YMN001005

﹁曾根崎山里道行の構
Ⅰ墨譜と序破急
成
浄るりを讃む時に厄介なのは道行・景事であろう。掛詞や縁語を
使った、つづれの錦 とも言える名調子につられて、すらすらと讃 み
過 どすが、きて何がどうなうているかとなると、なかなか理解しに
くい。そのために、精々藝の見せ場だろうぐらいで、簡草 に片附け
ているのが現在の状態ではなかろうか。ふし事という名裕が示す如
五四
祀田 善雄
近松時代の音楽や舞台を再現することが無理なのは判 つているが、
その反面、近松時代の墨譜でも、現在と共通するのが 柑富多いか
ら、これを手掛かりとして、文章の構成を分析するぐらいなことは
営然 行われるべきではあるまいか。しかもそのことが能の構成要素
である序破急につながるとすれば、なおさらの事であるっ
種 とは能における素材、作とは一曲 の構成を意味
ふし
世阿禰は能を作る道として 種作善ということを説いて いる。﹁ 能
作善﹂によれば、
して序破急の五段をさし、書とは、言葉を集め、曲を付けて、文章
序 破 急の構成に
に 書き綴ることであるとしている。種が決まると、
く、ふしが基調となって人形の所作を見せる場であるには違いない
が、文章本位に讃んだのでは、その構成や舞台効果に濁れることが
従 って、言葉とふしを演技に嘗てはめながら文章を綴るというので
ふし
てそうである
如く 、浄る りでも舞歌を木 膿 とするふし事が、序破急 の構成に従 っ
していると舌口える。舞歌の二曲を本風とする能におい
あるから、曲は言葉の選樺 とともに文章を書く上にも重要な役目を
できないから、ふし事の意義も作者の苦心も解らない。つまるとこ
ろ、丸本に附けてある墨譜を使って浄るりを讃もうとしなかつたと
ころに、盲貼 があったと@
ロ=
,る
んのではなかろうか。もちろん墨譜の
解樺や節附けの仕方は時代によって麦遷したし、現在 のふしでは、
て言葉とふしを演技に営てはめながら文章を書いたことは、嘗然の
ことと考えられるだろう。浄 るり五段の構成が序破急に従っている
ことは、先畢の万々が既に述べておられるところであるが、ふし事
もまた序破急・の構成を取っていることを説明して批
、
と思う。そのためにほ墨譜に﹂よって構成を示さねばな
の前に﹁曽根崎心中﹂に取入れられた道行形式を整理
る
作
観
立 ,出
り
ら
る
順序であろう。
ニ、観音廻りと心中道行
﹁曽根崎心中﹂は一段 浄る りである。後になって上中下 の 三巻に
柄者は必ず
改編されたが、初演の時は一段の切浄る りであった。 こんな短いも
のに観音廻りと心中道行とのニケ所に、 同じような 道
のは、食籠 め バランスから見て多過ぎる感じがするが、
しも同じ様式とは言えないのである。
観音廻りは、早朝から夜 おそくまで三十三所の観音を巡拝して 廻
るのだから、道行と言う べきであろう。﹁牟藝 古雅志﹂ に辰松八郎
挿檜 のお初には﹁おはつみちゆき﹂
さ ります﹂と 口
兵衛が﹁序に川三所のくはんを んめぐりの道行が ビ。
上を述べているし、
けている如く、初演の時既に観音廻りは道行と考える
これとは別に徳兵衛おは つの心中道行があるために、ここの場を道
行
きまり、
は呼ばなかつたのである。しかし、観音廻りを序破急に分析す
貫 質は道行でつ
き くぞ有がたき。﹂で定位置に
クドキ あり、舞い地あり、 手妻 か
五五
りを初めて竹本座の舞台にかける宣博 のためか、辰松 が竹本座
、観客に彼の藝を十分に見てもらう ための趣向であ った 。世話
観音廻りであって、﹁牟藝古雅志﹂に載っている辰松 0 口上の
挨拶の場であったが、この種の順禧の出端を浄るり に
る。これほ高尾 林之助がお目見得の口上を述べるため
林 之助がは っせの前に扮して序開きに順祀の出端をや つたこと
た 際に 、
1
曽根崎 心中 L の
0元禄十五年に京都夷 星座 で ﹁傾城在原寺﹂を上演し
れに似たことは歌舞伎で既に行われていた。
藝を披露するために設けられた場と言えるだろう。
っ辰松の
のように見てくると、道行とは言うものの、お初を遣,
分 である。最後は急で、締めくくりをつける散らしで
りあり、 と 言った具合に 藝誌しを見せる場で、最大の 眼目とな
静止の所作とを交互に交え、
廻りをする準備が整う。破は順祀歌で始まって 、 動き
﹁川 三所にもむかふと。
初の序は、マクラに オキ浄る りがあって フ シラクリ
の藝轟 しと言うことができる。
、 寺 廻りという形式を取っているが、
こ人こ部くと 日、 最事とと
浄如
るくがた
のれがめ尾年
高琶 前
五ハ
的に構成したことが理解できるであろう。世阿禰は能 一番の最も重
と契約したお目見得の藝見せであったのか、理由は明ら
かでないが、見せ場としたために、心中道行を筋水位に大夫の語り場として意識
いずれにしても興行事情から立案されたもののように忠われる。 こ
かされていることは文章からも言えるであろう。
て生かされる要素が多いのに勤し、心中道行が近松の作 によって生
ても、同じようなことが言えると思う。観音廻りが辰 松の藝によ つ
とする浄るりのふし事では、能 そのままと言うわけに
者の作と言っているが、歌舞を本態とする能のように、歌舞を木藝
よう に濁立の妻なしどころを開眼と開聞と名づけ 、開眼は演者のめさ、開聞は筆
れを省略しても筋の進行には支障を来たさない。この
徳兵衛とお
振 りの附けやす
場 として構成されているのが特色であって、人形を遣,
っのに 都 ムロの
よいように、 愛 0 目が多くて 静と 動との交錯した、
い、 藝 本位の文章に書かれている。
これに反し、心中道行はもつと筋に結びついている。
初が 天満屋を出て曽根崎の森を死に場所と目ざす道す がら、 鎗 前事
浄る りが 覚束 なく聞えてくるのに托して泣く悲痛なク ドキ は、文章
割愛して道行について考えてみたい。
の バランスを形成していることが認められる。こ乙では観音廻りを
このように見てくると、雨音それぞれの持ち味で﹁曽根崎心中﹂
る分
で劇
あ的
ろな
う感
。動を味わう
を
む讃
だけでも十
、道行の構成
三
早稲田大孝回書館が所蔵する﹁曽根崎心中﹂八行本の奥書に 、
の文句がある。
我等かたり本の通ちがひなく写させ進し候
化外口博とてさのみわっかしき事もなく候
秘事はまつげとやかしく
ふし付は作意と文句のはだゑが大事に而候
たビ人の心を慰るを秘博にいたし候しかし
の
、二人
う
こ舞
との
に人
な
っ
て
い
的形
でを
あ遣
ろる
うの
。も、対照
このように比人
較
す
%
木の
杭ると、観音廻りを道
次
年長 衛板
ここに﹁ふし付は作意と文句のは
ゑが
だ大事﹂だと指摘している
う に心掛ける
のは、浄るりの讃み方に示唆を興えるもと
のして興味を覚える。節
つけは文句の持ち味を生かして作意をに
十現分
わすよ
ことが大切であるが、これを裏返えす作
と意
、を知るために節 づけ
が役立つことを教えていることになる。
こうした
観鮎から、墨譜を手掛かりにて
し道行の構成を考えてみ
た。出のハルフシ、フシ
落ちによる段落な
ど 、墨譜によって心中道
㈹前段・㈲中段舞い地・
㈲後段クドキ︶・㈲
急 ︵㈹散らし︶に分割
たし
ら、典型的な所作事形
㈲
序
しに
㈲ オキ ・㈹ 梱 人の出︵
此 よのなどり。よもなどり。
1.2
︶
Ⅰ行 身をた
夢
スヱデ
め。
セ つのときが六つ なりての
中ウ
一あしづ ちにきへてゆく。
とふ ればあ
式になっていることが判った。これはや
道景
行事を研究するための
基本的な事柄であるから、全文を掲個
げて
々に検討してみたい。
㈲
フシ
だしがはるの道のしも。
0
・4.
あ
ヮ
l
れ
キ
-中
か ぞふ れば あ 力 つきの。
こる一つがこんじゃうの。かねの ひゾきのきちおさ
太夫
③フ ン
2 かね 斗
の二人ハル
かは。くさも木も空もな
ビ りと
見あぐれ ば
も心なき水のおとほくとはさえてか げう つる ほし
二人が申にふる
O@
と契
さ も
フシ、
中 フン
涙, かはのみか
りていつまでも。われとそなたはめをとぼし。かな らず
まさるべし。
,㈲後段
クドキ
フシ の墨譜が附いている。なお小異の
%﹁お初天神託 L ﹁曽根崎模様﹂では、①にハル
に フシ、 ⑧にハル
㈹前段・㈲中段舞い地
どり
中ク
ふのにかいは。なにや共 。おぼりか 情 きいち, っ にて。
破
校合は省略。底本は八行二十四丁本による。
㈲
㈹むか
ことのは ド さや。
|
ごよ.
つ
﹁あやなやきのふけ ふ迄も。よそにいひしがめずよりは
フジ
Ⅰ なら
われもうはさのかずに 入。よに う たはれんうたは
計二人
たへ ﹂ う たふを 聞は 。
へ共
。﹂げに思へ 共 なげ け兵具もよもおもふ ま
㈲﹁どうで 女はう にやもちやさんずまい。いらぬ
思
五セ
,か
ず 。いつを け ふとて けふ が日まで。心ののびし よ は もな
。
はなちはやらじとなきければ。﹂
ワキク
﹁う たも おほ
太夫地中
めて
わ する ちひま はないわいな。それにふりすてゆか ふと
く 。思はれ色にくる。しみに﹁どふした事の ゑんじ やや
ら
。
は。やりやしませぬ ぞ手にかけて。ころしてお
ん せな
中 フジ
つきせ ぬ あはれつきる 道 。
落 なので、 フシとあるが改行にしなかった。
の。
%④ フシ はお初のセリフ︵﹁﹂で包んだ部分︶の中の段
かずそひて
ヌヱテ
一つはちす ぞや﹂と。つまぐる じゆずの百八に涙の玉
鳥ク
中ク
つはさもあれ 此よは Ⅰ。せめてしばしはなかⅠらで、 いも
きにあの うた を。ときこそあれこ よ ひしも。﹂﹁ぅ たふ
二人
と
はた そや 聞はわれ。﹂﹁すぎにし人もわれ
ギン
スヱテ
(5)
㈲
二人
急
を 拾ってみよう。
㈲散らし
㈹Ⅰの終りのところの②には、
五八
フン
森にぞぞ
。 。
フシ 落ちの
序破急を分け
フシが附いてないから、近松時代
次に序破急の中を フシで細分したが、それについて問 頭 になる 鮎
だから、決定的な基準は作意にあることは言うまでも ない。
限らないし、 節 づけは﹁作意と文句のはだ ゑ ﹂に 底じ てなされるの
る基準とした。しかし、いつもこのように都ムロ
よく 分 けられるとは
後のハル フシ は気分を改める性質を持つているから、
ある。﹁出のハル フシはしとやかに﹂と言われる如く
に使われたと考えられる。㈲の 破や ㈲の急も語り出し は ハル フシ で
められているから、近松時代には フシ がハル フシと同 様に語り出し
︵實暦 十一年︶に取入れられた道行では、同じ箇所が ハ ルフシ に改
曽根崎 模様﹂
り 出すが、改作の﹁お初天神託﹂︵享保十八年︶や﹁
のの序では オキ滞 る り ︵マクラとも言 う ︶から始まっ てフシ で華山
る 道行の場となる。
天満屋の場が三重で終って舞台が替り、お初と徳兵衛 が心中に出
最初に序破急を分けた基準から説明する。
たどり着にける。
心も空に。 か げくらく 風, j
(6)
ど
﹁お初天神 託 ﹂
かク
よ
には Ⅰ 2 を 績 けたと考えられそうである。しかし、
ほ
根崎模様﹂には フシの墨譜があるし、㈹ 2の語り出し
かクて
と同様に出の フシだからその前が切れると思われるし、 コマ
と
1トンが附いているなどの理由で切ったが、ここは強
し
る
を行やて・四@こ我。
な
く、演奏者の解程によってはつないで語ることも多いと思わ
九 ろ
っ
じ
。
中ヲクリ
きくぞ有がたき。
,
④﹁お初天神証﹂には
五九
シ ラクリ ﹂ナシ
、八行本で補う。
下 キン、﹁曽根崎模様﹂には 下キ
り。③六行木 は ハル。八行本仁よってハル
クリ。⑤六行木 は ﹁ フ
ヲ
フシ とする。
①詫の墨譜は省略。②﹁曽根崎模様﹂にはチフスとあ
。
花にかさはきず 共 。 め さず 共。てる日の軸 もお とこ
あ
と
たのみ 有 ける じの んれい 道。西園 州 三所にもむかふと。
中ク
十クつ
その意味からすれば績 けた方がよいかもしれない。
かや﹂
さヴなク
ぶ つ
④には フシの墨譜があるにも拘らず文章を切らなかつたo こ
ならないと、解澤したからである。﹁誠に
@
ヰ・
ょ
一ハノ
つ
⑤フ ンヲクリ
こ
舶 。よけて日まけはよもあら
㈹は
ぶ
大夫︵お初︶のセリフを フシで二分するだけで・文章
を振り返って厄たたりを歎く前半と﹁軸 ほとけ
ているし、實際の演奏では フシ落ちで昔を下げるだけ
や﹂と未来を願う後半とに分けていても、この二つの セリフ
けずに次へ繍けて語るであろう。そうでなければお初
て 一まとまりには聞きとりにくいから、切れ目のフシで積け
現在なればつなぎの印を附けるところである。
二鮎を除くと、他は全部 フシの切れ目で改行した。以 上 の操
つて、道行に一定の基本的な様式があり、それに従って作者
りを書いていることが認められるであろう。
序は ㈲オキと㈹お初徳兵衛の出とから成る。オキが洲んで、
出から太夫がお初、 ヮキが徳兵衛の掛合となり、 1は鐘 の聲
の
ろ
っ
を
は
を
げ
お
三
や
㈲
難
万
れ
れ
目
と
ち
は
目
フ
た
雨
ハO
い
る
は省浅
略す黄
るが、最初は順祀歌で始まり、わが影を追う所作、飛の祈
現在なれば、幕が開く
幕
が
と下
、り
舞て
台と
一こ
面ろ
に
⑤初
の
フ
シ
ラ出にりな
の静る
、蝶。
の舞と﹁通ひ路﹂の舞い地、奇 々を動き廻る振り、とい
であ、
っ
㈲て
の
オ謡
キ済
が
むと、・㈲のお
の
ぅ 具合に、 愛化の多い所作が連縛 しているから、十分人形を楽しま
せてくれる。天王寺のところではからくり装置がある模様だし、 金
堂の鐘の聲、 萬燈院 の灯 、一服して 喫ぅ 煙管の煙出し の手妻など、
見た目本位の趣向が多い。人形の見せ場が多い道行である。
これに 封し 心中道行は、上掲の本文を讃むだけでも劇的所作の凝
つた趣向が仕組まれていることに気づくだろう。㈲の ハル フシ で 気
が改まって、向ぅの 二階から鉄所事浄るりが聞えるのが前段であ
から成るが
フ
シ
、
ラ前
ク
で
者
リ
出
がるのにに
対は
し道
、行
後に
者分ふ
る。そうした設定において、㈲の流行歌﹁心中江戸三弄 しの地で、
。思
るかう
と
辰
松八郎兵衛と吉田三郎兵衛が遣う 二人舞の人形は、観音廻りには
られない劇的情緒を漂わせる。しかも太夫とヮキが掛合で語る、
。見
こて
結
れみ
はよ見う
次に、序破嘗
急る
の
急、
最
の後
散に
らしを
人の悲痛な心理描鳥が敷果的で、艶な振りとともに、愁歎のやる
語
とい議
う
きに
るのであって、心た
中る
道曽
行根
で崎
は両の
し
ん
し
ん
瀬
な立
い思て
いをて
いや言
が上う
にもほ
駆り立てる。掛ムロ
で盛り土がつた気分が
ど、
の別
こに
と取
はり
な
森にたどり着くというだけで
は
結びを附け
い
。観音廻りで州
も
ば同
ん様
﹂で
の
フ、
以
ハ
シ﹁
下
ル
㈹のお初のクドキで最高煩に達する。このようにして破の中段後段
の舞い地とクドキが心中道行の聞きどころとなっているのである。
ているに過ぎないと言える。
二ら
段ば
に、
凝道
ら行
序が導入、急が結語とするな
一
舞歌の
を本慣
理と値
するは
ふし破
事にの
おいて、観音廻りは舞に見せ揚が多く
に
特急
色て
が見ら
された趣向
の何
出に
来よ
集る、
え
如
の序
でや
あ
っ
心中道行は歌に聞かせどころが仕組まれて、開眼と開聞を備えた構
の確は
かさ言
を示しているが、このことは コ曽根崎﹂を講む上に重要
ま破
でな
もい
れると言うても、やはう
り
に
及。
ばぬこ成と
な意て
味を破
持つの
もの構
と思成
う。を説
す文
るを
こ掲
とげ
観音廻りから見てみよう。呪
全
以上、道行が序破急の構成で成立つことを説明したが、文章を理
解する場合に 、節 づけによって作意が一層適確に把握 できるところ
に墨譜の利用慣 値が認められる。このようにして構成 に 注意するこ
とが 浄る りを 謂む上に必要なことは、次のことからも 壬宇んる。
四 、﹁唐崎八景屏風﹂と﹁曽根崎心中﹂
元禄十六年に京都の甲雲座 で上演した歌舞伎狂言目 再崎
に ﹁からきき心中道行﹂の歌があるが、その外に元禄十セ 年刊﹁ 落
葉集﹂に﹁辛崎心中﹂という歌が載っている。これら が ﹁曽根崎﹂
問題となり、
て、浄 るりと
柄万の心中道行を検討して種々の提 @
の心中道行とほとんど同文であるためにその先後が
﹁曽根崎﹂と﹁からさき﹂と
が 行われているが、ここでは、﹁落葉集目の歌は除外し
歌舞伎とを比較してみたい。
狂言本の中から八景の小歌を歌いそうな箇所を拾 うと
﹁あはれ・果敢なや清兵衛お 浅は 、 身を投げ心中せんと、
最後の
道の 、近江八景も見え分かず、衣裳脱いで帯と帯 とを 一緒に括り、
湖へ 飛入り流れ給ふ﹂ところ以外には見嘗 らない。 こ
實質は 幸き
蔦 小小歌で歌う心中道 待 と同質の ク
八景の小歌は近江八景を廻る道行形式を取っているが、
身の果てを歎く絶叫であって、
万 めどちら
ドキ に過ぎない。清兵衛 お浅の心中道行に道行的な要 素 が少ないの
もが クドキと 道行の形式を備えていて、同じ鳥山節で妾
ないが、﹁ 曽
﹁曽根崎口
根崎 ﹂の観音廻りと心中道行との間に構成上のバラン スが考えられ
ているのと比較する時、遥かに見劣りがするであろう
の心中道行が道行ならぎる道行となったのは、潮音廻 りを辰松の藝
のために 令膿め バランスが壊されることはなかつたが、
見せに仕組むという興行事情の雛寄せから生じたもの であった。 そ
中道行を補っているよ う に、﹁唐崎八景雄風﹂でも﹁
八景﹂にはそうした構成上の配慮が認められなⅠよう に恩 ぅ。 む
﹁曽根崎心中﹂の観音廻りが道行形式に書かれて徳兵衛
道行﹂の外に、近江八景を織込んだ﹁八景の小歌﹂と
乗ろ う とした
よかろう。心中道行の先後を問題にするなら、構成の上から観音 廻
らさき﹂と﹁曽根崎﹂のどちらか一万が他方な 真似た
ひずみが生じたのであろう。
に無理があって、道行形式の八景の小歌を クドキ で 重 出するような
興行政策から、 浄る りの心中道行を眞似たと考えられ る 。そのため
﹁唐崎牡風
いていて、﹁曽根崎 口そのままの形式に仕組まれている
りと八景の小歌とを比較することもまた必要だと思う
、一ノ
いずれにしても両者ともに興行事情が作品に大きな影響を典 えて
、-一
あったことが判る。﹁曽根崎山甲 L の観音廻りはこれ と 同じ
② 辰松八郎兵衛 か芝居契約のお目見得に 藝 見せをした 例 として
構想によっているのである。
はできない。 浄る りを 誼む難しさがそんなところに 隠 されているの
ゴ和歌三神影向 松 L かある。 司
曽根崎口の翌々年のこと であ っ
い九片ロ叩の
償評
いることは明らかであって、そのことに注意しなけれけ
である。それには文句を正しく理解して節 づけに気を つけ、構成や
た。詳しくは拙稿﹁止揚 道 ﹂第六 號 ﹁曽根崎心中と 辰 松の手
せ のまへのり物にめ
のは、いずれも﹁ 規明 ﹂と訂正。
道
八文字屋 八 左衛門の版。
難波 規明太夫の正本に﹁ 亜鏑 大坂 順穫 ﹂がある。九
万吉日、京都 笏 室町
%
一年二
の 六七頁、六九頁に﹁難波観明大夫﹂﹁観明 新太夫﹂ とある
﹁山漫 追口第九 號 ﹁元禄期 における大分損の 市 芝居につ いて﹂
訂正
要人形﹂参照。
作意を知ることが大切だと思う 。
ハ@
洋
し口
①﹁島田教授古稀記念闘文論集﹂前掲の拙稿﹁曽根 崎 心中の歌
舞伎的 基盤﹂。ただし引用文に誤植かあるので、念の ために
は っせの前の出端の部分を再揖 する。
元禄十五年京都東屋盛二の替り﹁傾城在原寺ヒ狂言本の 冒頭
序開きに次の如くある。
@
じゃん梢可よもすがら月をみか らと わけ 行は ・ うち のⅢ せこ
たつ はしらなみ・姫はつ
皆おひ づるをかけ 玉ひ ・供人引
し ・さく ら め
つぼ ねこしもとあまた・
し 西園 順禧 なされつし 都ぢへ 入玉 ふ
この序開きが終って、京都の在原屋敷の場になる。 こ % を
コ
役者二挺三味線 口 に次の如く記している。
︵高尾林 之助︶此度ははつ せ のま へとなられ・ 序 びら き
では
順 祀の出端・もつたい 有 てお 姫 らしし・よく見なら へ
右の記事によって序開きに高尾 林 之助の扮する 順膿め 出端が