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大 田市埋蔵文化財調査報告
1
6
石 見銀 山遺 跡 発掘調 査概 要 6
1 9 9 3 .3
島根 県 大 田市 教 育 委 員 会
序
島根県のはば中央、大 田市大森町には戦国時代か ら江戸時代 を通 じて開発 された石
見銀山追跡があ ります。石見銀 山は戦国時代 には戦国大名 の尼子氏や毛利氏 によって
争奪戦 がお こなわれ、江戸時代 にはいると幕府 の直轄領、天領 として支配 され、盛ん
に銀 が掘 り出されま した。 また石見銀山か ら多量に産出された銀は、戦国時代 にはヨー
ロ ッパ人たちによ ってア ジアや ヨーロッパ に もた らされ、世界経済 に も影響 を与 えた
といわれて います。石見銀山に関連す る文化財 として、史跡 や建造物、美術工芸品な
ど様 々な ものが大森町にの こされています。大 田市教育委員会ではこれ らの貴重 な文
化遺産 を未来 に伝 え るために、史跡 の整備 ・町並み保存事業 などに取 り組んでお りま
す。追跡の発掘調査 も将来 の整備事業等 に備 え るために継続 して実施 して いますが、
これまで未解明であ った銀生産 の遺跡 も発見 され、石見銀山の新 しい歴史が浮 き彫 り
にされつつあ ります。
平成 4年度 の発掘調査 は国指定史跡である山吹城跡の下屋敷地区でお こない、製錬
所 である吹屋 の一部 が発見 され、新 しい資料 を提供す ることとな りま した。
本報告書 が今後 の石見銀山史の解明や関連す る整備事業 に広 く活用 され ることを祈
念す るとともに、今回の調査でお世話 にな った地元大森町を は じめ、関係各位 に改め
て感謝 いた します。
平成 5年 3月
島根県大 田市教育委員会
教育長
大 久 保
昭 夫
呂
例
1.本書 は平成 4年度の国庫補助事業 として島根県大田市教育委員会が実施 した、石見
銀山遺跡発掘調査の報告書である。
2.調査体制 は下記のとおりである。
島根県大田市教育委員会 教 育 長
文化振興室
大久保昭夫
渡
吉正
清水新二郎
林
泰州
遠藤 浩巳 (
担当者)
井野
裕子
斉藤
住江
小谷留理子
調査指導
田中 圭一 (
筑波大学歴史人類学系教授)
萩原
三雄 (
帝京大学山梨文化財研究所研究部長)
葉賀七三男 (
資源素材学会理事)
小菅 徹也 (
新潟県立佐渡高等学校教諭)
村上
勇 (
広島県立美術館主任学芸員)
松村 恵司 (
文化庁記念物課文化財調査官)
熱田 貴保 (
島根県教育委員会文化課主事)
3.収録 した地図 ・実測図は大田市教育委員会が作成 したものを主 とし、一部 について
は関係機関作成のものを利用 した。
4.出土遺物及び作製 した図面 ・写真 は大田市教育委員会で保管 している0
5.実測図等に示 した方位はいずれ も磁北である。
6.本書の執筆 ・編集 は上記の遠藤がこれをお こない、関係各位の協力を得た。また
山吹城跡の縄張については、山陰城郭研究会々員寺井毅氏よりご寄稿 いただいた。
記 して謝意を表す次第である。
目
次
・ 経 過
1
Ⅱ 石 見 銀 山 遺 跡 の 概 要
4
Ⅲ 調
要
9
結
2
0
Ⅰ 調 査 の 概 要
査
の
概
Ⅳ 小
付
石 見 銀 山遺 跡 山 吹城 の縄 張 につ いて -・ ・
------・ 2
4
-
挿
図 ・表 目 次
図 1 石見銀山遺跡位置図 (
1
/2
5
,
0
0
0
)
図 2 山吹城跡下屋敷地区現況および トレンチ設定図 (1
/9
0
0
) -・
- 3
図 3 山吹城字限図 (国史跡指定地 、1
/6
,
0
0
0
) ‥ ----------
1
0
図 4 第 1トレンチ東壁土層実測図 (1
/6
0
) -・ -----・
・
---・
-
l
l
図 5 第 2トレンチ遺構 ・土層実測図 (
1
/6
0
) -・ ・
-・
・
- -----
1
2
図 6 第 2トレンチ出土陶磁器実測図 (
1
/3
)・
-・
--------・
--
1
3
-
-
-
図 7 第 3トレンチ遺構 ・土層実測図 (
1
/6
0
)
図 8 第 3トレンチ出土陶磁器実測図 (
1
/3
)
図 9 第 4 トレンチ北壁土層実測図 (1
/6
0
)図1
0 第 5トレンチ遺構 ・土層実測図 (1
/6
0
)
図1
1 第 5トレンチ吹床跡 ・土壌実測図 (
1
/3
0
)
図1
2 第 5トレンチ出土遺物実測図 (1
/3
)
図1
3 第 5トレンチ金属製品実測図 (1
/3
)
図1
4 第 6トレンチ北壁土層実測図 (1
/6
0
)表 1 石見銀山遺跡の調査の概要
表 2 山吹城 の地名一覧表
-
Ⅰ 調査 の概要 ・経過
石見銀山遺跡 は昭和4
4年 に山吹城跡や坑道跡 7ヶ所などの計 1
4ヶ所が史跡指定を受 けて
以来、代官所跡 と坑道跡である間歩を中心 に整備や活用が進め られて きた。昭和5
8年か ら
は島根県教育委員会による石見銀山追跡総合整備計画策定事業が 4年計画で開始 され、追
跡整備の基本構想、基本計画の策定をめざ し調査 と検討がお こなわれた。
埋蔵文化財 としての石見銀山追跡 は、 これまでに指定 された山吹城跡や間歩につ いては
おおまかな様相や写真などによる整備がなされてきたが、近年歴史考古学の分野で中 ・近
世遺跡の調査 ・整備の事例が各地で増えるとともに、全国的にも稀少な鉱山追跡 というこ
とで石見銀山遺跡の保護 と活用が再認識 されるようになった。大田市教育委員会 は遺跡の
保護 と活用のために主要箇所での発掘調査を昭和5
8年度、昭和63
年度以降実施 してお り今
年度で 6年 目を迎えることになった一
。 これは一方で関連整備事業や開発事業の事前調査が
ここ数年増加す る傾向にあることにもよる。
平成 4年度 は、国指定史跡山吹城跡地内の下屋敷地区内で計 6ヶ所の トレンチを設定 し、
遺構の迫存状況の確認を主眼 とし調査をお こなった。山吹城跡 ・下屋敷地区は戦国時代 に
おかれた 「
休役所」 と 「焔硝蔵」の巨大な石垣が存在 し、地名 として 「下屋敷
」「千束」
「大満寺」などがあ り戦国時代の城下町を予想 させ るところである。 また江戸時代 にはい
ると 「
休役所」 は初代奉行大久保長安 によ り引 き続 き奉行所 として使われたが、大久保長
安 の支配 によりこの辺 り一体 は大規模 な改変 ・整備がお こなわれたと考え られ る場所で も
ある。 このような歴史的背景を もつ地域であることや、昭和 1
8年の大水害 によ りこの下屋
敷地区一帯 は大規模 な土石流が発生 したといわれ、土石流堆積の下層の迫構の迫存状況の
確認をす ることが以前か ら必要 とされていた。
調査 は平成 5年 1月か ら3月 までの うち約 1ケ月半を要 し、計 6ヶ所の トレンチ調査を
実施 した。調査の結果、それぞれの トレンチで遺構や遺物 について興味深い資料が得 られ、
今後の この地区の調査や、整備事業の導入の際には有効な成果 といえ るものであった。
最後になるが、今回の調査を通 じて地元大森町をは じめ多 くの方々か らご指導、 ご協力
をいただいた。改めて謝意を表 したい。
- 1-
図 1 石見銀山遺跡位置図 (
1
/2
5,
0
0
0)
- 2-
(
0
0
6
\ T)B扁 額 ≠ヽ上 土.n f・q蓮 群凶君凝鵬i益貨客∃
B]
Z
3
Ⅱ 石見銀 山遺跡 の概要
1. 石見銀 山史 につ いて
石見銀山は鎌倉時代末期の延慶 2年 (1
309) に発見 され、本格的な開発 は大永 6年 (1
5
26) に博多の商人神屋寿貞 と出雲鷺浦の銅山師三島清右衛門が入山、天文 2年 (1
5
33)寿
点が博多か ら慶寿 と宗丹を連れて来て 「
灰吹法」 と呼ばれる銀精錬法を現地に導入、それ
以降産銀料 は著 しく増大 したと 『
銀山旧記』 は伝えている。灰吹法 は石見か ら各地の鉱山
に伝え られたことで日本 は世界の中で も有数の産銀国 となり、またこれまでの銀の輸入国
か ら輸出国へ転換するという対外貿易史上の画期を もたらした新 しい技術であった。当時
環 日本海域でおこなわれていた日朝貿易 ・日明貿易において日本か ら半島 ・大陸へは主に
銀が輸出され、生糸 ・絹織物 ・鉛が輸入 された。東南 アジアの香辛料を求めたポル トガル
はこの貿易に目をっけ、中国の生糸 ・絹織物などを搭載 して日本に来航 し、銀を手に入れ
東南 アジアの香辛料を持 ち帰 る中継貿易をおこなった。日本で産出された銀 は東南アジア
の国々に流れ、政治 ・経済に大 きな影響を与えたわけだが、 この時の銀の大部分が石見銀
山産であったと推測されている。
石見銀山は戦国期に至 り大内 ・小笠原 ・尼子 ・毛利などの戟国大名によって山吹城を拠
点に した争奪戟が繰 り広げ られる。周防の大内氏が最初に銀山を治め、たくさんの掘 り子
大工を連れて入山 し採掘を始めたといわれる。その後享禄 4年 (1
531
)に邑智郡川本温湯
城主小笠原氏が掌握 、 3年後には再び大内氏が奪 い返 し、その後出雲の尼子氏 ・安芸の毛
利氏が争奪戦 に加わり永禄 5年 (1
562) に毛利氏が完全掌握す るまで35
年余 り続いていく。
天正 1
5
年 (1
5
85) に、石見銀山は中央で天下統一をすすめる豊臣秀吉 と毛利氏の共同管理
に移行 し、秀吉 は文禄 2年 (1
5
93) の朝鮮出兵時には、多量の石見銀で文禄丁銀を造 り戟
費に充てたといわれる。
慶長 5年 (1
6
00)関ケ原の戦 いで徳川方が勝利をおさめると、家康 は石見銀山に上使を
派遷 して翌 6年か ら大久保長安を銀山の管理奉行 とし、周辺の 1
4
4ケ村、約 4万 8千石を
石見銀山御料 として直轄料 とした。初代奉行の大久保長安 は鉱山経営に新 しい技術を導入
す るとともに、御科内の検地などを実施 した。 この頃備中国か ら来ていた安原伝兵衛 とい
m0
貫を家康に運上 し、
う山師が釜屋間歩の鉱脈を発見 し、おびただ しい銀を採掘 し貢銀 3,
辻 ケ花染丁字文胴服一領 と扇-柄を拝領 している。
石見銀山の最盛期 は戦国時代末か ら江戸時代の初期 といわれ、『
銀山旧記』 には 「慶長
- 4-
の頃より寛永年中大盛、士稼の人数二十万人、一 日米穀を費やす こと千五百石余」 とか
「
家数式万六千軒余、寺百ケ寺程 も有之」 と記 されている。全体に誇張 されているが人 口
4万人前後 はあり、産銀量 も年間8,
0
0
0
貫か ら1
0,
0
0
0
貫 はあ った と推定 されている。 これ
以後、坑道が深 くなり湧水処理 に経費がかかるようになると産銀量 は著 しく減少 し、延宝
年間 (
1
6
7
3
-1
6
8
0
)に入 ると奉行 も代官に代わ り、産銀量年間約4
0
0貫 に減 り、幕末 の安
1
8
5
9
)には3
0
貫 となった。
政 6年 (
江戸時代2
6
5
年間には奉行 ・代官 ・預 りが5
9
人 も入れ替わ り、石見銀山御料約 1
5
0ケ村 4
万 8千石の統治 と銀山の管理を行 った。その中で も初代奉行大久保長安と享保1
7
年 (
1
7
3
2
)
の飢鐘を救 った1
9
代 目の井戸平左衛門は有名である。慶応 2年 (
1
8
6
6
)に戊辰戦争が起 き
長州軍 は石見へ進撃 し、益田の七尾城、浜田城を落 として銀山御科内-侵入、代官鍋田三
郎右衛門は備後国の上下の陣屋に逃亡 した。 これより長州藩が旧銀山御料の管理 と統治の
任にあたった。明治政府が誕生す ると、明治 2年 8月か ら的半年間大森県が置かれ、翌 3
年か ら浜田県 と改め られ、同 9年には隠岐 ・松江 ・浜田を合わせて現在の島根県がつ くら
れた。幕末か ら明治期の産銀量 は慶応 2年 (
1
8
6
6)には年産2
0
貫 まで減 り、明治期 になり
大森の有志が一鉱区を掘 ったが思わ しくなく、明治 5年の浜田沖地震では銀坑道のほとん
どが崩壊 した。明治2
0
年になって大阪の藤田組の経営 となり、その後同和工業 (
秩)に受
け継がれ、明治2
5
年∼2
9
年頃までは、一時的に産銀量が年平均5
40
貫 と増加 した。大正 6
年の銀山 (
仁摩町の永久坑)の従業員は約7
0
0
人いたが、坑道の地下水 が多量 に湧 き出 る
ため採算が合わず、大正 1
2
年 3月に閉山されることになった。
2.石見銀 山 に関連 す る遺跡 につ いて
石見銀山遺跡 は大田市大森町を中心に周辺の仁摩町 ・温泉津町 ・邑智町などを含めた広
0
0ヶ所の遺跡が存在す る。
範囲に遺跡が分布 し、その中心 となる大森町では約 1
(
1
) 城館遺跡
戦国時代石見銀山を巡 る争奪の拠点 となった山吹城跡 とその周辺に城館遺跡がある。険
阻な要害山に築かれた山吹城跡 は頂上部に階段状に郭を配 し、主郭の南には大規模な空堀、
9
本の竪堀、北側の郭 には一部石垣が見 られる。山麓の大手には 「
下屋敷」
南斜面 には計 1
「
御文庫」などの地名が残 り、長大な石垣が見 られる。 この大手には武家屋敷 、大手 の南
には 「
魚店」「
京店」「上市場」などの地名が残 り、城下町が形成 されていたと考え られて
- 5-
いる。他の城郭 としては、仙 ノ山城郭群 ・矢滝城などがある。
(
2
) 銀山支配関連遺跡
銀山支配の追跡 として代官所跡 ・番所跡などがある。代官所跡 は南北に細長 い谷間に形
成 された大森の町並みの北側に位置 し、表門 と門長屋が現存 している。代官所の東側には
中間長屋跡 ・向陣屋跡 ・御銀蔵跡 ・馬場跡などがあり、代官所周辺には行政関係の機関 ・
役宅が置かれていた。銀山はその周囲に柵列を巡 らし 「山内」 として閉鎖 され、独立 した
社会を形成 していた。九つの番所が入口に置かれ、人や物資の出入 りが管理 されていた。
追跡 としては蔵泉寺 口番所跡 ・坂根 口番所跡が知 られる。また、個々の坑道の入口には四
ツ留役所が置かれていた。
(
3
) 銀生産遺跡
坑道跡 ・吹屋 (
精練所)跡 ・集落跡などがある。史跡指定 された問歩 としては大久保間
歩 ・龍源寺間歩など 7坑道があるが、文政 6年 (1
823)の問歩改めでは休止坑を含め 279
坑を数えている。問歩のほかに縦坑や露天掘 り跡 も多 く見 られる。銀精練をおこなった吹
足跡 として栃畑谷吹屋跡 ・山神奥吹屋跡がある。鉱山集落の大規模なものとして石銀集落
跡 ・栃畑谷集落跡がある。
(
4
) 信仰遺跡
現在知 られている信仰遺跡 としては墓地 ・供養塔などの石造物 と寺院跡 ・神社がある。
石造物のうち宝箇印塔 ・無縫塔などの墓地 は戦国期か ら近世までの ものが多数残 されてい
る。寺院跡 はこれまでの調査で3
3ヶ所の寺跡が確認 されている。神社 としては式内社の城
上神社、毛利元就を肥 る豊栄神社、銀山の守護神 としての佐毘売山神社などがある。
(
5
) その他の遺跡
大森の町並みのなかには町年寄迫宅 ・郷宿退宅 ・地役人遺宅 ・同心退宅などの建物跡が
2
年 (1
800) の大火以前の町並みの迫横 について も
残 る。また、町の大半が消失 した寛政 1
逝存 している可能性がある。
- 6-
3.石 見 銀 山遺 跡 の 調 査 の 概 要
昭和 5
9
年度 か ら実施 して いる石見銀 山追跡発掘調査 は、 遺 構 の遺 存状況 を確 認 し保 存
整備 の資料 を得 ることを主眼 と した調査 であ り、調査面積 が限 られたため遺構 の全体 が検
出 され、その内容 や性格 につ いて十分 に明 らか にされた もの は少 ない。 しか し部分的なが
ら迫横 が良好 な状態 で検 出 され、更 に出土遺物 につ いて も戦 国時代か ら近世 ・近代 の もの
も含 め陶磁器 を中心 に多量 に出土 してお り、 その内容 も日常 雑 器 か ら精錬 に使 用 され た
「るつぼ」 など鉱 山遺跡特有 な もの もみ られ る。 これまでの調査 の概 要 を以 下一 覧表 に ま
とめてみたい。
調査年度
追跡名 .調査地
調査の概要 (
遺構 .遺物)
問作成の代官所絵図によれば調査地 は米蔵 .籾蔵 にあたるo
昭和5
9
年
所 跡
砂日横の唐津皿あり○
切石の右列、自然石の右列、肥前陶磁、地元産陶器-天保年
蔵泉寺 口番所跡
整地面、瓦、陶磁器、鉄砲玉、曲物-造物 は各層か ら出土 、
地
陶磁器の年代は1
6
-1
7Cが中心o
代 官
区
キセル-江戸期の四ツ留役所、明治期の藤田組事務所の関連
昭和 6
3
年
龍 源 寺 問 歩
四 ツ留 役 所
o(
施設
Ⅱ区)右列、岩盤に掘 られた溜桝 .溝 .ピット.読
(Ⅰ区)礎石、石組施設、溜桝、肥前陶磁、信楽焼、銭貨、
掘抗、肥前陶磁、備前焼、石見焼、銭貨、キセル、要石、灯
寵、石臼-江戸期 .明治期の建物跡o岩盤 に掘 られた迫横 は
採鉱関連施設かo
銭貨、鉄砲玉-山内を囲った柵列の基底部か○
平成元年
蔵泉寺 口番所跡
右列 (
東西方向と南北方向)
、中国磁器、肥前陶磁、信楽焼、
上 市 場 地 区
建物跡
(
礎石、
井戸、
排水溝)
、瓦質摺鉢、カワラケ (るつぼ)、
中国磁器、肥前陶磁、備前焼、信楽焼、銭貨、砥石、要石、
鉄製品-戦国期か ら江戸期にかけての銀山の町o
平成 2年
向 陣 屋 敷
陶磁器、瓦片-本瓦葺 きの軒唐草、のし瓦○
蔵泉寺 ロ番所跡
整地面、中国磁器、肥前陶磁、備前焼、石見焼、カワラケ、
-7-
大龍 寺 谷 地 区
備前焼、信楽焼、瀬戸美濃系、カワラケ、石見焼-竜泉窯系
(Ⅰ区)整地面、溝状遺構、ピット、中国磁器、肥前陶磁、
の青磁香炉あり (
Ⅱ区)建物跡 (
柱穴 .要石)
、中国磁器、肥
前陶磁、備前焼、鉄製品 (
整)-鉱夫の住宅跡か○
旧河 島家敷地 内
焼、志野焼、カワラケ、鉄製品 (
釘)
、銭貨-寛政1
2
年(
1
8
0
0
)
井戸跡、石組の炉状遺構、右列、中国磁器、肥前陶磁、備前
以前の建物跡o出土 した陶磁器か らこれ らの迫横の年代 は1
7
C初頭まで遡る可能性あり○
平成 3年
下河原下組地区
吹屋跡 (
礎石 .側溝 .排水溝 .炉跡 .作業台 .要石)、石組溜
桝、建物跡、中国磁器、肥前陶磁、織部焼、備前焼、鉄製品、
表 1 石見銀山道跡 の調査の概要
このよ うに概観す ると、遺構 はそれぞれの調査地で各時代 の退構面 が比較的良好 な状態
で重複 しなが ら迫存 していることがわか る。また共通 して指摘 され るのが整地層の問題で、
ガ ラ ・ズ リ (
坑道 を掘 る時 に出る襟、鉱石の不要 な部分)やカラ ミ (
精錬 の際 に排 出され
6
世紀後半以降の中国磁器 、1
6
世紀末か
る鉱樺)をかな り含んでお り、包含す る陶磁器が1
ら1
7
世紀初頭の唐津 ・唐津系陶器が多 いとい うことである。 これは銀 山の開発や整地 され
た時期を考 え る上で指標 となる。
6
世紀第 3四半期か ら1
7
世紀前半 は中国磁器、唐津 ・唐
出土 している陶磁器 の組成 は、1
津系陶器が中心 で、備前 ・信楽 など も含 まれ る。調査地 によって は志野 ・織部 なども出土
7
世紀後半以降 は肥前磁器の割合が増え、
しているが、瀬戸美濃系 はほとん ど含 まれない。1
1
8
世紀以降 は肥前磁器を中心 に近隣の陶磁器 (
石見焼等)がはいる傾向にある。
石見銀山遺跡の調査の場合、鉱山都市 と しての多面的な性格を内包 しているため、迫横
や迫物 も多種多様 であるが、今後 は鉱山の銀生産追跡 の内容が具体的 に明 らかにされ るこ
とが望 まれ る。
- 8-
Ⅱ 調 査 の 概 要
1.遺跡の位置 と環境
国指定史跡山吹城跡は、大田市大森町の南西に位置する要害山に築かれた戦国時代の山
城である。要害山は急峻な独立峰で、南を銀山川が北西に流れ銀を産出 した仙 ノ山と対時
している。築城の経緯については詳 らかではないが、『
銀山旧記』によれば、鎌倉時代 の
末期の延慶年間に周防の国主大内弘幸が初めて仙 ノ山で銀を採取、その際山吹山に城郭を
築 きて銀山の守 りとしたと伝える。その後、戦国期の銀山争奪戦の中で、山吹城が再 び登
場することは 『陰徳太平記』などの軍記物でよく知 られるところである。
銀山争奪戦 は大内 ・小笠原 ・尼子の間で繰 り返 されるが、大内氏の後覇権を得た毛利氏
と尼子氏が最終的に争 い、毛利氏が銀山を完全掌握す るのが永禄 5年 (1
M6
1
) である。
『
銀山旧記』 は争奪戦の経過 について以下のように記 している。
享禄元 (
1
5
2
8
) 大内義興、矢滝の城主を以銀山の押えとす
享禄 4 (1
531
) 小笠原長隆、志谷修理太夫 ・平田加賀守を以矢滝の城を攻め落す
天文 2 (1
53
3) 大内銀山を取 り返す、吉田若狭守 ・飯田石見守が銀山を守護
天文 6 (1
53
7) 雲州の尼子銀山を攻め、吉田 ・飯田を諌致す
天文 8 (1
53
9) 大内また銀山を攻めて取 り返 し、正重を もって奉行 とす
天文 9(
1
5
4
0
) 小笠原蜂起 して、大久保肥前守 ・大谷遠江守に仰せて銀山を騒
動す、終に奉行内田正重 自害 し、銀山また小笠原に属す
天文 1
1(
1
5
4
2
) 小笠原長隆卒す、小笠原兵部大輔長篠山吹の城に入 る
天文 1
6(
1
5
4
7)
8月2
1日、長篠卒す
天文 1
7(
1
5
4
8
) 小笠原長雄 、 3月城に入 る
1
5
61) 毛利元就銀山を取 り、平賀山城守 ・高畑源四郎を山吹の城 に置 く
永禄 4 (
(
尼子毛利の攻防の始まり、永禄 5年毛利銀山を完全掌握)
元亀 2 (
1
5
7
1
) 元就卒す、嫡輝元卿続けて銀山を領す
天正年中
秀吉公の上使近実若狭守、毛利家より之使三井善兵衛、銀山を奉行
天正 1
4(
1
5
8
6
) 永田大隅守、銀山御 目附 として下 る
5(
1
5
8
7
) 三坂牧源蔵、銀山御 目附 として下 る
天正 1
6(
1
5
8
8
) 増島左門、銀山御 目附 として下 る
天正 1
-9-
E
E
1
3 山吹城字限図 (
国史跡指定地 1/6,
0
00)
番号
1
所 在 地
下 モ 屋 敷
指定地域
7
0
7
0-1
ホ 7
0-2
ホ 7
0-3
ホ 7
1
ホ 7
3
続 3
ホ 7
4
ホ 5
ホ2
41-1
ホ2
4
1-2
ホ2
41
-3
ホ 7
0
続 1
ホ2
4
5
ホ2
4
5-1
ホ2
4
5-2
ホ2
4
5-3
ホ
ホ
2 休 谷 宅 ノ上
3 休谷下屋敷
4 焔硝蔵i
E
)り
ホ
7
2
ホ
7
3
番号
5
6
7
8
所 在 地
指定地域
焔硝蔵先 キ
ホ4
4
3
焔硝最上 ミ
ホ2
7
1-1
城
ホ2
7
1-2
古
山
大谷西書地下モ谷
番号
所 在 地
ホ4
4
4
1
9 千
只
2
0 休谷上 ミ千京
ホ2
8
0-3
ホ2
8
0-4
9 西善地下 モ谷
1
0 ヨ シ 廻 り
ホ1
0
2
l
l 薮
ホ
廻
り
1
2 ウ シ ロ 道
1
3 其 谷 入 口
1
4 其
谷
1
5 ウ シ ロ 道
1
6 大 満 寺
1
7 倭
6
8
7
8
ホ 7
9
ホ 7
6
ホ 7
7
ホ 7
6
続 1
ホ 8
0
ホ 8
3-1
ホ 8
3-2
ホ4
4
5
- 1
0-
2
1 休谷下 モ千京
2
2 休 谷要害据
ホ
蓑 2 山吹城の地名一覧表
8
6-1
8
6-2
ホ4
4
6
ホ2
4
9
ホ2
4
9-1
ホ2
4
8
ホ2
4
7-1
ホ2
4
7-2
ホ2
4
7-3
ホ2
4
7-4
ホ2
4
7-5
ホ2
4
7-6
ホ2
4
7-7
ホ2
4
7-8
ホ2
4
7-9
ホ2
4
6
ホ2
4
6-1
ホ
ホ
ホ2
8
0-1
ホ2
8
0-2
指定地域
2
3 休谷八幡社跡
山吹城 の縄張 りにつ いて は、要害山頂上部分 には大規模 な郭が階段状に南北 に配置され、
主郭 の南側 に大規模 な空堀がみ られ る。城 の南斜面 には合計 1
8本 の竪堀 が築かれ、北側 の
郭 には一部石垣が構築 されている。大手 の部分 は戦国時代 の休役所跡 に大規模 な石垣 があ
り、大手門跡 を挟んで東側 には焔硝蔵跡 の石垣が存在す る。
調査 を実施 した下屋敷地区 は、広 く地名の 「
下屋敷」がの こる地域 で、戦国時代 には武
家屋敷 が存在 したと予想 され るところである。現在 の こる字限図によれば休役所跡の北側
と南 に 「
下屋敷」の地名があ り、隣接す る南 には 「大満寺」がある。西側 の小規模 な谷の
入 口に 「
休谷八幡社」があ り、 この南側 に 「
千京」「
上千京」が広が る。地 名 と して は現
存 して いないが、休役所付近 には銀を納 めたとい う 「
御文庫」があ り、既 に廃寺 とな った
龍昌寺 も城内にあ った ものだ とい う。文献資料 によれば、山吹城 の初見資料 は 『
銀山旧記E
D
1
年 (1
5
42) とみえ る。その後 『石見吉川家文書』等 によれば、毛利氏支配下
などに天文 1
において 「
休役所」が史料上 あ らわれ、銀山支配 の拠点 と して山吹城下 に役所が置かれた
上市場」 な どの地名 があ
ことが窺 え る。 この下屋敷地区の南 には地名 としての 「魚店」「
り、城下 の店や市 の存在が予想 され るところであ る。
2.調査の概要
第 1トレンチ
第 1トレンチは休役所の石垣 の北側、旧水 田が広が る場所 に設定 した。現況 は水 田が階
段状 に並 び、戦国時代か ら江戸時代 の地割 の影響 を受 けて いると予想 される場所であった。
第 1トレンチは段差のある二つの水 田の畦畔が トレンチのほぼ中央 に位置す るよ うに設定
し、水 田の段差がかつての遺構
L-1
9
6.
5
0m
を反映 しているのか、また遺構
が逝存 しているか どうかを確認
す ることを主眼 と し調査 を実施
した 。
調査 の結果、層序 は上か ら旧
耕作土 である暗褐色土、淡褐色
砂礎、淡茶褐色砂質土 、暗灰色
粘質土 となる。 2層 の淡褐色砂
傑層 は、大形 の襟を多量 に含み
1時 褐色 土
25
炎褐 色砂傑
3淡茶褐 色砂 質土
4暗灰 色粘 質土
図 4 第 1トレンチ東壁土層図 (1/6
0
)
-l
l-
粒子が微小で粘性があり、 この層 は厚 さ約4
0
-8
0
mにもなる。3層の淡茶褐色砂質土層 は
小形の礎を多量 に含む、粒子の細かい砂層が レンズ状に含まれている。 2層 と 3層 はいづ
れ も水の流れの中での堆積 と考え られる。 4層 は襟を含み、粒子が微小で粘性の強い粘質
土で、サブ トレンチ内で確認 したが更に4
0
c
m以上 も深 くなる。
2層 と 3層については、多量
の喋を包含 し砂層が レンズ状に
はいるなどの特徴か ら、昭和1
8
年の大水害の土石流 と考え られ
る。 4層が昭和1
8
年以前の表土、
あるいは耕作土になり、下層に
は迫横が退存 している可能性が
T
ある。
柾
遺物 は 4層か ら備前焼の壷の
諾 朝 野樵B
b
底部の破片が 1点出土 している。
寸
Tぜ控
第 2 トレンチ
第 2 トレンチは休役所跡の現
W
J 盟
在のこる石垣の北側に設定 し、
C
T ぜ 9t樵
石垣の構築状況 と役所跡の迫横
の存否の確認を調査の主眼 とし
N
た。調査の結果、遺構 として礎
り
T 朝 鮮 鯉
石 と右列を検出、また石垣の構
築状況を一部確認 した。
L
層序 は上か ら、暗褐色土、茶
∵
∵
二
褐色土、明茶褐色粘質土となり、
石垣近 くで暗灰褐色土がはいる。
この うち 4層の明茶褐色粘質土
は、粒子微小で粘性がある地山
粘質土の上面に礎石 ・右列が置
2
1/60)
図
トレンチ遺構および土層実測図(
第
5
検出 した遺構は、 この明茶褐色
ウ6t
uJO
1
O●
-
粘質土が整地され迫構面となる。
12
-
かれ、礎石 は石垣か ら約3
.
4m北で検出 している。 この礎石 は凝灰岩系 の切石 と考 え られ
るもので、大 きい ものは約4
0
C
7
n
,小 さいものは約2
0
mの ものである。右列 は約 1
0
-2
0
mの
0
m前後の位置に石垣 と並行 して東西方向に集成 されている。
自然襟が石垣か ら北約3
検出 した遺構 と石垣 の上面の レベル差 については、石垣の上部 については後世 に畑 など
を造成す る際に築成 されたか、あるいは石垣 に沿 って築かれた土塁等の施設のために レベ
ル差が生 じたと考え られる。可能性 としては石垣の積み方が堅固でないところか ら、後世
に積 まれたと考えるほうが妥当である。
出土造物 としては迫構面 と茶褐色土層か ら
陶磁器、釘などの鉄製品が出土 している。図
・
1
頑 1
:
≡ ,
一二
ここ
ニ了
/
:
6はいずれ も迫構面か ら造物である。 1は染
付皿で、時期 は1
6
世紀第 4四半期の ものであ
く司:盃
_ 」
ゝ
∪ 』
0
る。 2は唐津碗 、 3は唐津徳利の底部、時期
は 2 ・3とも1
7世紀前半の ものである。
3
1
0cm
図 6 第 2トレンチ出土陶磁器実測図 (1/ 3)
第 3トレンチ
第 3トレンチは休役所跡の南側、舌状 に整地 された平坦地 に設定 した。 この平坦地 は第
2 トレンチを設定 した休役所跡の平坦地 よりも約 7m低 く、焔硝蔵跡の方形の平坦地 とと
もに桝形虎 口の一角を形成 している平坦地である。 この舌状平坦地の東斜面 と焔硝蔵跡 の
間は現在谷川 になっているが、か っては大手門に至 る道の跡 と考え られている。 この トレ
ンチは平坦地の東斜面 に一部かか るよ うに設定 している。
調査の結果、 トレンチの西側で石積みの遺構を検出 している。 この石積みは検出 した範
囲で凝灰岩系の自然石を積んだ 3段 、6
0
m以上 にもなるもので、石垣になる可能性 もある。
層序 は石積みの部分で、上か ら黒褐色土、暗褐色砂磯、明茶褐色土、灰 白色土 となる。 2
層の暗褐色砂磯 は大形の襟を多量 に含み、昭和 1
8年の水害で堆積 したと考え られる層 、 3
層の明茶褐色砂疎 は砂粒を多 く含み粘性がある層 、1
0
層の灰色土 は磯を多 く含み地山 と考
え られ る層である。 この層の上面 の硬 は平坦 に切 られた痕跡があ り、地山面を平坦 に加工
したと考え られる。石積みが築かれた レベル以下 については、暗茶褐色土、暗褐色土、暗
茶褐色土、明茶色砂質粘土 となる。石垣周辺 は固 く締 まった暗褐色砂襟が堆積 してお り、
明棲色粘土 ブロックを包含 している。 トレンチの東側の斜面部分 は当初石垣 の存在なども
予想 された箇所であるが、調査の結果、表土の下 は地山 となってお り石垣等の施設 は存在
しなか ったが、地山が加工 された可能性がある。
-1
3-
」-1
87.
00m
図 7 第 3トレンチ迫構および土層実測図 (1/6
0
)
第 3 トレンチか ら出
土 した造物 と して は、
陶磁器が若干 出土 して
いる。図 8は西側 の落
ち込 み内か ら出土 した
陶磁器である。 1は志
.
I
/
I
X
L
l
l
.
野 の絵皿 、 2は絵唐津
の大皿 、 3は小形 の壷
の口縁で産地 は不 明で
ある。 1・2の時期 に
図 8 第 3トレンチ出土陶磁器実測図 (1/ 3)
ついては1
7
世紀前半 の ものであ る。
第 4トレンチ
第 4トレンチは焔硝蔵跡南 の旧水 田に、大手門に至 る部分 の迫横 の確認 のために設定 し
た。調査の結果、明確 な迫横 は確認 しなか ったが、 トレンチ内で襟を含む固 く締 まる部分
と、硬を含 まないやわ らか い部分 があ り、固 く締 まる部分が道 になる可能性がある。
-1
4-
L-1
81.
0
0m
層序を観察す ると、上か ら暗
褐色土、明茶褐色土 とな り、暗
灰褐色土、暗灰色粘質土が部分
的に入 る。その下 は道 の可能性
がある黒灰色砂磯 と茶褐色粘質
土 となる。 2層 は砂粒を多 く含
1暗褐色土
4黒灰色砂牒
2明茶褐色土 5時灰色粘冥土
んでいることか ら、昭和1
8年 の
3時灰褐色土 6茶褐色粘冥土
水害時の堆積 と考え られ、また
0
27n
図 9 第 4トレンチ北壁土層実測図 (1/6
0
)
4層の黒褐色砂硬 は比較的大 きな磯を含み固 く締 まることか ら人工的に整地 され、道の痕
跡の可能性がある。サブ トレンチ内ではあるが、 6層の下 は整地のためと思われるカラ ミ
が堆積 している。出土遺物 としては若干の陶磁器がある。
第 5 トレンチ
第 5トレンチは地名 として 「
下屋敷」がの こり、現在の山吹城登山口か ら近 い旧水臥 こ
」-1
7
7.
5
0m
18音灰 色粘買土
2明黄褐色砂傑
3明褐色砂質土
4時灰色粘質土
5茶褐色粘質土
6カラミ 7傑 カラミ
0
8灰色粘土
トーT l .
†
図1
0 第 5トレンチ迫構 ・土層実測図 (
1
/6
0)
-1
5-
1
0cm
一
二=
:
㍉
」-1
7
7.
0
0m
粘
、
カ
ラ
ミ
、
粘
-I
_
二
:
・
I
{
:l・第 l吹床跡
黒色 冥土
(
蝶
土フDツク 、
炭5
訂
」-=
1
7
7.
0
0m
/′
壷
3 ・土塀
l際 カ ラミ
2時茶褐色砂
頚 固 く焼 け締 る部分
2.第 2吹床跡
1傑 ・カラミ
2傑 ・カラミ (暗灰褐色粘冥土フロック包含 )
3時灰褐色粘質土
17
7
1
図1
1 第 5トレンチ吹床跡 ・土境実測図 (
1
/6
0)
トレンチを設定 した。かつての下屋敷の遺構の確認を調査の主眼 として実施 した。調査の
結果、建物跡の迫横の一部 と、銀精錬 に関連す ると思われる吹床跡を検出 した。
層序 は比較的単純で、上か ら旧耕作土である暗灰色粘質土、明黄褐色砂質土、明褐色砂
質土、暗灰色粘質土、茶褐色粘質土、カラミとなる。 2層 は大 きい もので拳大 になる疎を
含み旧水田の床土 になると考 え られる土層である。 3層 は砂粒の堆積が顕著 に認 め られる
8年の水害時の土石流の堆積 と考え られる。 4層の暗灰色粘質土 は粒子微小
もので、昭和 1
で粘性があ り、昭和 1
8年以前の旧耕作土 と考え られる。 5層の茶褐色粘質土 は粒子が微小
でカラミを多量 に包含 してお り全体 に固 く締 まっている。 6層 はカラミの単一層で、かな
りの量のカラミが堆積 している。カラミの様態 は全体 に黒 く、塊が大 きいという特徴があ
る。 これまでの調査か ら銅を含む永久鉱床の鉱石が精錬 された際に排 出されたカラ ミと考
え られるものである。カラミの下 は建物跡の床面 は黄褐色か ら灰褐色粘質土のたたきで、
熱を受 けているところが茶褐色 に熟変化 している。
検出 した遺構 は、建物の礎石 と精錬施設である吹床跡がある。礎石 は トレンチ内で南北
方向の ものと東西方向の ものがある。南北方向の ものは 3ヶ所礎石を検出 してお り、礎石
間距離 は約 1
0
0
m前後 (
半間、 1間が 6尺 5寸 -1
9
6.
9
5m)、東西方 向の もの は 1ヶ所礎
石を検出 し、礎石問距離 は約 200m前後、 はば 1問 となっている。南北方向の礎石近 くで
-1
6-
T
.
二
一
二
?
・
t
,
"
r
F
t
:
i
.
製
/
二
ご
宝
.
⊂
=
=
_
=
=
フ
・
タ
:
一
/
llて
1
図1
2 第 5トレンチ出土遺物実測図
-1
7-
(
1
/3
)
1
0cm
-1
検出 した第 1吹床跡 (図1
0- 1)は楕 円形の掘 り方で、長径が約 1
3
0
m,短径 が約 5
0m 、
深 さ約2
0
c
mである。東側 に接 して長辺が約3
0
c
m、短辺が約2
0
c
mの方形の磯が埋設 されてい
る。吹床内の土層 は黒色粘質土で、礁 ・カラ ミ・粘土 ブロック ・炭化物を包含 している。
掘 り方の西側の肩の部分 と底面の東側半分 は厚 さ約 1- 2C
7
花
で固 く締まっている。第 2吹
床跡 (
図1
0-2) は径約3
5
c
mの掘 り方で、深 さ約2
0
c
mである。 この掘 り方の東側 に接 して
0
c
mの楕円形で扇平 な石が置かれ、石 に近 い部分の掘 り方の肩の部分が焼土化 し
長径が約2
固 く締 まっている。第 2吹床内の土層 は 1層が黒色で固 く締 まる磯 ・カラ ミ層 、 2層が暗
灰褐色粘質土を ブロック状 に含む磯 ・カラミ層である。吹床の底面 については 1層の下面
5
c
mの土壌 (
図1
0- 3)
が底面 になる可能性がある。第 1・2吹床の西側で楕円形 の深 さ約 1
を検出 している。 この土壌 は長径が約 1
2
0
mで、南側が磯 ・カラ ミが堆積 し、北側 の暗茶
褐色砂層 との境 には熱を受 けて黒色 に固 く締 まった部分が約4
0
C
7
n
の長 さで弧状に遺存 して
いる。 この土壌の底面 も熱を受 けた痕跡が認 め られ、何 らかの精錬施設の遺構の可能性が
ある。
2はいずれ も遺構面か ら出土 した陶磁器
出土 した迫物 には陶磁器 ・金属製品がある。図 1
と瓦である。 1・2は染付皿 、 3は白磁皿である。 1・2の時期 については1
6
世紀第 3四
半期の ものである。 4は唐津椀 、 5- 8は唐津皿 、 9は唐津片口で、 5は内面の口縁近 く
に草花文がある絵唐津の皿で、内面 に胎土 日積みの痕跡がある。 6は内面 に砂 目積み痕跡
が 3ヶ所あ り、二次焼成を受 けている。 4- 9の時期 については1
7
世紀前半である。1
0・
0は内外面 に花弁を形 どった菊皿 、11は口縁部が外反 し溝状 にな
1
1は瀬戸美濃系の皿で、1
るもので、二次焼成を受 け粕薬をの こさな い 。1
2は丸瓦の破片で全体 に摩滅が著 しい。図
二∵
化 しえなか った陶磁器の概要 は、小片が多 いが染付、唐津などの小片が多 く出土 しており、
厚み0.
6
C
7
nを測 る。 2は断面 が方形 にな る
ト
rT
1
と考え られ る0 3は全長 2.
1
C
7
nを測 る分銅
で、重量 は1
4gである。分銅の中で も小型
㍉
る暫ではな く、製錬の過程で使用 された磐
∴
いずれ も小形であることか ら採鉱 に使用す
r
J
∵ 二
N
爪
_、
m
Z
2
タイプで、現存長74
mを測 るものであ る。
∴
uv
で、現存の法量 は長 さ7.
4m、幅1
.
5
-1
.
7
c
m、
I; ..H.
.
.
.
仁 .
.
.
.
.
.
) :
_.
'!
3は分銅である。 1は断面が京平 なタイプ
固
ら出土 した金属製品である。 1・2は整、
冊銅 損 附 は
量 としては唐津系が多 い。図1
3は遺構面か
l -1
園1
3第5トレンチ出土金属製品実測図(
1
/3
)
ー1
8-
の ものである。
第 6 トレンチ
第 6トレンチは第 2トレンチの東側、か って大手門が存在 したと考え られる一段低 い平
坦地 とそれに続 く旧水田跡 にまたがるように設置 した。調査 は大手門の迫横の確認を主眼
として実施 した。
調査の結果、第 1トレンチと同様 に昭和 1
8年の水害時の土石流の堆積 と思われる層がか
な りの厚 さで確認 された。層序 は 1層が旧水田の耕作土 、2層が旧水田の基盤層である淡
茶色粘質土 、 3層が土石流 と考え られる大形の裸を多量 に含む淡褐色砂襟 、 4層が粒子が
微小で粘性の強い淡茶褐色粘質土である。 この うち 4層 は均一 な層で整地層になる可能性
がある。北壁土層の観察 によれば、 この 4層 は西側 に下が って傾斜 している様子が確認 さ
れることか ら、大手の道等の迫構を反映 している可能性がある。遺物 は出土 していない。
L=
=1
9
3.
5
0m
L-1
9
3.
5
0m
1暗褐色土
2淡茶色粘質土
35
炎褐色砂陳
45
炎茶褐色粘質土
∈
0
衰
図1
4 第 6トレンチ北壁土層実測図 (
1
/6
0
)
-1
9-
27
7
1
Ⅳ 小
結
1. 山 吹 城 跡 下 屋 敷 地 区 の歴 史 的 景 観 の復 原 につ いて
(
1)戦国時代の城下 について
山吹城 の頂上部分 の築城 の変遷 とともに城下 の役所跡、武家屋敷等 につ いて詳細がわか
る文献資料、絵図等 の資料 は存在 しないが、今回お こな った試掘調査の結果 と字限図 によ
る現地踏査 によ り歴史地理学的方法で戦国時代 の歴史的景観 の復原を試 み たい。『石見吉
川家文書』等 にみえ る 「
休役所」 は限図等 によ り、現在の こる長 さ約 10m の長大 な石垣 と
その西側 に広が る平坦地 と考 え られ、現在 は石垣 の南側が道 によって壊 されて いるが、道
の路面内に礎石 の一部 と考え られ る巨大 な石が露 出 してお り、本来 は要害山の裾 まで この
石垣 は連続 して いた もの と考 え られ る。 また北側 は大手門跡 と考 え られ る一段低 い平坦地
8
年 の水害時の土石流 によってその半
まで この石垣 は存在 していた と推測 されるが、昭和 1
分以上 が崩壊 した もの と思われ る。
いわゆる桝形 は不整形 の方形 で、東側の斜面 に石垣 が 2列 で確認 されて いる。平坦地 は
ほぼ中央 に高 さ約 1m、長 さ約 11m の石垣が存在 し、石垣 がの こる北側の平坦地 が一段高
くなる。 この桝形 は地名が 「焔硝蔵」であ り、戦国期 には焔硝蔵 (
火薬庫)か櫓 の建物が
存在 し、大手 の防御 の拠点であ ったと考え られ る。桝形 の南側 に広が る舌状 の平坦地 は、
第 3 トレンチの調査 の結果、地 山を削 って整形 された可能性が強 く、また調査 によ り平坦
地 のほぼ中央、東西方向に石垣 が築かれてお り、単 なる平坦地 ではな く石垣を伴 う遺構 が
存在す ることが判明 した。
大手の登城ルー トについては、
第 4 トレンチで確認 したが桝形
の東側 に道 の痕跡 らしい迫構面
が存在す ることや桝形 の位置等
か ら、大手門に至 るルー トは北
側 の丘陵裾を走 り、桝形 で南 に
折 れ、舌状の平坦地 にぶつか り
酉 に折 れ、休役所 の石垣 で北 に
折れ、大手門に至 ると考えたい。
大手門か ら山吹城頂上に至るルー
図1
5 戦国期の大手の復原 (1/3,
0
00)
-
20-
トについては、西に位置す る小規模 な谷の入 口に 「休谷八幡社」の地名があ り、 この前を
通 り頂上 に至 ると思われる。
i
i
t
l
)ここか ら頂上 に至 る登城 ルー トについては、今後分布調査
を進め、詳細な検討をす る必要がある。
(
2) 大久保長安の支配について
大久保長安 は慶長 6年 (
1
6
01
)奉行 となり石見銀山の支配 と経営を始めるが、長安が奉
行所を置 いたのが、戦国時代の休役所である。佐渡相川の奉行所跡が示すようにかなり広
い範囲で奉行所を構築 したと考え られ、西側が一段高 く平坦地が広がることか ら、 ここま
でが奉行所の範囲 と推定 される。休役所の南側が道 により切 られているが、 これは長安の
奉行着任以降で、相子谷 (
永久坑道 など)の管理のために新設 された道 として設置 された
と考え られる。大久保長安の支配 にはいり、戟国時代の大手 と比較 して大 きく改変 された
と考え られるのは奉行所の東に広がる平坦地 に銀製錬関係 の諸施設が置かれたことであろ
7
世紀初頭で、長安
う。第 5トレンチで検出 した遺構 と出土 した造物 は、遺物 の年代か ら1
が経営 した吹屋 と考え られるものである。またこの トレンチの周辺か ら広 い範囲でカラ ミ
が表採できることか ら、かつての大手の部分 に長安 の時代 には吹屋などの銀製錬諸施設が
集中 していたと予想 される。慶長 9年 (1
61
4)の 「大久保長安書状」(
吉 岡家文書 2
0) に
よれば 「
其元五吹屋並諸間歩諸 口屋被入精由まんそ く申候事」(2)とあり、長安 が 5ヶ所 の
吹屋を経営 したことが窺え、下屋敷地区で検 出 した吹屋跡の一部 は、 この 5ヶ所の うちの
1ヶ所 にあたると考え られる。
」
地名 としてのこる 「
千京 「
下千京」あた り一帯 は、佐渡相川町の町立 て にみ られ るよ
うに、大久保長安の奉行時代 につ くられた商人町 と推測 され る。また銀を納 めたといわれ
る 「御文庫」 もこの下屋敷地区内に位置 していたと考え られる。
2.第 5トレンチの遺 構 ・遺 物 につ いて
第 5トレンチで検出 した迫横 の うち第 1・2吹床跡 について若干の考察をおこないたい。
全国の鉱山遺跡の中で吹床跡 (
例えば灰吹床、南蛮床、小吹床 など) として、迫横が明確
なかたちで検出された事例 は少ない。代表的な例 として、兵庫県の石垣山追跡か ら灰吹床 ・
南蛮床 と考え られる吹床跡が検 出されている。また大阪の住友家が経営 した長堀銅吹所跡
か らは、数多 くの製錬施設が検出されているが、その中に灰吹床、南蛮床 と推定 されてい
るものがある。それぞれ吹床の規模 については差異が認 め られるが、共通 しているのは、
-2
1-
吹床の築成状況で、粘土質の土で築かれ平面 は円形で断面 はす りばち状である。検出され
た状況 は、断面 の観察によればかな りの部分が焼土化 してお り、吹床内の土層 は灰を多量
に含む ものが多 い。(
3
1 もちろん操業 された時期の問題 はあるものの、石見銀 山遺跡 の吹床
を対比 して考えることができる。
第 5 トレンチで検出された吹床跡 と考え られる遺構 については、出土 しているカラ ミの
量が多量であ り、様態が黒色であることか ら銅を含む永久鉱床の鉱石が製錬 されたと考え
られ、精錬過程 の中で南蛮絞 りの作業がお こなわれたことになる。永久鉱床の鉱石の精錬
の場合 には、福石鉱床 と違 い精錬過程が複雑化す ると理解 されてお り、今回検出 した遺構
については、吹床の性格について明確 に断定 はで きない。第 1吹床 と第 2吹床 は検出 した
範囲で位置 も近 いことか ら、同時に操業 したとは考えに くく、規模が違 うことか ら性格を
異 にす る吹床 と考え られる。第 1吹床内の東側で硬を検出 しているが、第 2吹床では東側
に接 して扇平 な磯を検出 している。吹床の内 と外 という違 いはあるが、吹子の羽口が置か
れた位置 と考え られ、疎がある側の壁がよ く焼 け締 まっている。
文政 1
2
年 (
1
8
2
9
)に記録 された 『銀 山吹方覚 』(4)によれば、 た とえば灰吹床 につ いて
「灰吹床 さしわた し四尺位又三尺位なるもあ り」「
床の内底五六寸位 も小吹床のことくスパ
イにて括 る也」 とその大 きさや構造状の特徴が記 されているが、1
9
世紀初頭のすでに製錬
技術が確立 した時期 と、1
7
世紀初頭の最盛期の未成熟な技術 (
職人的な技術) とは、吹床
の構造 ひとつをみて も差異があって当然であろう。
第 5トレンチについては検出 した遺構 とともに出土 した遺物について も注 目される。金
属製品の整 ・分銅 については吹屋で使用 された道具 と考え られる。坑道内で使用 される撃
についてはこれまでの出土資料 にいくつかあるが、小形の馨 の出土 は初めてである。 これ
らの金属製品 と共 に出土 した陶磁器につ いては、 この遺構の年代が大久保長安の奉行在任
1
6
0
1
)∼1
8
年 (
1
6
1
9
)に営 まれた吹屋だ とすれば、1
7
世紀初頭段階の遺構
中、慶長 6年 (
に共伴す る陶磁器の指標 となる。 トレンチ調査の限界 はあるものの、組成 について も検討
す る余地をの こしている。
今年度実施 した山吹城跡下屋敷地区の調査 は トレンチ調査であったが、多 くの資料 と情
報を提供す ることとなった。石見銀山の争奪戟や支配を考える上で貴重な遺跡が集中 して
いる地域であり、崩壊 している休役所や焔硝蔵の石垣の復原整備なども含め、将来の下屋
敷地区全体の発掘調査や整備事業の導入を検討す る必要があると考え られる。
-2
2-
註
(
1
) 調査指導会での田中圭一氏、萩原三雄氏 の ご教示 によるところが大 きい。
(
2
) 『江戸幕府石見銀山史料』所収、雄山闇 、1
9
7
8
年
(
3
) 兵庫県石垣 山遺跡 については、『播磨産銅史の研究 』(
妙見山麓遺跡調査会1
9
7
8
年)
、
大阪府長堀銅吹所 につ いては、鈴木秀典 「大阪府大阪市住友銅吹所跡」
(
『日本考古学年報4
3
』
、
1
9
9
2
年)等 に詳 しい。
(
4
) 『日本鉱業史料集第五期近世篇』所収、 白亜書房 、1
9
8
4
年
-2
3-
石見銀 山遺跡 山吹城 の縄張 について
寺
井
戟
は じめに
全国各地 に南北朝期の遺跡 として千早城等、有名な城郭が数多 く残 るがそのほとんどは
後の時代に改修 されてお り、創築時の ものではない。それは軍事、経済上の重要地点 は、
いっの時代 に も繰 り返 し使用 され、その時代の持 ち主 (
支配者)の経済力、戦略の変化に
応 じて改修が繰 り返 されて きたためである。 この改修 による築城技術の発展過程 は堀のは
りかた、防御 された郭の出口である虎 口 (こぐち)、石垣の築 き方等 によ って捉 え ること
ができる。そ して周辺の城郭や、在城 したとされ る豪族の動向及 び城郭 などを調査す るこ
とによって、改修者 とその時代の割 り出 しが可能 とされたのである。本稿 は、以上の事項
を念頭に、現在見 る山吹城の改修者 とその時期 について考察を試む ことを目的 とす る。
1. 山吹城 の遺 構
山吹城 は大田市大森町に所在す る山城である。周辺 には銀の坑道が多 く存在 したため戦
国期 には争奪 の的 となり、大内、小笠原、尼子、毛利 との問で激 しい争奪戦が行われた。
主郭 はおおむね長方形 に築かれ、城内最大の面積を持つ。(図 1)北西が張 り出 し、櫓
台が築かれている。 この櫓台の脇には坂虎 口 aが取 りついてお り、主郭北東の張 り出 しと
ともにこの虎 口を守 る構造 になっている。主郭の南側 には空堀が築かれてお り、主郭側に
橋を架けたような痕跡が残 る。郭 2は主郭 の北側 に築かれた郭で、北側 と東側 に虎 口を設
けている。北側の虎 口 bには石垣が築かれているが、石垣 はこの周辺 しか築かれていない
ため、櫓門等特別な建造物が建 っていた ものと考え られる。東側の虎口 C は主郭東側のルー
トに接 して設 け られてお り、主郭南側の郭群 との連絡 のために設 けられたものである。 こ
のように主郭を経 ることな く連絡がとれる構造 は比較的新 しい発想 とされるものである。
主郭 と郭 2のような関係 にある場合、郭 の端の接点 はどうして も防御が手薄になる場合が
多い。 これを解消す るため、接点に位置す る場所 に土塁を築 くことによって防御を強化す
る技法がある。郭 2西側の土塁がその好例で、山吹城 にはこのタイプの土塁が随所に見 ら
れる。
-2
4-
郭 3は郭 2の北側に築かれてお り、主郭 に次 ぐ面積を持つ。虎 口は 2ヶ所設 け られてい
るが、虎口 dは 「内桝形」になってお り、郭 2側の壁 に石垣が築かれていた痕跡が認 める
ことができるため、 ここが正門の可能性が高 い。虎 口 eを出ると郭 4の東端をかすめる形
で城外 に出る構造 になっている。郭 4は西寄 りに段差が存在す るが、一つの郭 として機能
していた ものであろう。郭 5、 6は後世 の改修時には放棄 された もの と見え、削平が不十
分で郭 6などは緩斜面 になっている。
郭 7は主郭 の南側に堀を隔てて築かれてお り、北西 は土塁状 に北へ張 り出 し、空堀の構
造を特異な ものとしている。空堀 は郭 7の東端を土端状 に削 り残すような構造 になってい
る。 ここに築かれている郭 7-2は郭 7より一段高 くなってお り、一部の研究者か ら 「
馬
出」 とす る説が出ているが、主郭へのルー トが確認で きないことや、南側で郭 7の虎 口 f
か らのルー ト、郭 2か らのルー ト、そ して南側か らのルー トが集中す るため、郭 7-2は
櫓台ではないか と考える。郭 8は西 と東側 に土塁が築かれている正方形の郭だが、 ここで
面 白いのは、ルー トが この郭を半周す るよ うに設置 されていることである。又、郭 8は郭
9よりも上位の存在 になっている点、興味深 いものがある。郭 1
0の南側には畝状竪掘群が
築かれてお り、山吹城の特色の一つ となっている。
郭 は山頂以外にも各所 にみとめ られ、全山を城郭 として使用 していた。
以上、山吹城の縄張について説明 して きたので、次項では改修時期を考察す るにあたっ
て重要な資料 となる畝状竪堀群、主郭南側の空堀、そ してルー トの設 け方 について各項単
位 に考えてみたい。
図
1 山吹城
(A
:芸宗
諾孟 2
(l
H
jq霊,
)誓豊
-2
5-
琵琵図 )
2.畝状竪堀群 につ いて
畝状竪堀群 とは竪堀が連続 して築かれてお り、畑の畝のように見えるため付けられたも
のである。全国各地で報告 されてお り、山腹の水平移動を防 ぐための ものとして郭 とセッ
トで使用され、最終的には緩斜面や放置す ると攻城側の橋頭壁になる恐れのある場所を潰
すために持ちいられたものと考え られている。石見では吉見氏の津和野城、益田氏の七尾
城、三隅氏の高城、周布氏の鳶巣城、小笠原氏の温湯城等、有力豪族の居城に用いられて
いるが、出雲の豪族の居城では本城氏の高櫓城、大西氏の高麻城 しか確認できない。ここ
で面白いのは、吉見氏は陶氏 と龍城戟を行 い、益田、周布氏、三隅氏、小笠原氏は毛利氏
と戦 っていることである。さらに事例を全国に求めると、畝状竪堀群の使用が際だってい
るとされる出羽の小野寺氏、越前の朝倉氏、築後の秋月氏等 はそれぞれ実力的に上位 とさ
れる最上氏、織田氏、大友な らびに豊臣政権 という領域権力 との対決を経験 していること
である (
註 1)
。 したが って山吹城の畝状竪堀群 は実力的に上位の勢力、 しか も南側 に し
か築かれていないことか ら、南側か ら押 し寄せる勢力に備えて築かれたものと見 るべきで
あろう。又、畝状竪堀群 は主郭南側の堀等 と比較す ると、風化が激 しいため、ある時期か
ら放棄されたものと考え られる。
3.主部南側 の空堀
この堀は尾根を堀切 るタイプの堀がほとんどの割合を しめる県下において、郭を形成す
るタイプの ものとして高 く評
価 され る。 県下 で は石丸城
(
三刀屋町)
、鏑腰城 (
桜江町)
、
県外では鳥取県の尾高城 (
米
子市)
、手間要害山 (
会見町)
、
そ して山口県の岩国城に認め
ることができる。岩国城 (
図
2)は富田城 (広瀬町)に在
城 していた吉川広家が慶長 8
年に築いた近世城郭であり、
叫
他はいづれ も毛利氏に重視 され
図 2 岩国城略E
Z
l
- 26-
ていたことか ら、 この堀 も毛利氏によって改修 された ものと見 るべ きであろう。
堀の片方を土橋状 に掘 り残す技法 は石丸城等 と同 じだが、山吹城の ものは西端で北 にク
ランクし、さらに西 にクランク してお り、他 より (
岩国城を除 く)新 しい時期の ものであ
る。
4.巧 妙 な ル ー ト設 定
山陰の城郭 はルー トの設定が唆味なものが多 いが、山吹城 の ものは明確かつ巧妙 に設定
されている。
ルー トは 3通 り確認できるので個 々に見てみたい。
郭 3-2に取 りついたルー トは郭 2か らの横矢を受 けなが らdの桝形虎 口に導かれる。
dでは郭 2、虎 口 bの櫓台、そ して郭 3か らの反撃を受 けることになる。 ここを突破す る
と虎 口 bの櫓台を半周す るかたちで虎 口 bに導かれる。そ して ここを突破す ると虎 口 a脇
の櫓台が正面 に築かれているため、 ここか ら狙 い討 ちにあ う構造 になっている。
郭 5、 4の東側をかすめる形で設 けられたルー トは郭 5、 4か らの横矢 と郭 3か らの反
撃 を受 けなが ら虎 口 eに導かれ る。そ して ここで も虎 口 eを突破す ると虎 口 bの櫓台が正
面 に位置 しているのである。 このように櫓台の周囲を回 した り、虎 口に入 ると正面 に櫓台
が築かれているのが この方面の特徴である。
郭1
0の南側を通 り、郭 1
0-2に取 りついたルー トは郭 8を半周す る形で設けられている。
図 3 長 峰 城 (飯雷管訂 掌芸濃
-2
7-
B2
詰昌孟孟日 )
o
図4
瀬戸山 (
衣 掛 )城
(
志
等 '
L
5
"禁
約5
0m
γ
.
1
2
5'ni芸 芸上 市 )
郭 8はこの方面の守 る側の橋頭壁であ り、一種 の馬出である。馬出には出撃の拠点 として
ルー ト上 に設 けられるもの (
武田氏や後北条氏の城郭 に多 く見 られる)とルー トの脇 に防
御の拠点 として設 け られるパ ター ンとがある (
織田系の城郭 に見 ることが多い)が山吹城
の ものは後者である (
註 2)
。郭 8を半周す る問に郭 9、郭 8そ して郭 7か らの猛烈 な反
撃を受 け、攻城側 は甚大な被害を被 ることになる。そ して郭 7-2の櫓台の下 に導かれる
と、ルー トは右 と左に別れる。右 に向かえば主郭東側か らまともに横矢を受 け、追 い落 さ
れる事態に陥 る。左に進み、郭 7に進入 した攻城側 は、空堀 と主郭か らの反撃 に合 い、ゆ
くてを阻まれたことになる。平時にはここに橋が設 けられていた ものと考え られるが、当
然戦闘時には焼 き払われていた ものであろう。郭 7側 には主郭か らの攻撃を遮 るものがな
いため、やむをえず空堀 に降 り、主郭 に取 りつ くが、当然猛烈な反撃 にあ うことになる。
したが って とりあえず空堀沿 いに西側に進むが、 ここで空堀 は北 に折れる構造 になってい
る。 ここを曲がると主郭 には折 り (
横矢を討っための射撃場)が築かれてお り、攻城側 は
ここか ら反撃を受 けることになる。 こうなると、犠牲を覚悟で主郭 に取 りつ くか、西側 に
開かれている空間か ら竪堀 に飛 び込む しかない。実 に巧妙 に仕組 まれた縄張 りである。
このように虎 口と櫓台を巧妙 に配置 した縄張の城郭 は、県下 には幕末まで存続 した松江、
浜田、津和野を除 くと富田月山城 と三刀屋城、瀬戸山城 しか確認 されていない。富田月山
城 は、尼子氏の居城 として知 られるが、現在残 る遺構の うち山頂及 び山中御殿 と伝え られ
-2
8-
ている郭 は総石垣 となってお り、明 らかに慶長 5年 に入城 した堀尾氏による改修である。
(
註 3)菅谷 口の桝形虎 口脇 に築かれている櫓台 は尾根筋に も面 してお り、 この方面 の防
御の拠点であった。
三刀屋城 は飯石郡三刀屋町に所在す る城郭で、出雲の中心に位置するため、堀尾氏によっ
て近世城郭 として改修 された。現在石垣が人為的に壊 されているため明確ではないが、主
郭北側の天守台を半周す る形で主郭 に入 る構造 になっていた ものと考え られる。(図 3)
瀬戸山城 は飯石郡赤来町赤名 に所在す る山城で、赤穴氏 と毛利氏 との激戦の地 として知
られる。主郭周辺が総石垣で改修 されてお り、天守台に相当す る主郭の周辺 に三 ヶ所の虎
口が集中 し、主郭 によってすべての虎 口を押 さえているのが特徴である。(
図 4)
又、県下 にも桝形虎 口を持つ優れた城郭 は鳶 ケ巣城、勝山城等存在す るが、 これ らは郭
の先端部 に虎 口が位置 しているため、戟閑に参加す る守城側の兵力が限定 される危険性を
持っ。守城側の防御力を最大限に発揮す るため、郭の周囲をまわすようなルー トの設定を
した瀬戸山城の防御思想 との差 には大 きな ものがある。
この城郭 も人為的に石垣が破壊 されているが、 aの桝形虎 口には平石が敷 いてあり、柱
石 も良 く残 り保存状態 は良 い。おそ らく櫓門形式 の表門が建 っていたものであろう。 この
城郭 も堀尾氏によって改修 された ものと考え られ る。
ま
と め
これまで山吹城 の特徴についてみて きたが、主郭南側の空堀 は周辺の防御思想 とうま く
噛み合 っているため、巧妙なルー ト設定 と同時期 に一気 に改修 されたもの と考え られる。
空堀の特徴 は毛利氏の ものと考え られるため、毛利氏 による改修 と考え られるが、山吹城
のような巧妙なルー トを設定 している城郭 は、県下の毛利氏の城郭では確認できない。
このよ うに櫓台 と虎 口の関係を重視す る城郭 は、堀尾氏等 の織豊政権の大名に多 く見 る
ことがで きる。織豊政権 は傘下の大名 に織豊系城郭を指導、強要 した。 したが って山吹城
は毛利氏が織豊政権 と接触 した時期 に、毛利氏によって改修 されて ものとみる。
註 1 松岡進 『中世城郭研究』2巻 、P4
1、1
9
8
8
年
註 2 購 ケ岳の戦 いの時に柴田氏によって築かれた玄蕃尾城主郭南側の馬出がその好例
註 3 八巻考夫 『中世城郭研究』6巻 、Pl
1
9
、1
9
9
2
年
-2
9-
休役所跡 石垣
焔硝蔵跡 石垣
PL. 2
第 1トレ ンチ
北壁土層
第 1 トレ ンチ
完掘状況
PL. 3
第 2トレ ンチ
遺構検 出状況
第 2トレ ンチ
石垣構築状況
PL. 4
第 3トレ ンチ
迫構検 出状況
第 3トレ ンチ
右横検 出状況
i
PL. 5
第 4 トレンチ
迫構検 出状況
第 4トレンチ 西壁土層
PL. 6
第 5トレ ンチ
遺構検 出状況
第 5トレ ンチ
南壁土層
第 5トレ ンチ
第 1吹床検 出状況
第 5トレ ンチ
第 2吹床検 出状況
PL. 8
第 6トレ ンチ
完堀状況
PL. 9
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613
6-2
第 2トレンチ 出土 陶磁 器
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8-1-
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第 3 トレンチ出土 陶磁 器
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山吹城下屋敷地区出土遺物
2
3
1
`
第 5 トレンチ 出土 遺物
大 田市埋蔵文化財調査報告 1
6
石見銀 山遺跡発掘調査概要 6
1993年 3月
島 根 県 大 田市 教 育 委 員 会
(
島根県大田市大田町大田 口 1111番地)
・
、
予
〔⊃