YMN004302

山ロ
四
一番の理ム﹁聞くに汗をながす
大橋正
﹁一
人 り 十四行木曽根崎心中﹂の見返しに描かれた
片 Ⅱ
り卜
松の後悔
十三
元禄十六年五月 セ 目上演の近松最初の世話浄瑠璃 冨 目板崎 心中口
成立については、既に多くの論考が諸氏によって発表されており、
たな意見を加えるのは屋上屋を架するの感さえある。 型柿で 述べ
きた、歌舞伎作者として培った歌舞伎の手法が、近松 の浄瑠璃著
にどれほどの影響を窺うことができるかという 程口に 絞っても、
、そうした
山善雄氏の﹁百日限崎 心中﹂の歌舞伎的基盤﹂三津 瑠 璃 史論考﹂
世を始め、多くの論考が備わる。しかし、本稿では
響の具体的な指摘に加えて、なお近松が浄瑠璃に期待 し、目指そ
としたものが何であったかを、改めて考えてみようと
冨 目板崎 心中ヒ の最大の特色は序に﹁観音廻り﹂が 置 かれ、 付舞
劣
管理製革
ぷ烹
臆で
;
苦亡
ま
上
生
ら
す
ら
所 共 ぶ に
。
此度
刑律たを
近
で出語り出遣いによって演じられたことにある。山本 大兵衛版絵
兵衛
ふっ
さ
新 の
て
影 所 祐 作
う
4口
叔
同舞 白図には辰松
序 にいきなり道行を置くというこの演出については、相田氏は歌
一四
人形を廻す。芝居中所望に依 て、又ヮキ を 替 て一段 語
目板崎 心中﹂見返しの舞ムロ 図 を 思わせる
ほど似通っている。この道行が国日限 崎 心中 &
演じられている状景は冨
また、それが心中浄瑠璃の戯曲的な展開の上でどのよ うな意味を持
あるように﹁ 是より心中のはじまり﹂と、序開きとな り側中に組み
︵前掲論考 一、
つかについても、広大 保氏 や今 尾哲也氏などの論考があ る 。しかし、
入れられているのである。
舞伎 における序開きの出端の応用であると指摘され
ここではむしろ、もう少し単純に問題を絞って、何故 序に ﹁廿 三所
れているが、いずれの正本の内題にも﹁曽根崎心中Ⅰ
:。観音廻り﹂
冨 白根崎 心中﹂には各種の正本が刊行さ
辰松の口上に
観音廻り﹂が入れられたのかを、作者近松の立場とい う視点で考え
と﹁ け。。観音廻り﹂が入っている。前出の絵入り本 では﹁ け 大坂
では、
てみたい。
が 、 冨 日帳崎 心中ヒ が 世話浄瑠璃であれば時代浄瑠璃 に 比べて、 よ
人形遣い辰松に口上を述べさせて、﹁御目通りにて。 私がっか いま
れているのは、これが見せ場であったことを示してい
三十三所観音廻り道行﹂ともなっている。このようにわざわざ書か
り 一層当時の世間の関心事がその中に取り入れられて いくことは、
する様にござりまする﹂とまで言わせているのは、 辰松自身の芸を
当時、 な 巡礼が流行していたことについても相田氏の 指摘がある
ごく普通のあり方である。ただ、それを心中した 女お 初を登場させ
見せるのが一番の目的であったこととなる。
王要 な項目のみ挙げれば、
くかってはいない。しかし、 冨 目板崎心中﹂出演以後
よ
の見返
ついては、
具揃口
出演
の 活躍には、
しに載る人形役人付︵それも端役一にその名を見るの みであり、
元禄十四年以後の上演と推定されている﹁あった宮武
ところで、辰松八郎兵衛の国臣根崎心中﹂以前の動静に
る 。しかも、
て、しかも、序開きに出語り出遣いで演じさせたのは 、太夫・人形
遣いの 芸 見せのためであったとしても、そこには計算 された別の意
味があったと思われるのである。
ろ
+.
日の記事 にある。
吉見せのために幕間に道行が出語り出遣いで演じ
﹁
鶉鵡籠中 記 ﹂の元禄八年一一六九五一四月・
中入り過て、 付舞台 ヘ竹本義太夫・同新太夫・回書 内 。三味線
元禄十六年十月か大坂竹本座傾城八花形に出遣い
m 庄左衛門。背上下を着し罷 出、
竹沢権 右衛門。おやまうか ひ小
宝永二年
庄左衛門袴 に成り、もじ屏風を立て 、道行の
十一月大坂竹本座用 明 天王職人 鑑 に出遣
い出演
東電 尾応和歌三神影向 松 に出遣い出演
芝居中へ礼を仕り、別ロ上に 而 一々披露 在て 、師弟 つね ぶしに
て 道行一段語る。
豊竹若太夫と相座元で豊竹座を再興
この間江戸に一時下つたか。 一鶉鵡
籠中 記、宝永三年十 月朔日一
宝永四年暮
正徳五年十一月竹本座に復帰一国性爺合戦に出演︵浄瑠璃
報相
︶︶
享保四年十一月江戸において辰松座を創設一一説に享保 五
年十一月とする︶
松の売出しに一役買うこととなったため、その作意に は 一段の工夫
が求められることとなった。辰松の芸見せとともに、 従前の時代物
とは異なる作に、どのような目新しさや特色を見せる か、構成や文
章 その他苦心の結果としての冨田根崎心中﹂の拙筆 であった。その
内に込めた自信を﹁はうのかぶきにも。仕りまして。さのみか
はりました義もござりませ れ共 。 浄る りに仕りますは 。はじめにて
が浮かび上がってくる。没年から数えれば冨田 根崎山 中﹂上演の元
と、その芸を高く評価されての出演 や、意欲的な行動 家としての姿
った。そして、その試みは停滞した一座の活路を見い 出させるもの
竹本筑後 牡 にとっても世話浄瑠璃を語るという新しい 試みの場であ
の上演は近松にとっても辰松にとってもの新しい出発 の場であり、
ござりまする﹂との口上に窺うことができる。正に 、 冨 目板崎 心中口
禄十六年は三十一年前となる。享年未詳ではあるが、 晩年近江戸で
となるべく、三者がそれぞれに期するところ大なる 新 作の発表であ
享保十九年五月九日江戸にて 没、享年未詳。
活動していた様子から、仮にその年令を六十代とすれ ば、﹁白輻
日
@
柑
崎
った。では、その 序 ﹁観音廻り﹂において近松が期し
たものはど ょ
心中﹂で﹁観音廻り﹂を遣ったのは三十代前半位か、 それよりも若
うなことであったのであろうか。
つを り
W
あ
せ
つ谷
の
い年余であったかと考えられる。つまり、それなりの 実績は以前か
ら
十四
ぬ
とま ればと ま
つ
フシウゥ
ハル
き
日 @tl
もあったのであろうが、﹁観音廻り﹂の辰松の出遣い は現存資料か
あ㌃
一五
つ
ら、また、その年令から突吠の抜擢のように思われ、 彼自身の顔見
き
我かげのあれ。はしればはしるこれ。
手
せ、売出しの感すらある。﹁観音廻り﹂は辰松を売り 出すための場
の
ギン
か。近
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用
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ことを承
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曲
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口心
でし
ない
ハⅥ
み
く
知の上で 冨目板崎心中﹂の執筆を引き受けたと考えら れる。ぬ伏
m、
近松にとっても、歌舞伎の世話狂言については経験も 豊富であった
が、浄瑠璃に世話事を仕組むのは初めての試みであり 、加えて、 辰
王ゥ
っ
せ
一二
/、
寺宅 であり、観音廻り自体も身近な習俗であ
たと推察される。しかし、
咄 ﹂一元禄十三年正月、京都
る。この地縁
亀居座上演︶
日
根崎心中﹂と
狂 舌口本による限りでは事件 の原因や周囲
ほぼ一致し、また、心中への道行や最期場での情緒的 な 場面もあっ
を冨 目板崎山出と比較してみるに、劇の進行は冨
あるが、例えば、﹁心中茶屋
狂言本の残存するものは少ない。狂言本は筋書き程度 という限界は
﹁曽根崎心中口以前に上演された、心中事件を扱った 世話狂喜 口で
語り出遣いであった。
性だけでも、大阪の観客を魅了する要素は十分にあり 、 加えての 出
の地名・
客や 寺名は歌枕であるような名所・旧跡ではなく、 大 坂 人の馴染み
でもらお う する情緒的な娯楽性がある。しかも、そこ に 出てくる 地
すを
ぢ。
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よてい
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く
づ
か
は
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しれ
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右﹁
は観音廻り﹂か
お
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分
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みの動きを表現した語
き
出したものであ札
る所
。
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観の
音廻り﹂では、お初
謂
々
わ寺
れ
、
名
や
地名を縁語
綴
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繋い
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なが
が、
ら、夏の風物を占
し
、
既人
に形
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。
摘働
さき
れと
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い別
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辰松の手@
妻
の
﹂
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、
右の箇所からも作
近
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し松
てが
いい
るか
かに人形の動きに配
がわかるであろう
景。
をし
展か
開も
さ、
せその人形の目線
ていくため、太夫
語
、
いの
る
観り
客と
も人形の動きに引き
との関わりを描くことによって、心中事件の現実的な 面を伝えよう
とする姿勢が強く感じられる。無論、芝居としての 脚 色はされてい
るが事件に 捉われた内容になっていると言えよう。 ニ ユース性を持
つという世話狂言へのこだわりか、また、役者が演じ る故に却って
現実離れがしにくいという歌舞伎の限界のようなもの があるのであ
ろうか。役者の姿態が演じる舞台では、既に諏訪春雄氏が指摘する
よう に、役柄に よ る芸域に縛られ、人間把握もその 制 限 るづけるた
三土殿と舟
する。
当春すてお舟の心中には。よしの屋の小柳 と成て 。
めに、自ずから役柄の型に填め、批評もそれを好しと
この場面には心中
自事
体件
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楽一
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ん忘れて、人形操
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人のねがひも 我 ごとくたれをか恋のいのり ぞと
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つる ば
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あいきやううすく。所作事は
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。
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若女の上物一宝永八年三月常
﹁世
役
者大福い帳
評
一
よそで
のま、
うよ演
ひき技
ぬ
思はでつら き力 ねの こゑ
なども、若女形の型を前提や
と
﹁し
舟た
の
、批
中
心評
ののみ
申
く もしらぬ。 相思ひ ぐさ 人
中
﹂という演及
出
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人合
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さ れ、
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現実を離れた独自の雰囲そ
気
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心っ
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中こ
ととが
ぅ悲劇的な問題にも情緒豊かき
な、
場﹁
面
を音
加道え
行のる
文章,
は、﹂
道行と
の目が
的やで
理由に相応した、歩み 行 く人間の内
廻観
に込で
めらあ
れたろ
心情う
が、。
眼前﹁
に展開する景や通り過ぎる 地名などに 絡
り
﹂という辰松の技芸の活用
との
なか
ったの
は
う
めて綴られていくのが普通 故 、﹁観音廻り﹂のみに 特 別な心情表現
を見ることはできないという見解もあろう。確かに 節 付の面でも、
他の道行、例えば、前稿で引用した百日 我 五人兄弟 ﹂﹁百日曽我 三
の虎 ・少将の道行と比べて、そこに付されている文字譜 の数や種類
一文字譜の数で 節付の違いを云々することは適当では ないが、付さ
れた文字 譜が 多ければ多 いほど、その曲節は複雑であ り、それに伴
う人形の動きにも複雑な所作が加わるであろうことは 言えよう︶に
差 はない。詰りの具体的な違いを推し量ることはでき ないが、文字
すた
る。
ごそ
とれ
くは
譜に
か合
ら見屋
る限氏
り、が
語り指
その摘
ものは他の道行との間に大 きな変化はな
の
結果が﹁観音廻り﹂であっ
現世のお初の姿を見せることでもあっかた
ったろ
と思う
われ。
る。しかし、﹁観音廻り﹂ではお初の 直接的な心情
次に掲げたのは人形の動きに
表現松
は押が
さえ書
られき
て、込
むしめ
ろ人た
形の所作に合わせたも のとなって い
お加
初え
のて
心近
情
0
表現である。
る。華やかな浮いた心持ちの中に 、恋する女の所作と 心情とが ぅま
一七
ることができ
く 絡み合い、歩み行くお初の心うちを見事に伝えてい る 0辰松の芸
を 活かすための近松の作意をこうした点にも読み取
る。役者の演じたお初一歌舞伎の曽根崎心中でもこの 名 が使われた
かどうか不明であるが︶以上に 、生き生きとした人形 のお初が当世
流行の姿で舞台に蘇生したのである。
以前から、人形遣いの使う人形の所作が歌舞伎の芸 と競合してく
男 つき き つとしたるにはちがひ て。小歌
っである。
るのではないかという畏れは歌舞伎の側にはあったよ,
諸 げいにたつし給ひ。
上るりにあはせては。大坂にて山本州三五郎。京にて 大蔵善友
衛門。肺肝をなやましくふうしてつか ふ 。人形もおよび がたし。
元禄十二年三月﹁役者 口 三味線・江戸L中村伝九郎 評
といった評判はそうした意識の現われであるが、また 既に、子役の
役者が人形振りや碁盤人形の振りを真似ることもあっ た 。しかし、
辰松が出て、その畏れは現に中村 干弥 のように
宝永四年 三月﹁ 役
去 成一宝永三年︶正月の顔みせ、辰松八郎 兵 へつかは る 、道行
人形のまひ大当りして。一年中当り通し
老友吟味・ 京き
と 、人形の所作を真似る役者を生み出し、観客もそれ を好しとして
評判するということにまでなったのは、辰松の技芸の 素晴らしさに
よ るものであろうが、浄瑠璃がそこまで人形の出場を作るとともに、
の技術の向上を計っていったという、当時の浄瑠璃 各座の大勢に
良 にも小林平太夫の一座があり、活況を呈した時期で
きる。錦文流は自作﹁本海道 虎
そ
一で初めて抜手摺が用いられ、仕舞台が創始されたと いう。木舞
五三 上演午時、元禄 六、七年頃
ら客座の傾向として人形を見せる舞台への工夫を指摘 することが
あった。
坂 に竹本義太夫 座 ・伊藤出羽操座・松本 治 太夫 座 、 ま た、その他
元禄期の上方浄瑠璃 弄は、京都に宇治加賀 抹座 ・m 本 角大夫 座 、
十五
よっている。
そ
も
人
茶
れ
で
の前に付舞台という張出しの舞台を設けるのは、太夫
か
して先に挙げた竹本座の名古屋での様子が知られる。
人
自体のからくり、即ち、手妻人形だけでなく、南京糸操 りの利用、
加えて、
いの芸を、より近く観客に見せることにほかならない。その例示
白
追
と
耕
角太夫座の南京糸操り、出羽座の水からく
中にあったことは既に指摘したことがある。曽根崎。﹁
名の挙がることのなかった辰松八郎兵衛の登場も 、こ うした状況
心中口以前
色 ともされた。加賀抹の宇治 座 、義太夫の竹本座もこうした傾向
される。
た、本水を使った水からくりの大道具も使用され、 舞台の演出は
形
ま
一
特
の
中でじっくりと磨かれた芸の披露であった。
に
の
いることを 指
この時期、歌舞伎界にあった近松の浄瑠璃に対する姿 勢は ついて
は前稿二三で、歌舞伎的な発想で人物像が作られて
摘 したが、それは、言い換えれば、歌舞伎の人間の芸 に相応する人
形の芸が得られることを前提として発想されたものと 一
三,
口
ん
@よ、
Ⅰ
ノ
。た
自分の本領
だし、近松の立場は作者としてのものであり、そうし た技芸をより
一層際立たせるための作の筋立てや詞章の錬磨にこそ、
が発揮されるべきであるというのが近松の本意であろ 、
っ。そうした
場合の作者の立場はどのようなものであったのであろ・
っか。浄瑠璃
に比べて作者の立場は弱いとされる歌舞伎において、 例えば、金子
吉左衛門の﹁耳塵 集﹂には次のような坂田藤十郎 と作 者近松・金子
とに関する逸話が伝えられる。
替り狂言について近松門左衛門や金子 吉左衛門が坂田 藤十郎ら
役者に筋の内容を説明するが、藤十郎は稽古を重ねた 上に 、小
道具まで用意させて稽古を通し、やっと好い狂言であ ると納得
した話が載り、藤十郎は自分の役の多少に関わらず狸 三ロ
の肝油りを
一
よく聞いたと結ばれる。
と
この話は藤十郎の好い芝居を作ろうとする心がけを 伝 えると共に 、
ら
と
作者をたてる心遣いを伝える話としても理解されてい る 。 血弍-、
mこ
ゐ
と
" は兄
中
ひ、
ては
の替り狂言の制作には﹁金子 吉左衛門日記生からして 、坂田藤十郎
も相談を受け、関わっていたと考えられる。しかし、 藤十郎は役者
一九
た。
なっ
@
の
に
や
点
役
手 み
当
璃
と
も
み
う
延
曹
の
が
の
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色
くは
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げ
露
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たしく
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@
た
む
を
スエ
テ
話
一あ
む姿を描いているのに対して、二人の動きの解説に止ま っている。
心情を訴え、しかも、人形の動きを直接に表わすこと なく二人の
の
出征 徳が ﹁近松の妙 処、地中にあり。外は是にて推しは かるべし﹂
歩
俗耳鼓吹巳と 感嘆したのも、心中する男女の心情が ここに凝縮
秋
れていることを読み取ったからに違いあるまい。
三
さ
見
三分は ・お初
つ、 にきえてゆく。ゆめのゆめこそあはれなれ。﹂を連想させる
のしも。
冨 目板崎心中臣の﹁ 此 よの なごり。夜も
フシ
入ま,
なごり。しに、ゆく身をたとふればあたしかはらの道
けはさきちかく﹂などは、
れ と
呈上
ば む が
。 き
止七
こ也ゐ 世
。
な
一
止
中
ステ
て
文さ
レ
へきこ
色
にをし
め
は
な
フシ
。
叔有
句 であるが、冨田 根崎 心中﹂では露が消えることで 徳
し
のけ
風つ
み
ね
に
ょ
ひ
レ
らちにたさ
へ を御
ほ
ほ
、
夫婦
る
はた
の
あ
けれ
。た jJ
¥
枕あ
の絵
なけ
、徳 且つゆとお初の
加えて、﹁死出の道行﹂が﹁観音廻り道行﹂と大きく 異なるとこ
ろは、歌舞伎のムロ帳への書き替えが簡単に可能な
心情を対話的に吐露するせりふの部分と、人形の動き を表わす卜書
そ の心情が見物
に 表現されているのは、
さ、
も。ひと
へ
ふまでも。よそにいいしが明日よ
いつまでも。われとそなたはめを とはし 。かならず
あやなやきのふけ
一・
八
た ふ はた そ やきくはわれ。すぎにし人もわれ
をし一つ
し ゆず﹂と 動
もうはさのかずに 人。世にうたはれんうたは,うた
う
ゃ てんじんの。もりでしなん
されているように、よそ事 浄瑠璃や鐘の響き、
きているが、その数は少ない。﹁観音廻り道行﹂が 辰 松の芸を見
りを直接に示す語句は 、右の例のように、直接的な心 情表現の後
ねられることによって、観客に移入されるところにあ る 。人形の
自扶の 景 に託され
を 示す語がきている。この道行の心情表現の効果は 、 相田氏が指
ば ﹂﹁とすがりつき﹂﹁と手をひきて﹂﹁と。つまぐる
の箇所であり、それぞれの後には、﹁とすがりよ り﹂
はちす ぞや
あけ なば う し
つ
的な部分によって劇の展開がなされているところにあ る 。しかも、
記 すという客観的な視点から描き、
にぞ 。たどり
円心
その心情を二人の言葉として直接に表現するのではな く、 当てごと
浄瑠璃や景物へ
の心へ 移入し易いように工夫されている。人形遣いの 派手な動きは
ここでは押さえられ、太夫の語りの聞かせ 陽 一それは作者の筆の牙
えのほども大きく関わるものであるが -として重き場 をなすと言う
ことができよう。この点についてもう少し考えていき たく悪う。
十六
枯山善雄氏は岩波文庫に収めた 冨 目板崎心中﹂のこの 道行の冒頭
部の脚注に、﹁連吟で二人舞 。道行と題するが、道行 らしいのは 巻
頭の観音廻りで、ここの趣向はよそ 事 浄瑠璃に託して 両人の心情を
効 果的 ﹂﹁以上、
口説くところにある﹂とされ、さらに、﹁よそ事浄瑠 璃の歌にから
ませておは っ ・徳三公ぼの心情を口説く盛りあげは
ワ
7
ン.
道行は ょそ事浄瑠璃に託して口説くのが趣向で、芸の 見せどころ﹂
フシ
つきにける﹂までの道行の批評であるが、一方、二人 の心情が直接
抜 重 摘 作
ることに終始した詞章作りであったのに対して、むし ろ、こうし
に
観点からは﹁死出の道行﹂は 、語りの情緒を重視した 文章と舌口え
せ
た
一一一
次の曽根崎の森の場面は、徳二分何とお初の会話で進行
し、会話 以
る
い
,:じ
第
死
「
舞
位
目板
一一一一
本
日
万ロ
僅
ハ
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@
"@
学
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ない人の﹁義理﹂一人としての
含蓄
道
理﹂
とは
して働く。﹁
の
意
人
り
形の激しく泣く仕種によって舌面
口の
外語
に人
表も
現され、その場
形も活きてくるのである。﹁芸﹂
のる
りと
くは
ぎこ
がの
義理につま
青本
l。l
浄
イ呆
一
舞台化
/Ⅰ
う王
瑠璃
三文
禁 戒
忌 9
(
なこし
とを
言う
のであろう。 冨
崎心中口の到 荏苫 は実はここ
外の箇所は卜書のような役割を二
な人
しが
て叔
い父
る。うそ
て
、
﹁
リ叫
ラぶ
てとこ
あろ
ったで
ので
ある。つまり、人形遣いの芸を楽しませる のも作者の
父母への暇乞いの述懐をなし、
近松
泣は
き
、
汚
る
﹁
章に
よ﹂
るがと
、真に人形を活かすとは、人形遣いの芸に 頼るだけで
こがる、こころいきことはりせ結
めぶ
て。
あ
はれな
れ
書、
りは憂が
地肝
と要
て多くあ
也な
はん
れどといふ
文又
句は
を詰る なく、それぞれの場面での人の心の内に本来あるべき ものを、 心
い
にもぶんやぶし様のごとく
事に
我泣
の
仲
がき
如か
くた
かに
たは
る内の舌口葉として表現すること、それが無理なく﹁含蓄 の貫﹂をも
義ら
理と
にす
っ。
き芸ての
なき卓也。某が憂はみな義理をが
専
ぎ
語らり
れ、く
人形
の働きを導き、観客に感動を与える。 その筆勢の
りてあはれなれば節も文程
句い
もよ
きあ
つは
とれ
しな
たる
るもたな開眼である。そして、また、場面そのものをも、 ﹁地文句 せ
なふ
つけ ふ 事は ふに及ばず、道行なんどの風景をのぶる文ちん句 も 情をこ む
の也
。この故にあは也
れ
とを
いあ
ふは
時れ
は含
蓄し
のて
意
かん
や
肝要とせざればかならず感心の う すきもの 也。詩人 の興象 とい
るり
があ
肝は
要れ
地。を﹂
く其う
情すし。あ
也と
はい
れはずしてひな
と
て、たと
へば
松島宮島の絶景を詩に賦
打し
詠て
ても
賞
三難波土産・発端しは近松の晩の
年で
のあ
言る
説が
を、
伝るえ
も同た
事にも
最期場のこの愁嘆を支え
てて
いい
るる
も、
のこ
はこ
﹁ろ
りう
こ
が
い
こ情
の、
世言
未
へい
の換えれば、
き﹂と舌口
徳わ
五
%れ
Sる
.
お初の真
練と
名残であるが、それを素直に切
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③
の悪所﹂一昭和㎎・とに所収。
今尾 哲也﹁注釈の原点 |冨 目板崎 心中口の場合 | ﹂ 目文学 目 昭和
蝸 ・4一。
資料第一二
㍼緩古浄瑠璃 集﹂面相 弓 ・1 一所 収 ﹁あった
m 本 とも子﹁ 冨 目板崎 心中ヒ の諸本﹂ 宅近松の研究と
昭和㏄・ 8 ︶。
④鳥越文蔵 編赫柳
宮武具 揃 ﹂﹁源平礼いくさ八つる ぎ でん﹂解説。なお、 上 記 三善 が
地文学会
が ﹁
給 人浄瑠璃本﹁ あ った宮武
上下巻を構成するという見解に対して、平成九年度日本近
秋季大会︵十一月八日一で深谷大尺
、疑義を
m 辺 道 ﹂生方上す
ハ、
ロ
舌Ⅰ
わ れている
具揃 三考﹂を発表し、現存版本の書誌的な問題点を指摘し
出されている。上演時にも関わる問題であるが、現在
推定年代を掲げておく。
⑤相田善雄﹁ 冨日限崎 心中﹂と辰松の手妻人形﹂三
昭和 鵠 ・3 ︶。後に﹁浄瑠璃史論考﹂一昭和㏄・ 8一所収。
廻り道行﹂
⑥角田一郎﹁﹁曽根崎心中﹂観音廻り道行の構想﹂三国文学研究
第十八 軒 ﹂ 昭 ㏄・四 。なお、同論考で角田氏は、﹁観音
いたと 指
富目板崎 心中一が 、 前の三段目切とは区別 される 別
が 一曲の冒頭に置かれたのは、 前 浄瑠璃三段目まで上演の 後に演じ
られる後浄瑠璃
出 であることを明らかに示すという、外的な要請が働いて
捕 されている。
ゼ 年三月 刊 ﹁腱 難波
長 友 千代治
・文楽第 8
昭 和仏・は︶
8.9 一に 、近
に 既に載っており、
⑦大坂の三十三所観音廻りについては、延宝
す、め目 、同年七月刊﹁難波箆口
﹁近松と地誌﹂三島津忠夫先生古稀記念論集﹂平成
松の依拠した資料についての論及がある。
⑧諏訪春雄若角川文庫﹁近松世話物集一口解説︵
近松の時代ヒ平成川・ 5︶。
⑨拙稿﹁元禄前期の上方浄瑠璃 界 ﹂ 宅岩波講座歌舞 伎
巻
がある。
、世一に
⑩信孝純一﹁市上るよ日限 崎 心中﹂の成立について﹂三五 明文﹂第二十
元朝、昭和 弼 ・は。後に﹁近松の世界 目 平成 3.7 に所収
話 浄瑠璃と対話口調の﹁せりふ﹂との関連についての論及
いては、 中
一
前稿 三注⑪一に説くとこ ろを 参昭
⑪﹁難波土産・発端﹂の﹁ 情 ﹂や﹁義理﹂等の用語につ
村 幸彦﹁虚実皮膜論の再検討﹂
する。
二四