HIKONE RONSO_080-082_024

二四
丸
近世前期越後山間部農村の山割制度
田
敏
近世前期越後山間部農村の山割制度
−頸 城 郡 越 村
口
原
とあり、田畑と共に紙魚による山の割当てがなされたことを知り得る。また同村の天明四年︵一七八四︶辰九月﹁地割定﹂
候而モ、総歩相改メ定之歩数有之時ハ抜地代出シ不申候事 ﹂
一、田畑山後年二輪リ抜崩書地取度旨申出山守有之時ハ、定之竿ヲ以残地改メ、定之智嚢二不足之黒黒地代相接可申候、若三崩有之
︵六︶
、田畑山割紙嗣取仕申二付、若不足之割有之山幕、添歩出シ不申定二候事
一
﹁︵五︶
然し乍ら江戸時代の越後において、二割の事実が全く無かったわけではない。中頸城郡板倉村大字山部の寛延四年︵一
七五一︶八月﹁村中地割取極メ讃文﹂の第五条及び第六条には、
は周知の事実であるが、それにもかかわらず同時代の山伝制度に関する史料は意外に乏しい。
ぶ限り、未だ殆んど研究がなされていない。元来越後は江戸時代において、地割制度が著しく発達した地方であったこと
れも主として越前・信濃・飛騨の諸地方に関するものであった。越後における江戸時代の山割制度については、管見の及
事実が明らかにされてきた。就中、中部地方では最も古く大正六年十月、牧野信之助氏によって越前南条郡及び丹生郡の
海岸地帯諸村落における﹁山分け﹂の研究がなされて以来、多数の山登制度の事例が研究の対象と・なったが、それらは何
江戸時代の山割制度については全国各地にその史料が残存しているが、特に従来は中部・近畿の両地方について多くの
序
の第九条及び第十二条には、
■
﹁︵九︶ ︵天保五年︶ ︵天保六年︶
︵十二︶
一、林割木立ハ三ケ年之内二切取単帯事、但来巳年ハ再構、面一ヨリーケ年二壱割蔵米壱斗五升ヅツ當地主へ今渡シ可申候事︵中略︶
一、柴山直坂・外林・大平・くもん平右四和賀年バヘハ生年壱ヶ年二入立米當地主へ相立、先地羽子可申候、外柴山へ三年バへ右同
断、但銘々持分苅残リハ不及沙汰二候事 ﹂
とあり、文化元年﹁地割村中極メ讃文﹂にもほぼ同様の箇条が見え、その末尾に﹁右ハ此度小作百姓壱統地所割晶相届侯
④ 、 、 、 、
二君、前書之通り相良地所割替知慮﹂︵傍点筆者、以下同じ︶とあるから、当村の山割は地主から山を分割小作するという
形で行われていたことがわかる。 、
⑤
また西蒲原郡弥彦村大字弥彦においては、養子に五十年間の期限付きで割山を添えて渡すという興味ある内容の左の如
き証文が残されている。
﹁ 双方熟談謹文之事
一、此度其許末子友七と国者二字大乗院山壱割永代二相添名跡二盤領宣旨相頼砿所、右は軒前割山二付、永々相譲砿儀は難相成砿、
︵挨拶︶
若後年二至地割等有之に節は、差替山無之砿織付、何ヶ年之内と相究砿ハ・何様も可及相談二旨拶挨致砿二曲、仲人之者取持二
依双方熟談之上、五拾ヶ年中皿者二相添譲楓様相談相究砿、粗製砿ハ・早速取返し県単成砿、且五拾ヶ年之中坐苅之儀ハ其許勝
︵法︶ ︵讐︶ ︵加︶
手次第可養成砿、若年季中閏割有之砿ハ・、此方二足引当砿山壱割無相違相渡可申砿、且又友七儀不縁又は病死等之節、子有小
一札後謹如件
薄墨ハ・、右為弁抱は究之通持地可被思置、小子無之時は壁年季之内二上も相返し可申砿、右脚之通双方違乱為無之親類茄印之
左 衛
衛門門
同人愚
」
衛
五
仲 人
兵
山譲主
同人親類
二五
郎
友七二山相添貰主
文化十一年戌十二月 . 弥 三 衛 門
近世前期越後山間部農村の山割制度
喜 源 三
近世前期越後山間部農村の山割制度 二六
これによると、当馬の割山は軒別に割当てられ、割替が行われたこと、割山は永代譲渡が許されていなかったこと等がわ
かる。
.﹂のほか、面心郡里村李棄山の原畏には案八年︵一七七九︶美哀楽︵一七八七︶の﹁林藷山割帳毒
所蔵されており、また西頸城郡青海町大字⊥路の松沢家には弘化四年︵一八四七︶の﹁村持林山割当帳﹂が所蔵されている。
これらの内容については未だ研究の機会を得ていないが、何れも江戸時代の越後に山割制度の存在せしことを証するに足
りるであろう。これらに比すれば、やや豊富な史料に恵まれた糸魚川市大字越の山割 ︵ここでは﹁山分け﹂という︶制度に
ついて、特に近世前期における当村の村落構造が山鼠の創始にどのような投影を示したかという点に焦点を合せ、若干の
考察を試みたいと思う。
二 村落の構造と山割の創始
こし 越村はかって北島正元氏が越後の山間部における農村構成及び地主経営を論究された時に採上げられた。それは当村に
中世末以来土着した豪族斎藤家︵明治以後伴と改姓︶があり、同家には多数の古文書が所蔵されていて、これが近世初期以
降の農村史研究に有用な史料となっているからである。同家はもと近江の豪族であったが、天正十一年 ︵一五八三︶頸城
郡奴奈川荘に土着して以来早川谷を開発し、秀信の代に越後の戦国大名上杉氏によって越も含めた経田村九箇村の支配を
委され、後是顕の代元和九年︵一六二三︶には九箇村の大肝煎となった。 北島氏の研究によるとこの斎藤家一族の持地は
天和二年︵一六八二︶の検地に際して、越村の高請地総反別の過半を占め、その上当時庄屋・与頭等村役入の地位を殆ん
ど一族で独占して村内における主導権を握っていた。また隷農主的地主手作は漸次解体する過程にあり乍ら、なお名子や
近江より随従した斎藤家の家臣が主従関係を残したまま土着した永倉と呼ばれる従属的農民を従えた地主手作経営を維持
していた。従って当村の江戸前期における村落構造は天和四年 ︵一六八四︶二月﹁越後国頸城郡越村御検地名寄反別帳﹂
によると大肝煎斎藤本家︵仁左衛門︶の十三町二反七畝九歩︵高百二十八石高斗五升︶を筆頭として、第一表に示されている
ようなかなりの階層分化が見られる。かかる構造を持った村落において、山林の利用がいかなる形態をとるかということ
持地面積(単位反)1戸数
2
1
4
5
9
8
i.v
7
11
12
12
13
10
19
以下
0.5
1
29
100
tv 133
nv
23
N
N
N
N
26
132
99
一 40
計
月にはじめて山羊の相談がまと
まったもののごとく、庄屋四郎
左衛門以下二十四名の村民の聞
で﹁越村山わけ帳﹂と端裏書の
近世前期越後山二部農村の田割制度 二七
﹁山高﹂、次の一分は﹁地生﹂、さらに他の一分は﹁かき﹂をそれぞれ基準として各戸に割当てるという大綱が村中の相
これによって村持林野のうち﹁二型場﹂二箇所と﹁かや場﹂三箇所は別として、 ﹁草山﹂ はこれを三分し、その一分は
元禄武年巳七月廿九日 ︵外二十三名品︶ ﹂
越村 四郎左衛門 ㊥
如.此連判仕為後日働而如件
﹄、越村草山之儀村中相談二而田三ツニわり、山高二軸ツ分、地高二壱分、かき二壱分と割、苅軍場ハ弐ケ所・かや場三ケ所之儀百
臨¢相談二而何方二而も勝手二能所相遠蛙、縁甲単三ツニ銘々二割取申筈二相定申上甑、.山割申時分も相談相違申間敷砿、為其
39
10
O.5
﹁ 相定申謹文之事
40
22
25
28
1T
N
20
tv
16
15
f6
11
N
10
9
8
N
7
6
6
A一
5
N
N
3
3
.一v
2
4
三の四割は元禄二年︵一六八
23
21111
Q12
11
−1
21121九三1
1
︶にその端を発する。同年七
は極めて興味ある問題である。
持地面積別戸数
ある次のような山分け証文︵以下七月証文と略称する︶が認められた。
〔第一表〕 天和四年
近世前期越後山間部農村の山割制度 二八
談を以て決定されたことがわかる。二箇月後の同年九月にはさらに詳細な取極めがなされ、左の如き山分け証文︵以下九
月証文と略称する︶が村中連判を以て定めおかれることとなった。
︵一︶ ︵株︶
﹁ 山分ケ定謹文之事
︵姓︶
一、越村惣草山之儀前々は村中入込二伐中仕砿処二、近年者木かふをほり細蟹可申所定御座砿、此分二選置砿は山ほりつくし山荒シ
可申与存、惣百性相談ヲ以人別二割分ケ申盈、山分ケ様之次第ハ惣山三ツ片割、壱ツハ山高、壱ツハ地力二、壱ツハ家別二割取
︵二︶
ル相談極砿故、百性甲乙無御座砿
一、山何百何拾町何反 惣 村 中
内
何拾何町何反何畝歩 山高壱石六合當
但山高壱升二何反何畝何歩
何拾何町何反何畝歩 地高武百九拾石威斗五升八合當
孫右衛門分
但地高拾石二何町何反何畝歩 ,
ヘ ヘ ヘ ヤ ヘ ヘ へ
何拾何町何反何畝歩 家別かき何拾何間
但かき壱ツニ何町何反何畝 但 名子かきハ半分
此 わ け
何町何反何畝 山 高 當
何拾何町何用 何回何回何反 ・ 四郎左衛門 分
内何町何反何畝 地 高 當
何町何反何畝 か き 當
何町何反何畝 山 高 當
内何町何反何畝 地 高 當
何町何反何畝 か き 當
ト
こ こ こ
何何何何何何
拾拾拾拾拾拾
何何何何何何
間間間間間閲
︵中略︶
外二
ゥや山三ケ所
よ長よ長よ長
︵四︶
Oひし語義ハ岩本・谷内・下越・上越之者共入込二馬草薮等かり申定、乍去苅至極廊下砿儀者不霊成砿定事
︵六︶
穴C村・浦本村・意趣村・宮平村山四ケ村山境二而於以来若出入有之砿共、村中惣歯性罷出先年之通有躰二申、其上二而も出入
︵七︶
町何反歩小八郎方へ相渡申砿、此山之内ヘハ大越6一かまも諸事伐苅石間敷砿
s動山6木たな場立道迄前々通小八郎支配、今度横江下何拾何懸樋反.矢沢平何拾何町何反井一谷懸軍翠黛血筋西まこ迄何拾何
田草・馬草・薪諸事入込申間敷、勿論城貝之者共大越山へ入込苅申問敷砿
一 田草井苅しき三蓋ハ何れ之持分二而も山口日限相極、何日6何日迄と相定、 其日限過量は面々持分二而苅申定、城貝村分山ペハ
︵五︶
’
︵三︶
瀧 わ し
是ハ村中惣百性相談ヲ以別帳二面、年々出番相極メ、狸二瀬之様二可仕申事
一、
一、
一、
二わけ可申盗、以上
近世前期越後山間部農村の山割制度
二九
四 郎 左 衛 門㊥
市之趣我々了簡このり申上ハ、 山惣山面打立、銘々二尊面二書記、請帳ハ重而左封可申砿、山わけ砿義ハ何時二而も百生中勝手次第
元禄武年巳九月
文循而如件
け 二 二 而 か り 申 者有
わ 之
砿
は
、
おさへ置圧や方へ相物可面面、左砿ヘハ庄や五人組立合其者持分山不着相論不可量定、爲後日連判讃
申 上 ハ 少 も 異 申吉
敷
砺
、
且又城見之者ハ大越山市而一かまも苅申間敷砿、尤大越百生重患貝持分山二而かり申量器砿、若苗狼二他之
右 之 面 々 惣 百 性 立合
吟
味
之
上
、
相談相極臨画わり総画上口少も甲乙無御座砿、向後如何様之儀申出砿者有之証言、如此連判謹文相極
二罷成砿は、惣百生中罷出塒明可書家、造田家皿山惣反別二かけ出シ可申定之事
︵姓︶
一、
近世前期越後山間部農村の山割制度 三〇
巳九月 四 郎 兵 衛㊥
︵以下六名略︶ ﹂
小 左 衛 門㊥
元来越村の山林は殆んど斎藤家に支配されていたと伝えられるが、元禄の山分けに際しても右九月証文の奥書に見られる
如く、四郎左衛門以下斎藤家一族の敷認が与えられてはじめて実施の運びとなったことは、それを或る程度裏づけている
へ
といえよう。しかし元禄当時は既に村持山林としての性格も有するに至っていた。九月証文第一条の﹁越村惣草山﹂とい
う表現は単に草山全部という意味かもしれないが、或いは﹁惣の山﹂という意があるかもしれない。それはともかくとし
ても、右下一条によると、この度﹁山分ケ﹂を実施することになった草山は従来﹁村中入込﹂を以て利用していたもので
あった。然しかかる入会利用の下.においては近年伐採に際して、地盤が石原であるせいか端株まで掘り起してしまう為に
山林が荒.れ、その結果良好な柴賭場を失うことをおそれ、各戸に割分けることとした。ここには山林の保護を目的とする
当村山分けの趣旨が明らかに示されている。この場合かつては存在しなかった木筋を掘り起す、が為に生ずる山林の荒廃と
いう事実が、何故この時代に生じたのか、或いはことさら論われるに至ったか、﹁そしてまたそれを解決するためには各戸
に割当てることが最善の策であると考えられ、るに至ったのは何故であるか、というようなごどが重要・な問題点となるであ
ろう。しかしこれらについては遺憾乍ら今論証するに足る史料を持合せないので、問題点を指摘して、他日の考究に資す
るに止めたい。
次に七月及び九月の両証文とも山分けが村中総百姓の合議に基づくとしている点が注目されねばならない。すなわち当
村の山分けは領主の政策や強制によるものではなく、村の自主的意志に基づいて行われているものであり、これによって
山分け定書は村法として成立していることが知られる。また村落の内部において、土豪斎藤家の一族が承認を与えた上で・
具体的な分割の方法については村中総百姓の合議にまかざれた事実の背後には、元禄期分越村に土豪的支配が強固に存続
9
していたことと共に、他方では近世的な村落共同体が成長しつつあったことを想定し得る℃しかし乍らそめ結果は元禄四﹁
OQ 7 2 4 3 2 2
に表示された総戸数40戸と本表
の25戸との間に差があるのは登
録基準の相違に基づくものであ
る。
1 , 501 N2, OOO
1,100t−1,500
2, 501 t一一3, OOO
2, OOI 一v2, 500
3, OOI t一一3, 500
4, OOI ・一一・4, 500
3, 501 N4, OOO
25
計
地方における近世前期村落の性格が端的に、表われ
ここに未だ完全に中世的関係を脱却し切れない当
九十四坪という最も大き.な分け山を有していた。
いうまでもなく斎藤本家仁左衛門が一万四千八百
藤家を中心とする伝統的な村落支配者層が多い。
このうちで多くの分け山を得ている者には土豪斎
年の﹁越村山分ケ検地帳﹂によると、第二表に示されているように各戸の割山の大きさは千百九十坪から⋮万四千坪余に
る
(単位坪)
戸数
分ケ山割方高
5, 712
14, 894
〔備考〕 分ケ山割方高については
32頁参照。尚第一表(27頁所掲)
近世前期越後山間部農村の出割制度 ・ 一一=
そ.れそれ十二町六反四畝六歩︵三万七千九百余坪︶であった。まず山高であるが、九月証文の第二条に﹁山高壱石六合当﹂.
これによると割当総反別三十七町九反二二十九歩︵十一万三千七百六十六坪︶のうち、三種の区分は均等に三分の一隻で、
拾武町六反四畝六歩 か ぎ 但壱ツニ彰彰四反道面弐拾戴歩、此坪千戴百六拾四坪﹂
ママ 拾戴町六反四畝六歩 山 高 壱升二付三百七拾七坪
三万七千九百三拾八坪
拾武町六反四畝六歩 地 高 拾石二付千弐百五拾坪
﹁三万七千九百三拾坪
﹁越村山分ケ検地帳﹂に一層具体的な左の如き記載がある。
九月の山分け証文の第一条は続いて七月の証文と同様な三分の方法を述べているが、これについて元禄四年目一六九一︶
。
わたる間に分散していて、極端な不平等割の様相を呈している。
〔第二表〕 元禄四年
て
分ケ山面積別戸深
い
近世前期越後山間部農村の山割制度 三二
とある。これは恐らく天和四年︵エハ八四︶の検地名寄帳に﹁山高輝石六斗六升四合﹂と記され、また村明細帳に﹁山高﹂
と記されているものであろう。越村は大越・谷内越・西面︵岩本ともいう︶・北越︵城貝または要害ともいう︶等の各部落より
や ち へ 成るが、明和三年︵一七六六︶﹁大越村中出シ帳﹂に﹁六斗壱升九合山高村中﹂、同年﹁西越村明細指出帳﹂に﹁山高弍斗
八升七合﹂、安永九年︵一七八○︶﹁谷内越村明細指出車﹂に﹁草山高紐斗﹂、同年﹁西越村明細産出帳﹂に﹁草山高子斗八
升七合﹂とある。すなわち山高を村請けしてそれを村内各戸で分担したわけであろうが、その高に応じて一升につき三百
七.十七坪の割で、,草山の三分の一が各戸に対し割当てられたものである。
次の三分一は地霧を基準とし、十石につき千二百五十坪の割で割当てられた。延宝五年︵一六七七︶二月における斎藤
と畑高との両者を合計したものであろう。
何左衛門組の﹁村々言付之帳﹂では﹁撃高﹂を﹁山高。青苧高﹂と区別して記載しているから、恐らく﹁嵩高﹂とは田高
な ヘ へ
最後の三分の一は七月証文に﹁かき﹂とあったが、これは天明八年︵一七八八︶十月大越村庄屋が立会った東西両土塩
村取替証文に前川原見取場について﹁無高至仁江島鍵割二戸相舞置砿﹂と記されているかち、 ﹁鍵﹂の謂であることは明
らかであり、また九月証文によって家別割であることがわかる。ところで剛毅について注目すべきことは九月証文第二条
に﹁名子かきハ半分.﹂と定められていることである。従って恐らく鍵一ヅ当り山四反二畝二十二歩、名子に対してはその
半分すなわち二反一畝十一歩が与えられたものと思われる。鉄面自体が大高持の村落支配者層よりもむしろ小百姓に有利
な制度であるが、そこに半分なりとはいえ、名子の鍵割が認められていることは、名子の上昇自立化への過程の一断面を
示すものといえよう。而もその半分という規定は、この時期における従属的農民の上昇に一定の限界が与えられていたこ
とを示している。元禄四年の山分ケ検地帳において、山分けに関係する人々の名は﹁割方﹂︵かりにAとする︶、﹁銘々請取﹂
︵同じくB︶及び連署︵同じくC︶の三箇所に表われてくるがBはCよりも数多く、CはAよりも数多くの人名が記されて
おり、而も数の差以上にA・B・C相互間の名前が必らずしも一致していない。AにあってBにない名︵長松.新兵衛.松
右衛門︶ば何れも天和四年︵一六八四︶の検地名寄帳に見出せる。また反対にBにあってAにない名︵弥右衛門.勘兵衛.八
兵衛・杢右衛門・市右衛門・久左衛門・三右衛門・権左衛門・善五郎︶は勘兵衛・善五郎の二名を除いて天和の検地名寄帳に見出
せない。従ってAの方が古い名前であって、いわば分け山株︵二十五株︶ というべきものではなかろうか。そしてBは現
実に分け山を請けとったものであり、Cも大凡Bと同様であると思われるが、Bより一名少ないのは従属的農民はその主
家が代表して署名している場合もあるかと濁せられる。ところで斎藤家の名子間兵衛の名はA・B・Cのすべてに認めら
れ、総計千五百八十九坪の割山が割当てられることになっていて、第二表に照してみれば少ない方に属する。これには恐
らく名子の鍵は半分の規則が適用されているものであろう。然し一方では斎藤家の永屋たる五郎右衛門・久蔵は天和の検
地名寄帳にその名を表わし乍ら、山分ケ検地帳には全く見当らない。また斎藤家から分家八右衛門につけて出した永屋の
三右衛門はBにのみその名を表わしている。この不斉一性は従属的農民が独立して分け山を取得する過程にもいくつかの
段階があり、元禄二年に時を同じくして一様に与えらわたものではなかったからではないかと推測される。
三割地権の性格
以上のごとく元禄の山分けは近世前期における村落内部の諸要素を露呈した一断面を示しているといえよう。かかる歴
史的過渡的性格は割地権についてもいえる。すなわち元禄の山分けは﹁惣草山﹂を各戸に分割することによって従来の.入
会関係と異なり、割当てた地域に限って排他的な私的占有を認めようとする意図があった。このことは元禄二年九月の山
分け証文後書に、他人の分け山で狼に採取せし者に対する罰則として、その者の持分である分け山を全部没収することと
しているのによってもわかる。また安永八年︵一七一九︶四月置越村のうち北越を除く三部落︵大越.谷内越.西越︶の間で
近世前期越後山間部農村の山割制度 三三
近世前期越後山間部農村の山割制度 三四
取交わされた﹁定証文﹂第四条には、 ﹁春夏秋都而年中銘々中山製靴柴薪伐り苅二参砿節、持分訳山二而甘煮致楓義は格
別、外持分之柴山へ入り込ミ盗聴致判者過料米壱斗、見逃し同断﹂とある。これらは当然持分権の排他性を確立せんとす
る働きをもち、従来の入会関係に変化のきざしを与えるものであるが、他方各戸の私的占有の貫徹を阻む分け山利用上の
制限もあった。前掲元禄二年九月の山分け証文第五条によると何入の持分たる分け山においても、定められた期間中の採
草は自由に許されていたらしく、その期間がすぎれば各自持分の分け山で苅るべきこととされた。分け山といえどもこの
ような共同利用関係が部分的に残存していたわけである。享保四年︵一七一九︶四月九日付越村庄屋以下総百姓連判﹁山
之口定証文﹂の第一条には、
﹁一、越村前山・まき谷田草苅軸距あらし畑林かや之場みたり二番成ぬすミ申二付、惣百姓相談ヲ以、前山立割二相極に、まきの谷山
之口赤紐ハ古塁文二御座砿石、山之口一口者鉱山二而茂苅敷畳忌事、田草苅敷林かや場ぬすミ申黒目過料今日斗ツ・出させ申様
二相極置砿事 ﹂
と類似の取極が見られる。享保頃になると元禄の山分け創始当時の制度がかなり弛緩したとみえ、これらを引締めようと
﹁︵一︶
する目的を以て、同十二年︵一七二七︶七月には左の如き文面の証文が、越村三部落の間で取交わされた。
一、越村惣山之儀先年三ヶ村惣百姓相談之上側検地仕銘々分山謹文相極置砿所二、此度屋背分山之内二而干草漁りに入込弓取申二付
御詮儀粗鋼盗所、誤り至極申分可仕様無事座砿、就粟興玉筆文ヲ以一々相極申砿、此上相背砿者ニハ過料米為出申定二相済申砿
ニ 御事
︵三︶
一、惣而分山二而草柴等盗苅仕砿者御座砿ハ\過料米五斗
一、銘々分ケ山二而干草かり興野、相談ヲ以日限相極、三日目かり取組摺目、主業相田ぬけかり仕砿者砿ハ・過料米五斗、但三日之
一、分単二而朝草・夕草かり鑑定敷砿、尤柴かり二参砿ハ・、夕草之儀何連二而茂かり申定二御座砿、首相背態々朝草・夕草苅二.参
内ハ馬ノ草かり砿共勝手次第可仕砿
砿ハ・過料米五斗
︵五︶
︵六︶
一、
︵七︶
︵八︶
ェ山江柴かりに参、夕荷之柴他ノ山二而盗かり仕砿ハ・過料米側斗
Oびしの義先年馬草・田草場二分ケ残シ置申砿所二、近年柴こかり申二付、田草・馬草不足仕砿、依之柴之儀者向後ハ三年ツ・
日6三ケ村入合暴馬草苅可当量、留出銘々訳山たりとも苅出し之固相成不申砿、万一右之段相弾弓もの過料冥目斗、見逃砿もの
槙ノ谷里言田田草苅敷山ノロ相済申砿翌日6毎年五月晦日旧主山田導管、六月朔日6四日迄銘々訳山二塁干草苅取門門、六月五
同断、将又横口下畑直参砿節夕草之儀勝手次第二可致砿、併シ持分野山二而草苅取リ可申事 ﹂
制度に基づいて運営されている。
近世前期越後山問部農村の出割制度
三五
分け山の一部︵字﹁ひかげ﹂.﹁日向﹂等︶が今日私有地化しただけで、大部分が今尚厳重な規約の下に、依然として山分け
とある。このような制限規定がその後も厳守されたためであろうか、当村の山分け制度は私有制への急速な変化をみせず、
﹁一、
らに年代が降って、安永八年︵一七七九︶四月越村三部落の間で取交わされた﹁定証文﹂第二条にも、
各箇条に見られる如く、当村の分け山はその利用期間に制限があったことは留意さるべきであろう。この点についてはさ
この証文は殆んど分け山における各戸の私的占有の貫徹を阻止する諸制限にかかわるものであった。中でも三・六・七の
次相渡可聴盗、残ル画廊ハ此連判之者共家別二割取申定二御座砿、且又北越村分山江入込盗苅堅仕間敷盈、為後日連判侃テ如件 ﹂
中ケ問二而一言之申分ケ旧幕敷砿、尤過料米之儀者見付砿者庄屋方目黒断可申砿、依之五斗之内儀斗ハ見付砿者三方江御年貢米二指
聾者今度勝山不将二罷成、惣百姓立会段々吟味之上、右ケ條之通相極申砿、自今以後右定之通相背臨盗ハ・何様二被仰付砿共、百姓
其者いか様之越度二茂可被仰付砿、少も異義申問敷砿
テびし草山腰前段々切上かや山井雑木桑之木立申間敷砿、只今出立置砿分立百姓相改心びし草山之内罰点可皇国、若相背砿ハ・
Oびしに画学草かり砿義血毎年相談之上山之口明ケかり申定二御座砿、若相背かり盗もの御座砿ハ・過料米五斗
砿通りに御 座 砿
立唄、相談之上山之口相懸、両日にかり取申定二異朝、若相背柴かり砿者有之砿ハ・過料四五斗、尤馬草・田草之儀先年相極置
一、
一、
一、
近世前期越後山間部農村の山割制度
四 結
三六
となった。以下はいささか憶測に過ぎるかもしれないが、爾後男星の山分け制度が山林の私有制へと急速な変化を示さな
分に貫徹し得ず、利用上大幅な制限を付せられて、私的土地所有発達の観点からみれば極めて消極的な性格を有するもの
ったといえよう。分け山の割地権そのものも、その積極面たる排他的な私的占有の萌芽が認められつつ、しかもそれを十
かくして越村における元禄の山分けの特色は近世前期における越後山闇部農村の過渡的二重性格を反映している点にあ
民の上昇自立化に限界があったと考えられる︵消極面︶。
る程度上昇自立の気配を示し乍らも、中には十分に或いは全く分け山の権利を与えられない者もあった。ここに従属的農
自立化を示すものである︵積極面︶。然し乍ら他方では、名子の鍵割は半分となっており、かつまた従属的農民の階層は或
禄四年の山分ケ検地帳に見られる如く、形式的にも実質的にも完全にその分け山を取得していることは従属的農民の上昇
第二には分け山分配上の問題であるが、鍵割の存在は小百姓にとって有利な制度であり、また斎藤家の名子間兵衛が元
た山分けに際してはその方法を村中総百姓の合議にまかされた︵積極面︶。
︵消極面︶を意味するが、それにもかかわらず、他方では既に元禄期山分け創始以前に村中入会関係が成立しており、ま
であったこと、また同じく斎藤家一族の人々が、比較的多くの山林を得ている不平等割の存在は中世的支配の強固な残存
らの伝統に制約された、消極的な要素とに要約することができる。第一に山分けに際して斎藤家一族の人々の承認が必要
が中世的土豪の蒲扇から脱して封建的小農民の近世的村落共同体へと変質する方向に添った積極的な要素と、反面従来か
にその一族が村内の主導権を掌握しているという村落構造の歴史的性格が反映して、興味深い様相を呈した。それは村落
以上主として元禄期における越後頸城郡越村の山分けについて述べたが、近世の村落であり乍ら、尚も中世的土豪並び
口
かったのは、近世的村落共同体としての成長途上に山分けが創始されたという歴史的事情をその原因の一つとしていると
みることはできないであろうか。
牧野信之助氏﹁割地と村落制との関係﹂︵経済論叢第五巻第四号、同氏著﹃武家時代社会の研究﹄所牧︶。
\
︵ママ︶
事を禁ず、但し大字として特別の事情有りし時は伐採期日を変更する事が有る
六、柴の数は弐百巴を限度とし委員検査を行ひ当分の問は金弐百円也を負担する
七、負担金に於て租税に不足を生じた場合は各権利者は平等に不足額を醸出する
八、要貝部落は他部落の受配人員の歩合に依り分担金を納める
近世前期越後山間部農村の山割制度
三七
五、配分を受けたる自己の地域は其の年の配分期日より十二月三十一日迄の間に伐採する、期日以後の伐採は禁ずる、又自己の配分を譲渡する
四、伴家には旧来より弐戸分を分配する︵但し分担金は壱戸分︶
三、.分配を受けんとする者は必ず其の分配期日に指定の場所に集合し、協議の上分配する、但し集合せざりし者には分配せず
家には分配せず
二、受配権利者は旧来の越在住者にして転住者には分配せず、但し越地内に復帰居住せる場合は平等に分配する、昭和弐拾五年八丹以後の新分
現在の大字越﹁柴山配分規約﹂には左の如き諸規定がある。
ロ
﹁一、柴山は区域を定めニケ年を置ぎ三年目に配分する、以後三年目三年目に区域を替へ配分する
同右 二八−三〇 頁 参 照 。
同右 一九一二〇 頁 。
北島氏前掲論文一 〇 頁 。
北島正元氏﹁越後山間地帯に於ける純粋封建制の構造﹂︵史学雑誌第五九編第六号︶。
﹁近世庶民史料調査目録﹂昭和二十四年度分。 ・
石井氏著前掲書四 〇 九 頁 。
新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦神社所蔵文書。
同右 六三一四頁。
同右 六一−二頁。
長野県下高井郡山之内町清水裕氏所蔵文書、石井清吉氏著﹃新潟県に於ける割地制度﹄五九−六〇頁。
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近世前期越後山間部農村の山割制度
三八
九、前記処理の為各部落が壱名宛の委員を選出し柴山に関する一切の件を協議決定する、重要事件は総会の上決定する、委員︵六名︶の任期は
三ケ年とする
十、委員の改選は一月中とする
十一、委員長は委員の互選に依り決定する
十二、会計事務は委員長之を掌る
十三、委員会は大字惣代と必要に応じ協議する
十四、受配者名簿・会計簿及び記録簿を備へる ﹂
元禄の制度と比較して特に顕著な相違は、全般的にみて平等の原則に立脚しているということであるが、然しそれでも尚且つ第四条は伴家︵旧斎藤
⑯ 北越は城貝︵または要害︶とも称せられ、斎藤家の分家小八郎によって開発され、殆んど小八郎の同族より成る部落であるが、分け山に関しては常
じょうがい ようがい
家︶の特権を認めている。現在はゴ書分をくじによって得ているが、以前は優先的に選ぶことができたという。
に他の部落とは別扱いになっている。然しここでも元禄の山型は﹁山高・割高・かぎ﹂.の三基準によって実施された︵元禄三年二月十九日付小八郎
⑭ この地高によって割当てられた分け山が持分として他の基準︵山高・かぎ︶に拠る分と現実にも区分され得たことは﹁越村惣百姓山分証文﹂と端裏
分惣百姓宛斎藤仁 左 衛 門 覚 書 ︶ 。
書のある左の如き分け山譲渡証文案によって知られる。
一、今度越村草山村中相談二言山わけ申二付而小入郎訴訟仕勝、依之拙者持分分山之内脚高弐拾石分課何拾何反歩此高弐升永代小八郎方江相渡
﹁ 一札之事
シ申上は、於以来孫子何様之儀申協共、此証文を以急度琢明書置協、為後日価而如件
元禄弐年 斎藤仁左衛門
巳九月 証拠人 四郎左衛門
すなわち北越︵要貝︶部落の開発費となって斎藤家より分家した小八郎に対し、元禄の山分けに際して本家から分け山を分与したわけであるが、こ
小 八 郎 殿 ﹂
⑮北島氏は五郎右衛門・久蔵両名が糟屋であり乍ら、﹁名子﹂という肩書を付せられた場合もあると指摘しておられる︵前掲論文二三頁︶。
の時譲渡された山は本家の持分のうち地高に対して与えられた分け山二十蝕分であった。
︹後記︺ 本稿において特に註記しなかった史料はすべて墨家の所蔵文書である。この文書の閲覧に際しては、所蔵者の伴是福氏の御厚
⑩ 現行の﹁柴山配分規約﹂については註⑫参照。
情、並びに新潟大学人文学部とくに井上鋭夫教授の御配慮を頂いた。また弥彦神社文書の閲覧については、鈴木彦雄氏の御尽力
を恭うした。以上の各位に対し、ここに深ぐ感謝の意を表する次第である。