1 博士学位請求論文要旨 題目「東晋南朝における山水と知識人」 【論文

博士学位請求論文要旨
題目「東晋南朝における山水と知識人」
【論文の主題と当該研究分野における位置づけ】
本稿は、東晋南朝(司馬炎が洛陽を首都として建国した晋王朝が、北方民族の侵入によ
って事実上崩壊し、司馬睿が建康において元帝として即位した 318 年から、南朝最後の王
朝である陳が隋によって滅ぼされる 589 年まで)における山水(山と水のある環境)と、
その山水をめぐる人間の活動において、中心的役割を果たした知識人についての研究であ
る。
六朝における都市と山水との関係をテーマとした詳細な研究として、大室幹雄『園林都
市 中世中国の世界像』1を挙げることができる。本書は、江南で誕生し、成熟した文化を、
都市と郊外、田園、山水を舞台として論じたものであるが、小論においては、大室の先行
研究の考察に従いつつ、①「山と河川から成る環境としての山水」から、「風景や趣きと
しての山水」への山水の概念的変化、②建康・会稽・廬山における環境としての山水の具
体的な機能、の 2 点を中心に、山水に造営された荘園や山水をモチーフとして造られた庭
園の所有者であり、かつ、山水における活動の中心的人物であった知識人の立場から考察
し、東晋南朝における山水に関する社会的・文化的背景を、歴史的に明らかにすることを
目的とする。
【論文の構成】
はじめに …………………………………………………………………………………
第1章 東晋南朝における山水観の展開 ……………………………………………
はしがき ……………………………………………………………………
第1節 正史中にみえる「山水」の語の使用例 ………………………
第2節 知識人の山水観 ―『世説新語』を中心に― ………………
第3節 東晋南朝における山水の諸相 …………………………………
むすび ………………………………………………………………………
注 ……………………………………………………………………………
表 正史中にみえる「山水」の語の使用例 ……………………………
第2章 政治権力と山水における知識人 ……………………………………………
はしがき ……………………………………………………………………
第1節 江南社会と陶淵明 ………………………………………………
第2節 劉宋政権と郷里 …………………………………………………
第3節 郷論のなかにおける隠逸的知識人と政治権力 ………………
むすび ………………………………………………………………………
注 ……………………………………………………………………………
表 『宋書』隠逸伝にみえる徴辟状況 …………………………………
第3章 建康の山水庭園と自然に対する知識人の視点 ……………………………
はしがき ……………………………………………………………………
第1節 知識人の山川に対する一視点と建康の山水庭園 ……………
第2節 山水庭園における「山」
「水」
「光」
「風」について ………
第3節 会稽・廬山の山水と建康の山水 ………………………………
むすび ………………………………………………………………………
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大室幹雄『園林都市 中世中国世界像』
、東京:三省堂、1985 年。
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注 ……………………………………………………………………………
第4章 廬山の山水と知識人 ―劉宋建国期の白蓮社を中心に― ………………
はしがき ……………………………………………………………………
第1節 廬山白蓮社の隠逸 ………………………………………………
第2節 廬山の山水の性質 ………………………………………………
むすび ………………………………………………………………………
注 ……………………………………………………………………………
表 『宋書』巻 93、隠逸伝掲載の人物と山における活動 ……………
第5章 会稽の山水と知識人
―東晋から劉宋初における隠逸と知識人の交流を中心に― …………
はしがき ……………………………………………………………………
第1節 会稽周辺の隠逸 …………………………………………………
第2節 王氏と謝氏を中心とした知識人集団とその交流関係 ………
むすび ………………………………………………………………………
注 ……………………………………………………………………………
おわりに …………………………………………………………………………………
表 論文中で言及した山水庭園一覧 …………………………………………………
地図 東晋南朝建康推測図
…………………………………………………………
地図 建康周辺図 ………………………………………………………………………
地図 華中地区 …………………………………………………………………………
地図 中国の山脈 ………………………………………………………………………
地図 中国年平均気温 …………………………………………………………………
地図 中国年降水量 ……………………………………………………………………
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第 1 章では、正史中にみえる「山水」の語の使用例から、正史の中に記された「山水」
の表現内容を述べ、その表現内容から読み取れる「山水」が、南朝においてそれぞれどの
ような役割を担っていたのかを考察した。
「山の水」や「険しい地形」としての面が重視されていた環境としての「山水」が、東
晋南朝からは、
「山と水のある風景やその趣き」という面が重視されるようになった。その
理由としては、南渡してきた西晋の知識人たちによって、山や水に囲まれた自然景観がよ
り身近なものと認識されるようになり、同時に山と水のある風景としてのイメージが、従
来存在した「山水」ということばを用いることで、はっきりと定着していったためと考え
られる。
東晋南朝において、山水は、風景(landscape or scenery)と認識された。また、風景と
しての魅力を持つようになったことにより、山水は、詩や絵画などの芸術の題材や建築に
おける造営の修飾としても用いられるようになった。環境としての山水が、情緒的に解釈
され、文化として知識人たちに浸透していくことで、都市において、文芸・庭園・絵画な
どの分野で、山水がひとつのモチーフとして表現されるようになったのである。
第 2 章では、山水で活躍する代表的な知識人としてとらえられる「隠逸」とよばれる人々
が、どのようにして政治権力と対立することなく、当時の社会において発言力や影響力を
持つに至ったのかを考察した。
劉宋建国期、地方に対する新政権の懐柔策として、いくつかの政策が初代皇帝の劉裕に
よってとられたが、郷里において人気の高い人物を、官に召し出すことはそのひとつであ
った。しかし、陶淵明のように、官職の必要性のなさから召し出しに応じない知識人も多
く、為政者は彼らを「隠逸」と位置づけ、超俗的な有徳の士として評価した。隠逸は、政
治を批判することなく、文化的素養の高かった西晋以来の有力一族に属する高官と交流し、
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それ以前の郷論の構造を変化させ、新たな価値観と文化を生み出した。
第 3 章では、東晋南朝の建康においてみられる山水庭園の造営と、その山水庭園の施主
である知識人が、山水をどのような視点で観察し、自然風物のなかでも何を重視していた
のか、という点を中心に考察した。
建康に移ってきた西晋の知識人の、山水をはじめとする自然風物に対する視点は、故郷
を失った悲哀や愁いを表現するため、南渡してきた当初から有していたものであった。知
識人の持つ山水をはじめとする自然風物を情緒的に観察する視点は、山水に対する新しい
見方を生み、山水庭園の造営の表現法に影響を及ぼした。その造営の中には、
「山」
「水」
「光」
「風」が風景の要素として組み込まれており、風流や歓楽のためにも、これらと親しむこ
とのできる環境は重要視されていたと考えられる。
同時に、風景の中にその趣きの本質的要素として、「山」「水」「光」「風」を見出したこ
とによって、都市の庭園、詩文、絵画などの分野において、文化的に洗練された「山水」
を再現・表現することが可能となり、山水文化の発展のきっかけになった。
第 4 章では、建康とつながりが深く、正史の隠逸伝にも多く登場する廬山の山水の実態
について論じた。
廬山に存在した釈慧遠を中心とした仏教的結社である白蓮社は、僧だけでなく、隠逸や
政府の高官など、当時の知識人が集まる場として機能しており、政治に関わる世間での評
判、世論が存在していたと考えられる。この点において、俗世間と切り離されて、実際の
隠逸的山水が成立していたわけではない。隠逸が、知識人に評価され、隠逸としての性格
をより強めていく一方で、同様にまた、隠逸にとっての山水の役割も変化していったので
あり、廬山の山水は、学問的な性格をもっていた山水から、隠れた逸材を国家に招くとい
う、建国期にともなう政治権力からの需要をうけて、世間や都市の文化と切り離されるこ
となく、隠逸的性格を持つ山と認識されるようになった。
第 5 章では、廬山と並んで山水の佳観で有名であり、当時の知識人に好まれた地である
会稽の山水の実態について、論じた。
謝氏が会稽において別業を設け、土地の占有を展開して利益を得ていたように、王氏も
会稽の上虞県を拠点のひとつとしており、王氏も謝氏と同様に会稽において経済的活動を
展開していたと考えられる。会稽の地に勢力をもつ有力な一族たちにとっては、山と水の
ある環境という面において、山水は重視すべき経済的基盤であり、一族の利益を守ること
は重要な課題のひとつであった。そして、そのような有力な一族たちの協力体制の一端が
表出しているのが、隠逸たちの交流であった。第 5 章で取り上げた、隠逸伝に名のある人
物は、みな有力な一族の出身であり、そのため、彼らの一族の中には高い官職に就いてい
るものも少なくない。これにより、山水における隠逸たちの交流のなかにも、官人がしば
しば登場したのだと考えられる。
【論文の独自性】
論点となるのは、まず第一に、東晋南朝期に史料上見られる「山水」の語義の多様化が、
いつ、どのようにして起こったか、ということである。山水における経済的活動や、山水
文学の発達に関する先行研究は、国内外を含め数多く存在するものの、「山水」そのものの
語義が多様化していることを明確にした研究は、管見の限り見当たらない。
「山水」の語が、
当時の社会のどのような状態を反映して、多様化していったのか、この点を特に第 1 章に
おいて論じる。
第二に論点となるのは、山水観の変化のきっかけをもたらしたと考えられる知識人の実
態についてである。
本来、知識人とは、世間や社会に対して、自身の思想や意見を言論や芸術、姿勢等の手
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段によって提示する力を有する人々を指す。ただし、本論で考察の対象とする東晋南朝の
時代においては、知識人、とりわけ、本論で論じる官職に就かない知識人(隠逸や僧)は、
現代用いるところの意味とは異なり、原則的に政治と無関係な立場をとり、責任やリスク
を負うことなく、超俗的な態度を用いて超越的な理論を述べるにとどまる場合が多く、政
治や軍事に対しては、むしろ軽んじる姿勢をとり、保身的な言動をとることが通常である。
つまり、彼らは、世間や社会の事象に対して、単にそれまでとは異なる見解や価値観を示
すという役割を果たした存在に過ぎず、政治権力や体制を批判したり、相反する主張をし
たりする存在ではない。
『晋書』巻 50、庾峻伝では、士が官人か非官人かはその人間の性質によるもので、どち
らもともに価値のあるものであると説いており、政権側と山林に依拠する知識人との関係
は、相反せず存在しうるものであったが、これは、西晋において初めてみられる理論であ
る。東晋南朝以前から、殷周交代期の伯夷・叔斉や秦末の四皓、魏の竹林の七賢など、隠
逸の思想は存在したが、彼らには、政権や体制を批判する一面があった。上述のような理
論のもと、
「朝廷の士」と「山林の士」が矛盾せず、日常的に相互に交流をはかるようにな
ったことは、東晋南朝における知識人の特徴である。
東晋南朝より前の時代と比較すると、東晋南朝において、官職に就かない知識人に対す
る考え方は大きく変化した。理論上、
「朝廷の士」にも劣らない地位を得た「山林の士」は、
言論や活動による表現において、社会や世間に対して大きな影響力を持つようになったの
である。
「山林の士」の存在が当時の社会に浸透し、知名度や存在感を増していくことは、
彼らの活躍の場であり、また精神的な拠り所であった「山水」とその趣きが、人々に認知
され、価値が見直され、再評価されるきっかけになったと考えられる。
よって、山水の問題を考える上で、「山林の士」が当時の社会や世間の中でどのように把
握され、その立場や地位を変化させていったのか、ということが重要になる。
第 2 章では、
「山林の士」とよばれる存在の代表的な例として、「隠逸」といわれた官職
に就かない知識人を取り上げ、彼らが、南遷してきた晋王朝の政治権力と関わっていく過
程で、どのようにしてその隠逸としての立場を確立していったのか、また、政治権力は、
官職に就かない知識人に対して「隠逸」という地位を与えることで、何を得ようとし、ど
のような結果を招いたのか、ということを考察する。
第三に論点となるのは、当時の社会における山水の実態である。
東晋南朝期に、
「山水」の語義が拡大したことは、山と水のある環境やその土地における
人間の活動が、複雑・多様化したことを示している。山水にどのような人々が集まり、ど
のような活動を行ったのか、ということを明確にすることは、当時の人々の山水に対する
概念の変化や、山水が都市社会にもたらす影響と可能性を考える際の手がかりとなる。
そこで、首都である建康と、史料上たびたびその名が挙げられる廬山(尋陽)の山水及
び会稽の山水を取り上げ、それぞれ章を分けて、第 3・第 4・第 5 章において詳述する。
第四に論点となるのは、山水における人間の活動が展開されていく過程で、知識人たち
が、どのようにして、山と水のある環境の中に価値を発見していったのか、ということで
ある。この点については、第 1 章から第 5 章において、適宜言及していくが、疑問点も数
多く残される。
山水観の変化について見ていく際、史料上では、東晋南朝期の初期においてすでに、大
きく変化しているように考えられる。そして、この山水観の変化によって、新たな価値観
が生まれ、山と水辺から構成される「風景」が東晋南朝において、発見された。
中国と類似した経緯をたどって、西洋においても「風景」が発見されているが、ピエー
ロ・カンポレージ『風景の誕生―イタリアの美しき里―』2によれば、西洋における「風景」
Piero camporesi,Le Belle Contrade:Nascita del Paesaggio
Italiano,Milano:Garzanti,1992(ピエーロ・カンポレージ著、中山悦子訳『風景の誕生―
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の発見は、16 世紀以降と時代的にもかなり遅く、また、山と水のある環境を人間(とくに
建築家や技術者)が注意深く観察するようになってから、「風景」が文化的に獲得されるま
で、200 年あまりの時間を要している。
このような西洋の状況と比較すると、東晋南朝における山水風景の発見というのは、あ
まりにも時代が早く、また風景の発見に至る過程においても性急すぎる感が否めない。
先行研究は、中国における山水の価値の発見について、山水と人間が関わっていく中で
美を発見した、という審美的理由を最終的に指摘するが、それだけでは、この疑問点が解
消されない。
第 1 章から第 5 章を通して、この時期に山水が注目され、軍事や経済的な実利的な価値
のほかに、情緒的な価値が見出され、文化的に大きな発展をとげたこと、またその過程に
おいて、中原の洗練された文化をもたらした、南渡してきた西晋の高官と、政治権力と無
関係な立場をとり、超俗的・超越的な表現を重視した隠逸や僧が、重要な役割を果たした
ことが明らかとなった。
ここにおいて、東晋南朝の時期、山水をめぐる文化が、現代の価値観とも共通する風流
的山水の文化へと急速に展開した理由として、先行研究が指摘する点のほかに、新たに、
以下の 4 点を挙げることができる。
(1)故郷を失った悲哀や寂寥感が、西晋の有力一族出身の知識人たちを、南遷当初から
山や河川をはじめとする自然風物に情緒的に注目させたこと。
(2)建康やその陪都的性格をもつ長江沿いの大都市を、軍事的・経済的に、環境として
の山水が支えていたと同時に、その山水を管理する知識人の往来によって、山水を主題と
した文芸や表現が都市へ伝わり、文化的にも山水が都市を支える要素のひとつとなってい
たこと。
(3)皇帝を頂点とする政治権力の枠組みだけではとらえられない、官職につかない知識
人の立場や価値観が為政者に認められ、
「朝廷の士」と対の存在である「山林の士」が、知
識人(高官・隠逸・僧)たちの交流のなかで、高官と同等の発言力や影響力を得たこと。
(4)軍事的・経済的・文化的に重視された山水と直接関わった存在である知識人が、中
国の伝統的に、高官(もしくは有力一族出身者)であり、かつ、技術者であり、また文学
者・芸術家でもあったこと。
これらの点が加わることにより、西洋における山水をめぐる文化の発展と比較して、中
国において、時代的にも早く、またその経過においても短期間のうちに、洗練された山水
文化が登場した理由を考察する足がかりとなることと思う。
【今後の課題】
小論では、ほとんど言及することができなかった、北朝における環境としての山水およ
び、山水文化の実態について考察を加えることは、南朝の山水と比較することによって、
山水研究の精度を増すことができるだろう。また、仏教的な影響についても、研究を進め
る必要がある。江南の山水文化を研究するにあたり、山水をモチーフとした庭園や地形と
しての山水における建築の場面において、西域の影響が考えられる。また、図像の表現に
おいても、西域やインドの美術と共通する点が多く見られた。これらについての関連に対
する考証も、今後の課題である。
イタリアの美しき里―』東京:筑摩書房、1997 年)。
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