﹁曾根崎山里道行の構 Ⅰ墨譜と序破急 成 浄るりを讃む時に厄介なのは道行・景事であろう。掛詞や縁語を 使った、つづれの錦 とも言える名調子につられて、すらすらと讃 み 過 どすが、きて何がどうなうているかとなると、なかなか理解しに くい。そのために、精々藝の見せ場だろうぐらいで、簡草 に片附け ているのが現在の状態ではなかろうか。ふし事という名裕が示す如 五四 祀田 善雄 近松時代の音楽や舞台を再現することが無理なのは判 つているが、 その反面、近松時代の墨譜でも、現在と共通するのが 柑富多いか ら、これを手掛かりとして、文章の構成を分析するぐらいなことは 営然 行われるべきではあるまいか。しかもそのことが能の構成要素 である序破急につながるとすれば、なおさらの事であるっ 種 とは能における素材、作とは一曲 の構成を意味 ふし 世阿禰は能を作る道として 種作善ということを説いて いる。﹁ 能 作善﹂によれば、 して序破急の五段をさし、書とは、言葉を集め、曲を付けて、文章 序 破 急の構成に に 書き綴ることであるとしている。種が決まると、 く、ふしが基調となって人形の所作を見せる場であるには違いない が、文章本位に讃んだのでは、その構成や舞台効果に濁れることが 従 って、言葉とふしを演技に嘗てはめながら文章を綴るというので ふし てそうである 如く 、浄る りでも舞歌を木 膿 とするふし事が、序破急 の構成に従 っ していると舌口える。舞歌の二曲を本風とする能におい あるから、曲は言葉の選樺 とともに文章を書く上にも重要な役目を できないから、ふし事の意義も作者の苦心も解らない。つまるとこ ろ、丸本に附けてある墨譜を使って浄るりを讃もうとしなかつたと ころに、盲貼 があったと@ ロ= ,る んのではなかろうか。もちろん墨譜の 解樺や節附けの仕方は時代によって麦遷したし、現在 のふしでは、 て言葉とふしを演技に営てはめながら文章を書いたことは、嘗然の ことと考えられるだろう。浄 るり五段の構成が序破急に従っている ことは、先畢の万々が既に述べておられるところであるが、ふし事 もまた序破急・の構成を取っていることを説明して批 、 と思う。そのためにほ墨譜に﹂よって構成を示さねばな の前に﹁曽根崎心中﹂に取入れられた道行形式を整理 る 作 観 立 ,出 り ら る 順序であろう。 ニ、観音廻りと心中道行 ﹁曽根崎心中﹂は一段 浄る りである。後になって上中下 の 三巻に 柄者は必ず 改編されたが、初演の時は一段の切浄る りであった。 こんな短いも のに観音廻りと心中道行とのニケ所に、 同じような 道 のは、食籠 め バランスから見て多過ぎる感じがするが、 しも同じ様式とは言えないのである。 観音廻りは、早朝から夜 おそくまで三十三所の観音を巡拝して 廻 るのだから、道行と言う べきであろう。﹁牟藝 古雅志﹂ に辰松八郎 挿檜 のお初には﹁おはつみちゆき﹂ さ ります﹂と 口 兵衛が﹁序に川三所のくはんを んめぐりの道行が ビ。 上を述べているし、 けている如く、初演の時既に観音廻りは道行と考える これとは別に徳兵衛おは つの心中道行があるために、ここの場を道 行 きまり、 は呼ばなかつたのである。しかし、観音廻りを序破急に分析す 貫 質は道行でつ き くぞ有がたき。﹂で定位置に クドキ あり、舞い地あり、 手妻 か 五五 りを初めて竹本座の舞台にかける宣博 のためか、辰松 が竹本座 、観客に彼の藝を十分に見てもらう ための趣向であ った 。世話 観音廻りであって、﹁牟藝古雅志﹂に載っている辰松 0 口上の 挨拶の場であったが、この種の順禧の出端を浄るり に る。これほ高尾 林之助がお目見得の口上を述べるため 林 之助がは っせの前に扮して序開きに順祀の出端をや つたこと た 際に 、 1 曽根崎 心中 L の 0元禄十五年に京都夷 星座 で ﹁傾城在原寺﹂を上演し れに似たことは歌舞伎で既に行われていた。 藝を披露するために設けられた場と言えるだろう。 っ辰松の のように見てくると、道行とは言うものの、お初を遣, 分 である。最後は急で、締めくくりをつける散らしで りあり、 と 言った具合に 藝誌しを見せる場で、最大の 眼目とな 静止の所作とを交互に交え、 廻りをする準備が整う。破は順祀歌で始まって 、 動き ﹁川 三所にもむかふと。 初の序は、マクラに オキ浄る りがあって フ シラクリ の藝轟 しと言うことができる。 、 寺 廻りという形式を取っているが、 こ人こ部くと 日、 最事とと 浄如 るくがた のれがめ尾年 高琶 前 五ハ 的に構成したことが理解できるであろう。世阿禰は能 一番の最も重 と契約したお目見得の藝見せであったのか、理由は明ら かでないが、見せ場としたために、心中道行を筋水位に大夫の語り場として意識 いずれにしても興行事情から立案されたもののように忠われる。 こ かされていることは文章からも言えるであろう。 て生かされる要素が多いのに勤し、心中道行が近松の作 によって生 ても、同じようなことが言えると思う。観音廻りが辰 松の藝によ つ とする浄るりのふし事では、能 そのままと言うわけに 者の作と言っているが、歌舞を本態とする能のように、歌舞を木藝 よう に濁立の妻なしどころを開眼と開聞と名づけ 、開眼は演者のめさ、開聞は筆 れを省略しても筋の進行には支障を来たさない。この 徳兵衛とお 振 りの附けやす 場 として構成されているのが特色であって、人形を遣, っのに 都 ムロの よいように、 愛 0 目が多くて 静と 動との交錯した、 い、 藝 本位の文章に書かれている。 これに反し、心中道行はもつと筋に結びついている。 初が 天満屋を出て曽根崎の森を死に場所と目ざす道す がら、 鎗 前事 浄る りが 覚束 なく聞えてくるのに托して泣く悲痛なク ドキ は、文章 割愛して道行について考えてみたい。 の バランスを形成していることが認められる。こ乙では観音廻りを このように見てくると、雨音それぞれの持ち味で﹁曽根崎心中﹂ る分 で劇 あ的 ろな う感 。動を味わう を む讃 だけでも十 、道行の構成 三 早稲田大孝回書館が所蔵する﹁曽根崎心中﹂八行本の奥書に 、 の文句がある。 我等かたり本の通ちがひなく写させ進し候 化外口博とてさのみわっかしき事もなく候 秘事はまつげとやかしく ふし付は作意と文句のはだゑが大事に而候 たビ人の心を慰るを秘博にいたし候しかし の 、二人 う こ舞 との に人 な っ て い 的形 でを あ遣 ろる うの 。も、対照 このように比人 較 す % 木の 杭ると、観音廻りを道 次 年長 衛板 ここに﹁ふし付は作意と文句のは ゑが だ大事﹂だと指摘している う に心掛ける のは、浄るりの讃み方に示唆を興えるもと のして興味を覚える。節 つけは文句の持ち味を生かして作意をに 十現分 わすよ ことが大切であるが、これを裏返えす作 と意 、を知るために節 づけ が役立つことを教えていることになる。 こうした 観鮎から、墨譜を手掛かりにて し道行の構成を考えてみ た。出のハルフシ、フシ 落ちによる段落な ど 、墨譜によって心中道 ㈹前段・㈲中段舞い地・ ㈲後段クドキ︶・㈲ 急 ︵㈹散らし︶に分割 たし ら、典型的な所作事形 ㈲ 序 しに ㈲ オキ ・㈹ 梱 人の出︵ 此 よのなどり。よもなどり。 1.2 ︶ Ⅰ行 身をた 夢 スヱデ め。 セ つのときが六つ なりての 中ウ 一あしづ ちにきへてゆく。 とふ ればあ 式になっていることが判った。これはや 道景 行事を研究するための 基本的な事柄であるから、全文を掲個 げて 々に検討してみたい。 ㈲ フシ だしがはるの道のしも。 0 ・4. あ ヮ l れ キ -中 か ぞふ れば あ 力 つきの。 こる一つがこんじゃうの。かねの ひゾきのきちおさ 太夫 ③フ ン 2 かね 斗 の二人ハル かは。くさも木も空もな ビ りと 見あぐれ ば も心なき水のおとほくとはさえてか げう つる ほし 二人が申にふる O@ と契 さ も フシ、 中 フン 涙, かはのみか りていつまでも。われとそなたはめをとぼし。かな らず まさるべし。 ,㈲後段 クドキ フシ の墨譜が附いている。なお小異の %﹁お初天神託 L ﹁曽根崎模様﹂では、①にハル に フシ、 ⑧にハル ㈹前段・㈲中段舞い地 どり 中ク ふのにかいは。なにや共 。おぼりか 情 きいち, っ にて。 破 校合は省略。底本は八行二十四丁本による。 ㈲ ㈹むか ことのは ド さや。 | ごよ. つ ﹁あやなやきのふけ ふ迄も。よそにいひしがめずよりは フジ Ⅰ なら われもうはさのかずに 入。よに う たはれんうたは 計二人 たへ ﹂ う たふを 聞は 。 へ共 。﹂げに思へ 共 なげ け兵具もよもおもふ ま ㈲﹁どうで 女はう にやもちやさんずまい。いらぬ 思 五セ ,か ず 。いつを け ふとて けふ が日まで。心ののびし よ は もな 。 はなちはやらじとなきければ。﹂ ワキク ﹁う たも おほ 太夫地中 めて わ する ちひま はないわいな。それにふりすてゆか ふと く 。思はれ色にくる。しみに﹁どふした事の ゑんじ やや ら 。 は。やりやしませぬ ぞ手にかけて。ころしてお ん せな 中 フジ つきせ ぬ あはれつきる 道 。 落 なので、 フシとあるが改行にしなかった。 の。 %④ フシ はお初のセリフ︵﹁﹂で包んだ部分︶の中の段 かずそひて ヌヱテ 一つはちす ぞや﹂と。つまぐる じゆずの百八に涙の玉 鳥ク 中ク つはさもあれ 此よは Ⅰ。せめてしばしはなかⅠらで、 いも きにあの うた を。ときこそあれこ よ ひしも。﹂﹁ぅ たふ 二人 と はた そや 聞はわれ。﹂﹁すぎにし人もわれ ギン スヱテ (5) ㈲ 二人 急 を 拾ってみよう。 ㈲散らし ㈹Ⅰの終りのところの②には、 五八 フン 森にぞぞ 。 。 フシ 落ちの 序破急を分け フシが附いてないから、近松時代 次に序破急の中を フシで細分したが、それについて問 頭 になる 鮎 だから、決定的な基準は作意にあることは言うまでも ない。 限らないし、 節 づけは﹁作意と文句のはだ ゑ ﹂に 底じ てなされるの る基準とした。しかし、いつもこのように都ムロ よく 分 けられるとは 後のハル フシ は気分を改める性質を持つているから、 ある。﹁出のハル フシはしとやかに﹂と言われる如く に使われたと考えられる。㈲の 破や ㈲の急も語り出し は ハル フシ で められているから、近松時代には フシ がハル フシと同 様に語り出し ︵實暦 十一年︶に取入れられた道行では、同じ箇所が ハ ルフシ に改 曽根崎 模様﹂ り 出すが、改作の﹁お初天神託﹂︵享保十八年︶や﹁ のの序では オキ滞 る り ︵マクラとも言 う ︶から始まっ てフシ で華山 る 道行の場となる。 天満屋の場が三重で終って舞台が替り、お初と徳兵衛 が心中に出 最初に序破急を分けた基準から説明する。 たどり着にける。 心も空に。 か げくらく 風, j (6) ど ﹁お初天神 託 ﹂ かク よ には Ⅰ 2 を 績 けたと考えられそうである。しかし、 ほ 根崎模様﹂には フシの墨譜があるし、㈹ 2の語り出し かクて と同様に出の フシだからその前が切れると思われるし、 コマ と 1トンが附いているなどの理由で切ったが、ここは強 し る を行やて・四@こ我。 な く、演奏者の解程によってはつないで語ることも多いと思わ 九 ろ っ じ 。 中ヲクリ きくぞ有がたき。 , ④﹁お初天神証﹂には 五九 シ ラクリ ﹂ナシ 、八行本で補う。 下 キン、﹁曽根崎模様﹂には 下キ り。③六行木 は ハル。八行本仁よってハル クリ。⑤六行木 は ﹁ フ ヲ フシ とする。 ①詫の墨譜は省略。②﹁曽根崎模様﹂にはチフスとあ 。 花にかさはきず 共 。 め さず 共。てる日の軸 もお とこ あ と たのみ 有 ける じの んれい 道。西園 州 三所にもむかふと。 中ク 十クつ その意味からすれば績 けた方がよいかもしれない。 かや﹂ さヴなク ぶ つ ④には フシの墨譜があるにも拘らず文章を切らなかつたo こ ならないと、解澤したからである。﹁誠に @ ヰ・ ょ 一ハノ つ ⑤フ ンヲクリ こ 舶 。よけて日まけはよもあら ㈹は ぶ 大夫︵お初︶のセリフを フシで二分するだけで・文章 を振り返って厄たたりを歎く前半と﹁軸 ほとけ ているし、實際の演奏では フシ落ちで昔を下げるだけ や﹂と未来を願う後半とに分けていても、この二つの セリフ けずに次へ繍けて語るであろう。そうでなければお初 て 一まとまりには聞きとりにくいから、切れ目のフシで積け 現在なればつなぎの印を附けるところである。 二鮎を除くと、他は全部 フシの切れ目で改行した。以 上 の操 つて、道行に一定の基本的な様式があり、それに従って作者 りを書いていることが認められるであろう。 序は ㈲オキと㈹お初徳兵衛の出とから成る。オキが洲んで、 出から太夫がお初、 ヮキが徳兵衛の掛合となり、 1は鐘 の聲 の ろ っ を は を げ お 三 や ㈲ 難 万 れ れ 目 と ち は 目 フ た 雨 ハO い る は省浅 略す黄 るが、最初は順祀歌で始まり、わが影を追う所作、飛の祈 現在なれば、幕が開く 幕 が と下 、り 舞て 台と 一こ 面ろ に ⑤初 の フ シ ラ出にりな の静る 、蝶。 の舞と﹁通ひ路﹂の舞い地、奇 々を動き廻る振り、とい であ、 っ ㈲て の オ謡 キ済 が むと、・㈲のお の ぅ 具合に、 愛化の多い所作が連縛 しているから、十分人形を楽しま せてくれる。天王寺のところではからくり装置がある模様だし、 金 堂の鐘の聲、 萬燈院 の灯 、一服して 喫ぅ 煙管の煙出し の手妻など、 見た目本位の趣向が多い。人形の見せ場が多い道行である。 これに 封し 心中道行は、上掲の本文を讃むだけでも劇的所作の凝 つた趣向が仕組まれていることに気づくだろう。㈲の ハル フシ で 気 が改まって、向ぅの 二階から鉄所事浄るりが聞えるのが前段であ から成るが フ シ 、 ラ前 ク で 者 リ 出 がるのにに 対は し道 、行 後に 者分ふ る。そうした設定において、㈲の流行歌﹁心中江戸三弄 しの地で、 。思 るかう と 辰 松八郎兵衛と吉田三郎兵衛が遣う 二人舞の人形は、観音廻りには られない劇的情緒を漂わせる。しかも太夫とヮキが掛合で語る、 。見 こて 結 れみ はよ見う 次に、序破嘗 急る の 急、 最 の後 散に らしを 人の悲痛な心理描鳥が敷果的で、艶な振りとともに、愁歎のやる 語 とい議 う きに るのであって、心た 中る 道曽 行根 で崎 は両の し ん し ん 瀬 な立 い思て いをて いや言 が上う にもほ 駆り立てる。掛ムロ で盛り土がつた気分が ど、 の別 こに と取 はり な 森にたどり着くというだけで は 結びを附け い 。観音廻りで州 も ば同 ん様 ﹂で の フ、 以 ハ シ﹁ 下 ル ㈹のお初のクドキで最高煩に達する。このようにして破の中段後段 の舞い地とクドキが心中道行の聞きどころとなっているのである。 ているに過ぎないと言える。 二ら 段ば に、 凝道 ら行 序が導入、急が結語とするな 一 舞歌の を本慣 理と値 するは ふし破 事にの おいて、観音廻りは舞に見せ揚が多く に 特急 色て が見ら された趣向 の何 出に 来よ 集る、 え 如 の序 でや あ っ 心中道行は歌に聞かせどころが仕組まれて、開眼と開聞を備えた構 の確は かさ言 を示しているが、このことは コ曽根崎﹂を講む上に重要 ま破 でな もい れると言うても、やはう り に 及。 ばぬこ成と な意て 味を破 持つの もの構 と思成 う。を説 す文 るを こ掲 とげ 観音廻りから見てみよう。呪 全 以上、道行が序破急の構成で成立つことを説明したが、文章を理 解する場合に 、節 づけによって作意が一層適確に把握 できるところ に墨譜の利用慣 値が認められる。このようにして構成 に 注意するこ とが 浄る りを 謂む上に必要なことは、次のことからも 壬宇んる。 四 、﹁唐崎八景屏風﹂と﹁曽根崎心中﹂ 元禄十六年に京都の甲雲座 で上演した歌舞伎狂言目 再崎 に ﹁からきき心中道行﹂の歌があるが、その外に元禄十セ 年刊﹁ 落 葉集﹂に﹁辛崎心中﹂という歌が載っている。これら が ﹁曽根崎﹂ 問題となり、 て、浄 るりと 柄万の心中道行を検討して種々の提 @ の心中道行とほとんど同文であるためにその先後が ﹁曽根崎﹂と﹁からさき﹂と が 行われているが、ここでは、﹁落葉集目の歌は除外し 歌舞伎とを比較してみたい。 狂言本の中から八景の小歌を歌いそうな箇所を拾 うと ﹁あはれ・果敢なや清兵衛お 浅は 、 身を投げ心中せんと、 最後の 道の 、近江八景も見え分かず、衣裳脱いで帯と帯 とを 一緒に括り、 湖へ 飛入り流れ給ふ﹂ところ以外には見嘗 らない。 こ 實質は 幸き 蔦 小小歌で歌う心中道 待 と同質の ク 八景の小歌は近江八景を廻る道行形式を取っているが、 身の果てを歎く絶叫であって、 万 めどちら ドキ に過ぎない。清兵衛 お浅の心中道行に道行的な要 素 が少ないの もが クドキと 道行の形式を備えていて、同じ鳥山節で妾 ないが、﹁ 曽 ﹁曽根崎口 根崎 ﹂の観音廻りと心中道行との間に構成上のバラン スが考えられ ているのと比較する時、遥かに見劣りがするであろう の心中道行が道行ならぎる道行となったのは、潮音廻 りを辰松の藝 のために 令膿め バランスが壊されることはなかつたが、 見せに仕組むという興行事情の雛寄せから生じたもの であった。 そ 中道行を補っているよ う に、﹁唐崎八景雄風﹂でも﹁ 八景﹂にはそうした構成上の配慮が認められなⅠよう に恩 ぅ。 む ﹁曽根崎心中﹂の観音廻りが道行形式に書かれて徳兵衛 道行﹂の外に、近江八景を織込んだ﹁八景の小歌﹂と 乗ろ う とした よかろう。心中道行の先後を問題にするなら、構成の上から観音 廻 らさき﹂と﹁曽根崎﹂のどちらか一万が他方な 真似た ひずみが生じたのであろう。 に無理があって、道行形式の八景の小歌を クドキ で 重 出するような 興行政策から、 浄る りの心中道行を眞似たと考えられ る 。そのため ﹁唐崎牡風 いていて、﹁曽根崎 口そのままの形式に仕組まれている りと八景の小歌とを比較することもまた必要だと思う 、一ノ いずれにしても両者ともに興行事情が作品に大きな影響を典 えて 、-一 あったことが判る。﹁曽根崎山甲 L の観音廻りはこれ と 同じ ② 辰松八郎兵衛 か芝居契約のお目見得に 藝 見せをした 例 として 構想によっているのである。 はできない。 浄る りを 誼む難しさがそんなところに 隠 されているの ゴ和歌三神影向 松 L かある。 司 曽根崎口の翌々年のこと であ っ い九片ロ叩の 償評 いることは明らかであって、そのことに注意しなけれけ である。それには文句を正しく理解して節 づけに気を つけ、構成や た。詳しくは拙稿﹁止揚 道 ﹂第六 號 ﹁曽根崎心中と 辰 松の手 せ のまへのり物にめ のは、いずれも﹁ 規明 ﹂と訂正。 道 八文字屋 八 左衛門の版。 難波 規明太夫の正本に﹁ 亜鏑 大坂 順穫 ﹂がある。九 万吉日、京都 笏 室町 % 一年二 の 六七頁、六九頁に﹁難波観明大夫﹂﹁観明 新太夫﹂ とある ﹁山漫 追口第九 號 ﹁元禄期 における大分損の 市 芝居につ いて﹂ 訂正 要人形﹂参照。 作意を知ることが大切だと思う 。 ハ@ 洋 し口 ①﹁島田教授古稀記念闘文論集﹂前掲の拙稿﹁曽根 崎 心中の歌 舞伎的 基盤﹂。ただし引用文に誤植かあるので、念の ために は っせの前の出端の部分を再揖 する。 元禄十五年京都東屋盛二の替り﹁傾城在原寺ヒ狂言本の 冒頭 序開きに次の如くある。 @ じゃん梢可よもすがら月をみか らと わけ 行は ・ うち のⅢ せこ たつ はしらなみ・姫はつ 皆おひ づるをかけ 玉ひ ・供人引 し ・さく ら め つぼ ねこしもとあまた・ し 西園 順禧 なされつし 都ぢへ 入玉 ふ この序開きが終って、京都の在原屋敷の場になる。 こ % を コ 役者二挺三味線 口 に次の如く記している。 ︵高尾林 之助︶此度ははつ せ のま へとなられ・ 序 びら き では 順 祀の出端・もつたい 有 てお 姫 らしし・よく見なら へ 右の記事によって序開きに高尾 林 之助の扮する 順膿め 出端が
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