マッチロック株式会社代表取締役 藤本文彦

マッチロック株式会社代表取締役
藤本文彦
 ゲーム業界やエンタメ業界で広く利用される、
日本初の3Dエフェクトツール&ミドルウェア
BISHAMON
 日本のゲーム業界において、蓄積や標準化が
特に難しいグラフィック技術である、BIS
HAMONを、どうやってここまで育ててこ
れたのかというお話を自伝的にお話しします
 単純にBISHAMON自体の情報に興味を
持たれていた方はホントすみません。次の機
会に・・・
 2002年4月P社に入社
新人プログラマ対象に歓迎昼食会にて
新人それぞれの抱負を発言する
 何かデカい事を言おうと思った私は・・・
藤「僕は業界に残る技術を
作り上げます!」
( ̄ー+ ̄)ドヤ
 とドヤ顔した
 だが・・・
N君「僕はゲームプログラマーの
神になります!」
藤「Σ(゚д゚lll)・・・!」
 あっけなく志のデカさで負けてしまう
 この志の通りに今でも動いているのを気付い
たのは、ものすごく後になって振り返ってか
らのこと
 N君は初っ端からメインプログラマーを任さ
れた
 力の差を埋める為、自分も早く大きな仕事を
任される為、連日泊まりで仕事をした
 泊まりで外食が増えるとともに、技術書を買
いまくるために、食費は削られ、水道水を美
味しく飲む方法を探究した
 最終レシピ

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水
砂糖
食酢
鼻栓
 アトリビュートエディターは、mapのXZ
平面ににイベントを配置するツール


マップをマス目に区切り、そのマスに歩いた時に
発生するエフェクトの情報を属性を設定
イベントの発生する範囲を可変の四角と円で設定
 ツールを使うプランナーさんは、優秀な方で、
要望をどんどん上げて来た
 もうこれ以上いいよと言われるまで寝る間も
惜しんで改善した
 ドローイングツール並の機能を持ったオー
バースペックなものに仕上がった
 ツール開発能力を認められ、少し大きい仕事
を振られる
 流行りのインゲームツールとしてのイベント
エディタ作成
 複数のアセットを配置できるツール

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
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
アニメーション
ライティング
カメラ
字幕
エフェクト★エフェクトツール
 分からないことだらけだったので
メインプログラマーの上司にあまりに
教えて君してしまったため
上司「俺はお前のデバッガじゃねぇ!!」
(#゚Д゚)ゴルァ!!
となる事もあった
 エフェクトツールとの出会い
 ツールはDelphiで開発支援室が、ランタイム
プログラムはプロジェクトが作ると言う体制
で作られた
 Delphiは今の.NETみたいなもの(設計したエ
ンジニアも一緒)
 エフェクトツールのノウハウは外部での経験
のあるデザイナーから持ち込まれた
 複数の大規模プロジェクトで使われるエディ
タのため、会社の各フロアを走り回った
 デザイナーさんの要望は留まるところを知ら
なかった
 リアルタイムで処理が追いつかないところは
レンダリングできるようにしていたが、トラ
ブルに備えて、必ず付き添う必要が有った
 技術が枯れていない事がどういう事かを知っ
た
 エフェクトの再生が終わらないと言うバグが
出た。担当プログラマがいなくなった後で。
 C言語でデザインパターンを実装していて、
非常にプログラムを追いづらかった
 当時、一部パチンコ開発環境では、C++が
使えなかった
 エフェクトのプログラムが煩雑だった事も
有ったが何より経験が無かった
 ギブアップもしてみたが、絶対取って(バグ
を)ということで返された
 メインプログラマ―がプロジェクトから外れ
たあとも自分だけが残った
 韓国語版は自分が提出する事となった
 イベントはすべてのグラフィックを扱ってい
たので、ゲームの殆どの部分は把握できてい
た
 実力を持った先輩の多くが卒業していった
 同期のプログラマーのうち出来るプログラ
マーたちも辞めて行った
 人の動きが激しい業界だと知った
 自分はやりたい事があったので残った・・・
 というのは強がりで
「ただし藤本、てめーはダメだ」
という理由かどうかはわからないが、
声がかからなかったヽ(゚`Д´゚)ノ
 アーケードガンシューティングゲーム
 元システム系の先輩プログラマのOさんから
C++の作法を色々教わった
 担当したのはボスキャラ2体、NPCや雑魚
キャラなど
 ちなみに、このプロジェクトでもエフェクト
ツールは利用された
 無断でスクリプトをリロード可能な大がかり
なシステムなどを作ってみた
 プライベートが立て込み、空気も読まず定時
で帰ったりした
 後から知るが、この時期会社からの評価は最
低だった
 SoftImageのプラグイン開発の仕事をすること
になる
 コンテキストという共有メモリ空間を通して
SIとデータのやり取りを行う
 これを期にだんだん現場仕事から遠のきはじ
める
本格的なマルチプラットフォームグラフィックミ
ドルウェアALCHEMYの導入検証仕事が来た
 色々なカルチャーショックが有った
 Lua等の組み込み用スクリプト言語やシーングラ
フ等、自分の足りない知識が分かった
 抽象化を突き詰めた形を知った
 1ヶ月余りの間にそれらの検証を行い、ドキュメ
ントを1ヶ月でまとめた。死ぬかと思った。担当
プロデューサーが鬼だった。
 メインプログラマ―になる為に必要なスキルを自
分なりにリストアップして、埋めていくことにし
た

 連番画像を手で加工する仕事が回って来た
 もしかして左遷?とそろそろ勘ぐった
 色々と反省した




アナーキーだったのではないか
ひとりよがりだったのではないか
まず目の前の仕事の結果を出す事に全力で打ち込
む必要があったのでは
などなど・・・
 開発支援室が主導になってのプロジェクトが
スタートし、そこからメインプログラマーと
してお声がかかった。
 左遷されたくらいの思いだったので、本気で
嬉しかったし、この上司に全力で尽くそうと
思った。
 使えるものは何でも使った。Lua、社内ライ
ブラリ、エフェクトツール。データドリブン
を目指した。
 後で知ったが、ミドルウェア検証を依頼した
あの鬼プロデューサーが高い評価をしてくれ
ていたとの事だった
 サビ残を含め、月400時間の労働となり、
プロジェクトがタコ部屋と呼ばれたが、楽し
かった
 アジャイルなどを積極的に取り入れた
 ただし、フレームワークをパケットベースの
システムにしようと、ちょっとシステム厨に
陥っていた。今ならPS3と相性よさそう。
 タイトルはβまでで終わってしまったが、初
めて上司との信頼関係が生まれた気がした
 Wiiの準ローンチタイトルの開発のてこ入れに、
サブメインプログラマーとして加入する事に
 プロジェクト環境にエフェクトミドルウェア
(BISHAMONの前身)を組み込む役割
も負った
 前のフレームワークの整理は後回しになった
 社内のメインチームに入れてもらえてものす
ごく張り切った
 しかもWiiのローンチタイトル
 アルファ版を前にディレクターが倒れた
 このタイトルにかける入れ込み具合を見て、
プロデューサーがディレクターを引き継ぐよ
うに打診してくれた
 プログラム作業が疎かになることからプログ
ラマーサイドは大反対で四面楚歌となった
 デザイナーサイドも当初は反対が多かった
 アルファ版を前にディレクターが倒れた
 このタイトルにかける入れ込み方からディレ
クターをやる事になった
 ディレクターは名乗り切れず、自分を中心と
した合議制でいこうとしたが、仕様の決定力
に欠けてまずい方向になりつつあった
 やはり、強引にディレクターを名乗ることに
した
 決定を下した事に対しては、みなプロフェッ
ショナルで、主体的かつ協力的に動いてくれ
た
 ディレクターというのが、今まで思っていた
ような甘い仕事ではない事を痛感した
 当然、メインプログラマーの負担が大きく
なって、メインプログラマーまで倒れてし
まった
 プログラマー負荷を減らす為、エフェクトを
最大限利用した
 パブリッシャー側にも、エフェクトでなら要
望に応えやすいという旨を理解してもらった
 キャラクター38キャラ(それぞれに変身す
る)
 という過酷な環境の中、エフェクト総数は
700に膨れ上がった
 最終的に黒字で終わる事ができ、その時期の
会社を支えることができた
 だが犠牲は多かった
 自分も加害者の1人だった
 もう一度ゲーム開発をスタートからやりたい
と思ったが、映像/技術支援支援部に戻ってく
るように
 ツールやライブラリ、開発環境、開発の仕方
の全社での標準化がミッションだった
 前プロジェクトで肩書の重要性を身にしみて
感じたので、給与は上がらなくていいので、
結果を出す為に副部長クラスの肩書きが欲し
いと話をした。考えさせてほしいと言われた
 結果的には、前回のプロジェクトの成功も
影響してか、上司が執行役員に出世した
 自分は部長代理となった
 最初に映像技術支援部から、支援部と名前
を変えた。名前で責任と権限は変わってく
ると確信があった。意図したとおり部の裁
量は大きくなった。(責任も大きくなっ
た)
 当然収入源である開発ラインが人員アサイン
で優先され、部員がどんどんレンタルされて
いき、ミッションは思うように進まなかった
 売上をコミットしなきゃだめだ!と思った
 蓄積した技術を社内で使ってもらうのは大変
だった。みんな自分で作りたかった。枯れた
技術ではないので、突っ込みどころも一杯
あった。
 支援事業として、上司のアドバイスもあり、
まずは利用実績の多いエフェクトツールの販
売を開始する事に踏み切った
 ツールの客観的な負荷価値としての外部から
の評価と部員のアサインを守る売上げ目標の
両方が必要だった
 前回プロジェクトの功績から、会社はチャレ
ンジを許してくれた
 売り始めると、エフェクトツールを内製で
持っている大きな会社ほど積極的にに導入し
てくれて、業界内にツールの成長を応援する
多くのファンができた
 会社の組織変更を機会に、独立する事となっ
たが、面白い技術だと出資してくれるところ
も出てきて、チームと技術を存続出来た
 そして今に至る

前任者からのバトンを受け取る!
ゼロから作るのはダメ
 自分の子以外を殺すのは野生動物のすること


上司は絶対!
上司を出世させないと技術は守られない
 半端にアンチでいる位なら組織を離れた方がいい
 反体制派でいても始まらない。ど真ん中にいること。


とにかく売り始める!
技術は売って客観的な評価を得られる道を作らないと
守れない
 他人の技術は基本使いたくないもの。グラフィック技
術となると余計に自分で作りたい。

 あと、
石の上にも3年
これです
 ありがとうございました