はじめに - 立教大学

はじめに
Foreword
この小文を書いている 2016 年春の時点で、アメリカ研究者にもっ
ぱら共通の話題といえばやはり米大統領予備選だろう。
昨年のいまごろ、いや半年前でさえ予想できなかったほどの番狂
わせ状態に加えて、泥仕合というもおろかな罵詈雑言の乱戦になっ
てしまったおかげで、ふだんならアメリカニストしか興味を持たな
い予備選の話題が新聞から TV のバラエティ番組にまで登場するあり
さまである。
そういう場でよく聞く解説のひとつが「現代のアメリカ政治では
反エスタブリッシュメントがひとつの傾向で……」というものだが、
考えてみると「反エスタブリッシュメント」は何もいまに始まった
話ではない。
ここでいう「エスタブリッシュメント」は少し前なら「インサイ
ワ シ ン ト ン
ダー」と呼ばれていたのと同じで、つまりは「中 央政界の人間」の
こと。なにしろヴェトナム戦争終結後の 1976 年から今年までの 40 年
間、連邦議会や連邦政府から直接ホワイトハウス入りしたのはわずか
ふたりで、あとの 4 人は民主党・共和党を問わず全員が州知事から
である。おまけに「例外」のひとりである現職のオバマ氏は、上院
議員一期目の途中で出馬し、
「ワシントンの空気に染まってない」こ
とを評価されて大統領に上り詰めた人物だ。そんな事実を見ても「反
ワシントン」は昨日今日の話ではなく、
「ワシントン=エスタブリッ
シュメント」に対する一般有権者の反感は、もうとっくにアメリカ
政治の主要な一部になっているということになるだろう。
とはいえ、果たして現今の様相はこれまでと同じ「反エスタブリッ
シュメント」の流れにあるのだろうか。
アメリカのある政治アナリストによれば、ドナルド・トランプの独
自性はアメリカの選挙風土に「学歴」という新たな指標を持ち込ん
だことだという。過去十数年の主要な指標がイデオロギーと宗教だっ
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立教アメリカン・スタディーズ
たのに対して、今回の予備選挙では従来型の「草の根保守」とは明
らかに主張を異にするトランプが非大卒者からの圧倒的な支持を得
ており、地域差をも越える傾向を明らかにしたからである。
但し、一部のアナリストやトランプ陣営が主張するように、彼が
共和党に新しいタイプの有権者を招き入れ、
「共和党を拡大した」の
かといえば疑わしい。今回の共和党予備選の経緯を見ると共和党の
有権者像は実は 2012 年当時とほとんど変わらず、トランプが無党派
層や民主党支持者にまで党勢を拡大したという見方は当たらない。
むしろトランプは、先にパット・ブキャナンやリック・サントラム
がやろうとしてできなかった共和党内の労働者層を結集させるとい
う目論見に成功し、それによって、これまで主流派だったホワイト
カラー層を分断して既存の党内勢力図の再編成を果たしたのだとい
うのである。
こうした選挙の分析については今後、専門家の分析が山と積まれる
だろうから軽率なことは口にしないほうがよさそうだが、1980 年代
から一貫して進んできた政治の保守化傾向が分流し、部分的には逆
プログレッシヴ
流さえして従来の「保守」対「 革 新 」という対立図式の壁を押し流
しつつあるのは確かなのだろう。その意味で今回の「トランプ現象」
は、ひとりの叩き上げの成功者のカリズマによる例外的な混乱とい
うより、政治の伏流がついに地殻を突き破ってほとばしり出た結果
なのではないだろうか。
2016 年 3 月
立教大学アメリカ研究所所長
生井英考