一一 四四 叔 の正本二木が所蔵きれるが、うち一本は﹁弁慶誕生記 0所在を 山本角大夫の正本に﹁武蔵元山寺 児﹂がある。天理 図書館には むさしもとや らの ま ち/ で 常葉が裏打されていた、浄瑠璃本の書誌についてもふれておきた かないため、ここに紹介するのも意味あるかと思,コ 。 ムロせて、 こ 枚 でしかないが、謡本として板行きれた﹁曽根崎心中﹂ 大橋正 謡本﹁曽根崎心中道行﹂仮題 ︶二葉について 珍 しい資料で 浄瑠璃本の出律 版の一︶ 反古として見捨てられた・板本の表紙の裏張りが、 あった何として、横山重編 ﹁古浄瑠璃正本案第一増訂 版 二の口絵に 初年のころ、 載る、古浄瑠璃正本の零葉セ 枚がある。その セ 枚の う ち、幸田成友 博士所蔵の第一図から第一八図までの六葉は、﹁大正の 古板本の表紙の裏張りの中から﹂とり出されたと解説されている。 粗 雑 な表紙の仕 これから紹介する謡本﹁曽根崎心中道行﹂︵仮題︶の零葉二枚も 、 浄瑠璃本の表紙の裏張りから現われたものである。 見 出されたも 立が 、表紙上側の藍色薄葉の厚いあて紙を裏打している反古紙の糊 を 剥がし、なおかつ、見返しをも剥がした偶然から、 コ曽根崎心中 L の道行部分 のわずか 零葉 のである。その剥がれていた反古が、謡本﹁曽根崎心中道行﹂の 板 本 の零葉 だったのである。 聞 二 の い く かながきにして 三重をくりのしな。秘密を残さずあらはし 候 くぎ り ふししやう三味線ののりかたほどひやりし 初心稽古のため出さればこと。 右此木は我等持木の通ちがひなく板本致し候 題筋 をもち、左の奥書を付す、 右 の かしこ 山本丸兵衛板 山本月太夫 ならしん。の口伝は筆紙のおよぶべきにあらず 克 二条 通 寺町 西 へ入町 正本屋 クル が 卜 らで。 こ Ⅰろもなつのよのならひいのちお はゆる 第一図︶ クル ︵写真 そねさきのもりにほど なくつ @ル 。ヤハ つきせ ぬ あはれつき るみち 。 ﹁オ裏 ﹂八行木。一行 三 一 | 二六字。 。なみだのたまの かずそひて こュろ もそらもかげくらし クヤ 上 コソキ回 裏表紙のそれぞ +. 行 二十八丁の半紙本一冊である。この正本の表・ ぞ 。さあた ざム﹁ ぞ南無 阿 みだ な かなしや 上岡 上ソテ b。手もふ るひつ ㌧わぬ せかれⅠ あなた へ |天理図書館水翻刻第一八二号 そ へ それ。 ャァ 二三度ひらめく。 こほ 0 のどと き つる ︵写真第二図︶ 灸 吉二枚の零 葉は 、詞章が連続していないこと右の通り である。 ぎ 上司 は づれこなた まなこもくらみつ はいと。 ヤアハ しめてね し はだにやい ば があてられふか 無 あみだぶ とまふせ どもⅠ き すが思へば 此 とし 月 。 い としか 上ジテ きしかは。もりて五名も是 まで 丸印 ︶ 、 ﹁饗庭文庫﹂ れの裏振りに、板行された謡本﹁曽根崎心中道行﹂の零葉 が使用さ れていたのである。なお、同書には﹁式事﹂︵ 紫形成郎﹂等の旧蔵 印があり、その伝書の由緒を語っ ている。 ﹁ 汰 まず、半紙本半丁分の本文を、裏表紙裏張り︵以下﹁ ウ裏 ﹂と 略 称 ︶、表 表紙 裏 張り︵ 同 ﹁オ衷﹂︶の順に翻字︵墨譜は 省略したが、 その他の記号は全て原本相当の位置に残した︶する。 @ 二五字。 の間を埋める部分も、また、この前後の詞章も当然板行きれていた ﹁ゥ裏 ﹂八行木。一行三一 やら。 わ する 卜隙もないはいな。それをふりすてゆか ふとは。 にきれたかどうかはともかく、少なくとも、道行部分のみは 梅 ド付さ の全文が謡本 やりやしませぬ ぞ 手にかけて。 ャヲころしてをいてゆ か ん せはな 上ジテ@ル 同 @ル ちはやら じ さりとは ャつう たも おほ きにあの うた を。ャヲとき れていたものと思われる。それが、どの程度の丁数に纏められてい ほ ぼ浄瑠璃の本文通りに、詞章が綴られているので、それ に従って あ たか不明であるが、残存の二枚が、一ケ 所の大きな 省 略を除き、 と考えられるので、この謡は、浄瑠璃 コ曽根崎心中ロ こそあれこ よ ひしも。 う た ふ はた そ やきくはわれ。 す ぎにし 人 おし ハル ま 下 ずな きめたり。いつはさもあれこのよはⅠ。せめてしばしはな 四五 ウ裏 」 「 第一図 ォ裏 」 「 第二図 る 程度の推測はできる。 口一 ハ ﹁ウ裏 ﹂から﹁ オ裏 ﹂の 間は 抜けている詞章は、八行 二 十六丁 本 の浄瑠璃正本︵山本板 ︶で約一 セ 一字分である。この 欠字分は 、こ の謡本の半丁分の字数に相当する上、内容の点からみ ても、省略を 必要とする詞章でもないので、少々の字句の入れ替え があったとし ても、謡 用に 節 付してそのまま板に彫られたものと思わ れる。また、 く、︶ も 残存の﹁ ウ裏 ﹂には、 ム﹁綴じられている 側 ブド︶の 反対側 ︵- に、袋綴じされた時の 、ノド の中綴じのこより穴 、 及 穴の跡がみられるので、﹁ ウ裏 ﹂はもともと下表の 半 葉 であったこ とが知られる。故に、ここに欠落している半葉は、当然、詞章の続 ゴ曽根崎心中﹂ きからみても、﹁ ウ裏 ﹂の本来あるべき片割れ即ち丁裏の半 葉 とい ぅ ことになろ う 。さらに、﹁ オ裏 ﹂の詞章の続きは、 の道行の結末︵巻末︶へと繋がっていくが、﹁オ裏 ﹂ か ら 巻末まで る。ただ、この部分には、断末魔の苦しみを生々しく描写する箇所 の浄瑠璃本文の字数は、八行正本で約二三 0 字 ︵半丁と 一行︶ とな があるので、謡でそのまま、浄瑠璃のように強調ずる のもどうかと 思われ、その箇所を適宜省略すれば、ここも謡本半丁 に 収まること になる。この﹁ オ裏 ﹂にも、﹁ ウ裏 ﹂同様の 、 こより 穴 ・糸入の 綴 じ跡があるので、これも残存﹁ オ裏 ﹂はもともと下表 の半葉 で、 そ れに 対 となる 丁裏の半 葉 があって然るべきかと思われ る 。なお、 こ の ﹁ウ裏 ﹂﹁ オ裏 ﹂の二枚の綴じ跡の穴の位置は、二枚を 袋綴じの が 下表まできており、 丁裏から道行が始まっていたとも考えること はできる。だが、浄瑠璃本文にかなり忠実な詞章によ る謡 化からみ ノド の位置で八口致するの で、この 謡 あり万に直して調べてみると、 てよいかと思われる。 て、後述する理由によって、後者の考えには、あまりこだわらなく こ の零葉が ・ 本は、 元は、表紙までつけて製本されていた︵糸綴じより推定︶も 実のところ、こうした換算までしてみたくなるのは、 のであること、また、糸の穴の間隔から、現在は半紙本の大きさに 八行本で、しかも書体・様式が、いかにも丸本風に仕上がっている なっているが、本来は大本程度の製本であったことが推定 される。 ためである。こうした丸本風の書体をもつ謡本の板元として、この ﹁武蔵元山寺 児 ﹂の板元山本丸兵衛をはじめ、数軒の正本屋が活動 さらに、道行部分が謡本化されたとして、その板刻を考えれば、 でに、八行正木で約四六九字分の詞章がある。この分を謡本にする しており、このような謡本﹁曽根崎心中道行﹂が造り出されても、 ﹁此世 のなごり﹂で始まる心中道行が、 ﹁ウ裏 ﹂の詞章 に繋がるま には、 謡 人が半丁約一 セ五字程であるため、内題の余地を 考えて 一 コ 曽根崎心中巳の人気の程からは、不可解なことではなかったのか も 知れない。 一 一 " 一 が ある。 天 丁半に収める計算となる。であれば、﹁曽根崎心中﹂の徳兵衛・ お 初の道行は八行の謡本にして三丁半であったことになる 。しかし、 これは、道行の前半が省略なく全文話化されたと考えてのことであ るが、例えば、﹁ オ裏 ﹂の﹁ 是 まで ぞ。﹂と﹁さあた ビ今ぞ ﹂との 浄瑠璃﹁曽根崎心中﹂の 謡 化として番外曲﹁曽根崎﹂ 理図書館 蔵 ﹁番外謡本案﹂所収︵第六 間 には、八行正本で三丁と三 何に渉る、徳兵衛とお初が死際 の未練 や述懐を語る詞章の省略があるので、必ずしも、一丁平 に収められ 王氏 蔵 ﹁観世本番外曲﹂所収︵﹁末利謡曲集十六﹂に %第二冊︶のも のと、観世 元 たといい切ることはできない。特に、三丁半というのは、板木の利 未見︶のものを知る。この二本︵二本間には詞章の異動等の相違は 翻刻。原本は 用のあり方や 袋綴 という木の休裁からみて、不自然でもあるので、 0基本的な違いは、二本は共に写本にて伝わるものであり 、その 詞 零英二枚と 謡本でなく、 章も 、近松作のコ曽根崎心中口をはじめ、その事件に かかわるもの あるが、その比較及び異動等についてはふれない︶と、 べく、省略があったかも知れない。或いは、道行だけの 終りの部分 分 に収める ﹁曽根崎心中﹂中の最も評判高い名文であっても、一丁 ﹁曽根崎心中口全体の謡化がなされており、道行以前の 四セ 四八 葉の刷りが、反古に使われたにしては、刃刺の線 まで 残るほど鮮明 る。綾糸の痕跡からもとの形が大本であったこと、また、残存の零 コ曽根崎心中ロ の 詞章をそのま で、初刷に近いと思われ、しかも、それを本屋が反古に使,フ︵ %@ ヰ赴 ︶ を題材に借りて、謡曲の構成の型に従って作詞したも のであるとい う点にある。この 零葉 にみるような こ の ﹁曽根崎 心中道行﹂は謡本の節付がされてはいるが、本式の謡 として 削 り出 する。そして、この謡が板行 wれ i た時期も、竹本座で ﹁曽根崎 心 しか用途のなかったことからも、販売目的のない出版 との感を強く ま 綴っていくということはない。この点からみれば、 されたものではないともいえる。小謡や酒宴謡の中に も みることが 巾 ﹂が上演︵元禄十六年五月︶され好評を得た頃から きほど時間の たたない時と思われる。道行が選ばれたのも、大儒荻生街徳が、こ 曽根崎心中しの名文自体を 話 にして 鑑 コ 貰しようとする趣きでつくられた感が強い。板に彫っ てはいるが、 の道行を評して、﹁近松が妙処北中にあり。外は是にて 推 はかるべ できないだけに、むしろ、 謡を楽しむ者へ売り込むための商品として、この謡本を板行したと し ﹂︵ コ俗耳鼓吹口︶と語ったと伝えられるような評 削 が 、 巷に 高 曲の造詣者の愛好があったことを示唆しており、興味深いことであ 背後に強い 謡 田中丸茂 が る。加賀稼や義太夫の芸論と称されるものに、謡の伝垂日の影響をみ とは、仮に、これが道楽でなきれたとしても、浄瑠璃の いずれにしても、 謡と 浄瑠璃がこのような形で結びつい ているこ かったからであろうか。 節 付の面で いうよりは、別のところに本意があったように思える。 どのような配慮がなきれているのか、私には全くわからないが、 謡 とするには、謡の基本の型からして浄瑠璃の詞章そのままでは不都 合も多いかと思われ、また、このような謡本が浄瑠璃木の側からも こ, っした類の諦 ることや、浄瑠璃が謡曲から多くの素材を得ていること等を考え合 謡本の側からも市場に出されるべきものとは思えない。 紹介きれている﹁未刊謡曲集﹂︵古典文庫︶には、 ま た、上演され ﹁武蔵元山寺尻目の板元、京都の山本丸兵衛で板行きれたのであろ 問題は移るが、この謡本の零葉は ・これを 裏 張りに 使 用 した正木 四 せれば、より深い両者の結び付きを感じないわけにはいかない。 が 数多く載るが、それらほいずれも写本で伝わり、 たこともない曲が多いということである。しかし、それでも、なお、 謡 としての形式︵構成︶は整えようとする意識がうか がえる。その 点からみても、この板行は異質である。どく少数の浄瑠璃 と謡 とを 共に愛好する者達が 、自らの慰みのために、わざわ ,さ﹁曽根崎 心 中 L の道行に謡の節村 なして板に彫らせたという程度かと思われ その組織等につ いて、近時いろいろな資料が公刊され紹介きれつつ うか。その点に ついて考えてみたい。江戸期の出版のあり方、及び 理由から、慎重に考えてみなければならない。 くいことである。 仮りに私的な依願によってなしたとし ても、右の して、自ら類板ともとれるものを公けに販売することな どは考えに 天理図書 簸 ﹁同性赤後日合戦竹本筑後 稼 直伝﹂。 内 頗 ﹁国佳節 作 ﹂。奥書 欠 。 ㈲木は奥書を欠いているが、刷りの程度は㈲本 より 良 く、 ㈲木は 日 Ⅰ ・﹂ 京ふ 屋町通せい ぐ はんじ 下ル町 / 板元八文字屋 八左衛 目 はかせ何も /共晶多し故に太夫直之正本を写 ン / 文 字か かうなつ 一ち なづかひ甲 Z てにはの相違等を改メロ伝を残ず 記し梓 しの り ばむ 8音也 / 江戸大伝馬町三町目 /売所鱗形屋孫呉 衛 Ⅰ ㈲本題類火。内題㈹本に同じ。奥書﹁ 古 けいこ水圧し りゃ 後日合戦近松門左衛門 Ⅲ本題 館 に収集されている。 左の十・十一行三十二丁本 ﹁国 性能後日合戦﹂が二本、 あるが、元禄頃にまでそれらの資料が、どの程度適用し得るか私に はわからない。 まして、原稿から印刷・製本・刊行に到る迄の具体 的な仕組みにつ いては、より判然としない。もし、この零葉 が山木 九 兵衛の板行で あるとすれば、浄瑠璃本の印刷・製本・刊行は出版 元の正本屋が丸抱えで全てをなしていたということになるが、コ入 倫 訓蒙図彙 レの 表紙屋︵ 巻 六︶のような反対倒すらあり、そ う いい 切るべき証を寡 間 にして知らない。また、そうであれば 、現行の出 版機構とも異な るので、一応の例証が必要であろう。殊に、正本屋 コ 曽根崎心中口については、通常の 山本丸兵衛は竹本筑後援にも専属する本屋で、竹本座上演の浄瑠璃 正本の専売元で ある。そして、 八行木に加えて 六行正本を竹本筑後援・近松門左衛門の序まで付し て刊行しており 、その筑後稼の序では ⋮花柳の都 に山本丸兵衛 梅芦の難波に山本丸右衛門批正本屋は かなり磨滅した板木による刷りである。しかし、二木が同板木によ コ 曽根崎心中口を謡本に仕 ね、後刷の場合、大木で早印本に比べて天地で一| 三 %程度の縮少 かも、その長さが㈲本でより長くなっている点等から判 閲 する。 な って刷られたことは、㈲木がⅢ木に比べ、仮面の字高め天地の寸法 に 一粍から 二粍 の稲生がみられるにもかかわらず、第四丁裏に左端 ななり さ はやくより 等閑なくなれ わっ びしまⅠ予が浄瑠璃本はいつとて はかせ やし ぅ したがき も草書の内 より直にかれにゆるしてうつさしめふし博士章句切 から右へ走った板木の割れ︵了三分の一辺り︶が前書にみられ、 し あつさゑり までこまや かに 佼ムロして梓に形付れば 露 たが ふ 掌侍ら。ず とまで述べさ せている。それだけに、 ま 替えて板行する ことは、筑後 稼 との関係を無視したものであり、 四九 がみられることがあるということ︵大内田貞郎 氏の 御 教示︶ なの で、この場合の縮歩も、その理由は不明ながら、覆刻 によるとは 考 えない。また、逆に二本を比較しても覆刻とすべき理由は見当たら ない。 ㈲㈹本が同校であれば、㈲木が奥書からして八文字屋板 であるの 五O られ、両者が同じ板木で刷られたものであることは確 認 できた。 お、この零薬の刷りは、字に欠けが見られたりする後 るが、霞草文庫蔵本を採用した﹁説経正本葉第一三所収 め ﹁ゆり か大じん﹂︵題妓 ﹁ゆり老大臣﹂︶の横山重氏の解題に き、八文字 板以外の同版式をもつ諸板 が報生口されていないのでこ 、の零葉も で、板株︵板木所有権︶の移動がなされていなければ、 年 二月︶に刊行された正本︵Ⅲ木 ︶の表紙の裏打紙として利用さ 零葉 ︶が、享保二年二月以降︵﹁国佳節後日合戦﹂の 上演は享保 文字屋根と推定される。このことは、八文字屋の出した刷り反古 牢屋の刊行となるが、それを裏付ける資料として、㈲本の表表紙 裏 測られた。しかし、 零薬 の縮少は紙のしわがはなはだ しい 放 かと 考 で 一粒弱 、字 高でも 0. 五 @ 一粍弱電草文庫蔵本の万 が長いことが 比 べたところ、この裏張りは同書の7 丁 ウ ︵案下︶に当たり、匡郭 衛門板 であることがわかった。そこで、同書と零葉と の 二つを並べ きれ、同書は﹁寛文二年子貢二月吉日﹂の刊記をもつ八文字屋 八左 本のそれに当たること、さらに、その完本が東京大学霞草文庫に 蔵 この﹁ゆり著大臣﹂がどの種の本であるかを調べてみるに、説経正 め、これが﹁ゆり浩大臣﹂の第三の部分であることを知る。また、 ふ兄弟 大 じんを 嶋ずて帰国の事﹂と書かれた箇所を含んているた へコ っ 古が 使用されていたのである。この零葉 ︵第三図︶には﹁両叩巾二 表紙の裏張りに、前述の﹁曽根崎心中道行﹂と同じ状態で、刷り 反 表 表紙は題 簸 をも保存 する。その 表 八 紙 をもって補綴きれているが、 張りから現われた 零英一枚がある。㈹木は奥書を欠き、裏表紙は他 ㈹本も八文 え な あ わ 尾 ( |天理図書館藏| ていたことを示しており、しかも、その正木︵㈲ 木 ︶の れ 二 その形式は 奥書と、鱗形屋と連名の㈹本 との奥書を比べてみても、 つこと 木 ︶が 、なおも八文字屋の板株によって刊行されているとい, 踏襲しながらも、全く別な板によって刷られていることも参考とな 京都の正本屋山本丸兵衛が刊行した山本月太夫正木﹁武蔵元山寺 五 から、 ㈲ 木自体も奥書は欠けているが、八文字屋から刊行されたも ヮこと のであ るということを結論づける。これは結局、八文字屋が自衆利 行の正 本の表紙の裏張りに、自家の刷り反古を使用したとい, 少 なく 児﹂ 頭韻﹁弁慶誕生記しの表紙の裏張りから現われ た、謡本﹁曽 であり 、きらに、換言すれば、浄瑠璃本においては、正木屋自身で はそ 製本もなしていたということにならないであろうか。 とも、 ここに例示した 十 ・十一行木といった安価な浄瑠璃本に 根崎心中道行﹂の零葉二枚は、初刷ともいえる鮮明な刷りと、大本 最も信用ある板元である。その山木元兵衛が﹁曽根崎、 心中﹂の浄瑠 る。﹁山本丸兵衛は、竹本義太夫底 上げ当時からの、義 太夫正本の 裏張りへの利用という点からみて、山本丸兵衛であったと思われ の可能 桂が 強い。そして、この正木屋のあり万は、八文字屋 だけで るが、 と推定きれる綴じのものであった。しかも、これを板行 した本屋は、 %何 公示の出見世︶刊行のものであ 同じ正木屋仲間である山本丸兵術にも適用できるかと思われ なく、 る 。こ れは大阪の山本丸五 腰本ならぬ謡本を板行するのは、依頼者の有無にかかわらず、義太 例えば 、東大震草文庫蔵の絵 人浄瑠璃本 ﹁卯月紅葉﹂は 、表 表紙の 色紙白 休が同じような浄瑠璃本か狂言木の刷り反古を黒く染 め直し 夫 に対する背信行為でないか﹂という見解があるかも知れない。ま た、その山本を弁護して、﹁いや、浄瑠璃本が自家で印 m . さ 製本 図説日本の古典近松 間座 衛 て利用 したものである。このことは ロ ねたからといって、裏打ちに使われた反古まで、自家板だ 何のものと 冗り出 とがで きる。なお、㈲本は奥書にある如く、江戸の鱗形屋で仝 門 L ︵昭和 艇 年 6月・集英社刊︶の ヵ ラ ー写真を通してすら 見るこ された 公 であるが、この表表紙の裏張りにも刷り反古が使用されて はいえまい。考えれば、こうした話木が出たことに抗議 たものを、不用な反古として利用したのに過ぎないかも知れない﹂ ということもできよう。しかし、この零葉 が現われた正本 ﹁武蔵元 分に おり、 その 零葉は 、作品不明ながら、板面からみて江戸板と推測 き 関して は・本文は八文字屋で印刷して江戸へ送るが、奥書・装 山寺児ヒは、角大夫生前に刊行きれたものである筈は無論なく、 元 れる。 このことを ム﹁得た結論によって類推すれば、江戸販売の 江戸で 鱗形屋がなしたとも考えられる。同形式の八文字屋単 独板の 五 禄末年頃に刊行されたものでもない。上演そのものは 、彼の没した この裏張り 元禄十三年二説正徳二年︶以前であろうが、この種の角大夫の十 行 本の刊年については舌口 明 はきれていない。その点では、 保 頃と考え るべきかと、 五二 奥書の破れていた﹁武蔵元山寺児 ﹂も山木坂となる。 ま と山本板の二本の刷りの状態を調べてみるに、板面の手 高の寸法に し かも、この 山木根﹁ 武 山 木坂﹁武蔵元 は両者の差はほとんどないが、山本板の方が少し早印 であるといっ た 程度に、両者の刷りの程度は近い。このことは、 山寺月目 が刊行きれて、それ 程 間隔をあけることなく、 は 一つの午時の解をあたえるが、むしろ二手 奥書は異なるが、 同板の天理図書館蔵 のも う 一本の﹁武 蔵元山寺 児 ﹂ 蔵元山寺 児 しが板行されていることを意味しており、 種の山木板の奥書をもっ正木が享保以降に刊行されて いるというこ との関係から、推定される。この板は奥書の中程︵四行目 ︶から 破 奥書をもつ。 となので、山本坂コ武蔵元山寺児 Lも享保頃の刊行かと れており、板元は不明なのであるが、次のような形式の 我等かたり本の通ちがひなく写させ ロ不明日供 なる。この、山本板 と山木版が同じ板木を使用して正木 を 刊行して あったものをばらし、半紙本に折込する手間までかけ て裏 張りする は、ここに述べた四点のみである。そうしたものに対し て 、大本で ので、こときら必要のないものである。浄瑠璃本で私自身 が見たの にも偶然過ぎる。こうした表紙の裏張りは、普通は見返 しをつける 偶然得た反古紙をそのまま利用したに過ぎないとする には、あまり 通の家ならともかく、常に紙を必要とする正本屋でで ある。また、 たとするのは、不用と成るに時間がかかり過ぎではなか ろうか。 並日 であろう謡本を享保頃までとっておき、それから反古と この推定に従って、前述のことを承ければ、元禄末頃に 問題であるが、本稿ではその指摘だけにしておきたい。 化外口伝とてきのみむつかしき事もなく候 日ゑ が 大事ニ面 侯 いるという事実は、浄瑠璃本の類板・重板という点で大変 興味深い 以下破れ た Ⅰ人の心を慰るを秘伝にいたし候 しかし ロ 右の奥書の仮面には、一行田の策セ 手目﹁の﹂から 三 行 目の第六 手口﹁を﹂にかけて横に走る割れ目があるという特徴 がある。この 谷 千保セ年ヒ一月 演 ︶﹁ 才 4筒 特徴は 、同じ奥書形式の山木 元兵衛が刊行した﹁ 栢模 入道子正大﹂ ︵正徳四年四月上演︶﹁戯歌かるた﹂︵正徳四年八月上 業平河内通﹂宮子 保 五年三月上演︶﹁浦島年代記﹂ いる。故に 、 そ の中でも・ 上演︶等にみられるものと同じである。残存部分をこれらの奥書と 比べみても同じ板木による刷りだということができ、 ﹁井筒業平河内通﹂のものと最も刷りの程度は似通って いが、板元山本丸兵衛が、焼却するには忍びず、かといって 、 大び 必要が、偶然の中から生じるであろうか。想像に過ぎるかも知れな 写真掲載について快諾 な得 ました。東京大学附属総合図書館 記して深謝申し上げます。また、天理図書館からは資 本の 鑑識については大内田貞郎氏の具体的な指摘による 点 が多 をは じめ、多くの図書館・研究室のお世話になりました。 御 社中 しとして、人目につかない形で処理した一つが、この裏張りでなか らに処分することも出来ず保管していたものを、もはやその必要な 口頭発表に加筆したものである。 ムで し上 げます。なお、本稿は昭和五十四年四月の演劇研究会例 4 0 ったであろうか。それ程 、私にとって、この謡本﹁曽根 崎 心中道行﹂ は本来去に目にふれる書として、存在すべきものでないように思え る。 注①裏打を行う際に 、 天で 二1玉桂、 ノド で 四 1人 粍 のはめでた 部分を折込んでいる。それが原寸かどうか問題であるが、 綴じ 糸の穴が天地共に際に近過ぎるため、大本に近い寸法をもって いたと思われる。なお、板面は半紙本と同じである。 コ蛾歌かるた L コ井筒業平河内通口 ︵以 ②これらの諸本の所在は次の通りである。 ﹁相模入道子正大ロ 上天理図書館 蔵︶。﹁浦島年代記﹂︵大阪大学文学部国文学研 究室 征野文庫 蔵 ︶。 戸付記し 特に 、板 本稿をなすについては、木村三四吾 先生をはじめ、 伊 藤正義, 大 内田貞 郎 ・金子和正各氏より多大の町教示を得ました。 五
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