしかなかった。
それは素晴らしい夢なのだろうか。判断できない。夢があることは素
敵だけど、理解しがたかった。
「……行動力のある夢だね。でも、どうして?」
「ここかな王国の理念知ってるでしょ」
間髪を入れずに返答される。
つまり彼女は王国の思想の一部を変え、自分でやってしまおうという
わけか。
「詳しく教えてくれないかな。この王国に住んでるだけじゃいけないの? ここにはノータリンはいないでしょ?」
「それでも俗世間は存在し続けて、私のような思いの人が生まれてくる。
逃げ場があるって知ってたら救われるけど、そうじゃなかったら絶望し
かないじゃない。私、その人たちのために終わらせるの。意味のない世
界はこれ以上存続していく価値もないでしょう」
僕は聞いたことを素早く頭の中でリピートし、理解しようとつとめる。
「私から見ればこの王国なんて馬鹿の極みよ。特にチャール・ウィット
ーなんかね。どう見てもここ数百年の間に滅ぶはずないのに。もし文明
が崩壊したとしてもね、どこかで生き残った人間がまた文明を作るわ。
太陽が膨張して地球を呑みこんでしまうときが来るまで、チャールの夢
は叶わないのよ。それまで何十億年かしらね。阿呆よ。あいつの考え大
嫌い」
彼女の言うことが正しいか否か、やはり僕には判断しかねた。目が泳
いでしまう。
「ね、望くんはどう思う?」
「え?」
あからさまに僕はうろたえていた。そう、うろたえているのだ。
「王国のこと」
「僕はただ死ぬまで生きるだけだから、あんまり関係がないと思ってる」
そっか、と涼子は言い、顔を近づけた。あまりにも近すぎやしないか。
そんな僕を気にかけずに涼子はひとり唇を動かす。
「望くん、一緒にやらない? あなた、私と同じなんでしょ。私の夢気
に入ってくれたでしょ」 僕は彼女の目を見た。夢に憑りつかれてイっている。そう、イってい
るのだ。
ゆっくりと後ずさり、僕はそれにも気付かずに何かを凝視する涼子を
醒めた気分で見た。どう見ても平和的じゃない。
涼子は僕が望んだような、同じ心をのんびりと分かち合えるような少
女ではなかった。
おかしさをさらけ出した僕と同い年の人間は、片腕を伸ばす。自分の
肩が掴まれる前に、彼女を突き放した。浅い水に転ぶ。水しぶきがかろ
うじて僕のくるぶしにかかる。少女は茫然と黒髪を濡らしている。
「ごめん、全然違う。もう君とは合わない。さようなら」
布団にくるまりながら僕は不安に耐えていた。
一応夕食は誠人と顔を合わせて取ったが、その間中ずっと「涼子と何
かあったのでは」と察せられることに怯えていた。誠人がおせっかいを
焼いて涼子と会う羽目になることだけは嫌だった。
顔のあたりまで布団で隠し、呼吸をするたびに熱がこもる布団の中で
僕は縮こまっている。ここがかろうじて自分の居場所のように感じた。
自分が、自分を慰めている。
本当は誰かに聞いてもらいたい。一つの居場所をなくした、と。すぐ
近くにいる誠人に話してしまえば楽になるけれど、またもう一つの居場
所をなくすかもしれない。僕はそれが死ぬほど怖い。
だから僕は自分自身でこの気持ちにケリをつける必要がある。何が居
場所を崩壊さたのか知らなきゃいけない。
そんなこと分かり切っている。涼子と僕の違いは「怒り」、たったこ
のひとつだ。
ならば――自分と瓜二つな人間でないと、安心できる居場所を手にす
ることは不可能なのか。永遠に続くような場所は得られないのか。 そんな人間、いるはずもない。
しかし僕の居場所は今のところは誠人のもとにある。
僕は強く布団に額を押し付けた。でも誠人と僕は違いがありすぎる。
いつか僕は誠人のことを憎たらしく、嫌いになってしまうかもしれない。
涼子と同じように。あるいはその逆もあり得る。
不安が石ころのように重量感を帯び、胸を掠めていった。胸の内に傷
跡を残していきそうなくらいに。
嫌だ。恐怖だ。
今日は祭りの日だ。人がたくさん集まってやけに明るいあの祭りだ。
僕はもう一度布団のあたたかさに無心になりたかったが、隣でまだ眠
る誠人を見てやめた。祭りに行かなければならない。こんな日に暗い顔
をしていると誠人は昨日のことに気付くかもしれない。
「朝ですよ」
声音がこわばっていた。
しかし誠人は目を覚まさなかった。いつもは早起きなのにどうしてだ
ろう。
無に浸るような誠人の顔。僕は誰の目も気にしなくていい状況の中で
額に触れた。
たった一本、触れた人差し指の先があつい。現実的にあつい。誠人は
熱を出しているのだ、と直感的に分かった。そしてほんの微かに期待が
くすぶった。祭りに行かなくて済む。
なぜか、僕は驚かない。どこか、ぽっかりと穴が開いているのだ。
誠人が咳をした。起きた。とっさに僕の腕は掴まれた。きっと咳のせ
いだ。
「熱があるようです。大丈夫ですか」
うまく開くことのできない目が、僕をぼんやり見ていた。
「ひどい風邪だ。こんな日にくるなんて」
喉を震わせただけで咳が出てくるのだろう。
ただ一つ、あまり喋らないほうがいいと口元で人差し指を立てて見せ
た。
「僕、友里さんの看病しときますね。祭りにはいきません。眠って大丈
夫です」
しかし腕にはまだ、彼の熱っぽい手があり続けた。
指一本ずつ剥がそうとした。
「望くんは行っておいで。僕はひとりで大丈夫」
行く気なんてこれっぽっちもなく、それでも粘ってくる彼に内心、肌
がざわつこうとしていた。
「そんなに熱が出て大丈夫なわけない。僕がついてなきゃだめなんだ」
不意に強く出てしまった僕に、彼は目をぱっちりと開いた。そして、
僕を無理に安心させるように言う。
「いいかい望くん、僕は大人だ。経験でどうすれば風邪が治るのかを知
ってる。だからね、僕ひとりで大丈夫なんだ。ひとりだけで」
あ、と反論する暇もなく誠人は僕を置いて寝てしまった。腕につかま
っていた手が力なく、そのままだらりと床に落ちる。
このまま、なおも家に居続けたら彼はきっと不審に思うだろう。さっ
きの変な僕による言葉も合わさって、僕の周りの人に、最悪の場合涼子
のところへ向かうかもしれない。
戸口を見た。隙間からいやに蒼い朝の空が見えている。
ひとり、心細く丘を登った。僕は怯えているようでもあったから、そ
んなふうにしていると余計に場違いなのではないかと感じる。チャール
の家の周りに集まる人々にとって今日は祭りなのだ。笑顔を浮かべ、み
んなと空気を共有しなければいけない。
夜までどう時間を潰そうか。すごく悩みどころだった。人の輪の中に
入り、にこにこしている自分を想像すると曇ってくる。だったらひとり
で、屋台で食べて誰かが芸をしているのを見るのがいいだろう。
南のほうの丘には何も準備されていないけれど、北側には人垣の上に
屋台の羽根が見えている。まず、僕は人々を突破しなければいけない。
どんな顔をすればいいだろうか。無表情はまずい。いい意味でも悪い意
味でも、今は人の心に残りたい気分じゃないのだ。
本当に当たり障りのない、教室の片隅に座るように希薄に笑んでみた。
大人がたくさんいる。声も存在感も太く見える人たちがひしめき合う
から、密度が濃い。 誰かにぶつかった。びくっとする度合がいつもよ
り強く、見上げられなかった。しかし上から柔らかくて深い声がした。
僕はそんな人にも、誰一人として関わることなく進んだ。声を出せば、
見れば、自分の中から大切なものがあふれ出てしまいそうな気がしたか
らだ。
微風が撫でた。見上げると、もう人垣を突破していた。だから風が吹
いているのだ。溜息を盛大に出すために肩をいからせ、思い切り降ろし
た。
「やっぱり、無理にでも家にいた方がよかったのかな」
祭りのざわめき。
「あら? 誠人と一緒じゃないの?」
びっくりした。後ろにはシェマが立っていた。
なんといえばいいのだろう。
いつもの親しげな雰囲気の彼女は、僕の言葉を待っていた。
「熱を出したんです。急に」
短く終えた。
「急に? それは大変だね」
老若男女の混然とする楽し気な声が僕とシェマの間を駆け抜けていっ
た。その次にわかるかわからないくらいかの微妙な風が残る。シェマは
数秒か立ち止まり、何の触れもなく後ろへ帰っていった。なぜそうした
のかは分からなかったけれど、きっと挨拶程度だったのだと思うことに
した。
彼女を目で追っていると、どうやら婦人と喋っているようだった。二
人は僕を向く。シェマが笑った。すると婦人がこちらへきた。
まさか、僕が一人だから誰かを使わしたという訳だろうか。僕はシェ
マに読まれたのかもしれない。
「こ、こんにちは」
細ぶちの眼鏡をかけ、黒髪はカールし、盛り上がった頬をしている人
だった。
「若いのねえ。あなた、ここにきて初めての祭りでしょ?」
どこからどうみても、この人はただ尋ねているだけだ。だから僕は素
直に答えた。
「私もね、実は初めてなの。長く住んでるように見えるでしょ? でも
違ってね、つい最近きたばかり。あなたと同じよ。ここはいい場所ね。
空気もきれいだし、自由だし」
「ええ」
「今日は祭りね。私思うんだけど、みんなちょっとは人が苦手なんじゃ
ないかって気がするの。ここに来る人なんかとくに」
婦人のその姿からは想像できなかったけれど、それはこの国において
当たり前だ。
「なんだかね、あの人たちとは仲良くできそうな気がするの」
不思議な余韻を残して、婦人の声は丘に溶けていった。それ以上に何
も言わないけれど、まるで親子のようにしていた。
「あなたはどうして王国に来たんですか?」
祭りの日にするような質問じゃないと思う。でも僕はごく自然に訊い
た。
「みんなとうまくいかなくなったの。ご近所さんとも旦那とも、子供と
も」
「お子さんがいるんですか」
驚いて、同時に納得した。
「びっくりした?」
「ちょっとだけ」
婦人は遠い目なんかせずに、間近に僕を見て微笑んだ。
「これでいいのよ、これで」
僕はまた納得した。なぜなら心の底から肯定しているような慈愛に満
ちた声だったから、僕も「彼女はそれでよかったのだ」と思える。
しばらくしてから婦人は懐から見覚えのある形のものを取り出した。
「知ってた? 今日の祭りではね、これができる人たちみんなで演奏す
るのよ。私、儀式とかよくわからないけど楽しそうだから参加すること
にしてるの。来年の豊作を祈る儀式ってことみたい。古き良き中世ヨー
ロッパみたいで面白そうでしょ」
もう僕はすっとした心になっていた。
「へえ。でも参加するにはマインドール持ってこなきゃいけないですね」
婦人は懐に直した。
「儀式用のやつがまたあるんだって。みんなでその一つの特製マインド
ールを演奏するみたいなの。どんな感じなのかすごく気になるわ」
「みんなで一つを演奏する。きっとどんな感じになるのかも予測できな
いですね」
それから夕方までの間は時間があって婦人も他の人に用があったみた
いなので、僕はひとりでぶらぶらしようと思ったけれど、何人かの人と
談笑していた。一人目は若い女の人で、トウモロコシを歯に詰まらせて
黄色くなっていた人だった。僕はそれを見ながら、芸人のように痒い所
に手が届くような表情をつくる人だと思った。もちろん笑えた。二人目
は吟遊詩人みたいな髪がぼさぼさの男の人で、会話していると話題がど
んどん移り変わっていって、しまいには言葉遊びのようになっていった。
そんな感じで夕方まで過ごすと、僕は南に準備された場所へ行った。
たくさんの人々が沈みかける太陽へ正座している。みんな昼間のそれは
消し、深淵な雰囲気を作り上げている。まさに儀式だ。そして人々の一
番前には黒いものが君臨するように置かれているのに気付く。長細いク
リスタルのようなもの。たぶんあれが特製マインドールだろう。
その場所にチャールが指揮者のように立ち、太陽を背にした。人々は
一際静かになり、僕もならって瞑想状態に入る。
はじめはさまざまな音が飛び交っていたが、しだいに一つへ終結して
いくようだった。突然として凝縮して、密度が濃くなるみたいに。僕も
この音をだしているし、他の人もこの音をしている。宇宙だ。みんな、
もとは一つであったという宇宙意思だ。僕は何かを超越している。他の
大勢もそうだ。
脳がまるで大きなおもりをつけたみたいに意識の底へ沈んでいく。ず
ううんと。僕は元の世界に戻るのではなく、ずっと深い世界に向かうよ
うに目を開いた。赤く、大きな球が宇宙に浮かんでいる。燃えながら浮
遊している。僕はいつか大気を突き破り、あそこに行くのだと思った。
月が出て、夜は深まり、僕はやはり丘にいた。この場所でこうして月
光浴している。まるで以前から毎日の日課だったように、のびのびと手
慣れた姿でしている。
「望くん」
気付けばシェマが目の前にいた。今日、一言しか喋らなかった。
彼女は隣に座った。彼女も毎日の日課だったような感じで。
「悩みがあるように見えるんだけど」
ストレートにそう言われたけれど、もう隠そうとは思っていない。
「話さなきゃいけませんか?」
「私よりも誠人にきいてもらったほうがいい?」
誰の声も月光よりかは強くなく、ただ耳元を漂うようだった。自分の
声でさえも。月を釘づけになるように眺め、僕は漂う。
「どうして僕に悩みがあるってわかったんですか」
今日の月はすべてを晒している。丸い。クレーターもある。
「直感」
「いつですか」
「あなたが演奏しているとき」
たしか月は太陽の光を反射しているんだっけ。じゃあ月も太陽の一部
か。
「自分ではそんなこと、分からなかったな」
シェマが少し声音を変えた。
「あら。根拠もない私の直感なのに信じるの?」
太陽はなぜあるのだろう。宇宙は。
「でも信じるってことは、あるのよね。そういう悩みが。……望くんさ
えよければ、私に話してくれない? 解決できるかどうか保証はできな
いけど」
たしか宇宙は大きな白い爆発から生まれたんだったっけ。白いのか。
そういえば僕も眠りから覚めるとき瞼の裏が白くそまる。
僕ははっと目覚めるようにシェマを見た。この夜、はじめて彼女の顔
を真正面から見た。
「……なんていうか、孤独を感じているんです。ここに住まわせてもら
っているし、特に不自由もしていないのに」
春の夜の微妙なあたたかさ。
「なんでそんなことを感じるかっていうと、友里さんのせいなんです。
きっかけと言ったほうがいいですね。前にシェマさん、友里さんはなん
でも受け入れるっていってたでしょう?
それが何を意味するのかはよく分かりませんが、とにかく僕は友里さ
んとは真反対です。つまり拒むっていうか――なんでも疑ってしまいま
す。自分も疑うことをしていて、自分は虚しい存在じゃないかって思え
てきたんです。たぶんそれは正解です。今の僕を作っているのは、ただ
の虚しさです」
僕はとても、今からいう最後の言葉に緊張した。これを言えば、本当
に僕と誠人の関係が破綻してしまうのではないかと感じる。
でも振り切った。これは本当に言いたいことだ。僕の悩みだ。
「友里さんはそんなこと一度も感じたことないでしょう。僕とはまるっ
きり違っています。だから、それはズレで、そのズレが友里さんと僕を
引き裂いてしまうかもしれないんです。居場所がなくなることが怖いで
す」
シェマは月を見たけれどしっかりと答えてくれた。
「望くんってきっと鋭くて、探検家なのよ」
「それは、どういう?」
「私はあまり、そういった類のことを考えていないの。この場所にきて
から。もうこの王国に来てしまえば脅威なんてなくなるから。そして私
たちは普通に暮らしていく。でも望くんがおかしいとは思わないよ。き
っと考えなきゃ落ち着かないんでしょ」
「うん」
「だから私は、あなたの考え方を否定するつもりもないし一理あるとも
思ってる。その思いは大切にしておきなさい」
言い終えると、彼女はとても大人っぽく僕を見据えた。
「ただ、あなたが居場所をほしいと思うのなら、一つだけ方法がある」
僕は月でさえ視界に入りこむのを許さずに、シェマを見る。
「たった一つだけの簡単な方法よ。受け入れるとはどういうことか考え
てみて。そして自分に取り入れるの」
今はそれがどういう意味かは考えないことにした。その代り、彼女が
言った言葉の一言一句を間違えることなく頭に入れる。
「ありがとうシェマさん」
僕は言った。
「それはよかった」
「あ、僕が話したことは絶対に秘密にしてくださいね」
シェマは悪戯っぽく笑った。信頼できる悪戯笑い。本当にそう思える。
夜の中、僕たちが住む家だけが灯りがついていない。窓枠は暗闇に埋
もれている。それと同化する戸を開けると、中はさらに凝縮されている
ように思えた。だから僕はしばらくその場に立って目を慣らす。
しだいに床に敷かれている布団には誠人が寝ていて、その隣には水差
しがあることが分かってきた。
「ただいま」
言ってみたけれどやはり返事はない。
僕が祭りに行っている最中、誠人は大丈夫だっただろうか。布団の中
で、窓の外がひとりでに暗くなり、咳こみ、苦しくなかっただろうか。
もちろん大丈夫だったに違いないのだろうけれど、独りでするには体が
疲労したと思う。自分で水差しから飲むのでさえ。
傍によって頭を撫でた。やはり熱っぽい。水差しを持ち上げてみると
重い。
暗いから誠人が目を開けたのかは分からなかったけれど、呼吸の調子
が少し変わった。短くなった。僕は、僕たちは何もいわずに誠人の背に
手をいれ、上体を起こさせる。そして水差しを口までもっていき、ほん
の少しだけ傾けた。喉がずっとそれを求めていたみたいに、ごくごくと
鳴った。
誠人の意識はきっと目覚めていないのだろう。無意識に水分を欲して、
僕に反応しただけ。今いるのは誠人であって誠人でないのだ。あの夜の
不思議な目をした誠人はその奥で眠りについている。
僕は彼を支えたまま止まった。
深い静けさに、僕は幽体離脱でもするみたいな感じを覚える。ふと頭
に、現在の二人の姿があるものに似ていると気付く。子守だ。僕が誠人
の子守をしている。
しかし、と僕は思った。どちらが子守をされているのか分からない。
誠人は僕を受け入れていて、それは間違いないからだ。
それでも、決して僕は母親なんかじゃないけれど、誠人が眠れるよう
に見守っていることにするはずだ。
胸の奥に小さな熱が小雨のように溜まる。
そして極力小さな声で尋ねた。心の中で呟くように、小さくだ。起こ
してはいけない。
「誠人さん、受け入れるってなんですか」
答えない。 受け入れるとは文字通りの意味だろうか? 僕はあの日――外の世界で暮らした最後の夜――を思い返す。誠人を
幻覚だと思ったり厭世的なことを言ったりしたのに、この体を抱きしめ
てくれた。それでも背中に手を回すのを誠人は選んだ。いいや選んだん
じゃない。それが誠人にとっての普通だったんだろう。
手を回す。
誠人の状態を起こしたままにする指先をわずかにずらして、水差しを
置き、空いた片方の手で誠人を僕のほうへ引き寄せた。重みが伝わって
くる。彼本来の質量。母親から生まれ、僕と同じくらいの時期にうんと
成長し、大人になった。
僕は、それを慎重に観察するようにして、ずっと触れている。
三日間看病すれば調子はすっかりよくなった。てきぱきご飯を作れる範
囲で作ったり、身の回りの世話をしていたから割と充実していたし、な
により僕の中で大きく変化したことがある。
毎日のように感じていた虚無感を追及しなくても気にならないのだ。
心を圧迫していたあれは、今すごく緩んでいる。
その証拠に目の前の景色の感じ方が新鮮なことに表れている。山肌に
咲く桜。崖は大地の色をさらけ出している。巨大で、特に僕をどうこう
するとかの意味合いはないのだろうけど、「存在しているだけ」という
枠に収まりきらないもののようだ。限りなく的確に言おうとすると、僕
を含めた人間たちが想像もできないところに答えがあるのだという感じ
だろう。壮大だ。偉大な哲学者でもない僕が余すことなく語り切れるも
のではない。そして、それゆえなのか追い求めるのも考えようとする気
もなかった。 また誠人の持つ考え、ポリシーも今のところ直感的には分かる。そし
て、それで構わないのだ。僕が彼を知っているぶんには変わりがない。
誠人は僕を大きく浄化していった。大きく、ほとんど。
「空に軒を並べているようですね」 自然に出てきた言葉。名残だろうか。地がないところに家を立てると
いう例えが言えるということは。
たしかに残っている。けれどこれだけは間違いない。僕はやはり生き
る。世界が虚しいとか神様が素晴らしい意味を持って創っただとか、ど
ちらも知ることはない。なら、どっちが答えでも構わないのである。僕
はやはり生きるのだから。
また、それはほとんどの人が持っている思いかもしれない。
「誠人さん元通りですね」
僕は言った。そして彼を見ると予想に反した表情があった。 硬い。 いや、これも変化の影響かもしれない。この人も世界に数多く存在す
る人のうちのひとりなんだ。そして、だから誠人は僕から離れて見える。
しかしながら誠人は実際に硬い声音をした。
「あそこへいかないと……」
彼は丘だけを見ていた。丘のある方の虚空に釘づけだった。そして糸
にでも引かれるようにまっすぐ歩き始める。なんとなく予測がついた。
だからあえて僕は誠人の少し前を歩くことにした。
チャール・ウィットー。一国の王という面影は潜まり、前のめりにな
って誠人に言った。
「返事はどうだね」
誠人は何も答えなかった。いや、意識的に答えないようにしていると
いうよりかは、極度の緊張で答えられないように見える。
明らかに二人の間で何かあったのだ、と思うと同時に僕は、チャール
が彼を利用して何かを企んでいると勘付いた。王という名にふさわしく
ないことを。
「今、この場になって決めかねるのも当然だろうな。まあ入りなさい」
それから、まばたきも挟まずに僕を見据えた。
「お前も入りなさい」
ずいぶんと簡潔な一言だ。何も私は悪いことをしていない、だから隠
さない。そう言いたげだ。でも黙ってついていくことにした。まず第一
に誠人の様子が気になったから。
チャールの定位置である書斎はすぐに通り過ぎ去られ、あの煉瓦造り
の空間に通された。チャールは僕たちを座らせると、ひとり入り口に立
ち「答えを少し待つ。決めなさい」と言い放つと姿を消した。あの暗い
通路に戻っていった。
誠人がうつむき、机に落ちた影が揺れる。その表情は変わらない。 たくらみ。僕は椅子に背を預けることなんてせずに、入り口を凝視す
る。誠人は怯えている。迷っている。
「友里さん、何があったんですか」
僕はそっと聞いた。
誠人はただの黒い目を向けた。
「僕はもしかすると大勢の人をころしてしまうかもしれない」
僕は黙った。
黒い瞳もただ強張っているだけだった。
もう一度聞いた。
「何があったんですか」
「大勢の人が死ぬ」
彼は本当にあまりに大きな事に直面している。
「なぜ人々は死ぬんですか。友里さんはチャール王と何をしようとして
いるんですか」
しかし誠人はまたうつむいた。
パチパチ、と燃える。
「僕も死ぬんですか」
「君も死ぬ」 誠人は答えた。
これではいけない。質問の切り口を変えた。
「友里さんはなぜあの夜、僕の家に来たんですか」
しばらくパチパチ、という音に二人は沈む。
「君を殺すために行ったんじゃない」
「殺したくないけれど殺すことになってしまう」
僕はあえて誠人の心を代弁する。 すると彼はぽつりとこう漏らしてくれた。
「他ならぬチャール王の夢なんだ。世界を統一して、平和にする」
「統一?」
「人から心を奪ってしまえば醜いことも全部なくなる。チャール王はそ
う考えてる」
そんなこと、僕は肯定なんてできない。
「それ、おかしいですよ。だいたいどうやってするんですか」
「大きいマインドールだ」
顔をあげる。いくぶんか固いのは解けたものの、迷いと怯えが発露し
ているように見えた。
「祭りの儀式のときにきっと目にしてるだろ。あれから特別な音が発せ
られて、人々の心を破壊していくんだ。遠く遠く、どこまでもいくんだ」
これは荒唐無稽でもなんでもない。本当に起こりうることだ。誠人の
その姿が一番物語っている。
「それと誠人さんには何の関係があるんです」
「僕にしかその音は出せない」
誠人はただそれだけを口にした。
「だから誠人さんはやらなきゃいけない。他ならぬチャール王の夢だか
ら」
誠人は目を細めた。なぜ細めた、と訊きたくなる前にひどく憔悴した
声がした。
「望くんを殺したくない」
その言葉は不意にスイッチが入ったかのように僕を生々しく刺激した。
誠人の強張った眼が奇妙な質感を帯びていく。なんて平べったいのだろ
う。
そして僕は何も考えずに言葉を繰り出した。
「いつもの友里さんと違いすぎます。だいたい、そんな大がかりな機械
は一か月やそこらで作れるものじゃない。僕のところに来る前から計画
していたんでしょう。知っていて、僕を救った。ひどいですよ」
彼は押し黙る代わりにさらに俯いていった。
「チャール王の望みだからですか」
しん、と響きしばらくの間沈黙がある。誠人が答えないのなら僕も答
えない。だからここにある音はパチパチ、という松明だけだ。
けれどもその時、机の下から違和感のある音がした。覗く前にそれは
姿を現す。その正体に驚きもせず、今の僕はただ呆れかえるばかりだっ
た。彼女もまたチャールの娘だ。
「シェマさんも同じ考えなんですか」
彼女も誠人と同じ顔だ。
が、その口からは思いもよらぬ一言を吐き出した。
「こんな王国、やっぱり仮初だったのよ」
一瞬で理解できた。彼女は僕と同じところにいる。
「望くん。あとは私に任せて」
そう言い、シェマは誠人の傍にしゃがみ込んだ。ちょうど誠人はシェ
マに見上げられている形だ。親が子にする、それに似ている。
「全部話は聞いた」
誠人はびくついたように首を大きく傾かせ、シェマと目を合わせる。
「ねえ、あなたたちは自分たちがやられたことの反対をしようとしてる。
そしてとてつもなく大きい規模で。気付いてないはずないよね」
頷いたのか分からないけど、誠人はじっと聞いていた。
「父の計画していることに何の意味があるかしら。哲学的な意義はある
かしら。ないのよ。王国が広まった末に幸せになるのは父だけ。つまり
自己満足」
そして、シェマは哀しい顔を見せた。
「……あなたはきっと後ろめたい気持ちがあるのよね。だけど自分は根
っからのウィットー家の使用人だから、後には引けない」
その表情に呼応するかのように誠人が口を開いた。
「シェマ。僕には、それ以外の生き方がわからない」
僕ははっと「誠人はすべてを受け入れる」の言葉の意味が分かった。
彼は悪い意味でも受け入れてしまっているのだ。長年付き添ってきたチ
ャールなら、それはすごく強いだろう。そして、そんな彼を心からかわ
いそうだと思う。
「これはウィットー家の長女としての命令。もうあなたは父や私、ワー
メヌトに仕える必要はない。もう十分あなたはウィットー家の役に立っ
てくれた。それでいいのよ」
シェマは慈悲深く佇んでいた。
「それに望くんが大切なんでしょう。王国に連れてきたとき、とても嬉
しそうだったじゃない。それに望くんもあなたを大切に感じてるの。…
…あなたが腐れ縁の父を選んでしまったら、この子があまりにもかわい
そうだわ」
誠人の口元が固く結ばれた。彼は少しの間痛みをこらえているような
呼吸をしたけれど、時間をかけて僕に向き直った。まだ戸惑っていたが、
僕にかけられた声は澄んでいた。
「すごく、不憫だ」
後ろで目を瞑り、口元をほころばせたシェマが誠人に訊く。
「結局、父さんに加担するのか、イエスかノーかどっち? 「ノーだ」
その後誠人の表情の戸惑いは薄まっていった。
そして ノー の意味が数秒かけて僕の中に沁みわたる。彼はチャー
ルに従うことを拒むことができた。ふーっと長く溜息をつく。全部シェ
マのおかげだ。三日前に僕を変えたし、今日は誠人をも変えてみせた。
よかった。僕もシェマも誰も死なずに済んだ。
しかし、そこに足音が響いた。何年も人間の皮をかぶり、皺だらけに
なった肌。
実の娘がこの場にいることには興味もなさげで、ただ誠人だけを捉え
た。
「回答はいかがかね」
座ったまま、また、背をむけたまま答える。
「僕は誰の魂も奪いたくない。僕はやらない」
チャールはこのとき初めて、異質な空気に気がついたみたいだ。
「シェマか。お前、余計なことをしたな」
「目を覚まさせただけよ」
ほう、と溜息のような反応をする。それがまた気味が悪い。
通路に向き直り、しわがれた喉で大声を出す。
「ワーメヌト、あいつらを連れてこい」
僕は目を見開き、声も出さずにシェマと誠人の腕を掴んだ。ワーメヌ
トはチャールの計画に賛同している。反対する僕たちは逃げなきゃいけ
ない。出口に立ちふさがるのはただの老人だ。蹴ればすぐに逃げられる。
だが遅かった。僕たちは真横に並んだまま、彼らと対面する結果にな
った。 屈強すぎる。
「あのがきとシェマを捕獲しろ」
手下たちはゆっくり忍び寄り、僕を羽交い絞めにする。逃げられるは
ずがない。たとえ羽交い絞めにされる前に出口へ行けたとしても、彼ら
を前にしては無理だ。
無理やりにシェマの方を向かされる。彼女も僕と同様の姿だ。
チャールは本当に汚く笑っている。誠人はやめろと叫ぶ。
だけど僕たちはこいつらの手からは逃れることなんてできない。そし
て僕たちはダシに使われる運命だ。
チャールが言ったのは予想したとおりの文言だった。
「もうしばらく時間をやろう。お前が最良の決断をしたならば、シェマ
とこの少年の命は救われる」
生死の瀬戸際に立たされている。こんな状況受け入れがたい。僕はつ
い最近、生きようと決めたのに。 誠人がまた迷いに憑りつかれているのが見えた。
強くこう思う。連れていかれる前に、誠人の気持ちをそのままに留め
ておく必要がある。
ひどく受け入れがたいけれど、僕は自分に芯を通した。
僕の心が殺されたとしても大勢の人の命は救われる。誠人に大勢の人
を殺させてはいけない。僕を救うことに惑わされるなんてあってはなら
ないのだ。
浅い呼吸が始まったけれど、なんとか言うしかなかった。
「僕は犠牲になってもいい。本望だよ」
誠人が息を呑む。僕の名前を力なく呼ぶことしかできないみたいだっ
た。彼を留めるにはもうひと押ししなければならないだろう。
「この国にとって最良でない決断をしても、僕は助からないかも、助か
るかもしれません。そんな可能性も頭において、ちゃんと自分の意思で
決めて。それに僕は犠牲でも生贄でも構わないから」
詭弁だった。むろん助かることなんてありえない。
ワーメヌトが強引に背を押し、暗い通路に押し込もうとする。視界か
ら誠人は振り切られて見えなくなる。
「大丈夫ですよ」
最後に一言だけ粘り、ついに僕は闇の中に消えた。
僕は目を閉じたときみたいに、暗いところを歩かないといけない。
手下たちが鉄格子にもたれかかり、警戒していない様子をさらけ出す。
もちろんそれは僕たちが非力だからだ。抵抗する意思さえもてなく、僕
はただ、気まぐれに揺らぐ松明を見ている。
僕は手探りで自分の右指を撫でた。なぜ手探りかというと、松明は牢
の中までをも照らさない。自分で自分の指を見ることさえできないので
ある。
ずっと同じ姿勢だったせいか指先まで痺れていて、自分のものとは思
えなかった。
また、僕は自分よりもずっとつらいだろう彼女に小声で話しかけた。
実の父に殺されるなんて。
「僕たちどうなるんでしょうか」
「望くん、死にたくないでしょう」
彼女は質問に質問で返した。
答えることができないのは、強がりだと分かっている。
シェマは僕の左手を手に取り、小さく呟く。
「すべて私のお父さんのせいね」
僕はこの時間があとどれくらい続くのか、とあの松明へ問いかける。
すると彼女は「誠人の話をしてあげようか」と言った。僕はそのまま
手を握り返した。そして彼女は足音を立てないように僕を牢の隅まで持
っていく。唯一ここならば何を話しても平気だ。それでもシェマは念に
は念を、と僕と密着した。
「誠人は」
絵本を読み聞かせられる子供のように、情景をうまく思い描けるよう
に目を閉じる。
「誠人は自分の親を知らない。どんな顔をしているのか私も知らない。
だけど、日本人の顔をしているのに、乳母車にセイトって名前もあった
のに、彼らは遠く離れたウィットー国に捨てていった。異国の捨て子な
んて普通じゃないから、もう国中で騒ぎになって、父の耳にも入った。
それで誠人は拾われて、うちの使用人として生きることになったの。あ
くまで、使用人として。
私たちにはできない政治の内部の話も、父は誠人にしていた。誠人は
父とウマがあったんだと思う。いえ、本当は父がそうなるように仕向け
ていただけかもしれないけど。でもそれでも私たち兄弟と誠人はうまく
やってた。血なんて関係なかったわね」
僕は続きを待ったけれど、話はおしまいだった。
誠人が孤児だった。しかしその事実は僕を揺るがしたりなんかせずに、
ただほっとさせてくれた。
友里さん。もう僕は大丈夫だ。
僕は理性的に思考し始める。
「シェマさん。あの男の人の名前知っていますか」
「……知ってる。話したこともある」
ならばこの閃きは実行に移せそうだ。すると僕たちは助かる可能性が
ある。
「ちょっと寝ているフリをしていて」
彼女も僕の雰囲気を察したのか、無言で横たわった。
何のためらいもなく僕はわざと悲痛な叫び声を上げる。
「大変だ! シェマさんが、シェマさんが!」 手下が鉄格子ごしに振り返った。その顔に後ろめたさが宿っているこ
とに僕は驚きもせず、演技のままの表情で見つめる。彼もきっと若いう
ちからウィットー家に仕えているのだ。シェマに何の情も感じていない
ことなどあるまい。
くるりと背を向け、彼らがくるまで僕はシェマの名を呼び続けた。そ
れが彼らの心に響くように意識して。
賭けだった。シェマが父に裏切られた悲痛さ、王国の腐敗さを僕は叫
んで代弁する。そうすれば自ずとそれは悲しい色を帯び始める。
鉄格子が開かれ、複数の手下の足音が迫る。乱れた足音だった。
松明に照らされたシェマは腹部をさすり、「苦しい」と声を絞り出し
た。
「シェマさん! なんてこった、これは」
手下たちはシェマのもとにしゃがみ込もうとした。
すかさず僕は気の利いた役割を担う。
「松明を持ちますから、彼女をしっかり見てあげてください」
僕が人質ということも忘れ、手下は焦ったように頷き、その手から松
明を放す。無防備に背を向ける。
松明の火から顔を遠ざけ、燃えるそれを冷たく眺めた。 そして振り上げ、空を切るようにひとりでに振り下ろす。予想通りに
命中して、火が燃え移って彼はよくわからない声を上げる。それもそう
だ、予測外のことなのだから。でもこれはあなたたちが招いた結果だ。
しかしもう一人は状況を察知した。でもその前に僕とシェマは彼から
離れ、出口を通り抜けるところだった。牢を閉めたならこちらのものだ。
そのとき力強く腕が掴まれる。僕も状況を察知するのには長けている。
捕まった。松明は落ち、視界がふいに暗くなった。
そして荒い息を聞く。
シェマのシルエットが鉄格子の先で大げさな動きをするのが見えた。
「演技なの見抜けなかったなんて馬鹿ね」
挑発してくれているのだ。
でももう一人の手下は、もう騙されてくれなかった。
「やめて!」
シェマが細く鋭く叫ぶ。
僕はやはり非力だった。地に押し倒された。どれだけの意志を持とう
とも暴力には抗えない。この世界で最も強いのは暴力だという確信が僕
を貫いた。そして首を絞められる。
僕はこの男の名前を知らない。やめろ、と名指しして呼びかけること
もできない。もう彼は動物だった。名前も持たない動物だった。
血は滞り、頭は朦朧とし、彼の鼻息はエスカレートし、シェマは震え
る。
舞台の幕が閉まっていくみたいに、瞼が閉じようとしていた。
これは自分が招いた結末か。どの道自分には死ぬ道しか残されていな
かった。
いつから死ぬ道しか残されていなかったのだろう。もちろん今さっき
だ。でもそれ以前からかもしれない。生まれたときからかも。僕は生き
てる以上いつか死ぬ運命だった。それだけだ。
じきに瞼のわずかな隙間さえぴちりと閉じられ、何も見えなくなる。
だからもう、僕は仕方がないと思うしかないのだ。
そして、そのタイミングで誠人の声が聞こえた。もちろん幻聴。
――やめろ、やめろ!
ごめんなさい、友里誠人さん。死ぬのだけは僕の意志でどうすること
もできないんだ。そう叫ばれても僕の頭は痺れているし終わりは終わり
だ。納得してその叫び声をやめてください。シェマさんもやめてくださ
い。
体が眠るときのようにふっと軽くなる。なるほどと思った。眠るのと
同じだ。
おやすみなさい。繰り返す。おやすみなさい。
誠人が男に馬乗りになって何発も拳を繰り出している。僕の知ってい
る誠人さんじゃない。目はかっと見開かれ、歯は食いしばられ、鬼みた
いだ。やめてください。もう僕は死んだんです。彼を殴っても僕は戻る
ことはできません。傍らにシェマが立ち、呆然とそれを目にしているの
が見えた。男の意識はどう見ても失われている。血だけが流される。
これは幽体離脱か。
「誠人さん」
試しに呼びかけてみる。拳は止まり、表情が凍り付く。僕も同じだっ
た。牢獄に僕自身の声が生々しく響いていて、声を出すために震わせた
喉がすごく痛んだから。
まだ生きている。
視界が映画のスクリーンみたいに広くて、その中でシェマと誠人が僕
を見ている。焦点がしだいに正しく戻ろうとする。
「生きてる」
それはすなわち、命があり血が通っているということだ。次に「よか
った」と呟いた。そしてまた、喉の痛みがじんじんとしてくる。生きて
いる。
「望くん」
誠人が僕の肩を、あの夜よりもずっと強く抱きしめてくれた。
誠人の腕に頬を載せて「ありがとう」と感謝する。
きっと彼はシェマの叫び声を聞いて駆けて来てくれたのだろう。チャ
ールをも振り切って。ウィットー家の使用人でない本来の誠人に会えて、
本当によかった。
もう僕たちは自由だ。
数分間だけ僕はそれに身をゆだねて、さっと気を取り直す。ここから
は何一つ間違えてはならない。
「早くこの家から出なければいけません」
シェマも誠人も、すぐに気を切り替えてくれた。三人でこの王国を必
ず脱出する。
「あの人たちのことだから、私たちが逃げたとしたら大がかりな捜索を
行うわね。住民全員を使ってでもするでしょうよ。なにしろ秘密を知っ
てんだから。誠人、山を下るにはどれくらいかかる?」
「半日くらいだね」
「集団を扇動して行動させるには十分すぎる時間ね。ならそれまで逆に、
王国の中に隠れていましょう。裏をかくのよ、裏を」
どうやらこの家には抜け道があるらしい。かつて彼らに起こった災難
から、スムーズに脱出できるように設計されたものだ。もちろんシェマ
や誠人はその存在を知っているから、ワーメヌトたちはその抜け道を使
うだなんて考えないだろう、という理屈だ。
「松明を持って」
僕は言われた通りに壁に立てかけられたそれを持った。ふと横たわる
二つの体に気が付いたが、引火した方の手下は衣服が焦げているだけで、
体は無事だった。 それだけ見ると僕たちは階段を上った。
出たところはチャールの書斎。この書斎はこじんまりとしていながら、
いたるところに通じているように思える。隠れた城だ。見てのとおり、
床には四角の穴が開かれている。
向こうにある暗い通路から這うような足音が聞こえてくる。僕たちは
固唾を飲み、押し黙る。
「あのガキが全部悪い。人質なんて生ぬるいこといわずに、殺せばよか
った。誠人は動揺してもう何も考えられなくなるはずだ、そこに漬け込
む方がよかった」
傲慢な男の掠れた声だった。
「私はなんとしてでも世界から人間を滅ぼしたい」
その父の声。
シェマはその通路の暗闇を哀れんでから、叫ぶ。
「ワーメヌトの部屋よ! あれを破壊したらあいつらは永遠に終わりよ」
暗闇の向こうから鬼気迫る空気が吐き出されてくるようだった。
しかし僕たちは破壊などせずに外へ出る。彼らをおびき寄せてその隙
に移動すればいい。
足音が大きくなり、くぐもり、消えていくまで乳白色の煉瓦にもたれ
る。今はちょうど真っ青な空が眩しいくらいの頃だった。
そして家に戻り、通路を早足で通り抜け、煉瓦部屋に行く。三脚ほど
椅子が散らばっていた。蝋燭はいくつか落ちて消えている。
「こっち」
その入り口は部屋の片隅にあった。本当に、知っている者でなければ
気付かない。床をさすり、現れた枠の溝に指を入れ、器用に持ち上げる。
そのとき床には奇妙な穴ができていた。
「松明持ったまま梯子降りれる?」
シェマはもうその闇の中に体を半分入れていた。
はい、と答えてシェマの後に続く。誠人はしばらくしてから降りるよ
うだ。火が引火しないように、そして僕自身が落ちていかないように、
慎重にしなければいけない。
梯子は工事現場でよく見かけるような無機質な鉄製。長いこと使われ
ていないような、かび臭い匂い。
歩くのとはわけが違う。二十段ほど降りたくらいで、すごく下ったよ
うに思えた。しかし、その時に頭上から漏れてくる部屋の光が消えたの
で、まだ誠人が梯子を降り始めたばかりだ。
片手を見ると灯りに照らされた梯子の錆も分かるのだが、下は真っ暗
闇だ。僕は呼びかける。声が下へ落ちていく。
「あとどれくらいですか」
「私も分からないわ。でももうすぐな気がする」
声だけがのぼってくる。
僕は一段一段降りるごとに、この世のどこかから遠ざかっていくよう
な気分でいた。どれくら降りたか具体的な数字は分からないが、もう別
の惑星に来たみたいな気分になっている。
そのとき、シェマが感嘆した。
「足がついたわ!」
僕もすぐに地についた。足がついているだけで安心だ。松明を拠り所
にして僕たちは誠人を待った。彼も下り終え、僕たち三人は並び、風も
吹かない生ぬるい空気に身を晒した。松明の炎は揺れていた。
「ここからどうするんです?」
暗闇が広がっている。
「設計では確かこの辺に……」
シェマがしゃがみ込んだあたりを照らし、 東西南北 と四方向に書
かれているのを示す。
「外に出られるのは南だけだ」
それは二人も既知だろう。南は今、僕のつま先の方角にある。でもど
れだけ先にあるのか分からないし、危険な罠が設置されている可能性だ
っておおいにある。
「行こう」
誠人が言った。
「待って。私が先に行って、どうなってるか見てくる」
「いや、そんなことするとはぐれる」
「ねえ、松明貸して」
シェマが、僕に詰め寄った。
「一緒に行ったほうがいいですよ。この先罠があるかもしれないんだし」
「だから言ってるのよ。望くんだけは絶対に元の世界に返さなきゃいけ
ないのよ」
誠人が賛同した。
「シェマ。じゃあ僕も一緒に行く。望くんはここにいて、僕たちを待っ
てて」
しかしシェマはじっと誠人を直視し、髪をかき上げた。
「やっぱりやめた。最後ぐらい三人で行こう」
最後。王国と別れるという意味なのか、罠に掛かって最期、どちらか
分かりかねた。けれども王国から脱出しなければならない。僕は誠人の
腕をつかんだ。無意識だった。そしてシェマが一歩踏み出した。僕は誠
人より少し遅く歩いた。
罠などなかった。ひたすらに長いことを無視したら無害な闇だ。後ろ
から追手が来ることもない。すなわちワーメヌトたちは僕たちの思惑通
りに動いているということだ。
そして幸運なことに梯子へたどり着いた。これを登れば、晴れて僕た
ちは自由の身だ。
「王国を出たら、どこへ行くの?」
シェマが尋ねる。
「どこにだって行けます」
が、僕の予想していた仕草とは違う、目尻をかくようなことを彼女は
した。
「さっき言ったでしょ。あなただけは戻らなくちゃいけない。それがど
こか、分かってる?」「まさか。あの家ですか。両親がいる、あの家?」
「そうよ。あなたは、現実で生きるべきなの。もちろん私たちもそうす
るつもり。また質問だけど、私たちと望くんが違うところ分かる?」
首を振る。
「あなたは教育を受けられる。そして友達も作れるのよ。まだまだあな
たには、猶予も時間も環境もある」
遠い話のようでうまく想像することができない。僕に、友達。そんな
ものなくても、誠人さんとシェマさんがいれば幸せなのに。
その趣旨を伝えると、彼女は普段通りの冷静で親しい顔で答えた。
「帰るべきだとか、強制はしないわ。もし望くんが一緒に来たいのなら、
それでいい」
誠人に触れた。でも彼は王国から出られるということに、僕を救えた
ということに微笑んでいるだけだった。
そんな訳もあって、僕は心の中で「せめて望くんは来るべきなんだよ
とでも言ってくれればいいのに」と呟いた。実際には言わなかったけど。
すっと肩の荷が降りた。
あの石造りの鳥居に似たのをくぐれば、もうそこは久しぶりの外の世
界だ。
鳥居は数歩走ればつく。でも間にあるわずかな空間でも緊張は解いて
はいけない。
恐らく今は丑の刻か、それくらいの深夜だろう。おかげで家々から灯
りは漏れてこなくて、遠目から見れば僕たちは闇と同化している。
チャンスは今しかない。そして足音も立てずに、僕たちは闇と同化す
ることを徹底する。無音、宇宙、真空。
しゃがむことはせずに、普通に歩く。
言うまでもなく数歩歩けば終わりだったから、今、僕たちは晴れて王
国から解放されたといえる。背にした鳥居、そしてススキの小道。
止まりもしなかった。ただ単純に二人は僕の先を行く。
ススキが風に揺られる。空高く月が浮かぶ。あの日以来だ。また、出
発の日が来た。十五歳の僕は鼓動を早める。
二人は何かを話していた。
「街に住むことはできないね」
「稼いだりなんて大変よ。戸籍もない、だから人間の社会で生きるのは
難しい。だったらはずれの村も駄目ね。変に詮索されたら困る」
「なら、どこか遠いところで暮らそう。できるだけ自然に囲まれたとこ
ろで」
誠人がシェマの方を向き、後ろから彼の生まれ変わったような横顔を
僕は見る。
「木陰で幹にもたれかかってうたた寝ね」
「それで、飽きてきたらまた別の場所に移るんだ。旅みたいに」
彼女もまた父親から解放されたのだ。
「私たち、動物みたいね」
「そうだね」
さらっと言うと、二人は話すのをやめススキを眺めることにした。な
らって僕も見た。普通に土の下から生えているススキだ。なのにどうし
て、二人は眺めているのか。
特別に見えている、か。
たとえば、旅の始まりを祝福するみたいな金色のススキとかに。
首を振り、歩くのに専念しろ、解放されただけで幸せじゃないか、と
自分に言い聞かせた。うだうだしていたら迷子になってしまうぞ。こん
な山の上で。
――満点の星空。そういえば、見える。
星たちは僕が知っているような、空に散った形で存在していなかった。
どちらかというと地上近くに抑え込まれた感じで、みんな仲良く平凡に
存在していた。夜の広大さには勝てないというふうに、地上から見上げ
ているようにも見える。
違う。二か月も見ていなかったから星だと思っただけ。本当は、あれ
の正体はたくさんの家々の、営みの灯りだ。
夜空とあれらを区切るものはあるだろうか、と問う。
数えきれない生きる命の光。 「かつて、あの場所に僕はいた」
現在地点を確認するみたいに僕は言う。確認しなきゃいけなかった。
「今立っている場所は、ここ」
独り言が自分から解離して意思を持ったみたいに頭を揺さぶってきた。
独り言が、お前はどこへ行くべきなのかと囁く。
生命の光。
二人についていくことは、中学校を卒業し、卒業文集を書かないとい
うことだ。
一緒に生きていくのは誠人でなければ駄目だという訳でもない。
生命の光が僕を揺さぶっていた。
友達を作って、特別に意味のないことをし、年を重ねていくことは愚
かなんだろうか。僕が思っていたほど。
もし二人についていくならばそんな可能性に満ちた未知の世界から遠
ざかることになる。
――ああ、そろそろ歩き始めないといけない。もうこんなに誠人たち
と距離が開いているじゃないか。
誠人はシェマとペアになり、僕の向かい側にいる。
僕はあの家に戻ることを決めた。
「この教会の前でお別れだなんて、全部あれからまるっきり別ですね」
もうここで二人と別れることにしている。
誠人は深く穏やかだった。
「教会の前でお別れだなんて、運命みたいだね」
運命か、しっくりくる。
「あの日とは逆だ。君は来た道を引き返している。その終わりは君自身
の家。つまりね、原点に戻るんだ。原点回帰だよ」
「でも友里さんは原点には戻らずに進む。今がその始まりです」
僕と誠人は、お互いの状況を説明するみたいに口にしあっていた。
そしてもう何もいう必要がなかったから口を閉じる。
このまま沈黙が僕らを自然に離していく。
誠人は目を閉じ、僕から別れ、僕もそれに呼応して踵を返す。
目の前には山を下るためのの道。
「行くのね」
背後からシェマの声がした。
わずかに後ろを向く。
「僕は普通の人になることができました。だから、居場所がどうとか、
今は気にならないんですよ」
「そっか」
あくまでそれだけだった。そしてその返事は誠人の意志も代弁してい
るように感じた。君が決めたことだから引き留めはしないよ。
「たった二か月間でしたけど、楽しかったです」
僕は次に「さようなら」と言葉を残した。
夜の山は静かで、鮮やかなものが映ることも、鳥のさえずりが聞こえ
ることもない。さらには生い茂る竹で月が隠れる。ひたすらに静かだ。
「進みだせたの、望くんのおかげ」
「僕が友里さんを進ませた」
そして僕は友里誠人に一礼をした。
「友里さんが僕を原点回帰させた」
僕と誠人、シェマは夜の静けさを愛するように、ゆっくりとそれぞれ
の歩をすすめはじめる。
稀に車が音を鳴らすだけで朝方の町は静かだった。「空軒」という表
札の前に立つと、自分がその姓なのだと再認識する。僕は空軒望だ。
どの家の住人も寝静まっていて、空軒家も例外ではなかった。けれど
も、と僕は思う。一人息子が突然にして蒸発したのだ。ほとんどの時間、
両親は息子で頭を埋め尽くされていたことだろう。失踪したのは事件か、
あるいは本人の意志かと悩んでいたはずだ。後者ならば自分たちに問題
があったと考えたかもしれない。
しかしどんな入り組んだ問題が生じていたとしても、とにかく僕は帰
ってきた。
両親に合わせる顔がないのだけれど、会うのが正当だと思う。
インターホンを押した。家中に僕の帰りを知らせる音が鳴り響き、ド
ア越しから小さく漏れ聞こえる。
お母さん。今、彼女はとても驚いた顔をしている。毎月のようにあて
ていたパーマはとれかけ、以前よりもやつれていた。
「ただいま」 ただ 帰ってきた という意味合いの言葉をかける。
突然のことで母は固まっていた。遅れた反応で、僕の体を確かめるよ
うに触れた。けれどこの体は実際に存在するし、ましてや母の幻覚じゃ
ない。 「どこに行っていたの」
平たい声だ。どこかに消えていたことを責めるわけでもなく、帰って
きたことを喜ぶわけでもない。ただ あなたはどこに行っていたの と
訊いている。でもただ呆然しているだけであることは僕には分かる。
しかし本当のことを話すわけにはいかない。どうせ僕を捜索している
だろう警察やそれに関わる機関に同じことを話すのだから、王国のこと
を話せばややこしいことになる。王国にとって面倒なことが、僕にとっ
て面倒でないにしても。
「違う世界に行ってたんだと思う。もしかすれば神隠しかもしれないし、
現実のどこかを彷徨っていたのかもしれない」
この嘘は、今後警察とかに話すときのベースになる。僕はしっかり自
分の言ったことを記憶した。
「ねえ、望」
沈みかけていた船のように母の黒目は潤んでいた。
「おかえり」
僕の嘘についての返答はなかったけれど、「ただいま」に対する返答
はそれが妥当だと思う。
母は僕に背を向けてから、家に入るように言った。
入ればすぐにある階段、小さい玄関。ここに僕は住んでいたことを思
い出す。静かで親密なにおいのする木目調の床。実感が、少し湧いてく
る。
「ちょっと埃っぽいかしら」
「確かにそんな感じがする」
「くさい?」
母は訊いた。
「掃除してなかったの?」
「ずっとしようと思ってたけど。今日するわね」
母は鼻をすする。
試しに階段の手すりを指で擦ると、塵が凝縮されたのがついた。そこ
だけ塵が削り取られた。
「今何時くらい? 学校はある?」
僕のその発言に、母は一瞬考えてから答えた。
「まだ朝の四時。火曜日」
言ったら、リビングの戸をくぐって台所に消えていった。いや、僕に
はそこへ戻っていくように見えたけれど。
「ご飯ができるまで部屋にいなさい。あと学校に、行きたいなら行ける
から」
「分かった」
僕は自分の部屋に戻るための階段をのぼる。
部屋のドアは開けられていて、窓も同じだった。ベットはというと皺
だらけの布団が、家出したときのままで置かれていた。カーテンが揺れ
ている。
僕は部屋の中を特に意味もなく歩き回った。空気を吸った。こじんま
りとした自室を一通り歩き終えるとゆらりとするカーテンの前に立ち止
まる。
窓を閉めると、外の匂いはそれっきりしなくなった。
久々に学生服を着る。もはや初めて着るような感覚さえある。学生の
象徴である制服と、中学生である自分の立場が一体化していないように
感じられる。
グラウンドを見渡すと、バットを振る人やボールを蹴る人がいた。ど
の人物も見覚えのない他人みたいだった。
脇を歩き校舎にたどり着くと軽く衝撃を受ける。随分と壁が色あせて
いる。たった二か月間で。
そして靴箱の並ぶエリア。足が自然と「二年生」の方角へ向こうとす
るが、もう僕は三年生になっているのだと気付く。四月、新学期だ。
三年生の方角へ行くのは違和感があった。でもこれから慣れなきゃい
けない。
目を凝らす。靴箱に貼られた何十もの名前のシールの中から、自分の
を探す。空軒、と見つける前にある地点へ集中が向いた。宇佐という字
だ。三年一組。
ことさら注意深く、一組の中で自分のを見つけようと躍起になった。
「空軒」
あった。僕は同じ一組にいる。
彼はもう教室にいるだろうか?
僕は靴箱に「ただいま宇佐」と言った。
朝早くから席に着く数人が顔を上げる。彼らは受験生だ。机には問題
集が決まり文句のように置かれている。彼らは問題集を置き去りにして、
僕を見て固まった。
なぜなら数か月間行方不明だった僕がいつも通りに登校してきている
からだ。
女の子と目が合ったけれど何も喋ることができない。彼女の方も同じ
だ。
とりあえず席に着こうと見回す。同じような机が並んでいる。座る人
の特徴が机に表れているわけじゃない。
「僕の席、どこだろう」
彼女に向かって尋ねた。
声と指だけなめらかに動かし「窓側の一番後ろだよ」と教えてくれた。
それから「陽がよく当たる場所」と付け足した。それが何を意味するの
かは分からない。意味などなく、本当にただ付け加えただけかもしれな
い。
ありがとうと礼を言って指定された席に座ると、そこが彼らの顔と黒
板と時計が、全部視界に収る場所だと気付く。
今、僕は微妙な立場に違いがないだろうけど、ただ前を向く。
時計の秒針が優秀な指揮者のようにスナップを効かせて回る。一回一
回、やけにキレがある。十回も三十回も、四十回も同じ調子で動く。
これで何百回くらい動いたのか。三百回かもしれない。とにかく、長
い時間は経っている。それでも七時四十分、始業の時刻までまだまだあ
る。
そして再び数えようとする。
けれど中断された。なぜなら宇佐が登校してきたからだ。二年生のと
きと変わらず明朗快活そうだった。また入室一番に「おはよう」と皆に
言うのも忘ていない。
でもその皆からは返答はなかった。当然、その顔はしかめられる。
「なにそれ」
自分から宇佐に「戻ってきたよ」と挨拶をするべきなのだろうか。口
にしてみれば自然に言えるだろう。さらっと。けれども、その自然さが
宇佐との間に亀裂を生んでしまったならば。ずっと僕を心配していたに
違いないのだから。
目は合った。
幼なじみ。
「望、だよな」
僕は返答する以外になかった。
「正解」
正解。なんとも不自然な言葉を口にした。
宇佐は教室の隅までやってきた。もっと近くにきて僕が空軒望である
と確信するために。眉を一直線にして。
「本当だ、望だ……」
その声音にいくぶんか過去の思い出が浮かび、僕はゆっくりと背筋を
伸ばした。
「和彦くん久しぶり」
彼は確信できたようだ。
「お前は戻ってくると思ってた。よかった」
「戻ってこれてよかったって、僕も思ってる」
目を擦ってから宇佐は言った。
「望は変わった?」
どこに行っていたのか、ギャラリーの彼らが求めるような質問はして
こなかった。
「変わった。何が変わって見えるんだろう?」
「目とか雰囲気とか……いいや、そんなんじゃない。生き生きとしてる
っていうか、でもそれも違う気がする」
今の僕を言い表す、的確な言葉を選んでいた。
「なんていうか、昔に戻った感じがするんだよ」
「昔っていうと、小学生くらい?」
「そうだ、小学生くらいのときだ。なんだか憑き物が落ちたみたい」
その意味はよく理解できた。一番自分が分かっている。
「動物に例えると鳥みたいになった、ってことだよね」
そう僕は自分を称した。
少し間の抜けた声で「え?」と聞き返されたけれど、僕も僕らしさを
出せたし満足だった。
「いきなり自分を動物に例えるだなんて。そういうとこはあんまり変わ
ってないね。ちと突拍子がなくて新鮮なとこ」
笑った。これは再会してから見る、久しぶりの宇佐の表情だ。彼は彼
で宇佐らしい。
「それは嬉しいね」
給食も終え、五時間目も終え、今は最終の六時間目を受けている最中
だ。班ごとに固まって食べる給食中に、質問が飛ぶかと思っていたけれ
ど、みんな普通に振る舞ってくれた。
つまり現段階で、僕は普通の学校生活を送れている。
刺激的なことはなくても、こうして生きられている。人が周りにいる。
「んー、じゃあ空軒くん。 民主化 ってとこ読んでみて」
彼女は新任の教師だろう。ばらつきのない真っ直ぐな黒髪が清楚だ。
スーツもキマっている。
ふと、ひとりの女子生徒が先生を斜めから見ているのに気づいた。理
由は分かる。行方不明だった空軒くんを指名するなんて、常識なさすぎ、
と思っているのだ。
だけど気にすることはなかった。しかし先生の話を聞いていなかった
ので、少しとぼけたことを言ってしまったかもしれない。
「ミニスカですって? ハンストたちもパンストかぶって鼻が研ナオコ
よ」
他の子は控えめに笑ったりして、僕は雰囲気を和ませたらしかった。
もちろん先生の切り返しのほうが面白いけど。
教科書に目を落とすと、黒文字が太陽の光に反射していた。少し動か
して持つ。
厳かな雰囲気の中、行われる憲法公布。一般の人々が思い思いの笑顔
を浮かべている写真が載せられている。民主化というのはつまるところ、
平和の象徴だと感じた。平和はいいことだ。
「じゃあ皆、黒板を見て。今から民主化になってからの出来事を説明す
るから。いろいろ枝分かれしててややこしいけど、大本は同じ。人々が
主になってるってことだから」
チョークをコツコツいわせながら文字を書き始めた。生徒はノートを
とる。
僕も同じく、シャーペンを動かす。
黒板に書かれたタイトルは「民主化」だった。教科書の内容を圧縮し
て簡潔に示すのは大事なことなのだろう。ベルリンと日本という遠く離
れた単語を線で結び関連づけさせる。「すべてのもの事は繋がっている」
と僕は理解する。
ひとしきり書くべきことを終えた先生は、また解説を始めた。
「結局は、って言い方ふさわしくないけれど、ベルリンも朝鮮も落ち着
いたの。それからいろんな国が独立していった。そして多くの国ではね、
戦争がまた起きないように気を付けてる。日本もその一つよ。内戦が起
こってるとこなんて、どこにもない」
どこにもない。けれど深く考えないことにした。平和だ。
「でも――たとえ戦争がまた起きたとしても、平和はくる。でも平和が
きても、いずれ大きさに違いはあれど、戦いはおきる。血が流されない
戦いかもしれない。つまり平和っていうのは終わりでも、始まりでもあ
るの」
それを言った先生の顔は私的だった。しかし、すぐに公的な硬い顔に
戻る。
「めちゃくちゃなこと言っちゃったわね。ま、忘れて。民主化のところ
を覚えて受験に合格してくれればそれでいいから」
生徒たちは彼女の忘れて、という言葉で本当に忘れたように見えた。
教科書の内容にかじりつく。何しろ受験生だ。
僕も――と、まだ志望校も決めていないことを気にせず、シャーペン
でこめかみを叩きはじめた。
帰宅してすぐ、玄関に立つ母と僕は対面することになる。パーマはか
かっていないにしろ、髪はなでつけられている。すこしよそよそしい匂
いを僕は察知する。
「おかえり望」
「どうかしたの?」
見覚えのない靴があった。黒の革靴。ただし大きさは小さく、女性も
のだろう。
「警察の方、カウンセラーの方がお見えなのよ。リビングにいるわ」
僕はわりと冷静に手汗を確認することもできる。ただ母さんの前でも
っともな嘘をこしらえるのには罪悪感があるけれど。
「失踪してきたときのこと、おおく覚えてないけど。大丈夫かな」
「大丈夫よ。だって怪我、してないんでしょ?」
具体的に、大きな枠組みを作っておこう。
――夜、月を眺めていたら突然気が触れました。各地を放浪しました。
そのときの記憶はありません。
ここには誠人も王国も登場しない。現実にあり得そうなことだし、割
とスピリチュアルだ。僕はうまく隠せるかもしれない。
ダイニングテーブルの二つの椅子は埋まっていた。紺の制服の婦人警
官、カフェにいそうなカジュアルな服のカウンセラー。あえて女性だけ
にしたのだ、と手のひらを膝にぴっちりつける。
「あなたが望くんね」
カウンセラー。
「はい。今帰ってきました」
「久しぶりの学校はどうだった?」
差し障りのない会話から進めていくのが、いかにもカウンセリングっ
ぽい。
「友人も先生も、みんな普通に接してくれました。僕としてはよかった」
「そう。ならよかった」
沈黙。
「座ったら?」
後ろから様子をうかがっていた母が、僕の椅子を引いてくれた。腰掛
ける。
人警官が僕たち親子を意味ありげな目で見たような気がした。
「お母さん、そろそろいいですか」
突然本題に入らなかったのは彼らの礼儀。僕もそれをわきまえるよう
に一礼する。
「では望くん、あなたの失踪していた期間のことを教えてください。覚
えている限りでいいですから」
テーブルに出された罫線の紙に、カウンセラーのボールペンの先が触
れようとする。
「でも具体的に、何を話せばいいんでしょう?」
「いきなり全部話すなんて難しいわよね。じゃあいくつか質問するから、
それに答えてください」
カウンセラーが質問するわけではなかった。彼女は筆記係、婦人警官
が尋問役だ。巷で耳にする顔から心を読むおとは専門じゃない。
「十二月二十六日の深夜、君は失踪した。それが誰かと一緒だった?」
「いいえ。ひとりでした」
誠人のことを意識から締め出すのは簡単だった。頭の中にひとりで家
出する情景を思い浮かべればいい。窓から射す月光は、心にできた腫瘍
に触れた。痛みに耐えかね、家から飛び出した。
「つまり連れ去られたわけではない。なら、あなたは自発的に家出――
失踪したというわけね」
「その通りです。僕は家出をした」
「家出した理由を聞かせてくれる?」
今、僕はどんな俳優よりも役に入っていると思う。間の取り方はわざ
とらしくなりすぎないように意識して。
視線を斜めに倒すのは、過去を思い出す仕草だ。
「たぶん、中学生によくあるものが激化した」
「中学生によくあるもの」
言葉は反復される。
言葉を選んでもう一度繰り返した。
「中学生によくある、不安が暴走したから」
この点においては嘘をつくべきでない。この人は理論ではなく、経験
から嘘を見抜いてしまう。
「いわゆるニヒリズムが、僕の中にあったんです」
警官は首をひねった。カウンセラーが「この世が虚無であるとみる思
想です」と耳打ちした。
久々に彼女はペンを走らせるのをやめた。この間の会話は彼女の中に
記憶として残る。
「だから自分でなんでいるのか、将来とか分からなくなったのよね」
本音は喋っちゃいけない。
だからカウンセラーには乗らずに、僕は警官に尋ねる。
「次の質問はなんですか?」
「ああ、ごめんなさい。私の無知で。家出の間はどこにいたのかしら?」
「主に山の中、田舎だったと思います。そのあたりはなぜか記憶が曖昧
なんです」
「曖昧でも大丈夫。その点が私たちにとって大切なの」
僕にとっては大変だ、と内心付け加える。
「分かりました。では、順を追ってお話しします」
過去に本当にあったこと。誠人たちのほうが妄想。僕は無双。そんな
ラップをリズミカルに頭に回す。
「家から出た後、結構な距離を歩いて県境まで出ました。そこは結構な
山奥で。その時点で疲労しきっていたから、近くの民家に泊めてもらい
ました。二日くらいです。それからまた違うところに行きました。なぜ
なら、長いこといるのは申し訳なく思ったからです。違うとこに行って
同じことを繰り返し、二か月を過ごしました。もしかすると僕は関東周
辺を一周したのかもしれません」
「そっか。つまり、俗にいう放浪ってところね」
「はい」
カウンセラーは淡々とペンを走らせる。その紙には嘘が整然と書き連
ねられている。
「行く先々のところで、危害は加えられなかった?」
「全くありませんでした。むしろ、不な中学生に優しくしてくれました」
「怪我はない」
テーブルの上に置いた僕の腕が警官に見られた。
「はい。怪我はありません」
それはとても大切なことらしい。もう質問をしてこなくなった。
僕は誰にも連れ去られていなくて、暴行も加えられていない。事件性
は皆無。これは確かに重要なことだろう。
警官が母に大丈夫ですよ、と声をかける。けれど母の方は物思いにふ
けるように遠い目をしていた。息子が家出した、それは母さんにとって
大きな事実だ。
「お時間ありがとうございました。何も問題はありません」
久々にカウンセラーが母に口をきく。
「よかった、無事で……」
けれどカウンセラーは、母さんに対して微笑みとは違う目の細め方を
した。
だけどそれは些細なことだ。僕がその意味を考える隙もなく、警官の
リラックスした声が場を締めた。
「望君は受験生だよね。いろいろ大変だろうけど、何とかなるわ。だっ
て、家出しても戻ろうって意思があったんだもの」
「ええ、僕もそう思います」
「自分で言っちゃうのね。それ、すっごくいいと思うから頑張りなさい
な」
女性的な笑み。わりと家庭的なものだった。
それは取り調べが平和に終わったことを意味している。僕も控えめに
頬を盛り上がらせて家庭的に笑ってみせた。
日は暮れ、食べるべきものを食べ、洗うべきところを洗い、あとは眠
るだけだった。窓を開けたままにしているのは、春の風が入ってくるか
らだ。カーテンはたぶん揺れている。ベットでぼーっとしているから見
えないだけで。
母さんが風呂でシャワーを浴びる音が下から聞こえてくる。
僕は目を閉じた。
「たとえ心が病気になっていたとしてもお母さんたち、気にしないから」
帰還してから一週間後に分かったことだが――母によって明かされた
――カウンセラーは、僕に精神科の受診を勧めていたようだ。カウンセ
ラーのあの目の正体はそれだった。
親子で白い建物の前に立つ。休日のゆるやかな時間の流れは青い空に
よく投影されていた。精神病棟の壁の白さと雲の白さ。
口をつぐみ、ただ母についていく。受付で手続きを済ますと簡素な作
りの椅子で待つことになった。
待合室の中で僕だけが子供だった。覇気のない中年たちの顔。道端を
歩いていても精神病と直感できるくらいの。
僕もつい同じような顔をしてはいないだろうか?
沢山の精神病者に囲まれていると、精神が蝕まれそうな気がした
母を見た。瞑った目元に硬く皺がよっている。彼らだけでなく僕まで
も視界からシャットアウトされている。
今、れっきとした事実を頭の中で唱えておこう。僕は精神病ではない。
ニヒリズムを抱く以前の小学生の時点から今まで、自然に成長してきた
と自負できる。たとえニヒリズムを抱いた時点で精神病になっていたと
しても。
ここにいるのは、きっと嘘の供述をしたせいだ。そして嘘の供述は、
カウンセラーに見破られている。外傷を負っていないが、なぜか嘘をつ
いている、と。けれど母さんには受診を勧めただけで、詳細を口にしな
かったことは感謝しておこう。
今日、相手にするのは精神科医だ。「天気はどう?」なんて世間話は
ない。それでも王国のことを白日のもとに晒したりなんかしない。嘘を
貫き通す。たとえ本当に不利な診断結果になろうとも。 「行きましょう。順番が回ってきた」
母が席を立った。僕は深呼吸した。それを母さんは見届けてから手を
差し出そうとしたけれど、僕は自分で席を立つ。
醜い王が支配する地でも、僕たちのいた場所は荒らされてはならない。
「失踪期間中の空軒望くんの言い分を私は聞いています。だが、もう一
度話してもらわなにゃあならんのです」
初老に差し掛かるくらいの、鷲みたいな鼻を持つ人だった。壁に飾ら
れた表彰状が蛍光灯を受け光っている。
「お母さん、ご自宅での彼の様子に変わったところはありませんか」
「失踪した以前と変わりはない……と思います」そこで言葉を区切り、
もう一言付け加える。
「ただ、どこかしら変わったような気もします」
宇佐と同じようなことを言うな、と思った。
鷲の険しい目が僕を捉えた。まるで小難しく考えるのが医者の役目だ
といわんばかりの顔で。
「どこかしら、ね。空軒さん。それは間違っていませんよ。二か月も親
元から離れていれば、そりゃあどこかしら変わります。変わらないほう
がおかしいんです」
「それは安心していいと、私は思っていいんですか?」
一呼吸置いた。
「安心に足るものかは、息子さんの状態で判断しなくてはならないこと
です。もしかするとそんな風に取り繕っているだけかもしれませんが」
僕はわざと両手を深刻に重ね合わせた。
「僕自身も、自分の中がどうなっているのか分かりません。もしかする
と悪い感じになっているかも」
「悪い感じ、と自分で称するからには自覚があるのか?」
彼の座る回転いすが、きしんだ音を立てて僕へ向いた。
釣れた。
「もやもやとしたのが胸に残っていて、現実がどこか遠くにあるように
感じるんです」
彼の手元の書類の文字が、険しい目に通される。
「君はあの警官に、失踪以前はニヒリストで、今は普通だと言ったと聞
いている。これは私の推測だが、ニヒリズムが君の錘になっていて、そ
の錘がはずれた今、ずいぶんと軽くなったんじゃないか?」
「その通りです」
「なるほど」
いささか不自然な返答だ。きっと彼の脳内では僕との会話と、彼自身
による推理ゲームの両方が同時進行している。
「ニヒリズムは一度根付いてしまうと取り除くのが困難だ……。いった
い、失踪期間中に何があった?」
その書類を僕は指さして示した。
「そこに書いてありませんか?」
「いいや。これには事実が味気なく書かれているだけに過ぎない。私は、
君がどう感じたのかを知りたい。そこであった人や景色について、詳し
く」
こう食いつかれるのは予想していた。カウンセラーよりも厳しいだろ
うと。
「思い出せる限りは答えます」
頭にラップはリズミカルにながれず、ただしんとしていた。
「ではまず一つ目の質問をしよう。君に影響を与えた人物は、失踪中に
出会った人間の中に存在するか?」
真っ先に浮かんだのは誠人とシェマ・ウィットー。
「はい」とだけ答える。
「その人間は、あるいは人間たちは。どんな性格で、どんな考え方を持
っていた?」
「穏やかな人でした。田舎だったっていうのも影響してると思いますが、
のんびりとしていました」
「君はその人物と自己を対比させたか?」
僕はこの尋問の意味をはかりかねた。
この人は、一番これを知りたがっているみたいだからだ。答え方によ
っては診断結果が左右されるかも。
結局、これには正直に答えることにした。ただし抽象的に留める。
「対比させました。少なからず、僕は穏やかになっています」
「なるほど。取り込んだときたか。それがニヒリズムが消えた要因か」
満足そうだった。彼は自分の仮説が正解だったのが満足なのだ。白髪
交じりのいびつな頭髪が皺の入った手で撫でつけられる。
「では質問はこれが最後だ。印象に残っている景色はあるかね?」
彼の中で診断結果はもう出来上がっている気がする。たぶんこの質問
はその裏付けだ。
悪い予感がしたけれど、これも正直に答えるしかないのだ。悪あがき
ではないけれどこれも抽象的に留めた。
「富山県の合掌造りの村みたいに、同じような家が並んでいます。幻想
的だな、と僕は感じました」
また回転いすをきしませて机に向き直った。僕たち親子に背を向けて、
尻目で見ようともせずに。
「よろしい――君は待合室にいなさい。少しお母さんと話がしたい」
もう仕事は終えた、みたいな感じで彼の目は蛍光灯に照らされていた。
僕は診療室から出ていくしかなかった。なぜならそう命じられたから。
出ていくときの自分の足は少しがっくんがっくんした。
僕と同種の可能性がどうして否定できようか。待合室にいるすべての
心を病んだ患者に対してそう思う。あの鷲のような医者にすべてを語ら
なかった。
ならばどうなる。
精神病棟に収容。僕には失踪したという事実がある。収容されたなら、
ドラマで見るような、きっとひどく閉塞感のある部屋で過ごすことを強
要される。
向こう側にある病院の出口。あそこは僕を外へ逃がしてくれる。家に
帰らせてくれる。車が往来するる騒がしい道路へ出ることだって。
でも――僕は未成年だった。となると保護者の決断が絶対であるため、
家に戻っても病院へ連れ戻される。さらに僕にとって不利なことは、母
が息子を正常に戻したい、その思いがあることだった。
ついに診療室から母が出てくる。手に持たれるクリアファイル。病院
の床を歩いて、僕の横に腰かけた。
母は僕にクリアファイルを渡そうともしなかったから、勝手に引き抜
いた。抵抗もなく引き抜けた。
一枚の診断書。その薄っぺらいのを何も考えずに僕は読み始めた。
『彼の語った内容には妄想と考えられる箇所が幾つか見受けられた。ま
ず第一にこの疾患の特徴的な部分であることは、彼は自分が見た景色を
幻想的だと称したことである。幻想的であったのが事実であることも否
めないが、現在の彼が感じている「浮遊感」と照らし合わせて考えると、
事実でない可能性が高い。第二に「穏やかな人物」は彼自身が創り出し
た架空の人物だといえる。思春期である子供には自己嫌悪がよく見られ
る。そのため自分とは間反対の人物を造形して安定を図る。「ニヒリズ
ム」を終わらせるために「穏やかな人物」を、いわば薬として投与した
のである。
思春期であることを考慮しても、失踪の事実は大きい。そのため入院
の必要があると判断した。
病名:統合失調症
担当医師:鈴木堅治』
僕は、母が何を言うのかを待った。
弱りはてた、小鳥みたいな母が。
僕は自分自身に言い聞かせる。これは成り行きだ。窓も何もないコン
クリの部屋に入れられたのは。決して病気のせいなんかじゃない。
何べんも繰り返し言い聞かせているけれど、どれほど経ったのは分か
らない。なぜなら時計さえも見させてくれないからだ。
「ここはどこだろう」
分かり切った独り言だ。あくまでも入院という形で鉄格子の奥に入っ
ている。けれど王国のときと同じ気分だ。
独りで牢にいたら、本当に僕はこの施設がお似合いの人間になってし
まう。
もしもシェマが今日いてくれたなら。
「でも、もしもという話はしちゃいけない。シェマと誠人は二人で新境
地にいくんだから」
しかし僕は考えるしかなかった。この何もない部屋で何もしていない
と、空っぽになってしまう。
彼女たちはどうしているだろうか。
あの山を巧みにかぎ分けて、一旦は地上の町に出たのかもしれない。
そこで新鮮な建築物やファッションにびっくりしている。あるいは二人
で海岸沿いの潮のにおいに身をゆだねてるかも。手はどうだろう。繋い
でいるかもしれない。
「それでいいさ。僕もこれが終わったら元気にやれるから。宇佐たちと
一緒に」
治療は約二か月間と聞いている。ここから街路樹の変化は見えないけ
れど、外へ出たときには艶やかな緑の葉が見られるはずだ。
僕はコンクリートに背を預けた。背筋が凝りかたまって、鈍い痛みが
した。
そして正体不明の声がする。カラノキノゾムくん。でも応じずに寝よ
うとした。どうせ僕の中だけで鳴っているのだから。
「空軒望くん、交流の時間ですよ」
声は若いナース服だった。どうやら自分はまだ狂っていない。彼女は
シンプルに髪をまとめ、皺ひとつ見当たらない白を着る仕事をしている。
「交流の時間?」
彼女は手に持った鍵束を探りつつ答える。
「こうひとりで長く治療に専念しているとかえって毒なこともあります。
外界との接触は治療にマイナスですが、この病棟の患者となら影響はあ
りません」
とてもこの部屋の空気とマッチする口調だ。コンクリートとロボット
的口調。でも鉄格子を開けてくれたのだから、僕は「ありがとう」と礼
を言った。
これといって特徴もない通路と階段を、彼女のちょっと早い後姿を追
いながら歩く。
三階降りたところが目的地らしい。フロアの入り口には、「憩いの場」
と彫られた木が置いてある。
ナースはそのまま僕に目を向けた。
「あちらの方々と混ざって交流してきましょう」
行けということらしい。彼見るところ憩いの場にいるのは年齢層が高
い人々だ。そして皆どこか、不具合を抱えていそうだった。しょうがな
い。
まず初めに僕に気付いたのは中年女性。幼児に退行してしまったみた
いに、積み木で城を築いていた。それも随分と初歩的な形の。
「あなたも作る?」
まず第一に僕が持った印象。彼女は声の調節がうまくない。話してい
るときに唐突な感情の起伏があるみたいに、変なところで声が割れる。
断るわけにはいかない。地べたにしゃがむ。
「僕でよければ」
神経質そうな伏せ目で僕を捉える。その目線の先にあるのは僕の頬だ。
「あたしね、積み木好きなの」
「なんでですか?」
頬に触れちゃいけない。もぞもぞするけど我慢したほうがいい。
「なんでって、理由はないけど。とにかく好きなのよ」
「いいことです」
「好きよ、好き。幼稚園の頃から好きだった……」
積み木をつまみ上げ、いびつな城が大きくなる。ただし上に積み上げ
るのは嫌いなようで、横に広げていく。外壁に近い。何が主役なのかは
全然分からない。
「できたわ!」
最後のひとつを置き終えると、彼女はゆっくりと人差し指を離した。
「僕が手伝うまでもありませんでしたね」
これで解放される。次はもっとマシな人と話そう。たとえば新聞を読
んでいる老人とかに。さようならと心の中だけでいい、立ち上がった。
神経質と積み木を俯瞰する。
「でも、これでいいのかしら……」
立ち止まった。刺激は禁物だと悟る。
「これが私の城なの? 本当に私が目指していた城なの?」
僕は、まるで別の生物のにおいを嗅いだような感覚を覚えた。
すると助け舟が出される。よくとおる声のナース。
「浜内さん、それはあなたの城です。完璧な城です」
「ほんとに? あなた証拠はあるの」
「あとでその城の写真を撮って、積み木に精通している人に送っておき
ます。彼は必ずあなたの城は完璧、という評価を下すはずです」
ナースは浜内の声に一拍も遅れもとらなかった。家電製品に搭載され
ている人工音声のようによどみなく。
彼女は何を思っているのだろう。僕は疑問に思った。あの目には何も
映っていないように見える。あるいは病人と距離を置いて、意図的に見
ないようにしているのか。ならば、休日は普通の人間に戻るのだろうか。
目に温度を宿して。しかしそれは、僕には想像できない。彼女はナース
という役目のためだけに製造されたロボットのようなのだ。
いったいこの人は何なのだろう。そしてこの場所は何なのだ?
そして、浜内にひとりの中年の男が話しかけた。
「あなたの積み木の方が素晴らしいですよ。私なんかの方が、もっと駄
目なんですから」
まともそうだけど、この人だってどこかネジが飛んでるのだ。
「草木さんの言葉なんて信用できないし、薄っぺらいじゃないのよ。結
局私の城はねえ、駄目なのよ。ねえ知ってる草木さん。お世辞がどれだ
け人を傷つけるのか」
声の調節機能はもうボロボロで、壊れたロボットみたいだった。 「ねえ草木さんお世辞は何よりも人を傷つけるって知ってた?」
「失礼な、お世辞なはずないでしょう。私は本当に駄目な人間なんです」
「そう言って私を馬鹿にするのね! 心の中で自分だけがまともな人間
って思って、目の前の駄目な女を笑ってるのね」
草木の顔は赤らめられる。
「私の方が駄目なんです!」
「あら、譲らないのね。私も譲らないわ」
「私の方が駄目なんだ!」
また叫ぶ。
「譲らない!」
浜内も然りだった。もうこの二人は訳がわからない。現実の病人は外
見はまともそうでも、中身はボロボロ。
「どうして浜内さんは私より優位であるといえるんです? 根拠を言っ
てくださいよ」
駄目人間の度合がなぜ高いのか、という根拠。
「根拠って……。駄目だわ、根拠なんて分からない」
「そうよ。根拠が言えないから、私は駄目なのよ」
尊大に言い切り、彼女は草木を言い負かせたことを心底気持ちよさそ
うにする。
ナースも他の患者も、これが普段の日常だと言わんばかりに動じない。
つまり僕だけが慣れていない。負のエネルギーが満ちていくだけの空
間に、耐性がついていない。でも耐性なんて本来ならつけなくてもいい
ものなのだ。
また、浜内の口から言葉が飛び出てきた。唾の粉末と一緒に。
階段を上がり通路を歩く。今すぐにでもナースから離れて一人になり
たい。
僕の部屋へ到達するまでにいくつか鉄格子を通り過ぎたけれど、その
中の一つだけ人が入っていた。ちょうど隣の部屋。
ナースに気付かれない程度に足を止める。
大きな暗がりに対して、体育座りで小さく収まっている。顔の輪郭が
どうも幼い。
「あの男の子、いったいいくつだろう」
しまった。けれどナースはあくまで淡々と応答する。
「守秘義務というものがあります。それに、それの正体を知ることであ
なたの回復によい影響を与えるとは考えられません。それはあなたにと
って関係のないことです」
僕は、彼女とあの男の子のちょうど真ん中の空間を見た。
まさか彼女はあの男の子を それ と形容するのか。
「それ、って」
しかし、背中を押されて部屋に入れられてしまう。隙もなく背後で金
属の擦れる音がする。やがてナースは通路を通ってどこかへ消える。
九歳か十歳くらいか。僕よりも五つも小さい子がこんな場所にいる。
体育座りで。僕は心配になって、まず壁に手を当て、叩いた。
「聞こえるかい。もしそうなら返事をしてほしい」
コンクリの向こう側の静けさが伝わってきたのち、やがて細い声が壁
を抜ける。
「あなたも病人?」
僕はすぐに頷いた。
「そうだよ。統合失調症って診断されたんだ」
向こう側の男の子がそれを理解できるかは分からないけれど。
ところが彼は賢いみたいだ。
「それ、たまにおかしくなる人のことでしょ。僕のお姉ちゃんはそれ」 彼がここに追いやられた理由がなんとなく想像できる。そして、隣に
僕がくるまで誰もまともな人がいなかったことも。
「ちょっと聞いてもいいかな」
沈黙しているけれど、向こうで顔を上げてくれてるのかもしれない。
「君はどうして病人になっちゃったの?」
「みんながおかしいっていう目で僕を見るもん」
彼は答えた。そのあと同じ調子でとつとつと喋る。
「あなたは病人みたいじゃない」
僕は壁にあてた自分の手が中途半端に離れるのを感じた。壁の向こう
からじっと見つめられている。僕は壁の前で、息を止める。
「でも、君がそう言おうと僕は統合失調症なんだよ」
「普通の人みたいなことを言うし、たくさん訊こうとする」
この子はまだ僕を謎の人と見ているらしい。物理的にも、空気的にも
壁がある。それが分かって、僕は壁から三歩引いた。
「もう訊かないよ。ごめんね」
素直に詫びると、男の子は黙るうえに気配まで消していった。
しばらくコンクリに囲まれていたら、あることに驚いた。男の子を知
ろうとするために、自分で自分を精神疾患者だと自称したのだ。
夜の闇もネオンの灯りも遮断されているが、通路の電気が消えていて、
夜だと分かる。みんなそれぞれの夜を過ごすか、あるいは眠りに就いて
いる。
布団に入ると衣擦れの音がしんとした。目を閉じさえしてればいつの
間にか眠りにつくように思えた。
でも直前で、またコンクリの部屋に意識が戻っていく。
「寝るの?」
なぜなら男の子がそう言ったからだ。
「もう夜だよ。人間は夜に寝て朝に起きて、また夜になったら寝るんだ」
それは至って普遍的なことだったが、返ってきた言葉は僕を鋭く打っ
た。
「あなたはやっぱり病人じゃないと思う」
彼はそればっかり考えているのか。きっとそうだろうと僕は感じた。
この調子では明日も明後日も、ふとしたときに彼の頭をもたげる。僕を
害のある者か知りたいわけではないけれど、純粋に疑問として残ってる
のだ。 僕は彼の隣人として、そのむずむずとこびり付いたのを取ってあげる
ことにした。
「それ、秘密にしていおいてね」
「誰お僕の言うことなんて信じやしないよ。だからあなたの秘密は永遠
なの」
男の子は言った。
「ありがとう」
そして男の子はごく普通の少年らしい声で話し始めた。
「普通の人はとんちんかんなことは言わないし、ちゃんと喋る。あと他
の人を気に掛けるのもそう。頭がおかしい人はね、直感で分かる」
なるほど。全部僕に当てはまっていたわけか。
「あなたの名前はなんていう名前?」
そう訊かれて思わず笑った。彼の方が僕に興味を持っている。
「空軒望って名前」
「カラノキくん。残念だけど、僕は自分の本当の名前を知らない。だか
ら教えたくても教えられない」
質問しなくても、言ったことを聞いて、彼について理解を深められる。
逆に、君を害すような存在じゃないんだよ、と教えてあげたい。
「なんでここに入れられたのか知りたい?」
「それもそうだけど。なんでもいいから話がしたいの。ここはとても静
かで退屈すぎるから」
「分かった。じゃあ、どんな話をしよう。えっと――ヘンゼルくん」
即座につけた名前はあの童話に出てくる主人公の名前だった。
「そっくり今の僕に。魔女に監禁されたヘンゼル」
あの壁の向こうでヘンゼルという名を自分になじませていく様子が目
に浮かんだ。「僕はあの勇敢な少年なんだ」と両手をぱくぱくさせる。
でも彼の両親は、どこにも出られない病院というところに捨てていっ
た。
そんな隣人ヘンゼルが壁を叩き、しずかに僕に聞こえる。
「話したいことができた」
僕は布団を押しのけ、壁に寄る。
「お姉ちゃんはグレーテルなんかじゃない。きっと生まれつき脳のねじ
がないんだよ。よくアーアーって呻くし、人がたくさんいるところが嫌
いなんだ。そういうところに行くと世界が終わったみたいなことをする。
たぶんね、そのことが本当のお母さんたちに嫌われた理由なんじゃない
かな」
呻く理由がなんとなく分かった。沢山の人がそれぞれ話す、別々の内
容が一つずつ耳に入ってくるのだ。じきに頭はパンクを起こしてしまう。
「君もそうなの?」
「お母さんはたぶん、お姉ちゃんのが僕にうつったって思ったんだろう
ね。捨てられたのは僕がとても小さな頃だから、お母さんに聞いたわけ
じゃないけど。お姉ちゃんはたしか4歳くらいだったかな。どうせ覚え
てないだろうね」
「ひどいね」
僕はそう感じたけれど、ヘンゼルは自分の境遇を憎んではいなかった。
「お姉ちゃんを捨てたお母さんは、きっと育てるのに疲れたんだよ。そ
の弟が普通だとしても、お姉ちゃんの像が被るんだ。だからね、捨てる
っていうのは一番よかったことだと思う」
しん、と空間が音を失う。
不条理にもここに幽閉されている男の子。
「君はどうしてここにいるの?」
僕は質問をした。
「みんながおかしいっていうから」
みんながおかしいって決めつけたのだ。
「お姉ちゃんは学校でいつもおかしかったんだ。だから弟の僕も同じだ
って、みんな思ってた」
分別のない子供たちが毎日のように浴びせかける差別的な言葉。毎日
のように棘が刺さる。
「僕は本当におかしいのかもしれないよ」
ヘンゼルは呟く。
「なんでそう思うの? 周りがそう言っただけのことじゃん」
「でも、教室のヤツが一人残らずそう思ってるんだよ。あらためて考え
てみると、本当にそうなんだよ。僕にはお姉ちゃんの血が流れてる。き
っと、アーアー呻かないだけのことなんだ」
なにもいわず、僕は壁に首を振った。
百パーセント自分がおかしいと思い込んでいるけれど、否定すると混
乱するかもしれない。それ以前に受け入れられないだろう。
けれども、 正常だという可能性がある ことを教えるのは問題がな
いと思うのだ。あくまで可能性としての話をするならば。
「僕はだんだんとお姉ちゃんみたいになっていった。勉強はできないし、
みんなと馴染めなくなっていって。人としゃべろうとすると上手く言葉
がでないし、とても気味悪がられる。きっと僕は気持ち悪いんだよ。親
に連れて行かされたとこの病院で、先生はすごく質問をしてくるんだ。
堅い顔で」
あの鷲のような医者か。
「精神科に連れて行かされたんだね」
「先生が顔をしかめるってことは、僕が病気でおかしいって意味なんだ」
ヘンゼルはそこで話をやめた。続きはもう語られない。
ヘンゼルは元から精神を病んでいたわけではない。思い込んでいるう
ちに、少なからず発症してしまった。周りのせいで。
精神科医にとっては、それだけで診断書を書けるだろうが、僕には納
得がいかなかった。純粋なものを誰も守ろうとしなかった。不条理すぎ
る。
翌日、昨日と同じくらいの時間にまた憩いの場に来た。そして僕はヘ
ンゼルくんと呼ぶ男の子を見つけ、対面している。この場の誰よりもこ
こが似つかわしくない。一刻も早く浜内や草木から遠ざけたかったので、
手を引いてベンチまで行った。そこには誰もいない。
彼は小柄で、座ると頭が僕の肩にも届かないほどだった。
久しぶりに自分が十五歳ということを感じる。僕は彼よりも数段と大
人に近い。
「君がヘンゼルくんだね」
「うん。中野修っていうの」
「ヘンゼルくんだね」
僕はあくまでもそう呼んでやる。
「ねえヘンゼルくん。昨日は君のことをよく知れて嬉しかった。今度は
僕の番だと思うんだけど、どうかな」
「知りたい」
彼の姿は僕をにっこりさせる。
「じゃあまた夜にでも話をしよう。きっと面白いと思うから、楽しみに
しておくといい」
面白い話というのは、もちろん王国の話をするつもりだ。彼にだった
ら問題ない。ただ、どこまで話していいのかは考えないといけないけれ
ど。
しばらく僕たちは静かな時間を共有しあう。何も語るべき話題なんて
なかったけれど、ふと浮かぶことがある。
「童話の中のヘンゼルって、最終的に魔女を殺しちゃうんだよね。自分
よりもいろんな力を使える人を。つまり彼は強いと思うんだ。あんなに
小さいのに」
それほどの強さを秘めていたのなら、たとえ魔女に誘拐されていなく
ても、森で生きられただろう。
「ヘンゼルは確かに強い」
中野修くんはそう口にした。
「ヘンゼルが魔女を倒したから、たくさんの子供が救われたんだ。そう
じゃなかったらみんな魔女に食われてた」
すごく真面目な目だ。まるで自分の話をするみたいに。
「もしかして童話大好き?」
男の子は小さな頭を上下させた
「じゃあ僕と同じだね」
「ね、望くんは何が好きなの? ヘンゼルとグレーテル以外で」
「シンデレラ」
「知ってるよそれ。お姫様抱っこされて王子様と一緒になる話でしょ」
大方あっている。僕はヘンゼルよりも二回り大きな頭を、上下させた。
「シンデレラには魔女が出てくるけれど、その魔女はすごくいいやつな
んだ。魔法でボロボロの服がドレスに変わる」
「女の子だったらしたかったの? ドレスの魔法」 ヘンゼルは目と口元を控えめに細めた。
僕は声を潜めて訊いた。
「男なのに変なの、って思ってたりする?」
「ちょっとだけ。でも魔法って楽しそうだから、いうほど変じゃないね」
中野修くんはその後目をぱたぱたさせて、頭をゆらゆらさせた。僕の
腕に男の子は体重を知らず知らずのうちに預けていた。
完全にその瞼が閉じられる。
僕はその後、気付かれないくらいの声で囁いた。ヘンゼルくんに。
「ビビディ・バビディ・ブー」
ドレスの魔法だ。
どこかにいる誠人やシェマに伝えておかなきゃいけないことがある。
新境地にはいないけど、僕にも似たような友達ができた。さらに誰にも
話していない、秘密の部分を共有できた。王国のことや、医者についた
嘘のせいで今ここにいること。そして、王国にはこの病院の患者のよう
な人がたくさんいること。王さえいなければ、そこの方がずっと僕たち
にとって環境がいいこと。
全てを聞き終えたヘンゼルくんは「いい場所だね」と一言いって寝て
しまった。
これは僕の妄想だけど、王国が浄化されたなら。誠人やシェマと再会
したい。そしてヘンゼルくんを連れていきたい。もしヘンゼルくんが王
国を望んでいたなら。でも僕は強制はしない。大切なことは自分で決め
るべきなのだ。
今夜はこの妄想をして眠ろう。もしかすると夢を見れるかもしれない。
王国に来る人々を迎える門は、深々とその地に突き刺さっているよう
だった。人はみんな当たり前のように眠りに就いている。王でさえも。
ここは侵略の危険もなく、内乱も起きない。
「ごめんなさい。ここの土を踏みたくないだろうけど、必要なことなの。
騙されたままじゃ、王国の人たちが可哀相よ」
「分かってる。昔からの知り合いの人もいる」
彼は新しい人生を生きるはずだった。けれどついてきてくれた。
あの少年と別れた後、私たちは近くの教会に潜んでいた。計画の実行
のために。
誠人は朝焼けを、じかに瞳で受け止めていた。私は、王国から出ると
きに「もし望くんが一緒についてきたら?」と彼が尋ねてきたのを思い
出した。もしあの少年がいるべき世界に戻っていなかったら。けれども
もし なんて存在しなかった。どんな手を使っても私が元の世界へ帰
したはずだから。
私は彼から目を逸らした。人々を引き連れて、また旅に出る。つまり
父と兄がいないだけで昔と同じなわけで、誠人にまた同じ生き方をさせ
てしまう。
自分だけでいい。王の娘である私には責任がある。協力してもらって
からその後は、誠人をひとりにしよう。誠人はひとりでも生きられる。
私はひたすらに黙り込み、誠人を引き連れて門をくぐった。
空虚な土地。初めに訪問する家は決めている。ノール。かつて誠人と
望の住んでいた家の隣。直線的にノールの家へ向かい、簡潔に戸口を鳴
らした。
「シェマ? それに誠人も」 潜めた声で、目だけが驚きで満たされる。
「入りなさい、入りなさい」
きっとチャールが私たちが謀反を企てたとか流布したのだろう。けれ
どノールは分かってくれていた。
老いて小さくなったノールの目に礼をして、中には入らない意思を示
す。
「よく聞いて。あの日何があったのか話すから」
私はできるだけ客観的に話した。感情的になるポイントがいくつかあ
ったけれど、なるべくチャールという人間の汚らしさが伝わるように自
分を抑えた。娘であることはどうでもいい。
全てを話すと老人は長い溜息をついた。
「私がこの地に来た時から、すでに彼らは計画していたのか」
私はその溜息の前に立っている。
「あれは素晴らしい楽器だったのにね」
言葉を野放しにするようにぽつりと呟く。私の頭上を越えたところに
ある、丘を見る目から何かが欠落していた。
「ごめんなさい」
私は言った。
「あなたが謝るのは間違っていますよ。人はある面を隠しながら生きる
ことができる。それがただチャールに当てはまっただけです。また私は
それを見抜けなかっただけなのです」
ノールという老人。彼がこの地で暮らした期間はどれくらいだったの
だろう。
「あなたたちが見抜けたことはよかったのでしょう。世界中に対する攻
撃が未然に防げたんですから。それに私たちは、王国が理想郷でないこ
とを知ることができる」
とても漠然とした立ち姿だった。私は彼にもう一度頭を下げ、見つめ
た。チャールの娘である私が皆を助けなければならない。
しかし誠人が私の言うべき言葉を代弁した。
「こんな王国なんて出ていきましょう。みんなで出ていけばいいんです。
また旅をするんですよ」
旅を、とノールが誠人を見る。寝る場所も定まらない、昔のような生
活がまた始まる。けれどもノールは小さく頷いた。
そして私は王国から脱出する計画を告げる。できるだけ簡潔に。ノー
ルが何人かに深夜に教会へ集まることを知らせ、その何人かはまた周り
に知らせていく。チャールたちに気付かれないように。
最後に、老人は身支度をしながら言った。
「チャールやワーメヌトはもういないんだね」
「ええ」
私はそう返事をした。もうノールが知っている父と弟はいないのだ。
世界なんかとっとと破滅しちゃえばいい。私の夢だった。けれど今ま
で実現させる方法など思いつかずやきもきしていた。けれど今、私は浜
辺へ来て日光を浴びている。
先ほど近くに住む女が早口で「この国はだめになったから逃げなきゃ
いけない。夜、近くの教会にみんなで集合するわよ」と言ってきた。ど
うやらチャールは黒かったらしい。
どうせ今日なんて日には浜辺に誰も来ない。大声を出せる。
「ばかね。私、あいつが黒いことなんて三日前に知ったわよ。あと私に
夜逃げをすすめるだなんて。どうせ私が滅茶苦茶にしてやるわよ、あほ
くさい」
三日前。きっと運命で決まっていたのだ。つまらない日常の中で偶然、
あの二人の会話を盗み聞き、世界が破滅する方法の存在を知ったこと。
今日、友里誠人がのこのこと帰ってきたこと。すなわち、終わりは近い。
また、チャールとワーメヌトがいるから計画が成功するのではない。
一般人という地位にいる私が敵対勢力の情報を二人に流すから成功する
のだ。二人はあの日、失望した様子だったから――つまり私は二人にと
っての鍵なのだ。
「はめつをもたらすもの」
それは誰。私はしゃがみ込んだ。海は鏡で、自分でも気に入っている
切りそろえた髪が風に揺れるのを映している。鏡よ鏡、世界で一番美し
いのは誰。それは誰。
しばらくして私は延々と広がる青に飽き、くるりと南の方角を向いた。
破滅の姫は王宮へ向かう。まあぼろっちい小さなお屋敷だけど。
歩いている途中、家々が緊張感に包まれていることに鼻を鳴らしてみ
せた。中で荷造りをしていようと、どうせ戻ってくる。心を失う。私と
あの親子の大きな奴隷の一部分になる。
最後に見渡してみると、ここの景色の退屈さが目に余った。
僕は教会の屋根に立つ十字架を見つめていた。キリストが磔にされた
あの十字架だ。彼は人を救済するために生まれ革命とも言える行動を起
こした。ひょっとすると神は、その革命のために彼が生み出した架空の
存在かもしれない。神という、大多数が共通して信じられる対象を生み
出した。そして民衆は一体感を得た。
僕はそれこそがキリストの目的だったんじゃないかと思う。根拠はな
い。でも、夜の闇に包まれていたら分かる気がするのだ。あらゆること
が自然に浮かんでくる。
僕は何のために生まれてきたのだろう。そして両親はなぜ僕を産んだ
のか。僕は生まれてから今まで、自分の意思というのを持ってきただろ
うか。チャールたちと旅をしていたことはつまり、チャールの意思に従
っていたということに他ならない。
でも僕はまた旅をしようとしている。僕の仕えていたチャールが残し
た人々と。チャールとワーメヌトがいないだけだ。
僕は本当に自分の意思を得ることができたのだろうか。望くんと出会
ったことで。
いいや、得たのだけれど人々を見捨てるわけにはいかないだけなのだ。
元の木阿弥、それでもいい。きっと僕は人を救うために生まれてきたの
だろうから、これが真実だろうさ。
一呼吸して前を向いた。真夜中の闇を大勢の人々が歩いてくる。みん
な根元に暗い荷物を持つ。老人、婦人、若い人。僕は支える。
「こんばんは。早急ですみませんが、今すぐ出発です。夜が明ける前に。
今から近くの港に降ります」
誰かが声を上げた。
「港? 我々は日本から出るのか」
「ええ。日本の中では、身分も知れない僕たちはやっていきにくい。ア
ジアあたりは国境があいまいなところもあるし、旅に向いている」
あの時の旅にはいなかった人たちを見て、僕はなおさら気を引き締め
た。そして全体に手を掲げる。
「出発しましょう」
一歩ずつ進むと、後方からおもむろについてくるのが分かる。たくさ
んの地面を踏む音が林に響いている。
何十歩か歩いた。
その時だ。前方から声がした。目を凝らすと、人の輪郭が暗闇から浮
き出てくる。
「そこを止まりなさい。あなた方は私を裏切った。だが、今止まり、戻
ることを選択するのなら赦してあげよう」
チャールの後ろには、ワーメヌトがいるだけだ。それでも堂々と眼光
を宿す彼。僕にはただ気味が悪いだけだった。たった二人で僕を捕らえ
ることは不可能であることは誰にでもわかる。
「どいてください。あなたたちに勝ち目なんてないんです」
それだけ言うと再び進み始めるつもりでいたが、チャールはなおも拒
んだ。杭のように僕の前にいるつもりか。
「ここかな王国は聖地となる。お前たちは聖地の住民として悠々と暮ら
すことができる。世界中の人間から崇められるんだ。旅などくだらない、
周りの目に怯えることは」
僕の後方で沢山の人が息を潜めるのが分かる。僕は一方、飽き飽きと
手をだらんとさせた。くだらない、今思うと、ウィットー国は民衆によ
って潰されていて正解だった。
今日は春の夜で、風はあまり吹かない。その中で音もなく、後ろから
涼子が出てくる。最年少の彼女でさえチャールに人差し指を向けている。
「堂々も何もないでしょ。だって、みんなの心が殺されるんだもの。堂
々とする心が消えたらどうしようもない。世界征服によっていい思いを
するのはあなたたちだけ」
チャールの後ろのワーメヌトが眼を光らせる。ワーメヌトと涼子の間
にある空気が無音のうちに固まる。
「小娘、父さんの計画を理解できるはずない。何も知らない。だが無知
だからと言って、俺は許すことはない」
一瞬にして大きな図体は少女へ迫った。懐からナイフが取り出されて
涼子の首筋にあてがわれる。僕は咄嗟に、彼が何を目論んでいるのかは
分かった。
力に対する圧倒的な憎しみが生まれる。力で自分たちの意志を押し通
そうとする。ウィットー国の民衆が選択した手段を、二人は躊躇いもな
く繰り返す。
「なんだその顔。もともとお前も、こっちの人間だっただろうに」
記憶の中にある少年のワーメヌト。彼の面影がことごとく闇に侵され
ていく。いいや、彼は純粋にチャールの血を引いているのだ。昔から歪
んでいたかもしれないのだ。
「僕はもうウィットー家に仕えていない。僕は友里誠人として生きる」
傲慢な溜息。
「そうか。じゃあこの娘の命はいらねえんだな」
「その子に罪はない」
「誰にだって罪はないさ」
いやらしく涼子に太い指が触れている。宙にナイフを浮かせて。
「やめろ。その子を傷つけたら僕は絶対に口を割らない」
「あの日とは違って随分強気だなあ、誠人。こいつがあの坊主じゃない
からか? お前にとってこの娘は坊主より価値が低いからか?」
涼子の目じりが小さく歪んだ。
「死にたくない。助けて」
僕は声を震わせた。
「ふざけろ。僕は誰の命も大切にしてる」
憎しみが頭を揺らし、あの男に僕を迫らせようとする。しかし直前で
留まらざるを得ない状況にある。鋭い金属のナイフ、躊躇もしないだろ
う、大男の手。
無音。僕と、後方の人々を含めて。けれど少女の細い声は唐突に発せ
られた。
「望くん助けて……。こんな人たちのために死にたくないよ……」
まずい。僕はわが身を抉られたとも言える感覚に襲われた。あの大男
を刺激しちゃいけない。
固まる林の中、心拍だけが勢いを増していった。涼子が怯え、ワーメ
ヌトが溜息をつく。僕はどう行動すべきが迷う。この身が犠牲になって
もいい。救いたい。
声を発せようとしたとき、違う声が後ろから僕を射抜いた。それはシ
ェマだった。
「加賀涼子、茶番はもうやめなさい」
ワーメヌトにも、誰にも聞こえない程の舌打ちをした。なんて非常識
な女。群衆を見てみれば、皆私と同じ思いであることが分かる。生死の
淵に立たされている少女を危機に陥れる、そんな行動をあの女は取って
いるのだ。
シェマの目は、周りとの温度差を深めていく。とても厳しい目だ。
「知ってるのよ、私。あなたがずっと死にたいと思ってること」
挑発的ね。死にたいのはなぜか彼女は理解できているだろうか。その
上での発言ではあるまい、随分とやさしさに満ち溢れた人生を送ってい
る彼女。私は群衆にばれないよう、ほんの微かに睨んだ。すると、それ
すらもシェマは読み取った。
「あなたがずっと世界征服をしたかったっていうことも知っているの。
いいえ、世界征服じゃないわね。そんなの非力なあなたには無理。せい
ぜい、世界の破滅を願うくらいだったんでしょ」
心の中でだけ問いかける。そう願う人間がこの王国に集まっているん
でしょうよ。
「そんな子が死にたい、助けて、なんて言う。これって随分と矛盾して
ることよね」
シェマの金髪が揺れた。首を振ったのだ。垂れた前髪がシェマの眼光
を隠すが、私は怯えたふりを続ける。
強張った表情の仮面を被るけれど、注意深く群衆を観察する。
「でも今はどうなんだ。あの姿を見て」
誠人がシェマに耳打ちをした。
ぬるい。この人も空軒望と同じだ。本質なんて全然見てない。その点
だけ、シェマは優れている。その一か所だけ、私と共通する。
金髪は眼光を私に向け続けている。
「私には分かる。確実な説明はできない、けれど分かるのよ」
誠人が困惑している。でも見てごらんなさいシェマ。あなたに群衆を
納得させるだけの証拠があるのかしら。あの少女はただの無垢よ、と思
わない者がひとりでもいるかしら。 群衆はただ、唖然として、亡霊み
たいな顔をしているだけだ。
「ねえ誠人。あなたも分かるでしょう? 長いこと父と一緒にいたじゃ
ない。あの姿から、不吉なもの感じるでしょ」
しかし誠人はシェマに言い寄った。
「もし何かがおかしいとしても、涼子ちゃんが生死の淵にある」
シェマは髪をかき上げ、再び眼光をさらけ出した。
「あなたは加賀涼子を救いたいの?」
「人が理不尽に死ぬなんて、ひどい」
誠人は言った。
「救いたいのね。そのためには、あなたが持っている切り札を出さなき
ゃいけなくなる。世界中の人達を犠牲にして、あの少女を救うの? 救
えたあの子だって、結局心はなくなる。死んだも同然よ。私の弟に殺さ
れたってどちらにしろ同じ。血を流すか、流さないかなのよ」
その言葉に、誠人は憤った。
「涼子を殺せってシェマは言ってるのか? まだ十五だぞ。十五年しか
生きてない。望くんと同じ歳だ」
改めて私は呆れる。結局望と重ねているのだ。誰の命も大切にしてい
る、それは本心ではない。
「その望くんから聞いた話なの。加賀涼子がそういった考えを持ってい
るってことは。いえ、もうあれは思想よ」
初耳だった。ゆえに、意識せずとも仮面が綻びそうになる。
シェマが私と目を合わせようと、立ち位置を少しずらした。私の目も、
それに合わせて動いてしまう。
「望くんもできることなら生まれてきたくなんかなかった、って言って
た。でもね、決して世界が滅んでしまえばいいのになんて、思ってなか
ったのよ。たくさんの人が死ねばいいなんてね。だからあの二人はウマ
が合わなくなった。確か、彼から聞いたのは祭りの前の日だったわ」
私の視界の中で、誠人がシェマから顔を逸らし、「知らなかった」と
呟いた。そして私を超えた遠くを見つめた。どこだろう。空軒望がいる
ところだろうか。
知らなかった。彼を含めて、おじさんもおばさんもみんな知らなかっ
たのだ。一様に意外そうな目をして、その目線が私の体を撫でる。私は
目線に触れられている。
確か、あの夜小さな家で泣いた。海で濡れた髪が額に張り付いていた
こと、その感覚が今にも蘇ってくる。あの日望は「ごめん、ない」と冷
たく言い放った。言葉で放り投げただけじゃない。実際に肩を掴んで、
水辺に押し倒したのだ。
私を冬に押し戻したあの少年のせいで、私は生理的にセンチメンタル
に傾いていく。そしてシェマに言い放つ。あの日の空軒望のように。
「あんたおかしい」
私の声は、確かに怒りに満ちていた。
シェマがしてやったりという顔をして、ワーメヌトが息を呑み、群衆
がやっぱりかと目の色を変える。私は悪者扱い。春の夜の生暖かさが癪
に障って、もう我慢できなくなった。
「きっとあんたら――誠人とシェマ、あんたたちが望くんに入れ知恵し
たんでしょ! 世界は美しいって、ちゃんちゃらおかしいことを植え付
けた。あのね、誠人に連れてこられる前は厭世的だったはずでしょ。誠
人が望くんを狂わせたのよ、その結果私を悲劇に堕としたの」
もう構うものか。私はこの世に生を受けてから今までの間、溜め続け
た憎しみをぶつけるように、人々の前で目を見開いて見せた。
群衆の最前線に立つ女はびくともしない。あの女、さっさと崩れ去っ
てしまえばいいのに。
「認めたわね。聞いた、誠人?」
女は決して私から目を逸らそうとしなかった。そしてさぞ傲慢に後ろ
も向かずに命じる。
「助ける必要もないでしょうよ」
群衆が闇の中でひそひそとざわめき、シェマが黙って片手を進行方向
へ示した。誰もが歩きはじめる。
私は不利な状況に陥ってしまった。
瞼が強張って、頭上の大きな顔が見れない。人々が静寂を壊すのを聞
くくらいしか、私には許されていない。
「殺すの?」
私は訊いた。
「出来の悪い奴だ」
殺される。このナイフで首を抉られて鮮血と痛みを味わう。この細い
首なんて一突きにされる。私は、人間の生存本能ゆえなのか、震えが始
まっているのを知った。
「痛いのは嫌よ」
しかし私の震えは無理やりに大男に押さえつけられてしまった。
恐怖に蝕まれている少女。当然の報いだけど、私は果たして間違って
などいないのだろうか。人が死のうしていることは、それだけでおぞま
しいことだ。
痛いのは嫌。それは間違いもない涼子の本心だ。けれど、世界を守り
たい、これも私の本心である。迷いの中にあって、本当に闇に堕ちてし
まった年頃の少女。涼子のような少女はきっと私が守りたい世界に沢山
いるし、涼子だけが特別なわけじゃない。 私の本心。人を不幸にさせたくない。本当は涼子も救いたかった。
群衆のざわめきが遠ざかる。眉を固く寄せる。最もベストな道。
私は暗闇の中、悪魔のような閃きを生み出す。
自分が代わりに人質になればいい。
私をなら、私自身が殺されても構わないと決めたのなら、誠人が躊躇
する必要もない。涼子も世界も救われる最良の手段だ。
私は動き出す群衆の中で夜空を仰いだ。最後を讃えてくれるような月
は出ていなくて、体をゆだねればどこまでも沈んでいきそうな暗闇があ
った。 そして、空を仰ぐ自分の姿を想像する。
「ワーメヌト。いい提案がある。私が代わりに人質になるってのはどう
よ」
あの男は、もはや他人のような顔をしていた。
「訳がわからんな」
「誠人とその子、たいして繋がりないじゃない。その子が人質っての、
ちょっと安直すぎじゃないかしらね。それだったら私の方が最適でしょ
う」
あの冷淡な目。もはや私も彼の姉ではなくなったのだろう。
「お前、誠人に自分を殺させるつもりだろ。それでもって父さんの計画
をぶち壊すつもりなわけだ」
「誠人、私を殺せる?」
敢えて尋ねてみたが、私はあくまでワーメヌトに注意を払っていた。
あとで誠人に「私を殺せ」と伝えればいいだけだ。
「はん、こりゃますます意味が分からん。誠人はお前を殺せるはずもな
い。でもお前は殺させたがってるようだな」
私は自分を隠すようなことは決してしなかった。おそろしさも。。
「私の顔、見てごらんなさい」
弟に処刑されるのだから悲しいに決まっている。
目の前には興味深そうに口を歪める弟がいた。
「お前が誠人に殺されても面白い展開だな。まあそうなっても、おれは
誠人を吐かせるがな」
私は、それ以上彼らを視界に留めたくなかったから、固く眉を寄せた。
ワーメヌトが涼子を解放する音が聞こえる。
涼子を掴んでいた手に腕をつかまれて、私は自由ではなくなった。
シェマ、と誠人が呼ぶのが聞こえる。私はもうあなたのところへ戻る
こともできないけれど。
誠人は迷いの中にあったから、私は強く見つめ返す必要を感じた。
どうすればいいか分からない、暗い林道を背にして戸惑っている。け
れど私から目は逸らさないでいる。今はそれでいい。
「私の思い、分かるね」
きっと私を引き留めようとしたいのだろう。でも信じた。彼がいつも
持っている穏やかな目は、きっと私と通ずるところがある。彼は人を愛
することができる。
私は最後に、呆然としている涼子に向けて目を細めた。
起きても、ここは家じゃない。時計もきこえないし月も見えない。ここ
特有のざらざらとした空気が流れている。
闇が鉄格子をすり抜けて迫ってくるような感覚を覚えたとき。病棟に
ふさわしくない過激な衝突音が建物の壁を揺らした。僕は咄嗟に布団の
中に身を潜め、あの鉄格子が折れたり歪んだりしていないことを確認す
る。そして声を上げた。
「ヘンゼルくん大丈夫?」
彼もやはり眠りから醒めたらしい。
「今の何の音?」
「すごくでかい音だった。もしかすると事故かも」
例えば――トラックがこの病棟に衝突したとか。
「事故?」
ヘンゼルも僕も目の前の暗闇を見つめて、得体の知れぬそれを刺激し
ないように静まる。
「不吉だ」
「うん。僕寝たくない」
僕も賛成だ。眠っているうちに死ぬかもしれない。だから起きている
必要がある。
「何か、楽しい話をしよう」
僕は言った。もちろん年下のヘンゼルを安心させるために。けれど、
楽しい話なんて思い浮かぶはずもなかった。僕とヘンゼルが共通で好き
なグリム童話はどうだ。シンデレラ。むかしむかしあるところに……。
いや、それを語るには今の僕の状態では、きっと上の空になる。
そのときだった。
「誰、あなた。あなたが事故を起こしたの?」
ヘンゼルは僕に呼びかけているわけではない。つまり僕以外の誰かに
向けてだ。
靴が床を打つ音。病院の中で唯一動き回る誰か。ねっとりと足音を鳴
らして来る。
そして視界にありえないものが映った。暗闇の中でも傲慢さ放つ目。
その周りには大きな図体が隠れているはずだ。何も語らないが、あの二
つの目が僕を射抜いていた。
「なんでお前がここに」
「精神病院か。王国に住む奴らは所詮、社会負適合者なわけだ」
ワーメヌト。
僕は彼に目を合わせる。
何の目的でやってきたのだろう。世界征服はもう無理なはずだから、
敗れた夢の復讐だろうか。計画の鍵だった僕はいたぶられ、彼らの気を
おさめるのか。喉かからりと乾いた。
「国に帰りなよ。どうせ鉄格子は開けれない、そうだろ」
「体格の小さい老いぼれ警備員だったぜ」
ワーメヌトの闇に埋もれた手。鍵。
「なんでか知りたいか? おれがここを突き止めた訳を。まあ簡単だ、
王国には沢山の種類の人間がいる。元ストーカーだとかな。こいつの手
を借りれば全部うまくいった」
僕はできる限りの唾液を呑みこみ、声だけはいつも通りに出せるよう
にした。
「連れていっても、殺しても意味はない。どうせお前たちの計画なんて、
うまくいかない」
金属のぶつかる音がする。鍵と鉄格子。
「誠人はお前を助けれないね、絶対に」
僕は瞬間的に顔を上げていた。また同時に、誠人は僕を助けてくれる、
とあいつの言葉を変換する。ワーメヌトの目に射抜かれていた体が少し
ずつ感覚を取り戻す。
「お前の好きにすればいい」
「死ぬ運命だと悟ったか。賢いガキだ」
鉄格子は力任せに開かれ、ワーメヌトが押し入ってくる。通路の空気
が押し寄せ、否応なく部屋のと混ざる。立たせられると、腰に縄をつけ
られ、鉄格子の外に出される。
横目で自分の入れられていた牢屋の全体像が見る。
扉の開いた鉄格子。何もないはずだけれど、僕の出た跡にはさらに濃
い闇がうずまいているように見えた。
王国へ行くためには歩かなければならない。頭上の北極星は今日も光
っていて、わずかに地面を照らす。本当にわずかだ。だから、少し先は
獣が潜んでいてもおかしくないくらい真暗だった。
僕は頭上を見上げる。ここは誠人と歩いた道なのに、とずっと思って
いる。腰縄を引っ張られ、そのたびにバランスを崩しそうになりながら
も前方を睨みつける。
もう少し耐えれば誠人と再会できる。
けれど、ふと僕は場違いな不安を覚えた。この騒動が終わったらまた
自分は普通の生活へ戻る。
いや、今は余計なことを考えないほうがいい。チャールの計画を潰す、
これこそ僕たちの残された使命だ。自分はそのために腰縄を付けられ、
歩いている。
石造りの鳥居が見えてくる。けれど今日はその手前に、大きな十字架
が地に刺さっていた。十字架。磔。僕はシェマが磔にされているのを目
の当たりにした。暗い中でも彼女の細い呼吸が伝わってくる。
僕は後ろに下がり、あいつの手に握られた腰縄の先端を引っ張った。
「ああ、あいつも人質さ。惨めだろ? 実の弟にやられてさあ」
こいつには心がない。僕は震える息を呑んだ。
「シェマさん」
呼びかける。
でも、顔を上げた彼女は強い眼差しを保っていて、実の弟にそれを向
けた。何もかも振り切った、決意の色を見せて。
「あんたこそ無様よ。父さんから一生離れられないなんて」
ワーメヌトは僕の腰縄の先を手遊びながらあくびを発する。
「姉さんの方こそだろ。そんな傷だらけで、じきに死のうとしてる。は
は」
姉弟のやり取りはそれまでだった。シェマは以前のように僕へ声を届
けた。
「私に加えて、あなたまでまた人質になってしまった。本当に悪いと思
ってる。ごめんなさい」
鎖で十字架に押さえつけられた彼女の手首は紫色。僕は体を前に乗り
出させる。
「いいんです。友里さんにとって大切な人だったってことですから」
「そうね。あなたたちはいい関係だった」
いい関係だった、という過去形。僕たちはまだ死んではいない。首を
振った。
しかしワーメヌトは一笑した。
「悲しそうな顔だな、姉さん。誠人を寝取られたのがそんなに悔しいの
か」
シェマはもはや、彼が弟だとは捉えていなかった。僕の目にも彼らが
姉弟だとは映らなかった。
「どこが悲しそうに見える」
そしてまた彼女は僕の方へ戻った。
「だからね、だからこそ――言い方はおかしいのかもしれない。けれど
望くんは人質としてのことを全うしてほしいの。まだ先は長かったはず
なのに、こんなのおかしいけれど……」
この命を落とす。誠人はチャールを拒み、世界は救われる。チャール
の出した条件どうりに進めば、だが。
けれど誠人は僕も世界も傷つかない方法を見出してくれる。根拠のな
い幼稚な想像じゃない。彼はあの夜僕を迎えに来てくれた。運命的で、
何か大きな力が働いたに違いないのだ。
「大丈夫です。みんなが助かる方法があります、きっと」
やはりシェマははっとしたようだ。彼女は僕じゃないから、人知を超
えた体験はしていない。だから大丈夫だと実感できないだけなのだ。
僕は決意を込めて頷いてみせた。
「それはいけない、無理よ。人質を全うすることを考えたほうがいい。
だって、その方が心づもりっていうのがあるわよ。お願いよ、望くんは
怖いだろうけど、せめて最期はできるだけ落ち着いて眠ってほしい。言
い方は本当にひどいわ。でも、ありえない希望を抱いたまま逝くなんて、
本当にだめよ」
いいや、本当に大丈夫。もう一度言うけれどシェマは実感できてない
だけだ。
「安心して。僕たちには友里さんがいる」
それでも、唯一自由が利く首を彼女は振っていたけれど、もう行かな
くてはならなかった。ワーメヌトは待ってはくれない。
本当に駄目なの、と呟くのが聞こえたときには既に、僕は鳥居をくぐ
っていた。
月は丸かった。丘の上の館の窓から漏れる赤っぽい光。月とは間反対
に、騒々しく夜の闇を荒らしていた。
牢獄に閉じ込められた誠人と対面する。彼は僕が来ると沈んだ顔を上
げた。
僕たちは鉄格子に歩み寄ると、指先でもお互いに触れ合えるようにす
る。彼の細い人差し指を僕は撫でる。誠人はそれを静かに見ていた。
「お久しぶりです」
僕は声を届けた。
誠人の指先が力なさげに丸まる。
「ごめんね、僕のせいで……」
大丈夫ですよ。指先に、僕は彼にだけ分かるように力を込めた。
「でも再会することができました。それでいいんです」
長くは居られない。そう思い、ワーメヌトに中断される前に囁いてお
く。
「友里さんの意思を貫いてください」
「分かった。望くんは安心していて」
頷く代わりに、指を曲げる。それがこの場における僕たちの合図にな
った。
僕たちの再会はそれほど長く激しいものではなく、すぐにワーメヌト
に誠人が連れていかれる。僕は牢獄に入れられ、鉄格子から誠人を見た。
さようなら、じゃない。僕はここで待つ。今晩の間だけ、ここにいるだ
けだ。朝は来る。
「神はわたしにこの世を治めなさいとおっしゃっている。だからお前も
こうして、最終的にわたしの方へついたのだろう」 僕があの日、望を助けに行くためにチャールを押し倒したとき、彼は
とても怯えた顔をした。かつて治めていた国が乗っ取られたときと同じ
顔だった。けれど、今回はどうしようもない。確実に望が傷つく。
チャールは形もない何かと交信しているみたいに、何もない空間を凝
視していた。一方で僕は、体はここに置きながらもずっと地下牢の望の
ことを考えている。
「心を決めたか」とチャールが尋ねた。
僕は「決めた」と返す。きっぱりと、もう迷いもなかった。
自分を犠牲にしてでも世界を救いたかったシェマの信念。彼女には本
当に悪いことすることになる。こんなことを思っているとシェマや神様
が知ったら、きっと激怒して自分を地獄に落としてしまうだろう。
でも僕は地下の望を想い続けていた。
生まれて初めて、僕は僕らしくある。この信念は譲れない。
胸に小さな熱が溜まって、じきにそれらは満ちようとしている。
「チャール、原始チューニングを発動させます」
原始チューニング。旅の途中で行った先の先住民が受け継いできたと
される音こそが、それだ。彼らは笛を使い、特殊な音で獰猛な動物であ
ろうと支配していた。
その音が頭の中に呼び起されたとき、脳がくらりと揺れる。
偶然にもチャールが笑った。息子のワーメヌトと似た、傲慢そうな目
の見開き方で。そして手に持った瓶を傾け、錠剤を床にばらまく。
「飲みたかったら飲んだらいい」
これも先住民が作り方を知っていた。あの音に対抗する唯一の手段。
この粒を飲めば助かることができる。書斎の机から見下ろされながら僕
は錠剤を呑みこんだ。余りは懐に入れる。
「偽善者が。結局はお前も私の、聖なる革命の一員になりたいんだろう。
少年に必ず助けに行く、と約束しても、そんな気はさらさらなかった。
ああ、あの少年が痛まれるよ」
僕は冷めた目をしているのがばれないように目を閉じた。
懐に余った錠剤を隠して、望に届ければいい。方法のあてはある。初
めて望が牢に入れられたとき、調子に乗ったチャールは「最後の晩餐を
少年とシェマに食わせてやろう」と僕に作るよう指示した。
きっと今日もそのはずだ――だから、敢えて僕から切り出した。
「晩餐、作りますよ」
大儀そうに老人は立ち上がる。
「人間の世界は終了する。さ、マインドーラーへ向かおうじゃないか誠
人」
あなたに服従するフリをするのももうじき終わる。さようなら。僕は
崇高な儀式とやらの前で緊張なんかしていない。
それから調理場へ行き、僕は六人分を作った。手下二人、ウィットー
親子、自分と望。今目の前にしているのは何も仕掛けられていない料理。
僕は、仕込むのがばれないように注意深く周りを見回す。一つだけ質素
な器に盛りつけられたご飯。これが望のだ。 懐に手を入れようとしたが、一呼吸置く。調理場の入り口へ行き、左
も右もただの闇であることを確認した。そして戻ってきても、入り口に
背を向けて絶対に見られない角度に立つ。
錠剤を粉々に砕いてからご飯と水に混ぜた。
僕は静かに手下を呼び、牢へ運ぶように伝える。
彼の背を見送ってから、僕は自分の指先を撫でた。
いつでも僕を射殺できるように銃口がこちらを向いている。でも大丈
夫、きっと誠人が助けに来てくれる。あのロボットのように感情が見え
ない手下を殴り倒してくれる。
でも心臓は脈打ち、体に響く。
頭の片隅で「だめよ」とシェマの呟きがきらめいて消えた。僕は死ん
でしまうだろうか――。いや、きっと誠人はくる。
ふいに、僕は体をさらに固くせざるを得なくなった。手下たちに動き
があった。階段から誰かが降りてくる。料理が載せられた盆を持って。
「最後の晩餐だ、食べろ」
鉄格子が開けられ、盆が入れられるとすぐに閉じられた。僕にはその
間の時間がひどく長く感じられたが、決して逃げ出せやしないのは分か
っていた。だから僕はその代わりに上の階に向けて誠人へ念じる。シェ
マの懸念は現実にはなりやしない。
盆に乗せられていたのは豪勢な和食だった。けれど箸なんて持てず、
結局のところ水を飲むことで食事というのは終わってしまった。水が何
にも遮られずに、ただ喉を通り抜けていく。
「私は彼らに――ウィットー国を乗っ取った輩に復讐できる。あいつら
だけじゃない。世界中の穢れた、あらゆる人間にだ。穢れた欲望をすべ
て浄化する。私の住む世界はクリーンになる」
実に真剣な、燃える松明を反射するチャールを僕はただ眺めるだけ。
あとはやるべきことを実行すればいい。「やめるなら今だぞ」なんて声
は実際のところあったけど、ないに等しい。もう僕はやるしかないのだ
から。
水に満たされた小さな器。のっぺりとした器の水に自分の顔が映る。
たしかに、今から自分はとんでもない悪人になる。けれど自分は自分
を取り戻せるのだ。両親に捨てられていなかったら今頃は自分の人生を
歩んでいたはずだけど、ウィットー家にやられて僕のそれは奪われてし
まっただけだ。大丈夫、自分の信じる人生を選べばいい。あの夜を思い
出せ。望は僕にウィットー家から抜け出すチャンスをくれたのだ。
僕の居場所はきっとあそこだ。
ワーメヌトが僕に見慣れたマインドールを渡す。これを使ってマイン
ドーラーの前で原始チューニングをすれば全て終わる。
素直に頷き、僕は瞑想状態に入る。
全てが静かになり、松明の音が自分の中にしみいり、瞼の裏に血の流
れる色が見える。何か渾然としたものが体から出ようとしている。僕は
それを解き放つように瞼を開けなければいけない。
そして瞳をさらけ出した。
歓声のような奇声がマインドールから鳴り響く。音そのものは一瞬器
の底に沈み、急激に水は渦を巻き始める。渦の中心から最初のよりも何
倍も強い叫びが生み出されていく。
自分が耳にしていられたのは束の間で、それからは強い耳鳴りが襲っ
てきた。きっと耳は潰れた。机の上にある細かな部品が振動で床へ落ち、
あの二人は既に床へ倒れていた。 渦。全部かき消される。生のあるも
のすべてが。
僕のその一部だ、と思ったとき、胸を音波よりも強い僕自身の声が打
った。 はやく助けに行け
自分がかき消されてどうする。僕は金縛りから脱するように、あらゆ
る力を込めて息を吸った。
そして階段を駆け上り、書斎に出て、また別の地下に降りた。牢。石
造りの壁、天井から小さな粒がしたたる。僕は手下を一目見ると、思い
切り殴って地に伏させたた。鍵を奪う。鉄格子を開く。
横たわる望。駆け寄り、口元に手を当てると温かい息があった。急い
で髪にかかった小さな粒をすべて手で払うと、望の耳を自分の体と密着
するように背負った。
大きの粒が混り降ってくる中、早急に外へ到着する。
自分の耳の奥にある鼓膜は、ひだが触れ合っているみたいな感覚があ
った。振動はしているのだろうけど、もう使い物にならないだろう。
僕は丘の上から王国の風景を見た。無音の中、ささやかな風が吹き、
緑が揺れる。太陽が照る。
それらを目に留めると僕は王国を走り抜けた。ちょうどその途中、視
界の端で乳白色の館が形を崩壊させた。
穏やかな光の中で目を開くと、ステンドグラス越しにいろどられた太
陽が見えた。巨大な花を一枚の大きなガラスに描いているここの教会。
ステンドグラスのもとで、太陽を見ている人物がいる。ちょうど薄緑に
染まった光が彼に落ちている。
長椅子に横たわっていた体を起こし、その人物に近づく。不思議とス
テンドグラス越しの光は柔らかく、簡単に彼の姿を捉えることができた。
僕よりも頭二つ分くらい背が高くて、そっと立っている。
きっと僕は死んだ。そして天国なのかどうかは分からないけれど、死
後の世界は存在した。
僕はこう理解する。人は死んだら世界をひとりで浮遊するのだ。そし
て不思議な幻想を見る。
「誠人」
僕を振り向かないであろう彼の名を呼んだ。けれども彼は僕の方を向
いた。間違いなく、自分が生きていたときに見た誠人の姿だ。しかも控
えめな目の細め方でさえ同じだった。
「望くん」
僕は、成仏するのには彼の姿を見るだけでも十分な気がした。実物は
もういないのだけれど。
「僕は、死んだのですね」
「生きているよ」
そうは言ったものの、ステンドグラスの光のもとで立つ彼はどこかに
溶けていきそうだった。
「世界中の人々は死んだんだ。僕と望くんは助かった」
世界中が死んでいる。二人は助かっている。
僕は不覚にもなるほどと思ってしまう。この教会がとても静かで昔話を
聞くような感覚になっているのか、事実の大きさに頭が麻痺しているの
か、どちらかは分からない。
すなわちマインドーラーによりこの世は滅ぼされた。あの日のように
誠人は僕を救い出して逃げた。
「どうして」
ここが本物の教会であるという事実はヘビーな意味を含んでいるはず
なのに、実感が湧かない。宇佐や母が虚ろになって死に、沢山の人種の
人がこの世からいなくなった。理解はできる。
僕はとたんに、誠人が僕のように見えて、まるで目の前に鏡があるみ
たいに感じた。自分が映っている。手のひらを彼の前に出した。数秒遅
れで彼も、僕の手のひらに重ねてくる。手とそこに落ちる日光の感触。
ステンドグラスも、誠人も僕も本物だ――。
僕はひとまず自分が納得しているのだと思うことにした。
「なるほど」
これらが本物であることは自然で、昔から決まっていたみたいな感じ
で。
僕は水を汲んでくると言って外へ出た。外にはいつもと変わらぬ林が
あった。僕は頭上の太陽に体を温められ、井戸の傍にちょこんと置かれ
た銀の器に水を満たす。
戻ると僕たちは半分ずつそれを口に含んだ。太陽に暖められた器は、
人の体温くらいの温かさを持っていた。
僅かに額に汗が滲む。蝉の声、そして使われなくなった高速道路のガ
ードレールに生えた苔。向こうにそびえる山々のどこかでささやかな鳥
の啼き声がして、風が道路と肩を何気なく通り抜けていった。
「ここかな――」
耳元に誠人は手をあてていたので、背伸びをして口を彼の耳元まで持
って行く。
「ここだったんですよ。僕の居るべきところは」
「この使われていない道路が?」
首を振り、僕は腕を一直線に広げる。すると当然、右に並んで歩く誠
人に腕が当たった。
「半径一メートルにも満たないこの場所が」
「半径一メートル」
また鳥があの山のどこかで啼き、彼はそれを見つめ、僕は腕を下した。
そして彼の手は僕のと繋がれた。
ここかな
ここかな
「僕はなんで生きてるの?」と日常に溜息をつく少年が、 王国 から来た青年に連れられて、少しずつ「自分」が
前向きになっていく話。
作
空軒シラビ
更新日
2016-09-22
登録日
2016-09-22
形式
小説
文章量
長編(92,130文字)
レーティング
全年齢対象
言語
ja
管轄地
JP
権利
Copyrighted (JP)
著作権法内での利用のみを許可します。
発行
星空文庫