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清本谷古墳調査概要
一九 八七年 三月
1987.3
交 野 市 教 育 委 員 会
(財 )交 野市体 育文化協会
私 たちのまち交野市は、大阪府 の東北部 に位置 し、大阪市、京都
市及 び奈 良市 など、 それぞれ日本の歴史 の中心地 として来 えた地域
よ りほぼ等距離 に位 置 してお ります。 そのため市内 には歴史的 に重
要 な数多 くの文化財 が存在 しています。
この歴史的環境 に恵 まれ、 の どかな田園都市 の様相 をただよわせ
ていた交野市 にも近年、近隣 の他市 の例 にもれず開発 の波 が押 し寄
せ、宅地造成等 に伴 う埋蔵文化財発掘調査 の必要性 が一段 と増 して
まい りました。
今回、 ここに報告す る遺跡 もそのよ うな宅地造成 に伴 い発掘調査
を実施 した もので あります。
調査 に際 しまして御教示 ・御指導 をいただいた奈良大学 の水野教
授及び大阪府 の技師 の方 々 をは じめ古墳発見 よりこれまで保存維持
管理 のために御協 力 いただいた中野徳太郎氏 に深 く感謝 の意 を表す
るしだ いであります。
財団法人 交野市体育文化協会
理 事 長
交野市 の位 置図
伊
藤
史
朗
例
口
1.本 書 は、財 団法 人交野市体 育 文化協 会 が交野市教育委員会 よ り
委託 を受 けて実施 した「清水谷古墳 」 の発掘調査 報告書 で あ る。
2.古 墳 は、大 阪府 交野市東倉治 5丁 目2195番 地 に所在 す る。
3.発 掘調査 は、奈 良大学 の水野正好教授 と大阪府教育委員会 文化
財保護課 の玉井功、松 岡良憲技 師 の教 示 と指導 を賜 り、財 団法人
体育 文化協 会 の奥野和 夫、 山口博 志 が担 当 した。
本書 の執筆 は、前回 の調査 担 当者 で ある片 山長三氏 の報告書 を
4。
もと に、奥野和 夫 と山 口博志 が、前述 の方 々の助 言 を得 て作成 し
た。
5。
古墳 の調査 及 び保存 に際 し、土地所有者 の 中野徳太郎 氏及 び開
発 業者 で ある橘 内建 設 の協 力 を得 た。記 して感謝 の意 を表 したい。
6。
調査 の参加者 は下記 の とお りで あ る。
原
梶 一
二
日
召 。大
中
寿
寿
成 ・河
田
淳
敬 二 郎 ・北
田
之 一
茂
東
浩
井
川
堅
司
小
谷
浩
司
目
序
例
言
第 1章
……………………………………………………1
調査の経緯 Ⅲ
第 2章
………………… …… Ⅲl
古墳 の位置 と歴史的環境…………Ⅲ
第 3章
・4
調査の経過 …………・………………………………………・
第 4章
古
ⅢⅢ… …・
・
・… ………・
・
・
・
・
・… …・
・……・・
・5
・…… ・
墳・
丘 ……………… …………………… ……………………Ⅲ5
…
,…
…
…
…………………………………………… ……Ⅲ5
周 溝
但)墳
(動
(31内 部主体 ………………………………………… ……… … ……・8
(つ
10
………………………………………………・。
遺物の出土状態 。
(働
遺
第 5章
・11
物 …………………………………れ… ……………………・
まとめ…・………………………………………………………12
図 版…・……………………………………・……………… …………・13
第 1章
調 査 の 経 緯
清水谷古墳 は昭和42年 3月 末、当時 この土地 の所有者 であった、中野徳太郎氏がみ
かんの苗木 を植 えよ うとして地面 を50cm程 掘 り下げたところ、古墳 の天丼石 の一部 が現
われ偶然 に発見 されたものである。
中野氏 の届出 によって、当時 の交野町教育委員会 より連絡 を受 けた大 阪府教育委員
会 は、元四條畷高校 の教諭であった片山長三氏 を調査責任者 とす る地元の発掘調査 の
経験者数名 に依頼 して 4月 13日 より3日 間の緊急調査 を行 い、当古墳 が古墳時代後期
の横穴式古墳であることを確認 した。
以後、古墳 の部分は、土地所有者である中野氏 によって今 日まで大切 に保存 されて
きたが、昭和 62年 2月 になって、中野氏 が当該所有地 を処分 して、市外へ転居 される
ことになり、そのため、古墳 の今後 の処置 について中野氏 より市教育委員会 の方へ相談
があった。
そこで、同氏 と市教委及 び土地 開発業者 との協議 の結果、両者 の協 力 により古墳部
分 を保存す ることになり、 その範囲 の確認 と合 わせて再度、石室内 の調査 を実施 した
もので ある。
第 2章
古墳 の位置 と歴 史 的環境
清水谷古墳 は、大阪府 交野市東倉治 5丁 目2195番 地 に所在 す る。古墳 の所在 す る交
野市 は、大阪府 の東北部 に位 置 し、市域 の東部 及 び南部 は金剛生駒 山脈 に含 まれ る。
平野部 には、奈 良県 の生駒市 に源 を発 す る天野 川 が生駒 山系 をつ らぬいて 、市域 を
ほぼ三分 す る形 で南 か ら北 へ流 れ淀 川 に注 いで い る。
市域 の標 高 は、最 も高 い所 で海抜 345m、 最低 で 15mと なって お り表層地 質 は生駒
山系部分 は花 南岩石 、 山麓部 においては一 部 帯状 に大阪層群上部 が拡 が り、平野部 は
最 も新 しい砂 質 によっておおわれてい る。
当古墳 は、古来 よ り「交野 が原」 と称 す る洪 積台地 の東端、南北 に続 く金 剛生駒 山
系 の枚方市津 田山 と、 交野市倉治 山 を境 とす る清 水谷 か ら拡 が る扇状地 の 最上流 にあ
た るところ (標 高約 100m)の 北側 の尾根 筋 に営 なまれて い る。
第 1図
遺 跡 分 布 図
清水谷古墳
神 宮寺遺跡
南 山遺跡
倉治東遺跡
車塚古墳群
寺古墳群
3
7
10
森遺跡
4
寺遺跡
森古墳群
倉治古墳群
11
大谷窯跡
(1:20,000)
-2-
清水谷古墳 の周辺 には数 多 くの遺跡 が存在 す る。 当古墳 よ り南 へ 1,2k厨呈の と ころ
には縄 文時代早期 の遺跡 で ある神 宮寺遺跡 が あ り、続 く弥 生 時代 の追跡 と しては前 記
の神 宮寺遺跡 をは じめ、同遺跡 か らさ らに南西 へ 1.5 km程 の と こ ろ に森遺跡 が、 又 そ
こか ら東 へ 山 を上 った標 高 200m程 の と こ ろ には 高地性集落 で あ る寺 。南 山遺跡 が あ
り、その他 清水谷古墳付 近 の大 阪府 警察学校 と関西電 力枚方変電 所 との 間 の地域 に も
弥生追跡 が存 在 す る。
古墳 時代 におけ る遺跡 と しては 、森 遺跡 を見 おろす尾根 筋 に全長
106mを 有 し市 内
では最 も古 い時 期 (古 墳 前期 )の 前方後 円墳 で ある雷塚 をは じめ とす る 6基 の森古墳
群 と、 これ よ り継 起 す る古墳群 と して注 目 され る府 立交野 高校 内 におけ る車塚 古墳群
があ り、 さらに時代 が下 って清 水 谷 古 墳 と同 時 期 の もの と して は、寺 の集落 の 東側
山麓部 分 に寺古墳群 が 、 又関西電 力枚 方変電所 内及 び その周辺 には倉 治古墳 群 が存在
す る。
その
古墳 時代 において、この山 麓 一 帯 には古代機 物業 を主 とす る帰化 人 が移 り住 み、
中 で も、 はたや ま (現 在 の寺付 近 )、 はた もの (現 在 の倉治 の集落 よ り東側 )、 はただ (清
水谷古墳 の付近 )の 三集落 が繁栄 して いた。前記 の古墳群 は、 これ らの村 の村 長 (む
らお さ)の 墳墓 と考 え られ る。
現在、清水谷古墳 は一基 だ け しか発 見 されていな いが、付 近 には古墳 だ と言 われて
い る所 もあ り、今後 の調査 が期 待 され る。
第2卜Wレレ
/98.97
99 57
99.87
100 17
0
5m
数 字 は TP値
―
「
第
T
2図
調査地測量図
トレンチ内スクリーン部分は同溝部
―- 3 -―
第二 章
調 査 の 経 過
古墳 は、倉治山より
続 く尾根筋 のみかん畑
の中 に所在す る。 この
付近 は、 これ まで幾度
とな く土砂崩 れがあり、
その た め 古墳 全 体 が
完全 に土砂で埋 もれて
しまって いて、今 日ま
で全 く発見 されずにい
た もので ある。
調査 は、 まず調査敷
地内 の古墳部分以外 の
場所 に、数 ヵ所 の トレ
ンチ を設定 し、試掘 を
実施 したが遺構 は確認
第 3図
清水谷古 墳調査位置図 (1:5000)
で きなかった。(前 回 の
調査 時 に も同様 な試掘 を行 ったが遺構 等 は確認 で きなかった との こ とで ある。)
調査地 内 に当古墳 以タトは存 在 しない こと を確認 した後 、古墳 の 範 囲確 認調査 を開始
した。
現在 、古墳 の東側 は急 斜 面 で、発掘 を実施 すると隣地 に被害 が 及 ぶ恐 れが あること、
又 、羨道部 で ある西側 は隣地 で ある こ とか ら、古墳 の主体部 を おおって い る屋根 の工
作物 よ り少 し距離 をお いて北側 と西側 の部 分 に 2本 の トレンチ を設定 した。
調査 の結 果 と して、古墳 奥壁 よ り約
4m付 近 、同 じく西側 壁 よ り約 5mの それ ぞれ
トレンチの最下 層部 分 で周 溝 と見 られ る溝 を確認 した。
周溝 の確認作 業 が完 了 した後 、石室 内 の 実測 と古墳主体部付 近 の地形測量 を行 って
調査 を完 了 した。
第 四章
(1)墳
古
墳
丘
当古墳 の墳丘 は、前述 の よ うにその築造 後 に山渓 か ら流 れ出 た砂 層 におおわれて い
て全貌 を見 ることがで きず、外 見 か ら推察 す ることはで きな い。
墳 丘 の規模 につ いては 、円墳 と仮 定 して墳端 を周溝部 中 心 とす ると、南北径 につ い
ては南側 の部 分 は不明で あるが、北側 の場 合 、石室 の奥壁 よ り約 4.4mで 墳端 となる。
奥壁 よ り1.5m程 の石室 内部 の所 を墳丘 の 中心 と仮 定す ると半径約 6mと な り、 この数
値 か ら推 定 して12m前 後 が慨 ね の墳丘径 とな る。東西径 につ いては、西側 の周溝部 分
と南側 の斜 面 か ら推 定 して南 北径 よ りやや短 い概 ね1lm程 度 で あろ う。墳丘 の 高 さに
つ いては、天丼石 を覆 う墳丘部 分 の封土 が な くな ってい るため 、築造時 の正確 な高 さ
は不明で あ るが、基 底部 か ら現地 表面 まで の 高 さが2.8m、 同 じ く基底部 よ り天丼石 の
一 番 高 い部 分 までが1,97m、 現在残 ってい る封土 の最 も高 い所 で約
2.4mで
ある こ と
か ら推 定 して 2.5m程 度 で あろ う。
又、周溝 底部 か ら墳丘項上部 まで高 さは北側 で 1.8m、 西側 で2.3mで あった。
(掛
周
溝
周溝 については、今回 の調査では全体 を把握す ることはで きなかったが、 2箇 所 に
トレンチ を設定 した結果 によると次 の とおりである。
まず第一 トレンチでは、最下層 の部分で黒灰色 の腐植粘土 が堆積 した溝 を確認 した
溝 は奥壁 より4.4m(溝 中央部)の 所 で認 め られ、最深部 は表土 より 2.2mを 測 る。
周溝内 の最下層堆積土である黒灰色粘土層 の上位 には、古墳主体部 の天丼石 の上部で
確認で きる封土 と同様 の暗赤掲色粘土層があり、 この粘土層 からは、古墳 の封土部分
同様 に若干 の遺物 が出上 した。
この周溝は、
腐食土層の示すとおり築造後 しばらくは溝 として機能 していたが、やがて封
土部分から流 れ出た (今 回の調査 では、古墳 の封土部分 と流 出部分 との層序 は確認 で き
なかった)土 によって埋 まり、次 の堆積層 である黄灰色土層 (出 土遺物 を含 まない)
によって完全 に埋 まって しまう。 そしてその後 は、 この地域 の古 くがらの言 い伝 えに
-5-
│
│
第 5図
9
5
1
8
5
1
灰黄色砂層
仄黒色土層‐ 7
暗茶褐色粘土層
2
10
0
3
4
淡赤褐色粘土層
S
11 暗赤褐色粘土層
黄茶色秒層
0
12
黄色土層
青黄色砂層
茶褐色粘土層
2m
表土 -2 黄白色 シル ト層 3 黄色砂層 4
黄茶色砂層
―
淡茶色 シル ト層 6
7 黄灰色粘土層
黄白色砂層
暗赤褐色粘土層 9 黒灰色粘土層
表土 (か く乱層)
黄仄色粘土層
赤褐色粘 上層
第 1ト レンチ断面図
第 2ト レンチ断面図
第 4図
蝉基 ψ∞m)
98.50
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石 室 東 側 壁 図
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第 7図
第 9図
石 室 平 面 図
正 面 奥 壁 図
第 6図
-7-
石 室 西 側 壁 図
「
f蜘
もあるよ うに、大規模 な山崩 れ等 によ る土砂 の流 出 によ り、や がて墳丘 全体 が埋 まっ
て しまったので あろ う。
尚、周 溝 の外側 の肩 につ い ては、奥壁 よ り約
6.7mの 地 点 で 幅4∼ 5m程 度 で あろう。
第 ニ トレンチ につ いては、同 じく最下層 の部分 に黄灰色 粘 土 層 が堆積 した溝 を確認
した。
この溝 につ いて も断面 の 層序 及 び位 置的 にみて周溝 で あると推 定 され る。最下層 の
黄灰色粘 土 層 は赤褐色 粘 土 層及 び灰 黒色 土 層 を削 り取 った形 で堆積 して お り、 中 に小
石 を多量 に含 む こ とか ら急激 に流 れ 出 て堆積 した もの と推察 され る。
この周溝 は、灰 黄色粘 土 層 の堆積 によ りほぼ完 全 に埋 もれ、 その後 は第一 トレ ンチ
と同様 に墳丘 の封土 まで完 全 に埋 って しま う。
同 トレンチ におけ る最深部 は T
P97.21mで 石室基底部 よ り13cm高 く、 第一 トレン
チ よ り52 cm低 い、 又 西側壁 よ り 4.7mを 測 る。
周溝 の外狽1の 肩部分 及 び幅 につ い ては詳 しくは不明 で あるが、灰 黄色粘土層 か ら推
察 して肩 につ い ては西側壁 よ り約
7m地 点で、幅 は約 3m程 度 で あろ う。
(3)内 部主体
古墳 の 内部 主体 につ いて は、前 回 の調査 後羨道部 の一 部 をコ ン ク リー トで補修 して
お り、現在 では発 見 当時 と多少違 ってい るため前 回 の報告書 をもと に考察 した。 尚、
古墳羨道部 につ い ては、調査地 外 で あるので一 部 不明で ある。
古墳 の主体部 は無 袖 の横 穴式石室 で あ り、内部 の土 床面 は奥 壁 か ら入 口 まで 4.6m、
幅 は奥壁 よ り 3mま での間 は 1.2mか ら1.lmで 、それ か ら羨道部 に向 かって しだ い に
狭 ま り、奥壁 か ら 4mで は約
0,9mと な る。 当古墳 の側壁 には明 らかに屈 曲す る袖 の
部 分 力澪忍め られず玄室部 と羨道部 の境 界 は定 かでは な い。 しか し、 この点 につ い て先
の報告書 の 中 で片 山長三氏 は、古墳 の立面 か らみて天丼石 が奥 か ら三枚 目 (現 在 二 枚
目の天丼石 は な くなって い る)ま では、床 面 か らの 高 さが 1.5m程 度 で あるの に対 し
て四枚 目 か らは 0.9mと なってお り、 又 、土床 面 も これ まで水平 で あった ものが この
付近 か ら しだ い に上 ってい ることか ら、北側奥壁 よ り天丼石三枚 目まで の部 分 が玄室
で 四枚 目 か らは羨道部 だ とみてお られ る。
両側 壁面 は、基底部 で はほぼ垂 直 に積 み上 げ られて い るが、基底部 よ り40∼ 50cm程
-8-
上がると両方 か らしだいに迫持形 に張 り出 して15∼ 20cm程 石室内へ斜 め裁頭 アーチ形
となり、 その上 に天丼石 を受けて いる。
遺体 を納 めるための施設 としては、玄室内奥壁面 と西側壁 に接 して箱式石棺 がある。
玄室 の奥壁 をその まま石棺 に利用 しているため、石棺 の北側部分 は囲石 を欠 いている。
又、今回の調査 において も、棺 の蓋石 の有無 については、玄室内及 び古墳周辺 では
それ らしきものは認め られなかった。
引
第 10図
北側立面図 (奥 壁に向かって)
第11図
-9-
―
西側立面図 (羨 道に向かって)
(4)遺 物 の出土状態
古墳 石室内 におけ る遺 物 の 出 土状 態 につ
ぃては 、石 室 内 の副葬 品 の大 半 が持 ち去 ら
れて いて残 ってい るもの は きわめて少 な か
った。
石棺 内 の追骨 は まった く認 め られ な かっ
宮壁 よ り30cmの
たが、南不
宮壁 か ら30cm、 東本
所 に金環 一個 、及 び それ に付 着 して緑 青層
に包 まれた歯 が一個 出土 した。
この歯 を当時、歯科 医 の渡瀬 透 氏 に調査
を依頼 した と こ ろ によ る と、 この歯 は下顎
永 久歯 の切歯 で 、形態 的 に見 て 歯冠部 は完
成 されている力\歯 根部 の石灰 化 が まだ不充
分 で あっ たため に根部 が消滅 した もので あ
ろ うとの理 由 によ り、 この歯 は 9才 未満 (下
顎永 久 歯 の歯根部 が完成 され るの は 日本人
では生 後約 9年 後 とい われ る)の 子供 の も
の と推察 された。
第 12図
遺 物 分 布 図
B 箱式石棺 C 骨盤 D
F 脊椎骨 G 頭蓋骨 H
J tt K 土師器
大腿骨
肋骨
I
E
匹骨
金環
石棺 と東壁 の 間 の南寄 りで一 体 分 の人 骨
が あった。
溶解度 がは なば な し く細 片 はすで に消滅
して い るが、元軍医 で あ られ た 中野徳 太郎氏 の指摘 によると骨盤 、脊椎 骨 、肋 骨 、頭
蓋骨 、胚 骨 、大腿 骨 の一 部 で ある こ とが よ うや く識別 で き、骨盤 は東壁 に最 も近 く位
置 し、左右 大腿 骨 が それ か ら南西及 び北 西 に拡 が るよ うに股 を開 いた形 とな り、 その
膝蓋骨 の あ る付近 は消滅 して い るが、 それ に接続 す べ き左右 の睡 骨 は膝 骨 の ある部分
か らとも に西南及 び西北 に屈 め られ右睡 骨 を上 に して互 いに交差 す るよ うにで あ り、
西 向 きに座 った あ ぐらの形 が よ うや く観察 で きる。又脊椎骨 はほ とん ど土塊 となって
い るが、 その うち 2∼ 3個 の連続 す る方 向 によ り上体 は大体北 々西 に崩 れ て い ること
がわか り、 その西側 に肋骨 ら しい もの 、骨盤 か ら北北西 30cmば か りに頭 蓋 骨 と思 われ
―- 10 -―
るものの一 部 及 び歯数個 が あ るの が確認 され る との こ とで あった。
頭蓋 片 の西側 に金環 1個 が あ り、又石棺 の南 囲石 の外 に風 化 した花 南岩 が あ り、 そ
の南側 に石 に くい込 む よ うな形 で土 師器 の皿 が三枚重 ねた形 で置 かれて い た
土 師器 の皿 よ り30cm、 耳ヒ側 壁 直下 に板状鉄片 二 個 が 出土 した。
又 、玄室 内 に流 れ こん で い た砂 混 りの50cm程 度 の粘土層 を取 り除 く中 か ら、前述 と
同 時期 の弥生式土器片 が 多数 出上 した 。
151遺
物
これ までの調査 におけ る出土遺物 の 中 で 、 当古墳 の 副葬 品 と認 め られ るの は金環 だ
けで あ り、高杯 の脚部 及 び土 師器皿 等 につ い ては明 らかに時期 が異 って お り、 その他
須恵器甕 の体部 の小 片 、桃 の 実、鹿 の骨 の一 部 、鉄津等 につ い ては不明 で あ る。
副葬品
金環 中実 の銅胎 に金箔 を張 った もので、① は長径2.65cm、 短径2.44cm、 断面径0.86
cmを 測 り、重 さは189で ある。② は 1と 同様 に銅胎 に金箔 を張 ったもので 長径2,71cm
短径2.50cm、 断面径0.86cmを 測 り、重 さは199で 保存状態 については両方 とも部分的
に錆 が付着 しているものの良好である。
その他の遺物
高杯 の脚部
高杯 は完形品は な く脚部 の柱状部分 のみ二個 出上 した。弥生後期 の も
のである。
皿
土師器 の皿 で、⑤ は口径12.6cm、 器高 2.2 cmを 測 り、⑥ は口径 8.5
cm、
器高1.3
cmで 両方 とも表 面 の風化 が激 しく、内外面共 に調整は不明であるが、体部外面 にか ろ
うじて指頭の圧痕 が認 め られる。両方 とも平安以降 に くだる。
(注 )… …・石 室 内部 につ い ては 、前 回 の 調査 で終 了 して い るため、今 回 は測 量 調査 に と どめ た。
前 回 の調査 結 果 は「 大 阪府 教 育 委 員会 文化財保 護 課蔵 書 第 4598号 」 に ま とめ られ て お
り、
「 遺物 の 出土状 態」につ い て は改 めて前 回 の報 告 に も とづ いて説 明 した 。
―
- 11 -―
環
金
o
5cm
土師器の皿
第 13図
ま
出
土
と
遺
物
め
清水谷古墳 は調査 の結果、円墳 か方墳 かについて結論はでなかったが、仮 に円墳 で
あるとした場合、墳丘 は東西径約 1lm、 南】ヒ径約 12mの 無袖横穴式石室 を内部主体 と
す る古墳 である。
石室 の規模 は羨道入 口よ り奥壁 までが約4.5m(現 在 の確認 で きる南壁面 の積 み石 の
端 まで)で 、幅は羨道入 口付近 で約0。 9m、 奥壁部 では 1.2mで 、天丼石 までの高 さに
ついては、最 も高 い部分 で基底部 より1.45m、 最 も低 い部分で0.9mで あつた。
古墳 の築造時期 については前回の報告書 では 7世 紀 の築造 かと推察 されるとあるが
出土遺 物 か ら考慮 してもう少 し古 くな るかもしれない。
尚、古墳 の封土の中 か ら弥生時代後期 の土器 が数多 く出土 した ことについては、他
の場所 か ら運搬 したもので あるとあり、 その場所 については当古墳 よ り西南へ400m
離 れた所 にある弥生時代後期 の追跡 か らであろ うとあ るが、 その後 の知 見 によると当
古墳 の周囲 においても弥生時代後期 の遺構及び遺物 が確認 されている。
―- 12 -―
―- 81 -―
4
国
義 ■│■ i
第 1ト レンチ (北 側 よ り)
浄1鐘i
4■・
姦
甘
︱
蕪
︱
第 2ト レンチ (西 側 よ り)
国苛 H
,
驚壽撃群lrサ │
羨道部入 口付近
石室 内部 (羨 道部方 向 に)
国謝 日
石
棺
部
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一差
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古墳石室内部 (奥 壁 に向 かって)
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・
図版
Ⅳ
│││■ ││││■
第
1
│●
・
│―
│―
トレンチ (周 溝部分)
清水谷古墳 出土遺物 (鉄 滓・ 金環 )
―- 17 -―
図版
V
清水合古墳出土遺物
―- 18 -―
(須 恵器 。土師皿
)
図版
Ⅵ
清水谷古墳 出土遺物
―- 19 -―
(弥 生土器
)
一九 八七年 二月
交野市教育委員会 ・働交野市体育文化協会