Z 普段、洪水の心配などせずに暮らし ました。 ちは、度重なる水害に苦しめられてき 可能性も持っています。実際に先人た す が、そ の 反 面、氾 濫 と い う 恐 ろ し い 形 の た め 、ひ と た び 堤 防 が 決 壊 し 1の緑色の部分が潟)。こ の よ う な 地 在する湿地帯でした(図 で 、以 前 は 潟 が 多 数 存 大河津分水路がなかったら… ろの話です。誰かが「水が来るろー」と叫んで、しばらくすると、今の 信楽園病院の方からうねりが襲ってきました。お父さんは洪水にのみ しんらくえん 込まれて亡くなったそうです。この水は、1カ月以上引くことはなく、 寝ることも食べるものもままならず、秋の収穫も絶望的でした。 わたしは、本堂にある柱を「 考える柱」と呼んでいます。わたし自 身も、この柱があったおかげで「横田切れ」を知りました。それ以来約 40 年間、近隣の小学校の皆さんに横田切れのことを伝え続けていま す。横田切れの経験者はもういません。わたしは自分のことを、“水害 に悩まされ、乗り越えてきた先人たち” と、“現代の子どもたち” との橋 渡し役だと思っています。昔があるから今があるのです。子どもたち 治水の重要性を再確認しませんか。 横田切れ絵:長岡市下田氏所蔵 約30km が工事に関わり、大正 (1922)年 川でもありません。延べ1000万人 らあったわけでもなく、自然にできた 水 路 で す。こ の 放 水 路 は、数 百 年 前 か い信濃川の水を、日本海に放出する放 出典:信濃川・越後平野の地形と地質(平松由起子,2007,投稿中) 横田切れ 越 後 平 野 の 周囲は山 や 丘 に 囲 ま れ て お り、 日、大雨により信濃川が 増 水 し、各 地 で 堤 防 が 決 壊。越 後 平 野 の ほ ぼ 全 域 が 燕市から信濃川河口に 月 浸水する大水害が発生しました。中でも横田の堤防は約360mにわたり決壊し、 かけての海岸部におい 明治 (1896)年 特に大きな被害を与えたことから、この水害を総称して「横田切れ」と呼ぶように て は、国 上 山・弥 彦 山・ の先は砂丘になってい 角 田 山 な ど の 山 地、そ 人、浸水家屋6万621戸、冠水田畑5万8 *1 。洪水で押し流された被害も甚大でしたが、衛生状態の悪化によるチフス ヘクタール なりました。横田切れによる死者は 254 や赤痢などの伝染病の蔓延も深刻でした。浸水の長期化により水が腐ったことが原 ます(図1の茶色の部分 せきり 因です。ひどいところでは約3カ月にわたり浸水したままでした。昨年の鬼怒川堤 が 山 地、黄 色 の 部 分 が 砂 丘 )。山 や 丘 の 内 側 は 日だったことを考えると、かなりの期間だったことが分かり ます。この横田切れが契機となり、 大河津分水路が建設されました。 防決壊による冠水が 標 高 が 低 く、ま る で 閉 ているわたしたちですが、この 「安心」 期化したのです。 ざされたような地形 が 「大河津分水路のおかげ」 であること 越後平野の水害には地形が大きく 関 係 し て い ま す。約 6 0 0 0 年 前、越 洪水が頻発した理由 を知っていましたか。 の 後、長 い 時 間 を か け て、信 濃 川 を は 濁 流 が 流 れ 込 む と 、そ の 浸 水 が 長 信濃川が日本一長い川であることは 有名ですが、実は日本一 「水量」の多い じめ、阿賀野川や荒川などが運んだ土 ねかったわね」と言ってから話し始めます。おばあちゃんが6歳のこ 「大河津分水路」は、日本一水量の多 おばあちゃんは、いつも目をつぶり耳に手をやって、 「ゴー、おっか 後平野はそのほとんどが海でした。そ 川でもあります。水量が多いというこ る。おばあちゃんが生きているうちに、聞いておかないと』 。そう思 に 通 水 し た 人 工 河 川 な の で す。当 時、 「東洋一の大工事」とも「東洋のパナマ 運河」 とも呼ばれ、その工事中には 人 84 解良節子さん 砂によって現在の地形になりました。 い、毎日来るおばあちゃんの言葉を書き留めました。 とは、水に恵まれているということで *2 もの人が殉職した難工事でした。 新潟市に住む人にアンケート調査を 行ったところ、約8割の人が大河津分 水路の役割を知りませんでした。大河 津分水路のある燕市で暮らすわたした ちはどうでしょうか。 「大河津分水路がなかったら…」 わたしたちは、数年に一度の水害に おびえて暮らしているだけではなく、 今のような豊かな生活を送ることはで きなたったでしょう。 今 年 は、信 濃 川 流 域 に 甚 大 な 被 害 み ぞ う をもたらした未曾有の大水害 「横田切 れ 」か ら 1 2 0 年 を 迎 え ま す。横 田 切 れ が き っ か け で 建 設 さ れ た「 大 河 津 分 水 路 」は 燕 市 に 立 地 し て お り、燕 市 でも覚えています。 『このおばあちゃんは何かすごいことを知ってい 破堤箇所 ら せつこ け は越後平野の治水の要所です。120 と答えました。わたしはそれを聞いた瞬間、背筋が寒くなったのを今 2 2016.07.01 2016.07.01 年目のこの機会に、大洪水のもたらし ちゃんに「なんだろうね」と聞いたら、 「それは横田切れの跡だいね」 *1_出典:明治29年8月21日新潟新聞 *2_5月3日・5日 「信濃川感謝祭2016やすらぎ堤川まつり(新潟市中央区)」にて無作為 に選んだ新潟市在住の50人に対して実施 3 た教訓を風化させることのないよう、 ことに気付きました。地面から約2m40 ㎝の場所です。近所のおばあ 横田 宝光院(新潟市西区槇尾) 29 43 120年 たある日、台所や寝間、本堂の至る所の同じ高さの場所に『線』がある 11 まきお ほうこういん 22 今から 50 年ほど前でしょうか。このお寺に嫁いできてしばらくし 当時、 大河津分水路は まだありません。 浸水跡 7 この柱を「考える柱」と呼んでいます。 内野 てもらいたいと思っています。 10 宝光院 には、横田切れを学ぶことで、先人たちに感謝し、ふるさとを大切にし ha 新潟 【図1】 横田切れの 浸水域と地形 「横田切れ」とは 1 2 0 年目の感謝。
© Copyright 2024 ExpyDoc