2016 年度早稲田大学教育学部講義「日本史研究(近世)Ⅰ」 5.近世人とキリシタン(3)―隠し念仏と京坂「切支丹」一件 2016. 5.11. 大橋 幸泰 はじめに 18 世紀、キリシタン禁制をめぐる状況の変化 a.潜伏キリシタンの世俗秩序への埋没 b.「切支丹」イメージの貧困化、進行 →「切支丹」と異端的宗教活動との判別、困難 *異端的宗教活動は、キリシタン禁制という宗教政策にどのような影響を及ぼしたか? 1.隠し念仏と「切支丹」 18 世紀中期~、異端的宗教活動が「切支丹」とされる事例登場:隠し念仏(東北諸藩領) 宝暦 4 年(1754) 仙台藩陪臣山崎杢左衛門ら、「犬切支丹」とされ、磔(史料 1) →その後、当地の隠し念仏は「切支丹同様」の扱いで弾圧を受ける 文化元年(1804) 仙台藩領大沢辺出身の医者木村養庵、盛岡藩・八戸藩領にて法談、 「切支丹」との評判、 追放 文化 13 年(1816) 木村養庵から相伝した八戸藩領志和郡下土舘村儀兵衛(禅教)・北片寄村清兵衛、「切 支丹」との風聞、牢舎、後牢死 文政 8 年(1825) 儀兵衛(禅教)から相伝した医者及川立益(順證)、「本誓寺御堂守切支丹」とされ(文 政 5 年捕縛され、翌年本誓寺に預けられていた)、蟄居中病死 「犬切支丹」「切支丹同様」という位置づけ:侮蔑の呼称 →自称ではない:規制すべき異端的宗教活動を貶める手段 *俗人を導師とする宗教活動が、「切支丹」的なものとして弾圧される →ただし、これはあくまで「切支丹」的なものであるので、異端的宗教活動の範疇に留まる 2.キリシタン禁制の変質 京坂「切支丹」一件:文政 10(1827)年摘発、同 12 年処刑 *表向き「稲荷明神下」として加持祈祷の活動をしていた陰陽師豊田みつき ら、「切支丹」として摘発 *近世後期、「切支丹」が露顕した最初の事件:浦上一番崩れ(1890)・天草崩れ(1805)では、「切支丹」の 存在は認められなかった →信仰活動の内容は、複数の民間信仰を組み合わせたもの:ほかの異端的宗教活動とたいして変わらない *本来、「奇怪」「異説」「異法」として扱われるべきところ、「切支丹」の側に追いやられた:吟味により 無理矢理「切支丹」とされたわけではない 被疑者の一人さのは、信仰心の高揚から「天帝」を一目拝みたいと人形遣いの一行に紛れて長崎へ行き、 踏み絵を踏んだと証言(史料 2) →幕府評定所もこれを「切支丹」としてよいかどうか迷う(史料 3・4) -1- *実際、「奇怪」「異説」「異法」と「切支丹」の判別困難:通俗的排耶書『蛮宗制禁録』(19C 初成立)で は、「隠し秘する物何事ニ寄らす能事はなきものなり」「隠して授教する法あらハ御用心有へし」と指摘 (史料 5) →「切支丹」断定の決め手は本人の認識如何「此法者天下御厳禁之宗門切支丹天帝如来を念候」 京坂「切支丹」一件:近世後期の「切支丹」登場の事例として、以後の「切支丹」イメージに決定的影響 *世俗秩序から逸脱する象徴(史料 6) おわりに 19世紀前期、キリシタン禁制の内実は大きく転換 →キリシタンを取り締まる宗教政策というよりも、世俗秩序から逸脱する対象を取り締まる手段へ転換 *風俗統制・宗教者統制強化の根底にキリシタン禁制の内実の変化 天草崩れ・浦上崩れ →宣教師時代の系譜を引く世俗秩序に埋没する者が「奇怪」「異説」「異法」の一環として処理される 京坂「切支丹」一件 →民間信仰・流行神の系譜を引く世俗秩序からの逸脱を自覚する者が「切支丹」として処理される →キリシタン禁制を基軸とする近世秩序の動揺・解体へ:新しい秩序構築への模索 【参考文献】 門屋光昭『隠し念仏』(東京堂出版、1989 年) 大橋幸泰「文政期京坂「切支丹」考」(『日本歴史』664、2003 年) 大橋幸泰「近世の秩序と「異宗」と「切支丹」」(『キリシタン文化研究会会報』122、2003 年) 大橋幸泰「民間信仰と「切支丹」の間」(『大塩研究』52、2005 年) 大橋幸泰『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』(講談社、2014 年) 【付 記】 大橋のホームページに講義済みのレジュメを公開している。欠席した場合、ここからダウンロードのこと。 http://www.f.waseda.jp/yohashi/ -2-
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