池田幸弘 これは立派な主張である。ほかならぬアダム・スミスと ﹁アダム・スミスは国富論を書いた﹂ そのような例から選んでみよう。 経済学史、経済思想史の卒論指導をするのが目的なので、 卒論執筆の進め方:経済学史・ 経済思想史研究の立場から 論文とは何か まずは、論文とは何か、ということについて考えてみよ る。一定の主張が含まれていないものは、論文とはいわれ いう人が国富論という書物をものしたという主張である。 う。 論 文 と は あ る 主 張 が 含 ま れ て い る 書 き 物 を さ し て い ないが、この点については後述。ここでいう主張とは、英 だが、これは論文の主張としては適当ではない。なぜだろ 語ではしばしば から、主張についての限定がでてくる。すなわち、主張は うか。それは、この主張が周知のものであるからだ。ここ といわれるものがそれに Thesis Statement ( ( あたる。 具体的に話を進めよう。主張の中身を具体化してみる。 ( 三色旗 2011.3(No.756) ﹁新しい﹂ものでなければいけないという規定である。い いたのであれば、よい。しかし、そういう事実はないと考 て国富論を書き、かつ一般的にスミスが女だと信じられて ( ままで言われてきたことを繰り返しても、論文の主張には え ら れ る。 こ こ か ら 得 ら れ る 結 論。 す な わ ち、 主 張 内 容 ものではなく、意味のあるものでなければならない。読者 は、新しいというだけではだめだ。それに加えて、自明の ( ならない。 逆の例をあげてみる。もちろん、これもあくまで仮説例 だ。 にとって、 ﹁なるほど﹂と思われるものでなければならな い。 これならば、通用する仮説、主張である。いままで、ス 手と読者が一定の範囲内で問題意識を共有していることが 主張が多少なりとも、 ﹁ な る ほ ど ﹂ と 思 わ れ る に は、 書 き 実は、この﹁なるほど﹂というのが曲者である。論文の ミスが国富論の著者だと信じられてきたわけだから、これ 必要だ。あまりに問題関心が離れている場合には、 ﹁わか しかし、新しい主張であれば、すべてよいというわけで はない。これも実例をあげて示す。 その領域の研究状況を理解しておく必要がでてくる。 このように、論文には主張が含まれていて、その主張が るし、このような主張が、もしかつてはっきりと述べたて これはどうか。一応はっきりとした命題の形をとってい 張が明示的に書かれているとは限らない。以下では、この とになる。しかし、実際に、すべての論文にこのような主 をもっていれば、卒論あるいは論文の最低条件を満たすこ かつて述べられたことがなく、また意味がありそうな内容 られたことがなければ、新奇な主張だと言える。だが、こ 経済思想史研究の大家、ドナルド・ウィンチの筆になる 点についてふれてみよう。 題が陳腐だからである。スミスが男から性転換して女とし の主張は不合格。どこがだめだったのか。それは、この命 ﹁アダム・スミスは男だった﹂ っ た け ど、 そ れ で ﹂( So what? (と言われてしまうことも しばしば。したがって、ある領域で卒論を書く場合には、 は新たな発見だ。めでたし、めでたし。 ﹁アダム・スミスは国富論を書いていなかった﹂ ( 三色旗 2011.3(No.756) な例はあるのだが、たいていの人がそうであるように、卒 のではないか、という要約は可能かもしれない。このよう されないが、経験者が読めば、あらかたこのような主張な しれない。また、初学者にはその主張内容はしかとは理解 れる時代の雰囲気なり時代精神を感得できればよいのかも 想史というレンズを通してそれらの諸論文を通じて感じと これは大家だから許されるという側面もあるが、経済思 らない。実は、このような例はほかにもたくさんある。 でいなければならないという条件を満たすかどうかはわか かではない。したがって、さきに述べた論文は主張を含ん で短く表現できる主張があるかどうかはかならずしも明ら 通底する主題はあるのだろうが、全体をはっきりした一文 語で書かれている。本書はいくつかの章からなり、そこに ﹃富と貧困﹄と題した論文集がある。なかなか、難しい英 とって見ることは必要である。そのなかで、とくに重要な ブラウジングしてから借りる。したがって、図書館で手に つけるのはなかなか困難なので、できれば実物を見てかつ れた書籍について、実際にタイトルだけから内容の見当を で、座右の書とすることが望ましい。スミスについて書か ら ば、 い く つ か あ る﹃ 国 富 論 ﹄ の 邦 訳 か ら ひ と つ を 選 ん い。しかし、かりに﹃国富論﹄について書こうとするのな で あ る。 後 者 に 限 定 し て も、 す べ て を 購 入 す る 必 要 は な 籍、たとえば﹃国富論﹄や﹃道徳感情論﹄などがあるはず えば、スミスについて書かれた書籍と、スミスが書いた書 テーマについての書籍を探す。スミス研究を例にとってい できるはずなので、KOSMOSやOPACを使って当該 ろう。卒論を書く段階になれば、慶應大学の図書館が利用 ついて書かれた書物、単行本がないかを探すことがよいだ と大きな違いがあるわけではない。まずは、当該テーマに ( 論、 論 文 と い う も の に は ま だ 不 慣 れ で あ る と い う 場 合 に ものについては、自分の財布と相談して購入することにな ( は、やはりさきに述べたような主張の構築ということをま る。そのうち、慣れてくれば、タイトルだけからもだいた 引 ﹂ で も 紹 介 さ れ て い る よ う に、 CiNii を使うのが便利で ある。分野や著者の所属大学によってもネット上での公開 次 は 論 文 を 探 索 す る。 す で に 本 誌﹁ 卒 業 論 文 作 成 の 手 いの内容が想像できるようになる。 ずは考えたほうがよさそうである。 先行研究の探し方 先行研究の探し方だが、これについてはとくに他の分野 ( 三色旗 2011.3(No.756) 経 済 学 史 学 会 が あ り、 ﹃経済学史研究﹄を公刊している。 のは困難である。経済学史研究の学会としては、日本には 要な文献はたくさんあり、それらを見ないで研究を進める していない。紙媒体でしか入手できないもののなかにも重 性はさまざまで、論文の重要性と公開性は基本的には関係 判的にあるいは同情的に発言内容を理解することが重要で ではない。かならず、個々の研究者の立脚点を知って、批 ま卒論の執筆を行っている場合が散見されるが、よいこと 問的立場にまったく無関心なまま、あるいは気付かないま を知ることができる。ときおり、著者の立脚する観点や学 るいは、使われている言葉や分析道具からでも著者の立場 ( ( ここには経済学史、経済思想史研究の論文が掲載されてい ある。もちろん立場がことなっていても、すべてを否定す る必要はない。とりいれられるところは消化し、みずから るので、当該テーマについても論文を探してみる価値はあ る。 の立論に役立てることは可能である。 それがマルクス経済学の立場から書かれたものなのか、あ で、以下これもできるだけ実例に即して説明する。わたく 経 済 学 史、 経 済 思 想 史 研 究 に 固 有 な こ と は 多 少 あ る の 実際に論文を書いてみる るいはいわゆる近代経済学の理論を前提にして書かれてい したちにとっては、文献やそこに書かれている内容自体が たとえば、 ﹃国富論﹄を研究対象にするのならば、 ﹃国富 るのか。はたまた、いずれでもなく、社会思想史研究とい というのは、無前提に行われるものではない。かならず、 論﹄自体からの引用は絶対に必要である。一般的なのは、 研究テーマである。これは他分野とはかなりことなってい 著者の特定の立場を前提にして、行われるものである。そ 一重の括弧をつかって引用部分を明示するやり方だが、括 う立場から書かれているのか。このようなことを知ること の前提を知るためには、著者の略歴が役立つし、また書物 弧を使わずとも、その部分がインデントなどの手法で明示 る。 の序文やあとがきなどでもある程度の情報が得られる。あ は、自らの議論をさきに進めるためにも必要である。研究 知識を必要とする。経済学史研究という観点からいえば、 から書かれたものかということである。これは読者の側の て書かれたものであるかと同時に、どのような視点、立場 とくに研究文献についていえば、重要なのは、何につい ( 三色旗 2011.3(No.756) しくない。しかし、どうしても、本論とは関係はないが見 く、そこに別の論点がはいってくることは原則的には望ま ﹃国富論﹄のどこから引用したのかは、明記されたい。 解を記してみたいということはあるものだ。そこで脚注の できればそれでよい。 原典のページ数までそえれば非常に立派だが、卒業論文で 出番になる。 新発見は可能か はそこまでは求めない。したがって、使用している邦訳の ページ数を記すことになる。このさい、二つのやり方があ る。一つには、本文中に引用したすぐあとにページを記す ことである。( (を用い ( ﹃国富論﹄○○訳、何ページ( 行研究に依拠している場合、これを明記する必要がある。 くともつぎにあげる二つの機能がある。本文での議論が先 脚注には、このように原典のページ数を記すほか、少な つまり、スミスならスミスについてすでに言われているこ のような場合、追試、再確認ということでもかまわない。 ればならないという要件を満たすのはなかなか難しい。そ て、さきにふれた、卒論には新しい発見が含まれていなけ いろいろ書いてきたが、通学課程においても通信教育課 これを脚注で補う。実際に、どの分野でも先行研究にまっ とを、できれば、その著者がふれている、あるいは言及し と記せばよい。もう一つは本文中には記さずに、脚注を使 たく依拠しない研究というものはない。それは天才のみが ているのとは別のところからの引用によって明らかにする 程においても、経済学史、経済思想史、あるいは社会思想 な し う る 所 業 で あ る。 そ こ で わ た く し た ち の よ う な 凡 人 うことである。どちらも一長一短で、決められたルールが は、 脚 注 を 使 っ て、 ﹁ こ の 節 の 議 論 は、 ○ ○ 氏 の﹁ × × ﹂ の で あ る。 た し か に、 Thesis Statement としては新しいも のは含まれてはいないが、それを別の角度から論証したこ 史の分野で新しい発見をすることは困難である。したがっ に依拠している﹂などと記すことになる。いま一つの機能 とにはなる。学部段階での卒論としては、これでよしとし あるわけではない。 が、本文中では十分に展開できなかったが、やはり書いて なければならない。 このような困難にもかかわらず、この分野での卒論執筆 みたいということを記すということである。本文中の議論 はできるだけ最終目的に向かって粛々と進むことが望まし 三色旗 2011.3(No.756) えると思われる。なぜ、経済思想史の卒論を書くことが役 は執筆者、つまりみなさんの考えや思想に大きな影響を与 作業から得られるものは、やはり人生の宝といってよいも きに了解できるようになるという不思議。こうした地味な した記憶。何年もの間、理解の外にあった書物が、あると ( 現在の経済にかんする言説、これらはたいていの場合、 書。みずからの人生を振り返りながらの読書。いずれも大 のだろう。青春時代の読書。職業的経験を重ねた上での読 ( 立つのか、いくつか具体的に書いてみたい。 淵源をたどれば、誰か過去の思想家が述べていることにい きな愉悦である。 過去の思想家の議論を理解することは、現在の政策的な議 ( 注 ( Thesis Statement という概念を著者はつぎの書物から学んで いる。アンドルー・アーマー、河内恵子、松田隆美、ウィリア 論を理解するためにもおおいに貢献するはずである。 また、かりにみなさんが新しい考えや思想を生み出した いという壮大な夢をもっていたとする。その場合も、過去 の思想は参考になる。天才は別として、過去の思想家との ( ム・スネル﹃アカデミックライティング 応用編﹄慶應義塾大 ・ 学出版会、一九九九年。文学が中心だが、英文での論文執筆に ( 実 際 に 性 転 換 し た 経 済 学 者 は 存 在 す る。 デ ィ ア ド ラ・ ついて多くの示唆を与えている良書である。 マクロスキー﹃性転換 ― 歳で女性になった大学教授﹄野中邦 の発したメッセージをすべてとりいれる、肯定する必要は ( ( Donald Winch, Riches and Poverty: An Intellectual History of Polit- ( 卒論の執筆、完成は学業を成就する上で、制度上重要な 超えたところに意味がある。原典を一文一文読み解くとい うつらい作業。何度もわからないページをいきつもどりつ University Press, 1996. ( 本 稿 で は、 ネ ッ ト 上 の 情 報 を ど う 扱 う か と い う 重 要 な 問 題 3 についてたちいってふれることはできない。研究者の間でしば 4 思想史研究というものは、元来そのような制度的枠組みを ical Economy in Britain, 1750-1834 (Ideas in Context), Cambridge 偏見と戦う著者の姿勢は感動的ですらある。 53 ことがらである。ぜひ、がんばっていただきたいが、経済 生まれるのである。 子訳、文春文庫、二〇〇一年を参照のこと。身内を含め周囲の N ないが、批判的対話のなかから、新しい思想らしきものは 対話、対峙なしに、大をなした人間はいない。過去の人間 1 2 本質そのものは深化しているわけではない。したがって、 きつく。結局のところ、新しい衣装を着ていても、議論の ( 三色旗 2011.3(No.756) ( しば話題になるのは、ウィキペディアである。匿名型のいわば 百科事典だが、日本語版ウィキペディアもだんだんにレベルが あがってきた。それにもかかわらず、研究者はウィキペディア を嫌悪してやまない。一般的にいえば、卒論や論文を執筆する の に あ た り、 ウ ィ キ ペ デ ィ ア に 書 い て い る こ と ぐ ら い は 大 前 提 で、 そ れ を 参 考 に し て と い う の は あ ま り に 情 け な い と い う こ と だろう。これは正しい指摘である。たとえば、私が自身の専門 分 野 に つ い て ウ ィ キ ペ デ ィ ア を 参 照 す る の は、 別 の 特 殊 な 目 的 があればともかく、ありえない話である。しかし、私自身がウ ィキペディアを使わないかというと、そんなことはない。まっ たく無知のことがらについて知るのには便利な媒体である。現 状では、ウィキペディアに書かれている情報は玉石混交だが、 全部を否定するのも極端な話だと私は判断している。ウィキペ ディアについては別の機会に詳論したい。 ︹いけだ ゆきひろ 慶 應 義 塾 大 学 経 済 学 部 教 授、 経 済 学 史・ 経済思想史専攻。一九九四年ホーエンハイム大学において経済 (通学課程の学生を対象にしたものだが、経済学史・経済思 想 史 研 究 を ど の よ う に す す め た ら よ い の か に つ い て は、 慶 應 義 Economics in Transition: (coedited with Harald Hagemann and Tamotsu Nishizawa). Carl , Menger s Monetary Theory: A Revisionist View , European Journal from Carl Menger to Friedrich Hayek, Palgrave Macmillan, 2010. ―Austrian 学 博 士 号 を 取 得。 主 要 業 績 の第八章を参照されたい。 塾経済学会﹃スタディガイド﹄別冊三田学会雑誌、二〇一〇年 5 " ︺ Mercaturae, St. Katharinen, 1997. Entstehungsgeschichte der Grundsätze Carl Mengers, Scripta of History of Economic Thought, vol. 15, no. 13, 2008. Die „ 三色旗 2011.3(No.756)
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