藍色の魔女の中つ国見聞録 ID:95578

藍色の魔女の中つ国見聞録
水棲の猫
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︻あらすじ︼
││藍色の魔女は、今日も中つ国を巡って行く。
http://arda.saloon.jp/map2.htm
l
※中つ国wikiより﹃第三紀中つ国北西部﹄の地図です。合わせ
てご覧ください。
※指輪物語を知らない方でも読めるような作品を心掛けておりま
す。名前しか知らないという方でも気軽に読んでみてください。
※過去に投稿していた﹃藍色の魔女の勘違いイスタリ記﹄と主人公
は共通していますが、そちらの作品は読まなくとも問題は全く有りま
せん。むしろ設定を多少変えています。
プロローグ 山の下にて │││││││││││││││││
目 次 藍色の魔女とは │││││││││││││││││││││
1
魔女の矜持 │││││││││││││││││││││││
ロスローリエンの奥方 ││││││││││││││││││
二ムロデルの川 │││││││││││││││││││││
8
16
25
36
プロローグ 山の下にて
かつて世界には神秘と自然が残り、様々な種族の存在が自由に闊歩
していた時代があった。人間だけにとどまらない、あらゆる存在達が
生きていたのだ。例えばそう、
││あらゆる知恵や技術を持ち合わせ、永遠に等しい不老の命を
持ったエルフ。
││地下深くまで金銀財宝を求めた、細工と鍛治を得意とする屈強
なドワーフ。
││どの種族よりも平和を愛しながら、精神は何者より強い小さな
人ホビット。
ここに挙げたのはほんの一例に過ぎない。彼らの他にも多種多様
の種族の存在が、一つの世界で共に暮らしてきた。時には手を取り合
い、また時にはいがみ合い、各々の信条に従い自由に生きていた。そ
のような時代における世界の事を、〟中つ国〟と呼称した。
そしてこの中つ国には、何も平和と安寧だけが讃えられた訳ではな
い。恐怖と暴力に生きる悪の存在達もまた、等しく中つ国を闊歩して
いたのだ。例えば全ての種族を憎悪するオークだとか、狼と似た姿を
持ちながら遥かに知能が高く残忍なワーグがいる。だがそれらとは
比べものにならないくらい、非常に強大かつ邪悪であった悪の親玉と
呼ぶべき存在がある。
││名を、冥王サウロン。彼の持つ偉大にして最悪の力と、そして
身に付けた者の力を計り知れない程に増幅させる〟一つの指輪〟に
よりあらゆる恐怖を恣にして、中つ国に生きる善なる側の全ての存在
にとっての怨敵となったのだ。その暗黒の力で中つ国を支配せんと
企み、実際最盛期には悲願に限りなく近づいたことすらある。
けれど彼は最終的にはその力の源であった一つの指輪を失い、邪悪
な力は地へと失墜した。しかし最も肝心であった指輪の破壊は未だ
為されず、それどころか今現在は何処にあるかも分からないという有
様。これが破壊されない以上はサウロンもまた完全には滅びない以
上、このままでは中つ国に真の平和は訪れない。
1
故に、事情を知っている誰もがこの指輪の行方を気にかけている。
それは中つ国の平和を憂うからこそでもあれば、指輪の放つ抗い難い
魅力に囚われてしまったからという時もある。理由は様々、だがこの
一つの指輪が無くならない限り冥王の影は常に平和の隣に居座り続
けるのは確かである。
さて、その一つの指輪にまつわる詩の中にはこの様なものがある。
一つの指輪は、全てを見つけ、
一つの指輪は、全てを総べ、
一つの指輪は、全てを捕らえて、暗闇の中に繋ぎ止める。
暗黒語でこの詩が彫り込まれたのが一つの指輪で、そして指輪物語
とはその指輪を巡ったあらゆる勢力の物語であるのだ。それは人間
やエルフはもちろん、神秘を体現し長きに渡って中つ国で戦い続けた
魔法使いとて例外ではなかった。
この話はサウロンが仮に滅びた時からおよそ三千年後、〟一つの指
輪〟発見間近に活躍していた一人の魔法使いの軌跡である。
◇
その場所は、闇に閉ざされていた。
静寂のみが支配する暗い地の底は、水気を帯びた空気が辺りを包み
込んでいる。ぴちゃん、ぴちゃんと規則的に滴り落ちている水の音
は、思わず来たことを後悔させてしまうくらいには神秘的で恐ろし
い。そして時折ばしゃりと大きな水しぶきの音が上がるのは魚か何
かだろうか。つまりここには川かそれに準ずるものがあるのだろう
が、生憎と暗すぎて何も判別できない。もしこれが魚以外の生物が立
てた音と言われても、容易に納得出来てしまう程だ。
しかし、次第にこの環境に慣れてくるにつれて見えるものも変わっ
てくる。段々とうすぼんやりだが辺りの闇が見通せるようになると、
それに伴って先のしぶきの原因と思しき湖の反射光が見え始めて来
た。暗闇より姿を現した湖は広大で、その真ん中には小島が一つ突き
だしている。さらに漣を立てて揺れている水面は淡い光を放ち、照ら
された先の岸壁とそこにいる蝙蝠たちの姿を朧気ながら映し出して
いた。
2
この場は全体として暗く淀んだ地であり、もしここに哀れな誰かが
迷い込んでしまったとすれば、どうしようもなく不安と共に途方に暮
れてしまうのは想像に難くないだろう。
炎
よ
││そんな暗闇の地底湖に、突然ブーツを踏み鳴らす足音が響い
た。
﹁相変わらず嫌な所ね⋮⋮ナル﹂
聞こえてきた声は女性のもの、それもまだ若い声が地底湖に反響し
た。明らかにこの場においては違和感を感じさせる存在の登場に、湖
自体がまるでざわつくかのように僅かな波紋を立て始める。
そして、女性の呟きと共に突然辺り一帯が暖かな光で照らしだし
た。なぜなら、柔らかな橙色の炎が湖の上に投げ込まれたからであ
る。すると瞬く間にこれまで場に横たわっていた暗闇が除かれてい
き、本来の光景を白日の下に晒しだした。
まず目につくのはぬるぬるとした周囲の岸壁だろうか。生理的な
3
嫌悪感を誘発してくるそれらは、うっかり触ってしまった日には相当
な後悔に苛まれることだろう。そして先ほどはぼんやりとしか見え
なかった小島は今やくっきりとその姿を現し、よく目を凝らせば数十
年前には何者かが住んでいたかのような痕跡をしっかりと残してい
るのが確認できる。そこもまた岸壁と同じくヌメヌメと輝いており、
近寄り難い気配を放っているのだった。
﹂
﹁見た感じは何も変わらず、か。だけど気配が全くない⋮⋮もしかし
て空振り
が目立つ。ゆったりとしたローブは身体のラインを隠しており、けれ
女性の方は、まず何よりも魔女の如き黒い三角帽子と藍色のローブ
して何かを捜すかのような様子を見せている。
もこの光景に対して物怖じすることなく、むしろ堂々と地底湖を見渡
どの女性と思しき人物とその横に控える一頭の黄色い獣だ。どちら
湖に差し込む幽かな光と明るく輝く炎に照らされているのは、先ほ
そうにない。
が含まれている。果たして彼女が何に落胆したのか、今はまだ分かり
広い地底湖に、再び女性の声が響いた。その中には僅かな落胆の色
?
ど下半身は短めの黒いスカートから白い足が覗いている。よく整っ
た顔には赤い双眸が光り、黒に限りなく近い青色の髪は湖上に燃える
炎の色に染め上げられていた。
外見から察するに、だいたい二十歳前後といったところか。背中の
中ほどまでの長さの髪を項で二つに分けたその姿は、魔女の格好であ
りながら清楚な印象も同時に与えてくる。
三
メー
ト
ル
そしてもう一人、いや、もう一頭は巨大であった。大きさにして凡
そ九フィートはくだらない体長を誇るのは、立派な鬣と毛並みを保持
する獅子である。おそらくは彼と呼ぶべきであろうその獅子は、先の
女性の横に大人しく控えている。その様子からは微塵も凶暴性は感
じられない。
やはりどちらもこの場に来る理由が不明であり、しかも不思議な取
り合わせと言えるだろう。特に獅子は人を襲ったりするもののはず
なのに、全くその気配を見せないどころか魔女に頭を撫でられ心地良
さそうにしている。そうしてしばらくその場に留まりながら獅子の
頭を撫でていた魔女は、彼の頭から手を離すと湖の淵に沿ってゆっく
りと歩き出した。
百
九
十
セ
ン
チ
カツカツと、魔女がその手に持った杖が岩とぶつかる音が響き渡
る。そ の 杖 は 魔 女 よ り も 頭 一 つ 分 は 大 き い 六フィート三インチ ほ ど
もあり、黒く真っ直ぐとした本体の最上部には碧く輝く宝石らしきも
三
十
セ
ン
チ
のが嵌められている。さらに石突と呼ばれる地面とぶつかる先端部
は、奇妙なことに十二インチ程の長さの氷柱状に凍りついていた。そ
んな奇怪な杖を持った魔女の右手には、ラピスラズリが飾られ煌めく
指輪がある。青く輝く宝石は炎によって表面を揺らめかせて、魔女の
・
・
・
・
・
白魚の様な、けれどよく見れば傷だらけの指に嵌まり不思議な存在感
を放っていた。
﹁あの謎問答からもう五十年近く経ってるとはいえ、まさか本当にい
なくなってるのかしら⋮⋮﹂
獅子以外は誰も居ない様に見えるのをいい事に、魔女は独りごちな
が ら も 周 囲 を し き り に 見 渡 し て 何 か を 探 す よ う な 素 振 り を 見 せ る。
その間にも見知らぬ侵入者に興味を持った蝙蝠達が彼女の頭上を飛
4
び交うが、魔女は特に気にした様子もなく外縁部を一周して最初の位
﹂
置へと戻って来た。そしてまるでそれが当然と言うかのように、その
貴方の鼻からしても彼は居なさそう
場で待っていた獅子へと話しかけたのだった。
﹁どう、グイネ
デ
色がありありと浮かび上がっている。
イ
ル
﹂
?
来ているはず。それが無いってことはまだ大丈夫よ、落ち着きなさ
⋮⋮いやでも、それならきっと私の所にオーク達の大軍が押し寄せて
﹁⋮⋮まさかとは思うけど、〟モルドール〟に既に囚われている
付いたかのように顔を上げた。その表情には信じられないといった
うんうんと唸りながら思考に没頭している魔女は、ふと何かに気が
ころか、噂すら聞いてない⋮⋮。うーん、どういうこと
ホビット庄〟だって何回も行った。だけど彼の影も形も見てないど
﹁これまでも何度か〟離れ山〟や〟谷間の国〟は見に行ってるし、〟
エレボール
行い、情報を整理していく。
故におそらくは彼女の癖となっているのであろう独り言を躊躇なく
な存在は誰も居ないのだから、魔女が気にすることもまた無かった。
可解な単語も飛び出している。けれどこの場にはそれを咎めるよう
顎に手をやりながら考え込んでいるらしい魔女の口からは、一部不
てそんな長期間も一体どこに⋮⋮﹂
の予想よりもっと彼の移動が早かったのかしら。でもそれにしたっ
﹁おかしいわね、まだ〟原作〟の始まる三十年も前のはずなのに。私
を見つめる。
は無かったらしい。帽子を取って頭を抱えながら、炎に揺らめく湖面
ともかく、どうやら獅子グイネの齎した結論は魔女の求める返事で
と同じだけの頭脳を持ち合わせているらしい。
言えなかった返答を完全に参考にしているのを見るに、この獅子は人
魔女の反応を見れば明らかである。グイネからのあまり色良いとは
いや、実際理解しているのだろう。それは彼の返事に肩を落とした
女の言葉を十全に理解しているように見える。
と一声鳴いた。そのうえ首を僅かに横に振っている姿は、あたかも彼
魔女からの問いかけに、果たしてグイネと呼ばれた獅子は﹁ガウッ﹂
?
?
5
?
い﹂
自分に言い聞かせるように呟いて、魔女は指に嵌まっているラピス
ラズリの指輪を自身の額に当てた。するとそれだけで情報を絶えず
纏めていた頭が透明になり、普段通りの平静を取り戻す。それによっ
て思考の海からも帰還した魔女は、踵を返して地底湖へと背を向け
た。どうやら、ここには既に用は無いらしい。その後ろを巨躯に似合
わぬ静けさでグイネが続いた。
唯一の客であった一人と一頭が姿を消したことで湖の上で輝いて
いた橙色の炎もすぐに萎み、地底湖は元の暗闇へと立ち返る。輝きに
すっかり目をやられてしまった為にもはや何も見通せぬ闇として復
活したそこは、何者も寄せ付けない静謐さを取り戻す。
そして地底湖を後にした魔女と獅子は、狭い洞窟の中を器用に進ん
で行く。彼女の手の中にある杖の宝石部分からは藍色の柔らかい光
が発せられ、それが暗闇の横たわる細道を明るく照らし導いている。
﹁ガウッ﹂
・
・
吼えるでもなく、ただ短く啼いた。普通の人間ならばまず理解出来
ないその返答も、魔女にとってはそれで十分であったらしい。
﹁ふふ、そうね。貴方に聞くような事では無かったし、弱音を吐くのも
らしくないわね﹂
僅かに笑みを浮かべた魔女は黒の三角帽子を被り直し、照れ臭そう
にしながら前を歩いていく。狭い洞窟の道は相も変わらずじめじめ
とした空気と質感を持っているが、それも彼女の足を妨げる要因には
なりはしない。そうしておよそ十分も歩いたところで、岩の裂け目か
ら外の光が差してきた。どうやらここで洞窟は終了らしい。
裂け目に身をくぐらせて光のひざ元へと踊りだすと、途端に洞窟の
環境に慣れた魔女たちの目を灼いた。非常に強い光量を前に魔女は
6
それを頼りに元来た道を歩みながら、魔女はグイネに語り掛けた。
もし使
﹁⋮⋮ねえ、グイネ。もし私という例外が居るせいで一つの指輪がサ
﹂
ウロンの手元に戻ったら、私はどうすればいいのかしらね
命が失敗に終わってしまったらどうしよう⋮⋮
?
少しばかり不安の声が滲んでいるその問いに果たして獅子は、
?
急いで帽子のつばと手を使って日差しを避けると、少しずつ彼女の目
にも外の光景が映りだす。どうやらそこは山の斜面らしく、辺り一帯
に紅葉を付けた木々が立っている。
それらを少しだけ眺めた魔女は満面の笑みを浮かべながらも、堅い
覚悟の混ぜ合わされた顔をする。
﹁さて、それじゃあいつも通りに藍色の魔女として頑張るとしましょ
うか。イスタリとしての誇りがこの胸にある限り、何があろうと最後
まで、私は諦めるなんて事はしないわよ﹂
決意の言葉を改めて彼女自身の胸に刻み込み、斜面の間に生えた
木々を縫って降って行く。その後ろからは獅子のグイネが付き従い、
中天に昇った太陽の輝く空からは一羽の烏が待ち構えていたかの様
に魔女の下へと降り立つ。こうして一頭と一羽の獣を従えた魔女は、
中つ国の何処かを目指して歩き去っていくのだった。
◇
イ
ス
タ
リ
中つ国の第三紀二九八九年、この頃は再び悪の影が世界を覆い始め
た時代である。そしてこれは、その時代に生きた魔法使いの物語。主
役である魔女には様々な呼び名があるが、その中でも最も有名かつ通
りの良い名前と言えばすなわちこれであろう。
││藍色の魔女、アンナレーナ。それこそが、千七百年の時を生き
ている彼女を示す最初の名前であった。
7
藍色の魔女とは
││藍のアンナレーナとは、とかく不思議な魔女であるというのが
中つ国における一般論だ。
まず彼女を示す特徴は、何と言ってもその穏やかな性格と放浪癖だ
ろう。各地を流離い定住しようとしないこの魔女は、中つ国にある
種々の国や村を周って過ごす事を基本としている。更には大の子供
好きで、平和な各地を訪れると様々な子供とふれあい、それと同時に
子供の親とも交流を持とうとする。そして中つ国でも有数の薬師で
あり、彼女の調合する薬剤はよく効くと専らの評判だ。
そんな平和な一面に反して、血腥い戦争が起きると遅かれ早かれ必
ずその姿を現すことから、一部では戦争を好む残虐な死の魔女と恐れ
られたりもすることも。積極的に戦争に関わろうとするだけあって
武の腕も一流と謳われ、敵対した相手からは大なり小なり畏怖される
ことも少なくないという。そのせいで定着した呼び名も幾つかある
と言えば、どれだけの事かは理解できるだろう。
このような相反するような二つの性質を持つ彼女はしばしば不思
議な人物と思われるが、同時に多くの種族とも交流を持っている。エ
ルフはもちろんとして気難しい種族であるドワーフともそれなり以
上の関わりを持ち、平原の騎兵の国やホビットの住む長閑な庄へと足
を伸ばしたりもする。つまるところ種族間との柵も無く自由に生き
ているという訳だ。
イ
ス
タ
リ
ここで話は変わるが、中つ国には藍のアンナレーナの他に三人││
行方不明も勘定に入れれば正確には五人││の魔法使いが存在する。
他の三人とは、
最高格の魔法使いであり魔法使いの頂点に位置する〟白のサルマ
ン〟、アンナレーナと同じように、いやむしろアンナレーナに影響を
与えた中つ国を放浪し助言を与える〟灰のガンダルフ〟、自然に生き
野生の動物との生活を選んだ〟茶のラダガスト〟である。彼らのほ
かには前述の通り青色の魔法使いが二人いたのだが、彼らの詳しい所
に付いてはここでは割愛しよう。
8
ともかく上記の三人にはある共通点が存在する。もちろんそれは
全員が魔法使いであり杖を所持しているという事でもあるのだが、実
はこの三人とも年老いた老人の姿をしているのだ。そうは言っても
人間の若者に比べれば遥かに強靭な肉体を持っているのだが、それで
も見た目は老いた姿をしているのである。
そんな中で、〟藍のアンナレーナ〟だけは何故だか若い女性の姿を
している。複数の魔法使いを知る誰もがこの事を訝しむが、実はこれ
には他者の知らないちゃんとした事情があり、それに触れるためには
イ
ス
タ
リ
まず魔法使いという存在について軽く語らなければならないだろう。
││まず初めに、魔法使いは人間ではない。もっと詳しく言えば、
人の身体をしているが本来の姿は人間ではないという事か。彼らの
正体は中つ国より遥か西に存在する神々の国〟アマン〟から遣わさ
れた、下級の精霊であり神と呼んで差し支えない存在なのである。
そんな彼らが一体何のために人間たちが闊歩する中つ国にやって
来たのかと言えば、サウロンという巨悪に対抗する人間のための援助
が理由である。そうして﹃魔法で人を支配してはいけない﹄など幾つ
かの制約を持たされた彼らは二千年近くも前に中つ国に上陸するも、
すぐに青の魔法使い二人が行方不明となってしまう。
そこで三百年ほど遅れてアマンより送られてきたのが、藍の魔法使
いアンナレーナだったのだ。これまでの五人の魔法使いが全員老人
の姿であったことから、彼女だけは変化を付けるために若い女性の肉
体を以て中つ国に送られた。これが一人だけ若い女性の姿をしてい
ることの真相である。
このことは中つ国に生きるほとんどの存在が知らない。そも魔法
使いの正体とて、僅かに三人しか知る者は居ないのだ。けれどこの上
・
・
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・
・
さらに、アンナレーナにはどうしようもなく秘匿するほかない秘密が
存在している。
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・ ・
・
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・
│ │ 有 体 に 言 え ば、ア ン ナ レ ー ナ だ け は 未来を知っている。否、
も っ と 突 っ 込 ん で 言 え ば 未来に生きた記憶がある と 表 現 す る べ き だ
ろう。彼女だけは、自身の生きている時代の遥か先を知ってしまって
いるのである。
9
勿論これは本人が望んだことではない。更には神々とて予測して
いないどころか、彼女の知識について毛ほども知りえていない。何せ
本来のアンナレーナの下地となった精霊とはアマンに於いて機械の
様に自我の薄い存在であり、それが中つ国に送られた瞬間に何の事故
か今の自我と記憶を持った魂と呼ぶべきものが定着してしまったの
だから。
アンナレーナが中つ国の最果てにて目覚めた時、一番に彼女を襲っ
た感情は恐怖以外の何者でもなかった。何故なら定着した記憶の中
には、遠い未来に平凡でつつがなく暮らした記憶ばかりが存在してい
たのだから。ここではこれ以上は触れないが、後の師となる人物が
やって来るまでは本当に錯乱状態にあったと言っても過言ではない。
つまるところ、藍のアンナレーナの本当の正体は〟転生してしまっ
た元一般人〟というのが正しい。それも中つ国の重大な出来事、すな
わち﹃指輪物語﹄と﹃ホビットの冒険﹄の顛末について簡単にだが知っ
てしまってる一般人である。このことの意味は非常に大きい。世界
でただ一人未来の展開を多少なりとも知っていて、最重要物である〟
一つの指輪〟の在りかを大まかに知っているのだから。
故に彼女は誰にもこの秘密を打ち明けてはいない。それは自身の
最も信頼する人物達にすらだ。さもありなん、バタフライエフェクト
という言葉が存在する以上、迂闊に未来を話してしまい最悪の結末へ
と転がってしまえば目も当てられない。特に指輪物語とは最後には
ハッピーエンドで終わるのだから、猶更余計な事は出来ないのであ
る。
既に中つ国で千七百年も生きた彼女は、自身の境遇を受け止めるこ
とに成功している。だからこそアンナレーナは自身の不用意な行い
で中つ国を滅ぼすような真似は決してしたくないし、そのために自身
の本来の役割である魔法使いとして生きることも吝かではないと
思っている。それくらいにはこの世界を気に入り、また住人の一人と
なることができたのだ。
││これが、中つ国での藍のアンナレーナを語る上でまず記してお
くべき内容であった。⋮⋮実は幾つか中つ国の住人による勘違いも
10
有ったりするのだが、それはまた別の話で語るとしよう。
◇
紅葉が色づく山中で、キリリと弓矢を引く音が静かに響いた。引き
絞られた矢じりの先には、木の上に止まったそれなりに大きめの野鳥
がいる。弓を良く観察してみれば、黒塗りで小さめのそれはイチイの
木で出来ているらしく、そのうえ複数のキアスと呼ばれる刻み文字が
大量に彫られていた。しかも弦には糸以外の何か、おそらくは射手の
髪を混ぜ込んでいるのか、黒にほど近い青色が複数混じった不思議な
弦だ。
そんな弓矢を構えているのは、やはりもいうべきか黒の三角帽子に
藍色のローブが特徴的なアンナレーナであった。どうやら、弓を使っ
て野鳥を撃ち落とす気でいるらしい。彼女は一時の間呼吸をするこ
とすら忘れて自身の集中力を高めると、ふっと息を吐きながら矢から
指を外した。すると矢は秋の冷え始めた大気を切り裂きながら吸い
込まれるようにして野鳥へと命中し、小さく断末魔の鳴き声を上げた
野鳥は成す術もなく地面へと落下したのだった。
﹁これで二羽目っと。グイネも獲って来てくれてる事を考えればこれ
で充分かしらね﹂
見れば、確かにアンナレーナの足元にはもう一体大きな野鳥が横た
わっていた。それはどうやら既に簡単な血抜きなどを済ませている
らしく、後は調理さえしてしまえば美味しくいただけてしまうことだ
ろう。アンナレーナはその鳥を地面から拾い上げると、先ほど射落と
した野鳥の方へと向かっていく。
﹁悪くない大きさね。うん、やっぱりこれで充分かしら﹂
﹁だろうな、これ以上は獲りすぎだろうヴィヌカザドよ。俺も一角の
鳥として、乱獲するなら見過ごせんな﹂
﹁むっ⋮⋮﹂
素直に獲物を取れたことに喜んでいる魔女に冷や水をかけたのは、
あろうことか空から舞い降りて来た黒い烏であった。その烏は当然
の様に人間の言葉を話しながら、二羽目の野鳥を拾い上げたアンナ
レーナの右肩へと止まる。彼の語ったヴィヌカザドとは、ドワーフが
11
ク
ズ
ドゥ
ル
かの魔女を呼ぶ際のドワーフの言葉における名である。
﹁さて、獲物も上々らしいからな。早く戻るとしよう、俺も腹が減っ
た。グイネはこっちだ、着いて来たまえ﹂
﹁何を勝手に仕切ってるのよ貴方は⋮⋮まあいいけど﹂
呆れた調子で溜息を吐いたアンナレーナに頓着することなく、烏は
再び飛び立つと先導するように前を静かに飛行しだした。それにつ
いて行くように魔女もまた二羽の野鳥を手に持ちながら、緩やかな斜
面と木々の間を抜けていく。その間にふと〟霧ふり山脈〟と呼ばれ
ている山脈を見上げれば、遥か高い頂が雲の切れ目から見て取れる。
中つ国北西部を東西に分ける程の大山脈である。
そのまま十分くらい歩いたところで、綺麗に澄んだ川の岸へと辿り
ついた。見れば透き通るような水が早瀬となって流れ落ちており、下
流に目をやれば幾つかの他の流れと合流しているのが目に入る。
ここは銀筋川、エルフの言葉シンダール語ではケレブラントと呼ば
12
れる川だ。これを降ればエルフの住まう地である〟ロスローリエン
〟へと流れつき、更には大河アンドゥイン川へと繋がるのである。
そしてどうやら既に先客が居たらしく、狩ったばかりと思われる鹿
を横に一頭携えたグイネが川辺でくつろぎながら待機していた。ア
ンナレーナと烏は彼の方へと向かうと、互いの戦利品を確認し合う。
﹁へぇ、いい鹿じゃない。さすがよグイネ、これを干し肉にしておけば
しばらく食料には困らないかしら。それじゃあ早速解体しましょう
そうしましょう﹂
おどけたように口ずさみながら、アンナレーナは右太腿に巻いた革
のガーターリングから一本のナイフを取り出した。それは川の光に
反射して銀に煌き、曇りなき輝きを映し出している。そのナイフを用
いて早速鹿の解体に取り掛かったアンナレーナに、烏は手持無沙汰に
話しかける。
﹁解体程度にそのミスリルのナイフを使うとはな。お前にそれを授け
﹂
それに、別にトーリンだってこ
た山の下の王が草葉の影で泣いているぞ
﹁道具は使ってこその物でしょう
?
の程度の事で一々目くじら立てたりなんてしないわよ﹂
?
﹂
﹁だと良いがな。ドワーフとは強欲で意地っ張りで何より宝の価値を
重んじる種族であることを忘れたか
ヌ
カ
ザ
ド
ドワーフと縁深い〟大ガラス〟であ
﹂
アンナレーナは火を通すために軽く集めた枝に火を付けて肉を炙っ
グイネとハナークがそれぞれに配分された肉を食べているうちに、
﹁ちゃんと用意してるからがっつかないの﹂
﹁俺の分はどうした俺の分は﹂
分くらいなら構わないわ﹂
﹁はいはい慌てない、その野鳥は全部食べていいわよ。それと鹿も半
﹁ガウッ﹂
は彼女の傍によると、早速食事をねだった。
あり、いつでも調理できそうな状況が出来ている。グイネとハナーク
だった。見れば彼女の周りにはしっかりと捌いた鹿と野鳥が置いて
アンナレーナのその声が響いたのは、それから三十分もしてから
﹁よーし、終わったわよー﹂
くびを一つしたのだった。
上にちょこんととまった。グイネは大して気にすることも無く、大あ
きてしまったのか箱座りして主の作業風景を見ている獅子グイネの
その様子をしばらく無言で見ていた大ガラスハナークは、やがて飽
り効果は無いようだ。
らば触ることも躊躇するほどの冷たさだが、魔法使いに対してはあま
の銀筋川で腹の中を水洗いする。非常によく冷えた川の水は普通な
止めようとはしない。手際よく皮を剥いで内臓を取り出し、すぐ近く
やれやれと言った風に肩をすくめながら、けれど鹿を解体する手は
﹁そう言ったのがこれまで何度あったかしらね⋮⋮﹂
を振るうと良い。俺はもう何も言わんぞ﹂
﹁むむむ⋮⋮それを言われると辛いな。悪かった、自由にそのナイフ
る貴方がそれを忘れたのかしら
ねえ、ロアークの孫ハナーク
で も あ る。ドワーフの友 と 呼 ば れ る 私 が 忘 れ る 訳 無 い で し ょ う に。
ヴィ
﹁だけどそれと同時に誰よりも義理堅く勇敢で、礼儀を重んじる種族
?
ている。その間に鞄から取り出した滋養豊富な薄焼きクッキーを食
13
?
?
しながら、のんびりと次の予定を吟味しだす。
﹁このまま銀筋川を辿って〟ロスローリエン〟にしばらくお世話にな
りましょうかね。ちょうど薬草も幾つかいただきたいのがあるし、偶
まさか一月も留まるわけではあるまいな﹂
には奥方様にも顔を見せておかなきゃならないでしょう﹂
﹁その後は
少し警戒するような口調でハナークは述べた。何せエルフの居住
地であるロスローリエンは、長居しすぎると時の感覚が薄れてしまう
のだ。定命のものにとってはあまり慣れたくない感覚である。
﹁それこそまさかよ。二日三日だけ休憩させてもらって、その後は〟
ローハン〟に向かいましょう。そこでセオデン王の顔でも見てから、
〟ゴンドール〟に行って⋮⋮まあそれから先はゴンドールで考えま
しょう﹂
﹁はっ、相変わらず行き当たりばったりな事で。よくそれで今まで死
ななかったものだ﹂
﹁これでも年季が違うのよ。なんなら一番修行も研究も捗った〟警戒
的平和〟の時代でも話してあげましょうか﹂
燃えたらどうする
﹂
﹁悪いが年寄りの昔話はご遠慮願おうか。聞いているだけでこっちま
で年老いそうだ││っとやめろ馬鹿
!
ければならない。
まうのだ。付近には森人と呼ばれる民の村もあるので、それは避けな
なければ付近のゴブリンや魔狼が人の気配を感じて近寄って来てし
ワー グ
してしまった。何故こんな手間のかかる事をするかと言えば、こうし
えかけとなっていた焚火を消して、更には痕跡そのものを丸ごと無く
だいたい二十分ほども過ぎたあたりで食事は終了したらしく、既に消
で食事を続け、次々と用意した分が各々の胃袋の中へと消えていく。
そうしてアンナレーナも食事に戻ったことでしばらく誰もが無言
関せずの体で肉へとありついていた。
グイネだけはどこまでもマイペースに食事を続けており、一人だけ我
一重で回避したハナークが大慌てで空へと飛び立つ。それを横目に
怒ったらしい。既に炭となっている木の枝を彼に投げつけ、それを紙
どうやら、どこまでも減らず口を叩くハナークにアンナレーナも
!
14
?
こうして出発の準備を終えた魔女は立ち上がると、荷物を背負いな
おす。背中には先ほど使った黒い弓、右手には先端の凍り付いた大き
な黒い杖、そして斜め掛けにした灰色の鞄である。普段荷物の少ない
彼女は、これらを背負えばそれだけで旅路の準備は整うのだ。
俺はただ付近の観察をしていただけだ﹂
﹁さてと、行くわよグイネ。ハナークもそろそろいじけてないで戻っ
てきなさい﹂
﹁誰がいじけてるだと
﹂
﹂
!
ラスのハナークはそれに遅れないようやや後方を飛翔して続く。
に振り落とされない様に魔女は力強く彼の黄金の毛並みを掴み、大ガ
号令一過、グイネが地を蹴り上げて駆けだした。急加速による勢い
﹁ガウッ
し、真夜中になるまでに到着してしまいましょう
﹁ま ず は エ ル フ の 国 ロ ス ロ ー リ エ ン よ。こ こ か ら な ら そ う 遠 く な い
胴を挟んだ魔女は、グイネへと早速行先を告げた。
付き合いのおかげで大して問題とはならない。しっかりと足で彼の
た。本来ならば獅子は跨るような動物ではないのだが、そこは長年の
一人納得した様子のアンナレーナは、そのままグイネの上に跨っ
﹁そう、それはありがとう。まあもうすぐ夜だし確かに危ないものね﹂
?
││目指すはエルフ達の住まう黄金の森林にして国、ロスローリエ
ンである。
15
!
二ムロデルの川
ロスローリエンまでは銀筋川を辿って、途中で合流する川を更にし
ばらく行けば到着する。勿論アンナレーナもそれを知っているので、
迷うことなく川に沿ってグイネに乗って駆け抜ける。横手に見える
銀筋川は段々と流れを早く太くしながら変化していき、やがて他の流
れへと決定的に混じり合い変化した予兆が感じられる。
﹁相変わらず二ムロデルの歌声は元気なのね⋮⋮﹂
﹁ここは何時来ても変わらんな。光に満ち溢れ、そして居心地が良い。
それだけに俺にしてみれば致命的だが﹂
既に日も落ちて辺りが月明かりで照らされてはじめ、夜目の利かな
いハナークはアンナレーナの肩へと止まっている。そして銀筋川か
ら別の流れへと変わった川の水面は、いよいよ銀色に色づき輝き始め
た。それと同じくして川の流れはますます澄み渡り、水の流れが奏で
る音はまるで本当の歌声と錯覚してしまう程に響き渡ってゆく。
この川の名は二ムロデル、かつてここに住んでいたとされるエルフ
の乙女が由来となっているこの川は、ロスローリエンのある森林の中
を流れているのだ。そして川の両岸にはにはかの森の象徴とも言え
る黄金の葉を付ける白い幹の木が数多く植わっており、無限に変化す
る歌声とも思しき二ムロデルの川の調べとよく調和して神秘的な光
景を創りだす。
ともかく魔女と大ガラス、それに巨躯の獅子は共に川の浅い所を目
指して進んで行く。グイネならば岸から岸へと飛び越える事も可能
だろうが、万が一落ちてしまえば目も当てられない事態になってしま
うのだ。そういう訳でしばらく黄金の木々と川の調べを堪能しなが
ら進んで行くと、次第に道が開け川の底が浅い所へとやって来た。そ
こは川の流れも緩やかで、しかも本当に浅いから人が普通に渡ること
も可能な程である。そこへグイネが躊躇いなく足を踏み入れると、毛
皮を濡らしながらも浅瀬を渡り切った。
﹁さてと、ここまで来ればロリエンの国境まではもう少しね﹂
経験則だろうか、魔女は何事か呟きながらしきりに辺りを見渡して
16
いる。どうやらこの付近に何かあるようなのだが、月明かりしか頼る
もののないこの場ではそれも判別できそうにない。けれどグイネは
彼女の言葉を百も承知しているようで、浅瀬を渡ったそのままに歩を
森の先へと進んで行く。
果たしてこの先には何があるのだろうか。その答えは、どうやら向
素性を名乗れ
﹂
こうからやって来てくれたようである。
﹁何者だ
﹂
?
るじゃない。まずはそっちを直したらどうなのよ
﹂
﹁久しぶりねルーミル。貴方って毎回私が来るたびに質問ぶつけてく
を零すと、逆にアンナレーナから白い目で見られてしまった。
い。やはりどこか訛ったように聞こえるシンダール語で彼女に苦言
どうやらこのエルフの男性はアンナレーナと知り合いに在るらし
装からは彼が警備隊か何かの一員であると読み取れる。
手には緩く弓を握っており、やや戦闘を意識しているように見える服
降りて来た。やって来たのは金髪にすらりと背の高いエルフの男性。
安堵したかの様な声が木の上から降って来ると同時、人影も一緒に
はしなかったのだが﹂
﹁⋮⋮なんだ、ヘレボルか。すまないな、先に言ってくれればこんな事
ものがあるらしい。
ンダール語であることが理解できる。どうやら、言葉に訛りのような
の誰何の言葉はそれとは少しばかり違う響きを持ちながらも、同じシ
彼女が返したのは、エルフの言葉であるシンダール語だ。そして先
晩二晩貴方方の国に入れてはもらえないかしら
ヘレボル〟と呼ばれている者よ。旅の途中で立ち寄ったのだけど、一
﹁私は藍のアンナレーナ、〟魔法使いの弟子〟にして貴方達からは〟
に名乗り返した。
無くグイネの背からするりと降りると、その声と同じ言葉で流ちょう
言葉とは違う響きを持っている。けれど魔女は特に狼狽することも
て来るらしいそれは、これまでアンナレーナやハナークが話していた
唐突に、男性の誰何の声が響き渡った。どうやら木の上から聞こえ
!
﹁悪いがこれが私の仕事なのでね。少しでも怪しいと思ったら声をか
?
17
?
けなければならない職業なのだよ﹂
﹁はぁ、まあ確かにそうだけども⋮⋮﹂
〟だからって顔見知り相手に毎度この態度はどうなのよ〟││そ
んな心の声が聞こえてきそうなジト目であった。けれどルーミルと
呼ばれたエルフの彼はその仕草に気づいた風も無く、自身が降りて来
た木の上へと声を掛ける。
これは久々に退屈が凌げるな﹂
﹁おーい、降りて来たらどうだ。お客さんの正体はヘレボルだったぞ﹂
﹁お、そうだったか
声に釣られて降りて来たのは、ルーミルと同じく金髪のエルフだ。
どことなく顔立ちや雰囲気がルーミルに似ているような、そんな印象
を受ける。ともかく彼もまたアンナレーナの知り合いらしく、そして
ルーミルと同じ警備隊の一員であるらしい。
﹁あら、ハルディアまで。警備隊の隊長殿がこんなところで油を売っ
ていていいのかしら﹂
それこそオークだろうとワーグだろうと、ここ
﹁むしろ聞きたいが、我らがロリエンに無謀にも侵入しようとする愚
か者が居るとでも
に踏み込む勇気はないだろうさ﹂
そう自信満々に言って見せたのは、先のルーミルよりももう少し豪
奢な鎧と服に包まれたハルディアと言う名らしいエルフだ。彼はロ
スローリエンの国境を守る警備隊の隊長であり、先のルーミルと今は
姿の見えないオロフィンの兄弟でもある。ともかく彼はエルフらし
く端正な顔立ちに笑みを浮かべると、手に持っていた弓を背にやって
両手を広げた。
﹁ともかくようこそ、そして久しぶりだヘレボルよ。ロリエンの地は
貴女を歓迎しよう﹂
﹁光栄ね、ありがとう﹂
そうして軽く親愛を確かめるように抱き合い、すぐに体を離した。
先ほどまでアンナレーナの肩に止まっていたハナークは男との接近
などお断りとばかりに頭上に飛んでおり、近くの木の枝へ着地してい
る。そちらへ目をやったハルディアが一言、
﹁そこの大ガラスにはお断りされたか。寂しいものだな﹂
18
!
?
﹁ごめんなさいね、彼はちょっと自由すぎるきらいがあるから。あま
り気を悪くしないでちょうだい﹂
いくらエルフが
﹁別に気にしてなど無いさ。そもそもこれで三度目だからな﹂
﹂
﹁生憎だが、俺は男と抱き合う趣味は断じてない
美形だろうと知った事か
!
に反する﹂
﹁あら、ならご厚意に甘えましょう。ほらハナーク
﹂
!
先に口を開いたのはハルディアであった。
森の中の闇を見渡している。
静かに地面を踏みしめながらついて行き、ハナークはキョロキョロと
ているハルディアの後ろについて歩いて行く。隣にはグイネもまた
ひとまず別れの言葉を告げたアンナレーナは、既に数歩分前を歩い
外の事にばかりかかずらっている訳にも行かないのである。
だろう。国境の警備とは非常に重要なものなのだから、あまりそれ以
て行った。おそらくは二ムロデルの川を渡る人物達の監視に戻るの
そうして音を殆ど立てないまま、ルーミルは再び元の樹上へと戻っ
う﹂
﹁承 っ た。で は な ヘ レ ボ ル。ま た 機 会 が あ れ ば 話 す こ と も あ る だ ろ
いね﹂
﹁じゃあ私はこれで。オロフィンにもよろしく言っておいてちょうだ
を確認したアンナレーナは、最後にルーミルへと声を掛けた。
の肩に良く知った重みがやって来る。ちゃんと戻って来たハナーク
するとバサバサと翼がはためく音が響き、少し遅れてアンナレーナ
おいてくわよ
早く来ないと
告も兼ねて私が道案内するとしよう。一人だけで行かせるのは礼儀
﹁ここからロリエンまでの道は知っては居るだろうが、奥方様への報
けるようにハルディアが引き留めた。
ンナレーナが森の奥へと更に進もうとする。だがそれに待ったをか
枝の上で叫んでいるハナークに呆れ顔をした三人だが、ひとまずア
!
﹂
﹁それにしても貴女がここに来るとは珍しい。もしや何かよからぬ報
せでもあったのか
?
19
!
﹁別にそういう訳じゃ無いわよ。ただ偶然近くにやって来たから、久
しぶりに奥方様にご挨拶しておこうと思ってね﹂
﹁なるほど、そうであったか。しばらくの間来ていなかったからな、奥
方様もきっとお喜びになることだろう﹂
もしや〟裂け谷
頷きながら、足早く森の中を抜けていく。それに追従する一人と一
匹も慣れたような足取りだ。
﹂
﹁だがそれなら何故そもそもこんな所に来たのだ
〟からやって来たのか
覚えはあるか
﹂
﹁突然ですまないが、ヘレボルは〟アラゴルン〟という男の名に聞き
せず、別の話題に話を転じた。
ながらもひとまず納得してくれたらしい。それ以上は追及しようと
そうとは露も知らないハルディアは、やや煮え切らない態度を見せ
するのだから、そう軽々しく教える訳にはいかない。
ナは飲み込んだ。これは彼女がずっと秘匿している〟知識〟に関係
〟どちらかと言えば人探しなのだけど〟、という言葉をアンナレー
﹁え、まあ⋮⋮うーん、そうね、そうとも言うかもしれないわ﹂
?
かんだ。それと言うのも、
ドゥー
ネ
ダ
イ
ン
﹁⋮⋮勿論知ってるわよ。裂け谷で養育された長寿の人間の一族にし
その彼の事ならば良く知っているけれど、どうして貴方が
れは彼が小さいころから母親共々よく知っているからと言うのもあ
るが、それ以上にその名前はアンナレーナが持つ〟知識〟において非
常に重要な名前なのだ。故に不思議そうに聞き返すアンナレーナに、
ハルディアが過去を懐かしむように目を細めながら語りだす。
﹁十年近く前だったか、奥方様の招きでここに来たのが彼だったのだ
よ。その時も私は国境の警備をしていたのだが、彼の素性を聞いて問
いかけてみればこれがまた話が合ってな。それで親しくなるうちに
20
?
不意にその名を持ち出され、僅かにアンナレーナの表情に驚きが浮
?
て、今は北方で民を守る野伏の長をやっているあのアラゴルンの事で
しょう
﹂
?
実際、彼女はアラゴルンと呼ばれる人物の事を良く知っていた。そ
?
貴女の名前も聞いたのだが、彼はここでしばらく過ごした後に去って
しまって﹂
﹁なるほど、それで行方が気になって聞いて来たのね。うーん、残念だ
けど私も最近彼とは会ってないわね。時期的に考えればちょうど彼
と〟影の山脈〟を探索して別れた直後かしら。それから彼とは会っ
て無いから、今どこにいるかは分からないわ﹂
﹁そうか、それは残念だ⋮⋮彼とはもう一度語り合ってみたかったの
だが﹂
意外な程に気落ちした風なハルディアは更に足を進め、黄金の森の
奥深くへと進んで行く。段々と月明かりが天井へと昇り始めて来て、
時刻も次第に遅くへとずれ込んでくる。そして話の方はと言えば、そ
何分私はここから動けないか
のまま中つ国に関する情報へと推移していた。
﹁そう言えば、諸国の様子はどうだ
ら、情報が足りない。良ければ貴女が見て来た内容を教えてもらいた
いのだが﹂
﹁そ う ね ⋮⋮ 西 の 方 は つ つ が な く 平 和 っ て と こ ろ か し ら。こ の ロ ス
ローリエンと奥方様が頑張ってくださるおかげね。ただ褐色人の人
たちが活発になっているから、それだけ気になるところかしら。北東
のドワーフや人間はたまに襲ってくるワーグや東夷の対応に追われ
ているくらいだけど、南ゴンドールの方はハラド人が明確に敵意を
持って行動を開始しているわよ﹂
﹁ふむ⋮⋮情勢はだいぶ変わっているな。ゴンドールの力が時が経つ
につれ削られているのが不安なところか。これ以上減ればいざとい
う時戦えなくなってしまう﹂
﹁私もそう思うけど、あそこのデネソール公は間違いなく頭の回る人
よ。きっと手は打ってくれるはず。まあ最近は私の事をあまり快く
思って無いらしいけど、それについては私怨とか無く保証できるわ﹂
﹁なるほど。伊達にその指輪は預けられていないということだ。幾度
も死線を潜り抜けた魔女の言葉は重みがある﹂
﹁あ、あー⋮⋮うん、そうね。その信頼に応えられるよう頑張るわ。と
いうか貴方だって歴戦のエルフでしょうに﹂
21
?
するとハルディアはハハハと軽く笑い、照れくさげに頭をかいた。
けれどそのせいで、少しばかりアンナレーナの瞳から光が失われてい
た事には気がつかないのであった。
そのまま話しながらも移動は続き、辺りからは木々の葉が震える音
と杖を突く規則正しい音だけが響いてくる。そうしてそろそろアン
ナレーナも眠気を感じ始めたところで、ハルディアは足を止めた。
﹁ここからロスローリエンの中心〟カラス・ガラゾン〟までは一日ほ
どかかってしまうからな。悪いが今日はこの上にあるフレトで一晩
過ごしてくれ﹂
言いながら彼は樹上へと頭を向けた。そこには木を囲むようにし
て円い居住地が取り付けられており、足をかけるための板が付いた蔦
や、或いは直接木の幹に掛けられている梯子を昇って行くらしい。ハ
ルディアの言ったフレトとは、ロスローリエンのエルフが用いるこれ
ら特異な住居の事を指すのである。
そしてここに在るフレトは、国境から来た相手を一晩泊めておくた
めの施設なのだろう。居住区にしては他にフレトはほとんど見受け
られず、むしろそこから少しばかり高い位置に二つほどフレトが設置
されている。おそらくはここもまたよからぬ侵入者を迎撃するため
の拠点となることがあるのだろう。
けれどそれは、少なくとも侵入者でない藍色の魔女には適用されな
いのだった。
﹁ん、分かったわ。今日はグイネもお疲れさま、ゆっくり休んでちょう
だい﹂
二つ返事で答えたアンナレーナは、鞄から干し肉を取り出すとそれ
をグイネへと渡した。そのままするすると梯子を使って、居住地であ
るフレトへと昇って行く。それを見届けたハルディアは別のフレト
へと続く蔦へ手を伸ばし、他よりも数段高い見張り用のフレトへと
入って行った。
アンナレーナが入ったフレトの中は綺麗に整えられていて、木製の
綺麗な机や寝台が置かれたシンプルなものだ。けれど間違いなく客
をもてなすための用意として創られており、エルフの精緻な技術が凝
22
らされていると一目で分かる。室内はぼんやりとした明かりを放つ
ランプで照らされており、それが周囲の黄金の葉と合わさって幻想的
な空間を作り出す。
その中で、ひとまずアンナレーナは荷物を降ろしだす。杖と帽子は
同じ所に置いて、一緒に鞄と弓もまとめてしまう。さらに太腿に巻い
たガーターリングも取ってしまい身軽になった所で寝台に腰を掛け
た。
﹁ふー⋮⋮今日も何とか生き残れたわね﹂
﹁そうだな、常にあぶなかっしいお前が生きているのが奇蹟のようだ
といつも俺は思っているぞ﹂
﹁はいはい、行き当たりばったりですみませんね⋮⋮﹂
普段よりもハナークに対する返事も元気が無い。さすがに魔女と
言えど長旅の疲れは感じてしまうようだ。けれど彼女はローブの内
側から羽ペンと少量のインクの入った瓶、それに保存のキアス││つ
まりルーン文字の事である││が入った古ぼけた日記を白い膝の上
に広げた。どうやら日記らしきものを彼女は付けているらしい。
﹁えー、今日は霧ふり山脈を越えて、地底湖に〟ゴラム〟を探しに行っ
て、狩りをしてからロスローリエンに入って⋮⋮こうやって振り返る
と今日は結構色々やってるわね﹂
しばらくの間、室内には羽ペンの擦れる音と魔女の独り言が響き、
インクの香りが木々の匂いと混じってなんともいえぬ芳香として存
在する。そうして十分ほども書き連ねたところで、魔女はパタンと日
記を閉じた。
﹁さて、日課も終わったことだし寝ましょう。ハナークもそれでいい
わよね﹂
﹁ああいいぞ、大歓迎だ。むしろこのままだと一体どこに飛んでいく
かたまったものじゃない﹂
﹁それは困るわね。朝起きたら焼き鳥になってましたなんて言われて
も困るわ﹂
﹁それはどう考えてもお前の魔法が原因だろうが⋮⋮﹂
皮肉外に返したハナークだが、既に魔女はローブを脱いで寝台に横
23
になっていた。豊満な胸が規則正しく上下し、明らかに眠りについて
いると分かる。なので彼は一度目を瞑ってまるで苦笑するかのよう
な表情を烏の顔に浮かべると、そのまま夢の中へと魔女と共に入って
行くのだった。
24
ロスローリエンの奥方
日差しが黄金の森の中へと入り込み、優しく木々の間を照らし出
す。曙光の中に浮かび上がったのは、地面よりも高い位置に存在する
居住区であるフレトである。窓からフレトの中に入り込んだ光は、寝
台の上で寝ている女性の顔を明るく撫でた。その眩しさで、藍のアン
ナレーナは目を覚ましたのだった。
﹁ふぁ⋮⋮﹂
寝ぼけ眼を擦りながら上半身を上げた彼女は、付近を見渡した。室
内にあったランプはいつの間にかその輝きを失っているが、朝の光が
十分にその代わりをしてくれる。シンプルながらも精緻な家具類は
朝日より一層磨き上げられていて、エルフの細工の巧みさを思わせる
ような見ごたえとなっていた。
その中で起き上がった魔女は、ひとまず自身のトレードマークとも
言うべき藍色のローブを着ようと立ち上がる。けれどローブの上に
は大ガラスのハナークが居て、彼は気持ちよさそうに目を瞑り眠って
いるのだった。
﹁⋮⋮起きなさい、ハナーク。もう朝よ﹂
﹁⋮⋮んん、もう少し寝させてくれ⋮⋮﹂
どうやらアンナレーナもハナークも朝はかなり弱い方らしい。ど
ちらからも普段の覇気が失われ、不気味なほどに静かな様相を呈して
いる。だからだろうか、アンナレーナも自身のローブの上で寝ている
ハナークをそれ以上咎めることは無く、代わりに自身の荷物を置いて
ある所まで向かっていった。どうやら荷物の整理でもしようと思い
立ったらしい。
彼女の荷物はそう多くない。普段持っている杖と、武装であるイチ
イの弓にナイフ、それ以外は灰色の鞄以外に存在しない。とはいえ物
は意外と持っているので、それを整理しようとするために灰色の鞄の
中身を床へと少しずつ取り出し始める。
﹁⋮⋮これは薬草入れ、こっちは薬入れ、それでこっちは包帯で⋮⋮﹂
鞄の中から出てきたのは、まずは薬師らしいものばかりであった。
25
・
・
・
昔から 持 っ て い た 知 識 と 中 つ 国 か ら 来 て 学 ん だ 知 識 に よ っ て 成 り
立っている彼女の薬師としての実力は、中つ国で生きる上での大きな
一助を買って出ている。何せそのおかげで人々から信用され、お金を
手に入れることが出来るのだから。
次に鞄の中から出てきたのは、ほとんど使われた痕跡の無いパイプ
と、それ用のパイプ草である。どうやらアンナレーナに喫煙の習慣は
無いらしい。更に小石の詰まった袋と彫刻刀に、葉に包まれた焼き菓
子の様な食べ物が二つ。その奥からはお金を入れている巾着と保存
食などが入っている袋が出て来て、最後には替えの服らしい薄着の黒
いワンピースと上下の白い下着が出てきたのだった。
﹁ふぁ⋮⋮あー、荷物が多すぎる⋮⋮でも捨てるわけにはいかないし
なぁ。だけどパイプなんて完全にマゾムになってるじゃない。しか
もレンバスはエリクサー症候群の所為でまだ一枚しか食べれてない
し⋮⋮﹂
寝起きの頭でぶつくさと呟きながら、ひとまず荷物を全部取りだし
てから整理し直している。そうして鞄の奥底から更に幾つかの宝石
類すら出て来たところでアンナレーナもさすがに整理するのを止め
て、荷 物 を 整 え な が ら 全 て 入 れ な お し た。ち な み に マ ゾ ム と は、ホ
ビット達が使う言葉で〟大切ではあるけど使いどころがない物品〟
の総称である。
﹁ま、これは次の機会に回しましょう。今やってたら時間がかかりす
ぎる﹂
﹁⋮⋮ん、なんだ、お前はやはり整理整頓が出来ない類の女か。いかん
なぁ、そう言うのは男の受けが悪いぞ﹂
﹁あら、おはようハナーク。そして初めから随分と不躾な内容じゃな
い﹂
﹁事実だ、馬鹿め。と言っても俺たち大ガラスの間でのだがな﹂
いつの間にか起きていたハナークに釣られてアンナレーナも普段
通りの調子を取り戻し、彼の下に埋もれていた藍色のローブを着こ
む。そうして自身の荷物を背負いなおしてから最後に帽子を被って
杖を持てば、それで普段の装いの完成である。
26
そのまま地上へと続く梯子へと向かったアンナレーナは、するする
と梯子を下りてフレトを後にする。下には既に起きていたらしいハ
ルディアと、その彼に撫でられリラックスしているグイネが居た。ど
﹂
うやらこっちの組は朝に強い類らしい。
﹁おはようヘレボル、よく眠れたか
﹁ええ、それはもうぐっすりと。前にしっかり寝台で寝れたのは裂け
谷でだったかしら。すごく助かったわ﹂
﹂
﹁それは重畳。だけどここからロスローリエンの首都までは、少し急
いでも今日の夜までかかる。その準備は出来てるか
﹁当然。強行軍はお手の物よ﹂
﹁頼もしい限りだ﹂
その唯一の城門へと繋がる橋へ、ハルディアと共にアンナレーナは
のだ。
ず、そのおかげでますます堅固な要塞としてこの地は成り立っている
る。更には内部に入るための城門すら一か所にしか設置されておら
の手前にある深い堀は、それだけで堅固な守りを誇っていると分か
大にして長大な城壁である。松明に照らされている緑色の城壁とそ
ハルディアが誇らしげに見上げたのは、カラス・ガラゾンを守る巨
えば当たり前のことだ﹂
﹁奥方の護りと、我らロリエンのエルフが居るからな。当たり前と言
﹁相変わらず凄いわねこの都市は⋮⋮さすがは西方を守る要衝ね﹂
着することが出来たのだった。
既に日は落ち夕暮れ時を超えたところで、アンナレーナ達は無事到
のがカラス・ガラゾンである。
持つエルフらしい、非常に堅固な造り、言うなれば要塞となっている
けれどそれは大きな間違いだ。実際は長寿にして素晴らしい技術を
は大したことが無いかのように先入観では思ってしまってしまうが、
ロスローリエンの首都、カラス・ガラゾン。森の中にあるその都市
◇
そうして、二人と二体は再び行軍を始めたのだった。
?
向かって行く。見える限り城門の奥には例の木の上に造る住居フレ
27
?
トが無数にあり、だが城壁の外にすら多くのフレトが見受けられる。
この城壁の内部だけでなく、多くのエルフは城壁の外に住居を持って
いるらしかった。
城門の警備として立っているエルフに軽く挨拶をした二人は、その
まま城門の中へと入って行く。さすがにハルディアが横に居て、かつ
エルフにも名の知れた藍色の魔女ともなればここで検閲などされる
ことは無い。なので大手を振ってカラス・ガラゾンへと入れば、そこ
には青い芝生に覆われた緩やかな丘と舗装された白い道、更には至る
所に存在するランプによって赤々と浮かび上がる美しい都市の姿が
あるのだった。
﹁綺麗⋮⋮﹂
もう何度となく来ているはずのアンナレーナですら、思わず感嘆の
声を漏らしてしまう。無数のランプの光は、フレトがある木が付けて
いる黄金の葉に反射されて周囲を明るく照らし出している。そのお
28
かげでカラス・ガラゾンは非常に明るく、けれど城壁の外にあるぼん
やりとした明かりと暗闇をバックとしたその景色は非常に美しく映
えていた。
周囲には小道を歩いているエルフが多くいて、誰もがしげしげと珍
しい客であるアンナレーナを見つめた後で彼女が誰だか思い出した
のかハッとしたような表情をしている。そんな様子を見て、とうの魔
女は思わず苦笑してしまうのだった。
﹁流石に十年近く来てないんじゃ割と忘れられるわよね﹂
﹂
﹁だが同時にほぼ全員が貴女の事を思い出している。それさえあれば
十分と言えなくはないかな
まう館であるのだ。
トこそ彼女らが目指している場所であり、この森の奥方とその夫が住
な樹が一つ立っているのが確認できる。そこに造られた巨大なフレ
とそこには芝生に覆われた地面と噴水があり、そのさらに南側に巨大
二人は笑いながらも足を止めず、緩やかな斜面を登り切った。する
光栄と思いましょう﹂
﹁そうね、その通り。悠久を生きるエルフに覚えてもらっているだけ
?
﹁⋮⋮すごく今更だけど、突然押しかけて大丈夫かしら。ちょっと不
﹂
安だからハナーク、伝書ガラスとして奥方様の所に伝言を頼めないか
しら
大体なんだその案は、俺を死地に向かわせるつも
エルフの魔女相手に特攻なぞ死んでも御免被るぞ﹂
﹁断じて却下だ
りか
どうやらハナークの方は、元はと言えばドワーフとの関連が深いせ
いでエルフがそれなりに苦手なようだ。だが決して嫌いではない為、
いざ会った時は意外と丁寧な対応が出来るのは彼の長所でもあるの
だが。ともかくアンナレーナとしては何時までも彼がこのような態
度でいるのは早く改めたいと思っている。
﹁あのねぇ⋮⋮奥方は決して悪の魔女なんかじゃないわよ。というか
むしろ魔女は私の方じゃない。なのにこの段に来て一体何を恐れる
のよ﹂
呆れたような顔でアンナレーナがツッコミを入れれば、ハナークは
しれっとした顔で目を逸らした。それに対してハルディアが苦笑し、
アンナレーナが追撃に出ようとしたところで、
﹁そうですよ、ロアークの孫ハナークたる大ガラス。ここ十年は顔を
﹂
合わせていないとはいえ、それまでに三度私と会ったことを忘れたの
ですか
うにして振り向けば、館を背にして一人のエルフの女性が立ってい
た。だがその女性はこのロリエンに住むどのエルフよりも美しいと
紛れもなく断言できる程の美貌を持っており、長い金の長髪は白い服
装と良く似合っている。老齢の兆しは露程も見えず、背の高い彼女か
らは厳かな雰囲気が発せられていた。
見ればそれだけで虜にされてしまいそうなエルフ、そのような人物
まさかそちらからわざわざご足労を
は中つ国では一人しかいない。かの女の名前こそ││
﹁ガラドリエルの奥方様⋮⋮
してもらうとは﹂
会いたくて仕方が無かったのですよ﹂
﹁良いのです、ハルディアよ。わらわとしても久々に迎える客人、早く
!
29
!
?
?
突然、凛とした女性の声が響き渡った。誰もがその声に釣られるよ
?
ガラドリエル、その名前の女こそこのロスローリエンの主にして、
善に生きてサウロンに対抗する勢力で最も力あるエルフの呼び名
あった。
ハルディアが敬意を込めてガラドリエルへと頭を下げるが、それを
彼女は手で制した。その力強い光と意志を宿す眼は柔和に細められ
ていて、既にハナークへと向けられているのだった。
﹂
﹁して、ハナークよ。いまだにそう恐れられては私も立つ瀬がないの
ですが。そろそろ慣れてはもらえないでしょうかね
光物などが多
﹁あ、待て、いや待ってください⋮⋮その、俺は昔からエルフについて
は苦手なところがありまして⋮⋮﹂
﹁そうでしたか、では今度私の館に遊びに来ますか
くあると思うのですが﹂
するとハナークの目が微かに揺れた。そのあまりの変わり身の早
さに思わず心の中でハナークの頭を叩きながら、アンナレーナもガラ
ドリエルに対して頭を下げる。彼女もまた目の前の相手に敬意を向
けることに異存はないのだから。
﹁お久しぶりです、森の奥方ガラドリエル。こうして再び見えた幸運
を深く感謝します﹂
﹁それはこちらとて同じことです、ヘレボル。貴女の齎す情報はガン
ダルフのそれと同じくらい有用ですからね。何より同じ志の友が無
事に姿を見せてくれること程嬉しいことは有りません﹂
本当に嬉しそうな声音の彼女は、すっと手を肩の高さまで上げると
手招きをした。どうやらこちらについて来いという事らしい。ひと
まずアンナレーナはそれに従う事にして、まずはハルディアの方へと
向き直った。
﹁それじゃあ、道案内ありがとうハルディア。なんか体よくサボる口
実に使われた気もするけど、楽しかったわよ﹂
﹂
﹁こちらこそ、貴重な話が出来て嬉しかったさ。また機会があれば語
り合おうじゃないか。それではな、その杖の折れざらんことを
ま元来た道を引き返していく。彼はそもそも国境の警備隊だから、長
別れの言葉を告げた彼は、最後にグイネの頭を人撫でするとそのま
!
30
?
?
くその場を空けるわけにはいかないのだ。丘を降って小さくなるそ
の後姿をしばらく見送ってから、アンナレーナはガラドリエルの下へ
と向かって行った。
﹁ではまずは私の館に向かいましょう。積もる話はそれからです﹂
﹁分かりました﹂
短いやり取りと共に歩みだし、奥方の裸足の足がまるで体重など無
いかのように柔らかく地面を踏みしめる。そうしてほんの少しばか
り歩けば、巨大な樹に沿うようにして造られた階段へと辿りつく。か
なりの大きさを持つその階段は、巨躯のグイネでも難なく通行できそ
うなほどである。
ギシギシと二人と一体分の音を出しながら││正確には奥方はほ
とんど音を立てず、魔女の肩には大ガラスが居たが││上へと昇って
行く。すると頂点にはこれまた豪奢な扉があって、ガラドリエルは青
い指輪の嵌まった自身の右手で躊躇なくその扉を押したのだった。
31
﹁お入りなさい、ヘレボル﹂
﹁お、お邪魔します⋮⋮﹂
さすがに一国の主に招かれるとあれば、アンナレーナとて緊張はす
る。特に人間の王ならば小さいころから知ってるから多少気心が知
れているかもしれないが、今回の相手は非常に年月を重ねたエルフの
奥方なのだ。故にアンナレーナは内心で心臓が破裂しそうなほどに
ドキドキしながら、何とか魔女としてもプライドに掛けて普段通りを
心掛けていた。
なのだが、ここで更に彼女にとっては予想外の事態が起きる。
これはまた随分と豪勢なお出迎
﹁おお、久しぶりだなヘレボル。さ、こちらへ来るが良い﹂
﹁なっ、ケレボルンの殿まで⋮⋮
えですね⋮⋮﹂
ボルンという、先の森の奥方ガラドリエルの夫である人物である。
ち、目には知性と長い歴史の重みを宿す古いエルフの殿方。名をケレ
する円いテーブルには、既に先客が一人いた。その男は長い銀髪を持
かながらも質素な趣を与える構成となっている。そして中央に位置
館の内部はまさしくエルフなりに贅を凝らしたもので、非常に華や
!
アンナレーナとしてはまずいきなりガラドリエルに出迎えられる
時点で結構いっぱいいっぱいな節があったのに、まさかその夫にまで
出迎えられるとは思いもしていなかった。なので思わず硬直してし
まうも、すぐに自分を取り戻して前へと進むことが出来たのだった。
﹁座りなさい、話は多くあるのですから遠慮はいりませんよ﹂
﹁それじゃあ失礼します⋮⋮﹂
ひとまずテーブルの席に着けば、その正面にガラドリエルとケレボ
ルンの二人が座る。これじゃまるで圧迫面接じゃないかと内心でぼ
やき、後ろで気ままに座ったグイネとハナークを羨ましく思いながら
どうにか気力で向き合った。するとそこで、早速ガラドリエルが口を
開くのだった。
﹂
﹁さて、早速で何なのですがまずはそなたがこれまで見て来た事をわ
らわ達に教えてもらいたい。よろしいか
﹁はい、もちろんです﹂
奥方が自身をわらわと呼ぶときは、決まって真面目な会話をする時
である。それを重々承知しているアンナレーナもまた先ほどまでの
焦りをいったん忘れて真面目な顔つきとなり、これまで自身が見て来
た内容を語り始めた。その内容はおおよそハルディアに語ったもの
と同じであり、魔女の正面に座る夫婦は時折頷きながらも話を聞いた
のだった。
まず発言したのはケレボルンだ。
﹁なるほど、大方の現状は分かったが⋮⋮ゴンドールの戦力の衰微は
大きいな。あまり長続きすれば厄介な事になる。いざという時にど
うにかこちらから援軍を送れれば良いのだが││﹂
﹁それは難しいでしょう。何せこの森は付近に人間からは〟迷い込め
ば 二 度 と 出 て 来 れ な い 魔 性 の 森 〟 と し て 伝 わ っ て し ま っ て い ま す。
一応私も微力ながら印象の改善には務めたのですが⋮⋮﹂
ミ
ス
ラ
ン
ディ
ア
﹁あまり効果は芳しくないと。自身の執政としての立場を気にするあ
ま り ヘ レ ボ ル や 灰のガンダルフ の 言 葉 を 真 面 目 に 聞 こ う と し な い デ
ネソール公が相手では、確かに難しいものがあるでしょう﹂
﹁私はともかく師匠の言葉は信用してほしいのですがね⋮⋮ままなら
32
?
ないものです。奥方様達もロスローリエンもこんなにも素晴らしい
所なのに﹂
﹂
悔し気に呟いたアンナレーナの言葉を最後に、話題は次のものへと
切り替わる。
﹁それでヘレボルよ。かの〟黄金竜〟は見つけられたかね
〟黄金竜〟││その名がケレボルンの口から出た途端、さらに魔女
の顔色は難しくなった。まるで憔悴しきっているかのような、そんな
表 情 だ。ガ ラ ド リ エ ル も ま た 険 し い 顔 で 彼 女 の 答 え を 待 っ て い る。
果たして魔女の返答は、
﹁⋮⋮ そ れ も ま だ で す。ど う に も 奴 は 慎 重 さ と 狡 猾 さ を 覚 え た ら し
く、全くその影も形も見えません。東方にもある程度足を伸ばしては
みたのですが、どうにも手がかりがつかめない状況でして⋮⋮﹂
﹁そうですか⋮⋮やはり竜とは厄介なものです。そう簡単には打倒さ
れてはくれませぬか。確か貴女は過去に二度戦ったことがあるので
したか﹂
﹁はい。最初は二百五十年前に、そして二度目は五十年前にです。そ
の戦いで私はかの黄金竜スマウグの右翼をもぎ取り、また湖の射手バ
ルドは左目を射抜きました。彼の活躍が最後の一手となってスマウ
グは完全に撤退しましたが、けれど奴はまだどこかで生きていて息を
潜めています。おそらくは、復讐の機会を狙っているはず﹂
││かつて、アンナレーナは山の下の王とその仲間達と共に竜に奪
われたドワーフ達の故郷と財宝を取り返す為の旅に同行したことが
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
ある。その冒険は紆余曲折あったが最後には無事に終わり、仲間達も
ま た 誰一人欠けることなく 無 事 に 幕 を 下 ろ し た。け れ ど そ の 反 動 な
のか、ドワーフ達の故郷はなれ山とそこに眠る財宝を奪っていた張本
人たる黄金竜スマウグは重傷を受けながらも生き永らえてしまった
のである。
当然、これはアンナレーナが持つ〟知識〟には無かった事態だ。多
少良い方向に転んだところもあるとはいえ、それ以上の災厄が自由に
なったまま解き放たれてしまったのである。これが冥王サウロンと
手を組めば、果たしてどのような災いが引き起こされるか分かったも
33
?
のでは無い。故に彼女は五十年前から地道に捜索を続けているのだ
が、残念な事にその足取りは全くつかめていないのが現状だ。
﹁もしあの竜がサウロンと手を組めば、手が付けられない事態となっ
てしまいます。しかし今自由に動けてかつ竜と対峙して勝てる可能
性があるのは、そなたとミスランディアのみ。だからこそ、実際に竜
と対峙したそなたこそが要となるのです﹂
﹁心得てます。必ず私が奴の息の根を止めて見せますとも。まあ⋮⋮
私がどこまでかの竜に対抗できるかは分かりませんが﹂
もはや重圧の所為で死にそうな表情のアンナレーナに、ケレボルン
が励ましの声を掛ける。
﹁そう気負うな。お前には魔法使いとしての勇気と、キーアダンから
託されたその指輪ベルクがある。例え本来の力の指輪に劣る物であ
ろうと、それは間違いなくお前の助けとなってくれることだろう﹂
﹁その通り、使いどころは慎重にして臆病に、けれど使う時は大胆にし
て誠実に。そうすればその指輪はそなただけでなくその周りの人物
すらも冷静に導いてくれる力が有るのです﹂
見れば、アンナレーナの指に嵌まっているラピスラズリの指輪がに
わかに輝いている。ケレボルンから〟ベルク〟と呼ばれたその指輪
は、持ち主の力を高め心を落ち着かせる知恵の指輪だ。力の指輪には
劣る〟力劣る数々の指輪〟の一種ではあるが、その力は紛れもない本
物なのだ。
﹁ありがとうございます、お二人とも。私も何とか勇気が出てきまし
たよ﹂
﹁そしてこれはわらわの勘ですが││おそらく、竜と最初に向き合う
のは貴女でしょう。そしてその時こそどちらかは確実に滅び去る事
となる﹂
﹁よ、予言ですか⋮⋮﹂
少しばかり顔に笑みが戻ったアンナレーナだったが、即座に頬が引
きつってしまっている。もはやこうなれば仕方ないとばかりに、アン
ナレーナは大きく溜息を吐いたのだった。
││一つ述べておくと、中つ国で行われる予言はほぼ間違いなく当
34
たるのだ。
35
魔女の矜持
カラス・ガラゾンを出て少しした所には、細くはあるが川が流れて
いる。それはロスローリエンを東西に横切る銀筋川へと最終的には
繋がっているのだが、その川岸にアンナレーナは座っていたのだっ
た。
﹁それにしてもお前も物好きなものだ。わざわざこんなところで休も
うというのだから﹂
﹁そう言われても私はこっちの方が慣れているのよ。それに足を水に
付けていると気持ちいいし﹂
﹁この秋も近い川の水を相手にそんな事を言えるのはお前くらいだろ
うさ﹂
やれやれといった調子でハナークが呟いたが、アンナレーナはそれ
を無視して上機嫌な様子で足を川の中で泳がせている。そんな彼女
を暗闇の所為でほとんど見えないとはいえ一瞥したハナークは、何と
なしに輝く星々が見える空と沈黙に沈む森の中を見渡した。
すると頭上の木々にはフレトに付けられたランプが幾つか煌いて
いるが、依然として夜の最中である森の中は暗く彼の目では周囲を見
渡すにも一苦労しそうなほどだ。藍の魔女もどうやらそこは同じな
ようで、ブーツを脱いだ素足を川の中に付けながら、横に座っている
グイネに寄りかかり大人しくしている。
あの後ガラドリエルの奥方とその夫ケレボルンとの話は、しばらく
続いたもののそう長くは無かった。最後には客室に泊まって行くか
と聞かれたアンナレーナではあったがさすがにそれは恐れ多いと辞
去し、敢えてカラス・ガラゾンの城壁の外に出ると川のほとりで身を
休めているのだった。
﹁はぁ⋮⋮まさか奥方様直々に〟予言〟をもらっちゃうなんてね﹂
﹁まあ災難だったと諦める方が良いだろうさ。むしろお前の因縁は必
ず果たせるだけマシだと思え﹂
﹁それはそうだけどね⋮⋮﹂
先ほどまでの上機嫌さはどこへ行ったのか、現在のアンナレーナは
36
やけに沈鬱な表情をしてしまっているのが頭上からの薄明りでも読
み取れる。そんな表情をさせる内容は、先の奥方が言った発言である
というのは想像に難くない。
││そもそも、彼女と黄金竜スマウグとの因縁は実に三百年も昔に
遡る。元は富めるドワーフの王国の財を狙ってやって来た黄金竜ス
マウグに対して、たまさかドワーフの王国エレボールを訪ねていたア
ン ナ レ ー ナ が 民 が 逃 げ る 時 間 稼 ぎ に 打 っ て 出 た こ と が 発 端 で あ る。
その時は大した因果も無く、スマウグは財を求め山に入り、魔女はそ
れに乗じてその場から離脱した。
その次、エレボールを奪還するための遠征に参加したことが彼女と
エ レ ボー ル
スマウグの奇妙な因縁を決定付けるものとなったのだ。それと言う
のも、はなれ山のすぐ近くにあった〟湖の町〟を破壊するために山を
飛び立ったスマウグと戦闘を繰り広げたからである。結局最後には
スマウグは片翼を奪われ、更に町で人望を集めていた希代の弓の名手
37
バルドの活躍で片目を射抜かれたことでたまらず飛び去った。けれ
ど死んではいないのだから、間違いなくどこかに潜伏して復讐の機会
を窺っていることだろう。
それを見越してアンナレーナは竜の影を求めてこの五十年放浪を
続け、けれど一切の情報は手に入らなかったのだ。それを思えば案外
ハナークが言う通り予言を貰えたのは良かったのかもしれないが、こ
とが事だけに素直に喜べないのが正直な気持ちなのである。竜とは
中つ国でも最高クラスの力ある生き物なのだから、例え魔法使いと言
えど勝てる保証などどこにもないのだから。
そんな訳で少しばかり気分が落ちてしまった魔女を慰めるように、
横に座っているグイネが舌でぺろりと彼女の顔を舐めた。すると少
しばかり笑ったような気配が流れたので、ハナークは話題を早速切り
﹂
ひとまずお前の言っていた目的は果たせた
替えることにしたのだった。
﹁明日以降はどうする
訳だが、明日一番にでもローハンに向かうのか
で採れる薬草にも用があるわ。エルフは薬草の世話になることがま
﹁流石にそうはしないわよ。奥方様にも挨拶をしなきゃだし、この森
?
?
まあいい、俺はお前の従
ずないのだし、その辺りあんまり遠慮しなくて良いというのも悪くな
いわ﹂
﹁はっ、随分とたくましい事で魔女さんよ
者なのだからお前の決定に従おう。それがお前と交わした約束なの
だからな﹂
﹁ん、ありがとう。貴方のそういうさっぱりしたところは好きよ﹂
そう言ってハナークの嘴を二撫で程したアンナレーナは、急速に眠
気が襲ってきたのかグイネに寄りかかると目を瞑ってしまった。そ
のまましばらくは起きていたようだが、やがて規則正しい寝息が静か
なロリエンの森に響くのだった。
◇
﹁えー、火傷止めに使えるレメンソンドの根っこに、こっちは頭痛を止
める茎でしょ。それにこのアルフィリンは蜜を集めれば健康に良い
わね。アセラスも結構あるし、たくさん貰ってしまおうかしら﹂
独り言を小さく口の中で呟きながら開けた森の中でかがんでいる
のは、それなりの大きさをしたバスケットを左手に提げたアンナレー
ナである。普段持っている杖は荷物と一緒に背に仕舞ってしまい、空
いた片手でそこら中に自生しているたくさんの薬草類を集めている
のだ。既にバスケットの中には多くの摘み取られた葉や茎、それに変
わりどころだと根っこがたくさん詰まっていて、どれだけ豊作なのか
一目で分かるほどに採取していた。
﹁おい、ヴィヌカザド。こっちの方にも悪くない薬草が多くあるぞ。
なら行ってみましょうかしら﹂
それに珍しくニフレディルやエラノールの花もあったぞ﹂
﹁本当
色とりどりの花々はまるで花畑のように綺麗に色づき輝いていて、今
の時期が秋であるという事を忘れさせてしまうほどだ。まるで時間
がゆっくり流れているかのように美しく留まったそれらに感嘆しな
がらも、アンナレーナは次々と役に立つ薬草類を摘み取って行く。
そんな事をしていれば当然時間も過ぎ去ってしまうもので、ハナー
クが教えてくれた花々や目につく便利な薬草を自然を破壊しない程
38
!
そ う し て 魔 女 は 花 や 緑 の 生 い 茂 る 地 面 を 踏 み し め て 歩 い て 行 く。
?
度に摘んでいればいつの間にか日は中天へと差し掛かってしまって
いる。彼女たちは朝目を覚ましてからすぐに薬草採集に赴いている
訳だから、既に相当な時間これらにかかずらっている事となる。どう
やら、藍の魔女は何かに夢中になると周りをあまり顧みなくなってし
まう悪癖があるらしい。
﹁ひとまずこんな所かしらね。これなら向こう一年はもちそうなくら
い集められたわね。さすがはロリエンの森って所かしら﹂
寒空の中で額を軽く拭った彼女はおもむろに被っていた黒い三角
帽子を脱ぐと、帽子を逆さまにしてその中に先ほどまでバスケットの
中に入れていた薬草類を詰め込み始めた。帽子の大きさとバスケッ
トの大きさから考えれば明らかに容量オーバーな上に帽子自体被れ
なくなりそうなものだが、不思議と詰め込んでも詰め込んでも限界が
訪れない。そうして最後にはバスケットの中身は全て帽子を通して
どこかへと仕舞われてしまい、終いにはバスケット自体が帽子の中へ
﹂
ハナークは同意を求めるようにグイネに訊ねるが、肝心の彼は花の少
ない所にその巨躯を寝そべらせて大して話を聞いていない様に見え
る。現に相当賢いはずの彼が不思議そうな感じに吼えたのだから、本
39
と消えていってしまったのだった。
﹁⋮⋮いつ見ても魔法と言うのは便利だな。これ以外にもビールを美
味くする魔法だとか、自身を威圧的に見せる魔法と言うのもあるのだ
から手に負えない。お前たち魔法使いが本気で魔法を使用すればど
うなるのやら﹂
﹁別にどうにもならないわよ。私達魔法使いは魔法を使用することで
他者を導くことは禁じられているし、その禁を破ればいずれ堕落して
﹂
頼みの魔法すら使えなくなるわ。何より、魔法使いの弟子である私が
そんな矜持に反することをするはずが無いでしょう
﹁ああくそっ、俺が悪かったよちくしょう。まさか冗談に対してここ
?
まで大真面目な返事が返って来るとは思いもしなかった。お前もそ
﹂
う思うだろグイネ
﹁ガウッ
?
器用にも真っ黒な翼で頭を抱えるという人間臭いポーズを取った
?
当に理解していなかったのだろう。何とも自由奔放なものである。
そして期せずしてハナークから真面目、ある意味では堅物の称号を
得てしまった魔女はと言えば、不服そうな顔をしながらも灰色の鞄の
中をごそごそと探っている。そうしてしばらくした後に出てきたの
は、数日前にグイネが捕らえた鹿を保存用とした干し肉であった。そ
れに加えて革袋で作られた水筒と自家製らしいクッキーが一緒に出
て来た。どうやらここで昼食としてしまうらしい。
森の空けたところで腰を下ろした彼女は、そのままのんびりと食事
を堪能し始める。ロリエンの森には害獣だとか、オークやワーグと
言 っ た 悪 の 敵 も 入 り 込 ま な い の で 非 常 に 安 全 な 場 所 で も あ る の だ。
更にはこの場所はロリエンの首都カラス・ガラゾンからも相当近いの
で、そう言った意味でも鉄壁の安全さを誇っている。
なのでのんびりと食事を摂っている魔女の背後から、静かに忍び寄
る気配がある。それは森の中、草木が生い茂る大地の中でほとんど音
を出すことなく、まるで重さが無いかのようにすら見えてしまう。そ
うして長い金髪と白い衣を纏ったかの女、ガラドリエルは既に気配を
察していた魔女へと静かに声を掛けた。
﹁まさか朝一番からこのような所に居るとは、驚きましたよヘレボル。
てっきり私はこのまま貴女がロリエンの森から去って行くよう思っ
てしまったのですが﹂
﹁⋮⋮さすがに奥方様相手にそのような失礼な真似はしませんよ。出
る時はちゃんとそちらに一言通してから出るつもりでした﹂
自身の食べていた残りをグイネの方に放りながら、アンナレーナは
すっくと立ちあがった。女性としてはそれなりに大きい彼女ではあ
るが、それでもガラドリエルの身長はもう少し高い。高貴なエルフと
して相応しい、美麗な姿である。
ともかくまさか森の領主である奥方が直にやって来るとは思いも
しなかったアンナレーナは、苦笑しながらガラドリエルと向き直っ
た。
﹁奥方様が自らこちらに来ずとも、私の方から出向いたのですが﹂
﹁別に気にする必要はありません。これは私が望んだことです。たま
40
には自身の住む森を歩くのも、エルフらしい行いと言えるでしょう﹂
言いながら薄く微笑んだガラドリエルに、アンナレーナもどうにか
笑いかける。実際のところアンナレーナが敬語を使っているために
分かり辛いが、この二人は立場上はそこまで格差があるわけではな
い。魔法使いの実力は誰をとっても相当なものであり、エルフの中で
最も力ある奥方と比べても決して霞はしないのだ。それでもアンナ
レーナが敬語を使うのは、ひとえに相手の偉大さゆえであるのだが。
ガラドリエルは薄く笑った顔を崩さないまま、ゆっくりと辺り一帯
を見回した。そこに在るのは美しく咲き誇る花々と、黄金の葉を付け
た樹木に青く茂る草たちである。
アダマント
と、ガラドリエルは不意に細く白い指を持ち上げた。そこには白く
輝く金剛石が嵌め込まれている美麗な指輪があった。それは磨かれ
た金の様に煌きながら、宝石はまるで宵の明星をそのまま映したかの
ように陽の光に瞬いている。
41
﹁わらわの持つエルフの三つの指輪が一つ〟ネンヤ〟は、決してわら
わに良い事ばかりを齎しはしません。この力で悪を退け時の流れか
﹂
らこの地を守り通しても、これはわらわの中にある秘めたる願いをも
増幅して憚らない﹂
﹁それは⋮⋮やはり力の指輪だけの事はあるのでしょうか
か出来ない事でもあります。その事は各地を巡る私が良く知ってい
悪と無縁な平和を享受できているのです。そしてそれは奥方様にし
庄に住むホビットの皆や、太古から存在するブリー郷に暮らす人々は
﹁私もそう思います。奥方がその指輪を用いてこそ、西方のホビット
のだと﹂
い事に力を使っているのならば、それは決して恥ずべきことではない
いうのならば、幾ばくかわらわの心も休まるというのものです。正し
﹁こうした当たり前に美しい、素朴な光景を守ることが出来ていると
ゆっくりと、ガラドリエルの手が広げられる。
│﹂
しょう。そのせいで苦しむことも幾度となく有りました。ですが│
﹁そ う か も し れ ま せ ん が、け れ ど や は り 大 き い の は わ ら わ の 心 持 で
?
て、だからこそ断言出来る事でもあります﹂
﹁礼を言いましょう、ヘレボルよ。そなたのその言葉のおかげで、わら
わはまた一つ悪と戦う決意を持てました。力あるエルフとしてこれ
までも様々な出来事に関わってきましたが、道を逸れずに走るという
のも大変なものです﹂
憂いを帯びた表情と声音でそう言ったガラドリエルは、その瞳の中
にまるで何万年と言う程の過去を映し出しているように見える。い
や、実際に彼女はそれだけの時間を生きているのだ。酸いも甘いも噛
み分けて、その上で今この場にこうして立っている。
﹁⋮⋮私がこの指輪の事を語ったのは、他の三つの指輪の所持者たる
二人を除けば貴女一人だけです。その意味、聡明な貴女ならばよく分
かる事でしょう﹂
﹁はい﹂
〟すみません、本当はさっぱりです〟││とは魔女はおくびにも出
さない。どうにも妙なところで大きな信頼を寄せられているらしい
アンナレーナだが、本人としてはその評価は適切なのかどうか疑わし
いところである。なんだかいつの間にか自分の影が自分よりも大き
くなってしまったかのような錯覚を覚えてしまうが、もう何百年もそ
のような扱いを受けていれば慣れても来る。
﹁ならば良いのです。そなたの行く道は険しい事でしょう。かの黄金
竜との因縁は元より、魔法使いとしての使命も鑑みれば明白な事で
す。け れ ど そ な た な ら ば、間 違 い な く 乗 り 切 れ る 事 で し ょ う。だ か
ら、その指輪はそなたの手に託されたのです﹂
﹁心得ました。私の様な若輩に何が為せるかは未だ不明瞭ではありま
すが、魔法使いの意地に懸けて懸命に生きて戦いましょう﹂
無意識の内にその手に嵌まったラピスラズリの指輪〟ベルク〟に
触れながら、毅然とした態度でアンナレーナは返答した。本人はきっ
と否定するだろうが、こういう所がハナークの言う〟大真面目〟な側
面なのだろう。普段ののんびりとした空気とは一転したその姿は、魔
女を名乗りに相応しい風格すら感じさせる。
﹁頼みましたよ、私に並ぶもう一人の魔女。現状自由に動けてかの竜
42
と並べるのはそなたとミスランディアのみ、更に交戦までしたのはそ
なただけです。竜がサウロンと手を組めば、中つ国は蹂躙されて望み
は完全に消え失せる事でしょう﹂
神妙な顔つきで宣言するガラドリエルに、アンナレーナもまた同じ
ような表情で頷いた。
﹁では││そなたの旅路に、どうかエアレンディルの加護のあらんこ
とを﹂
その時、一陣の風が吹いた。草木を揺らして花弁を空に舞い上がら
せたその風を避けるために咄嗟にアンナレーナは顔を覆い、そして手
を 離 し た そ の 時 に は ガ ラ ド リ エ ル の 姿 は 消 え て い た。ま る で 風 と
なって消えて行ったかのような不思議な光景だが、魔女は特に動じる
事も無くポツリと呟いた。
﹁⋮⋮竜を逃がしたのは私の責任よ。本来ならばありえない現状を齎
したつけは自分の手できっちり払う。それが魔女としての私の矜持
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よ﹂
言い切り、未だ手に持ったままだった黒の三角帽子を被りなおし
た。背に仕舞っていた杖を右手に持ち、既に横に来ていたグイネに跨
る。その少し前にはハナークが静かに飛んでいて、これから先の行先
を示してくれている。
﹂
﹁じ ゃ あ こ れ で ロ ス ロ ー リ エ ン と は し ば ら く お 別 れ ね。次 は ロ ー ハ
ン、しっかり巡って行きましょう
だ。
こうして力強く獅子は駆けだす。魔女は今日も、中つ国を巡るの
!