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平城京羅城 門・ 薬師寺金堂発
昭 和
47年 5月
奈 良 国 立 文 化 財 研 究 所
査概報
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表紙 カ ッ ト
羅城 門 出土瓦
平 城 京 羅 城 開 発掘 調 査 概 段
今 回 の調査 は、 大和郡 山市教育委員会 と当研究所 が協同 し、 陥和47年 2月 か
ら3月 にかけて、平城京羅城 門 の本体 とそれに と りつ くと予想 され る羅城 の遺
構 を明 らか にす るため実施 した^発 掘区は佐保 川にかかる来生橋 西側 土手 下の
金魚池 南半部 372密
2で
、地番 は 大和郡山市観音寺町
114-l H4-3で
ある
今回 の調査 は 羅城 門 の調査 としては第 3次 にあた る.第 1次 調査 は 余良市教
育委 員会 に よ り、 昭和 4年 7月 ∼ 8月 にか tl(、 平城 京羅城 F弓 東側 の遺構 をあ
き らかにす るため佐保 川左 岸堤防 下で実施 した。 多 くの トレンチ を入れた にも
かかわ らず、多年 にわた る洪水 のためか、大部分 の遺構 は流 出 して いて、 ほ と
ん どその跡 を とどめてい なかっ た。 出土遺物 は、奈良時代 の瓦破片数 点 と近世
の漆器 の婉 2点 である。 第 2次 調 査 は大和 41h山 市教育委員会 によ り、昭和 45年
3月 ∼ 4月 にかttて 、 平城京羅城関西allの 遺構 を明 らかにす るため佐保川 右岸
の堤防付近 で実施 したr検 出 した遺構 は、朱雀 大路 西側濤 と築地・ 九条 大路北
側濤 と築地 。羅城外 の濠 等で あるィ 出土遺物 としては、朱笹 大路西側濤 よ り多
数 の、九 。須恵器、和同開弥 2枚 ・ 木簡 1声 、(判 読 ͡明 )等 か あ り、朱雀 大路
西築地 の西側 よ り多数 の軒 丸・ 軒 平瓦・ 垂 木 1本 、 さ らに九条 大路北側濤 よ り
小1枚 ・ 木片、 九条大路北犬走 りよ り多 くの瓦等 が出 上 した.
和同開チ
今回第 3次 の調査 で検出 した遺構 は、羅城門 の基壇・ 築地寄柱穴・ 側濤 。暗
渠等 で ある。
羅城 門基嬉
基嬉 は 式部分 か、佐保 川河道付替工事に よ り破壊 され てい るo
今次検 出 した のは、基壇 の 内北 辺 にあたる
基壇 の上面及び周酌は平安時代 に
平 ◆れてお り、 基壇化粧 や 雨落濤 は検出 で きな かつた
肖↓
込 み地業 を調査 した結果、 西辺 で ■32η
基壇 そ の もの も掘 り
北辺 で 10婉 肖1り 取 られてい ること
が判明 した 現状 で基壇 の高 さは 0.6筋 、掘 り込 みは 0222あ る。基壇 の 堀 り
込 み地業 は最下 屠 に粘上 を置 き、そ の上 に粘 土や礫 。砂等 を互 層 に積 み、 縞状
につ きかためた もので ある。
門 の礎石や根 石 の推定位置 は今回 の発掘 区には 含 まれてい ないぅ 胎和 10年 の
-1-
来生橋 改 修 の 際 、 佐保 ││1右 岸 よ り花 蘭岩 質 の礎 る が 4個 (う ち 1個 は 唐 居敷
フ
出 土 して い る。
平 城 京 朱雀 大路 の幅 を築地 心 々で 28丈
と第 2・
)
(絡 執 能 )と 仮 定 し、 そ の 中軸 仮 定線
3次 の 発掘 結果 に よ い、 羅 城 F号 の墓壇 の規 模 は東 西 34碗 、 南 北 20ユ 紀
(ま たは 224孵 )と な るて した が っ て桁 行 5 FH4、 環 行 2聞 ま たは 3間 の重 層門
で あ る と推 定 され る
築 地寄 柱 穴
築地 の 基 底都 は 肖I平 され て お り、 明確 に は検 出 で きな か っ た
が、 基壇 西面 の 中 央 都 に と りつ く築地 の寄 柱 と推定 され る穴 を検 出 したcそ の
寄柱 穴 は 2対 あ り、 一 方は 柱間 2,7η 、 他 方 は柱 FHB 4.22で あ るこ 両者 の前後
関 係 は わ か らな い。
側濡
側濤 は 、 昭和 45年 度 の 調査 の とき検 出 した朱雀 大路 西 側濤 の 南延 長
部分 に あ た り、 羅城 の 下 を通 つ て 京 の 外泳 に注 ぐもの と考 え られ る。 調 査 区 の
南端 で は幅 4確
(復 原値、 現状 は 5触 )深 さ 0.8舵 あ る が、 北端 では あふ れ た
流 水 に よ つ て 扇形 に拡 か つ てい る
わ れ る石 (約 0.3×
0。
側濤 の底部 東寄 りに護 岸 に使 用 された と思
4記 )が 多数 あるィ これ らの 石 の 下や あ い た か ら、 和 同
開チ
小か 10枚 発 見 され た他 、 奈良 時代 か ら平安 時 代 に かけ て の須 恵器 ・ 土師 器・
黒 色 土器 。免 器 。見 。上馬・ 帯金 具 ・ 釘等 が 出と して い る。 遺物 の 出土 状態 か
ら考 えて、 この濤 は平 安 時代 まで 存続 してい た も の と考 え られ る。
暗集
側濤 に添 つて 穐北 に走 る幅 0.9η 、 深 さ 0.4協 の濤 状遺 構 か あ る
(.
羅城 造営 当 初 か らの暗 染 と考 え られ るが、 側濤 底 よ り0.3れ 高 く、北 か ら南 に
向 つて 低 くな っ て ヤヽるて この濤 は 木樋 の 暗渠 の掘 り方 で あろ うf
。
以 上 3回 に わ た る維城 F打 とそ の 付近 の 発掘 調 査 の 結果、 羅城 門基壇 羅城 F弓
。
西 に と りつ く築 地 中朱雀 大路 の 西 側濤 とそ の 西 all築 地 九条 大路 の北側濤 とそ
の 北 alJ築 地 ・ 羅 城 の 外濠 か 明 らか とな り、 平域 京 の 朱 雀 大路・ 九条 大路・ 羅城
F電
。築地
(羅 城 )の 配置 を統 一 的 に と ら,え る こ とか で き る よ うに なっ た。
遺 物 は、 主 と して朱 雀大 路 西 側 濤 の 穐延 長 部分 か ら臨上 した。 主 な も の は、
本な どであ る )
見・ 土器・ 上馬 ・ 金 属製 品 ・ 和 同 開チ
GC14-Lの 4種 、軒平鬼 は 6694・
の 2種 あ るcこ の他 に血戸 瓦 1点 、丹 の つ いてい る瓦 1点 か ある。
軒 丸え は、61部 ・ 984・ 6躍 沖
免
6721
の議 で ある。作 りは粗雑 で、胴 部に粘 土紐 の痕 を残 し、底 は四凸がいち じる し
い。胴部 に 人面 を墨書 している例があ る (上 図
黒 色土器朔
).奈 良時代後半 の もの である サ
厚手軟質 で内外面黒色 をしてお り、内底面 に波状 の暗 文 かあ
る。 断面 三角 形 の低 い高台 がつ く。平安時代前 半の もので ある。
比較的薄手優 質で黒 銀色 を してお り、 内外面 を粗 く箆磨 き し、外
瓦 器塊
面胴 下半 に斜行 す る賭文、 内底面 に平行す る晴文 がある。丸 い底 に は低 い 高台
がついてい るぅ 平安時代中頃 のもので ある。
胴 部の残 欠 で、 奈良時代後半 の もので ある。
土馬
帯金具 は、特先 につ ける鉄製 の鈍 尾 で、裏 に釘 3本 を鋳 出 して
いるc青 銅 製釘 は、 長 さ 7師 、断面 四角形 を してお り頭君;は 扁平 にな つ ている。
金属製品
羅 城 門関 係史 料
和銅
7(715)。
12・
%
天 平 19(747)・ 6・ 15
天平 勝宝
6(754)。
4
新羅 使 入京
三 椅 に迎 う
羅城 門 に 雨乞 い す
鑑 真 入京
17
元享 釈書
遣唐大使佐伯今毛人羅域開 に到 り病
と称 して留 まる
宝亀 10(779)・ 4・ 勤
続紀
安 宿 王 た勅 して羅 城 門 に
迎 え しむ
宝亀 8(777)・ 4・
続紀
唐使 入京
-3-
京城閣外三橋 に迎接す
続紀
続紀
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平城 京羅城 門付近復原図
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この 間 30M
平城京羅城 開第 2次
-5-
。第 3次 発掘 調査遺 構
薬 師 寺 金 堂 発 掘 調 査 概 要
1.遺
構
今 回の調査 は金堂復興 工 事 に伴い、 倉J建 当初 の遺構 をあ きらかにす るために
実施 された。発搬 に先 だち、現基壇 の写真測量 をお こな い、 ついで江戸時代 に
拡大 修造 された壇 正積 基壇 の花闘岩化粧石 。敷 瓦 ↓I日 裳階柱筋 の置 き重ね礎 石
及 び地覆 石 な どを取 り外 し、 さらに 向拝部 の礎石・ 積上 を排除 した。 以下検 出
した創建時 の遺構 につ いて 述べ る。
基壇 は東西 29.19れ 、 穐北
18,01れ
、復 原島 1.49用
(5尺 )で ある
`Ⅲ
基壇 の搬込地業 はみ られず、積土は砂土 と粘上 の互唐 に よつて積 み固 め られて
い る。地覆 石 は地 山上 の整地上 に据 え られてお り、延石 はみ られない。 周 囲の
基壇石積 は束石 を用 いず厚 い廟 目石 を立 てただ けの吉 い形式 で、隅 の羽 目石は
L字 型 のもの を使 用 してい る。
建物 は 7 FHI X 4間 、裳階 つ きで、桁行柱 間総長 26,73翻
間総長 15.60記
(52.5尺
)、
軒 の 出 4.16腐
(14尺
(90尺
)、
梁行柱
)で ある。 (各 柱間寸
法は図面参 照 )礎 石は基壇 上を途中 まで積上げた段階 で掘 り込 み据 えられてい
る。根 固石 はみ られない。裳階礎石 は現側柱礎 石 の直下 にそれぞれ認 め られ、
据 えつ け掘方 は基壇 上面か ら切込 まれていた。本柱 と裳階柱 の礎石 の据 えつけ
方 がこのよ うに何故 異 るかは明 らかでな い。 なお、裳階礎石 は特 に不 同沈下 が
著 る しい。
礎 石地覆座 の有無及 び形状 か ら、 身舎 の 5間
X2間 は前 面中央 3 FHlと 背 面中
央 1間 が扉 で、 その他は壁 で 囲われ ていた と推定 で きる。 そ の外 の側柱 筋 は開
放 で あつた らしい。裳階 では背面中央 5間 の礎石 に のみ地 覆 座が あ る。 そ の形
態 か らみて中央 の 1間 は扉 口、 両脇各 2間 は壁 と考 え られるが、背面以外 の扉
や 窓 の醜置 につい ては不 明である。
階段 は正面 では中央及 び 2間 おいて真 と西 に計 3個 所 、東西両側 面 と背面 で
はそれぞれ中央 に 1個 所 すつ幅 1間 分 の規模 の ものが設 け られ てい る。
基壇 まわ りには玉石敷 の犬走 りがあ り、 さらに幅 0,45協 の 雨落濤 がめ ぐら
-6-
玉石敷や濤 には補修 されてい る部分 があるし
されてい る
なお、 創建後 の遺構 の変遷 について 述 べ る と、享藤 の 火災によると思われ る
羽 目石 の焼損痕跡や焼 土面 によ り、 火災 以前 に、正面 の東 と西 の階段 が取除 か
れてい た ことがわ かる。 また現向拝礎石 の真下 か ら中世 に据 えた礎石 が検 出 さ
れ、 その上 面 に前記 の焼 上層が密接 するので、中央 5間 分 には中世 か ら現状 と
同規模 の向拝 の あつ た こ とが判 明 した。 正面両脇階段 の取除 きは この向拝 の設
置 に関連 す るので あろ う。 なお この 向拝 には板張 りの床 が設 け られた時 期 の あ
うたこ とが、羽 目石上端 に な された根太仕 口に よ り推察 される。唐招提寺 の例
な どか ,)み る と、 向拝部が舞 台 の よ うに使 用 された もの と思 われ る。
2.出
土 遺 物
。青 銅製 品
葡萄唐草文飾金具、垂木先飾金具 (方 形・ 円形
O鉄 製品
その他
鈴、
釘類
。古銭
大観通宝、 寛永 通宝、 その他
。ガラス製品
。乾漆
。瓦
)、
玉類
仏像破片
蓬華文 。巴文軒 丸瓦、唐草文・ 剣頭文軒平 瓦、道具瓦、 その他
。上器
土 師質灯 明皿 、 その他
3.薬 師寺路年表
天武 9年 (680)
天皇 、 中宮 (後 の持統天皇 )の ために薬師寺 の建 立 を発
7
7
9
年 年 年
2 2 4
老 平 藤
養 天 天
雅す (本 薬師寺
)
18)
平域京 内右京六条二坊 (現 在地 )に 移建す
30)
東塔建 つ
73)
火災 に より講堂、食堂、三面 僧坊以下 の諸堂焼 失。金堂
。東西両塔は無事
(989)
康安元年 (1361)
永昨元年
大風 に よ り金堂上 層の 閣、吹落 され る。
地震 に より金堂上 層傾 き、両塔破損す。
-7-
(1445)
文安 5年 (1448)
大永 4年 (1524)
享隷元年 (1528)
天文 8年 (1539)
文安 2年
大風 に よ り金堂・ 南 民門 倒壊 す
仮金 生 成 る
金 堂再興
兵 火 に よ り金堂・ 講 堂・ 彊塔 な ど焼 失す。
大 風 に よ り諸堂 破 損
仮 金 堂 再興 (現 金 堂束 墨 書
(ぢ 414と │ ( 1 545 )
ヲ
慶長 5年
(1600)
仮 金堂 を修 造 す。
増 田長盛
仮 金 堂 を瓦葺 とす 。
に12と F( 1 635 )
移
霊Я
延宝 4年
)
(1676)
金 堂修 理 再建
宝暦 。明和・ 安永
金堂 修理
▲l 員
⑫
④
O
団
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◎
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OQ O a
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回
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◇ ◎
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金堂基壇 平面 図
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