西山家が藩へ提出した「系譜」(『紀州家中系譜並に親類書書上げ』以下

西 山 家 が 藩 へ 提 出 し た 「 系 譜 」(『 紀 州 家 中 系 譜 並 に 親 類 書 書 上 げ 』 以 下 『 家 中 書
上 げ 』) に よ る と 、 同 家 の 元 祖 与 惣 兵 衛 、 二 代 目 の 与 七 郎 高 弘 に 対 し て は 「 切 米 」
が下し置かれていました。
江 戸 時 代 、幕 府 や 藩 が 家 臣 に 与 え た 給 付 に は 知 行 地 の 土 地・百 姓 を 直 接 支 配 さ せ 、
年 貢 を 受 取 ら せ る 地 方 知 行 と 、百 姓 が 米 蔵 に 納 め た 年 貢 米 を 俸 禄 と し て 受 取 ら せ る
切米給与の二種類の方法がありました。
西 山 家 三 代 目 当 主 の 武 政 も 、跡 目 を 継 い だ 当 初 は 切 米 十 二 石 が 下 し 置 か れ て い ま
した。
し か し 武 政 は そ の 後 加 増 さ れ 、宝 暦 十 一 年( 一 七 六 一 )正 月 に 切 米 八 十 石 と な り 、
明和八年(一七七一)十一月十七日付で「久々精出相勤候付」として、御使役並か
ら留守居物頭を仰せ付られました。これと同時に、切米八十石から地方(知行)二
百石にお直しとなったのです。
前 述 の 知 行 目 録 が 発 給 さ れ た の も 明 和 八 年 で 、知 行 高 も 二 百 石 と 系 譜 の 記 述 と 一
致 し て い る こ と か ら 、こ の 知 行 目 録 は こ の と き 発 給 さ れ た 知 行 目 録 と 考 え ら れ ま す 。
紀 州 藩 で は 藩 政 期 を 通 じ て 知 行 制 が 維 持 さ れ ま し た 。知 行 村 を 支 配 す る 権 利 は 藩
が握 っ て いた た め、形式 だ け の知 行 で す 。し た がっ て、こ の とき の 与 七郎 の 知 行 へ
の 直 し も 、実 際 に 土 地 や 百 姓 の 支 配 権 を 与 え ら れ た わ け で は あ り ま せ ん 。し か し な
がら 、知行 取 と なる こと は 、家 格 の 上昇 を意 味 す るこ と で あ り、上 級家 臣 へ の仲 間
入りを果たしたことになります。
西山 家 で も、こ の後 、武 政 はさ ら に 加増 され 五 百 石と な り、寛政 九 年 三月 二 十 九
日 に 跡 目 知 行 五 百 石 を そ の ま ま 四 代 目 の 西 山 与 七 郎 久 抽 に 譲 り 、更 な る 家 格 の 上 昇
への礎となりました。
また、十代紀州藩主治宝のとき、四代目与七郎は御側用人渥美源五郎、山中筑後
守 、寺 社 奉 行 伊 達 千 広 ら と と も に 熊 野 三 山 貸 付 方 に 関 係 し 、幕 末 に は 知 行 高 一 千 石
を誇る大身の武家となったのです。
西 山 家 に と っ て 明 和 八 年 の 、切 米 か ら 地 方 知 行 へ の 御 直 し は 、そ の 後 の 家 格 を 決
定させる大きな契機となったのです。
(文責:松島 由佳)