日本の国はいつできた?

地名を解く 7
日本の国はいつできた?
東日本編
三重県
今
井
欣
一
夫婦岩の日の出
『日本の国はいつできた?』 東日本編
1
2
3
4
5
6
東日本
目次
地名の性質
地名の断絶
国・郡の成立
一万束、一千町歩、一万町歩
武蔵国の郡
律令国家『日本国』誕生
国名・郡名の起源をさぐる
①
東海道
②
③
東山道
北陸道
伊賀、伊勢、志摩、尾張、參河、遠江、駿河、伊豆、
甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸
近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽
若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡
西日本
④
⑤
⑥
⑦
⑧
畿 内
山陰道
山陽道
南海道
西海道
山城、大和、攝津、河内、和泉
丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐
播磨、備前、備中、美作、備後、安藝、周防、長門
紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊豫、土佐
筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隅、
薩摩、対馬島、壱岐島
原日本語の表現法
倭国から『日本国』へ
『西日本編』へ >>
1
まえがき
さまざまな新技術が開発されて、考古学をはじめ分析科学が進化している現代において、
まったく研究が行なわれていない不思議な分野がある。それが、本サイトで取り上げて来
た『地名』である。
極めて論理的に構成した『地名』を集計・分析すると、自然に命名年代が浮かびあがる
ので、約 3 万例の地名を用途別の地名群に分類してそれぞれの特性を導き出し、
『地名』の
命名法則と意味を推定したのが、次の六つの章である。
第一章「山手線の駅」
、第二章の「京浜東北線の駅」では、東京都、神奈川県、埼玉県の
中枢を走る両線の駅が、主要都市の『字名』を採用した史実をあげた。この字名の大多数
が古代(縄文・弥生時代)の地形を表わす言葉…二音節の動詞(おもに他動詞)を掛け言葉で
結び合せた地形語…を使って、地形表現をした様子を導き出した。
第三章「言葉と地名」では、大半が弥生時代に命名されて、字名より進化した表現法を
とった自然地名の『峠名』を主題に、普通名詞…「桜」峠、「仏」峠、「鳥越」峠など…が
事物を表わしただけでなく、地形表現を併せ持っていた史実をあげた。
第四章「地名考古学」では、縄文時代につけた『字名』と、縄文~弥生時代に命名した
自然地名の『岬名、島名』を中心に置き、字名→自然地名に共用された両者の命名法が、
時代に応じて進化した様子をとりあげた。ここでは、自然現象の地球温暖化により大気温
が上がって、海水面が現在より 3~5m上昇した『縄文海進→海退:ピークは 5,500 年前』
の痕跡が、全国の字名、
『崎名、島名』に残されているので、古地形と字名を対照して命名
年代の推定を行なった。
第五章「日本語のリズム」では、子音を必ず語尾に置く「開音節」
、という周辺の国々に
見られない、独特の韻律(リズム)を採用したのは、自然の音を基本に置いて、掛け言葉の
活用を計る「原日本語:縄文時代の言語」を、現代に継承した史実を検証した。
第六章「富士の語源」では、前半に『川』の命名法則、後半に『山名』のつけ方を検討
した。川は「水源、峡谷、扇状地、渡河地、湊」など、流域の重要な『字名』を採用した
事実が浮上する。山名は分布状況と命名年代が違う「山、岳、峰、森」は、
「山そのものに
つけた名」と「周辺の字名を採った名」の混合と捉えられる。表題は、富士川と富士山に
採られた字名が、前者は山梨県、後者が静岡県にあるので、
「富士の語源」とつけた。
本章、次章の「日本の国はいつできた?」は、広域地名の大半が『字名』を採ったので、
ここに注目して、
『延喜式』
『和名抄』に記録された「国名:66 国 2 島」
「郡名:591 郡」の
起源地名、全数を復元すると律令時代の地勢が浮上する。
『延喜式』に載る各国ごとの租税、
『和名抄』の水田面積を対照すると、
『日本書紀』が記した史実とは違った様相が現われる。
持統天皇 4(690)年秋に成立した『日本国』には、それ以前の歴史があり、いつ、誰が、
何処につけたかを、
『地名』の論理を基本に据えて探るのが、本章と次章の主題である。
2
地名を解く 7
『日本の国はいつできた?』 東日本編
平成 27 年 3 月 14 日、待望の「北陸新幹線」が開業して、『かがやき』が東京~金沢間を
約 2 時間半で結びつけた。これにより北陸が注目を浴びて、
「福井、石川、富山、新潟」の
県名と共に、「越前、加賀、能登、越中、越後」の旧国名をひんぱんに聞くようになった。
ところで、この五つの国の発音に、違和感を覚えたことはないだろうか?
こし
「越前、越中、越後」は、飛鳥時代末に「越国」を三分割して造った国名である。越は、
国名より「コシヒカリ、越乃寒梅」が有名だが、越前と越中の間にはいる「能登」は奈良
時代、
「加賀」は平安時代に越前国から独立した国だった。飛鳥時代に生まれた「エチゼン、
エッチュウ、エチゴ」が漢字の音読み(漢語の読み方)であるのに対して、「のと、かが」
は訓読み(和語の読み方)なのが、和漢混交の国名に違和感が発する原因である。
「越前、越中、越後」国は、最初から「エチゼン、エッチュウ、エチゴ」国と呼ばれたわ
けでなく、いまはまったく忘れ去られた「越道前:こしの みちの くち」
「越道中:こしの
みちの なか」「越道後:こしの みちの しり」という、越国を三分した名が原型だった。
新国名を造った同じ時期に、
『国名は、二文字の漢字で表わす』という法令を定めたために、
こしのみちのくち
こしのみちのなか
こしのみちのしり
「 越 道前 →越前。 越 道中 →越中。 越 道後 →越後」と省略二文字化して、長い読み方も
失われ、音読みの「エチゼン、エッチュウ、エチゴ」が定着したのだった。
き
び
き び の みちのくち
ビ ゼン
き び の みちのなか
ビッチュウ
き び の みちのしり
同じ時期に分割された「吉備」国は、
「吉備 道前 →備前。吉備 道中 → 備中 。吉備 道後 →
ビ ンゴ
ち くし
ちくしのみちのくち
チクゼン
ちくしのみちのしり
チ クゴ
とよ
とよみちのくち
「筑紫」国も「筑紫 道前 →筑前。筑紫 道後 →筑後」国、豊国も「豊 道前
備後」国となり、
ブ ゼン
とよのみちのしり
ブ ンゴ
ひ
ひの みちのくち
ヒ ゼン
ひの みちのしり
ヒ
ゴ
→豊前。 豊 道後 →豊後」国、肥国も「肥 道前 →肥前。肥 道後 →肥後」国へと変貌した。
現代に伝えられた『豊後国風土記』
、
『肥前国風土記』の読み方も、「とよの みちの しりの
くにの風土記』
、
『ひの みちの くちの くにの風土記』が正式名である。
記録がないと考えられている、この 12 国が誕生した時期は、意外なことに『日本書紀』
持統紀、
『續日本紀』文武天皇紀の編年体の記述に「筑紫国→筑後・筑前国」
「越国→越前・
越後国」の変化が記されたことや、平安時代中期の『倭名類聚抄:和名抄
巻五』にのる
各国水田面積と、
『延喜式 巻二十六 主税上』に記された租税の稲束数を基に分析すると、
「越、吉備、筑紫、豊、肥」国を分割した年代を推理できる。このテーマは、我が国が、
いつ律令国家に統一されたかを判定する手掛かりになるので、慎重に考えて行きたい。
律令時代に定めた「近江、若狭、越前、能登、加賀、越中、越後、佐渡」などの旧国名
は千年ほど使われたのち、明治 4 年 7 月 14 日の『廃藩置県』により「滋賀、福井、石川、
富山、新潟」県に、名前と行政機構を替えて消滅した。というのが一般常識である。
ところが次の図を御覧いただきたい。たしかに名前と行政機構は変わったが、旧国域は
「近江国=滋賀県」、
「若狭国+越前国=福井県」、
「能登国+加賀国=石川県」、「越中国=
富山県」
「越後国+佐渡国=新潟県」の県域に引き継がれたのである。
3
ただし、いま行なった国と県の比較は、『廃藩置県』の結果だけを記したものである。
近江国の領域は、明治 5 年 9 月に滋賀県へ受け継がれた。ところが明治 9 年 8 月、敦賀県(今
の福井県と同等の県域)の若狭国・越前国敦賀郡の範囲が滋賀県に移管され、越前国東部も
石川県に編入されて敦賀県は消えてしまった。この後、明治 14 年 2 月に名を替えた福井県
が再建されて、滋賀県も元の近江国の領域に戻った。
にいかわ
さらに明治 9 年 4 月に新川県(後の富山県)も石川県に併合され、明治 16 年 9 月に富山
県が復県するまで、北陸地方に「滋賀、石川、新潟」県と、
「福井、石川、新潟」三県鼎立
の時代がつづいた。
結果だけをみると、
『廃藩置県』は旧国域を現在の県域に改めただけにも見えるのだが、
実際は各地での勢力争い、葛藤が激しく行なわれたようである。
大和国は明治 4 年 11 月に奈良県へ変ったが、明治 9 年 4 月に堺県(旧河内国+和泉国)
に併合されたのち、明治 14 年 2 月、堺県も大阪府(旧攝津国東部)に吸収されて消滅した。
ふたたび、大和の範囲に奈良県が復活したのは、明治 20 年 11 月だった。
単純そうに見える四国の変遷は複雑で、明治 4 年 11 月に生まれた香川県は、明治 6 年 2
みょうどう
月に 名東 (後の徳島)県へ吸収されて一旦消滅した。明治 8 年 9 月に復活したが、翌年、
み たび
今度は愛媛県に飲み込まれた後、明治 21 年 12 月 3 日に三度、香川県が誕生した。これに
より四国に「徳島、香川、愛媛、高知」の四区画が再現されて、現代に続く全国の府県名
と領域が確定した。この諸国と同様、一時消えた国々に次の名があがる。
明治 4 年 10 月に生まれた群馬県は、明治 6 年 6 月に入間県と合併して熊谷県を名乗り、
明治 9 年 8 月に入間県の範囲を埼玉県に割譲して、群馬県が復活した。明治 9~14 年の間
は島根県に入った鳥取県。やはり明治 9~13 年の間、高知県に属した徳島県(旧名:名東県)。
4
明治 9~16 年の間は長崎県になった佐賀県と、おなじ期間を鹿児島県に所属した宮崎県が
あり、旧国境と今の県境は微妙に違っているところは多い。しかし大勢を見れば、旧国域
の 1~3 国を現在の都府県域に存続した、と捉えて良いと思う。
『廃藩置県』が実施された明治 4 年頃は、維新の改革という清新の意気が感じられたが、
全国の県域が決まりかけた明治 9 年頃には、律令時代の国域とほとんど変わらなくなって
しまった。これもこの国特有、約千年間続いた重厚な伝統によったのであろう。旧国域が
現代の県域にどのように引き継がれているかを分類すると、次のようになる。
東 北
む
つ
リクチュウ
リクゼン
いわ き
いわしろ
陸奥(青森県)、 陸中 (岩手県)、陸前(宮城県)、磐城+岩代(福島県)、
羽後(秋田県)、羽前(山形県)
みちのく
む つ
陸奥・出羽国では、江戸時代から「陸奥、陸中、陸前、磐城、岩代」「羽後、羽前」の区
分が使われていて、明治元年に国名へ昇格した。だが『廃藩置県』により、明治 4~9 年に
正式な県名、
「青森、岩手、宮城、福島、秋田、山形」が定められて消滅した。
関 東 常陸+下総北部(茨城県)、下野(栃木県)、上野(群馬県)、武蔵北部(埼玉県)、
武蔵中部+伊豆諸島(東京都)、下総南部+上総+安房(千葉県)、
武蔵南部+相模(神奈川県)
中 部 越後+佐渡(新潟県)、越中(富山県)、加賀+能登(石川県)、越前+若狭(福井県)、
信濃(長野県)、甲斐(山梨県)、伊豆半島+駿河+遠江(静岡県)、
飛騨+美濃(岐阜県)、参河+尾張(愛知県)
近 畿 伊勢+志摩+伊賀+紀伊東部(三重県)、近江(滋賀県)、
山城+丹波東部+丹後(京都府)、攝津西部+播磨+丹波西部+但馬+淡路(兵庫県)、
攝津東部+河内+和泉(大阪府)、大和(奈良県)、紀伊西部(和歌山県)
中 国 因幡+伯耆(鳥取県)、出雲+石見+隠岐(島根県)、備前+美作+備中(岡山県)、
備後+安藝(広島県)、周防+長門(山口県)
四 国 阿波(徳島県)、讃岐(香川県)、伊豫(愛媛県)、土佐(高知県)
九 州 筑前+筑後+豊前北部(福岡県)、豊前南部+豊後(大分県)、肥前東部(佐賀県)、
肥前西部+壹岐+對馬(長崎県)、肥後(熊本県)、日向(宮崎県)、
大隅+薩摩(鹿児島県)
『廃藩置県』によって旧国名は失われたが、領域は今の都府県域におおむね継承されて
おり、各国域の決め方、国名の意味を探索することが大切である。まず律令時代の国名全
部(上下、遠近、前中後を除いた 58 国)を再掲し、音数別に分類してみよう。国名につづく
カッコ内の仮名は、平安時代中期に編纂した『倭名類聚抄』にのる振り仮名である。この
振り仮名に、地名と倭語(→日本語)の基本理論が込められているところが大切である。
5
み
ち の
を く
や
ま し ろ
い
て は
ひ た ち
む
さ し
さ
か み
わ
か さ
し
な の
す
る か
あ
ふ み
み
か は
を
は り
あ
ふ み
や
ま と
か
ふ
ち
い
つ み
た
に は
は
り ま
あ
は ち
た ち ま
い
な ぱ
は は き
い づ も
い
は み
す
な か と
さ ぬ き
ち
く し
ひ
う か
け
の
あ
か
か
ひ た
み の
い つ
か ひ
い せ
し ま
い か
お き
き ぴ
あ
あ
い よ
5音
陸奥(三知乃於久)
4音
山城(夜萬之呂) 美作(美萬佐加) 大隅(於保須美)
3音
出羽(以天波) 常陸(比太知) 武蔵(牟佐之) 相模(佐加三) 若狭(和加佐)
み ま さ か
お ぼ す み
信濃(之奈乃) 駿河(須流加) 遠江(阿不三) 参河(三加波) 尾張(乎波里)
近江(阿不三) 大和(夜萬止) 河内(加不知) 和泉(以都三) 丹波(太邇波)
播磨(波里萬) 淡路(阿波知) 但馬(太知萬) 因幡(以奈八) 伯耆(波波岐)
は う
出雲(以豆毛) 石見(以波美) 周防(須波宇) 長門(奈加度) 讃岐(佐奴岐)
さ つ ま
つ し ま
筑紫(知久止) 日向(比宇加) 薩摩(散豆萬) 對馬(都之萬)
2音
は
ふ さ
こ し
さ と
の と
毛野(介乃) 安房(阿八) 総(不佐) 越(古之) 佐渡(佐渡) 能登(能登)
加賀(加賀) 飛騨(比太) 美濃(美濃) 伊豆(伊豆) 甲斐(賀比)
伊勢(以世) 志摩(之萬) 伊賀(以加) 隠岐(於岐) 吉備(岐比)
き
は
と さ
と よ
ゆ き
安藝(安藝) 阿波(阿波) 伊豫(伊與) 土佐(土佐) 豊(止與) 壹岐(由岐)
1音
つ
せっつ
き
ひ
津(→攝津) 紀(→紀伊) 肥
と
ふ た あ
ふ み
ち
か つ あ
ふ み
ここでは遠江(止保太阿不三)・近江(知加津阿不三)は、遠近を除いて「淡海:あふみ」
さ
と
の
と
か
か
を原型とした。ただ、佐渡、能登、加賀などの易しい文字に振り仮名がついていないので、
ち
く し
つ
せっつ
き
『古事記』
同じ文字を連ね、振り仮名のない筑紫(知久止)と津(→攝津)、紀(→紀伊)は、
『日本書紀』などに載る原型をもとにした復元形を記した。
み
ち
の
を
く
い
て
は
た
に
は
は
は
き
平安時代中期に「陸奥:三知乃於久」
「出羽:以天波」
「丹波:太邇波」
「伯耆:波波岐」
す
は
う
ゆ
き
「壹岐:由岐」国は、今と違った読み方をしていた様子がわかる。
「周防:須波宇」
国・郡・郷の読み方を載せた『倭名類聚抄』は、
『和名抄』の略称で親しまれ、我が国最
初の分類体百科事典として知られる。承平年間(931~938 年)に源順(みなもと したがふ)
が編纂し、24 部・128 門に分類した言葉の和訓を記録した平安時代を研究する上での大切
な資料である。とくに巻五から巻九に納めた『66 国 2 島、591 郡、4,000 余郷』の名は唯一
無二の資料で、律令時代の地名研究に不可欠と言える書籍である。『和名抄』には十巻本、
二十巻本、高山寺本など各種の伝承本があるが、本サイトは『倭名類聚抄 元和三年古活
(勉誠社 1978)を使用した。
字版 二十巻本 国立国会図書館蔵 中田祝夫編』
先にあげた関東の「毛野、総」国は、6 世紀初頭に上・下へ分割されたと考えられている。
か
み つ け
の
か
み つ ふ
さ
毛野→上野(加三豆介乃→かうつけ→こうずけ)
総
→上総(加三豆不佐→かんずさ→かずさ)
し
も つ け
の
し
も つ ふ
さ
下野(之毛豆介乃→しもつけ)
下総(之毛豆不佐→しもうさ)
ただ、和名抄にのる「加三豆介乃→かうつけ。加三豆不佐→かんずさ」では、読みの変化
か
む
つ
け
の
か
む
つ
ふ
さ
「加牟豆不佐→かんずさ」に置き換え
過程を理解できないので、
「加牟豆介乃→かうつけ」
ると、ウ音便・撥音への変化に納得がゆく。
6
次の諸国は、
「越、吉備、筑紫、豊、肥」国を分割して、
「前中後」に分けた直後の読み
(越道前→越前。吉備道中→備中。筑紫道後→筑後など)
方を記した貴重な記録である。
越
こ
し の み
ち の く
ち
こ
し の み
ち の し り
き
ぴ
こ
→越前(古之乃三知乃久知→ヱチゼン)
し の み
ち の な
か
越中(古之乃三知乃奈加→ヱッチュウ)
越後(古之乃美知乃之利→ヱチゴ)
吉備→備前(岐比乃美知乃久知→ビゼン)
備中(吉備乃美知乃奈加→ビッチュウ)
備後(吉備乃美知乃之利→ビンゴ)
ちくし
筑後(筑紫乃三知乃之利→チクゴ)
筑紫→筑前(筑紫乃三知乃久知→チクゼン)
肥
豊
ひ
→肥前(比乃三知乃久知
と
よ く
肥後(比乃美知乃之利
→ヒゼン)
に
→豊前(止與久邇乃美知乃久知→ブゼン)
た
→ヒゴ)
豊後(止與久邇乃美知乃之利→ブンゴ)
に ぱ
丹波→丹後(太邇波乃美知乃之利→タンゴ)
た
に ぱ
丹後国は、和銅 6(713)年に丹波(太邇波→タンバ)国から分離したが、南部は丹前国に
ならず、丹波国の名を通した。この「上下・前中後」に分割された国々は。自発的に別れ
たわけでなく、支配政権や、律令政府による強制区分だったところが特に重要である。
律令時代の 66 国 2 嶋(壹岐嶋、對馬嶋)の地名の意味と発祥地の探索が本章の主題であ
るが、地名の音数が命名年代判定に役立つことは第四章『地名考古学』に述べた。そこで、
先に分類した「1 音:3」
「2 音:22」「3 音:29」
「4 音:3」
「5 音:1」の音数から、58 国の合計
は「1×3+2×22+3×29+4×3+5×1=151」
、平均音数は「151÷58=2.60 音」になる。
私たちが毎日使っている地名は、おおよそ 3~4 音で、2.6 音とは極めて低い音数である。
本章では、国名と共に律令時代の郡全数(591 郡)も扱うので、上下・東西へ二分した郡を
原形に戻した 580 郡の音数を集計すると、以下のようになる。
表 7-1 郡名の音数
郡 数
㊟
1音
2音
3音
4音
5音
1
6音
平均音数
東
北
46
6
29
10
関
東
88
23
39
26
中
部
104
1
36
46
20
近
畿
120
1
33
60
25
中
国
89
1
34
38
14
四
国
40
1
21
13
5
九
州
93
2
29
37
22
1
2
2.97
全
国
580
6
182
262
122
5
3
2.91
ほ
い
き
い
き
い
3.13
3.03
1
2.85
1
2
2.94
2.80
2.55
つ
う
そ
お
1 音:参河国宝飯郡(←穂) 山城国紀伊郡(←紀) 備中国都宇郡(←津)
おんせん
き
そ
伊豫国温泉郡(←湯) 肥前国基肄郡(←椽) 大隅国曽於郡(←襲)
7
これらの郡は、和銅 6(713)年に公布した「郡・郷の名は好き字を当て、二字化せよ」
との『好字二字化令』によって2文字化された。6 音の郡は攝津国東生郡(ひむかし なり)
と對馬嶋上縣郡(かむつ あかた)、下縣郡(しもつ あかた)だが、東生・西成郡を「生」
、
對馬の郡を「縣」にすると、近畿と九州の平均音数は 2.90、全国平均は 2.89 になる。
我が国の地名の特徴は、表のように、東北から九州地方までおおよそ一律の音数をとる
傾向が認められることである。この事実は、地名を付けた時代には、北から南まで、同一
言語、
『倭語』を使っていたことを語っている。各地名群の平均音数をとって地名群の特性
などを比較対照すると、様々な地名群の命名年代…主に縄文時代、弥生時代…を推定できる。
この作業を第四章『地名考古学』で行なったので、御参照いただきたい。
6 世紀頃に命名されていた国名の平均音数が「2.6 音」
、7 世紀末に整えた郡の平均音数が
「2.9 音」というのは興味を惹く現象であり、これまで検証したように、現代の市町村がど
の程度の値をとるかを再掲して、検討してゆこう。なお、このまえがきでは、次の各章で
検討した項目を再掲し、まとめていることをお断りしておきたい。
第一章『山手線の駅』
山手線と赤羽線沿革の解説と、全駅名の地名解釈をあげ、地名が二音節の他動詞を二つ
以上の『掛け言葉』を使って結びつけ、地形表現を基本に命名した様式を提起した。
第二章『京浜東北線の駅』
根岸・東海道本線「大船~横浜~大井町」
、東北本線「上中里~大宮」全駅の地名解釈と、
武蔵国「久良、都筑、橘樹、多磨、荏原、豊島、足立、埼玉」郡全郷の位置を推定した。
第三章『言葉と地名』
自然地名の「峠」名を基にして、
「桜、杉、松の木」峠などに使われた名は、峠を加えな
くても「∧型、∨型、斜面≒峠」の意味を備えていた史実を解説した。
第四章『地名考古学』
現代に存続する「島、岬、鼻、坂、越」は字名と自然地名に共用されていて、主に字名
地名が縄文時代、自然地名は弥生時代に命名された可能性を推理した。
第五章『日本語のリズム』
地名をアルファベットで表記すると、
「a>ⅰ>o>u>e 」の順に母音の使い方に
大差が現われて、弥生時代の地名は「e母音」の使用比率が上がる傾向を示した。
第六章『富士山の語源』
地名は、グループごとに命名法則があり、
「川」は流域にある要衝地名の集合体。「山」
は山体に直接つけた名と、沢・谷・川名など転用名の混合体である様子を示した。
8
第一章~第六章は、第七章『日本の国はいつできた?』を書くための準備作業であり、
とくに日本語に多い「2 音~4 音」の地名の解き方を、二音節の動詞(主に他動詞)を掛け
言葉で結んで地形を表現した仮説を立てて、地名解釈法を組み立てた。
たとえば、
「岡、小笠、岡崎」の解釈を行なうと、
「Woka:岡」
「笠、傘:kasa.∧型地形、
泝す:水に漬ける」
「先、崎:saki. 裂く:∧型・∨型地形」の意味と、
「Woka+kasa=Wokasa.
小笠:∧型の丘陵」
、
「Woka+kasa+saki=Wokasaki.小笠木、岡崎:丘状の岬型地形」など
「2 音」
、
「3 音」
、
「4 音」と、5 音の地名「Wokasafara=Woka+kasa+safa+fara=小笠原」
にも応用できる。この模様は同一種の地名群、たとえば峠名だけを 1,000~3,000 例くらい
集めて、アイウエオ順に整理すると、自然に浮かび上がる性質である。
また、三者三様に見える「岡端、尾側、小川:Wokafa」も、
「Woka(岡)+kafa(側、川)」
を考えると理解しやすい。岡端の尾側に「小川」が流れるのが自然の摂理であり、ここに
基本を置いた、論理的な命名法の素晴らしさを実感できる。
転用名の小川路峠(長野 時又)に「Wokafati=Woka(岡)+kafa(側)+fati(鉢、端:
∨型地形の端)
」
、小河内峠(東京
五日市)も「Wokafuti=Woka(岡)+kafu(交ふ:∨型地
形)+futi(縁、淵)」を考えれば、三音節と四音節の地名が一律に解ける。
これらの言葉の関連動詞に、
「Pa→Fa,Wa,A」行の転移を取り入れ、岡に「Foku:ほぐ、
ほぐす」
、側は「Kafu:交ふ」、端には「Fatu:果つ、はつる、外す」、縁に「Putu:ぶつ、
打つ」を想定できるところが大切である。なお掛け言葉の詳しい解説は、第三章『言葉と
地名』の「2 峠名の解き方 ⑴ 桜峠」に記したので御参照いただきたい。
この状況を頭に置いて、各種の地名を集めて地名群全体の平均音数、母音音型、地方毎
の分布状況を分析すると、地名群の命名年代測定ができる。そこで第四章『地名考古学』、
第五章『日本語のリズム』に縄文時代の地名、弥生時代の地名と、これ以後につけた地名
の区分法を記した。
ここで様々な地名群を分析して奇異に感じたのは、奈良時代に『地名』命名法が継承さ
れていなかったことである。この模様は、第三章『言葉と地名』の最後に、
「律令国家誕生」
の項に「上代特殊仮名遣い」
「好字二字化令」の項を設けて私見を述べた。地名命名の爛熟
期は弥生時代に想定され、古墳時代中期(5 世紀)頃から、地形表現を基本に置いた『地形
地名』が付けられなくなった雰囲気を感じとれる。
この仮説が極めて大切で、なぜ律令制度運用のために『好字二字化令』を公布し、文字
を当てた最初から、地名を原型から遠ざけたかを探索する必要があるので、この辺を詳し
く考えたい。
9
1.地名の性質
最初に記したように、平成 27 年 3 月 14 日に「北陸新幹線 長野~金沢」が開業した。
これに伴い、信越本線、北陸本線だった在来線を第三セクターに分割して委譲したため、
新しい鉄道会社が一挙に三つも生まれた。
しなの鉄道(既存)
信越本線
長野~妙高高原
えちごトキめき鉄道
信越本線
妙高高原~直江津 (妙高はねうまライン)
北陸本線
直江津~市振
北陸本線
市振~富山~倶利伽羅
北陸本線
倶利伽羅~金沢
あいの風とやま鉄道
あいあーる
IR いしかわ鉄道
(北しなの線)
(日本海ひすいライン)
しなの鉄道は、平成 9(1997)年 10 月 1 日に長野新幹線「高崎~長野」間が開業した際、
もと信越本線の「軽井沢~篠ノ井」間を民営化してできた第三セクターの鉄道会社である。
北陸新幹線「長野~金沢」間延伸に伴い、信越本線「長野~妙高高原」間を北しなの線と
名づけて「しなの鉄道」が経営することになった。ただし通勤ドル箱路線の「篠ノ井~長野」
間が、JR篠ノ井線の所属であるのは変わらない。
「しなの鉄道」が、ひらがな表記ではあるが、常識的な名前を使ったのに対して、新し
くできた三つの鉄道は、
平成 14 年 12 月 1 日に東北新幹線が八戸まで延びた時に生まれた、
元東北本線「盛岡~目時」間を継承した「IGRいわて銀河鉄道」
、平成 16 年 3 月 13 日の
九州新幹線の開業により鹿児島本線「八代~川内」間を委譲した、
「肥薩おれんじ鉄道」と
同じ趣向の路線名である。平成時代の新設鉄道名は、いちおう地名を入れて、かなと漢字、
アルファベットを交えた説明口調の長い名前にするのが定型になったようである。
しなの鉄道、IGRいわて銀河鉄道、肥薩おれんじ鉄道、えちごトキめき鉄道、あいの
風とやま鉄道、IRいしかわ鉄道の誕生年月日を記したのは、この種の名前が昭和時代の
路線に全く使われなかったからである。東京のJRでは「東北、常磐、高崎、中央、総武、
山手、京浜東北、埼京、東海道、横須賀」線などが使われ、私鉄も「京急、東急、小田急、
京王、京成」電鉄、
「西武、東武」鉄道、という漢字を使った短い名を使用してきた。
公共性をもつ『地名』の際立った特徴は、命名年月日が残されていることで、
「ひらがな」
を市町村名に初めて取り入れたのは、昭和 30(1955)年 3 月 31 日からだった。
「しなの、いわて、えちご、とやま、いしかわ、たかさき」に継承されたように、わが
国の地名が『縄文・弥生時代』に命名され、おおよそ 3~4 音に整えた史実が大切である。
これらの地名に「之奈乃、伊波天、古之乃美知乃之利、登夜萬、伊之加波、太加佐岐」な
どの万葉仮名を当てた後、奈良時代初頭、和銅 6(713)年に公布した『好字二字化令』に
よって「信濃、岩手、越後、富山、石川、高崎」という二文字の表記を定着させて、昭和
時代末まで、おおよそ 1,300 年間の伝統として継承されてきた。
10
地名がその後どのように変化したかは、年代毎に地名を集計して比較すれば、簡単に浮
かび上がる。明治時代以後の市町村の変革では、明治 22(1889)年、昭和 30(1955)年、
平成 17(2005)年前後に行なわれた三つの『市町村大合併』が重要で、地名改変は、この
時代の前後に行なわれてきた。
明治の大合併では、
『市制、町村制』を施行した明治 21 年に「71,314」あった町村を、
明治 22 年 4 月 1 日に「39 市、15,820 町村」へ統合した大変革で、いま県庁を置いた市の
大半がこのとき町から「市」へ昇格した。この模様は、地名資料『Ⅰ 市町村』に載せたの
で御参照いただきたい。明治 22 年は、『大日本帝国憲法』が公布された重要な年である。
昭和の大合併は、第二次世界大戦が終結した昭和 20(1945)年 8 月 15 日から、8 年たっ
て世の中が落ち着き始めた昭和 28(1953)年に施行した『町村合併促進法』
、昭和 31 年の
『新市町村建設促進法』の施行で、昭和 28 年 10 月 1 日に 9,868 あった「286 市、1,966 町、
7,616 村」を、昭和 36 年 6 月 30 日までに「556 市、1,935 町、981 村」の 3,472 市町村へ
統合した、行政改革だった。
平成の大合併は、昭和の大合併から 50 年を経た地方分権活性化のため、平成 17(2005)
年を中心に行なわれ、平成 22(2010)年 4 月 1 日に「786 市、757 町、184 村」の計 1,727
市町村になり、初めて「市」が地方自治区画での最大勢力になった。
こうして近代の市町村合併を俯瞰すると、さまざまな目的が掲げられて実現はされたが、
結果的には、市町村数を「明治:70,000→15,000. 昭和:10,000→3,500.平成:3,200→
1,700」へ減らした行政改革にうつる。三大改革で「地名」は減少し続けたが、命名法まで
大変貌を遂げたのは『平成の大合併』だった。
『昭和の大合併』後の時代は、市町村総数がほとんど変化しなかったため、本サイトで
利用した昭和 55(1980)年のデータを昭和後期の代表として使えるので、
『平成の大合併』
終了時、平成 22 年の地方別市町村数の対比データをあげると次のようになる。
本サイトでは北海道と沖縄県の地名を除いて集計しているので、全体から北海道・沖縄
.
県の市町村数を引いて集計した。
1980 年 3 月 31 日:
「3,255-212(北海道)-53(沖縄)=2,990」
2010 年 3 月 31 日:
「1,727-179-41=1,507」市町村。
表 7-2 市町村数の変遷
東 北
関 東
中 部
近 畿
中 国
四 国
九 州
合 計
1980. 3.31
406
461
672
395
319
216
521
2990
2010. 3.31
228
296
319
227
109
95
233
1507
変化率 %
56.2
64.2
47.4
57.5
34.2
44.0
44.7
50.4
㊟ 実際の市町村名の変遷は、地名資料『Ⅰ 市町村』に記載した。
11
このように市町村数は半減したが、1980 年にあった市町村の残存度が少ない県名を順に
あげると、
「1.広島県:26.4%。2.長崎県:26.6%。3.新潟県:26.8%。4.愛媛県:28.6%。
5.大分県:31.0%」となり、反対に変化の少ない都道府県は「1.大阪府:97.7%。2.東京
都:95.1%。3.神奈川県:89.2%。4.北海道:84.4%。5.奈良県:83.0%」で、北海道と
沖縄県を含めた全国平均は「53.1%」になる。この変化率は、市町村の合併が主に人口が
減少した地域で行なわれたので、昭和→平成の「過疎化」の実態を表現している。
先に律令時代の「国名、郡名」の平均音数を「2.6 音、2.9 音」と算定したが、現代の市
町村名がどの程度の音数をとっているかを計算したのが次表である。
表 7-3 市町村名の音数の変化
東 北
関 東
中 部
近 畿
中 国
四 国
九 州
平 均
1980.3.31
3.81
3.69
3.63
3.59
3.41
3.51
3.60
3.60
2010.3.31
3.90
3.79
3.61
3.73
3.76
3.63
3.60
3.72
集計に現われたように、我が国の市町村名は、地方ごとの音数のバラツキが少ない特質
があった。
『地名資料Ⅱ~Ⅴ』にあげた「島、崎、鼻、峠、越、山、川」名も、1980 年度の
データのように、東北地方の音数が高く、西へ行くに従い音数が下がって中国・四国地方
が最低になり、九州地方は高くなる傾向がみられた。北海道(1980 年:3.93 音、2010 年:
3.92 音)
、沖縄県(1980 年:3.75 音、2010 年:3.78 音)の市町村名は、本州・四国・九州の
それより、音数がやや高くなる特徴がある。
このようなデータをとり、
「地名(言葉)は、時代を経るに従い進化し、音数を増してい
った」基本仮説をもとに、音数の差を利用して、各地名群の命名年代の順序を決められる。
第四章『地名考古学』では、この音数の差異、各地名群の全国における分布状況、文字の
使用法などを基にして、地名の命名年代を推定した。
一例として、表 7-3 にのる昭和時代の「3.60 音」から、平成の大合併後に「3.72 音」
へと音数が増加した原因を考えてみよう。これには、市町村名に使われた文字の集計ラン
キング(北海道・沖縄県を除く)が役に立つ。
1980 年 3 月 31 日現在
地名数:2990
使用文字数:837
総使用数:6456
199 川
101 島
74 南
60 西
49 美
43 佐
192 田
81 津
73 上
59 北
46 井
崎
165 山
79 原
三
56 日
岡
宮
156 大
和
62 高
53 木
松
41 内
124 野
77 東
61 小
51 中
44 城
本
12
2010 年 3 月 31 日現在
地名数:1507
使用文字数:691
総使用数:3427
98 川
58 南
35 高
29 三
27 木
21 伊
85 田
56 島
上
28 北
25 和
戸
74 大
43 津
小
27 崎
23 岡
城
72 山
東
31 日
松
佐
20 井
66 野
39 原
30 西
美
22 中
富
文字の前の数字は使用頻度で、昭和 55 年と平成 20 年の市町村名に使われた漢字全体は
半減しているが、順位はさほど変わらない。原因は市町村の約半数の名が継承されたこと、
新設名称が、郡や字名など旧来の地名を転用したためである。
ランキング上位の漢字は、誰にでも読める易しいものばかりで,中でも「川、山,野、島、
津、原、岡、崎」の表意文字をみれば、地名とは『地形を表現した固有名詞』だったこと
がわかる。当てた漢字の集計だけで、全体の命名傾向が浮かびあがるのが、日本語『地名』
の際立った特徴である。
『平成の大合併』により、市町村名の音数が増えた原因は、山梨県
南都留郡富士河口湖町、鹿児島県いちき串木野市のように、合併した新市町が長い名前を
平気で使うようになったからで、この様子を表 7-3 と比較してみよう。
表 7-4 市町村名の音数の変化
東 北
関 東
中 部
近 畿
中 国
四 国
九 州
平 均
1980. 3.31
3.81
3.69
3.63
3.59
3.41
3.51
3.60
3.60
2010. 3.31
3.90
3.79
3.61
3.73
3.76
3.63
3.60
3.72
平成の新設名
4.28
4.26
3.78
3.61
4.55
3.88
3.88
3.98
表 7-3 の解説で、
我が国の市町村名は、地方毎の音数のバラツキが少ない特質があった、
と記した。しかし『平成の大合併』で誕生した新設名は、音数が増加したばかりでなく、
データの上下動がはげしくなったのである。この状況は統計数値のバラツキ加減(分散)を
示す「標準偏差」をとると、はっきりした形で現われる。1980 年度の地方ごとの標準偏差
は「0.12」
、2010 年度は「0.08」
、平成の新設名が「0.30」である。
『平成の大合併』後の標
準偏差が低くなったのは、中国・四国地方の音数が高くなったためで、全体が均一化した
からだった。しかし平成の新設名の標準偏差「0.30」は異様な値で、これまで様々な地名
のデータをあげて来たが、こんなに高い標準偏差をとるものはなかった。
これは古代から継承してきた伝統を、平成時代に捨て去った結果と考えられるのである。
我が国の地名は、律令時代に二度公布された『好字二字化令』によって、漢字二文字で
表記するのが原則であった。だが『平成の大合併』は、この慣習を破棄して、もうひとつ
新しい要素を加えた。次の表は 2001 年 4 月 1 日から、2010 年 3 月 31 日の間に新設された、
市町村名の文字ランキングである。
13
2001 年~2010 年の新設市町村
24
南
15
川
13
地名数:281 使用文字数:306 総使用数:717
み
9 北
6 つ
東
8 い
原
野
上
14 島
田
美
9
西
5 ら
ま
津
阿
7 賀
伊
里
三
大
高
か
志
さ
山
き
神
6
6
5
新要素とは、ランキングに現われたように、茨城県かすみがうら市、埼玉県さいたま市、
熊本県球磨郡あさぎり町など、
「ひらがな」で表記される市町が激増したことだった。
むろんこれは初めてのことでなく、
「ひらがな」を使った最初の町は「和歌山県西牟婁郡
すさみ町:1955.3.31 誕生」で、元の「周参見」では読み難い、やむを得ない事情があった
(JR紀勢本線の駅名は周参見を継承)。村名は「山口県阿武郡むつみ村:1955.4.1」が最初
だったが、2005 年 5 月 6 日に萩市へ編入されて消滅した。市名は、漢字の陸奥では「むつ」、
「みちのく」と読むかの判断ができない「青森県むつ市:1960.4.1」
、カタカナ名の嚆矢は
「滋賀県高島郡マキノ町:1955.1.1」だったが、こちらも 2005 年元旦に郡全体が統合され
て高島市へ代わった。
このように、「ひらがな、カタカナ」を使った市町村は、『昭和の大合併』によって誕生
した。しかし 1960 年代に追加されたものを含めて、20 世紀末には「6 市、3 町、1 村」に
使われていただけだったが、平成の大合併が終了した 2010 年 3 月 31 日には「30 市、18 町」
に激増した。この具体例をあげると、次のようになる。
「ひらがな、カタカナ」を使った市町村名
平成 12(2001)年 3 月以前からあった市町村名(数字は誕生年月日)
滋賀県高島郡マキノ町
1955. 1. 1 (2005. 1. 1 高島市に統合されて消滅)
山口県阿武郡むつみ村
1955. 4. 1 (2005. 3. 6 萩市に編入されて消滅)
和歌山県西牟婁郡すさみ町
1955. 3.31
和歌山県伊都郡かつらぎ町
1958. 7. 1
青森県むつ市
1960. 8. 1
北海道虻田郡ニセコ町
1964.10. 1
福島県いわき市
1966.10. 1
宮崎県えびの市
1970.12. 1
茨城県つくば市
1987.11.30
茨城県ひたちなか市
1994.11. 1
東京都あきる野市
1995. 9. 1
埼玉県さいたま市
2001. 3. 1
14
平成の大合併(2001 年 4 月~2010 年 3 月末)の新設ひらがな市町名
青森県つがる市
2005. 2.11
青森県上北郡おいらせ町
2006. 3. 1
秋田県にかほ市
2005.10. 1
群馬県利根郡みなかみ町
2005.10. 1
茨城県かすみがうら市
2005. 3.28
埼玉県比企郡ときがわ町
2006. 2. 1
茨城県つくばみらい市
2006. 3.27
福井県大飯郡おおい町
2006. 3. 3
栃木県さくら市
2005. 3.28
和歌山県日高郡みなべ町
2004.10. 1
群馬県みどり市
2006. 3.27
徳島県美馬郡つるぎ町
2005. 3. 1
埼玉県ふじみ野市
2005.10. 1
徳島県三好郡東みよし町
2006. 3. 1
千葉県いすみ市
2005.12. 5
香川県仲多度郡まんのう町
2006. 3.20
石川県かほく市
2004. 3. 1
高知県吾川郡いの町
2004.10. 1
福井県あわら市
2004. 3. 1
福岡県京都郡みやこ町
2006. 3.20
山梨県南アルプス市
2003. 4. 1
佐賀県三養基郡みやき町
2005. 3. 1
愛知県みよし市
2010. 1. 1
熊本県球磨郡あさぎり町
2003. 4. 1
愛知県あま市
2010. 3.22
鹿児島県薩摩郡さつま町
2005. 3.22
三重県いなべ市
2003.12. 1
兵庫県南あわじ市
2005. 1.11
兵庫県たつの市
2005.10. 1
香川県さぬき市
2002. 4. 1
香川県東かがわ市
2003. 4. 1
福岡県うきは市
2005. 3.20
福岡県みやま市
2007. 1.29
鹿児島県いちき串木野市 2005.10. 1
北海道久遠郡せたな町
2005. 9. 1
鹿児島県南さつま市
2005.11. 7
北海道勇払郡むかわ町
2006. 3.27
沖縄県うるま市
2005. 4. 1
北海道日高郡新ひだか町
2006. 3.31
規制が緩和されると一気に流行するのがこの国の特徴のようで、1997 年 10 月 1 日にでき
た「しなの鉄道」
、2002 年 12 月 1 日の「IGRいわて銀河鉄道」
、2015 年 3 月 14 日に生ま
れた「えちごトキめき鉄道、あいの風とやま鉄道、IRいしかわ鉄道」も、平成の時代に
はごく当たり前の命名といって良さそうである。
ただ、地名に「ひらがな、カタカナ」が使われなかったわけではなく、漢字二字の制約
を加えたのは和銅 6(713)年の「郡、郷」名への『好字二字化令』であり、最初に地名へ
当てた文字が、一字一音の『万葉仮名』であった証拠は、現代に残されている。
富山県を走る「あいの風とやま鉄道」と、石川県内の「IRいしかわ鉄道」の接続駅は、
もと北陸本線「倶利伽羅」駅で、
『平家物語』『源平盛衰記』にも記載された表記が、万葉
仮名であるのはお判りであろう。倶利伽羅が仮名のまま継承されたのは、この名が郷名や
字名でなく、二文字化の規制を加えられなかった自然地名の「峠名」だったからである。
15
「国、郡、郷、村、町、字」名などは、国や地方自治体の意向によって変化しやすいこ
とは何度も述べたが、自然地名は、影響をほとんど受けていないところが特徴にあがる。
律令時代に二回公布された「好字二字化令:713 年と平安中期〈年度不詳。『延喜式 民部上』
記載〉」により、地名の大半が二文字化されたが、法令は「郡、郷、里」を対象としたため、
自然地名は除外された。証拠がわずかに残っているので、これをあげよう。
安達太良山(福島 二本松)
比良山
久佐木峠 (石川 輪島)
倶利伽羅峠(富山・石川 城端)
阿賀野川 (新潟 新潟)
佐久良川 (滋賀 近江八幡)
加布良古崎(三重 鳥羽)
羽奈毛崎 (長崎 勝本)
小値賀島 (長崎 小値賀島)
知夫里島 (島根 浦郷)
(滋賀
京都西北部)
このように、
『万葉仮名』を現代に継承することが、自然地名は二字化令の対象外だった
ち
ぶ
り
ち ぷり
史実を語っている。知夫里島は、この名を省略二文字化した隱岐国知夫郡→島根県知夫郡(昭
和 44 年に隠岐郡へ統合)の原形を保持しているが、行政区画の島根県隠岐郡知夫村の読み方
は、文字どおり「ちぶ」に変容した。
「国・郡・郷」名に、二文字化を義務づけたのは、次の視覚上の理由による。
陸奥国宮城郡多賀郷
上野国群馬郡群馬郷
武蔵国足立郡殖田郷
上総国相馬郡布佐郷
駿河国駿河郡駿河郷
美濃国本巣郡美濃郷
山城国宇治郡宇治郷
大和国城下郡大和郷
攝津国八部郡神戸郷
丹後国丹波郡丹波郷
出雲国出雲郡出雲郷
安藝国安藝郡安藝郷
周防国熊毛郡周防郷
讃岐国山田郡高松郷
肥後国八代郡肥伊郷
御覧のように、国郡郷の使用文字を二字に制約すると綺麗に揃って、これが『土地台帳、
戸籍』を基本に置く、律令制度の運用に必須要件だったことが判る。ここにあげた国郡郷
名を昭和時代後期の住居表示を使って記すと、次のようになる。
宮城県多賀城市市川
群馬県群馬郡榛名町高浜
埼玉県大宮市植田谷本
千葉県我孫子市布佐
静岡県沼津市大岡
岐阜県本巣郡糸貫町見延
京都府宇治市宇治
奈良県天理市大和
兵庫県神戸市生田区下山手通
京都府中郡峰山町丹波
島根県簸川郡斐川町求院
広島県安芸郡府中町宮の町
山口県光市小周防
香川県高松市古高松
熊本県八代郡宮原町今
明治時代以降は「県、郡、町村、字名」の住居表示を取り入れたため、全体に律令時代
より長くなり、明治 22 年の『市制』を取り入れた際に郡名を省略することを決めて、長さ
を揃える意識がまったく失われた。このうえ昭和時代中期以降に政令指定都市を定めて、
ここに区制を採用したたため、滅茶苦茶な状態になった。上記の郷で、『平成の大合併』で
住居表示が変った例をあげよう。
16
上野国群馬郡群馬郷
群馬県群馬郡榛名町高浜 → 群馬県高崎市高浜町
武蔵国足立郡殖田郷
埼玉県大宮市植田谷本 →
美濃国本巣郡美濃郷
岐阜県本巣郡糸貫町見延 → 岐阜県本巣市見延
丹後国丹波郡丹波郷
京都府中郡峰山町丹波
→ 京都府京丹後市丹波
肥後国八代郡肥伊郷
熊本県八代郡宮原町今
→ 熊本県八代郡氷川町宮原
埼玉県さいたま市西区植田谷本
昭和時代中期から国・郡名の比定作業を行なってきた者にとっては、どうしてこんなに
地名を改変するのか理解できない。すでに平成の地図だけでは、江戸時代どころか、昭和
時代初期の姿も探れなくなった。
興味を惹くのは、市町村が昭和時代後期から使い始めた「仮名」の表記が、律令制度に
無関係な自然地名では、古くから使用されていたことである。
オロン岳(長崎 佐須奈)
ツボケ山(宮城 桑折)
かくんば山(福島 只見)
アザミ峠(秋田 横手)
ウツナシ峠(静岡 千頭)
しらびそ峠(長野 赤石岳)
セバト川(新潟 四万)
ニグロ川(新潟 妙高山)
ヨッピ川(群馬 藤原)
イロハ島(長崎 唐津)
オンベ島(新潟 小木)
かもめ島(宮城 大須)
アヤマル崎(鹿児島 赤木名)
いるか岬(宮崎 日向青島)
みそくれ崎(長崎 仁位)
オカメノ鼻(香川 玉野)
チヂミ鼻(長崎 有川)
よこさ鼻(石川 七尾)
自然地名にはカナが多数使われている。これは自然地名に漢字を当てなかったのでなく、
平安時代に考案された仮名が一般に普及した、室町~江戸時代の流行を留めた現象である。
江戸時代の地名を調べると、町村と大字は二字の漢字をあてる律令時代の慣行を存続して
いるが、小字と自然地名は、かなりの量がカナで表記されていた様子が判る。この辺が、
お上に拘束されない自然地名の自在性であり、極論すると、地域名・字名は幕府(国)と藩
(地方自治体)の所有物、自然地名は一般庶民のものと位置づけられるだろう。この状況を
第五章『日本語のリズム 1.地名と漢字』から、取り出してみよう。
表 7-5
地名における仮名の使用状況
大字・小字名
嶋
地名総数
使用文字
総使用数
カタカナ
百分率 %
ひらがな
百分率 %
埼
自然地名
小 計
花
阪
腰
島
崎
鼻
峠
越
306
1260
797
2860
1901
1200
3287
339
16810
460
121
377
212
888
764
550
1048
327
5344
3081 2767
408
1560
906
4598
3414
2927
6979
714
27354
2519 2342
537
1
1
0
1
2
369
354
488
227
26
1469
0.0
0.0
―
0.0
0.0
8.0
10.4
16.7
3.3
3.6
5.4
1
0
0
0
0
15
23
31
89
11
170
―
0.3
0.7
1.1
1.3
1.5
0.6
0.0
―
―
―
17
ここにあげた地名群は字名と自然地名に共用された「~島、~崎、~鼻、~越」などの
「~」の部分に使われた文字から、
「仮名」の使用状況を集計した。お上の規制を受けなか
った自然地名では、圧倒的に「カタカナ」が多用された様相が浮かびあがる。
日本語は、世界に珍しい『漢字、ひらがな、カタカナ』の三種類の表記を共用する言語
である。この表記は、大陸からきた渡来人が列島に定住した後、弥生~古墳時代に『万葉
仮名』を使い始め、古墳時代中期以降に『漢字』が当てられ、奈良時代初頭に『好字二字
化令』が公布され、
『ひらがな、カタカナ』は平安時代に生まれている。
一音・二音の漢字を当てることが出来たのは、倭語の『言葉、地名』が二音~四音で構
成されていた偶然によっている。もし、掛け言葉を組み込んでいた言語創作法が飛鳥時代
まで継承されていたなら、一字で二音を表わす『漢字』を使うことはなかったはずだった。
このなかで最初に使われた『万葉仮名』と、二音以上の言葉に当てた文字の使用法から、
『地名、言葉』の歴史だけでなく、文献に残されなかった真の古代史を探索できるので、
この辺を考えてみよう。
18
2.地名の断絶
地名が時代を記録する性質をもち、明治~平成時代の言語活動を記録し続けることがお
判りいただけたと思う。この性質は古代に応用できるところが大切である。地名が論理的
に構成された事実は現存地名に残されており、地名を分類・集計するだけで、この模様が
浮上するので、第四章『地名考古学』、第六章『富士の語源』から集計を抜粋しよう。
表 7-6 各地名群の音数(百分率表示:%)
大字・小字名
自然地名
嶋
埼
花
阪
腰
4.9
0.4
1.9
3.2
2.3
島
崎
鼻
峠
越
0
音
1
音
16.2 17.1
15.4 18.4 12.4 10.5
5.2
0.6
0.6
2
音
59.4 66.0
57.7 60.6 73.3 40.1 35.5
7.8
9.6 16.8
3
音
16.0 15.0
24.0 15.3 11.0 32.6 36.3 38.7 36.4 32.4
4
音
5
音
6
音
7
音
0.1
8
音
0.0
3.3
1.4
1.0
0.1
平均音数
1.97 2.00
地名総数
2648 2361
2.4
0.3
1.0 15.0 21.2 38.9 45.1 37.1
0.1
1.6
1.6 12.4
7.4 10.6
0.2
0.2
0.7
1.6
2.07 1.94 1.96 2.58 2.96 3.6
312 1302
0.9
1.5
0.6
3.52 3.45
815 2860 1901 1055 3287
340
表 7-7 字名と自然地名の語頭母音(百分率表示)と母音音型の種類
音型
a
i
u
e
o
嶋地名
ia
43.0
22.7
13.0
3.3
17.9
埼地名
ai
44.1
22.1
11.4
3.5
花地名
aa
52.9
21.2
10.3
阪地名
aa
43.9
21.0
腰地名
oi
22.9
自
島
名
ia
然
崎
名
地
鼻
名
字
名
音型の種類
使用頻度
2648
179
14.8
19.0
2361
122
19.4
2.0
13.8
312
54
5.8
12.1
2.9
20.1
1302
108
12.1
13.7
25.4
2.2
35.7
815
69
11.8
37.2
16.7
15.8
7.8
22.4
2860
347
8.2
ai
38.8
20.6
13.0
6.8
20.8
1900
414
4.6
名
aa
37.3
21.3
13.2
7.2
20.9
1055
462
2.3
峠
名
au
37.8
22.2
14.7
3.2
22.1
3287
628
5.2
越
名
oi
33.8
21.8
13.8
2.4
28.2
340
196
1.7
19
地名数
音型
a
i
u
e
o
地名数
音型の種類
使用頻度
山
名
aa
41.1
21.6
11.3
4.3
21.7
5539
1015
5.5
自
岳
名
ae
34.5
25.7
11.8
8.1
19.9
1201
380
3.2
然
森
名
oi
37.1
20.0
17.1
7.3
18.5
410
182
2.3
地
峰
名
ie
37.4
23.2
14.2
4.1
21.1
246
126
2.0
川
名
aa
40.0
22.9
14.2
3.0
19.9
2390
476
5.0
名
本サイトでは命名年代測定のため、縄文時代から弥生・古墳時代前期まで継続してつけ
た字名と自然地名に共用された「島、崎、鼻、坂(峠)
、越」地名群を基本に置いている。
表 6 は、表 5 にあげた『字名』地名群と、自然地名の『~島、~崎、~鼻、~峠、~越』
地名群の「~」部分の音数を百分率で表わして、対比した集計である。この値に「島、崎、
鼻、坂、越」は 2 音、
「峠」に 3 音を加えた数値が、実際の音数になる。
御覧のように、これまで述べてきたとおり、普通は同じ種類と見ている「島、崎」など
の『字名』と『自然地名』が、まったく別種の地名である事実がはっきり浮かびあがる。
表 6 の「字名」地名群に音数 0、すなわち「島、崎、鼻、坂、越」の単独名が現存し、全体
の音数分布が『正規分布』に近い状態になるところと、
「嶋、埼」地名が 7,000~2,300 年
前の「縄文海進→海退」時に海岸だった地にも現存するので、字名地名群を縄文時代の地
名と考えている。右側の地名群は全体に音数が増加するため、いま海に接する「島、岬」
は縄文~弥生時代、
「鼻、越」は弥生時代、「峠」は縄文~弥生時代の地名を平安時代中期
以降に、
「~峠」にまとめたと推理した。
この辺は簡単に説明できないので、第三章『言葉と地名』
、第四章『地名考古学』、第五
章『日本語のリズム』に各種のデータをあげて詳述したので、御参照いただきたい。
しかし、地形表現を基本に据えた「地形地名」は先土器~縄文時代から名付けられてき
たが、弥生時代を最盛期として、古墳時代中期(5 世紀)頃から命名されなくなった雰囲気
が感じられる。言語学と考古学の視点では、縄文時代から弥生時代への移行期に文化の連
続性があるので、言語構造(基本文法、基本動詞など)は変化しなかったと推定されている。
そこで、古墳時代中期頃に断点が発したことには外的要因が浮上し、大陸からの渡来人が
大量移入したことを原因に考えたい。7 世紀初頭の『日本書紀』推古紀は、聖徳太子が仏法
を高麗の慧慈、儒教を覚哿博士に学んだ様子が記したが、何語で会話をしたのだろうか?
古墳時代以降の渡来人の移入、とくに朝鮮半島の伽耶諸国の消滅(562 年)から統一新羅
の誕生(668 年)前後までの間の、270 万人に上る大量移入は、漢語の表現(おもに名詞)を
導入して『倭語+漢語=日本語』を確立した。しかし、ここにおいても言語の基本構造は
継承されたと考えられている。この『倭語』の連続性が地名を考える上では大切である。
(㊟
弥生時代後期の人口は約 60 万人と推定されている。)
20
さきたま
さいたま
さきたま
漢字を導入した古墳時代前期(実際は弥生時代)以降は、埼玉稲荷山古墳(埼玉県行田市埼玉
お
わ
け
わ
か
た
け
る
し
き
)の鉄剣銘文にのこる「乎獲居臣、獲加多支鹵大王、斯鬼宮」の表記にみられるように、人
おみ
おほきみ
みや
名、地名などの固有名詞に一音一字の文字をあて、
「臣、大王、宮」の普通名詞に字訓の漢
字をあてる「万葉仮名」の形態が採用された。この実例をあげよう。
お
わ
け おみ
お
ほ
ひ
こ
た
か
り すく ね
て
よ
か
り
わ
け
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、
た
か
は
し
か
さ
は
よ
わ
け
た
さ
き
わ
け
は
て
ひ
其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比、
(表面。辛亥年は 471 年)
お
わ
け おみ
わ
か
た
け
る おほきみ
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在
し
き みや
斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也 (裏面)
ここに見られる字訓漢字の採用が『言葉』、そして『地名の二文字化』が、倭語の語源と
創作法を忘れさせる原因になったのである。
地名の表記を大幅に変化させたのは、律令制度の規範とした唐にならい、
「国、郡、郷」
名に二文字の漢字をあてる法令、いわゆる『好字二字化令:713 年』の公布であった。
こほり
さと
この法令は、風土記作成の詔勅に含まれた「 郡 、郷」名に対するものだったが、国名は
やまと
おほやまと
やまと
き
き
む
ざ
し
む さし
「 倭 ・ 大 倭 →大和。紀→紀伊.无邪志→武蔵」など、
『飛鳥浄御原令:689 年制定』前後に
二字化されていた史実も知られる。地名の二文字化は、土地台帳や戸籍の作成には有用だ
い ずみ
かむ
け ぬ
かむつけ
ちか
あふ み
あふみ
ったが、
「泉→和泉」のような発声しない文字の追加や、
「上っ毛野→上野。近っ淡海→近江。
ちくし
みち
くち
ちくぜん
筑紫の道の前→筑前」などの省略形を大量に生みだして、地名の記号化を招いた。
唐を見習い、古墳~飛鳥時代に行なった『地名(言葉)の漢字化、二文字化』が、倭語の
語源を消失する一因と考えられ、ここに律令制度を運用した大量の渡来人の存在があった。
和銅 6(713)年に公布した郡・郷への「好字二字化令」により、地名への当て字の一部が
変更されたが、
『出雲国風土記』は神亀 3(726)年に、当て字を換えた様子を記録している
ので、これをあげよう。
大原郡 斐伊郷(←樋:ひ)
意宇郡 拝志郷(←林:はやし)
出雲郡 多禰郷(←種:たね)
、
美談郷(←三太三:みたみ)
、
漆沼郷(←志刀沼:しつぬ)
、来嶋郷(←支自眞:きじま)
飯石郡 飯石郷(←伊鼻志:いひし)
、三屋郷(←三刀屋:みとや)
この八郷は、一字と三字の郷名を二文字に変更した例だが、改変前後の当て字に脈略が
全くないことが判る。拝志郷(島根県八束郡玉湯町林村)を見て、原形が「林」だったこと
が解る人はないと思うし、美談(島根県平田市美談町)と「三太三」が、同じ地名とは誰も
気が付かないだろう。
また、大原郡斐伊郷は斐伊川の起源地名(島根県大原郡木次町里方。斐伊神社所在地)で、
「肥河、斐川」と表記された川が、起源地名の二字化に従い、「斐伊川」に替った貴重な史
実を留めている。次の 16 郷は、二字の当て字を好字化した例である。
21
意宇郡 母理郷(←文理:もり)
、
飯梨郷(←云成:いひなし)
嶋根郡 加賀郷(←加加:かか)
秋鹿郡 恵曇郷(←恵伴:ゑとも)、 伊農郷(←伊努:いぬ)
楯縫郡 玖潭郷(←忽美:くたみ)、 沼田郷(←努多:ぬた)
出雲郡 杵築郷(←寸付:きつき)
、 伊努郷(←伊農:いぬ)
神門郡 鹽冶郷(←止屋:やむや)、 高岸郷(←高崖:たかきし)
、
多伎郷(←多吉:たき)
大原郡 屋代郷(←矢代:やしろ)、 屋裏郷(←矢内:やうち)、
阿用郷(←阿欲:あよ)、
海潮郷(←得鹽:うしほ)
現代の感覚では、改変後のどの名も好字になった印象はなく、関係のない漢字に当て換
えただけとしか見えない。二字化令は、出雲国飯石郡三屋郷(島根県飯石郡三刀屋町三刀屋:
平成 16 年に雲南市へ統合)が、
「三刀屋」から刀を抜いて二字化した史実を載せた。
全国 4,000 余郷には同種の郷が沢山あって余りに多すぎるので、三文字の郡名から一字
を抜いただけにみえる、ズボラな印象を与える「郡名」の例をあげよう。
読み方
国郡名
推定起源地名
推定原型
Kuraki
武蔵国久良郡
神奈川県横浜市磯子区栗木町
久良岐
Sakanawi
越前国坂井郡
福井県坂井郡三国町神明
坂中井
Fukesi
能登国鳳至郡
石川県輪島市鳳至町
鳳氣至
Afatima
美濃国安八郡
岐阜県安八郡神戸町神戸?
安八磨
Kasukape
尾張国春部郡
愛知県春日井市春日井町
春日部
Ikako
近江国伊香郡
滋賀県伊香郡木之本町大音
伊香具
Ikaruka
丹波国何鹿郡
京都府綾部市本宮町
何留鹿
Tanipa
丹後国丹波郡
京都府中郡峰山町丹波
丹爾波
Asukape
河内国安宿郡
大阪府羽曳野市飛鳥
安宿部
Nisikori
河内国錦部郡
大阪府富田林市錦織
錦織部
Tatifi
河内国丹比郡
大阪府南河内郡美原町多治井
多治比
Yatape
攝津国八部郡
兵庫県神戸市長田区前原町
八田部
Katumata
美作国勝田郡
岡山県勝田郡勝央町勝間田
勝間田
Tipuri
穩岐国知夫郡
島根県隠岐郡知夫村郡
知夫利
Kakami
土佐国香美郡
高知県香美郡香我美町下分
香我美
Tamakina
肥後国玉名郡
熊本県玉名市玉名
玉杵名
好字二字化令の実施で、昔から問題にされて来たのが、三文字の地名から一字を抜いた
だけの表記をとった「国、郡、郷」名である。武蔵国久良郡は、第二章『京浜東北線の駅
22
洋光台、新杉田駅』に解説したが、これらの郡名が小地名をとった史実が大切で、本章全
体でこの史実を立証したい。上記の「鳳至、丹波、飛鳥、錦織、多治井、勝間田、玉名」
にもこの様子がうかがわれるが、平安時代中期に編纂した『延喜式
巻九・十
神祇』に
は「坂井、鳳至比古、伊香具」神社が載せられているので、神社所在地を調べれば、郡の
起源地名を推定できる。
国名では「武蔵○、相○模、信○濃、駿○河、丹○波、美○作、讃○岐」が、○に一文
字を加えなければ、
「むさし、さかむ、しなの、するか、たにぱ、みまさか、さぬき」とは
読めない。この辺を、昨今の公務員と対比して、地名を利用する側の立場を全く考えられ
ない役人根性は、奈良時代初頭に始まったと捉えるのが普通である。だが、地名の二字化
を命じた律令政府と、現場で作業にあたった役人が「地名の性質をまったく知らなかった」
史実を考えると、この捉え方が間違っている可能性は高い。
第三章『言葉と地名』に記したように、わが国の地名で最高度の表現法を使った峠名は、
「桜、杉、梨、榎、桧、松ノ木」
「才、仏、地蔵、鳥居、鳥越」など、記憶しやすい事物一
般の名前を利用した。地名とは利用者を意識した「簡潔で記憶しやすく、読みやすく韻律
を整え、他の地名をはっきり区別して、地形を端的に表現した固有名詞」を指していた。
もし、奈良時代の中央官吏・地方の役人がこの性質を知っていたなら、これほどひどい
状況に陥らなかったはずで、一字を抜いただけの「久良、坂井、鳳至、安八、春部」郡も、
「倉木、魚井、布消、淡島、粕壁」などと当てていただろう。
この史実を補強するのが,
「丹後国丹波郡丹波郷」に比定される、京都府中郡峰山町丹波
だった。丹波国(丹爾波. Tanipa→タンバ)は和銅 6(713)年に分割されて、南部が丹波国
として残り、北部は丹後国(太邇波乃美知乃之利→タンゴ)へ変わった。
このとき、もと丹波国丹波郡だった地域を丹後国に入れたため、丹波発祥の地は丹波国
から失われてしまった。本サイトが最も重視する『大地域の名は、小地名の昇格』という
定理は、奈良時代初頭にも認識されていなかった様子がわかる。
この不都合があったため、鎌倉時代頃から丹後国丹波郡は丹波中(たばなか)郡と呼ばれ
るようになり、江戸時代から丹波を消した丹後国中郡、明治時代から京都府中郡へ替った。
ところが、丹波発祥の地をふくむ「京都府中郡峰山町」は、平成 16 年 4 月 1 日に周辺の
五町と合併して京丹後市と改名した。さらに、平成 16 年 11 月に旧丹波国氷上郡(兵庫県
氷上郡)の 6 町をまとめた兵庫県丹波市と、翌年 10 月には、京都府船井郡丹波町を中心に
京丹波町も生まれた。
歴史の流れを見てお判りのように、地名が一地点の地形、
「丹波=Tani. 谷+nipa. 庭:
湿地(pani:埴)=谷端の湿地」に発した史実が継承されなかったため、
「たにぱ」は音読
みの「タンバ」に読み替えられてメチャクチャな状況を招いた。
「好字二字化令」は、丹後
国(丹波の道の後:タンゴ)と同様に、国・郡を二分した後の地名にも悪影響をあたえた。
23
本サイトでは、
『倭語』は、自然の音を根幹に据えて構成したと考え、話を進めている。
たとえば、
「坂」という基本地名は「Saku(裂く: ∨型地形)。sakusaku,zakuzaku:物を切
り裂く音、砂地・砂利道などを歩く音のオノマトペ」を基に、山間の高所を「Saku(避く)」
意味をふくめ、倒置語の「Kasa(笠、傘:∧型地形=坂道)」の表現から、∨型+∧型の「Saka
+Kasa=Sakasa:逆さ」地形を特徴とする峠道全体を表わした言葉、地形語が造られた、と
推理している。地名は、誰にでも簡単に解けそうに見えるが、命名法が継承されなかった
ため、いつになっても解釈法がみつからない、不思議な存在である。
『地名を解く』を表題に掲げた本サイトは、第一章『山手線の駅』、第二章『京浜東北線
の駅』で、地名を二つ以上の「二音節の言葉」に分解して、地名が所在する場所の地形を
表現した史実を解く、いままで提起されたことのない解釈法をあげた。
赤羽= Aka+kapa+pane
新宿=Simu+musi+siku
目黒=Meku+kuro
品川=Sina+naka+kafa
新橋=Simu+mupa+pasi
巣鴨=Suka+kamo
第一章で、もと日本鉄道山手線の始発駅だった東北本線「赤羽駅」に解説したように、
Akapane を分解した「Aka:福岡県田川郡赤村赤」
「Kapa:高知県宿毛市樺」
「Fane:富山県
富山市羽根」と、
「Akafa:石川県羽咋郡志賀町阿川」
「Kafane:新潟県新潟市秋葉区川根」
が現代の市町村の大字として使われている。この字名すべてが地形を表現したと仮定する
と、
「Akafa, Kafane」の創作に、
『掛け言葉』を利用した可能性が強く浮かびあがる。
そこで、二音節の地名に動詞の「Aka.開く:谷の開口部。Faka. 剥ぐ、穿く:崖、谷」
「Kapa.交ふ:谷、側、皮:崖端」
「Pane⇔Nepa. はねる、粘る:泥地、湿地」の意味があ
ったと仮定すると、
「赤村赤、宿毛市樺、富山市羽根」は当該地形にあるように見える。
次にこれらを合わせた 「Akapa→Akafa→Akawa:谷の開口部の崖端」、「Kapane→Kafane→
Kawane:谷、崖下の湿地」と解ける「阿川、川根」も、解釈通りの地形にあることが判る。
さらに両者を重ねた赤羽は、「Akapane=Aka.開く:谷の開
口部+kapa.交ふ:谷、側+pane⇔nepa.はねる、粘る:泥地、
湿地」と解釈できる。そこで「東京都北区赤羽」を付近の地形
:国土地理院 1981)と対照すると、
図(土地条件図『東京西北部』
赤羽駅の西側にある武蔵野段丘東北端の赤羽台には、東へ開く
三つの谷があり、真中の亀ヶ谷と呼ばれる谷の開口部に面した
低地に「赤羽駅:東京都北区赤羽1丁目」が所在する。
この地形が「Akapane:谷の開口部にある崖端の湿地」に合致
するのである。全国市町の大字に使用される「赤羽、赤羽根、
赤刎」は 14 例あるが、10 例は同じ地形に位置している。
おもに二音節の他動詞を二つ以上重ねた『掛け言葉』を利用し、地形を表現した地名が
「山手・京浜東北・根岸」線の駅名に採られた様子を記したのが、第一章と第二章である。
24
ただ、駅名に採用された歴史を参照すると、
「高田馬場、恵比寿、浜松町、東京、秋葉原、
御徒町」と「港南台、洋光台、関内、横浜、さいたま新都心、大宮」は地形地名とは考え
『京浜東北線の駅(根岸線を含む)』に地名解釈を
にくく、これ以外の駅は『山手線の駅』、
(㊟ 高田、馬場、恵比寿、浜松、秋葉、横浜、埼玉
あげて同じ手法で解けることを示した。
は地形地名としても使われた例がある)
さらに第三章『言葉と地名』
、第四章『地名考古学』、第五章『日本語のリズム』
、第六章
『富士の語源』では、自然地名の『峠、岬、島、川、山』名を加えて、これらの地名群の
命名法は変わらなかったが、命名年代がすべて異なる様子を提起した。約 3 万例の分析結
果を基に「縄文時代」と「弥生時代」の地名を区分し、地名に残された『言語の進化』を
(約三万地名の具体例は、
『地名資料Ⅰ~Ⅵ』に掲載)
推定した。
現代の私たちは、
「島」という地名は「island」を表わすと考えるのが普通である。海の
中にある「大島、三宅島、八丈島」などは島を表わしているが、内陸の大字・小字名にも
使われる「嶋地名」は 2,500 例以上あり、この嶋地名の分布図を作ると、次のようになる。
図 7-1 字名の嶋地名の分布図
上図は、昭和 55 年前後の 5 万分の 1 地形図に、2,648 例記載された陸上にある「~島」
地名群の分布図である。現在は、県名・市名にも、次の名が使われている。
福島県福島市、茨城県鹿嶋市、東京都昭島市、石川県輪島市、岐阜県羽島市、
静岡県三島市、愛知県津島市、滋賀県高島市、広島県広島市・東広島市、徳島県徳島市・
小松島市、愛媛県宇和島市、佐賀県鹿島市、宮崎県串間市、鹿児島県鹿児島市・霧島市
25
ただし東京都の昭島市は、昭和町と拝島町が合併した際の合成市名で、岐阜県羽島市も
明治時代中期に岐阜県羽栗郡と中島郡を統合して生まれた、羽島郡の名を引き継いでいる。
たふ し
あ ご
嶋地名も律令時代の国・郡名に使われ、
「志摩国志摩郡(奈良時代に答志郡、英虞郡へ分割)、
さ しま
と しま
常陸国鹿嶋郡、下総国猨嶋郡、武蔵国豊嶋郡、越後国三嶋郡、尾張国中嶋郡、近江国高嶋
て しま
郡、攝津国嶋上・嶋下郡(原形は三嶋郡)、攝津国豊嶋郡、備前国兒嶋郡、美作国眞嶋郡、
き しま
こしきしま
周防国大嶋郡、筑前国志摩郡、肥前国杵嶋郡、薩摩国麑嶋郡(鹿兒嶋郡)・ 甑 嶋郡、」と、
その歴史を十二分に感じさせるほどの数が記録されている。
この地名群、昭和 50(1975)年前後に収集した、5 万分の 1 地形図にのる字名の「~島」
の「~」部分の音数を集計すると、次の結果が得られる。
表 7-8
2音
嶋地名の音数
0音
1音
3音
4音
5音
累 計
地名数
音 数
東 北
14
45
190
21
6
1
517
277
1.87
関 東
17
87
250
75
13
864
442
1.95
中 部
50
117
553 177
47
1952
946
2.06
近 畿
20
34
126
27
3
379
210
1.80
中 国
9
39
123
35
4
406
210
1.93
四 国
5
38
83
25
2
292
154
1.90
九 州
14
69
249
64
13
811
409
1.98
全 国
129
429
1574 424
88
5221
2648
1.97
2
1
4
㊟ 累計は音数に地名数を掛けた値の総和。音数(平均)=累計÷地名数。
嶋地名の音数(百分率表示:%)
0音
1音
2音
3音
4音
5音
音 数
偏差値
東 北
5.0
16.2 68.6
7.6 2.2
0.4
1.87
42.5
関 東
3.8
19.7 56.6 17.0 2.9
1.95
53.0
中 部
5.3
12.4 58.5 18.7 5.0
2.06
67.3
近 畿
9.5
16.2 60.0 12.9 1.4
1.80
33.4
中 国
4.3
18.6 58.6 16.7 1.9
1.93
50.4
四 国
3.2
24.7 53.9 16.2 1.3
1.90
46.5
九 州
3.4
16.6 60.9 15.6 3.2
1.98
56.9
全 国
4.9
16.2 59.4 16.0 3.3
26
0.2
0.6
0.2
1.97
表に現われたように、中部地方の平均音数が高い点を除くと、ほかの地方は 2 音(実際
は島を加えた 4 音)を中心にやや低い音数側に片寄るものの、
『正規分布』の典型といえる
様相をみせて、全国的に一定した値をとるのが「嶋」地名群の特徴になっている。
この種のデータ整理をされた方なら御存知のように、全国レベルで数値をあつかう場合、
ある程度バラツキがでて当然といえる。統計学でいう「ノイズ」
、つまり、この地名群には、
本来の嶋地名とは異なる「シマ」名が混入して、データが乱れると予測をしていたので、
予想外の結果にビックリしてしまった。地名のもつ永い歴史を考えれば、この様相はとて
も信じられないものである。
表に現われたように、
「嶋地名」群の地方毎の音数が「1.80~2.06」の範囲に入り、平均
音数が「1.97」音、地方毎のバラツキ加減を表わす標準偏差は「0.08」と、本サイトで扱
った地名群で、内陸の突出部に当てた「埼地名」と同等の最小値をとっている。
「埼地名」
群も「嶋地名」群と同様に『正規分布』を示すのである。
この性質から、本サイトでは両者を示準地名としている。まず標準偏差が小さく、各地
方の音数が平均していることは、
「嶋地名」をつけた時代に、全国で同じ言語を使っていた
史実を表現している。内陸の「嶋、埼」地名は海中の「島、崎」名へ継承されていて、音
数はそれぞれ「1.97,2.00」
「2.58, 2.82」、標準偏差は「0.08, 0.08」
「0.15, 0.19」と増
大し、「嶋地名→島名」「埼地名→崎名」に継続して付けた様子が判る。統計ではサンプル
が 1,000 例以上あれば信頼できるデータと考えられており、ここに「嶋地名:2,648. 島名:
2,860」
「埼地名:2,361. 崎名:1,660」を集めているので、問題は少ないといえよう。
先に述べたように、
「嶋、埼」地名の音数が地方毎に差がないことから、この地名群をつ
けた時代に、東北から九州まで同一言語を使用していたことは確実と推理できる。そこで、
これらの地名群をつけた時代を探索するのだが、考古学・地質学に痕跡が残されている。
いま話題になっている二酸化炭素の増大ではなく、
自然現象の『地球温暖化』により、地球が温暖化する
現象は、「…氷河期→間氷期→氷河期→間氷期…」を
8 万から 10 万年単位で繰り返す第四期の氷河時代の
地球環境では、10 万年近く続いたヴュルム氷期から
約 1 万 5 千年前に温暖化が始まった。
氷河期の海面は、
大陸棚と呼ばれる海面下約 130m に残されているが、
温暖化は氷河期から 10℃ほど上昇し、約 5,500 年前
(㊟ 図の空灰色は約 5500 年前、青色は 3000 年前の海域。赤点は貝塚遺跡)
をピークに終息した。
このとき、海水面が上昇して、平野部に侵入した現象を「海進」
、大気温が下がって海が
後退した現象を「海退」と呼んでいる。我が国では海進が「縄文時代草創期~早期」
、海退
は「縄文時代前期~晩期」に重なるので、『縄文海進、海退』と呼ばれる。これは偶然では
なく、大気温度の上下動が縄文文化を育んだ史実を語っている。縄文海進以前は氷河期の
、海退以後は農耕文化が入った「弥生時代」と規定される。
「旧石器(先土器)時代」
27
この様相が『地名』に記録されているところが重要である。「嶋地名」群の分布図 7-1 を
御覧になってお判りのように、この地名群は沖積平野、盆地を主体に分布している。縄文
海進の図に表現されたように、
「京浜東北・山手」線は、海進期の縄文時代前期に海辺だっ
た武蔵野台地端を走っている様子が判る。
第一章『山手線の駅』の目黒・大崎・神田・日暮里・駒込・巣鴨駅、第二章『京浜東北
線の駅』の磯子・根岸・新杉田・蒲田・大井町・川口・浦和駅で、『縄文海進→海退』現象
を取り上げたのは、これらの駅周辺に海岸地名が残されているからである。
例えば「根岸:Nekisi=Neki. 根際:そば、淵+kisi. 岸≒水際、川岸、海岸」
、つまり
「海辺の岸」と解けるこの名は、根岸線根岸駅に採られた「神奈川県横浜市中区根岸町」、
鶯谷駅本屋の所在地「東京都台東区根岸」、そして南浦和駅東方にある「埼玉県さいたま市
南区根岸」は、すべて海岸に面した時代に命名された。浦和駅では大宮台地端のさいたま
市「緑区緑島」
「桜区田島、中島」の地名解釈を、基盤地形図を添えて提起した。
この「緑島、田島」では、島を「浸む、湿む:湿地」の意味に採った。とくに緑島が谷
間に位置し、緑の地名解釈も「谷間」を表わすので、
「島」を湿地と解したが、これは現在、
というより、奈良時代から伝えられてきた「島=Island」と解く定説に反している。
地形を表現した地形語は、
『倭語』の基本どおりに、ある時代までどの地域でも同じ意味
に使われていた。分布図を見ると、嶋地名は「越後平野、関東平野、濃尾平野、大阪平野」
などの沖積平野に集中して、「北上川、雄物川、阿武隈川、阿賀野川、信濃川、九頭竜川、
富士川、天竜川、紀ノ川」流域に現存する様子がわかる。このような分布をとる『嶋地名』
すべてに、「Island;島」の解釈を採るのは無理なので、「滲む、染む、浸む:四段活用自
動詞」が表わす「湿地」の意味と採る必要がでてくる。ここが大切なところだが、数行で
の論証は無理なので、様々な類例をあげた第四章『地名考古学』を御参照いただきたい。
次図は、縄文海進ピーク時から現代にいたる、九十九里浜周辺の陸地化の模式図である。
今は九十九里平野とよばれ、平坦で単調な地形も、形成過程には複雑な変遷があった。
28
図の九十九里浜の変遷の模式図は、
『地層の知識』
〈1986 森脇 広ほか 東京美術〉から転
載させていただいたが、いまは九十九里平野と呼ばれる平坦な地形も、この 6,000 年間に
複雑な地形変化を重ねてきた。この変化と地名を対照すると、地形変化の通りに地名がつ
けられてきた様子が判るが、やはり長くなってここに記せないので、第四章『地名考古学
⑶
九十九里浜の埼、嶋』を御参照いただきたい。
約 6,000 年前の海進ピーク(左端の地図)に、いまの九十九里平野はなく、平野が徐々に
形成されると共に、岬地形には「埼地名」、島型地形に「嶋地名」が当てられた。九十九里
平野の地名を見ると、縄文時代前期以降に「嶋地名」は島(Island)に当てたようで、こ
の名が湿地を表現したのは縄文時代早期以前と推測したい。また古墳時代以後に地形を表
現した『地名』が付けられていないように感じられて、両者は、全国の海岸付近の地名に
共通する現象に見えるので、本サイトの基本推論としている。つまり縄文時代早期以前に、
「嶋地名」は湿地を表現した史実が、現代に伝わっていないのである。
同じ印象を受けたのは、奈良時代初頭に編纂した『古事記』『日本書紀』『風土記』に載
る地名説話が、
『二音節の動詞を掛け言葉で結ぶ構成』を採った地名解釈法を、全く反映し
ていない事実だった。
そこで古代史、考古学、人類学の知見を参照すると、古墳時代中期の 5 世紀から 7 世紀
の飛鳥時代に急激な人口増加が認められることであった。これが戦乱の続いた大陸、とく
に「562 年の伽耶、663 年の百済、668 年に高句麗」が滅亡して、統一「新羅」が生まれ、
朝鮮半島からの渡来人が大量に移入した影響と推理できるようになった。こう考えると、
白村江の敗戦(663 年)、壬申の乱(672 年)の後、わずか 17 年間で全国を『日本国』に統合
して『飛鳥浄御原令』を施行し、律令体制を整えたのも、律令制度を理解して漢文を熟知
した、大量の渡来人の存在を想定できることになった。
これが地名の創作法、語源が伝わられなかった原因だったと考えたい。現代に『縄文・
弥生時代の地名』が数百万の単位で残されているのも、語源が解らなかったために、伝承
を大切にする文化がこれを喪失することを阻んだからだった。太平洋戦争敗戦後、とくに
バブル時代以後に伝統を断ち切る風潮が高まり、地名の廃絶と統一論理がない新設記号を
量産した『平成の市町村大合併』以後の市町村名だけでは、歴史の復元が不可能になった
現実を理解することは必要だと思う。
ここで大切な史実は、6 世紀から 7 世紀中頃の日本列島、『倭国』が統一国家ではなく、
「越、大和、吉備、筑紫」など独立地域の集合体だったことである。475 年に百済が高句麗
にいったん滅ぼされた後、半島南部に百済を復興した裏には、これらの地域が後押しした
様子も想定されている。
継体紀にのる「磐井の乱:527 年」は、百済を応援するヤマト政権に対して、筑紫君磐井
が新羅支援のために、出兵を妨害したことが発端と記された。百済と密接な関係を持った
ヤマト政権には、百済の政権から 6 世紀前半に「五経博士」と呼ばれる儒教の専門家や、
様々な学術・文化・技術の専門家が渡来したことが、その後の我が国発展の基盤になった。
29
そのひとつが仏教伝来だが、これも経典だけを移入したのではなく、僧侶や寺社建築の技
術者、仏師の移入も考えられている。「欽明紀」に載る 562 年に滅亡した伽耶諸国(かつて
任那と呼ばれた地域)の再興が長々と語られているのも、伽耶・百済から来た王族の心境を
語ったようにみえる。
この後の時代は、
「百済、高句麗」が滅亡して、668 年に統一『新羅』が建国し、諸国連
合の『倭国』は唐、新羅にいつ攻め込まれるかに悩まされ続けた時代だった。この苦難を
乗り越えたのが 672 年の「壬申の乱」の後に律令体制を整え、689 年 6 月の『飛鳥浄御原令』
の公布により、
『日本国』を構築した『大海人皇子→天武天皇』と、遺志をついだ『持統天
皇』の業績だった。この後大宝 2(702)年に『大宝律令』を制定し、藤原京から奈良へ都
を移して、
『奈良時代』へ移行した。
地名だけを見る狭い視野では、倭語の基本構造をまったく無視した「好字二字化令」の
公布はとんでもない法令に見える。しかし、当時の緊迫した東アジアの情勢の中で、国家
統一は絶対の必須条件だった。
10 年少しの間に「律令制度」を構築するためには、漢字で整えた法令を導入する以外に
方法はなかったと思う。この時代は、室町時代の『文永・弘安の役』
、
『明治維新』と共に、
外国からの侵攻に脅かされた時代であった。
本章は、平安時代中期に編纂した『延喜式』
『和名抄』にのる、66 国 2 島の『国』の名の
意味、同じ時代に 591 郡あった『郡名』全数の起源を探索して、起源地名の位置を推定し、
当時の地理を再現することを基本テーマにする。7 世紀末に選んだ「国、郡」の起源地名、
すなわち当時の中心地を網羅した地図は、歴史に記録されなかった史実、とくに国家統一
以前の姿を再現してくれるので、まず「国・郡」をどのように定めたかを考えよう。
30
3.国・郡の成立
考古学、古代史学のうえでは、狩猟採集を主体にした時代は家族、親族が発展した程度
の集団は認められても、郡や国ほどの大規模な集団はなかったと考えるのが普通である。
この時代が、BC 300 年より前の先土器時代~縄文時代だった。
大陸から数多くの人々が渡来し、農耕を開始した弥生時代(BC300~AD300 年)に入ると、
耕地の確保、水利権の占有などから土地に所有権が生じ、農業生産に伴う共同体、すなわ
ち現代に続く「村」が生まれた。さらに、村々を統合する強力な首長が現われて「国」が
誕生した。『魏志』倭人伝、『後漢書』倭伝などに記された弥生時代の国々は、律令時代の
郡の領域とおなじ程度の大きさと考えられている。
古墳時代(300~710 年。狭義には 300~592 年)には、弥生時代にもまして強大な勢力をも
つ豪族が出現し、
「大和、吉備、出雲、筑紫」など、いわゆる「国」が成立した。この国々
が幾多の戦乱をへてしだいに統合され、飛鳥時代(古墳時代終末期:593~710 年。狭義には
推古朝の時代:593~628 年)に替った。古墳~飛鳥時代の様子は『古事記』
『日本書紀』に
詳しく記録されているが、本サイトは、後に述べる理由から、中央集権国家『日本国』が
成立した時代を『飛鳥浄御原令』施行の翌年、各国の領域を改めた持統天皇 4(690)年秋
に置きたいと思う。この史実を立証するのが、本章のテーマのひとつである。
:大化改新の詔〉には「国造制を廃し、国郡里制を敷く」
大化 2(646)年の詔勅〈「考徳紀」
と記録された。この辺が正式な国郡制の成立と考えられるところだが、近年では様々な観
点から、「大化改新」の実施範囲は東国、主に畿内と東山道周辺の国々と考える説もあり、
当時の「ヤマト政権」の領域の検証を含め、この問題をとりあげたい。
『旧唐書』倭国日本
伝は、
『日本書紀』に載らない貞観 22(648)年の遣唐使を記した後、次のように記した。
日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるをもって、ゆえに日本をもって名となすと。
あるいはいふ、日本はもと小国、倭国の地をあわせたり、と。
この文への解釈はいろいろあるが、本サイトは本章と次章で、
「日本国は倭国の別種なり」
の日本国は、
「大化改新」後の天智政権を指したことの立証を試みたい。
「日本はもと小国、
倭国の地をあわせたり」の記述も、壬申の乱(672 年)の後、天武・持統天皇の時代に、倭
国(東海道の東部、北陸道、山陰道、山陽道、西海道)を統合して、690 年秋に誕生した律令
国家『日本国』と考えたい。
「倭国をあらため日本国とする」記録が、
『新羅本紀』 670 年
の条に載るので、7 世紀初頭に日本国がなかった様子も感じとれる。
この個別の様相を各道、各国ごとに記して、66 国 2 島の国名と、591 郡の起源地名全数
を探索し、そこから当時の各地方の復元を計るのが本章の基本方針である。
奈良時代(710~794 年)初頭には「58 国 3 島」が記録されて、越前国から加賀国が独立
した弘仁 14(823)年に「66 国 2 島」となって、明治維新の『廃藩置県』
(1871 年)まで、
約千年の間おなじ状態が続いた。
31
全国的な郡の記録は、延長 5(927)年に成立した『延喜式 巻 22 民部上』と、承平年間
みなもとしたがふ
(931~938 年)に 源 順 が編纂した『和名抄』に 591 郡が記録された。この郡の大多数が
明治 11(1878)年の『郡区町村編制法』
、明治 21(1888)年の『市制・町村制』
、明治 23
(1890)年の『府県制・郡制』が公布されて改変されるまで、生き続けていた。
近年、藤原京と平城京から出土した木簡(主に荷札)に記された国、評(→郡)、郷の分
析から、国郡里制は『日本書紀』の記述どおり 7 世紀後半まで辿れることが明らかになり、
国名・郡名の大多数が、飛鳥時代から明治時代までの 1,200 年以上の間、ほとんど変化を
しなかった史実を立証した。これは世界史上、きわめて特異な現象である。
アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸の歴史を 1,000 年前に溯っても、一国の 650 にのぼ
る行政区画が、そのまま生きつづけた事例を見いだすことは不可能だろう。だがこれほど
長く継承された「国名」も、明治の『廃藩置県』で全滅した。廃藩置県前後の県名、県域
の変遷は極めて複雑な様相をみせるが、結果的には旧国域が多少統合されて、現在の都府
県域に受けつがれ、気分一新のため、名を替えたにすぎない様相になった。新府県名の採
用基準に一定の論理がないのは残念なところで、将来、新地域区分法を採用する際には、
明快な論理をもつ新名称の採用が望まれる。
律令時代の「郡」は、租税徴収の自治区画として重要な役割を果たしたが、律令制度が
崩壊した鎌倉時代以後は、次第に名目だけの存在になっていった。これを租税徴収の区画
に再利用したのが「太閤検地:1582 年~」で、戦国大名の林立から、領域が変化した郡や
郡名などの修復が行なわれた。しかし江戸時代の郡は行政機能がなく、これを復活させた
のが明治維新の「王政復古」だった。郡の名は、明治時代中期の大改変で律令時代の 3 分
の 1 が失われた。が、平成 16 年からの『市町村大合併』を実施した比較的最近まで、その
過半数が残されていたので、地方ごとに時代別の消失度をまとめると次表がえられる。
〈㊟
地名の集計は平成元(1989)年現在とした。いま残る郡は集計する意義を全く喪失した〉
表 7-9 郡名の消失年代(改名をふくむ)
地
方
律令時代
江戸以前
明治時代
大正~昭和
平成元年現在
消失郡合計
消失率(%)
東
北
46
6
4
3
13
28.3
関
東
89
4
29
10
43
48.3
中
部
105
12
19
4
35
33.3
近
畿
124
3
52
11
66
53.2
中
国
90
5
39
6
50
55.6
四
国
41
1
15
1
17
41.5
九
州
96
2
38
3
43
44.8
全
国
591
33
196
38
267
45.2
5.6
33.1
6.4
45.2
消失率(%)
32
この具体例をあげると、
『延喜式』『和名抄』の時代、すなわち平安時代中期から旧国域
全郡の名が『平成の大合併』直前の平成 15 年まで残っていた例に、以下の 14 国があがる。
越中国:富山県
新川郡(上中下) 婦負郡 射水郡 礪波郡(東西)
越前国:福井県
坂井郡 吉田郡*
足羽郡 大野郡 今立郡 丹生郡 南条郡*
敦賀郡
若狹国:福井県
三方郡 遠敷郡 大飯郡
甲斐国:山梨県
都留郡(南北) 八代郡(東西) 山梨郡(東) 巨摩郡(南中北)
信濃国:長野県
佐久郡(南北) 小県郡 埴科郡 更級郡 高井郡(上下)
水内郡(上下) 諏訪郡 筑摩郡(東)
木曾郡*
安曇郡(南北) 伊那郡(上下)
近江国:滋賀県
伊香郡 浅井郡(東)
高島郡 坂田郡 犬上郡 愛智郡
神崎郡 蒲生郡 甲賀郡 野洲郡 栗太郡 滋賀郡
淡路国:兵庫県
津名郡 三原郡
周防国:山口県
大島郡 玖珂郡 熊毛郡 都濃郡 佐波郡 吉城郡
長門国:山口県
厚狭郡 美祢郡 阿武郡 大津郡 豊浦郡
阿波国:徳島県
板野郡 名東郡 名西郡 阿波郡 勝浦郡 那賀郡 海部郡*
麻植郡 美馬郡 三好郡
土佐国:高知県
安芸郡 香美郡 長岡郡 土佐郡 吾川郡 高岡郡 幡多郡
豊後国:大分県
国東郡(東西) 速見郡 大分郡 海部郡(南北) 大野郡
直入郡 玖珠郡 日田郡
日向国:宮崎県
臼杵郡(東西) 児湯郡 宮崎郡 那珂郡(南)
諸県郡(東西北)
對馬嶋:長崎県
㊟
*
上県郡 下県郡
印の郡は、平安時代中期以後に新設された郡(前位の郡より分離)。
カッコ内の「東西南北上中下」は平成元年現在の区画。
東西南北、上中下にも分割されず、新郡の設立もなく、律令時代そのままの郡名を留め
た旧「若狹、淡路、周防、長門、土佐、對馬」国の姿は貴重だった。さらに近江国の 12 郡、
信濃国 10 郡などが最近まで残ったのは奇跡ともいえるが、反対に明治時代中期以降に旧国
〈㊟ 律令時代の郡名は『延喜式』の
域の全郡が改名された府県もある。この例をあげよう。
表記を使い、郷名を伴うものは『和名抄』記載の文字を使用した。以下同様〉
佐渡国:新潟県
雑太郡 羽茂郡 賀茂郡
→佐渡郡 明治 29 年統合
志摩国:三重県
答志郡 英虞郡
→志摩郡 明治 29 年統合
伊賀国:三重県
阿拜郡 山田郡
→阿山郡 明治 29 年改名
名張郡 伊賀郡
→名賀郡 明治 29 年改名
33
河内国:大阪府
交野郡 讃良郡 茨田郡 若江郡 河内郡 高安郡 大縣郡
澁川郡 志紀郡 安宿郡 古市郡 石川郡 錦部郡 丹比郡
いまは南河内郡のみ残存 明治 29 年改名
和泉国:大阪府
大鳥郡 和泉郡 日根郡
→泉北郡 泉南郡 明治 29 年改名
因幡国:鳥取県
巨濃郡 法美郡 邑美郡 氣多郡 高草郡 八上郡 智頭郡
→岩美郡 気高郡 八頭郡 明治 29 年改名
隱岐国:島根県
知夫郡 海部郡 隱地郡 周吉郡
→隠岐郡 昭和 44 年統合
旧河内国、和泉国をふくむ大阪府には、
「南河内、泉北、泉南」の 3 郡が残存していた。
これらの郡名は、律令時代の「河内国河内郡、和泉国和泉郡」の名を継承したものでなく、
『府県制・郡制』を実施した明治 29 年に旧河内国の全郡を廃止して「北、中、南」河内郡
に、旧和泉国を「泉北、泉南」郡へ分割した際の遺物である。両国と同じように、大阪府へ
移管した旧攝津国東部は元の 8 郡を 4 郡に統合したが、なぜか「東成、西成、三嶋」の 3
て しま
の
せ
と よの
郡は旧名を引きつぎ、豊嶋郡と能勢郡を合成した「豊能郡」だけが新設名だった。
こうした一貫性のなさは全国的なもので、明治の大改革のあわただしさを実感させる。
しかし明治時代の郡の改変は律令時代に定めた小郡域の合併を主体にして、千年以上の不
合理を改めた、新しい時代にふさわしい適切な処置であった。
明治時代後期以降には、府県と市町村の間に介在する「郡制度」が地方行政のうえで不
都合な面が多くなり、廃止論が活発化していった。大正 10(1921)年に『郡制廃止法』が
公布され、翌年に実施された。これ以後、郡は地方公共団体としての役割を失い、国の行
政機関としては機能したが、大正 15 年に郡長、郡役所を廃止して、郡は単なる地理的区分
の名として存続することになった。
そのため昭和時代に入ってからは、郡の統合によって旧郡が消えた例はごくわずかで、
郡域すべてが市制を敷いたため、自然消滅するものが増加していった。現代に律令期の名
残りを留める地理的区分上の郡は、主に山間の大郡域のものが生き残り、すでに 1,300 年
以上の歴史を重ね、上下、東西に区分されたものを含めて 490 郡(北海道と沖縄県を入れる
と 565 郡)の名が平成元年まで生きていた。
だが、平成 15~17 年の「市町村大合併」で、兵庫県「三原郡→南あわじ市」や、新潟県
「佐渡郡→佐渡市」など、約 180 郡が消滅した。市町村合併は、バブル期の放漫感覚を残
した破綻寸前の地方公共団体の変革、経費節減に不可欠で、時代の要請とみるべきだろう。
この意味で郡の消滅はやむを得ないことであり、地図と文献は豊富にあるので、郡の研究
に差し障りはないといえる。
ただ、この大合併における地名改変は、古代から継承した歴史遺産を廃棄して、記号に
換えた例が多く、本章にのせる地名も従前どおり『平成の市町村大合併』以前、おおよそ
昭和 50 年前後のものを使用する基本方針は変えない。
34
4. 一万束、一千町歩、一万町歩
律令時代から継承されてきた郡は、郡名の変遷を調べることは、記録があるので比較的
簡単だが、郡域を設立当初の範囲に復元するのはかなり難しい。これまで行なわれてきた
く らき
つ づき
たちばな
成果を利用して、第二章『京浜東北線の駅』東神奈川駅で武蔵国「久良、都筑、橘樹」郡、
え ばら
蒲田駅で「多磨郡」
、大井町駅で「荏原郡」、王子駅で「豊島郡」、大宮駅では「足立、埼玉」
郡、各郷の比定作業を行なった。この作業をして感じたのは、郡の大きさが一定ではなく、
大小の差がつけられていることである。なぜこのように区分したかの一例として、
「埼玉県、
東京都、神奈川県東部」にあった、旧武蔵国の各郡域をあげよう。
タイトルは、律令制度で祖として徴収した一郷の稲束数を「一万束」
、一郡の水田面積が
「一千町歩」
、一国の水田は「一万町歩」を基に分けた史実を、『和名抄』と『延喜式』に
載る集計から推定したものである。記録がないように見える日本史の授業で習わなかった
数字をなぜ導き出せるかを、同時進行で考えてゆきたい。
図 7-2 武蔵国の各郡
武蔵国 21 郡の大半が天平年間(729~748 年)
以前に設置されていた史実は、この時代に創
建された国分寺(武蔵国分寺:東京都国分寺市
西元町)に寄進した瓦の銘で確認されている。
いま創設年が確定している郡は武蔵国高麗郡
(こま。霊亀 2 年:716 年)と新座郡(にひ
くら→にいざ、古名は新羅郡。天平宝字 2 年:
758 年)の二郡だけである。
(㊟ 右図は『埼
玉県の歴史』 1971 山川出版社から転載)
右図を見てすぐ判るのは、律令時代にそれ
ぞれ一郡として存在した郡の領域が、地域毎
に目茶苦茶といえるほど大きさが違うことで
ある。
一般に山間地とよばれる「秩父、多磨」郡の領域が際立って大きく、武蔵国北部、今の
はむさは
は
ら
おほさと
を ぶすま
埼玉県北部の「賀美、兒玉、那珂、榛澤、幡羅、大里、男 衾 、横見」郡など、小河川が造
った小扇状地や小盆地などをもつ郡の範囲が小さい様子がわかる。こうした小郡は、明治
時代に「賀美+兒玉+那珂→兒玉郡」
、「榛澤+幡羅+大里+男衾→大里郡」
、「高麗+入間
→入間郡」、
「横見+比企→比企郡」、
「新座+足立郡北西部→北足立郡」に吸収合併したの
は当然といってよい印象をうける。
郡域の大小は武蔵国に限ったものでなく、全国どこでも見られる様相である。どの国も
武蔵国と同様に、ある地域に小郡域が集中し、山間部はおおむね大きな郡域として一郡に
まとめている。なぜ郡域に極端な大小の差をつけたのだろう? という素朴な疑問が湧く。
35
ここで頭に浮かぶのが、律令時代の『班田収授法』である。中国の『均田法』に習った
おほみたから
法令は、一定の年齢に達した 人 民 に、国が一定面積の口分田を与えるという土地制度で、
「大化改新」の時に採用された制度と「孝徳紀」は記した。
「郡:こほり→グン。大宝律令
公布以前は[評]の文字を使用」の誕生も、同じ時代に想定されているので、
『班田収授法』
と『郡制』の間には深い関係があったと考えられている。
ただし「大化改新」が行なわれたのは主に東日本、主体は畿内と東山道と推定されて、
全国の郡制実施は『飛鳥浄御原令:689 年 6 月施行』
、同時に造られた『庚寅年籍:690 年
実施』後、持統天皇 4(690)年秋に実施したと考えるのが本サイトの基本方針である。
く がい
平安時代中期に編纂された『倭名類聚抄 巻五 国郡部』には、各国ごとに正税・公廨で
あった稲束数と共に口分田の総面積が記されている。郡ごとの記録がないのは残念だが、
耕地面積と租税の稲束数を基本において、
「郡」をどのように定めたかを考えてみたい。
『倭名類聚抄。略称:和名抄』の巻五 国郡部・畿内郡第六十には、次の記録がある。
大和國 田 萬七千九百五町九段百八十歩。正税・公解 各二十萬束。本稲 五十五萬四千六百束。
雑稲 十五萬四千六百束。
河内國 田 萬千三百三十八町四段百六十歩。正・公 各十四萬九千四百七十七束。
本稲 三十九萬八千九百四十六束。雑稲 十萬二束。
ここに載る畿内各国の数値を表にまとめたのが次表だが、和泉国のデータが欠けている
ので、同時期に編纂された『延喜式 巻二十六 主税上』のデータを対照した。
表 7-10 『和名抄』と『延喜式』にのる稲束数
畿内
『和名抄』巻五
正
税
公
解
雑
名
区 分
山
城
畿 内
150,000 束
150,000
214,079
504,079
大
和
畿 内
200,000
200,000
154,600
554,600
17,905
河
内
畿 内
149,477
149,477
100,002
398.946
11,338
攝
津
畿 内
185,000
185,000
110,000
480,000
12,525
和
泉
畿 内
227,500
4,569
正
税
公
解
雑
本
巻二十六
本
主税上
国
名
区 分
山
城
畿 内
150,000 束
150,000
124,100
424,100
大
和
畿 内
200,000
200,000
154,600
554,600
河
内
畿 内
149,477
149,477
102,000
401,000
攝
津
畿 内
185,000
185,000
110,000
480,000
和
泉
畿 内
80,000
80,000
67,500
227,500
36
稲
稲
畿内郡第六十
国
『延喜式』
稲
国郡
稲
水田面積
8,961 町
この集計では「正税+公解+雑稲」の合計が、
「本稲:租税として納付された稲束数」に
なっている。公解(くがい)は国府・郡家などの官衙の運用と、役人の給与に当てた租税で、
雑稲は、寺社向け費用など、様々な項目が『延喜式 巻 26 主税上』に記されている。
大和國 正税,公解各廿万束。國分寺料一万束。豊山寺料二千四百束。壺坂寺料三千束。
松尾寺料二千八百束。霊安寺料四千束。八嶋寺料一万束。子嶋寺料四百束、文殊會料二千束。
修理官舎料二万束。池溝料四万束。救急料六万束。
河内國 正税,公解各十四万九千四百七十七束。國分寺料一万束。文殊會料二千束。修理池溝料二万束。
堤防料一万束。救急料六万束。
『延喜式』には雑稲、本稲の集計がないので、国分寺料以下を合計して雑稲とし、これ
に正税・公解を加えて本稲とした。
『和名抄』は数次にわたる転写による誤写が多い欠陥が
知られているが、和泉国のみならず、山城・河内国に写し違いもある。これは全国的傾向
といえるので、山陰地方の例をあげよう。両者の本稲が、ほぼ同じものは茶色で表記した。
表 7-11 『和名抄』と『延喜式』にのる稲束数 山陰地方
『和名抄』巻五
国
名
区分
正
税
公
解
丹
波
山 陰
230,000 束
丹
後
山 陰
但
馬
山 陰
340,000
340,000
因
幡
山 陰
300,000
300,000
伯
耆
山 陰
出
雲
山 陰
260,000
石
見
山 陰
隠
岐
山 陰
雑
250,000
稲
184,000
国郡
本
稲
山陰郡第六十四
水田面積
664,000
10,666 町
431,800
4,756
60,000
720,000
7,555
110,878
710,870
7,914
172,000
672,000
8,161
300,000
135,000
695,000
9,435
81,000
81,000
81,000
391,000
4,884
20,000
40,000
10,000
70,000
585
『延喜式』巻二十六
税
公
解
雑
国
名
区分
正
丹
波
山 陰
230,000 束
250,000
184,000
664,000
丹
後
山 陰
170,000
170,000
91,800
431,800
但
馬
山 陰
340,000
340,000
60,000
740,000
因
幡
山 陰
300,000
300,000
110,900
710,900
伯
耆
山 陰
250,000
250,000
155,000
655,000
出
雲
山 陰
260,000
300,000
135,000
695,000
石
見
山 陰
155,000
155,000
81,000
391,000
隠
岐
山 陰
20,000
40,000
10,000
70,000
37
稲
主税上
本
稲
山陰地方でも、但馬国の集計違い、石見国の「正税、公解」の値が「雑稲」と同じ値に
なっている様子がわかる。さらに問題が多い、西海道(九州地方)の数値を、『和名抄』と
『延喜式』を対比してみよう。
表 7-12 『和名抄』と『延喜式』にのる稲束数 九州地方
『和名抄』巻五
税
公
解
雑
稲
国郡
本
西海郡第六十七
国
名
区分
正
稲
水田面積
筑
前
西 海
200,000 束
200,000
390,063
790,063
18,500 町
筑
後
西 海
200,000
200,000
23,582
623,582
12,800
肥
前
西 海
200,000
200,000
92,589
692,499
13,900
肥
後
西 海
300,000
300,000
779,118
1,579,118
23,500
豊
前
西 海
200,000
200,000
209,828
609.828
13,200
豊
後
西 海
200,000
200,000
253,542
753,842
7,500
日
向
西 海
150,000
150,000
73,110
373,110
4,800
大
隅
西 海
薩
摩
西 海
85,000
85,000
72,500
242,500
4,800
壹岐嶋
西 海
11,005
50,000
25,000
90,000
620
對馬嶋
西 海
3,920
428
4,800
『延喜式』巻二十六
税
公
解
雑
稲
主税上
国
名
区分
正
本
稲
筑
前
西 海
200,000 束
200,000
390,100
790,100
筑
後
西 海
200,000
200,000
223,600
623,600
肥
前
西 海
200,000
200,000
492,600
692,600
肥
後
西 海
400,000
400,000
779,100
1,579,100
豊
前
西 海
200,000
200,000
209,800
609,800
豊
後
西 海
200,000
200,000
343,800
743,800
日
向
西 海
150,000
150,000
73,100
373,100
大
隅
西 海
86,000
85,000
71,000
242,000
薩
摩
西 海
85,000
85.000
72,500
242,500
壹岐嶋
西 海
15,000
50,000
25,000
90,000
對馬嶋
西 海
3,900
3,900
西海道では、大隅国租税の記載漏れがあって、
『和名抄』のデータを資料として利用でき
ない致命的な欠陥になった。しかし同時代の『延喜式』に載る稲束数を対照すると、同じ
資料を使った可能性が認められるので、残りの国々の本稲の数を対比してみよう。
38
下表の延喜式・和名抄は、東海道などにおける、各国それぞれの本稲、稲束数を表す。
表 7-13 『和名抄』と『延喜式』にのる稲束数
東海道
国 名
北陸道
延喜式
和名抄
水田面積
国 名
延喜式
和名抄
水田面積
伊 賀
317,000
227,000
4,051
若 狭
241,000
220,000
3,077
伊 勢
726,000
881,000
18,130
越 前
1,028,000
1,028,000
12,066
尾 張
472,000
477,000
6,820
加 賀
686,000
686,000
13,766
参 河
477,000
477,000
6,820
能 登
386,000
386,000
8,205
遠 江
772,300
582,260
13,611
越 中
840,400
840,433
17,909
駿 河
642,000
582,260
9,063
越 後
833,500
833,445
14.997
伊 豆
179,000
172,000
2,110
佐 渡
171,500
251,500
3,960
甲 斐
584,800
498,938
10,249
相 模
868,100
868,200
10,136
播 磨
1,221,000
1,220,000
21,414
武 蔵
1,113,000
1,013,750
35,574
備 前
956.6000
956,640
13,185
安 房
342,000
32,000
4,335
美 作
764,000
1,221,000
11,021
上 総
1,071,000
1,071,000
22,846
備 中
743,000
743,000
10,227
下 総
1,027,000
1,027,000
26,432
備 後
625,000
625.000
9,301
常 陸
1846,000
1,796,000
40,092
安 藝
632,000
631,300
7,357
周 防
560,000
560,000
7,834
長 門
361,000
261,000
4,603
山陽道
東山道
近 江
1,207,400
1,192,376
33,402
美 濃
880,000
880.000
14,823
飛 騨
106,000
106,000
6,615
紀 伊
470,800
468,818
7,198
信 濃
895,000
8,950
30,908
淡 路
126,800
121,800
2,650
上 野
886,900
884,000
30,937
阿 波
506,500
506,500
3,414
下 野
874,000
1,086,935
20,155
讃 岐
884,500
804,500
18,647
陸 奥
1,582,700
2,386,431
51,440
伊 豫
810,000
820,000
13,501
出 羽
973,400
927,712
26,109
土 佐
528,700
523,738
6,451
南海道
『倭名類聚抄。略称:和名抄』は、承平年間(931~938 年)に、我が国最初の百科事典と
して、源順(みなもと したがふ)が編纂した。『延喜式』は藤原時平・忠平などによって、
延長 5(927)年に完成した律令制度の格式を載せた記録集である。両書は同時代に編纂さ
れたため、全国の租税がほぼ同じ値で、同一資料を基にした可能性が高い姿が浮上する。
つまり、公文書として伝えられた『延喜式』にのる稲束数を、誤写まみれになって伝わる
『和名抄』の本稲に換えて、利用できるわけである。本サイトは、この形を平安時代中期
の「租税の稲束数」
「本田面積」の基本に据えて、以下の計算を行ないたい。
39
ただ、
「水田面積」は『和名抄』だけに載るので、
「尾張と参河」国、
「日向、大隅、薩摩」
国の水田面積が同一という、昔から指摘されてきた問題点もあるが、本サイトなりの対処
法を考えたいと思う。
私たちは、律令制度の基本政策が『祖庸調』の税制と、
『国郡郷制度』
、
『班田収授法』と
教わった。国郡郷制度のうち、郷は 50 戸を一郷とし、1 戸が 25~30 人で構成されていたの
で、郷数が判ればおおよその人口を算出できる。
『和名抄』に「66 国・2 島、591 郡」と、
約「4,000 郷(本サイトが利用した二十巻本では 4,029 郷)」の名が記されている。
昭和 2 年に発表された『奈良朝時代民政経済の数的研究』〈澤田吾一〉の精緻な研究によ
って、1 戸が 28 人、1郷は 50 戸で構成されたと採る説が一般的になり、1 郷は「1,400 人」、
平安時代の人口は 1,400×4,000 で、人口は 560 万人と算定されている。
『和名抄』には青
森県全域を含む東北地方北部が入ってないことや、奴婢の集計ができない欠点はあるが、
ここを基本に、平安時代中期の人口を「560~600 万人」と推定するのが普通である。
先に記したように、
『和名抄』は、歴史学上ほとんど利用されない国別水田面積を載せて
いる。理由はこのデータを使うと、
『日本書紀』の記述と全く違う日本国の姿が出現するか
らだが、武蔵国に 35,574 町、相模国:11,236 町、飛騨国:6,615 町、美濃国:14,823 町、
出雲国:9,435 町、伊豫国:13,501 町の耕地面積が記載されている。これは平安時代中期
の数値だったことを頭におく必要はあるが、耕地面積を『和名抄』にのる郡、郷の数で割
って、一郡、一郷あたりの水田面積(町)の平均を算出すると次のようになる。
表 7-14 国別の一郡、一郷あたりの水田面積(町)
国
名
国の等級
武
蔵
大 国
相
模
飛
水田面積
郡 数
一郡水田面積
郷 数
一郷水田面積
人 口(人)
35,574
21
1,694
119
299
167,000
上 国
11,236
8
1,405
67
168
94,000
騨
下 国
6,615
3
2,205
13
509
18,000
美
濃
上 国
14,823
18
824
131
113
183,000
出
雲
上 国
9,435
10
944
78
121
109,000
伊
豫
上 国
13,501
14
964
72
188
101,000
この表の「町」は 60 間四方。1 間=6 尺≒1.8m。当時の町(3,600 歩)は、太閤検地以
。
後(3,000 歩)の 1.2 倍だった。一町≒(60×1.8)2 =11,664 ㎡、一歩=一坪(3.3 ㎡)
『和名抄』の郷は、資料によって多少異なり、本サイトは「元和三年古活字版 二十巻本
中田祝夫編 1978 勉誠社」記載の郷(驛家郷、神戸郷、餘戸郷を含み、重複する郷を修正)
を基本に置いた。国の等級(大・上・中・下)は『延喜式 巻 22 民部上』による。
ここにあげた国々は特別な意味を持つわけでなく、「美濃、出雲、伊豫」は弥生時代から
開けていた地、「武蔵、相模」は比較的新しい開拓地、「飛騨」は山間部という意味でとり
40
あげた。この数値をみると、古くから開けた地域は一郡あたりの耕地面積が狭く、新しい
開墾地を多くもつ地域は大きい値をとる様子をよみとれる。
この傾向は全国的なもので、これを全域に適用するのだが、律令時代はいま使用される
「関東、中部、四国」の区分域とは違う「東海道、東山道、南海道」などの地域名を使っ
ていたので、これを現代の都府県に分類しておきたい。
「~道」の区分は、現在の大韓民国「京畿道」
「江原道」
「慶尚南道・北道」
「全羅南道・
北道」
「忠清南道・北道」
、朝鮮民主主義人民共和国「両江道」
「慈江道」
「黄海南道・北道」
「平安南道・北道」
「咸鏡南道・北道」などと同じ表現法である。これは、天武天皇の時代
に定めた五畿七道が、668 年に半島を統一した『新羅』国の律令制、全国を九州に分割した
手法を取り入れた様子を物語っている。
旧国名
現行の都府県名
畿 内
山城 大和 河内 和泉 攝津
京都東南部 奈良 大阪
東海道
伊賀 伊勢 志摩 尾張 參河
三重東部 愛知
遠江
静岡
東山道
北陸道
山陰道
山陽道
南海道
西海道
駿河
伊豆
甲斐
相模
東京島嶼部
山梨
兵庫東南部
神奈川西部
武蔵 安房 上総 下総 常陸
神奈川東部 東京 埼玉 千葉 茨城
近江 美濃 飛騨 信濃 上野
滋賀 岐阜 長野 群馬
下野 陸奥 出羽
栃木 福島 宮城 岩手
若狹 越前 加賀 能登 越中
福井 石川 富山
越後 佐渡
新潟
丹波 丹後 但馬 因幡 伯耆
京都西北部 兵庫北部 鳥取
出雲 石見 隱岐
島根
播磨 美作 備前 備中
兵庫西南部 岡山
備後 安藝 周防 長門
広島 山口
紀伊 淡路
和歌山 三重西南部 兵庫南部
阿波 讃岐 伊豫 土佐
徳島 香川 愛媛 高知
筑前 筑後 豊前 豊後
福岡 大分
肥前 肥後 日向 大隅 薩摩
佐賀 長崎 熊本 宮崎 鹿児島
壹岐嶋 對馬嶋
長崎
山形 秋田
東海道はいまのイメージとは大きく違っているが、「東海、北陸、山陰、山陽」は現代の
地域名、幹線鉄道名、道路名として広く利用されている。この区分域を使って、畿内七道
の計算をすると、次の結果がえられる。
41
表 7-15 平安時代中期の地方別水田面積、稲束数
区 分
水田面積(町)
国数
一国平均の水
郡数
田面積
一郡の水田
郷数
面積
一郷水田
延喜式稲束数
面積
稲束/水
田面積
東山道
224,389
8
28,049
112
2,003
729
308
7,405,400
33.0
東海道
213,493
15
14,233
128
1,668
1,010
211
10,438,500
48.9
北陸道
73,980
7
10,569
31
2,386
230
322
4,186,400
56.6
畿
内
55,298
5
11,060
53
1,043
349
158
2,087,200
37.7
山陰道
53,956
8
6,745
52
1,038
387
139
4,357,700
80.8
山陽道
84,942
8
10,618
69
1,231
498
171
5,862,600
69.0
南海道
61,861
6
10,310
50
1.237
322
192
3,327,300
53.8
西海道
114,848
11
10,441
96
1,196
504
226
5,990,500
52.2
合
計
882,767
68
平
均
591
12,982
4,029
1,494
43,655,600
218
49.5
上の表は、
『和名抄』に載る「水田面積」と、
「国、郡、郷」数、そして租税の稲束数を
先にあげた『延喜式 巻 26 主税上』から取り出して作成した。稲束数は、
『大宝律令』で
正丁一人当たり 2.2 束と定められ、慶雲 3(706)年に 1.5 束(生産高の 3%)に改定された
ので、延喜式の稲束数は、平安時代中期の稲作生産高の指標になるわけである。なお当時
の稲一束は、約二升(3.6ℓ)と考えられている。
阿波国、豊後国では、『和名抄』水田面積に誤写があると考えられているので、一万町歩
を加えて集計した。また、
「日向、大隅、薩摩」国の水田面積が「4,800 町」と同じ値で表
記されて古くから問題視されてきた。このままでは日向国の生産効率(稲束数/水田面積:
373,100÷4,800=77.7。偏差値:60.7)が高すぎるので、稲束数・水田面積が同じ大隅・薩
(次章に詳述)
摩国並の生産効率と仮定し、水田面積を「7,400 町」に修正して集計した。
こうして集計すると、一国平均の水田面積、一郡・一郷あたりの水田面積が畿内以西で
はおおよそ一定値をとり、律令時代の「国、郡、郷」制度が耕地面積を基本に定めた様子
を推定できる。東日本の「北陸、東海、東山」道では、国、郡、郷の水田面積が西日本よ
り大きいことは、奈良~平安時代に新田開発が積極的になされた様子を暗示している。
また、山陰道諸国の一国・一郷あたりの水田面積が極端に少ないところが気になるが、
右端にのせた「稲束数÷水田面積」の値に注目していただきたい。定説によれば、延喜式
の稲束数は、生産高の 3%と決められていたとされるので、この値を水田面積で割ると、国
毎の米の生産効率を算定できることになる。山陰・山陽道が高い値を記録し、東海・東山
道が低い値を示すことは、弥生時代以来の伝統をもつ地域と、気象条件に恵まれず、新規
開拓の地味の低い土地条件から、このような大差が発したのだろう。
さらに、稲束数を主体にデータを組みかえると、興味ぶかい様相が出現する。
42
表 7-16 平安時代中期の地方別稲束数
区 分
延喜式稲束数 (束)
国数
一国あたりの稲束数
郡数
一郡の稲束数
郷数
一郷の稲束数
東山道
7,405,400
8
925,680
112
66,120
729
10,160
東海道
10,438,500
15
695,900
128
81,550
1,010
10,340
北陸道
4,186,400
7
598,060
31
135,050
230
18,200
畿
内
2,087,200
5
417,440
53
39,380
349
5,980
山陰道
4,357,700
8
544,710
52
83,800
387
11,260
山陽道
5,862,600
8
732,830
69
84,970
498
11,770
南海道
3,327,300
6
554,550
50
66,550
322
10,330
西海道
5,990,500
11
544,590
96
62,400
504
11,890
43,655,600
68
合
計
平
均
591
641,990
4,029
73,870
10,840
こうしてまとめると、政治経済の中心にあった畿内と極端に高い値をとる北陸道を除き、
、
一郷の稲束数の値は一定し、一郷の租税稲束数を「一万束」、一郡の水田面積が「一千町歩」
一国は「一万町歩」と、切りのよい数字で決めた様子を復元できる。さまざまな歴史書を
みても、この辺の分析が行なわれていないのは不思議な現象だが、平安時代の資料であっ
ても『和名抄』
『延喜式』の価値が高いところは、もっと知られて良いと思う。
表に載るように、一郡・一郷あたりの耕地面積が「畿内、山陰、山陽、南海、西海」道
の西日本地方では、ほぼおなじ値に落ち着いていることは、この地方が早くから開拓され、
平安時代中期にも生産高が余り変化しなかった様子を暗示している。これに対して「東山、
東海、北陸」道の東日本の地域では一郡あたりの耕地面積が西日本の倍、またはそれ以上
の値をとって、律令時代の新田開発…班田収授法→三世一身法(723 年)→墾田永世私財法
(743 年)…の成果が、東国に顕著に認められるのは面白い現象といえよう。東日本諸国が
後に郡を新設、または分割した例が多くみられるように、西日本と比べて、律令時代初頭
の国域、郡域の決め方が甘かった雰囲気を感じとれる。
これは「大化改新」で生まれた『日本国:天智政権』の領域が畿内と東山道諸国であり、
これを引き継いだ天武・持統天皇と藤原氏が東国に甘く、統一『日本国』誕生以前は倭国
連合だった「山陰、山陽、九州」地方に厳しい姿勢を示したために差が生じたのだろう。
東海道と北陸道に対しては、すこし違ったようで、これは各項目で私見を述べたい。
ただ、この分類では私たちには馴染みのないところもあるので、現代の区分で地方別に
仕分けをすると、次のようになる。
43
表 7-17
区 分
水田面積(町)
現行の地方別、水田面積、稲束数
国数
一国平均の水
郡数
田面積
一郡の水田
郷数
面積
一郷水田
延喜式稲束数
面積
稲束/水
田面積
東
北
77,549
2
38,774
46
1,686
253
307
2,556,100
33.0
関
東
201,607
8
25,200
89
2,265
710
284
8,028,800
39.8
中
部
176,999
16
11,062
105
1,686
787
225
9,195,000
51.9
近
畿
165,244
15
11,008
124
1,333
899
184
7,992,000
48.4
中
国
94,507
12
7,875
90
1,050
625
151
7,163,500
75.8
四
国
52,013
4
13,003
41
1,269
251
207
2,729,700
52.5
九
州
114,848
11
10,441
96
1,196
504
228
5,990,500
52.2
合
計
882,767
68
平
均
区 分
591
12,982
延喜式稲束数 (束)
国数
一国あたりの稲束数
4,029
1,494
郡数
43,655,600
218
一郡の稲束数
郷数
49.5
一郷の稲束数
東
北
2,556,100
2
1,278,050
46
55,570
253
10,100
関
東
8,028,800
8
1,003,600
89
90,210
710
11,310
中
部
9,195,000
16
574,680
105
87,570
787
11,680
近
畿
7,992,000
15
532,800
124
64,450
899
8,890
中
国
7,163,500
12
596,960
90
79,590
625
11,460
四
国
2,729,700
4
682,430
41
66,580
251
10,880
九
州
5,990,500
11
544,590
96
62,400
504
11,890
合
計
43,655,600
68
平
均
591
641,990
4,029
73,870
10,840
現代の区分で整理し直すと、水田面積に東高西低の国勢が更にはっきり浮かびあがり、
関東地方が抜群の潜在力を秘めていた様子が浮上する。
『延喜式 巻 22 民部上』は各国にラ
ンクづけをして、
「常陸、上野、上総、下総、武蔵」は大国、
「下野、相模」が上国、
「安房」
を中国と記した。他の地方の大国が「陸奥、越前、伊勢、近江、河内、大和、播磨、肥後」
だけだった史実をみても、平安時代中期に稲作生産効率が低かった関東地方も、後の時代
の中心地となる条件を充分に備えていた様子を理解できる。
畿内七道、現代の地方別に分類した一郡あたりの耕地面積が、10 世紀前半においても、
西日本地方では一定値を示すので、7 世紀後半に定めた「郡」は一郡の耕地面積、ならびに
収穫高を基本に定めたと考えたい。これは『班田収授法』や当時の税制「祖、庸、調」の
税率が、
『大宝律令:令集解』に規定されていた史実からも類推できて、租税の徴収も一郷
あたりの収量が一定していれば、運用しやすいこともこう考える一因である。
44
表 15 と 17 の右端にのせた「稲束数÷水田面積」
、すなわち稲作生産効率の値は、各地方、
各国ごとに気候風土、歴史の伝統、農業技術に左右されたことは確実なので、平安時代の
みならず、飛鳥時代の国勢を類推するカギになるところが大切である。この様子を表にま
とめると、次のようになる。
表 7-18
道区分
稲作生産効率 畿内七道分類
稲束数
水田面積
生産効率
偏差値
山陰道
4,357,700
53,956
80.76
68.5
山陽道
5,862,600
84,942
69.01
60.4
北陸道
4,186,400
73,980
56.58
51.9
南海道
3,327,300
61,861
53.78
50.0
西海道
5,990,500 117,448
51.01
48.0
東海道
10,438,500 213,493
48.89
46.6
55,298
37.74
38.9
7,405,400 224,389
33.00
35.7
43,655,600 885,367
49.30
畿
内
東山道
合
計
2,087,200
表 7-19
地方区分
稲作生産効率 現行地方別分類
稲束数
水田面積
生産効率
偏差値
中
国
7,163,500
94,507
75.79
70.6
四
国
2,729,700
52,013
52.48
51.7
中
部
9,195,000 176,999
51.94
51.3
九
州
5,990,500 117,448
51.01
50.5
近
畿
7,992,000 165,244
48.36
48.4
関
東
8,028,800 201,607
39.82
41.5
東
北
2,556,100
77,549
32.96
36.0
合
計
43,655,600 885,367
49.30
二つの表に現われたように、平安時代中期には中国地方(山陰・山陽道)が抜群の生産性
をあげていた様子がわかる。なかでも山陰道が山陽道より生産効率が高く、北陸道(旧越国)
も東海道を凌駕していた史実は、日本海側の稲作技術が進んでいた様子を示唆している。
畿内の生産効率が東山道についで低いことは、重大な史実…中央集権国家『日本国』誕生
以前に、上位の地方の国々は独立国または連合国で、畿内と東山道諸国、東海道の一部が
天智(中大兄皇子)政権の領域…を暗示するとも考えられるので、順を追って検討したい。
45
ただ、ここには、租税が全国一律であったという暗黙の了解事項があり、律令時代初頭
はそうであっても、平安時代中期には違っていた様相がこの集計に認められるのである。
とくに畿内の「山城、大和、河内、攝津」国は、庸・調が他の地方の半分であったように、
祖も低減されていた様子が統計数値に現われる。この模様は話を進めた北陸道の越中国と、
次章「畿内」で詳述したい。
こうして見ると、畿内の農業生産効率が低かったわけでなく、律令時代を通して、全国
一律の税制でなかった様子を浮上させて行きたいと思う。
46
5.武蔵国の郡
律令時代の郡域が耕地面積、収穫量を基本に区分されたとすると、耕作地の少ない山間
の郡域が大きく、稲作適地の扇状地をもつ郡の面積が小さいことを理解できる。弥生時代
以後の遺跡にみられるように、小扇状地や、関東地方では谷地(ヤチ)とよばれる谷型の
湿地帯が、もっとも早くから水稲耕作が行なわれていた。
今ほど灌漑技術が発達していなかった時代には、扇端に湧水があって、その適度の勾配
から排水もよく、地味も上流からの腐葉土が堆積する扇状地は、初期の農耕にとって格好
の場所であった。先にあげた「武蔵、相模、飛騨、美濃、出雲、伊豫」の国々のみならず、
全国どの国でも小扇状地状地形に小郡が密集する。これは弥生~古墳時代の伝統を、平安
時代まで留めた現象とみて良いだろう。
郡域が耕地面積を基本に定められたなら、さて、郡の名はどの様に決めたのであろうか。
全国を検証すると、郡名も一定基準でつけられていることはすぐ分かるが、591 の郡全数を
とりあげるのでは紙面が何枚あっても足りず、ここでは「武蔵国」の郡だけを考えたい。
まず、律令時代の「武蔵国」の郡名全数をあげると、以下のようになる。
武蔵国
埼玉県
賀美郡 Kami
兒玉郡 Kotama
那珂郡 Naka
榛澤郡 Famusafa
幡羅郡 Fara
男衾郡 Wopusuma
大里郡 Ofosato
埼玉郡 Sakitama
横見郡 Yokomi
比企郡 Fiki
高麗郡 Koma
入間郡 Iruma
足立郡 Atati
新座郡 Nifikura
秩父郡 Titipu
葛餝郡 Katusika
足立郡 Atati
新座郡 Nifikura
豊嶋郡 Tosima
荏原郡 Epara
多磨郡 Tama
都筑郡 Tutuki
久良郡 Kuraki
葛餝郡 Katusika
東京都
神奈川県 橘樹郡 Tatipana
㊟ 武蔵国葛餝郡は、中世に下総国から西部だけを移管。
本サイトは、随所に「郡名は小地名から採られた」仮説を使用してきたので、あらため
て説明の必要もないが、この仮説を「定理」に昇格させるために以下の記述をすすめたい。
といっても、自然科学の分野のように数式を使って証明することは不可能なので、できる
かぎり沢山の例をあげて、その様子を明らかにしたい。
平安時代の百科事典、地名辞典ともいえる『和名抄』には、66 国 2 島、591 の郡と共に
4,000 余りの郷名が記録されているので、ここから、興味ぶかい地名をとりだそう。
武蔵国
那珂郡那珂郷
榛澤郡榛澤郷
幡羅郡幡羅郷
高麗郡高麗郷
荏原郡荏原郷
橘樹郡橘樹郷
47
埼玉郡埼玉郷
この地名群は、郡と同一名をなのる「郷:さと→ゴウ」が存在した貴重な記録であり、
武蔵国 21 郡のうちの 7 郡に同一名の郷があった様子を記している。つまり、郷の名を郡名
に採用した史実が残されたわけで、これを全国で集計すると次表がえられる。
表 7-20 郡と同一名の郷
東北
関東
中部
近畿
中国
四国
九州
合計
数
46
88
104
120
89
40
93
580
郡と同名の郷数
27
37
45
50
50
4
37
250
58.7
42.0
43.3
41.7
56.2
39.8
43.1
0
6
4
4
0
0
15
郡
百分率 (%)
郡家郷
10
1
㊟ 郡数は、律令期の 591 郡から上下、東西をのぞき、原形に復した数。
この表は、7 世紀後半に誕生した郡と同じ名の郷が、10 世紀の前半に全国で四割強ほど
残されていた様子を表わしている。東北地方の値が高いのは、郡の設立年代が比較的あた
らしい様子をみせた現象と考えられるが、中国地方が高い理由は解りにくい。
『記・紀』に、
「吉備国」などがヤマト政権に反抗した様子が記されており、飛鳥時代後
期(690 年秋)に吉備国を分割した備前~備中国境南部に、当時の中心部…吉備中山…を強
制的に分断した姿が残されているので、この地方でも古い伝承地名を排除し、郡を設立し
〈次章に提示〉
たときの中心地名を郡名に採用したと考えられるかもしれない。
四国地方が極端に低い値をとる点は重視しなければならない。この地方は『和名抄』に
のる郷名が、現在も大字・小字名に多く継承されているので、平安時代の郷の分布状況は
比較的把握しやすい。各郷と郡名起源地群の位置を対照すると、郡名にとった地名は 7 世
紀後半には、すでに失われていた様子が感じられる。つまり四国地方の郡名は、古墳時代
後期以前の中心地の名を伝えた可能性が窺われるわけで、この様子は南海道(四国地方)の
項で検証したい。
全国の国・郡を個別にあたると、平安時代中期に郡名の起源となった郷が全郡に残され
ていた国と、全数が消えていた国がみられるので、両極端の諸国をあげよう。
郡全数が同一名の郷をもつ国。
若狹国
三方郡 遠敷郡 大飯郡
飛騨国
益田郡 大野郡 荒城郡
伯耆国
會見郡 汗入郡 日野郡 八橋郡
美作国
英多郡 勝田郡 苫田郡 久米郡 大庭郡 眞嶋郡
久米郡 河村郡
㊟ 備前国から 713 年に立国した美作国の苫田郡は、
『和名抄』に苫東・苫西郡と分割後
〈美作国苫東郡苫田郷:岡山県津山市総社付近〉
の郡が記録されている。
48
郡と同一名の郷がない国。
安房国
安房郡 平群郡 長狹郡 朝夷郡
越中国
新川郡 婦負郡 礪波郡 射水郡
讃岐国
大内郡 寒川郡 三木郡 山田郡 香川郡 阿野郡 鵜足郡
那珂郡 多度郡 三野郡 刈田郡
日向国
臼杵郡 兒湯郡 宮埼郡 那珂郡
對馬嶋
上縣郡 下縣郡
諸縣郡
このほかにも、常陸国は 11 郡のうち「久慈郡」をのぞく 10 郡におなじ名の郷が記され、
山城国 8 郡では「乙訓郡」をのぞいた 7 郡、但馬国 8 郡の「氣多郡」をのぞく 7 郡に同名
の郷が記録されている。郡と同一名の郷がない 4 国 1 島の歴史背景が注目されるが、全国
66 国 2 島のうち、62 国 1 島に所属する郡には、少なくとも一つ以上の郡と同一名の郷が存
在した史実を重視しなければならない。
また、前表に記した「郡家郷:Kofori no Miyake no Sato→ぐんけ、ぐうけ、こおげ」
は平安時代中期の郡役所所在地を表わした郷名で、次の国郡に郡家郷が記録されている。
武蔵国
大里郡郡家郷
男衾郡郡家郷
足立郡郡家郷
久良郡郡家郷
入間郡郡家郷
加賀国
江沼郡郡家郷
美濃国
大野郡郡家郷
厚見郡郡家郷
可兒郡郡家郷
攝津国
東生郡郡家郷
西成郡郡家郷
河邊郡郡家郷
淡路国
津名郡郡家郷
讃岐国
那珂郡郡家郷
比企郡郡家郷
武蔵国に郡家郷が集中するのは面白い現象で、美濃国厚見郡に厚見郷、可兒郡に可兒郷、
淡路国津名郡に津名郷が記されている。この記録は、郡名発祥地が平安時代中期に郡の中
心地でなかった様子を暗示している。
全国的に郡制の敷かれた時代と『和名抄』の時代には 250 年以上の年代差があり、これ
は田沼時代・天明大飢饉から寛政の改革と、現代との時代差に相当する。この 250 年の間
に時代がどれほど変化したかは記すまでもないが、
「白村江の戦い、壬申の乱」をふくみ、
飛鳥、難波、近江、浄御原、藤原京へと遷都をつづけ、
『日本国』が誕生した律令時代前夜
も激変の時代だった。奈良時代初頭に『好字二字化令:713 年』が公布されて、旧来の地名
が大きく変貌した時代にあたり、明治時代以降、とくに昭和 28 年から現代に至る地名改変
と共に、地名の歴史では二大転換期とも考えられる時代に相当している。
32 ページの表 7-9 にみられるように、律令時代に定めた郡は、江戸時代末までの約 1,200
年間に失われたのはその 5%で、明治維新から昭和時代の約 120 年間に失われた郡は 40%
49
に及んでいる。大地域を表わす郡と小区画の郷とでは性格は異なるが、近代に失われた村、
字名もおなじ様相をみせている。激変の時代であった律令時代前夜も同じ状況が想定され、
飛鳥時代以前の伝承地名を採用した郡では、設立時またはこの時代に起源地名が失われた
可能性を感じとれる。
また「先代旧事本紀」にのる『国造本紀』は、全国の国造・縣主を網羅している。この
「国造、縣主」の起源はやはり地名であり、この名を国名、郡名に引きついだ例は数多く
みられる。国造(くにのみやつこ→コクゾウ)の起源地名は古墳時代から弥生時代の中心
地を継承した可能性があるので、本章では全数を提示して起源地名を推理したい。
そこで、先にあげた武蔵国の郷名を検証すると、いまでは武蔵国荏原郡荏原郷、橘樹郡
橘樹郷に相当する小地名が失われていることが判る。が、幸いなことに、埼玉県内にあっ
た郷には関連地名が残されているので、これを列記しよう。
那珂郡那珂郷
Naka
埼玉県児玉郡美里町中里
なかざと
榛澤郡榛澤郷
Famusafa
埼玉県大里郡岡部町榛沢
はんざわ
幡羅郡幡羅郷
Fara
埼玉県深谷市原郷、幡羅町
はらごう、はたらちょう
埼玉郡埼玉郷
Sakitama
埼玉県行田市埼玉
さきたま
高麗郡高麗郷
Koma
埼玉県日高市高麗本郷
こまほんごう
明治 4 年の『廃藩置県』で、郡名をとって誕生した埼玉県の起源地名である「埼玉郷」
が現存するのは有り難い。
『万葉集』に詠まれた「埼玉の小埼の沼、埼玉の津」は、かつて
湊だった水上交通の要衝が、こんな内陸部にあった様子を現代に伝えている。
さきたま
を さき
はね き
はら
埼玉の 小埼の沼に 鴨ぞ翼霧る おのが尾に 降り置ける霜を 掃ふとにあらし
『万葉集』巻九
さきたま
埼玉の
1744
こと
津に居る舟の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね
巻十四 3380
いまは、明治時代中期の『市制・町村制』
『府県制・郡制』公布などによって律令時代の
郡域とは大幅に変化した郡や、昭和時代以後に市制が敷かれたところも多く、起源地探索
には、これらの変遷史をふり返る必要があるのは辛いところである。
平成の大合併直前の平成 13 年 3 月 1 日に浦和・与野・大宮市が合併して、
「さいたま市」
が誕生した。が、この国でただ一つ県名から市名を採った本末転倒の「さいたま市」は、
武蔵国足立郡の範囲にあり、武蔵国埼玉郡とはまるで無関係、平成流の記号であることは
(㊟ 2005 年 4 月に旧埼玉郡の岩槻市が加わった)
地名研究の常識としたいものである。
『和名抄』の郷にはなかった郡と同一の小地名も、明治時代の市町村名や『川名の起源』
探索で利用した神社、小学校名の助けを借りると、現代に起源地名が残されていることが
わかる。ここでも埼玉県にあたる範囲の郡を記そう。
50
賀美郡
Kami
埼玉県児玉郡上里町嘉美
兒玉郡
Kotama
埼玉県児玉郡児玉町児玉
児玉町、児玉小学校
男衾郡
Wopusuma
埼玉県大里郡寄居町富田
式内小被神社、男衾村、男衾小学校
横見郡
Yokomi
埼玉県比企郡吉見町黒岩
式内横見神社
入間郡
Iruma
埼玉県狭山市南入曽
入間野神社、入間村、入間小学校
新座郡
Nifikura
埼玉県和光市新倉
新倉村、新倉小学校
秩父郡
Titipu
埼玉県秩父市番場町
式内秩父神社
㊟
児玉町、男衾村などの表記は、明治 22 年施行の『市制・町村制』以後の市町村名。
神社の「式内」は、平安時代中期の『延喜式』神名帳に記録された式内社を意味し、
表示のない神名は式外社を示す。以下同様。
ここにあげた地名が、本来の発祥地であるかは検討を必要とする。全国的にみて、郡の
起源地名は『市制・町村制』を実施した明治時代中期以前に、よく保存されていたようで、
『和名抄』各郷を比定する難渋さに較べれば、やさしい部類に属している。
い るま
上記の地名のなかで問題になるのが、
「入間郡」の起源地とした狭山市南入曽である。
い りま
この付近は、明治 22 年から昭和 29 年まで入間郡入間村を名乗っていたため、小学校に入
間の名が残された。が、この村名は郡名と入間野神社から採られており、明治 22 年以前は
付近に入間の地名はなかった。入間郡郡家郷は、狭山市入間川に比定することが有力視さ
れていて、
「入間川」という川名の起源を考えるうえでも、川から 4kmも離れた狭山市南入
曽では「いるま」川の起源地には成りえない。やはり「狭山市入間川」を入間川、入間郡
の発祥地とするのが適切だろう。
男衾郡の起源地と推理した寄居町富田が、男衾郡郡家郷に比定されているところも参考
になる。また、賀美郡では「児玉郡上里町金久保。賀美小学校所在地」、新座郡では「新座市
新座:にいざ」が気になるが、前者は明治 22 年に新設した賀美村に発した校名のようで、
後者は郡名を転用した昭和時代の新設名であるため、郡名の起源地とは考えにくい。
こうして、埼玉県に相当する旧武蔵国 16 郡のうち 12 郡は、現代の地図だけでも郡名発
祥地を推理できることになり、のこるは「大里、比企、葛餝、足立」の 4 郡となる。
この比定は少々難しく、大里は『吾妻鏡』に郡家所在地と記された「大里郡郡家郷:熊
谷市久下」
、比企は「比企郡郡家郷:東松山市古凍」を候補地としたい。葛餝は、下総国の
郡名で、千葉県船橋市葛飾町に比定され、足立郡は第二章『京浜東北線の駅
大宮』にあ
み ず は た
げた式内足立神社の故地、埼玉県大宮市水判土(いまは、さいたま市大宮区)があがる。
埼玉県内の郡名起源地群は、おおよそ丘陵端・台地端にある川のほとりや、扇状地に所
在して、分布が著しく偏る特徴が浮かび上がる。この様相は郡名起源地のみならず、律令
時代の郷の基本特性と考えて良さそうである。
東京都と神奈川県にあった郡は、京浜東北線「洋光台、東神奈川、蒲田、大井町、王子」
駅に記したので御参照いただきたい。武蔵国全郡の起源地名を推定すると次のようになる。
51
武蔵国
秩父郡 Titipu
埼玉県秩父市番場町
知々夫国造、式内秩父神社
兒玉郡 Kodama
埼玉県児玉郡児玉町児玉
児玉町
賀美郡 Kami
埼玉県児玉郡上里町嘉美
那珂郡 Naka
埼玉県児玉郡美里町中里
那珂郷
榛澤郡 Famusafa 埼玉県大里郡岡部町榛沢
榛澤郷
男衾郡 Wopusuma 埼玉県大里郡寄居町富田
式内小被神社、男衾村
幡羅郡 Fara
埼玉県深谷市原郷町
幡羅郷
大里郡 Ofosato
埼玉県熊谷市久下
郡家郷
埼玉郡 Sakitama 埼玉県行田市埼玉
埼玉郷、式内前玉神社
横見郡 Yokomi
埼玉県比企郡吉見町黒岩
式内横見神社
比企郡 Fiki
埼玉県東松山市古凍
郡家郷
高麗郡 Koma
埼玉県日高市高麗本郷
高麗郷
入間郡 Iruma
埼玉県狭山市入間川
入間川
新座郡 Nifikura 埼玉県和光市新倉
新倉村
足立郡 Atati
埼玉県大宮市水判土
式内足立神社
豊嶋郡 Tosima
東京都北区豊島
荏原郡 Epara
東京都品川区北品川
荏原郷、目黒川(古名:荏原河)
多磨郡 Tama
東京都世田谷区玉川
多摩川
橘樹郡 Tatipana
神奈川県川崎市高津区子母口
橘樹郷、橘樹神社
都筑郡 Tutuki
神奈川県横浜市港北区新羽町
久良郡 Kuraki
神奈川県横浜市磯子区栗木町
以上は武蔵国郡名の起源地を推定したものだが、神奈川県は、旧相模国七郡を含んでいる
ので、七郡の推定起源地名をあげよう。
相模国
御浦郡 Miura
神奈川県横須賀市浦郷町
御浦郷、深浦湾
鎌倉郡 Kamakura 神奈川県鎌倉市御成町
鎌倉郷、鎌倉郡家
高座郡 Takakura 神奈川県藤沢市高倉
高座郷、境川(古名:高座川)
愛甲郡 Ayukafa
神奈川県厚木市愛甲
愛甲荘
大住郡 Ofosumi
神奈川県平塚市岡崎
餘綾郡 Yoroki
神奈川県中郡大磯町国府本郷
餘綾郷、第三次相模国府
足柄郡 Asikara
神奈川県南足柄市苅野
足柄神社、足柄峠
相模国府は、厚木市国分→平塚市四宮→中郡大磯町国府本郷へと、三転した。
52
6.律令国家の誕生
左図は、武蔵国 21 郡と、相模国 7 郡の推定
起源地を合わせた地図である。郡名の起源地が
小河川の扇状地や小盆地、湊や交通路の要衝に
立地した姿が浮上し、この稲作適地の生産高を
中心に据えて、郡域を定めた様子がわかる。
武蔵国の郡は、埼玉県北部~中部の稲作適地
を基本に置き、東京都の郡名起源地が「豊島、
荏原、多磨」しかないのは、律令時代の武蔵野
台地の生産性が低かった様子を語っている。
また、武蔵⇔相模国境東部が久良郡(横浜市
金沢区)と御浦郡(逗子市・横須賀市)の間に
置かれていたところも注目すべきである。
このように、文献に記録されなかった史実を
浮上させるのが、地名研究の使命といえよう。
『和名抄』巻五の相模国には足柄郡の名がなく、足上(足辛乃加美)・足下(足辛乃之毛)
郡が載せられている。これは足柄郡が二分されて、『好字二字化令』により、
「足柄上郡→
足上郡。足柄下郡→足下郡」へ変形したものである。そのため、次の 11 郡は「上下・東西」
に分割される以前の名に戻して、起源地名を推定した。
相模国足上・足下郡←足柄郡
美作国苫東・苫西郡←苫田郡
遠江国長上・長下郡←長田郡
阿波国名東・名西郡←名方郡
攝津国嶋上・嶋下郡←三嶋郡
筑前国上座・下座郡←朝座郡
大和国添上・添下郡←層冨郡
筑後国上妻・下妻郡←八女郡
大和国城上・城下郡←磯城郡
豊前国上毛・下毛郡←三毛郡
大和国葛上・葛下郡←葛城郡
やまと
この中で、大和国葛城郡は『日本書紀』天武天皇 13(684)年 11 月に「 倭 の葛城下郡」
や まと
が記され、
『續日本紀』文武天皇 4(700)年 12 月の条に「大倭国葛上郡」を載せているの
で、702 年の『大宝律令』公布以前に分割されて、二文字化していた様子がうかがわれる。
畿内以東と中国・四国、そして九州地方では郡を二分した後の命名法が違っていたところ
が重要である。
や
め
み
け
さらに重大なことは、九州の筑後国八女郡、豊前国三毛郡は、律令体制に組み込まれる
以前に分割されていた史実が記録されている。
53
『日本書紀』持統天皇 4(690)年 9 月 23 日に「筑紫国上陽咩(かむつやめ)郡」の兵士、
大伴部博麻の記述にのる上八女郡(後の上妻郡)が、同一人の解説をした 690 年 10 月 22 日
に「筑後国上陽咩郡]へ変化した史実と、律令時代以前の国造・縣主を載せた『国造本紀』
に「上膳縣主:かむつみけ あがたぬし」が記録されているので、九州地方もヤマト政権に入
っていなかった様子を読みとれる。
『日本書紀』は、持統天皇 4(690)年まで「筑紫国」を使い、690 年 10 月 22 日の記述
に初めて「筑後国」が登場する。同じ時期に「越→越前・越中・越後」
「吉備→備前・備中・
備後」
「豊→豊前・豊後」
「肥→肥前・肥後」へ分割された史実を、『日本書紀』天武・持統
紀と、
『續日本紀』文武天皇紀にのる以下の記録が教えてくれる。
次にあげる年月日は、「吉備、越、筑紫」国が、『日本書紀』に記載された最後の日で、
分割後の名が最初に現われた日を続けて載せた。なお、天武天皇 13(684)年 10 月 1 日に
かばね
『八色の 姓 』を定めた後、10 月 3 日に「諸国の境界を定めた」と記されている。ただし、
天武紀・持統紀に「豊国、肥国」の記録がない。
吉備国
:天武天皇 11 年 7 月 27 日
682 年
越の蝦夷
:持統天皇 3 年 7 月 23 日
689 年
筑紫国上陽咩郡:持統天皇 4 年 9 月 23 日
690 年
筑後国上陽咩郡:持統天皇 4 年 10 月 22 日
690 年
:持統天皇 6 年 9 月 21 日
692 年
肥後国皮石郡 :持統天皇 10 年 4 月 10 日
696 年
備前・備中国 :文武天皇元年 12 月 7 日
697 年
越前国司
越後国
:文武天皇元年 12 月 18 日
筑前国宗形
:文武天皇 2 年 3 月 9 日
豊後国
:文武天皇 2 年 9 月 28 日
皮石郡は後の合志郡
698 年
おほみこともち
持統天皇 4(690)年 7 月 6 日に 太 宰 (総領;筑紫、伊餘、周防、吉備に設置。筑紫を除
き 702 年に廃止)と国司全員を替えた記録から、九州、四国、中国における国・郡制度は、
ここに始まったと考えられている。この前年、持統天皇 3(689)年 6 月 29 日、天武天皇
10 年に編纂を開始した『飛鳥浄御原令』が完成して、年末に『庚寅年籍』の戸籍が造られ、
690 年元旦に持統天皇が即位した史実が大切である。
以上の記録から、中央集権国家『日本国』の誕生を『大宝律令』公布の 12 年前、
「690 年
9 月 23 日から 10 月 22 日」の間と推定して、記述を進めたい。
律令時代の 591 郡全数に当たると、攝津国東生郡(ひむかしなり)と西成郡(にしなり)
に原形を示す記録がなく、縣主の伝統を郡名…上・下の使用法が律令時代の慣行とは逆…に
留めた對馬嶋上縣郡(かむつあかた)、下縣郡(しもつあかた)と共にそのままの名を使った。
こうして整理をすると、全国の郡数は「580 郡」になり、内訳は以下のようになる。
54
東北地方 46 郡
関東地方 88 郡
中部地方 104 郡
中国地方 89 郡
四国地方 40 郡
九州地方 93 郡
近畿地方 120 郡
この 580 郡の起源地名がどこにあったかを検討して、武蔵・相模国のように地図上に復元
し、飛鳥~奈良~平安時代の『日本国』各地がどんな状況にあったかを検証してゆくのが
本章の方針である。
稲作を中心にした時代を考えると、7 世紀中葉の「ヤマト政権」は、大化改新で全国に律
令制度を確立した、とする定説とは大きく違った姿…東日本を領域とした軍事政権…が浮
上する。これは戦乱が続いた半島の「新羅、百済、高句麗」の政情不安定が原因であった。
一旦滅亡した百済の要請を受けて半島に出兵し、白村江の戦い(663 年)で大敗を喫した
我が国は大混乱に陥った。これは 668 年に半島を統一した「新羅」と、「唐」の連合軍の侵
攻を恐れ、西日本に古代山城を築いた史実に残されている。
じょう
き
い じょう
き く ち じょう
みず き
か な だ のき
、肥の「鞠智 城 」
、対馬の「金田城」
、
筑紫大宰府周辺に造った「大野 城 、基肄 城 、水城」
のき
のき
き
じょう
のき
、讃岐「屋嶋城」
、吉備の「鬼ノ 城 」
、河内「高安城」など、国ごとに防御
長門の「長門城」
さきもり
態勢を敷いたのは、博多湾に兵力を集中した奈良時代の防人とは違い、諸国が統一されて
いなかった様子を感じとれる。
天智天皇が亡くなり、大海人皇子が近江政権を倒した「壬申の乱:672 年」の後に、畿内
と東山道・東海道を中心にした天武政権に「越、吉備、讃岐、筑紫」などの諸国が加わっ
たと考えたい。「越前、越中、越後」「備前、備中、備後」に三分した越・吉備国の分割年
代が、
『日本書紀』
『續日本紀』の記録を分析すると、先にあげた飛鳥時代後期(690 年秋)だ
った史実が浮上する。
この二国以上に分割された国の水田面積と租税を計算すると、平安時代の一国平均水田
面積:約 13,000 町歩、祖の稲束数:約 64 万束を遥かに凌駕する数値が出現する。
表 7-21 律令時代以前の国々の水田面積と稲束数(数値は平安時代中期)
国
名
越
水田面積合計
稲束数合計(束) 生産効率
換算偏差値
平安時代中期の国名
70,903 町
3,945,400
55.64
49.5
越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡
吉
備
43,734
3,088,600
70.62
57.0
備前、美作、備中、備後
筑
紫
31,300
1,413,700
45.16
43.5
筑前、筑後
豊
30,700
1,353,600
44.09
43.0
豊前、豊後
肥
37,400
2,271,700
60.74
51.6
肥前、肥後
46.3
日向、大隅、薩摩
日
向
17,000
857,600
50.44
平
均
12,982
641,990
49.45
畿
内
55,298
2,087,200
37.74
55
平安時代、一国の平均値
38.9
山城,大和,河内,摂津,和泉
㊟ 換算偏差値は、
「生産効率」の値を全国集計に照らし合わせたもの。
先に検討したように、
平安時代の畿内五国の租税稲束が 208 万束だった史実を比べると、
旧越国全体の約 400 万束、旧吉備国の 300 万束の合計から、二つの地域が、律令体制を構築
する以前のヤマト政権に組み込まれていたとは考えにくい。二国が『日本国』誕生以前に
ヤマト政権(欽明~天智朝)に属していたならば、飛鳥時代末(690 年:持統朝)に「越前・
越中・越後」
「備前・備中・備後」に分割したこと自体、奇妙な現象といえる。
飛鳥時代末に「国、評、郷」制度で定めた国々に、702 年の『大宝律令』公布(このとき
評を郡に変更)後に修正が加えられた史実も、中央政府が各地の実情を掌握していなかった
様子を感じさせる。この時代に、次の諸国が立国した史実を『續日本紀』が記録した。
大宝 2(702)年
越中国頸城郡・魚沼郡・古志郡・蒲原郡を越後国へ編入
はやひと
日向国から唱更(隼人→薩摩)国を分離
和銅 5(712)年
越後国出羽郡・田川郡・飽海郡を分割して、出羽国を設置
和銅 6(713)年
備前国から六郡を分離して美作国を設置
日向国大隅郡・肝坏郡・贈於郡・姶羅郡を分離して大隅国設置
丹波国加佐郡・與謝郡・丹波郡・竹野郡・熊野郡→丹後国設置
養老 2(718)年
上総国安房郡・平群郡・朝夷郡・長狹郡→安房国
越前国能登郡・羽咋郡・鳳至郡・珠洲郡→能登国
天平宝字元(757)年
河内国和泉郡・大鳥郡・日根郡→和泉国
弘仁 14(823)年
越前国加賀郡・江沼郡→加賀国(石川郡。能美郡を新設)
ヤマト政権(とくに孝徳~天智朝:646~671 年)の時代に各国の情勢を熟知していたなら、
国域の設定・改定に半世紀もの年月を費やす必要はなかった。これを見ても、国家統一は
律令体制を構築した天武~持統朝、飛鳥時代後期と考えられるようである。
608 年の小野妹子の帰国に合わせて来訪した、裴世清などの使節団の見聞を載せた『隋書』
倭国伝は、対馬・壱岐から竹斯(筑紫)国をへて、畿内のヤマト政権(推古朝)に謁見した
史実を記した。さらに、
「竹斯国以東は、みな倭に附庸する」との重要な記録をのこした。
附庸とは従属、同盟の意味であり、飛鳥時代初期に、筑紫・吉備・出雲などの国々は、倭
国に統合されていなかった様子を感じとれる。
やはり諸国を統合し、統率した規格外の人物の存在を忘れられない。
『万葉集』は、壬申
の乱の後、都が平定された様子を詠んだ歌を納めている。
大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居を 都と成しつ
巻十九 4260 大伴御行
56
この大君は、
『大海人皇子→天武天皇』を指して、
「やすみしし我が大君」を枕詞に置く
万葉和歌は 20 首を越している。
「壬申の乱:672 年」から、わずか 17 年間で全国を統合し
て律令制を導入し、
『日本国』を創立した天武天皇と、その遺志をついだ持統天皇の業績は、
もっと評価されて良いとおもう。
倭の同盟国だった「筑紫、吉備、越」などが国家統一に賛同したのは、「白村江の敗戦」
後の『新羅・唐』侵攻への恐れからだった。690 年の元旦…新暦:2 月 11 日…に即位した
実質の『日本国』初代天皇といえる持統天皇の和風諡号が、
「高天原廣野姫:たかまのはら
の ひろのひめ」であったところも注目すべきである。
近江政権を倒した「壬申の乱」の後に、
「筑紫、吉備、越」が律令国家『日本国』に参加
した記録が全くないのは不思議な現象である。この記録されなかった出来事を『地名』と
いう客観性をもつ資料が残した可能性があるので、本サイトは、ここに焦点を当てて記述
をすすめたい。
これから述べる記述が真実であったなら、中国の歴史資料を大切に扱う中で、完全に無
視されてきた『旧唐書』倭国日本伝と、
『新唐書』日本伝が見直されるのではなかろうか?
『旧唐書』は、
『日本書紀』に遣唐使の記録がない貞観 22(648)年、倭国から唐を訪れた
使節団を記し、これに続けて①~③の説をあげた。
『旧唐書』倭国日本伝
①
にっぺん
にっぽん
「日本国は倭国の別種なり。その国、日辺にあるをもって、ゆえに日本を
もって名となす」と。
みやび
② あるいはいふ、
「倭国みずから、その名 雅 ならざるをにくみ、あらためて
日本と号す」と。
②
あるいはいふ、
「日本はもと小国、倭国の地をあわせたり」と。
『新唐書』日本伝
④ 「倭の名をにくみ、あらためて日本と号す」と。
⑤ 使者みずからいふ、
「国、日出ずるところに近し、ゆえに名となす」と。
⑥ あるいはいふ、
「日本はすなわち小国、倭をあわすところとなる。ゆえに
その号を冒せり」と。
『新羅本紀』
文武王 10(670)年
倭が、国号を「日本」と改めた。
『旧唐書』と『新唐書』の文章と、
『新羅本紀』の記録への本サイトの見解は、第八章の
『日本の国はいつできた?』西日本編の最後に載せたので、御参照いただきたい。
57
① 東海道
ここから、例にあげた武蔵国と同様に、全国 591 郡全数の起源地名探索と、起源地名の
分布図をあげて、各国・地方ごとに、飛鳥・奈良・平安時代の様相を検証してゆきたい。
まず、最初に検討する東海道諸国が、今の区分域では何県にあたるかを再掲しておこう。
旧国名
東海道
現行の都県名
伊賀 伊勢 志摩 尾張 參河
三重東部 愛知
遠江 駿河
静岡
伊豆
甲斐 相模
武蔵 安房 上総 下総 常陸
東京島嶼部
山梨
神奈川西部
神奈川東部 東京 埼玉 千葉 茨城
東海道(道路)は、京の五条大橋から草津へ
行き、ここで東山道を別けて鈴鹿峠を越える。
峠を下りて伊勢路を北へたどり、桑名に着く。
桑名~宮(熱田)間は「七里の渡し」と呼ば
れた海路だったが、熱田から太平洋岸の平坦
な陸路で浜名湖、天竜川、大井川をわたり、
箱根の山を越えて関東に入る。
現代の東海道は、お江戸「日本橋」が終点
である。しかし奈良時代初頭の「東海道」は、
今の東京都へ入らず、相模から東へ行くには、
浦賀・久里浜から金谷・木更津へ東京湾を渡
り、上総・下総→常陸のルートを採っていた。
湿地帯だった武蔵国の湾岸通路を整備して、
東山道から東海道に換えたのは宝亀 2(771)
年であり、これ以後に道路が造られた。
右図は、
『詳説 日本史図録 第6版』(2015 山川出版社)から転載した。
ここから、郡名と共に旧国名、国造名の起源探索を始めるが、この中の「伊賀、志摩、
駿河、安房」国は郡と同じ名で、国名に郡の名を採った姿が残された貴重な例といえる。
とくに『国造本紀』にのる「珠流河国造」を継承した駿河国は、
『和名抄』が駿河国駿河郡
駿河郷を記載して、
「駿河郷→駿河郡→駿河国」の命名経緯を伝えている。同じ経緯を残し
た国に「和泉国和泉郡上泉・下泉郷、丹後国丹波郡丹波郷、出雲国出雲郡出雲郷、安藝国
安藝郡安藝郷、土佐国土佐郡土佐郷、大隅国大隅郡大隅郷」がある。
この記録から、国造・国名が「地名」を採った様子が判る。ただし明らかな例外として、
7 世紀に難波津などの湊を管理する役職として設けた「攝津職」を、延暦 12(793)年 3 月
に「攝津国」へ昇格させた例と、
『国造本紀』にのる「道口岐閇:みちのくちの きへ」国造
と対比した「道奥菊多:みちのをくの きくた」国造、おそらく通称を採った「陸奥国」が
58
あがる。しかし前者はかつて「津国」を名乗った難波津(大阪市中央区高麗橋)や、陸奥国
にも菊多郡の起源地名(福島県いわき市勿来町)を考えても良いので、地名と採れないこと
もない。
それでは、誰も試みたことがないと思われる奈良時代の「国名全部と全郡名」の起源地
探索を始めよう。国名と郡名、飛鳥~奈良時代の中心地名を網羅した地図は、中大兄皇子
と藤原氏の構想までをも浮かび上がらせる、興味ぶかい資料なのである。
59
(1)伊賀国(以加)
道路の東海道は、畿内の「山城国」から東山道の「近江国」を通り、今の滋賀県草津市
で東海道と東山道を分けている。東海道は甲賀から鈴鹿峠を越えた峠下の地で桑名へ行く
東海道と、松阪・伊勢市へ行く参宮街道を分岐する。この分岐点に大和から「伊賀国」を
経由して来た国道 25 号線が合流する。大和-伊賀―参宮街道へのルートは、ある時代から
突然、重要な任務を帯びた幹線道になるので、次の「伊勢・志摩」国で取り上げよう。
天武天皇 9(680)年 7 月に、伊勢国から分かれて大和国を東海道に結んだ「伊賀国」は、
当初「名張、伊賀」郡で立国したという。『日本書紀』天武紀上の壬申の乱(672 年)の記
なぱり
おほあまの
さ らら
くさかべ
おさかべ
述に伊勢国 隠 郡と伊賀郡が登場し、大海人皇子が讃良皇女(後の持統天皇)、草壁皇子、忍壁
皇子をはじめ、20 人余りで挙兵した史実と共に、二つの郡名を伝えている。伊賀国は律令
時代に二郡を加えて、明治時代まで存続した。
伊賀国
推定起源地名
あ
ぺ
や
ま
い
か
な
ぱ
阿拜郡(安倍)
た
山田郡(也末太)
伊賀郡(以加)
り
名張郡(奈波利)
推定の根拠
三重県上野市一之宮
式内敢国神社、阿拜驛所在地
三重県阿山郡大山田村平田
もと山田村
三重県上野市古郡
伊賀国造、伊賀郡家、伊賀驛、伊賀川
三重県名張市丸之内
名張郷、名張郡家、名張町、名張川
ここから全国の旧国名と所属郡名の全数をあげて行くが、上記のように、旧国名、郡名、
(『和名抄』の読み仮名)
、郡の推定起源地とその根拠をあげてゆきたい。ただ 580 郡全数に
起源地名をあげる試みは行なわれたことがないので、多少の過りは御容赦いただきたい。
本サイトは、起源地名の正確無比な復元ではなく、郡をどのように定めて、どんな地理
的・歴史的意味を持っていたかの探索を主題としたい。先にお断りしたように、郡名の推
定地は平成時代ではなく、昭和 50 年頃の住居表示をあげた。平成の名では、江戸時代から
行なわれてきた研究成果を利用し難いためである。現在の地名との対比は、本章の最後に
載せた郡名推定地の新・旧住居表示を御覧いただきたい。
大和国と伊勢国の間にあった東海道の伊賀国四郡…西側の四つの
青点…は、左上に阿拜(あぺ)郡、その右に山田郡の起源地が並び、
真中に伊賀郡の起源地名、左下に名張郡が位置する。「阿拜、山田、
伊賀、名張」四郡で構成した伊賀国も、明治 4 年の『廃藩置県』に
よって安濃津県に統合された翌年、四日市に県庁を移して、郡名を
採った三重県に改称した。
明治 29(1896)年には旧伊賀国の二郡ずつを統合して、
「阿拜+山田=阿山郡」
「名張+
伊賀=名賀郡」という合成郡名に換わり、昭和 16(1941)年、名賀郡内に上野市、昭和 29
(1954)年にやはり名賀郡内に名張市を造って、伊賀国伊賀郡の領域も判りにくくなった。
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しかし、古代の地名は、規則どおりに付けられているので、旧伊賀郡内の旧伊賀川流域に
「伊賀」の地名があったと推理できる。
そこで昭和 39 年 7 月 10 日に改正される『河川法』制定以前は、木津川に統合されずに、
伊賀川と呼ばれた川の旧流域を探ると、郡役所があった様子をのこす「三重県上野市古郡。
平成の大合併、平成 16(2004)年 11 月 1 日から三重県伊賀市古郡に変更」 があり、この
地が伊賀国伊賀郡の発祥地と考えられそうである。
平成の大合併以後は、旧伊賀国の領域では、おおよそ「阿拜、山田、伊賀」郡の範囲が三
重県伊賀市へ、名張郡が三重県名張市となって、
『日本書紀』天武紀上に載る「伊賀、名張」
の二区画へ回帰した。だが、
「いか」に関係する動詞は「いく、行く,往く」しかないので、
地形の意味がとりにくい伊賀は、倒置語の「Kafi. 峡:峡谷」に関係した水際ほどの意味
と採ってみたい。
なお、伊賀国府は三重県上野市坂之下国町、伊賀国分寺は上野市西明寺、一ノ宮は敢国神
社:上野市一之宮である。
伊賀の推定起源地名:三重県上野市古郡。2004 年 11 月 1 日から、伊賀市古郡に変更。
同時に、上記の国府、国分寺、一ノ宮の所属も上野市から伊賀市へ変わった。
61
(2)伊勢国(以世)、志摩国(之萬)
「伊勢国」では、大化 2(646)年、後に天皇家の皇女を斎王とした多気斎宮(いつきの
みや:三重県多気郡明和町斎宮)を基本においた多氣郡、伊勢神宮外宮の度會宮(三重県
伊勢市豊川町)を中心にした度會郡を創設して、中大兄皇子の時代に、東国への連絡を重
視した郡制を整えた。乙巳の変(645 年 6 月)で倒した相手が、仏教を崇拝した蘇我氏だっ
たので、
『伊勢神道』が重視されたのは、この時代からと考えられるかもしれない。
やまと
あまてらすおおみかみ
垂仁天皇 26 年秋 9 月、皇女 倭 姫命が 天 照 大 神 を奉じて各地を巡幸され、「これ神風の
と こよ
しきなみ
かた くに
伊勢国は、すなわち常世の浪、重浪のよする国なり、傍国のうまし国なり。この国に居ら
むと思ふ」との天照大神のお言葉をもとに、伊勢に祠をたてられた。今は伊勢神宮外宮に
と ゆけ
この
祀られる「豊受大神」は、丹後国一ノ宮神社の籠神社(京都府宮津市大垣)に祀られていた
神で、雄略天皇 22 年秋 9 月に天照大神の食を司る神として、丹波から伊勢の山田原に移ら
れたという。
伊勢国の起源を、天照大神を祀る伊勢神宮〈皇大神宮(内宮):三重県伊勢市宇治館町。
豊受大神宮(外宮)
:伊勢市豊川町〉と考えるのは常識的な解釈である。
「いせ」に関連す
る動詞はないが、
「いさ(砂)
、いし(石)
、いす(椅子)
、いせ(伊勢)
、いそ(磯)
」を並
べると、系列語が「砂<石<伊勢<磯」と、水際の石、岩の大きさを区別して表現したよ
うに見える。山登りやハイキングのとき、どんなものに腰掛けるかを考えれば、
「椅子」も
この辺の大きさを指した岩と捉えられるだろう。伊勢神宮の内宮参拝で必ず渡る、宇治橋
が架かる川が、五十鈴川(←三重県伊勢市中村町。五十鈴中学校所在地)であるのも面白い。
伊勢国
く
は
な
ゐ
な
ぺ
あ
さ
け
み
へ
か
は
わ
す
す
か
あ
む
き
あ
の
い
ち
し
い
ひ
た
い
ひ
の
桑名郡(久波奈)
員辨郡(為奈倍)
朝明郡(阿佐介)
三重郡(美倍)
河曲郡(加波和)
鈴鹿郡(須々加)
庵藝郡(阿武義)
安濃郡(安乃)
壹志郡(伊知之)
か
飯高郡(伊比多加)
飯野郡(伊比乃)
たけ
多氣郡(竹)
わ
た
ら
ひ
度會郡(和多良比)
三重県桑名市桑名、本町
式内桑名神社、桑名郷、桑名町
三重県員弁郡東員町北大社
式内猪名部神社、稲部村、員弁川
三重県四日市市朝明町
朝明郡家、朝明川
三重県四日市市采女町
三重郡家
三重県鈴鹿市河田町、十宮町
川俣縣主、式内川神社、河曲荘
三重県鈴鹿郡関町坂下
鈴鹿郷、鈴鹿峠、鈴鹿渓、鈴鹿川
三重県鈴鹿郡関町萩原
庵藝神社、庵藝郷
三重県安芸郡安濃町安濃、内多
安濃縣主、安濃村、安濃川
三重県一志郡嬉野町一志
市師縣主
三重県松阪市松ヶ島町
飯高縣主、飯高驛
三重県松阪市目田町?
天智 3(664)年設置
三重県多気郡明和町斎宮
式内竹神社、多氣郷
三重県伊勢市豊川町
度逢縣主、式内度會宮 大化 2(646)年設置
62
大化 2(646)年設置
志摩国
答志郡(たふし)
あ
ご
英虞郡(阿呉)
三重県鳥羽市答志町
答志郷、答志村、答志島
三重県志摩郡阿児町甲賀
阿児の松原、志摩国府
『天武紀 上』壬申の乱の記述に、近江国鹿深(甲賀)郡と、伊勢国「桑名、朝明、三重、
川曲、鈴鹿」郡が登場して、672 年以前に郡が成立した史実を残している。注目すべきは、
大化 2(646)年に南部の「多氣、度會」郡、天智天皇 3(664)年に「飯野」郡を新設した
史実である。
式内度會宮…伊勢神宮外宮…を起源におく度會郡は伊勢神宮内宮を含み、多氣郡は天皇家
おほく
の子女(初代斎王は、天武天皇の娘:大伯皇女)が、伊勢神宮に関連した斎宮(いつきのみや)
の斎王を務めた特別な郡であった
2013 年 10 月に行なわれた 20 年毎に社殿を建て替える、
「式年遷宮」は天武天皇の発案と
伝えられて、戦国時代に中断はしたものの、2013 年までに 62 回、1300 年も継承してきた。
この嚆矢が「持統天皇 4(690)年 10 月 1 日、第 1 回内宮式年遷宮」
「持統天皇 6(692)年
10 月 1 日、第 1 回外宮式年遷宮」だった。本サイトが『日本国』誕生年と推理した年に、
伊勢神宮の遷宮が始まったところが大切である。
大化改新直後に全国で新設された郡は、陸奥国白河郡(大化 2 年:646 年)、常陸国鹿嶋郡
(大化 5 年:649 年)と行方郡・信太郡(653 年)
、陸奥国磐城郡(653 年)だけが記録された。
もうひとつ重大な史実が、大化 2(646)年の「伊勢国度會郡、多氣郡」の創設である。
伊勢国度會郡は、天照大神を祀る「伊勢神宮:皇大神宮(内宮):三重県伊勢市宇治館町。
豊受大神宮(外宮)
:伊勢市豊川町」の旧所属郡(明治 39 年 9 月 1 日、度会郡宇治山田町が
宇治山田市に昇格。昭和 30 年元旦に伊勢市へ改称)であった。
伊勢国度會郡と多氣郡、二つの郡を『日本書紀』持統紀が、
「神郡」として別格扱いをし
たところも興味を惹く。二郡の設置…資料は『皇大神宮儀式帳』
:ここには度會評・多氣評
と記録されていて、
『大宝律令』公布後に「評」から「郡」へ表記を替えた傍証になった…
は、乙巳の変(645 年 6 月)で倒した相手が、仏教を崇拝した蘇我氏だったことを考えると、
国家信仰が「仏教」から「神道」に換ったのは「天智政権」から、そして本格的に崇拝し
たのは「天武政権:神道・仏教、双方を公認した」と考えて良さそうである。
新設諸郡は、天智政権が常陸国を基盤におく藤原氏と手を組み、東山道から陸奥・越後
国の開拓に動いた史実を記録したので、
「参河、常陸、陸奥、越後」国で詳述したい。
なぜこんな捉え方をするかといえば、大和―伊賀―伊勢―志摩―伊良湖水道―三河湾が、
大和から東海道へのルートで、当時の最短コースだったからである。
次の図は、伊勢国(赤丸)と伊賀国(青丸)、志摩国(黒丸)郡名起源地の分布図である。
桑名―鈴鹿峠-京都を結ぶ「東海道」の伊勢国北部は、
「桑名、員辨、朝明」郡の起源地が
三角形に並び、少し離れて「三重、川曲」の二郡が縦列する。
63
東海道は鈴鹿山脈に向かい、鈴鹿峠が起源の鈴鹿郡と、
少し南に庵藝郡が並置され、大和へ向かう国道 25 号線
が伊賀国「阿拜、山田、伊賀、名張」郡を結びつけた。
庵藝郡から南下して「安濃、壹志、飯高、飯野、多氣、
度會」郡へ行く道(県道関・津線)を分けている。この
道路が重要で、東海道を主体にした伊勢国北部の郡と、
松阪・伊勢市を中心におく南部の郡は成立過程が違って
いた。ここで注目されるのが、参宮街道の延長線上にあ
る『志摩国答志(たふし→とうし)郡』の存在である。
志摩国は律令時代に御食国(みけつくに:天皇の食料を奉る国)として重視され、当初は
志摩国志摩郡で発足したこの国も、平安時代(年度不明)に答志、英虞の 2 郡に分割された。
答志郡の起源地が答志島東端に比定できるところが大切で、志摩国自体が海産物を主体に
成立した国だが、こんな小さな島の名を郡名に採用したのは、全国でここだけである。
つ くみ
答志島の東方に、大・小築海島につづき、古代の銅鏡をはじめ数多くの秘宝を伝承する
八代神社や古墳がある神島が並んでいる。神島と渥美半島の伊良湖岬の間にある、伊良湖
水道は潮流が早く、鳴門の瀬戸(徳島県鳴門市⇔淡路島)、音戸の瀬戸(広島県呉市⇔倉橋島)
と共に、古来海上航路の三大難所として知られてきた。
地図に記されたように、伊勢から東海道(桑名~熱田間は海路)へ出るにはこの航路が最
短ルートで、天照大神を祀る伊勢神宮〈皇大神宮:内宮。豊受大神宮:外宮)や、天皇家の
皇女を斎王とした多氣の斎宮も、答志島―築海島―神島―伊良湖岬、及び答志島―築海島
―桑名・熱田の海路を度外視しては考えにくい。
つまり伊勢国南部の郡は、畿内と東海道を結ぶ「伊勢―答志島―伊良湖岬」
、熱田へ向う
参宮街道の地名を採用したと捉えられる。京都からの交通路も、東海道から県道関・津線
を通って伊勢へゆくのが『延喜式』官道のルートだった。
大和(奈良県桜井市金屋)からは、近鉄大阪線と併走する青山越の国道 165 号線がメイ
ンルートで、「桜井-名張―松阪―伊勢―答志島―伊良湖岬」の方が、「桜井―伊賀上野―
亀山―四日市―桑名」から東海道へ向かうコース(国道 25 号線と 1 号線)の半分以下の時間
で済むところが重要である。
もし答志島~伊良湖岬の航路がなかったら、古代から後者の陸路が選ばれたはずだった。
伊勢国多氣郡・度會郡の設立が大化 2 年、飯野郡が天智天皇 3 年に創設され、伊勢の皇大
神宮が「伊勢国」、豊受大神宮は「伊勢国度會郡」
、答志島も「志摩国」の起源に比定でき
るところが大切である。これらは、東国(関東・東北)経営を積極的に推進した、飛鳥時代
中期の「孝徳―斎明―天智」政権、すなわち『日本国』の基本方針を明確に示している。
64
もうひとつ大切なことは、天照大神を祀る伊勢神宮が、飛鳥(奈良県高市郡明日香村)の
真東に当たることである。これは国号を『日本:ひのもと』と決めた天智天皇、律令国家
の名に『日本』を継承した天武天皇にとっても重要だった。今もなお三重県度会郡二見町
(2005 年 11 月、伊勢市へ編入)の「夫婦岩の日の出」が崇拝されることも関係するだろう。
この辺は、全国の旧国名と郡名起源地を探索した後に、もう一度検証しよう。
伊勢国府は三重県鈴鹿市広瀬、国分寺は鈴鹿市国分西高木、一ノ宮は椿大神社:鈴鹿市山
本町で、伊勢国の主要施設は、律令時代に東海道の要衝であった鈴鹿におかれた。また、
志摩国府は三重県志摩郡阿児町国府、国分寺も志摩郡阿児町国府、一ノ宮は伊雑宮:志摩郡
磯部町上之郷である。
伊勢の推定起源地名:三重県伊勢市宇治館町 皇大神宮所在地。
志摩の推定起源地名:三重県鳥羽市答志町。
伊勢国造の本拠は、はっきりしないが、やはり伊勢神宮付近にあったのであろうか?
式内社に「磯神社:伊勢国度會郡。三重県伊勢市磯町」があって、ここを伊勢の起源地に
想定する説もある。
島津国造は、
「答志、英虞」郡のうち、答志島西端の岬が「島ヶ崎」という、全国で唯一
の崎名なので、答志島を単に「志摩」と呼んだ可能性が浮かびあがる。つまり、島津とは
答志島東側の港、三重県鳥羽市答志町を呼んだのであろう。現代の「志摩」は、志摩半島
の英虞湾周辺を指すが、飛鳥~奈良時代の「志摩」は答志島を指していた。
なお、答志郡には仮名が振られていないので、「ひらがな」をあてている。この種の郡も
少なからずあって、資料としての『和名抄』を御覧いただきたいので、この仕様にした。
本章は『和名抄』記載の「国・郡・郷」名を基本に置いており、この集計は、平安時代
中期における各国の人口を推定できる利点を持っている。律令時代の 1 戸が 25~30 人、50
戸で構成した 1 郷の人数は約 1,400 人と推定されているので、『和名抄』記載の郷数から、
国毎の人口概数を計算できる。
一国あたりの郷数の平均は「近畿地方:7.4 郷。中部地方:7.5 郷。関東地方:8.0 郷。
全国平均:6.8 郷」と計算できて、近畿地方の 1 郡あたりの人口は「約 9,000 人」
、中部地
方「約 9,000 人」
、関東地方「約 10,000 人」と算出できる。
この数字を使うと、伊賀国 4 郡は「36,000 人」、伊勢国 13 郡「117,000 人」、志摩国 2 郡
「18,000 人」となり、律令時代の郡名起源地の密集域、
「桑名、四日市、松阪、伊勢」周辺
に人家が集まっていた様子を推定できる。
このように、千年以上も見過ごされてきた『和名抄』『延喜式』に載るデータは、私達に
飛鳥・奈良・平安時代の立体的な情報を与えてくれるのである。
65
(3)尾張国(於波里)
現在の愛知県は、江戸時代以前に尾張国と参河国だった。尾張の「をはり」に使われた
「をふ、終ふ」のように、地形の意味が判りにくいものもあり、ここでは「終ふ:端っこ」
の意味にとり、
「をはり=をは:端+はり、張り:斜面、崖」と解釈したい。ただ「おふ、
生ふ:生まれる」が、
「終ふ」の対になっているところは大切に見える。
意味も難しい尾張国造の統括地域は、おおよそ尾張国山田郡と考えられているが、定説
はなく、地名探索の指針が立てにくいので、手掛かりを神社名に求めよう。
藤原時平、忠平などにより延長 5(927)年に完成した、律令制の式次第を記す『延喜式』
の巻九~巻十の「神祇上・下 延喜式神名帳」には、東北地方(のぞく青森県)から九州地
方にいたる官幣社 3132 座、2861 の神社(式内社)が載せられている。先にあげた「伊賀国、
伊勢国」郡名の起源探索に、式内社の所在地を利用したので、これを再掲しよう。
阿拜郡 Ape
三重県上野市一之宮
式内敢国神社、阿拜驛
桑名郡 Kufana
三重県桑名市桑名、本町
式内桑名神社、桑名郷、桑名町
員辨郡 Inape
三重県員弁郡東員町北大社
式内猪名部神社、稲部村、員弁川
河曲郡 Kafawa
三重県鈴鹿市河田町、十宮町
式内川神社、河曲荘
多氣郡 Take
三重県多気郡明和町斎宮
式内竹神社、多氣郷
度會郡 Watarafi 三重県伊勢市豊川町
式内度會宮, 度逢縣主
おなじように、尾張国内の式内社を調べると、尾張には二ヶ所の候補地があがる。
Wofari
尾張神社
尾張国山田郡
愛知県小牧市小針
Wofaripe
尾張戸神社
尾張国山田郡
愛知県名古屋市守山区上志段味
あまのかくやま
し
だ
み
ほ む た わけ
「 天香山 命、誉田別命、大名持命」を祭神とする尾張神社付近の旧名は尾張村で、古墳
時代に尾張氏が周辺の開発をしたという。付近を「尾張国」の発祥地とする説もあるよう
だが、はっきりしない。
あめのほあかり
「 天火明 命、天香語山命、建稲種命」を祀る尾張戸神社は、天火明命が尾張氏の祖神で
あり、この神社が 4 世紀前半に築造した円墳の「尾張戸神社古墳」の上に建てられている
のは考古ファン周知の事実で、被葬者も尾張氏と考えられている。
どちらが「尾張」国の発祥地であるかは判らないが、この辺は部外者でなく、地元の方
が判定なさるのがベストだと思う。日本全国の古地名探索など、個人の力には限界があり、
かなり無理をしているところを御承知おきいただきたい。地名を重視する立場から、小牧
市小針の尾張神社を、いちおう候補地としたい。
66
本サイトは、壬申の乱(672 年)以前、この国が統一国家ではなかったと考えて話を進め
たい。とくに「越前、越中、越後」へ分割される越国も、
『日本書紀』持統天皇 3(689)年
7 月 23 日の記述にまだ「越」が登場し、筑紫の太宰(おほみこともち)は持統天皇 2~4 年に
かむつやめ
姿をみせる。ところが、持統天皇 4 年 9 月 23 日に筑紫国上陽咩郡を記しておきながら、何
の断りもなく、4 年 10 月 22 日、突如「筑後国上陽咩郡」を登場させている。
『日本書紀』は、持統天皇 3(689)年 6 月 29 日に施行した『飛鳥浄御原令』の記述を、
かのえいぬのひ
つかさつかさ
のりのふみ
わか
「 庚 戌 に、 諸 司 に、 令 一部二十二巻班ち賜ふ」という一行で済ませ、持統天皇 4 年
秋の律令国家『日本国』誕生、という特別な歴史事実も載せなかった。なにか、すべてを
「大化改新」の時代に繰り上げているようにみえて、万世一系の天皇系譜と、天智天皇の
弟と位置づけをした天武天皇、本来の姿を隠すための記述法を感じとれる。
何度も述べたように、地名はきちんと歴史を記録しているので、こちらを基本に置いて
話を進めたい。国名・郡名の起源地名は、これ以上のものがない第一級の歴史資料である。
尾張国
は
く
り
に
は
な
か
あ
ま
か
す
か
や
ま
た
あ
い
ち
葉栗郡(波久利)
愛知県一宮市大毛
葉栗郷、葉栗荘、葉栗村
愛知県一宮市丹羽
丹生縣主、爾羽神社、丹羽郷
愛知県一宮市萩原町中島
中島荘、中島村
愛知県海部郡十四山村海屋
海部郷、海部荘
愛知県春日井市春日井町、宮町
春日井宮、春日部荘、春日井村
愛知県名古屋市北区山田町
山田荘、山田村
愛智郡(阿伊知)
愛知県名古屋市熱田区神宮
年魚市村、年魚市縣主、愛知荘
智多郡(ちた)
愛知県知多市朝倉町
知多の浦
丹羽郡(邇波)
し
ま
中嶋郡(奈加之萬)
海部郡(阿末)
ぺ
春部郡(加須我倍)
山田郡(夜萬太)
㊟
あ
ゆ ち
春部郡の起源地に「春日井町、宮町」と隣接した二町を併記するのは、
宮町に同一名の神社・小学校が所在するためで、右側の「春日井村、
葉栗村」などの町村名は、明治 22 年の『市制・町村制』実施以後の郡と
同一名をなのった町村だけを記した。「葉栗荘、春日部荘、愛知荘」などは
当該地域にあった中世の荘園名。以下も同様に表記。
お気づきのように、いま使われる県名の「愛知」は、熱田神宮がある郡名を採っている。
明治 4 年 7 月の『廃藩置県』の後に、尾張国の領域は名古屋県と犬山県にまとめられ、同
年 11 月に、三河国も額田県(三河国額田郡:岡崎市付近)に統合された。明治 5 年 4 月に、
旧藩名を引き継いだ名古屋県を所属郡名の愛知県に替えたのち、明治 5 年 11 月に額田県を
統合して、現代につづく「愛知県」が誕生した。
いま使われる県の名に、郡名を採用した県は 18 県あり、徳川幕府の親藩・譜代の国や、
明治維新直後の『戊辰戦争』に加わった国々が旧藩の名に換えたり、県庁の移転などで、
郡名をとった例は多い。
67
御三家の尾張名古屋藩が愛知県、常陸の水戸藩は茨城県という、県庁所在地の所属郡名
を名乗ったが、紀州和歌山藩は海草郡の名を使わずに、和歌山県を堅持したのが面白い。
東北戊辰戦争敗戦国の盛岡藩は、盛岡県を名乗った後に所属郡の岩手県へ、仙台藩も仙台
県から宮城県に変更した。
最初にあげた「伊賀、伊勢、志摩」国と「紀伊国東部」を統合した三重県も、伊勢国三
重郡の名を採ったが、明治 6 年 12 月に、県庁を四日市から安濃郡の津へ移したので、県名
と県庁所在地の所属郡が一致しない県になった。これは郡名をそのまま名乗る「あの県、
あのう県」を嫌ったためと考えられて、紀州藩も「海草県」を避けたのであろう。
旧所属国郡
平安時代の読み
現代
推定起源地名
岩手県(陸奥国岩手郡)
伊波天
いわて
岩手県岩手郡滝沢村滝沢
宮城県(陸奥国宮城郡)
美也木
みやぎ
宮城県仙台市宮城野区原町
秋田県(出羽国秋田郡)
阿伊太
あきた
秋田県秋田市寺内
茨城県(常陸国茨城郡)
牟波良岐
いばらき
茨城県石岡市茨城
群馬県(上野国群馬郡)
久留末
ぐんま
群馬県群馬郡榛名町高浜
埼玉県(武蔵国埼玉郡)
佐伊太末
さいたま
埼玉県行田市埼玉
千葉県(下総国千葉郡)
知波
ちば
千葉県千葉市中央区本千葉町
石川県(加賀国石川郡)
伊之加波
いしかわ
石川県松任市源兵島町
現白山市
山梨県(甲斐国山梨郡)
夜萬奈之
やまなし
山梨県東山梨郡春日居町鎮目
現笛吹市
愛知県(尾張国愛智郡)
阿伊知
あいち
愛知県名古屋市熱田区神宮
滋賀県(近江国滋賀郡)
志賀
しが
滋賀県大津市滋賀里
三重県(伊勢国三重郡)
美倍
みえ
三重県四日市市采女町
島根県(出雲国島根郡)
之末禰
しまね
島根県松江市下東川津納佐
香川県(讃岐国香川郡)
介加波
かがわ
香川県高松市郷東町
佐賀県(肥前国佐嘉郡)
佐嘉
さが
佐賀県佐賀郡大和町惣佐
大分県(豊後国大分郡)
於保伊太
おおいた
大分県大分市大分
宮崎県(日向国宮埼郡)
三也佐岐
みやざき
宮崎県宮崎市橘通東
鹿児島県(薩摩国麑嶋郡)
加古志萬
かごしま
鹿児島県鹿児島市玉里町
現滝沢市
現高崎市
現佐賀市
これからあげる各国、各郡の起源地名はあくまでも推定で、地元の方々の精緻な研究に
委ねたい、というのが本音である。当サイトは、日本全国の国・郡名が小さな範囲の地形
を表現した「地名」を採った『大地域名は、小地名の昇格』という仮説を、定理に昇格さ
せることを主題に置いている。
尾張国府は愛知県稲沢市国府宮(中嶋郡)、国分寺は稲沢市矢合町、一ノ宮は真清田神社:
愛知県一宮市真清田(丹羽郡)である。
尾張の推定起源地名:愛知県小牧市小針(山田郡)。
68
(4)參河国(三加波)
参河国は、大宝律令以前は「三川国」、大宝律令~奈良時代の間は「参河国」
、長岡京・
平安時代以降は「三河国」と表記された。「みかは」の「みか」に関連動詞がないために、
「水か端、水側、御河」と解いて、川岸につけた地名と考えたい。
三河国造の本拠は、考古学の研究成果から、愛知県安城市桜井町の「二子古墳:4 世紀の
前方後方墳」付近に想定されている。この地は矢作川(←愛知県岡崎市矢作町)の流域にあ
って地名解釈を満たしている。安城市は味噌、醤油など、醸造が盛んな地として知られる
ので、弥生~古墳時代の伝統を保っているかもしれない。昭和 63 年 3 月に新設した東海道
新幹線「三河安城」駅も、いい加減な命名ではなさそうである。
三河国造と並立した「穂国造」は、律令時代の「好字二字化令」により宝飫郡(ほお郡)
に継承されたが、中世に漢字を書き間違えて宝飯郡(ほい郡)に変化した珍しい郡だった。
〈㊟ 2010 年 2 月、宝飯郡小坂井町が豊川市へ編入されて、郡は自然消滅〉
參河国
あ
を
み
ぬ
か
た
碧海郡(阿乎美)
愛知県安城市古井町
碧海郷、碧海荘
額田郡(奴加太)
愛知県岡崎市柱町?
額田国造、額田郷
幡豆郡(はつ)
愛知県幡豆郡幡豆町西幡豆
式内羽豆神社、幡豆村
賀茂郡(かも)
愛知県東加茂郡足助町竜岡
賀茂郷、賀茂村
愛知県豊橋市飽海町
渥美郷、飽海川(豊 川)
愛知県豊川市豊川町
穂国造、豊川村、豊小学校、豊 川
愛知県新城市八名井
八名井神社、八名郷、八名村
愛知県北設楽郡東栄町中設楽
設楽郷、設楽荘 延喜 3(903)年設置
あ
つ
み
渥美郡(阿豆美)
ほ
寶飫郡(穂)
や
な
し
た
八名郡(也奈)
ら
設楽郡(志太良)
左図は、尾張国(黒色)と參河国(赤色)を合わせた愛知
県の地図に、郡名起源地を記入したものである。
尾張国左上の三点は、
「葉栗、丹羽、中嶋」郡の起源地で、
この下に位置するのが「海部郡」
、右の縦ににならぶ四点は
上から「春部、山田、愛智、知多」郡の起源地名である。
尾張国知多郡の右の三点は參河国「碧海、額田、幡豆」
郡、山間の一点が「賀茂」郡の起源地名で、豊川河口から
「渥美、寶飫、八名、設楽」郡の起源地が連なってゆく。
大和―伊勢―志摩―神島から伊良湖水道を渡ってきた勢力は、尾張・参河の郡名を名乗
った「知多、渥美」半島に挟まれた参河湾に到着する。いまの渥美半島の読みは「あつみ」
だが、
『和名抄(二十巻本)』は渥美郡(阿豆美)、渥美郷(安久美。推定起源地:愛知県豊橋市
飽海町)と二種類の読み方をあげている。
69
本サイトは郷(後の東海道吉田宿。豊川の別称だった飽海川の起源地名)を重視して、原型
を「あくみ:開く海≒湊、河口」と考えたいと思う。
参河湾に着いた人々は、東海道を東に向かって常陸国から、東北へ行ったのであろうか?
あるいは、現在の飯田線の経路に近い、豊川を遡り、伊那谷から信濃国を経て上野・下野
ぬ た り のさく
国から陸奥国へ、会津から阿賀野川を下り越後の淳足 柵 (647 年設営:新潟市中央区沼垂)、
いは ふね
磐舟柵(648 年:村上市岩船)へ向かったのだろう。大化改新(646 年正月)の後、伊勢神宮
周辺、伊良湖航路、常陸国や東山道から陸羽街道の整備など、中大兄王子と藤原氏の電光
石火の早業は、鮮やかなものである。
ぬ たり
ぬったり
この時期に、天智政権が越国と仲が悪かった様子は、淳足柵(新潟市中央区沼垂東・西)を
蒲原津(新潟市中央区蒲原町:越国の最重要港)の阿賀野川対岸に設けた史実に示されている。
阿賀野川本流は江戸時代中期まで新潟市内、沼垂と蒲原の間を流れていたが、大洪水によ
り現在の直線状の流路へ替った。淳足柵は、北方への進出拠点だった磐舟柵・都岐沙羅柵
とは違い、越国を東北へ拡大させない抑えとして造ったものだった。この経緯は、越後国
から出羽国を分離した後、
『大宝律令』公布後の大宝 2(702)年 3 月に、それまで蒲原⇔
沼垂間の旧阿賀野川に置いていた越中・越後の国境を、現在の富山・新潟県境に変更した史
実にはっきり表われるので、後の「北陸道」に詳述したい。
なお、参河国府は愛知県豊川市白鳥町、国分寺は豊川市八幡町、一ノ宮は砥鹿神社:愛知
県宝飯郡一宮町(現豊川市)である。
参河の推定起源地名:愛知県安城市桜井町。
額田国造と穂国造は郡名に継承されたが、參河国造を国名に採用したため、郷名の碧海
を郡の名に採った気配りは大切である。
東海道では駿河国駿河郡、東山道の出羽国出羽郡、北陸道の加賀国加賀郡・能登国能登
郡が国造名を国・郡名に併用した。ところが国と郡の名が同じ不都合が中世に表面化して、
郡名の駿河は駿東郡、加賀郡を河北郡、能登郡を鹿島郡に改め、出羽郡は田川郡に編入さ
れてしまった。ただ、伊賀国伊賀郡と安房国安房郡は、明治時代まで継承されたが、明治
時代中期に、前者は三重県名賀郡の合成名に換え、後者は安房国旧 4 郡をまとめて千葉県
安房郡とした。
70
(5)遠江国(止保太阿不三)
『国造本紀』が「遠淡海国造」と記録した遠江国は、
『古事記』『日本書紀』のいずれも、
「遠江国」と記した不思議な国名である。この名は「近淡海:知加津阿不三→近江」国に
対比して「遠淡海:とほつあふみ→遠江」国と命名されたというが、
『和名抄』は、なぜか
「止保太阿不三」と記した。
『古事記』が近江を「淡海、近淡海」
、
『国造本紀』が「淡海国
造」と記したのに対して、
『日本書紀』は天智天皇 3 年 12 月 12 日の条に「淡海国坂田郡、
栗太郡」を登場させる以外は、
「近江」を使った。
う けい
『古事記』にのる遠江が、上巻「天照大神と須佐男の誓約」の氏族系譜を記した分注、
一ヶ所だけなので、ここにのる国造・縣主名表記の正確さを見ると、遠江は「遠淡海」の
誤記と捕らえられるかもしれない。
さらに『日本書紀』が、先の一例を除いて「近江」
、
「遠江:仁徳紀、皇極紀、天武紀下、
持統紀」を使うのは理解できない。近江に都をおいた天智天皇の時代に「淡海国」を記録
した史実をみても、遠つ「淡海国」が律令体制に組み込まれて初めて、近つ「淡海国」が
誕生したと考えて良さそうである。「遠江国」もまた、「壬申の乱」以後に律令体制に新規
加入した国に位置づけられて、これ以前は「ヤマト政権」に属していなかったと考えたい。
この考えを基本に置くと、
『日本書紀』崇峻天皇 2(589)年秋 7 月の記述が注目される。
みつ
かり
「近江臣満を東山道の使に遣わして、蝦夷の国の境を観しむ。宍人臣鴈を東海道の使に遣
わして『東方の海に沿へる国々の境』を観しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣わして越等の境
を観しむ」
この記録は、律令時代に定めた「五畿七道」の区分と近江国を 6 世紀末に使っただけで
なく、遠江国以東の東海道諸国と、越国はヤマト政権に属していなかった様子を示すこと
になる。中部・関東地方で東山道の「美濃、飛騨、信濃、上野、下野、武蔵」国がヤマト
政権に属し、東海道の「上総、下総、常陸」国も加わっていた様子がうかがわれるが、後
にとりあげるように、相模国は稲の生産性がこの諸国に比べて抜群に高いことから、遠江・
駿河国と共に『東方の海に沿へる国々』に位置づけてみたい。
この思考法と共に、608 年の小野妹子の帰国に合わせて来訪した、裴世清などの使節団の
見聞を記した『隋書』倭国伝にのる、「竹斯(筑紫)国以東は、みな倭に附庸する」記述が
重要な意味を持ってくる。附庸とは従属の意味であり、7 世紀初頭の倭国が統一国家でなか
った様子を伝えている。
近つ淡海が「琵琶湖」から命名されたといわれるように、遠つ淡海も淡水湖の「浜名湖」
が国名の起源と考えられてきた。しかし近年の地質学、考古学、文献史学の考証からは、
遠江国府が置かれた「静岡県磐田市国府台、見付」付近にも巨大な潟湖が存在したことが
解明されて、こちらを「遠つ淡海」国の起源と考える説が急浮上している。というのも、
遠江国内で、浜名湖周辺は古墳の少ない地域で、古墳密集域は素賀国造の掛川市、久努国
造の袋井市付近の他は、磐田原古墳群をもつ磐田市周辺であるところが根拠になる。
71
さらに磐田市見付に「式内淡海国玉神社」があり、遠江国の中心地だった磐田を「淡海」
の起源地とするのは、ごく自然な発想になると思う。付近に潟湖があった様子は本項の最
後にあげるが、国名は淡海を使ったが、郡名に磐田をとったのは、安城市の「參河国⇔碧
海郡」と同じ理由であろう。
この思考法で問題になるのは、
「あふみ、あはうみ」地名が、本当に「淡水湖」を意味し
たかという疑問である。地形地名一般の用法で、海水と淡水を区別した例はないようで、
単に湿地系の語彙を当てるのが通例だった。わずかな例外として温泉に「塩湯」を当てた
例があったようで、
『攝津国風土記 逸文』の有馬湯泉(兵庫県神戸市北区有馬)の記述に
しおのや
「鹽の湯」が登場し、下野国鹽屋郡の起源地が、栃木県那須郡塩原町の「塩原温泉」に想
定できることも、おなじ用法と捉えられる。
地形語の「あは、あふ」は水際の崖(暴く、暴れる)
、川の合流点(合ふ)、河口(合ふ)
、
入江(あぷ には洞窟の意味もある)に名づけた例が多く、
「あふみ」が、とくに淡水を意
識して命名されたとは考え難い。原形は同一と考えられる鐙崎(岩手 釜石)、鐙峠(山口
山口)や宮崎県東臼杵郡北川町鐙の地形をみても、
「あぷみ=あぷ:水際の崖、∧型・∨型
地形+み.水。ぷみ→海」の解釈が成り立つようで、古墳時代前期ころに移入した馬具の
「鐙=足踏み」とは無関係の地名になる。
のちに検証する「近淡海→近江:あはのうみ,あはうみ→おうみ」国の起源地が、琵琶
湖から瀬田川が流れ出す交通路の重要拠点、滋賀県大津市粟津町(あはつ→あわづ)付近
に比定できることから、
「遠淡海→遠江」国の起源地も大きなラグーンの湊で東海道の要衝
だった「磐田市見付」付近を候補にあげたい。こう考えれば、「近淡海→近江」「遠淡海→
遠江」の好字二字化に際し、
「江」を採用した理由を理解できる。
遠江国
は
ま
な
濱名郡(波萬奈)
静岡県浜名郡新居町浜名
濱名村、浜名湖
静岡県浜松市東伊場
敷智郡家
静岡県引佐郡細江町気賀
引佐細江、引佐峠
静岡県浜北市宮口
麁玉村、麁玉小学校
静岡県浜松市天龍川町
長田郷 和銅 2(709)年 長上・長下郡へ
静岡県磐田市中泉
磐田郡家
山香郡(也末加)
静岡県磐田郡佐久間町大井
山香荘、山香村
周智郡(すち)
静岡県周智郡森町森
ふち
敷智郡(淵)
い
な
さ
あ
ら
た
な
か
た
い
は
た
や
ま
か
引佐郡(伊奈佐)
ま
麁玉郡(阿良多末)
長田郡(奈加多)
磐田郡(伊波太)
や
ま
な
天慶 5(881)年設置
山名郡(也末奈)
静岡県袋井市上山梨
式内山名神社、山名郷
佐野郡(さや)
静岡県掛川市佐夜鹿
佐夜の中山
静岡県小笠郡菊川町堀之内?
菊川(推定起源地:榛原郡金谷町菊川)
静岡県島田市阪本
蓁原郷
き
か
ふ
は
い
ぱ
城飼郡(岐加布)
ら
蓁原郡(波伊波良)
72
養老 6(722)年設置
左図は、いま静岡県になった「遠江、駿河、伊豆」
国の郡名起源地の分布図である。
遠江国は浜名湖に接する「濱名」郡から、東海道の
「敷智、長田、磐田、城飼、蓁原」郡、そして北側の
「引佐、麁玉、周智、佐野」郡と、周智郡の上に位置
する「山香」郡の起源地名が並列する。
大井川を国境にした駿河国では「志太、益頭、安倍、
有度、廬原、富士、駿河」郡が続き、伊豆国「田方、那賀、賀茂」郡の起源地が縦に並ぶ。
東海道ベルトゾーンに連続する「參河、遠江、駿河」国の郡名起源地群は、後にあげる
北陸道の約半分の間隔で連なり、遠江・駿河の交易が、律令時代から北陸地方より活発だ
った様子をみせている。第六章『富士の語源』に記したように、東海道の主要河川の起源
地名が街道沿いにならぶ現象は、東海道の原形が縄文時代に造られていた様子を暗示する
のだろう。興味を惹くのは、遠江国内(浜名湖東部)で郡名起源地のルートが東海道本線と
天竜浜名湖鉄道(旧国鉄二俣線)沿いの二つに別れることで、後者の西部が東名高速道路に
重なることは、
「歴史はくり返す」史実をあらためて実感させる。
東海道のルートは、国造の密分布地域にもあたっている。考古学上の環濠集落、高地性
集落の分析から、卑彌呼死亡後におきた弥生時代後期のもう一つの「倭国の乱:250 年頃」
が近畿地方以東の諸国で争われた様相が浮上している。さらに、この時代の弥生式土器が、
東海地方を中心に、中部・関東地方で大きく変容した考古学の見地から、
『魏志』倭人伝に
のる「狗奴国」を、久努国造にあてる説が注目されている。そこで、遠江国内に存在した
国造の起源地名を推理しよう。
遠淡海国造 Tofotu Afumi
静岡県磐田市見付
式内淡海国玉神社所在地
素賀国造
Soka(Suka)
静岡県掛川市領家
佐野郡曽我村、曽我小学校
久努国造
Kuto(Kunu)
静岡県袋井市広岡
山名郡久努郷、久努村
遠淡海国造は消えた潟湖…仮称:大乃潟。汽水または海水湖:後述…を淡海と考えて良い
ようだが、遠江国は壬申の乱(672 年)以後に、『日本国』へ組み込まれたように見える。
他国の国造がおおよそ国名、郡名に継承されたのに対して、遠江国では「素賀、久努」国
造が村名には残ったが、郡名に使われなかったことが何らかの事情を感じさせる。
素賀国造(読みはソ:漢音+カ:呉音。呉音はスカ)、久努国造(ク:呉音+ド:漢音。呉音・
中古音はクヌ、上古音ではクナ)の双方共に郡名に存続せず、飛鳥時代後期に中心地が移動
した史実を残したのだろう。呉音・漢音併用の「久努:Kuto」は倭語の韻律では少数例の音
型であり、中古音、上古音の「Kunu,Kuna」なら倭語として問題はなくなる。
73
遠江国山名郡(722 年設置)の起源地に想定される山名郷(袋井市上山梨)と久努郷は 5km
ほど離れており、佐野(サヤ)郡の名も「佐夜の中山」から採られていて、よほどの大事件…
中央集権国家『日本国』誕生?…が起きたため、かつての中心地「素賀」でなく、東海道
の峠名を選んだのかもしれない。しかし考古学の見地から、
「狗奴国」をこの付近に想定す
る意見が出はじめたところは注目すべきである。
東海道「佐夜の中山」には、著名な和歌が残されている。
あづまぢ
東路の さやの中山 なかなかに なにしか人を 思ひそめけむ
『古今和歌集』
巻 12
594 紀 友則
年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり さやの中山
『新古今和歌集』 巻 10
987 西行法師
遠江国府は静岡県磐田市見付、国分寺は磐田市中泉、一ノ宮は小国神社:静岡県周智郡森
町一宮である。なお、先にあげた「大乃潟」は、日本の古代 5 『前方後円墳の世紀』から
引用させていただいた。この大の発音は、「Afa・Afu→Ofu→Ofo」に変化する日本語の定型
パターン、
「近つ淡海→近江。遠つ淡海→遠江」の発音を考えれば理解できる。
遠江の推定起源地名:静岡県磐田市見付
日本の古代 5 『前方後円墳の世紀』
海と陸のあいだの前方後円墳
森 浩一
1986 中央公論社
74
(6)駿河国(須流加)
この国では、駿河国駿河郡駿河郷が『和名抄』に記録されたので、古くから「駿河郷」
が国名の発祥地と考えられてきた。しかし江戸時代にも、駿河の関連地名が残っていなか
ったために、いまなお比定地が確立したとはいえない。
駿河国駿河郡は、国と郡が同一名の煩わしさを避けて、中世に駿河国駿東郡に名を替え、
現在も「静岡県駿東郡小山町、長泉町、清水町」として存続している。駿河郷は「沼津市
大岡、沼津市千本、駿東郡長泉町納米里(なめり)」などが候補にあげられている。
スルガは、須留ヶ峰(兵庫 大家市場 1,054m)に使われる程度に、使用例の少ない地
名である。
「須流加=する、擦る、摺る:砂地.スルスル,ズルズル:斜面+ルカ⇔かる、
刈る:崖。駆る:加速する」と解釈できる。同じ系列名の敦賀(つるが←つぬか:福井県
敦賀市角鹿町)が港に立地したことを考えると、駿河も港(るか⇔かる≒空,殻:⋃型地形)
に接した砂地の緩斜面を考えたいと思う。
駿河郷に該当する沼津市付近の港は、狩野川河口と、かつて富士山麓にあった田子の浦
から沼津に連なる長大な「浮島沼」の津(沼津の起源:沼津市本付近。駿河郡宇良郷)の二
ヶ所があがる。スルガにあてた「珠流河国造、駿河国駿河郡駿河郷」の文字を重視すると、
この名は川岸につけた可能性が高く、先にあげた狩野川旧河口の「沼津市大岡」付近が、
駿河郷の候補として浮上する。
田子の浦付近から足柄峠へ向かう古代の通路は、東海道本線が通る浮島沼南岸の細長い
砂洲から沼津、大岡を経由する道と、東海道新幹線が走る浮島沼北岸の富士山麓ルートの
二本があった。浮島砂洲の形成は弥生時代以前と推定されていて、『延喜式』にのる柏原驛
が富士市中柏原新田付近(駿河郡柏原郷)に比定されるので、律令時代の東海道は駿河湾に
面する浮島沼南岸の経路をとったと考えられている。
この柏原―沼津―大岡―長倉驛(駿東郡長泉町中土狩付近:駿河郡永倉郷)の経路には、
旧東海道の御殿場方面をむすぶ黄瀬川(←沼津市大岡字木瀬川)と伊豆半島へむかう狩野川
(かるぬがわ→かのがわ:田方郡天城湯ヶ島町松ヶ瀬。伊豆国田方郡狩野郷、式内軽野神社所在
地)の合流点がある。
「応神記」5 年冬 10 月の、
「伊豆国に命じて船を造らせ、この船が軽く浮かんで速く走る
ことから、船名を軽野となづけたが、後に枯野へ変化した」という記述は面白い。だが、
この時代に伊豆国(680 年立国)が存在した可能性はなく、軽野も、軽野川の地名をもとに
奈良時代に創作した『記・紀』常套手法の作文、と考えられそうである。
この狩野川右岸の大岡から、左岸の柿田川の湧水で知られる駿東郡清水町付近にも潟湖
があったようで、伊豆国府が三島大社に接する伊豆国最北端に置かれた史実も、これを裏
付けている。いまは黄瀬川、狩野川が形成した三角州が陸化した沼津付近も、古代には西
に浮島沼、東に潟湖を配した狭隘な地形だった。
75
この水に囲まれた地形の「沼津市大岡」付近を
5 万分の 1 地形図
沼津
沼津市大岡付近
駿河郷に比定するわけで、黄瀬川の起源地名である
「沼津市大岡字木瀬川」が狩野川との合流点(図の
中央:古代は入江)にあることも大岡が交通路の要
衝にあった様子を伝えている。
「大岡:Ofofoka=Ofo:崖+fofo. 頬:崖の側面
+foka. woka:岡、崖」と解釈できる大岡は、港に
面して砂地の緩斜面を意味した「駿河」の隣接地に
つけた地名と推理したい。
2015 年 7 月にニュースを見ていたら、沼津市では古墳をつぶして道路新設工事を行なう
予定で、住民の反対運動が起きているとの予告があった。たぶん大岡付近の話と思って見
ていたら、やはりそうだった。古墳は、上図の西北部にある沼津市東熊堂の「高尾山古墳」
だという。ネットで検索すると、高尾山古墳は 230 年頃に築造された全長 62mの最古期の
前方後方墳で、珠流河の王墓と推定されている。初めて見つかった卑弥呼の時代より少し
前の墳丘墓がどうなるか、全国考古ファンの関心事である。
2005 年 4 月 1 日に静岡市が政令指定都市に制定されたが、このとき「葵区、清水区」と
共に「駿河区」が誕生して、駿河は、もと安倍郡の静岡市へ移動した。しかし歴史・地理、
言葉の語源に無頓着な国では、誰も気にかけることではないので、仕方ないだろう。
駿河国
志太郡(した)
ま
し
静岡県藤枝市志太
つ
益頭郡(末志豆)
静岡県藤枝市益津
益頭郷、益頭荘、西益津村
安倍郡(あぺ)
静岡県静岡市安倍町
安倍川
静岡県清水市有度本町
有度村、有度第一小学校
静岡県清水市庵原町
廬原国造、廬原郷、廬原村、庵原川
静岡県富士宮市宮町
式内富士山本宮浅間神社、富士の山
静岡県沼津市大岡
珠流河国造、駿河郷
う
と
い
ほ
ふ
し
す
る
有度郡(宇止)
は
ら
廬原郡(伊保波良)
富士郡(浮志)
か
駿河郡(須流河)
前章『富士の語源』で、万葉集に「駿河なる富士の高嶺、富士の嶺」と詠われた『富士』
を郡名と推理したのは、郡名の大多数が命名時の「政治経済、交易流通、信仰」上の中心
地名を採択した史実に基づいている。ひとつの地名の起源を探索するにも、まず全体像の
掌握が必要といえよう。
駿河国府は静岡市長谷町付近(安倍郡)、国分寺は静岡市大谷、一ノ宮は富士山本宮浅間
神社:静岡県富士宮市宮町(富士郡)である。
駿河の推定起源地名:静岡県沼津市大岡(駿河郡)。
76
(7)伊豆国(伊豆)
伊豆国は、天武天皇 9(680)年 7 月、駿河国から「田方、賀茂」郡を分離して誕生した。
と平安時代末の『扶桑略記』が記した。また伊豆国風土記逸文として知られる『鎌倉実記』
には、
「駿河国の伊豆の埼を割きて、伊豆国と名づく」の記述もあるので、二つの記録を信
じて、伊豆の起源を探索しよう。
伊豆の語源は「出づ」に由来し、伊豆半島が海に突き出ているから、あるいは「湯出づ」
と考えて、温泉が湧き出す場所と解かれることが多い。しかし、
『日本書紀』が「伊豆嶋」
、
『續日本紀』が伊豆嶋と共に「伊豆三嶋」を記録した史実に注目すると、
「伊豆、伊豆三」
は島の名前だったと考えて良さそうである。
『伊豆』の地名は、
『日本書紀』と『續日本紀』が、次のように記録した。
推古 28 年 8 月
「屋久島の人、二口、伊豆嶋に流れ来たり」
天武 4 年 4 月
「三位麻續王の一子を伊豆嶋に流す」
天武 6 年 4 月
「杙田史名倉を伊豆嶋に流す」
天武 13 年 10 月
「伊豆嶋の西北二面、自然に増益せること三百餘丈…」
『日本書紀』
文武 3 年 5 月
「役小角を伊豆嶋に流す」
天平 13 年 4 月
「小野朝臣東人、広嗣の乱に坐し、伊豆三嶋に流さる」
天平 14 年 4 月
「塩焼王を伊豆三嶋に流す」
『續日本紀』
奈良時代以前の伊豆は、罪人の島流しに使われた「島」として登場し、文武 3(699)年
まで『伊豆嶋』
、天平 13(741)年以降は『伊豆三嶋』と記録された。ふつう『伊豆三嶋』
は大島、三宅島、八丈島の三島、『伊豆嶋』は、このうちの一つと捉えられている。現在、
伊豆国一ノ宮神社の「三島大社」は、伊豆半島の静岡県三島市大宮町に所在し、この地は、
平安時代中期に伊豆国田方郡佐婆郷に属していたことが判っている。
しかし伊豆国一ノ宮の『伊豆三嶋』神社は、奈良時代
以前は三宅島(賀茂郡三島郷)にまつられた史実…いま
三宅島にある富賀神社の祭神が三島大神(事代主命)…
と、
『伊豆国風土記』逸文の記述を重視すると、伊豆の
地名は一点に収束する。
つまり三宅島の古名が伊豆三(Itu. 出ず:∧型地形
+tumi. 積み、摘み⇔水=湧水地、泉)の字名を採った
「伊豆三嶋」であり、
『伊豆国風土記』逸文の記述から、
77
2 万 5 千分の 1 地形図
三宅島
伊豆の国号は、この地にある伊豆三埼(東京都三宅支庁三宅村伊豆:伊豆岬)から採られた
ことになる。
「伊豆」という字名と国名、「三島」の神名・郷名・市名は、「伊豆三嶋、伊豆三埼」を
半分に裂いて使った勘違いによる使用法だった。この誤解は、飛鳥~奈良時代に地名の意
味がまったく理解できなかったこと…現在も同様…に加え、
「三」を万葉仮名と認識せずに
数字として扱い、二字化にこだわったところが問題だった。
地名に「伊豆美、伊豆味」を当てていたなら、二字化した『出水、和泉』国が誕生して
いた可能性は高い。天平宝字元(757)年に河内国から再分離した「和泉国。旧名は和泉監:
716~740 年。推定起源地:大阪府和泉市府中町。式内和泉神社、泉井上神社、和泉国府所在地」
は、違った国名〈井上国?〉になっていたはずだった。
ここで大切なことは、なぜ国の名に、三宅島の「伊豆三埼」を採用したかの理由である。
これは『延喜式』神名帳にのる、伊豆七島の神社に祀られた神々の相関関係と、
『和名抄』
郷名の比定にヒントが隠されている。神津島(砂糠崎付近)の黒曜石を採取していた先土器
~縄文時代に歴史を遡る必要がある問題になる。記録のない時代への推理は難しいので、
やはり地元の方々によって解明されるべき課題にみえる。
伊豆国は国の大きさに比べて延喜式内社の数が多く、一国で 92 座(田方郡 24 座。賀茂郡
46 座.那賀郡 22 座)を数えて、駿河国 22 座、相模国 13 座、武蔵国 44 座が比較の対象にな
らないほどの量がある。とくに賀茂郡の伊豆諸島に 23 座の式内社があった可能性があり、
半数が三宅島に集中する事実も、古代に伊豆三島が如何に注目されたかを語っている。
伊豆岬は、漢字の当て方から「いず・みさき」が原型にみえるが、
『續日本紀』の記録と
「伊豆三嶋」神社の存在をみると、島名が「いずみ・しま」
、岬名も「いずみ・さき」であ
ったと考えられて、起源地名は「泉:Itumi=Itu. 出:出る+tumi. 積み、詰み⇔みつ. 水
=湧水地」と解釈できる。文字を当てた時に地名の意味が判らなかったため、「伊豆三嶋」
の島名を「伊豆」
「三島」と二つに分解して、双方とも原型から離れた記号に変った。
伊豆国の国名発祥地は「東京都三宅支庁三宅村伊豆。伊豆国賀茂郡三島郷」の三宅島に
なるが、郡名は伊豆半島の地名から採られているので、国名だけはかなり古い地名だった
ようにみえる。しかし『国造本紀』にのる「伊豆国造」が律令時代以前に存在したかは、
次に述べる甲斐国に関連した「甲斐国造」と共に、
『好字二字化』の影響が認められるので、
多少の疑問がうまれる。
伊豆国:680 年、駿河国より立国〈『扶桑略記』〉。
た
か
な
か
た
田方郡(多加太)
静岡県田方郡大仁町田京
田方郡家、大仁温泉
那賀郡(奈加)
静岡県賀茂郡松崎町那賀
式内仲神社、那賀郷、那賀川
賀茂郡(かも)
静岡県賀茂郡南伊豆町下賀茂
式内加毛神社、賀茂郷、下賀茂温泉
78
静岡県田方郡大仁町は、
『平成の大合併』の平成 17(2005)年 4 月 1 日に
田方郡伊豆長岡町・韮山町と共に「伊豆の国市」へ改名し、前年の 4 月 1 日
から田方郡修善寺町・土肥町・中伊豆町・天城湯ヶ島町も「伊豆市」に統合
された。
伊豆国府は、田方郡大仁町田京に置かれたが、東海道との接続の便宜を図
って三島市大宮町へ移動した。国分寺は三島市泉町、一ノ宮は三島大社:三島市大宮町にあ
り、昭和 16 年 4 月に田方郡三島町が市制を敷いて、三島市になった。
伊豆の推定起源地名:東京都三宅支庁三宅村伊豆
79
(8)甲斐国(賀比)
ふつう、国名の甲斐は、交ふという動詞を基本に置く「峡:かひ」と解いて、山や谷の
多い山梨県に合った「谷間、峡谷」の意味にとることが多い。だが奈良時代以前に「地名
の語源」が忘れ去られていた史実を考えると、通説をちょっと脇に置いて、尾張国と同じ
ように、『延喜式』『和名抄』の記録を主体に考えてみよう。
『延喜式』の巻九~十 の「神祇上・下
延喜式神名帳」には、東北地方(除く青森県)
から九州地方にいたる官幣社 3132 座、2861 の神社(式内社)が載せられ、甲斐国山梨郡の
欄に、次の神名が記されている。
所属国郡
甲斐奈神社
かひな
神社所在地
甲斐国山梨郡
山梨県甲府市中央 3 丁目
山梨県東山梨郡春日井町国府
山梨岡神社
やまなしのをか
甲斐国山梨郡
山梨県東山梨郡春日井町鎮目
地名資料『Ⅵ 式内社、国郡名』に載せた全数を検証すれば判るが、式内社の特徴は神社
名に地名をとった例が多いことである。甲斐奈神社も地名を採ったと仮定すると、二つの
神社のうち、甲府市中央は、奈良時代に『和名抄』の巨麻郡青沼郷に属したために除外さ
れて、「山梨郡山梨郷」にあった春日井町国府の「甲斐奈神社」が式内社として浮上する。
ひこ ほ
ほ
で
み
おほなむち
「彦 火火出見命、大己貴命」を祀る甲斐奈神社が、笛吹川扇状地に立地するところが大切
である。
律令時代の甲斐国府の変遷も問題になってきたが、今は東山梨郡春日井町国府(現笛吹市)
が奈良時代、東山梨郡御坂町国衙(現笛吹市)を平安時代の国府とするのが普通である。つま
り最初の甲斐国府の所在地名が「甲斐奈」で、旧国名は当時の「好字二字化令」により、
「甲斐」の二字へ短縮されたと考えてみたい。甲斐奈の地名解釈は「Kafina=Kafi. 交ひ
+fina⇔nafi. 縄をなふ、なびく」意味から、笛吹川扇状地上を流れる「川の分流」を表
現した雰囲気が感じられる。この様子は「かひな:肘、腕」の動きから連想できるところ
も大切である。
甲斐国山梨郡山梨郷に使用され、明治 4 年 11 月に甲府県を改めて、県名に採用した郡名
の山梨を「Yamanasi=Yama. 山、斜面+mana⇔nama. 舐む、並む:緩斜面+nasi. 成す:
おおやまつみ
緩斜面、平坦地」と解くと、山際の緩斜面にあって大山祇神などをまつる、山梨郡山梨郷
にある「山梨岡神社」の地形に合致する。
現存地名への解釈の難しさは、国名・郡名ほどに大切な地名でも、文字をあてたときに
意味を理解できなかったため、二文字に短縮、省略してしまった例が多いことである。こ
の「甲斐奈→甲斐」のみならず、「遠つ淡海→遠江」「駿る河→駿河」「伊豆三→伊豆」
「武蔵し→武蔵」なども同じ経過が考えられるので、その都度、考えて行きたい。
80
甲斐国
巨麻郡(こま)
や
ま
な
し
や
つ
し
ろ
つ
る
山梨郡(夜萬奈之)
八代郡(夜豆之呂)
都留郡(豆留)
山梨県北巨摩郡白州町横手
巨麻神社、駒ヶ岳
山梨県東山梨郡春日居町鎮目
式内山梨岡神社、山梨郷
山梨県東八代郡八代町岡
八代郷、八代荘、南八代村
山梨県北都留郡上野原町鶴川
鶴川神社、都留郷、鶴 川
左図のように、甲府市(巨麻郡→山梨郡)が、古代の中心
になかった様子が現われるのも興味ぶかい。左上の長野県
境に近い点が「巨麻」郡、甲府盆地の上の点が「山梨」郡、
下が「八代」郡、右端が「都留」郡の起源地名である。
甲府の名は、武田信玄の父、信虎が「躑躅ヶ崎(つつじが
さき。甲府市古府中町)に拠点をかまえ、この地を府中と呼
んだことに始まる。武田氏滅亡の後、徳川氏が駿河と甲斐
を治めて両国に府中があって紛らわしいので、駿河の府中
(駿河国府が置かれた地:静岡市葵区長谷町付近)を駿府、甲斐の府中を甲府とした。全国の
国府・府中の市町名が律令時代の国府に合致しないのは、山梨県甲府市だけである。
甲府市内の名が郡名に採られなかった事実も、古代の様相を伝えている。中部地方の県
庁所在地の地名を、郡に使用しなかったのは長野県長野市、石川県金沢市と甲府市だった。
三市共に古墳~奈良時代の遺跡が少ないこと、信濃国府は上田市(平安時代に松本市へ移転)、
加賀国府は小松市(能登国府は七尾市)、甲斐国府は笛吹市に置かれた。
奈良時代初頭の甲府盆地中央部は、大きな湿地帯(巨摩郡青沼郷)だったと推定されている。
これは、律令時代のどの山間地域に当てはまり、盆地中央には郷がなく、山梨郡山梨郷・
八代郡八代郷のように、盆地端の扇状地に集落が形成されるのが普通だった。
甲斐国府は山梨県東山梨郡春日居町国府、国分寺は東八代郡一宮町国分、一ノ宮は浅間神
社:東八代郡一宮町一ノ宮である。現在の住居表示は、いずれも平成 16 年 10 月 12 日に統
合して市制を敷いた「笛吹市」である。歴史上大切な「甲府、山梨、甲斐」を他の市に使
われてしまい、川名(起源地不明)を使わざるを得なかったのが、最初の甲斐国府を置いた
甲斐国山梨郡の中心地だった。この経緯を記すと、次のようになる。
市制年月日
山梨市
旧町村名
1954. 7. 1
東山梨郡日下部町・山梨村など 7 町村が合併して誕生。
2005.3.1
東山梨郡三富村・牧丘町を編入。
甲斐市
2004. 9. 1
北巨摩郡双葉町、中巨摩郡敷島町・竜王町が合併。
笛吹市
2004.10.12
東八代郡境川村・一宮町・御坂町・八代町・石和町・芦川村
東山梨郡春日居町が合併。
甲州市
2005.11. 1
塩山市、東山梨郡勝沼町・大和村が合併。
81
いま静岡県になった「遠つ淡海、駿河、伊豆」国の起源が現代に伝わらなかったように、
「甲斐」国と「山梨」郡のルーツも継承されなかった。地名の意味が判らなくなったのは、
古墳時代中期、5 世紀頃からと推理しているが、江戸時代以前は伝承を大切にする文化があ
ったため、古地名が保存された。しかし伝統の破壊は昭和時代、太平洋戦争真珠湾攻撃の
一ヶ月前に始まり、平成時代は、これが常識になってしまった。
旧国名を使った市名(○印をつけた市は、国名の起源地を含んだ可能性が高い市域)
島根県出雲市
1941.11. 3
香川県さぬき市
2002. 4. 1
東京都武蔵野市
1947.11. 3
岐阜県飛騨市
2004. 2. 1
宮崎県日向市
1951. 4. 1
○新潟県佐渡市
2004. 3. 1
山口県長門市
1954. 3.31
○長崎県壱岐市
2004. 3. 1
岐阜県美濃市
1954. 4. 1
○長崎県対馬市
2004. 3. 1
福岡県筑後市
1954. 4. 1
静岡県伊豆市
2004. 4. 1
○神奈川県相模原市
1954.11.20
京都府京丹後市
2004. 4. 1
○三重県伊勢市
1955. 1. 1
山梨県甲斐市
2004. 9. 1
愛媛県伊予市
1955. 1. 1
三重県志摩市
2004.10. 1
福岡県豊前市
1955. 4.14
○三重県伊賀市
2004.11. 1
○大阪府和泉市
1956. 9. 1
兵庫県丹波市
2004.11. 1
石川県加賀市
1958. 1. 1
岡山県美作市
2005. 3.31
高知県土佐市
1959. 1. 1
静岡県伊豆の国市
2005. 4. 1
大阪府摂津市
1966.11. 1
○兵庫県淡路市
2005. 4. 1
岡山県備前市
1971. 4. 1
徳島県阿波市
2005. 4. 1
○福岡県筑紫野市
1972. 4. 1
福井県越前市
2005.10. 1
山梨県甲州市
2005.11. 1
栃木県下野市
2006. 1.10
岩手県奥州市
2006. 2.20
き つき
いま「出雲大社」と呼ばれる神社は、出雲国風土記に「杵築大社:出雲国杵築郡杵築郷」
ひ かわ
ひ かわ
ぐ
い
と記され、出雲国出雲郡出雲郷は、島根県簸川郡斐川町求院に比定するのが普通である。
こうした経過で市名が記号化したため、昭和時代以前の地名を探索するには、その変遷を
辿らないと、歴史資料として、まったく使えなくなった。
平成の大合併以後、山梨県では「甲府、甲斐、甲州」と同じような市ばかりになって、
どれがどこを指すかが判らなくなった。こんな状況なら、もう歴史を伝えられない笛吹市
か
ひ
な
し
は式内社名を採った「甲斐奈市」を名乗るのが良かったのではないだろうか?…
甲斐の推定起源地:山梨県東山梨郡春日居町国府。2004 年 10 月 12 日から笛吹市国府。
82
(9)相模国(佐加三)
相模国の起源地名も『和名抄』に記録されたが、相模国でなく、甲斐国都留郡相模郷と
して載せられた。関連する記録が無いため、付近は甲斐国から相模国へ移管されたと考え、
旧神奈川県津久井郡相模湖町・藤野町の相模川流域を相模郷とする説が一般化している。
平成の大合併により、相模湖町は平成 18(2006)年 3 月 20 日、藤野町が平成 19 年 3 月
11 日に相模原市に吸収されて、平成 23 年 4 月 1 日から相模原市緑区の一部へ変った。国名
の相模は、この史実のように相模川の名を採ったと考えられるが,旧国名とおなじダム湖
は珍しい存在で、正真正銘、相模湖は本物の地名である。
サガミは「Saka:坂。裂く:∨型地形+kami. 噛み:斜面、上部」と常識的に解ける。旧
名の相武(さかむ)も同じ解釈をとれるが、川名起源地は流域にあるのが定石で、相模川
ばにゅう
上流の桂川は山梨県都留市桂町、下流の旧名、馬入川は神奈川県平塚市馬入本町が起源地
さ
ね
さ
し
さ
が
む
の
を
ぬ
に
「さかむ」と読め
名である。景行記に「佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇…」と詠われた相武は、
ないが、いまは京都府「ソウラク郡」と読まれる山城国相楽郡は律令時代に「さがらか」
と呼ばれ、静岡県榛原郡相良町も「さがら」と読むので、相に「さか」の読みがあったと
考えられるかもしれない。
相模国では、
『国造本紀』に師長国造が載り、この国造は酒匂川流域を統括したと考える
のが普通である。
『和名抄』には相模国餘綾郡磯長郷(よろぎ郡しなが郷)が記録されて、
しなやかな緩斜面の段丘地形、現在の小田原市国府津付近に比定されている。
この国府津に多少の問題があり、海老名市国分→平塚市四之宮→中郡大礒町国府本郷と
三転した相模国府のうち、最後の餘綾国府の外港として国府津は考えられてきた。だが、
関東大震災で 10mも隆起した大磯丘陵の大磯には、平安時代に湊があって、国府津が 6 ㎞
も離れているため、疑問も投げかけられている。本サイトもこれに賛成で、国府津は師長
国府があった地と考えたい気がする。問題は師長国がいつまで存続して、統括した領域は
どこだったかが判らないことである。相武国と師長国が合併したのは乙巳の変(645 年)後
という説と、日本国が生まれた持統天皇 4(690)年という曖昧な説だけで研究しようもな
い。まあ、あった、というだけの存在もわるくないのだが…。
相模国
あし から
足柄郡(足辛)
よ
ろ
き
お
ぼ
す
み
あ
ゆ
か
は
た
か
く
ら
か
ま
く
ら
み
う
ら
餘綾郡(與呂岐)
大住郡(於保須美)
愛甲郡(阿由加波)
高座郡(太加久良)
鎌倉郡(加末久良)
御浦郡(美宇良)
神奈川県南足柄市苅野
足柄神社、足柄峠
神奈川県中郡大磯町国府本郷
餘綾郷
神奈川県平塚市岡崎
神奈川県厚木市愛甲
愛甲荘
神奈川県藤沢市高倉
高座郷、高座川(境川)
神奈川県鎌倉市御成町
鎌倉郷、鎌倉郡家
神奈川県横須賀市浦郷町
御浦郷、深浦湾
83
足上・足下郡へ二分した足柄郡は、誰もが「あしがらかみ・あしがらしも」と読まずに、
「あしがみ、あしげ」と読むので、中世に「足柄上郡、足柄下郡」に戻されている。この
起源地名は、足柄神社がある「南足柄市苅野」に比定できる。
よ ろぎ
ゆ るぎ
餘綾→淘綾郡とは難しい名だが、奈良・平安時代には名の通った地名だった。「よろぎ、
こよろぎ、こゆるぎ」は歌枕に採用されて、
『万葉集』以来、数十首の和歌が詠まれてきた。
さ がむ ぢ
よ ろぎ
ま なご
① 相模道の 余綾の浜の 真砂なす
かな
子らは愛しく 思はるるかも
『万葉集』
巻 14 3372
② こよろぎの 磯たちならし 磯菜つむ めざし濡らすな 沖にをれ波
『古今和歌集』 巻 20 1094
③ 君を思ふ 心は人に こゆるぎの 磯の玉藻や 今も刈らまし
『後撰和歌集』 凡河内躬恒
④ みちのくは 世をうきしまも ありといふを 関こゆるぎの 急がざらなむ
『続千載和歌集』 小野小町
こうして「よろぎ、こよろぎ、こゆるぎ」を枕詞に使った和歌をならべると、
「よろぎ→
ゆるぎ」は、この地名が歌枕に使われたために変化した現象、と考えたくなる。
① では、
「よろぎ」は地名を表わし、「浜」に懸かる序として用いられているだけだが、
②の「こよろぎ」は、郡名の餘綾に対する小餘綾(郷名)と共に、「子よろぎ;子供がよろ
ける」意味をふくみ、③、④の「こゆるぎ」は動詞の「超ゆ、越ゆ」をも表現している。
②の「めざし」は、子供の切り揃えた前髪が目を刺すほど長い状態を指し、ここでは少女
を表わす。
「をれ」が「沖に居れ、波。沖に折れ波」を共用するのは見事で、④の句「うき
しま」が「憂きし間、浮き島」、
「いそ」が「急、磯」に懸けられているのも面白い。ここ
ゆ るぎ
に登場する「関こゆるぎの」関は、淘綾郡に接する「足柄の関所」を指している。
こうした「掛け言葉」を楽しむ風習は、『万葉集』より、
『古今和歌集』など平安時代以
後の歌集に顕著に現われるのも、渡来系の人々を中心に編まれた『万葉集』と、一般庶民
の嗜好を反映した、平安貴族の「感性」の差を表わしているのだろう。
右図は、神奈川県の地形区分図に推定郡名起源地
を重ねた地図である。左の丹沢山地と箱根山の境界
に「足柄」、大磯丘陵の谷間(湊)に「餘綾」、伊勢
原台地先端に「大住」、同じく「愛甲」、相模原台地
の谷間の奥に「高座」
、三浦丘陵の鎌倉湾に「鎌倉」
、
深浦湾に「御浦」がある。さらに北へ続く下末吉台
地端に、武蔵国「久良、都筑、橘樹」郡が位置する。
84
郡名起源地を、地形区分図に記入すると、台地端と谷間に拠点を置くのは、全国どの地
域でも同じ傾向を示している。これは台地端に湧水があって、風水害の被害が少ないこと
が生活拠点として相応しく、水田の管理や交易に適性があるからであろう。
あ
ゆ
か
は
いまは、相模国愛甲郡を「阿由加波」と読むなど思いもよらないが、かつては普通の読
みだったようである。東海地方の中枢にある愛知県は、県庁所在地の名古屋が属した尾張
国愛智郡(愛知県名古屋市熱田区神宮。式内熱田神社所在地。 古名:年魚市村)から県名を採った。
この名は『日本書紀』神代に「吾湯市」
、景行紀に「年魚市」
、『尾張国風土記』逸文は「愛
あ
い
ち
知」と記録して、いずれも「あゆち」とよまれたが、『和名抄』は「阿伊知」と記した。
甲の文字は、
「天武紀上」壬申の乱の記述で鹿深をあてた近江国甲賀郡(Kafuka→かうか
→こうか:滋賀県甲賀郡甲賀町大原市場)や、備後国甲奴郡(Kafunu→かうぬ→こうぬ:広島
県甲奴郡甲奴町梶田。甲奴小学校所在地)のように、
「Kafu」と読むのが一般であった。
地名の解釈と位置の比定には、漢字の読み方が時代と共に変化した様子も頭におく必要
があって、あんがい手間ひまのかかる作業なのである。
高座郡では、
『日本書紀』天武天皇 4(675)年 10 月 20 日の「高倉郡の女人、ひとたびに
三つの男を生めり」という面白い記述があり、政府が多産を奨励して、褒賞を与えていた
記録と考えられている。
『好字化令』のゆえか、高倉の文字をあて替えた高座郡は、いま「コウザ郡」に読みが
変わっている。
「たかくら」が「カウザ」に音転したのは江戸時代初頭といわれ、この時代
に座は「くら」でなく、
「ザ」のよみ方が一般化していたかもしれない。相模・武蔵にまた
がる神奈川県には「高座、鎌倉、久良」と、三つの「くら」郡が当て字を替えて併存した。
文字をあてたのは国司、郡司クラスの人だろうが、鎌倉を意識してか、「たかくら」に高座
をあてた気配りがあだとなり、原形とは似ても似つかぬ読み方に替った。
相模国は律令時代に二度、国府を移した珍しい国で、第一次国府は海老名市国分、第二
次国府は平塚市四之宮、第三次国府は中郡大磯町国府本郷に置かれた。二ヶ所の国府跡の
調査から、移転の原因は、相模川の大氾濫によって建物が倒壊したためと推定されている。
国分寺は海老名市国分、一ノ宮は寒川神社:高座郡寒川町一宮であるように、古代相模の
中心は旧高座郡にあった。相武国造の拠点も海老名と考えられていて、延喜式官道の相模国
高座郡驛家郷が濱田驛(海老名市浜田町)に想定されている。
この官道のルートに昭和 43 年 4 月、東名高速道路の東京IC~厚木IC間が建設された。
いま海老名サービスエリアが賑わいを集めているのも、律令時代からの歴史と無縁ではな
さそうである。
『和名抄』にのる相模国七郡と武蔵国南部の「久良岐、都筑、橘樹」の全郷は、第二章
『京浜東北線の駅』東神奈川駅に載せたので、再掲しよう。
85
図 7-2
武蔵国南部、相模国の郷の分布図(推定) 衛星写真は『MAPIO JAPAN』より
現代の神奈川県に相当する武蔵国南部、相模国の郷の起源地名の分布状況は、扇状地な
ど、小川が流れる台地端に多く立地した。本書の地名解釈法、四段活用(五段活用)動詞を
「掛け言葉、逆さ言葉」で結んだ地名の表わす地形は『崖端、湿地端』が多い、と記した
実例が浮上する。この例外地形、高座郡(黒丸)と大住郡(赤丸)の相模川流域にある郷は、
律令時代の開発を想定できそうである。
平安時代中期の相模国が充分に開拓された様子を見せるのに対して、次の武蔵国中部の
東京都の範囲がまったく違った姿を見せる。律令時代の次の時代が『相模国鎌倉郡鎌倉郷:
神奈川県鎌倉市御成町』を中心におく武家社会に替ったのも、平安時代の基盤整備によっ
て稲作生産高が上がった史実が関係した様子が浮上する。
この辺が『和名抄』に国・郡別に載る、郷の全てを比定する作業の利点だが、比定地が
確立しているのは、全国約 4,000 郷のうちの 7 割位である。その他の郷は、地名解釈を基
にした地形の確認が必要な郷の比定作業は難しい。本サイトは、平成時代からこの作業を
あきらめて、国名・郡名の起源探索にテーマを替えたため、いまだに「埼玉・千葉県」も
未完成だが、関東地方だけは何とかしておきたい、というのが願望である。
相模の推定起源地名:神奈川県津久井郡相模湖町。2006 年 3 月 20 日に相模原市へ編入。
2010 年 4 月 1 日に相模原市が政令指定都市になり、緑区に所属。
86
(10)
武蔵国(牟佐之)
首都圏中枢の神奈川県東部(横浜市東部と川崎市)、東京都、埼玉県の範囲は、律令時代
は「武蔵国」に属し、これ以前には「胸刺国造、无邪志国造、知々夫国造」が管轄したと
『国造本紀』が記した。知々夫国造は、武蔵国秩父郡(推定起源地:埼玉県秩父市番場町。
式内秩父神社所在地)に継承されたが、
「胸刺、无邪志」国造は共に「むざし」と読まれたと
推定されている。しかし位置がどこであったかは確定してしない。これは、ここまで記し
た東海道の国造、次にあげる房総・常陸の国造と違って、所在した場所の記録が全く残さ
れていないためである。なお、赤色表記は国名と同じ名の国造。
既出の国造
伊賀、伊勢、島津、尾張、三河、額田、穂、遠淡海、久努、素賀、庵原、珠流河、
伊豆、甲斐、磯長,相武。
知々夫、无邪志、胸刺。
安房・上総・下総の国造
阿波、長狹、武社、伊甚、菊麻、上海上、馬來田、須惠、下海上、印波、千葉。
常陸の国造
筑波、新治、茨城、仲、久自、高
ここにあげた国造は、
「无邪志、胸刺」を除いて、すべて起源地をもつ『地名』である。
「むざし、むさし」も、
「Musa. 蒸す:湿地+sasi. 射す、刺す:斜面=湿地にある斜面」
と解け、上総国の武社国造(Musa→武射郡:千葉県山武郡松尾町武野里字下武射)に使われた
ので、地名の可能性は高いが、どこに発したかの記録がなく、いまも未確定である。なお
う けい
『国造本紀』以外に、
『古事記 神代』…天照大御神と建速須佐之男命との天の安河の誓約
…の分注に、
「无邪志国造」が載せられている。
ただ何も為されていないわけでなく、
「无邪志」は 7 世紀に氷川神社の宮司が、代々武蔵
国造を務めていたので、武蔵国一宮神社の式内氷川神社の所在地、埼玉県大宮市高鼻町(今
はさいたま市大宮区高鼻町)付近に比定する説がある。氷川神社の祭神は「須佐之男命」で、
や
た
八咫の鏡を祀ることは、出雲系の製鉄集団との関係もありそうな感じもするが根拠はない。
7 世紀の国造は、祭祀を司る世襲制の名誉職、とする捉え方が正しいかもしれない。
た もと
また「胸刺」を多摩川渡河地の丸子の渡しにある武蔵国荏原郡田本郷、大田区田園調布
を当てる説がある。田園調布の旧名は「沼部」で、こちらもムサシを名乗って問題ない地
形である。付近は多摩川の狭窄部で、川を絞り込んでいるため上部に沼があり、多摩川水
運を掌握する最重要拠点になっていた。5 世紀前半にここを治めた豪族が、都内最大の前方
後円墳、亀甲山古墳に埋葬されている。
大宮と田園調布の検証も大切だが、もう一ヶ所あげたいところがあるので、話をもう少
し進めた東山道の「上野国」で考えたい。
87
現代の感覚では、東京都と神奈川県の都県境は多摩川にあって当然だが、この境界を定
めたのは明治 26 年 4 月 1 日だった。それ以前の奈良時代から明治時代中期まで、多摩川は
国境ではなく、武蔵国の一部だった。武相国境、武蔵国久良郡と相模国鎌倉郡の境は今の
横浜市緑区・旭区・保土ヶ谷区と、瀬谷区・泉区・戸塚区の区界付近に置かれ、港南区で
は区内を縦貫している。なぜこんなところに国境を設けたのかの理由がさっぱり解らず、
関係する研究書もないようである。
だが、これを武蔵・相模国境と見るより、宝亀 2(771)年に武蔵国を東山道から東海道
へ編入する前、
「東山道⇔東海道」との地域区分のあいまいな境界線だったと考えてみたい
気もする。
平安時代中期の『延喜式』には、各国毎に租税として納めた稻束数が載せられている。
常陸国の稲束生産高の 185 万束はダントツの全国第 1 位で、如何にこの国が藤原氏を支え
ていたかが良くわかる。関東地方でこれに続くのが、6 位の武蔵国 111 万束、7 位の上総国
107 万束、9 位の下総国の 103 万束、13 位の上野国 89 万束、16 位の下野国 87 万束、17 位
の相模国 87 万束、安房国 34 万束と集計できる(常陸国と本章の最後に提示)。
関東地方の稲作生産量は多いのだが、単位面積当たりの収量が低く、地方別の偏差値で
表わすと、
「山陰道:68.5.山陽道:60.5.北陸道:51.9.南海道:50.0.西海道:48.0.
東海道:46.6.畿内:38.9.東山道:35.7」
、と西高東低の模様が現われ、農業技術の差を
表現している。
(㊟ 偏差値は、50 が平均)
平安時代中期にも、日本海側の地域の単位面積当たりの収量が高いことは、大陸から移
入した農耕技術、とくに金属農機の多用や灌漑技術の普及などの差によったのであろう。
20 年前にこの数値を算出したときのショックは今も忘れられないが、古代史への取り組み
方が変わったのは事実である。ここから各国・各地方毎のデータを使って、歴史の教科書
にまったく載らない、奈良・平安時代を考えてゆきたい。
武蔵国は、平安時代中期に、陸奥国 35 郡に次ぐ 21 郡 119 郷を擁した大国(人口:約 16
万人)だったので、この全郡をもう一度あげよう。
武蔵国
く
ら
き
つ
つ
き
た
ち
ぱ
た
ば
え
ぱ
ら
と
し
ま
久良郡(久良岐)
都筑郡(豆々岐)
な
橘樹郡(太知波奈)
多磨郡(太婆)
荏原郡(江波良)
豊嶋郡(止志末)
神奈川県横浜市磯子区栗木町
神奈川県横浜市港北区新羽町
神奈川県川崎市高津区子母口
橘樹郷、橘樹神社
東京都世田谷区玉川
多摩川
東京都品川区北品川
荏原郷、荏原川(目黒川)
東京都北区豊島
88
に
ひ
く
ら
あ
た
ち
い
る
ま
こ
ま
ひ
き
よ
こ
み
さ
い
た
ま
お
ぼ
さ
ど
新座郡(爾比久良) 埼玉県和光市新倉
足立郡(阿太知)
入間郡(伊留末)
高麗郡(古末)
比企郡(比岐)
横見郡(與古美)
新倉村
埼玉県大宮市水判土
式内足立神社
埼玉県狭山市入間川
入間川
埼玉県日高市高麗本郷
高麗郷
埼玉県東松山市古凍
郡家郷
埼玉県比企郡吉見町黒岩
横見神社
埼玉郡(佐伊太末) 埼玉県行田市埼玉
埼玉郷、式内前玉神社
大里郡(於保佐止) 埼玉県熊谷市久下
はら
幡羅郡(原)
郡家郷
埼玉県深谷市原郷町
を
ぷ
す
ま
は
む
さ
は
幡羅郷
男衾郡(乎夫須萬) 埼玉県大里郡寄居町富田
榛澤郡(波牟佐波) 埼玉県大里郡岡部町榛沢
かみ
賀美郡(上)
こ
た
榛澤郷
埼玉県児玉郡上里町嘉美
ま
兒玉郡(古太萬)
埼玉県児玉郡児玉町児玉
児玉町
那珂郡(なか)
埼玉県児玉郡美里町中里
那珂郷
埼玉県秩父市番場町
知々夫国造、式内秩父神社
ち
ち
ぷ
秩父郡(知々夫)
㊟
式内小被神社、男衾村
高麗郡は霊亀 2(716)年、新座郡の旧名は新羅郡で、天平宝字 2(758)年に創設された。
平安時代中期の『延喜式、和名抄』では東海道に属する武蔵国は、宝亀 2(771)年まで
東山道に属していた史実が大切である。郡名起源地の分布状況を見ると、奈良時代以前の
武蔵国は北部に中心勢力があったと考えられそうである。
起源地名の分布は、南から神奈川県内の
「久良、都筑、橘樹」郡、東京都の「多磨、
荏原、豊嶋」郡、埼玉県内は「新座、足立、
入間、高麗」の四郡が横方向に並び、
「比企、
横見」二郡が縦に、
「大里、埼玉」の二郡が
横に並んで、この上に「幡羅」郡、左横に
離れた「男衾」郡の起源地名がある。山間
盆地の一点が「秩父」郡で、上野国境近く
の四点が「榛澤、賀美、兒玉、那珂」の起
源地名である。
埼玉県北部の郡は小さいものばかりで、北の上野国に連続する様子が認められる。この
地域は知々夫国造の統括範囲と考えられるが、稲作活性地帯を凌駕した山間部の秩父は、
元明天皇 2(708)年 1 月に銅を算出して元号を和銅に改めた史実をみると、金属資源を基
に力をふるったのだろうか?
今の東京都にあたる武蔵国豊嶋郡、荏原郡、多磨郡が比較的ひろい郡域にあったところ
にも注意を向けねばならない。
89
水利の悪い台地と低湿地を抱えた東京都の範囲は、東海道と東山道の接続を主体に国府
を府中市宮町(多磨郡)、武蔵国分寺を国分寺市西元町に置いた史実や、郡の起源地名が都
心部にないところをみても、律令時代に重視されていなかった様子が感じられる。
この実例は、
『和名抄』にのる「多磨郡 10 郷、荏原郡 9 郷、豊島郡 7 郷」の位置を復元・
推定すると、さらにはっきりする。復元作業、とくに豊島郡は湯島郷しか定まっておらず、
律令時代とそれ以後の記録もまったくない、我が国の古地名探索で最難関の一つである。
を やき
に ふた
を しま
あ また
第二章『京浜東北線の駅』の蒲田駅で多磨郡「小川、川口、小揚、小野、新田、小島、海田
こ まえ
ま むた
え ぱら
か かし
み
た
、石津、狛江、勢多」郷、大井町駅で荏原郡「蒲田、田本、満田、荏原、覺志、御田、木
む まや
ひ のと
うらかた
あまるぺ
田、櫻田、驛家」郷、王子駅で豊島郡「日頭、占方、荒墓、湯島、廣岡、餘戸、驛家」郷
をあげ、そして正倉院文書にも載る葛飾郡「大島」郷を加えた位置を推定すると、下図の
ようになる。各郷の起源地名は、武蔵野台地と下町低地の境界にある崖端の湧水地と、多
摩川流域に偏在する様相がはっきり表れる(豊島郡餘戸郷は比定せず)。
記録が残されていない郷の比定は、やはり武蔵国、あるいは関東地方全体の各郡・各郷
の所在位置の傾向をつかむ必要があり、
『和名抄』郷名の比定作業が、古代史復元の基本事
項であることを御記憶いただきたい。
図 7-3
東京の郷の分布(推定) 地形概略図は、帝国書院の地形図より転載
相模国で示したように、古代の地名の特徴を表わして、郷の起源地は台地端に集中する。
この地域が注目を集めるのは、小田原城を攻め落とした豊臣秀吉が、徳川家康を駿河から
江戸へ移封したときを嚆矢とする。低湿地の埋め立て、台地上の陸路・河川・上下水路・
運河網を整備してはじめて、中心地としての機能を備えた。この構想は水運を基本に大坂
を整備した秀吉、関東を治めるには小田原では西に片寄り過ぎると考えていた家康の脳裏
にあったことは、石垣山一夜城の際の逸話として知られる。数々の実戦体験を踏まえて、
地勢・自然条件を熟知した人物のみが備えうる慧眼と、実行力には感銘をうける。
90
おし
小田原攻めに参加し、北条氏の出城であった忍城(埼玉県行田市本丸)を攻めた石田三成・
長束正家などの文官たちは、豊臣秀吉・黒田官兵衛の備中高松城(岡山市高松)の水攻めを
真似たが、気象状況と人心を把握できずにあせり、無残な失敗に終わったことは、もって
他山の石とすべきだろう。織田信長、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗など、戦国武将のい
ずれをとっても、その戦略・治世には、実戦の経験を生かした大自然、人間へのふかい洞
察力と独創性が感じられる。
面積で全国第三位の水田を保有していた武蔵国は、平安時代中期に水稲の生産性が低く
(偏差値:36.3。64 ヶ国中 58 位)
、
「出羽国:39.4(55 位),陸奥国:36.0(60 位),信濃
国:35.0(61 位)
」の山間僻地や、北関東の「下野国:35.0(62 位),上野国:34.9(63 位)
」
と東山道諸国と同等の値をとるところは重要である。
個人が行なう郡名起源地の推定は正確さに欠けるが、本サイトにあげる程度の分布図で
はさほど問題はなく、資料が少ないといわれる律令時代の再現に有用にみえる。
鎌倉幕府が鎌倉におかれ、戦国時代の北条氏が小田原に拠点を構えて関東を制したこと
も現代の感覚では理解しにくい。しかし、時代ごとに中心地の立地条件が異なった様子を、
私たちに教えてくれる貴重な歴史資料といえる。ここでは、人工の街「江戸→東京」を消
してしまうと理解しやすくなるのが、歴史地理の妙味である。
武蔵国府は東京都府中市宮町(多磨郡)、武蔵国分寺も東京都国分寺市西元町(多磨郡)、
一ノ宮は氷川神社:埼玉県大宮市高鼻町(2001 年 3 月からさいたま市大宮区高鼻町。足立郡)
さいたま
さきたま
武蔵の推定起源地名:埼玉県行田市埼玉
理由は東山道上野国に提示。
91
(11)
安房国(阿八)
安房国は、阿波国造の名を引き継いだが、やはり元は地名で、延喜式にのる名神大社の
安房国一ノ宮神社「安房に坐す神社:千葉県館山市大神宮」に継承されている。崖の上に鎮
座する神社が表わすように、この地が「Afa:あふ、這ふ、奪ふ、崖」と考えられて、おそ
らく航海上の必要から、房総(安房+総)半島突端の標識としての役割を担って、神社が
生まれたのだろう。
安房国:養老 2(718)年上総国から分離。天平 13(741)年上総国に吸収。
天平宝字元(757)年再分離。旧上総国長狹郡、朝夷郡、平群郡、安房郡。
な
か
さ
あ
さ
ひ
へ
く
り
あ
は
長狹郡(奈加佐)
な
朝夷郡(阿佐比奈)
平群郡(倍久利)
安房郡(阿八)
千葉県鴨川市宮内
長狹国造、長狭中学校
千葉県安房郡千倉町南朝夷
朝夷小学校
千葉県安房郡富山町平久里中
平久里下村、平久里川
千葉県館山市大神宮
阿波国造、式内安房坐神社
飛鳥時代末から奈良時代初頭に設立した「佐渡、能登」国が、安房国と共に聖武天皇の
政策により天平年間後半(740~743 年)に廃止され、孝謙天皇へ譲位した天平勝宝・宝字時
代(752,757 年)に復活した。これは、藤原弘嗣の乱(740 年)と天然痘の大流行により、都
く
に
し が ら き
な には
を平城京から恭仁京、紫香楽宮、難波宮へと遷都を続けた、聖武天皇の不安定な精神状態
を表現した、天皇の権力を目の当りに見せるもので、律令政治の本質を表わした好例とい
えよう。
阿波国造と併存した長狹国造も、鴨川市を含む領域を統括したようである。埼玉・東京・
神奈川東部にあった大国武蔵には「秩父、无邪志、胸刺」しか国造がなく、ムサシ国造の
領域も判らないが、いまは千葉県になった「安房、上総、下総」国の範囲には 11 の国造が
割拠した歴史が残されている。これは次項で考えよう。
安房国府は千葉県安房郡三芳村府中(いまは南房総市)、国分寺は館山市国分、一ノ宮は安
房神社:館山市大神宮である。
安房の推定起源地名:千葉県館山市大神宮
92
(12)
上総(加三豆不佐)・下総国(之毛豆不佐)
「上総:Kamu tu Fusa→Kamutusa
総(ふさ)国は 6 世紀頃に分割されたと推定されていて、
→Kanzusa→Kazusa」「上総:Simo tu Fusa→Simohusa→Simousa」国に読み方が変わった。
律令時代に国を二分した際の命名法は、都(奈良)に近い方が上、遠い方が下を名乗るのが
慣例だった。
現代の感覚では、上下のつけ方が逆に見えるが、奈良時代初頭まで、相模国の三浦半島
から房総半島へ渡る海路がメインルートで、安房国に接するのが上総国で、武蔵国に隣接
やまとたけるのみこと
したのが下総国だった。この様子は「景行記・紀」に載る、 倭 建 命 〈日本武尊〉の東征
伝で、嵐を鎮めるために弟橘姫が走水の海に入水した場面に記されている。両国の境界は、
上総国「市原・山邊・武射」郡と下総国「千葉・印幡・埴生」郡の間に置かれた。
律令時代以前の「上総、下総、安房」国の範囲にあった、11 の国造も興味ぶかい様相を
みせるので、これをあげよう。
下総国 千葉県
下海上国造
海上郡
印波国造
千葉国造
Unakami
銚子市垣根町
海上八幡宮、海上村、海上小
印播郡 Imupa
印旛郡酒々井町上岩橋
印幡郷、印旛沼
千葉郡 Tipa
千葉市中央区本千葉町
千葉郷、千葉町
武社国造
武射郡 Musa
山武郡松尾町武野里字下武射
伊甚国造
夷灊郡 Isimi
夷隅郡大多喜町小谷松
夷隅神社、夷隅川
菊麻国造
(市原郡)Kikuma
市原市菊間
菊麻郷、菊間村、菊間小学校
市原郡 Itifara
市原市市原
市原郷、市原村
海上郡
市原市神代
海上村、海上小学校
上総国 千葉県
上海上国造
Unakami
馬來田国造 (望陁郡)Mumakuta 木更津市真里谷
須惠国造
望陁郡
Mauta
木更津市上・下望陀
畔蒜郡
Afiru
木更津市真里谷?
馬來田村、馬来田小学校
望陁郡畔治郷
周淮郡 Suwe
君津市久保
長狹国造
長狹郡 Nakasa
鴨川市宮山
長狭中学校
阿波国造
安房郡 Afa
館山市大神宮
式内安房坐神社
安房国 千葉県
下総の国造が鹿島灘、印旛沼、東京湾に面した湊に立地し、上総・安房の国造も大半が
湊、または水陸交通の要衝に拠点を構えていた。上総国の「菊麻、馬來田」国造が、律令
時代の郡名に継承されなかった史実には、なんらかの事情が隠されているのだろうか?
93
市原市の菊間と市原は隣町の関係にあり、菊間を流れる村田川(←千葉市中央区村田町)
は房総半島の最も狭まった地域を流れ、分水点を越えると太平洋岸の上総国山邊郡(←山武
郡大網白里町金谷郷)に到達する。後に半島を横断する外房線を敷設したように、この交通
路は重視されたはずだが、郡の名に市原を採用したのは、市原に上総国府(市原市能満)を
置いたからかもしれない。
『記・紀』にも登場する馬來田国造の領域は、律令時代に「望陁、畔蒜」郡に分割され
て名前を変更した。木更津市南部にあった「あひる郡」は、中世以前に望陀郡に吸収され
たためか、
『和名抄』郷名の残存度も低く、二郡とも実態の掴みにくい郡になっている。
さらに総(Fusa)国の発祥地に想定される『下総国相馬郡布佐郷:千葉県我孫子市布佐』
には国造もなく、郡名にも採用されなかった史実は、いったい何を語っているのだろうか?
これは起源地名探索が難しい「常陸」にも共通して、同じ現象は全国各地にみられるので、
国ごとに考えて行きたい。
国造もなく、郡名にも使われずに「下総国相馬郡布佐郷」だけに残されたこの地名は、
国造もなかったほど、古い時代に重視された地名と考えて良さそうである。今はJR成田
線「布佐」駅として活動する我孫子市布佐は、利根川と、大干拓をした手賀沼の分岐点に
位置する。この地は、縄文時代中期くらいまで、極めて特殊な地勢条件にあった。
㊟ 図の青灰色の部分は縄文時代早期末から前期中葉
(約 7,000~5,500 年前)
の海岸線、
空色部分は、縄文時代後期頃(約 3,000 年前)の海岸線の想像図。
手元に適当な地図がないので、縄文時代の貝塚分布図を使ったが、図の中央「二ッ木、
岩井」貝塚があるところの上が手賀沼である。沼の北に細長い半島があり、この半島先端
に布佐(=総、房)がある。図に載るように、外洋から霞ヶ浦へ入り、青灰色の縄文時代
前期の海から、内陸への入り口として利用されたのが、総国起源地名の「布佐」であった。
「総、房」が、現代語とまったく同じ意味で使われたところが素晴らしい。
94
何度もとりあげた大気温度の変化に伴う『縄文海進→海退』の影響が、私達の日常に直
接かかわる言語活動、
「布佐→上総・下総。房総半島。総武本線」に関係しているところを
御認識いただきたい。
『日本』という国は、ものすごい歴史をもった国である。先にあげた
相模国の地形区分図にも、
『縄文海進→海退』の影響が残されているところが大切である。
上総国
い
ち
は
ら
う
な
か
み
あ
び
る
ま
う
た
市原郡(伊知波良)
海上郡(宇奈加美)
畔蒜郡(阿比留)
望陁郡(末宇太)
すえ
周淮郡(季)
あ
ま
は
い
し
み
天羽郡(阿末波)
千葉県市原市市原、能満
市原郷、市原郡家、上総国府
千葉県市原市神代
上海上国造、海上村、海上小学校
千葉県木更津市真里谷?
馬來田国造、望陁郡畔治郷、畦蒜南北荘
千葉県木更津市上・下望陀
望陁郡家
千葉県君津市久保
須惠国造
千葉県富津市湊
天羽驛、天羽荘
夷灊郡(伊志美)
千葉県夷隅郡大多喜町小谷松 伊甚国造、夷隅神社、伊隅荘、夷隅川
埴生郡(はにふ)
千葉県長生郡長南町市野々字埴生沢
埴生郷、埴生川
千葉県長生郡長柄町長柄山
長柄村
山邊郡(也末乃倍)
千葉県山武郡大網白里町金谷郷
縣神社、山邊荘、山邊村
武射郡(むさ)
千葉県山武郡松尾町武野里字下武射
武社国造、武射御厨
な
か
ら
や
ま
の
長柄郡(奈加良)
べ
下総国
か
と
ち
ぱ
し
か
葛餝郡(加止志加)
千葉県船橋市葛飾町
葛飾神社、葛飾村
千葉郡(知波)
千葉県千葉市中央区本千葉町
千葉国造、千葉郷、千葉町
印播郡(いむぱ)
千葉県印旛郡酒々井町上岩橋
印波国造、印幡郷、印旛沼
千葉県成田市並木町
埴生神社、埴生荘
香取郡(加止里)
千葉県佐原市香取
式内香取神宮、香取郷、香取村
匝瑳郡(さふさ)
千葉県八日市場市松山
迊瑳郷、匝瑳村、匝瑳小学校
千葉県銚子市垣根町
下海上国造、海上八幡宮、海上村
茨城県北相馬郡藤代町宮和田
相馬郷、相馬御厨、相馬町
豊田郡(止與太)
茨城県結城郡石下町豊田
豊田村 延喜 4(904)年,岡田郡を改名
〈岡田(をかた)
結城郡石下町岡田
は
む
ぷ
か
と
り
埴生郡(波牟布)
う
な
か
み
海上郡(宇奈加美)
さ
う
ま
と
よ
た
相馬郡(佐宇萬)
さ
し
ま
ゆ
ふ
き
猨嶋郡(佐之萬)
結城郡(由布岐)
岡田郷、岡田村、岡田小学校〉
茨城県猿島郡境町大歩
猿島村、猿島小学校
茨城県結城市結城
結城郷、結城町、結城小学校
下総国の各郡を千葉県・茨城県に分割したのは明治 8 年 5 月で、利根川を県境に定めた。
そのため、総国の国名発祥地をふくむ相馬郡は、茨城県北相馬郡・千葉県東葛飾郡に分断
されてしまった。下総国相馬郡布佐郷を「総国」の起源地とする説は、
『和名抄』全郷名に
当たった経験をもつ地名研究者の一部にしか通用しないが、律令時代の全国名・全郡名の
起源を統一論理で解いてみることも必要にみえる。
95
左図は、安房・上総・下総国の郡名起源地の分
布図である。
南端の安房国では南から「安房、朝夷、平群、
長狹」郡の起源地名が順にならぶ。
上総国では、東京湾側に「天羽、周淮、望陁、
畔蒜、海上、市原」郡がつづいて、太平洋側の内
陸に「夷灊、埴生、長柄、山邊、武射」郡の起源
地名が連続する。
下総国は東京湾の台地端に「葛餝、千葉」郡、
かなり離れた利根川寄りの下総台地端に「印播、
埴生、香取」郡、銚子へ向かって「匝瑳、海上」
郡の起源地名がある。
茨城県へ移管した「相馬、豊田、猨嶋、結城」
郡が、県境に間隔をおいて並んでいる。
いまの千葉県・茨城県境は利根川だが、江戸時代以前の下総・常陸国境はもっと北側に
置かれて、図の青丸と赤丸の間に引かれていた。先にあげた縄文時代の地図に見られたよ
うに、奈良時代にも、霞ヶ浦と利根川の間は縄文海進の後遺症を残した大湿地帯だった。
そのため、小貝川(推定起源地:栃木県芳賀郡市貝町杉山。もと小貝村)と利根川(行方海)
を挟み、常陸国と対峙する下総国(茨城・千葉県)、主に房総半島を国域とした上総・安房
国(千葉県)では、郡名起源地の分布状況が違う様子がみられる。
下総国は関東平野中央の台地端、下総台地端に起源地が分散して、常陸国南部と同様、
バランスのとれた人為的な配置がみられる。が、上総・安房国は、丘陵部の谷間、扇状地
に入りこむ自然発生的な分布をとり、古墳の数も上総が下総を圧倒する。上総国分寺があ
ご うど
る市原市惣社の神門 3,4,5 号墳は、3 世紀中葉築造の初期型前方後円墳で、奈良県桜井市
まき むく
の纏向石塚古墳などと同形、前方部が短い帆立貝型の墳丘であるところが注目されている。
国造名と郡名の関係も興味ぶかく、安房・上総では、約半数の郡が国造名を継承したが、
下総国で国造名を引き継いだのは上総国に近い「千葉、印旛」郡と水上交通の要衝、銚子
付近の「海上」郡だけだった。これは現在の利根川、霞ヶ浦周辺が『縄文海進→海退』の
後遺症を残した大湿地帯だった史実に関係しているので、次の常陸国で検証しよう。
たまさき
上総国府は千葉県市原市能満、国分寺は市原市惣社、一ノ宮は玉前神社:長生郡一宮町一
の宮(長生郡=長柄郡+埴生郡。明治 30〈1897〉年合併)。
下総国府は千葉県市川市国府台、国分寺は市川市国分、一ノ宮は香取神宮:香取市香取で
ある。
総の推定起源地名:千葉県我孫子市布佐
96
(13)
常陸国(比太知)
常陸の国名探索は難しい。武蔵国で触れたように、上総・下総の原型の「布佐」と共に
国造の記録がなく、
『常陸国風土記』の昔から様々な解釈が提起されてきたが、いまもなお
定説を確立しえない。ここから、代表的なものをあげよう。
① 人々の往来する道が海で隔てられることもなく、陸路だけで連なっていることから、
「直通:ひたみち→常道→常陸」と名付けられた。
『常陸国風土記 総記』
㊟ 「神武記」の最後にのる分注に、常道の仲国造(後の常陸国那珂郡)が載る。
② 倭健命(やまとたける の みこと)が付近を巡察して、新治の県(新治郡新治郷)を通っ
たとき、国造の比那良珠命に命じて井戸を掘らせると、清らかな水が湧きだした。あま
りに美しい光景に御輿を止め、命が手を洗った際に衣の袖が濡れたために、
「袖を浸す:
ひたし→ひたち」の意味をとって、国名とした。
『常陸国風土記 総記』
③ 倭健命の東征(景行記)にのる日高見国へ行く道(ひたみち→ひたち)という説。
④ 白雉 4(653)年に筑波郡・茨城郡から分割された常陸国信太郡は、かつて「日高見国」
(
『常陸国風土記逸文 信太郡』
:釈日本紀掲載)。この記録から、
とよばれたといわれる。
「信太:した」と日高見の「ひた」を同一語源として、信太郡を常陸国の起源地とする。
⑤ 「ひたかみ」国に対し、
「ひたしも」国があり、これが変化して「ひたち」国になった。
どれもが、
「ひたち」の語源が伝わらなかった奈良時代の標準的解釈で、一地点の地形を
表わしたと採る、本サイトのような地形地名の解き方がないのが特徴である。
ここにあがる「ひたかみ」国は、
『日本書紀』景行紀に
図 7-4 旧桃生町
記された日本武尊の東征伝にのる「日高見国」で、宮城県
桃生郡桃生町太田に式内日高見神社があり、隣接する桃生郡
河北町小船越字大谷地に天平宝字 3(759)年、前線基地の
(右下の蛇行部)が設置された史実が大切である。
「桃生柵」
「ひたかみ国」はこの付近とも考えられていて、
「Fitakami
=Fita:水際の崖(fitafita)、襞+taka:崖の上部⇔kata.
肩+kami:崖の上部」は、北上川に面した崖の上部にある
日高見神社の所在地形に合致する。
桃生町をふくむ大崎平野は、陸奥随一の小郡密集地域で、
この様子は東山道の「陸奥国」でお目にかけたい。
「ひたち」の地名解釈をすると、
「ひたひた、ぴたぴた:水が寄せてくる音:水際+立ち,
絶ち:崖」と普通の解釈が成立して、水際の崖、あるいは湊の地形が浮かびあがる。
97
上記の説では「倭健命が、袖を浸す」の解釈が近く、常陸国茨城郡茨城郷は「Iparaki←
Uparaki←Muparaki=Mupa:湿地端(⇔Pamu. 食む:⋃型地形)+para. 原:台地+raki⇔kira.
切る:崖端」
、すなわち「台地端にある湿地、港の機能を備えた場所」と解ける地名である。
常陸国府は、茨城郡茨城郷(牟波良岐)に置かれたところが重要である。
地名解釈から、茨城県石岡市茨城に隣接する国府・府中・総社の旧地名が「常陸」だっ
たと考えてみたい。付近は弥生~古墳時代に霞ヶ浦に接した台地で、奈良時代に水が引き、
恋瀬川蛇行部の湊になったのだろう。いまは常磐線「高浜~石岡」の中間地点山側(左側)
の住居表示が石岡市茨城(ばらき)なので、車窓から景色を楽しめるのがありがたい。
先に触れたように、
「常陸国」では、北部と南部の郡名
起源地の密集度が違う様子がみられる。下総国を含めて
バランスのとれた分布をみせる南部の郡は、自然発生し
たものではなく、人為的に区分した雰囲気が漂っている。
『国造本紀』と『常陸国風土記』にのる国造も、常陸国
北部だけに記録されて、南部にはこれがない。
北浦の東に「鹿嶋」郡、霞ヶ浦東岸に「行方」郡、西
に「信太、河内」郡、常陸国府を置いた「茨城」郡から
「筑波、真壁、新治」郡の起源地がつづき、北部に国造
名を継いだ「那珂、久慈、多可」郡の起源地が点在する。
常陸国は藤原氏の地盤で、乙巳の変(645 年)直後に南部の「鹿嶋、行方、信太」郡を新
設した史実や、計画的に郡を配して石岡に国府をおいたのも、藤原氏の方針と考えたい。
高 国造(たか)
多珂郡
茨城県高萩市高萩
多珂郷
久自国造(くじ)
久慈郡
茨城県日立市久慈町
久慈村、久慈川
那珂郡
茨城県東茨城郡常北町那珂西 那珂西神社、那珂郷、那珂川
茨城郡
茨城県石岡市茨城
筑波郡
茨城県つくば市筑波
新治郡
茨城県真壁郡協和町新治
仲 国造(なか)
む
ぱ
ら
つ
く
ぱ
に
ひ
ぱ
き
茨城国造(牟波良岐)
筑波国造(豆久波)
り
新治国造(爾比波里)
茨城郷、茨城郡家、常陸国府
式内筑波山神社、筑波郷、筑波町
新治郷、新治村
常陸国北西部の郡
ま
か
ぺ
眞壁郡(萬加倍)
茨城県真壁郡真壁町真壁
眞壁郷、眞壁荘、眞壁町、真壁小学校
茨城県鹿嶋市宮中、城山
式内鹿嶋神宮、鹿島郷、鹿島小学校
常陸国南部の郡
か
し
ま
な
め
か
し
た
鹿嶋郡(加之末)
た
行方郡(奈女加多) 茨城県行方郡麻生町行方
信太郡(志太)
かふ ち
河内郡(甲知)
行方郷、行方郡家、行方村、行方小学校
茨城県稲敷郡美浦村信太
信太郷、信太郡家、信太荘
茨城県土浦市下高津
河内郷、河内荘
98
南部の郡は『常陸国風土記』に鹿嶋郡(仲国造と下総国下海上国造から 649 年に分離)、多
『常陸
珂郡(高国造より 653 年に磐城郡を分離)、行方郡(茨城郡・那珂郡から 653 年に分離)、
国風土記』逸文に信太郡(筑波郡・茨城郡から 653 年に分離)の成立年代が記されている。
この記録は、天智政権に所属した常陸国では、国造の管轄下にあった 649 年から、郡を
設立していた 653 年の間に南部の郡を新設した史実を表現している。諸郡は「相模」
「安房・
上総・下総」
「武蔵、上野・下野」に比べて新しい設立年代であり、『和名抄』にのる各国
水田面積と、
『延喜式』に記録された稲束数(祖)の生産高も、この様子を語っている。
藤原時平、忠平などにより延長 5(927)年に完成した『延喜式』に比べ、
『和名抄:源順
(みなもと・したがふ)編。931~938 年成立』記載のデータに、誤写が多いなど問題もあ
るが、律令時代における唯一といえる集計は、大切に扱わなければならない。
次表にみられる関東・東北地方(東海道東部、東山道東北部)の稲作生産効率が低いのは、
主に気象条件により、律令時代の新田開発が両地方を中心に行なわれた状況をみせている。
この様子は、国ごとに仕分けしたデータにはっきり表われるので、これを提示しよう。
表 7-22 国別、郡別、水田面積と稲の生産高ランキング(平安時代中期)
全国の国別、稲束数(租納税高)ベスト 15
国
名
地 方
道区分
国 等級
稲束数
水田面積
生産効率
偏差値
順位
1
常
陸
関 東
東 海
大 国
1,846,000
40,092
46.04
44.0
47
2
陸
奥
東 北
東 山
大 国
1,582,700
51,440
30.76
36.0
60
3
肥
後
九 州
西 海
大 国
1,579,100
23,500
67.19
55.1
24
4
播
磨
近 畿
山 陽
大 国
1,221,000
21,414
57.01
49.8
30
5
近
江
近 畿
東 山
大 国
1,207,400
33,402
36.14
38.8
56
6
武
蔵
関 東
東 海
大 国
1,113,800
35,574
31.30
36.3
58
7
上
総
関 東
東 海
大 国
1,071,000
22,846
46.87
44.4
45
8
越
前
中 部
北 陸
大 国
1,028,000
12,066
85.19
64.6
5
9
下
総
関 東
東 海
大 国
1,027,000
26,432
38.85
40.2
52
10
出
羽
東 北
東 山
上 国
973,400
26,109
37.28
39.4
55
11
備
前
中 国
山 陽
上 国
956,600
13,185
72.55
57.9
18
12
信
濃
中 部
東 山
上 国
895,000
30,908
28.95
35.0
61
13
上
野
関 東
東 山
大 国
886,900
30,937
28.66
34.9
63
14
讃
岐
四 国
南 海
上 国
884,500
18,647
47.43
44.7
42
15
美
濃
中 部
東 山
上 国
880,000
14,823
59.36
51.0
29
641,990
12,982
49.45
一国平均
99
国別、保有水田面積ベスト 10
国 名
道区分
郡 数
一郡あたりの水田面積ベスト 10
水田面積
国 名
道区分
郡 数
水田面積
1
陸
奥
東 山
35
51,440
1
越 中
北 陸
4
4,477
2
常
陸
東 海
11
40,092
2
常 陸
東 海
11
3,645
3
武
蔵
東 海
21
35,574
3
加 賀
北 陸
4
3,442
4
近
江
東 山
12
33,402
4
下 野
東 山
9
3,351
5
上
野
東 山
14
30,937
5
信 濃
東 山
10
3,091
6
信
濃
東 山
10
30,908
6
甲
斐
東 海
4
3,062
7
下
野
東 山
9
30,155
7
近
江
東 山
12
2,784
8
下
総
東 海
11
26,432
8
下
総
東 海
11
2,403
9
出
羽
東 山
11
26,192
9
出
羽
東 山
11
2,381
10
肥
後
西 海
14
23,500
10
上
野
東 山
14
2,210
全国平均
12,982
全国平均
1,494
㊟ 国の等級は『延喜式 巻 22 民部上』の区分による。大国:13.上国:35.中国:11.下
国:9 と記録された。稲束数(正税+公廨+雑稲)は『延喜式 巻 26 主税上』記載の
数値を集計し、偏差値の計算では、
「稲束数/水田面積」が異常に高い値を示す
「隱岐国:119.65。壹岐嶋:145.16」と、低い値の「對馬嶋:9.15」、稲束数の記
録がない 「志摩国」を除外し、順位は 64 国(←66 国 2 島)を基本においた。
く がい
公廨は官衙(国府、郡家など)の運営や役人の俸給にあてた税を意味する。
三者の上位にランクされた国々が、東北・関東・中部の東日本に片寄るのは新田開発の
成果であり、他の東日本の諸国も開発の余地があったと推理できる。
「国別、保有水田面積
ベスト 10」の肥後国、
「一郡あたりの水田面積ベスト 10」の越中・加賀国(旧越国)の他は、
東山道と東海道の国々が上位を占め、両道諸国が、おおよそ天智政権の領域と考えられる
のも興味ぶかい。国別生産高の上位にランクされた国の中で、偏差値 50(平均値)を上回
るのは「越前:64.6。備前:57.9。肥後:55.1。美濃:51.0」の四国だけで、他の国々は
新規開拓した土地条件と、気象条件のよくない水田耕地を抱えていた様子を想定できる。
この三種類の分類で、いずれも全国第一位・二位にランクされる大国中の大国であった
「常陸国」が、律令時代に巨大な潜在力をもっていた様子がうかがわれる。国郡域の設定
が甘すぎたと捉えられないこともないが、これは奈良~平安時代前期に、霞ヶ浦南部周辺
の新田開発が積極的に行なわれた成果といえよう。
さらに律令時代を牛耳った藤原氏と常陸国の密接な関係を見逃せない。『常陸国風土記』
の最終編纂者が、当時常陸国司だった藤原宇合と推定されているように、藤原氏と常陸国
の関係は深く、その氏神である春日大社(奈良市春日野町)に祀られた神に表現されている。
100
春日大社には、中臣・藤原氏の祖神である「天兒屋根命:Ame no Koyane」「比賣神」と
「経津主命。Futunusi:香取神宮の祭神:
共に、
「武甕槌命。Take Mikatuti:鹿嶋神宮の祭神」
下総国香取郡」が祀られている。
『記・紀』の高天原、出雲神話、天孫降臨神話、神武東征
伝説など、重要な場面に必ず登場する「武甕槌命、経津主命」は天っ神であり、なぜ遠隔
の鹿嶋、香取に祀られていたかは興味をよぶ。
神護景雲 2(768)年、武甕槌命が鹿嶋から大和へ出立した様子を「鹿嶋立ち」と表現し
たように、常陸・下総国から二神を招聘したのも、律令政府が新田開発に力を入れていた
と同時に、東北経営の拠点として常陸・下総国を、いかに重視していたかが浮かびあがる。
現代の鹿嶋、香取はそれぞれ北浦、利根川に面しているが、律令時代は共に行方海(霞ヶ浦)
に面していて、鹿嶋から太平洋へぬける水路(いまの掘割川)が利用されていた様子を想像
できる。
この状況を想定すると、安是湖(→利根川)河口の海上(Unakami. 千葉県銚子市垣根町:
下総国海上郡)に出る必要もなく、香取、鹿嶋を出港して鹿島灘に出て、大洗または那珂湊
から久慈、多珂をへて、曰理、宮城へつづく充分に整備した郡衙の港を経由し、多賀城・
牡鹿へ至る海上航路が存在していた。次項、東山道の陸奥国において、久慈・多珂に続く
「菊多、磐城、標葉、行方、宇多、曰理、名取、宮城」郡の起源地名が、浜通りの湊とし
て 20~30km 間隔に連なる様子をお目にかけたい。
図 7-5
奈良時代の常陸国
日本古典文学大系
『風土記』 1953 岩波書店
常磐の浜通りには鹿嶋神社が連なり、
『延喜式』
神名帳にのる名神大社の中で、伊勢の大神宮(三
重県伊勢市宇治館町)、八幡系の筥崎神宮(福岡市
東区箱崎)や、宇佐神宮(大分県宇佐市南宇佐)と
共に、「鹿嶋神宮、香取神宮」と別格の名で記さ
れたところも重要である。鹿嶋、香取を信仰面で
捉えるだけでなく、両者の立地した地勢条件を考
慮する必要が感じられる。
鹿嶋は、常陸国府を置いた茨城(石岡市)と共
に、奈良時代の製鉄遺構があるのも大切で、常磐
炭田の存在や、常陸国南部は縄文時代後期以降の
製塩遺跡が数多くあったことも忘れられない。
これほどの大国が二国に分割されなかったのは、藤原氏の威光によったのだろうが、国
力の拡大を飛鳥時代中期から奈良時代と考えれば、すでに古墳時代後期に分割されていた
「総、毛野」国とは、違った角度から検討する必要があるとおもう。
なお常陸国府は石岡市惣社、国分寺は石岡市府中、一ノ宮は鹿島神宮:鹿嶋市宮中だが、
常陸国茨城郡茨城郷の石岡市に「国府、府中、総社」の地名が揃っているのが珍しい。
常陸の推定起源地名:茨城県石岡市総社。
101
東海道諸国のまとめとして、各国の稲束の納税高と水田面積(平安時代中期)、そして稲
束数を水田面積で割った稲作生産効率の全国 64 国の「偏差値」と、その順位をつけた表を
提示しておきたい。
もう一度、出典を明示すると、水田面積は『和名抄 巻 5 国郡部』にのる各国水田面積を
使用した。ただし『和名抄』の欠陥である数次にわたる転写の際の誤記が認められるので、
一部を修正した。
「阿波国(南海道):3,414 町。豊後国(西海道):7,500 町」の水田面積で
計算すると、周辺国から極端に高い生産効率の値が出現するため、周りの国にあわせて一
万町を加えた「阿波国:13,414 町。豊後国:17,500 町」とした。また「日向、大隅、薩摩」
国の水田面積が 4,800 町と同じ値で記され、古くから問題視されてきた。ここでは、大隅・
薩摩国の『延喜式』稲束数が同一なので、日向国の生産効率を同程度として、日向の水田
面積を「7,400 町」に改めた。この程度の補正は大勢に影響を与えないところが大切である。
稲束数(正税+公廨+雑稲)は『延喜式 巻 26 主税上』記載の数値を使い、偏差値の計算
は「稲束数/水田面積」が異常に高い値をみせる「隱岐国:119.65。壹岐嶋:145.16」と、
低い値の「對馬嶋:9.15」
、稲束数の記載がない「志摩国」を除外し、順位は 64 国(←66
国 2 島)を基本においた。
表 7-23 東海道諸国の稲束数と水田面積(平安時代中期)
国
名
国 の
稲束数
水田面積
郡数
等級
一郡水田
郷数
面積
一郷水
偏差値
田面積
全国の順
位
伊
豆
下国
179,000
2,110
3
703
21
100
64.4
6
安
房
中国
342,000
4,335
4
1,084
32
135
61.3
10
伊
賀
下国
317,000
4,051
4
1,013
18
225
60.9
13
相
模
上国
868,100
11,236
8
1,405
67
168
60.4
14
駿
河
上国
642,500
9,063
7
1,295
59
154
57.1
19
參
河
上国
477,000
6,820
8
853
70
97
56.6
20
尾
張
上国
472,000
6,820
8
853
69
99
56.2
22
遠
江
上国
772,300
13,611
13
1,047
96
142
49.6
30
甲
斐
上国
584,800
12,249
4
3,062
31
395
44.9
39
上
総
大国
1,071,000
22,846
11
2,077
76
301
44.4
45
常
陸
大国
1,846,000
40,092
11
3,645
153
262
44.0
47
伊
勢
大国
726,000
18,130
13
1,395
94
193
40.8
51
下
総
大国
1,027,000
26,432
11
2,403
91
290
40.2
52
武
蔵
大国
1,113,800
35,574
21
1,694
119
299
36.3
58
東海道
10,438,500
213,493 128 1,668 1,010 211
102
表 7-24 稲作生産効率 畿内七道分類
道区分
稲束数
水田面積
生産効率
偏差値
山陰道
4,357,700
53,956
80.76
68.5
山陽道
5,862,600
84,942
69.01
60.4
北陸道
4,186,400
73,980
56.58
51.9
南海道
3,327,300
61,861
53.78
50.0
西海道
5,990,500 117,448
51.01
48.0
東海道
10,438,500 213,493
48.89
46.6
55,298
37.74
38.9
7,405,400 224,389
33.00
35.7
43,655,600 885,367
49.30
畿
内
東山道
合
計
2,087,200
東海道の本論はここで終えるが、本章の最後に「中部地方、関東地方」の郡名起源地の
分布図と生産高、生産効率を上げて、総論を記したい。
103
② 東山道
旧国名
とうさん
東山道
近江 美濃 飛騨
現行の都府県名
信濃 上野
滋賀
下野 陸奥 出羽
岐阜 長野 群馬
栃木 福島 宮城 岩手
山形 秋田
東山道とは、いまの中山道が通る「滋賀、
岐阜、長野」県と関東の「群馬、栃木」県、
東北地方の「福島、宮城、岩手、山形、秋田」
県を指した律令時代の地域区分であった。本
サイトでは『延喜式』
『和名抄』に載った国郡
を扱うので、平安時代中期(おおよそ 930 年
頃)に編纂した両書は青森県を含まず、岩手
県南部と秋田県中部までの範囲であった。
ここに近畿地方の近江国(今の滋賀県)が入
るのは意外だが、東海道と東山道(中山道)
の分岐点が近江国栗太郡、現在の滋賀県草津
市追分町付近に想定されるように、近江国は
畿内(山城、攝津、河内、大和、和泉)に入
らず、東山道に属していた。
東山道諸国は中部・関東の山間地帯と東北地方を主体にしたため、当時の稲作生産効率
が全国最低位だった。しかし 1,100 年を隔てた今日、東北地方が、北陸の新潟県魚沼郡・
蒲原郡に次ぐブランド米生産地になっているのは、地域の方々の研鑽と努力のたまもので
あろう。
104
(1)
近江国(知加豆阿不三)
遠つ淡海国(遠江国)と対比して、近つ淡海国を「好字二字化令」により、変形させて
生まれたのが「近江国」であり、淡海が琵琶湖を表わしたのは明らかである。
自然地名の「山、峠、岬,島」名の命名法には微妙な差があって、
「川名」全てが流域の
小地名を採った史実が大切である。この定理は、畿内の「山城国,大和国」の国名探索に
利用するが、湖名も川名と同じように湖岸の地名を使うルールを定めていたようにみえる。
前章にあげたわが国の代表的な湖名と、その起源地名を再掲すると、次のようになる。
十和田湖
青森県十和田市十和田町十和田
田沢湖
秋田県仙北市田沢湖田沢
猪苗代湖
福島県耶麻郡猪苗代町猪苗代
霞ヶ浦
茨城県県潮来市牛堀(常陸国行方郡香澄郷:常陸国の図 7-4 参照)
印旛沼
千葉県印旛郡酒々井町上岩橋(下総国印播郡印幡郷)
芦ノ湖
神奈川県足柄下郡箱根町芦之湯
山中湖
山梨県南都留郡山中湖村山中
河口湖
山梨県南都留郡富士河口湖町河口
諏訪湖
長野県諏訪市諏訪
浜名湖
静岡県湖西市新居町浜名
宍道湖
島根県松江市宍道町宍道
琵琶湖
(滋賀県大津市比叡辻?)
わが国の代表的な湖に起源地名があるのに対して、琵琶湖にそれがないのは、この名が
中世以後に使われた歴史を考慮すると、湖の形が「琵琶」に似ているから付けた、という
通説を裏付けているかもしれない。比叡山に登っても、琵琶の形を連想できなかった私の
感覚では、比叡山・日吉神社の「ひへ」が「ひは、びわ」の系列語であることから、地図
を利用するようになった後に湖の形が認識されて、琵琶湖が定着したと考えたい。
これ以前の琵琶湖は「鳰ノ海」とも呼ばれたようで、水鳥の名と考えられている「Nifo.
Niwo」は仁保、仁尾とも当てられて湿地・浜辺に付けられており、「大津市におの浜」付近
(近江国野洲郡邇保郷を起源地名と考える説もある)
が起源地名であったかもしれない。
前章『富士の語源』や「遠江国」で述べたように、「淡海」が淡水湖を表わしたとは考え
(粟津の)晴嵐」が、淡海の起源地名と考えられるだろう。
にくく、やはり大津市「粟津町、
大津市晴嵐の北東、約 500m沖の湖底に、縄文時代前期~中期の「粟津湖底遺跡」がある。
我が国で唯一といえる約 5,000 年前の淡水貝塚は、
当時の生活様式を復元しただけでなく、
琵琶湖が連続沈降運動を続けている事実を、一般に認識させた功績は大きい。
105
瀬田川の起源地名である「滋賀県大津市瀬田」と「大津市粟津町」付近は、琵琶湖から
瀬田川(宇治川→淀川)が流れ出している。瀬田の東に隣接する草津(栗太郡)が東海道と
東山道を分岐する交通路の要衝にあったため、古くは壬申の乱、木曾義仲の敗死、承久の
変などにより、瀬田の唐橋は、何度も焼けおちて修復された。
瀬田付近には近江国府(第一次:大津市大江。第二次:大津市瀬田)と近江国一ノ宮の建部
神社(大津市神領)が置かれ、対岸の粟津付近に国分寺(大津市国分)と石山寺(大津市石
山寺)を配した近江国の水陸交通の要が、
「瀬田、粟津」にあった。
この重要度から、瀬田(栗太郡)を川名に、粟津(滋賀郡)を「あはのうみ、あはうみ→
あふみ」の湖名に別けて使ったと考えてみたい。
近江国
し
か
く
る
滋賀郡(志賀)
も
滋賀県大津市滋賀里
と
滋賀郡家、滋賀村
栗太郡(久留毛止)
滋賀県栗太郡栗東町綣
甲賀郡(かふか)
滋賀県甲賀郡甲賀町大原市場
甲賀驛
野洲郡(やす)
滋賀県野洲郡野洲町野洲
安国造、野洲村、野洲川
滋賀県蒲生郡安土町内野字蒲生野
東生郷(東蒲生郷)、蒲生荘
滋賀県彦根市甲崎町
神埼郷
滋賀県愛知郡愛知川町愛知川
愛智荘、愛知川村、愛知川
滋賀県彦根市犬方町
犬上荘、犬上川
滋賀県坂田郡近江町宇賀野
下坂郷、坂田荘、坂田村
滋賀県東浅井郡湖北町郡上
淺井郡家、淺井荘
滋賀県伊香郡木之本町大音
式内伊香具神社、伊香郷、伊香荘
滋賀県高島郡高島町高島、勝野
高島郷、高島村、高島小学校
か
ま
ふ
か
む
さ
え
ち
い
ぬ
か
さ
か
た
あ
さ
ゐ
い
か
こ
た
か
し
蒲生郡(加萬不)
き
神埼郡(加無佐岐)
愛智郡(衣知)
み
犬上郡(伊奴加三)
坂田郡(佐加太)
淺井郡(阿佐井)
伊香郡(伊加古)
ま
高嶋郡(太加之萬)
近江国の郡名起源地は、平野が広い琵琶湖東岸の湖東地方へ偏り、
南部の滋賀郡と中西部の高嶋郡(2005 年元旦に全域を高島市に統合)
の起源地名だけが湖西にある。湖東の 9 郡は南から「栗太、野洲、
蒲生、神埼、愛智、犬上、坂田、淺井、伊香」と、起源地名がおお
よそ等間隔にならび、近畿地方随一の穀倉地帯を造っている。
南に離れた 1 郡は鈴鹿峠を越えてきた東海道の宿場町、甲賀の里
である。甲賀の読みは、濁らない「かふか→こうか」で、天武紀に
載る壬申の乱の記述では「鹿深」を当てている。
近江の国造は、淡海国造、安国造、額田国造が記され、それぞれ大津市粟津、野洲郡野
洲町野洲(2004 年 10 月から野洲市へ昇格)に比定される。しかし額田国造は不明で、近江国
か美濃国の一部を統括したと想像されている。近江の場合は坂田郡、いまの米原市付近、
美濃の場合は、美濃国池田郡額田郷の近くと考えられているが、はっきりしない。
106
平安時代の「近江国」が、近畿地方のトップに立つ「33,402 町歩。2 位は 21,414 町歩の
播磨国」の耕地面積を持ったのは、当時の気象状況と、この国の地形条件から当然だった。
第四章『地名考古学』で検証したように、古墳~飛鳥時代と奈良~平安時代では、後者の
大気温度が高く、平安時代後期に気温が急降下して農業生産力を落とし、律令制を崩壊さ
せて武家の世に換わる主因になった。古墳時代から現代までの 1,400 年で、平安時代中期
が最高温の時代で、中世温暖期と呼ばれる。最低温の時代は江戸時代初期であり、戦国時
代から混迷を続けた後、庶民の「元禄文化」を気づきあげた底力は、もっと注目されて良
いだろう。近江国の中央に琵琶湖があり、奈良~平安時代中期の長期にわたる気温上昇期
に湖の周辺が干上がり、耕地面積の拡大ができた。これは一郡あたりの水田面積全国二位
の常陸国の「霞ヶ浦、北浦」周辺、日本海沿岸の潟湖群が干上がって第一位、三位になっ
た「越中、加賀」国のデータに示されている。
加賀国は弘仁 14(823)年に、越前国より立国した律令時代最後に設立された国である。
旧越前国加賀郡・江沼郡を分離し、加賀郡から石川郡、江沼郡より能美郡を分割した
4 郡で
誕生した。立国時の一国あたりの水田面積は約「10,000」町歩だったはずだが、100 年後の
『和名抄』の時代に、加賀国の水田面積は「13,766 町。1 郡あたりは 3,442 町」に拡大し
ていた。これは新田開発の成果で、当時の加賀国の気象・地勢条件を正確に反映している。
この様子を見ても、
『和名抄』掲載の水田面積は、信頼できる記録といえる。常陸国にあげ
た「国別、保有水田面積ベスト 10、一郡あたりの水田面積ベスト 10」の表を再掲したい。
国別保有水田面積が全国 4 位、一郡あたりの水田面積は 7 位の「近江国」も注目される。
国別、保有水田面積ベスト 10
国 名
道区分
郡 数
一郡あたりの水田面積ベスト 10
水田面積
国 名
道区分
郡 数
水田面積
1
陸
奥
東 山
35
51,440
1
越 中
北 陸
4
4,477
2
常
陸
東 海
11
40,092
2
常 陸
東 海
11
3,645
3
武
蔵
東 海
21
35,574
3
加 賀
北 陸
4
3,442
4
近
江
東 山
12
33,402
4
下 野
東 山
9
3,351
5
上
野
東 山
14
30,937
5
信 濃
東 山
10
3,091
6
信
濃
東 山
10
30,908
6
甲
斐
東 海
4
3,062
7
下
野
東 山
9
30,155
7
近
江
東 山
12
2,784
8
下
総
東 海
11
26,432
8
下
総
東 海
11
2,403
9
出
羽
東 山
11
26,192
9
出
羽
東 山
11
2,381
10
肥
後
西 海
14
23,500
10
上
野
東 山
14
2,210
全国平均
12,982
全国平均
107
1,494
き し つ ふく しん
斎明天皇 7(661)年 1 月、百済滅亡の危機に際して、百済の佐平鬼室福信と、人質とし
よ ほうしょう
なかのおほえの
おほあまの
て我が国にいた百済の王子、余豊 璋 の要請を受けて、中大兄 皇子と大海人皇子、斎明天皇
な
が道後温泉を経て、娜の大津(福岡県福岡市博多区那珂)、朝倉宮(福岡県朝倉郡朝倉町山田)
に遠征した。しかし道後温泉から娜の大津への移動に三ヶ月を要し、筑紫に四ヶ月滞在し
た 7 月 24 日、斎明天皇は朝倉宮で崩御された。
そのため、8 月に現地で葬儀を行なった後、8 月から 9 月に阿部比羅夫が率いる 170 艘の
船団と、王子余豊璋を送り届ける近衛兵 5,000 人を百済に派遣して、661 年 10 月末に中大
兄皇子は難波へ帰った。663 年の「白村江の戦い」で大敗北を喫した後も、皇太子のまま、
667 年 2 月、飛鳥から「近江京」へ遷都した。翌年に天智天皇として即位したが、近江京は
672 年の「壬申の乱」で灰塵に帰し、5 年余りで廃都になった。
近江国滋賀郡に造られた近江京は、昭和 54(1979)年に「近江大津宮錦織遺跡:大津市
錦織」として国の史跡に指定された。この錦織遺跡に隣接した、大津市神宮町に「近江神宮」
があり、神武天皇の即位を起源とした皇紀 2600 年にあたる、昭和 15(1940)年 11 月に、
天智天皇を祭神として創祀された。
いまの「近江神宮」では、小倉百人一首の第一首を詠んだ天智天皇に因んで、競技かる
た大会のチャンピオンを決める名人位、クイーン位決定戦が毎年 1 月に行なわれている。
天智天皇と、その皇女、持統天皇が詠まれた有名な和歌をあげよう。
いほ
とま
ころもて
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
『小倉百人一首』
1.天智天皇
しろたへ
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
2.持統天皇
持統天皇の御歌は『万葉集 巻一 28』にも掲載されるが、細部の表現が違っている。
春すぎて 夏來たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山
この原因は判らないが、本章と次章『日本の国はいつできた?』という主題に関係する
天智・持統天皇の御歌が、百万人以上の愛好家がいるという記憶力、瞬発力の勝負をする
『小倉百人一首』かるた取り、最初に暗記されるところは、興味をひきつける。
近江国府は、奈良時代は大津市大江(栗太郡)、平安時代は大津市瀬田(栗太郡)。国分寺
は大津市国分(滋賀郡)、一ノ宮は建部神社;大津市神領(栗太郡)である。
近江の推定起源地名:滋賀県大津市粟津町(栗太郡)。
近江国の主要地名は、琵琶湖から流れ出す瀬田川周辺にまとまっているのが特徴である。
108
(2)
美濃国(美濃)
「美濃国」では、律令時代直前の「壬申の乱:672 年」が重要である。天智帝が崩御され
た後、いったん後継を辞退して吉野に隠遁した大海人皇子と、大友皇子との争いが関ヶ原
から鈴鹿山脈、瀬田、大和で行なわれ、大海人皇子側が大勝して、現代に続く『日本国』
を創設する『天武天皇』の政権へ移行した。
この戦いで、大海人皇子側は、関ヶ原から鈴鹿山脈の東側だけを封鎖し、西側に何もし
なかったところは注目すべきである。これは大友皇子側に西国が協力しないことを事前に
察知していた様子を示し、現実に大友皇子は「吉備、筑紫」に協力を要請したが、拒絶さ
れたことが『日本書紀』に記されている。この記述をみても、当時の近江政権の統率範囲
は東国だけで全国ではなかった様子がわかる。大海人皇子を支持し、勝利に貢献したのは、
あ は ち ま
美濃国安八磨郡の湯沐令(ゆのうながし)をはじめ、新羅系渡来人が多かったようである。
「好字二字化令」で磨抜けにされ、読み方も変わった安八(あんぱち)郡安八郷は、古くか
ら研究されてきたにも関わらず、どこであったかが判らない。
後に天下分け目の戦いが行なわれた「関ヶ原」は、古代の三関、「不破の関」「鈴鹿の関」
あ らち
「愛発の関」の一つとして知られた。美濃国不破郡・伊勢国鈴鹿郡は、いまも郡名に使わ
れているが、愛発は位置が定まらず、福井県敦賀市の滋賀県側のどこかと推定されている。
み
べ
「美濃」の国名発祥地は、糸貫川の川岸(水の辺)にある濃尾平野北部の「美濃国本巣郡
美濃郷:岐阜県本巣郡糸貫町見延→岐阜県本巣市見延」に比定されていて、美濃国造の拠
点であったという。ただ、かなり平凡な地で、なぜこの名が国造名・国名に採用されたか
の理由は判りにくい。この辺は、東日本の郡名探索だけでは解けないので、次章、西日本
地方の起源探索の概略を述べる「畿内」の項で、原因が地質にあったことを提起したい。
実際の国造は三野前・三野後国造となって、本巣国造(→本巣郡:岐阜県本巣郡本巣町
文殊)
、牟義都国造(→武儀郡:武儀郡武芸川町八幡)と共にこの地域を治めたといわれる。
美濃の起源地の本巣郡糸貫町と、本巣郡本巣町が隣町の関係にあるので、三野前・三野後
という広域を治めた国造の起源が忘れ去られた後、同じ地域に本巣国造を新設した様子を
(両町は、2004 年 2 月 1 日に本巣市へ統合)
語るのであろう。
現代に継承された見延の地名を見ると、「伊豆三、甲斐奈」と同様、一文字を抜いた疑惑
も浮かぶが、つまらない詮索は控えた方が良いだろう。
美濃国
惠奈郡(ゑな)
岐阜県中津川市中津川字川上
式内惠奈神社、繪上郷、恵那山
土岐郡(とき)
岐阜県瑞浪市土岐町
土岐郷、土岐村、土岐小学校
可兒郡(かに)
岐阜県可児郡御嵩町中
可兒郷、可児川
賀茂郡(かも)
岐阜県美濃加茂市蜂屋町
鴨縣主、加茂神社、加茂川
岐阜県各務原市各務おがせ町
各務郷、各務村、各務小学校
か
か
み
各務郡(加々美)
109
郡上郡(くしほ)
む
け
や
ま
か
た
か
た
か
た
む
し
ろ
た
あ
つ
み
も
と
す
武義郡(牟介)
山縣郡(夜末加太)
方縣郡(加多加多)
席田郡(無之呂多)
厚見郡(阿都美)
本巣郡(毛止須)
岐阜県郡上郡八幡町島谷
郡上郷
岐阜県武儀郡武芸川町八幡
牟義都国造、武藝荘、武儀川
岐阜県岐阜市山県岩
岐阜県岐阜市八代
ぼ
の
い
け
た
た
き
ふ
は
い
し
大野郡(於保乃)
池田郡(伊介太)
多藝郡(多岐)
不破郡(不破)
つ
石津郡(伊之津)
片縣主、方縣郷、式内方縣神社
岐阜県本巣郡糸貫町郡府
霊亀元(715)年設置
岐阜県岐阜市加納?
厚見郷
岐阜県本巣郡本巣町文殊
本巣国造
安八郡(あはちま) 岐阜県安八郡神戸町神戸?
お
齋衡 2(855)年設置
安八郷
岐阜県揖斐郡大野町大野
大野驛
岐阜県揖斐郡池田町本郷
池田郷
岐阜県養老郡養老町三神町
式内多岐神社、多藝荘、多藝村
岐阜県不破郡関ヶ原町松尾
不破の関
岐阜県海津郡南濃町吉田
石津村
承和 4(837)年設置
齋衡 2(855)年設置
左図は現代の岐阜県の地図を利用したので、旧飛騨国と
美濃国を一緒に記入している。飛騨三郡は、北から荒城郡
(岐阜県吉城郡国府町宮地)、大野郡(高山市岡本町?)、益
田郡(益田郡下呂町下呂)で、これより下の青丸が美濃国郡
名の推定起源地である。
濃尾(美濃+尾張)平野へほぼ等間隔にならぶ郡名起源地
は、国境を感じさせない密集した分布を採っている。濃尾
平野の郡名起源地周辺には、東西南北を正確に出した律令
時代の条里が認められるのが特徴である。
美濃の郡名推定起源地の分布は、長野県境の東から並ぶ五つの点が「恵那、土岐、可児、
賀茂、各務」郡で、真中の川の合流点に位置するのが「郡上」郡、その下が牟義都国造の
「武儀」郡である。そこから西南に三つ並ぶ点が「山縣、方縣、蓆田」郡で、尾張国へ続
くのが「厚見」郡である。蓆田郡の上の山際の扇状地に位置するのが本巣国造の「本巣」
郡で、蓆田~本巣の間に「美濃」国の起源地名、本巣郡本巣町見延がある。
本巣の左隣に「大野、安八」郡、その隣が「池田」郡、滋賀県との県境付近に「不破」
郡、その斜め右に「養老の滝→多藝」郡、左下の三県境にあるのが「石津」郡である。
土地勘のない地域で、地図から郡の相関関係を読み取るのはかなり難しいが、本サイト
に載せた分布図は概略であり、全国の郡名起源地を推定して、ほとんど知られていない律
令時代の地理を再現することを基本においている。各地の詳細は、地元の方々の精密な御
研究に委ねたい。というのが本音である。
110
ここまで検証したように、
「三野前・三野後、本巣、牟義都」国造など、どの国にも国造
(くにのみやつこ)があった。しかし賀茂郡に継承された「鴨縣主」
、方縣郡の「片縣主」
に引き継がれた縣主(あがたぬし)は尾張国(丹生縣主、年魚市縣主)と美濃国が東限で、
これより東の中部・関東・東北地方には記録がない。畿内以西の西日本各国に痕跡を留め
る縣主は、国造より古い地方官といわれるのだが、実態は不明である。ヤマト政権と関係
を持ったとすれば、5 世紀以前の歴史を残しているのだろうか?
美濃国府は岐阜県不破郡垂井町府中、国分寺は大垣市青野町(もと不破郡)、一ノ宮神社
は南宮大社:不破郡垂井町宮代であり、律令時代に東・西の境界であった「不破の関」が
いかに重要であったかを語っている。
美濃の推定起源地名:岐阜県本巣郡糸貫町見延。2004 年 2 月 1 日から本巣市見延に変更。
111
(3)
飛騨国(比太)
美濃国と飛騨国は、いまは「岐阜県」であるが、飛騨国は明治 4 年の『廃藩置県』後に
松本を中心とした筑摩(つかま)県に入り、明治 9 年、筑摩県が長野県へ統合された際に
岐阜県へ移管された。この関係は昭和時代まで続いて、岡谷・諏訪など製糸業、精密機械
工業の労働力として、飛騨から働きに出た工女の力が大きかったことは、
『ああ、野麦峠』
(山本茂実 角川文庫)などに記録されている。
飛騨国は、山間地が主体で耕地面積が小さく、生産効率も低いために、伊豆国の三倍の
耕地面積(6,600 町歩)を持ちながら、稻束生産高は約半分の 10 万束という、全国最低の
生産力しかなかった。そのため律令政府は、この国だけ庸・調を免除し、代わりに一郷か
ら 10 人の木工職人を都に集め、年ごとに入れ替える特例を創った。飛騨国は「荒城、大野、
益田」の三郡 13 郷から成り立っていて、人口はおおよそ 18,000 人で、そのうち 100 人の
「飛騨の匠」が年ごとに上京して技能を競い合った。
匠の技能の血を受け継いだ、明治時代の「飛騨の女工」が高品質の絹糸を紡いで、わが
国の貿易立国への基盤を創った功績は、忘れてならないと思う。
中部山岳地帯の盆地、小平地に分散する東山道の郡名起源地は、一部の例外、すなわち
美濃国賀茂郡・惠奈郡、信濃国水内郡・安曇郡、甲斐国八代郡を除くと、すべての起源地
名がJRの路線近くに位置する。とくに飛騨国三郡の発祥地は、飛騨の重要な交通路であ
る飛騨川(推定起源地:旧美濃国の岐阜県加茂郡七宗町の飛水峡から命名? 昭和 39 年に行な
った『河川法改正』以前は旧美濃国の名。飛騨国内中流の名は益田川、上流は阿多野川)と、
宮川(大野郡宮村宮川)のラインに並んでいる。飛騨国を貫通する鉄道がこの川筋を走る
高山本線ただ一つであるのも、歴史と地形、交通路が密接な関係をもつ史実を物語る。
飛騨国
あ
ら
き
お
ほ
の
ま
し
た
荒城郡(阿良木)
大野郡(於保乃)
益田郡(萬之多)
㊟
岐阜県吉城郡国府町宮地
式内荒城神社、荒城郷、荒城川
岐阜県高山市岡本町?
斐陀国造、大野郷
岐阜県益田郡下呂町湯之島
益田郷、益田川 貞観 12(870)年設置
荒城郡は、室町時代に「荒→吉」の嘉名に替えて、吉城郡と改名した。
「飛騨国、斐陀国造」の起源はまったく手掛りがなく、飛騨の「ひたひた、ぴたぴた」
という、水に接する擬音語から、川に面した地、高山市の宮川流域のどこかと考えたい。
『和名抄』
飛騨国府は吉城郡国府町(2005 年 2 月に高山市へ編入)と考えるのが普通だが、
に「国府在大野郡」と記されているので、高山市岡本町付近を国府とする説がある。
(藤岡謙二郎編 大明堂 1975)にのるもので、本サイト
この説は『古代日本の交通路Ⅱ』
(吉川弘文館 1975)を参照させて
はこのシリーズⅠ~Ⅳと、
『日本歴史地理総説 古代編』
頂いている。
112
国分寺は高山市総和町、一ノ宮は水無神社:大野郡宮村である。国分寺は天平 13(741)
年に、国家鎮護のため、聖武天皇が各国に建立させた寺院であり、国府に近接した地に建
てた例が多い。これまであげた東海道・東山道の第一次国府と国分寺所在地を対照すると、
(㊟ 住居表示は平成 28 年の名を使った)
両者の関係がわかる。
国府所在地
国分寺所在地
伊 賀
三重県伊賀市坂之下国町
伊賀市西明寺
伊 勢
三重県鈴鹿市広瀬
鈴鹿市国分西高木
志 摩
三重県志摩市阿児町国府
志摩市阿児町国府
尾 張
愛知県稲沢市国府宮
稲沢市矢合町
參 河
愛知県豊川市白鳥町
豊川市八幡町
遠 江
静岡県磐田市見付
磐田市中泉
駿 河
静岡県静岡市葵区長谷町
静岡市駿河区大谷
伊 豆
静岡県三島市大宮町
三島市泉町
甲 斐
山梨県笛吹市春日居町国府
笛吹市一宮町国分
相 模
神奈川県海老名市国分
海老名市国分
武 蔵
東京都府中市宮町
国分寺市西元町
安 房
千葉県南房総市府中
館山市国分
上 総
千葉県市原市能満
市原市惣社
下 総
千葉県市川市国府台
市川市国分
常 陸
茨城県石岡市惣社
石岡市府中
近 江
滋賀県大津市大江
大津市国分
美 濃
岐阜県不破郡垂井町府中
大垣市青野町
飛 騨
(岐阜県高山市岡本町)
高山市総和町
信 濃
長野県上田市常田
上田市常入
上 野
群馬県前橋市元総社町
前橋市元総社町
下 野
栃木県栃木市田村町
下野市国分寺
こうして併記すると、国分寺が国府に近接して建立された様子がわかる。国府にはおお
よそ条理の遺構が残される特徴がある。
飛騨国では、国府を移動した記録は残っていないが、高山市総和町・岡本町から 10 ㎞以
『和名抄』に
上も離れた旧吉城郡国府町には、やはり国府の移動を考えて良さそうである。
国府在大野郡と記されたので、大野郡に属した「高山市岡本町」が平安時代中期の国府と
して浮上し、国府に隣接した飛騨国分寺の存在から、全く手掛かりが掴めない飛騨高山の
「飛騨」とは、付近を指した可能性がわずかながら浮かびあがる。
飛騨の推定起源地名:岐阜県高山市岡本町。
113
(4)
信濃国(之奈乃)
『国造本紀』は、北信濃に「科野国造」
、南信濃に「須羽国造」を記して、それぞれ両国
を統治したという。須羽国造は、諏訪湖畔の長野県諏訪市諏訪が起源地だが、信濃国造の
発祥地探索は難しい。前章『富士の語源』の「信濃川の起源」に述べたように、崇神天皇
たけ い
ほ たけ
と きた
時代の創建を伝える科野国造の健五百健命を祀る「科野大宮社:長野県上田市常田」は、
信濃の起源地とは考えられない。
ときいり
この地には信濃の第一次国府(上田市常入)が置かれ、上田市国分には国分寺もあって、
普通なら国名発祥地に比定されるところである。しかし古代史・考古学の考察から、昭和
29 年に中野市へ統合された「長野県下高井郡科野村」が、今の中野市越付近にあったので、
この周辺を信濃…古名は科野…の起源地と考えるのが常道である。細かい事情は、前章の
「信濃川」に記したが、信濃川は新潟県内の呼び名で、長野県に入ると「千曲川、犀川、
高瀬川、梓川、奈良井川」に名を替えるので、信濃川と信濃国は、無関係との結論が得ら
れる。同じ現象が、飛騨国と飛騨川(かっては美濃国内だけの呼び名)にもみられる。
元正・聖武天皇の政策によって、養老 5(721)年から天平 3(731)年までの 11 年間、
国の北部を「信濃国」
、南部を「諏方国」と二分した様子が『續日本紀』に記録されており、
信濃の起源は北信地方にあった様子を裏づける資料として、貴重な手がかりになっている。
信濃国 北信地方
さ
ら
し
な
み
の
ち
た
か
ゐ
は
に
し
な
ち
ひ
さ
か
更級郡(佐良志奈)
水内郡(美乃知)
高井郡(太賀為)
埴科郡(波爾志奈)
た
小縣郡(知比佐加多)
佐久郡(さく)
長野県埴科郡戸倉町若宮、須坂
式内佐良志奈神社、更級郷、更級村
長野県上水内郡信州新町水内
水内村
長野県上高井郡高山村高井
高井村
長野県更埴市生萱
埴科縣神社、埴科村
長野県小県郡東部町県
縣 村
長野県佐久市長土呂?
佐久郡衙
長野県南安曇郡安曇村島々
安曇村、安曇小学校
長野県松本市筑摩
筑摩神社、筑摩村、束間の湯
諏方郡(須波)
長野県諏訪市諏訪
須羽国造、上諏訪温泉、諏訪湖
伊那郡(いな)
長野県伊那市伊那
伊那村、伊那小学校
南信地方
あ
つ
み
つ
か
ま
す
は
安曇郡(阿都美)
筑摩郡(豆加萬)
「さらしな」と聞くと、郡名より蕎麦を連想してしまうが、この名も 2005 年元旦に更級
郡大岡村が長野市へ吸収されて消滅した。長野県には「みのち、はにしな、ちいさがた、
あずみ」と旅情をさそう郡名があるが、北安曇郡だけが 1 町 3 村をもち、上水内郡が1町
1村、下水内郡は1村、埴科郡も1町、小県郡は1村となり、いつ消えてもおかしくない
状況になった。北アルプス登山や上高地で親しんだ南安曇郡安曇村、梓川村は 2005 年 4 月
114
に松本市へ編入され、同年 10 月には南安曇郡穂高町などが合併して安曇野市が生まれた。
いまは、消えた郡名・村名など、
『平成の大合併』以前の名を懐かしむ人も多いだろう。
信濃国は、郡名起源地が千曲川沿いにある北信地方と、
松本・諏訪を中心におく南信地方へ二分される。古墳時代
の科野国造と須羽国造、奈良時代初期に信濃国南部に小期
間だけ設立された諏方国、平安時代に信濃国府を上田から
松本へ移したように、国の中央に聳える筑摩山地(←筑摩
郡:松本市筑摩)が、交易の大障害になっていた。
明治 9 年に統合された長野県も、合併前は北信の長野県、
南信の筑摩県が並立した。筑摩県は旧飛騨三郡を合わせた県
域をもっていたが、長野県との統合直前に、筑摩県庁の焼
き討ち事件が発生するなど、古代以来の対立が噴出した。
このしこりは後にまで尾をひき、第二次大戦直後に長野県
を分割する論議がおこり、昭和 36(1961)年の長野県庁改
築時でも県庁を松本に移転する問題が発したのは、宿命的な地勢を抱える当県の悩みの種
だった。近年では篠ノ井線の電化、特急の設定による長野~松本間の到達時間の短縮、縦貫
道路の整備などによって、懸案の解消がはかられている。
郡名起源地の分布状況から、信濃国でも長野市(水内郡)が、古代の中心になかった様
相が浮上する。幕末に小藩が林立した信濃では、明治 3 年 9 月、北信地方に中野県を造り、
科野の発祥地である「高井郡中野村」に県庁を置いた。ところが、3 か月後の民衆による大
暴動、「中野騒動」が発して、駆け込み寺としても知られた善光寺が、仲裁を取り持った。
この結果、県庁は善光寺の門前町である水内郡長野村に置かれて、これをそのまま現代に
継承している。
本サイトは,国ごとの歴史を『~県の歴史 1~47』全巻(山川出版社 1969~1974)を
参照して話を進めている。このなかの『20 長野県の歴史』(塚田正朋 1974)は、冒頭の
「風土と人間」で、県歌『信濃の国』と題して、長野県人がつどう会の最後に必ず県歌を
合唱する風習を紹介されている。筆者は「東京都歌」を聞いた経験がなく、
「武蔵の国」と
いう歌があるかどうかすら知らない。
しかし、同書は北信・南信に二分された過酷な地勢条件による歴史風土を、幼少期から
『信濃の国』を愛唱して県民の一体感をつくる、他に類を見ない、明治以来の「長野県人」
の知恵と努力を称賛なされている。
信濃国府は、奈良時代は上田市常田(小県郡)、平安時代に松本市惣社(筑摩郡)へ移さ
れた。信濃国分寺は上田市常入、一ノ宮は諏訪大社:諏訪市中洲宮山(諏方郡)である。
信濃の推定起源地名:長野県中野市越(高井郡)。
115
(5)
上野国(加三豆介乃)
上毛野国造と下毛野国造、那須国造(→那須郡:栃木県那須郡那須町湯本。那須郷、那須岳)
の記録しかない「毛野国」においても、上毛野国(群馬県)と下毛野国(栃木県)で、郡名
起源地の分布状況は様相を替えている。
「毛野国:意味不明」の起源地は「栃木県足利市毛野新町、八椚町(もと足利郡毛野村、
毛野小学校所在地)
」に想定されるので、毛野国の成立はおそらく 4~5 世紀頃と想像されて、
上・下に分割されたのは、ヤマト政権に属した 6 世紀頃であろう。
「けぬ」のようにナ行の
活用をする二音節の動詞は「去ぬ、死ぬ」しかないので、「けぬ(倒置語は、抜け:湿地、
崖端)
」の意味は判らないが、古代語に解けないものがあっても仕方がないと思う。
やはり 6 世紀頃に二分されたと推定されている「総国→上総国、下総国」と共に、分割
後の国名が上下を冠したのは「上総・下総国」「上毛野・下毛野国」だけであることが、同
時期の分割を伝えている。7 世紀末の律令国家誕生時に『日本国』へ組み込んだ「越、吉備、
筑紫、豊、肥」国の分割後は、旧国名を一文字表記にした「越前・越中・越後」
、
「備前・
備中・備後」
、
「筑前・筑後。豊前・豊後。肥前・肥後」に替えた史実が参考になる。
け
な
もし『日本書紀』の記録が信頼できるなら、「継体紀」磐井の乱の記述に近江毛野臣(波
多氏)が現われ、次につづく「安閑紀」の武蔵国造の同族争いに上毛野君小熊が登場して、
み どのみ やけ
少しあとに、上毛野国緑野屯倉(上野国緑野郡:群馬県藤岡市緑埜)が記録されたことから、
い すみ
6 世紀始めに毛野国が分割された様子も窺える。
「安閑紀」には上総国の夷隅国造も登場す
るが、緑野をふくむ屯倉の記述では、この時代に分割されてなかった「吉備国」の一部が
備後国、婀娜国(Ana.吉備穴国造→備後国安那郡:広島県深安郡神辺町湯野。または倉敷市
付近)と記されたが、この記録に信憑性があるかは疑わしい。
を
き
ただ、武蔵国造の地位を狙った笠原小杵(←武蔵国埼玉郡笠原郷:埼玉県鴻巣市笠原)が
上毛野君小熊に協力を求めた記述から、武蔵国北部と上毛野国に密接な関係がうかがわれ、
郡の起源地名の分布状況にも断点がなく、連続した様相から、一つの文化圏を構成してい
たようにみえる。これも古墳の分布状況に表わされて、6 世紀初頭に稲荷山古墳を筆頭に、
忽然と姿を現わす埼玉古墳群(武蔵国埼玉郡埼玉郷:埼玉県行田市埼玉)は、4 世紀から連続
する武蔵国比企郡の古墳群や、上毛野国新田郡の太田古墳群と密接な関係を持つと指摘さ
れている。
み やけ
「継体紀」に記された磐井の乱(527 年)の終戦処理で、筑紫君磐井の子の葛子
屯倉は、
が「糟屋の屯倉:福岡県粕屋郡古賀町鹿部の田淵遺跡」をヤマト政権に献上したのが嚆矢と
される朝廷の直轄領という。関東地方における屯倉の設置は、「安閑紀」に登場する笠原小
杵の事件(534 年)に起因したと記録される。
笠原小杵の事件とは、「武蔵国造の笠原値使主(Kasafara no Atafi Omi)と同族の笠原
小杵(Woki)とが国造の地位をめぐって争い、この決着はなかなかつかなかった。小杵は
116
上毛野君小熊に協力を求めて、使主を暗殺しようとしたが、この危機を逃れた使主は都に
のぼり朝廷に訴えると、ヤマト政権は使主に武蔵国造の地位を与え、小杵は処刑された」
という武蔵国造の情けない内部抗争である。
よ こぬ
たち ばな
お ほひ
く らす
この事件の後に、笠原値使主が朝廷に差し出した場所が「横渟、橘花、多氷、倉樔」の
たちばな
み やけ
屯倉だったという。四つの屯倉のうち位置を確立しているのは、
『和名抄』に橘樹郡御宅郷
がのる橘花屯倉(横浜市港北区日吉付近)だけである。
横渟は武蔵国横見郡(埼玉県比企郡吉見町と東松山市北部)か、多磨の横山地方(八王子市
た
ま
く らき
南部)とされ、多氷は多末の誤記で多磨郡内の地、倉樔も倉樹の誤写で、久良岐郡(横浜市
『日本書紀』にのる
南部。『京浜東北線』洋光台・新杉田駅参照)と推定されている。だが、
郡名、地名にこんなにひどい誤記は他にないので、
「安閑紀」の記述は問題だと思う。
こ しろ
か きべ
たどころ
「孝徳紀」にのる大化改新の詔(646 年正月)は、屯倉を子代、部曲、田荘などと共に廃
止したと記した。しかし改新の詔に載る「国、郡」の設置が、近年、藤原京から出土した
木簡の表記の違いや、口分田の大きさが『大宝律令』の記録と同じであることなどから、
この説明は 702 年公布の『大宝律令』の内容ではないかと、疑問が投げかけられている。
〈㊟ 改新の詔で「郡」と記された名が、藤原京から出土した 702 年より前の木簡全部に
「評:こほり」と記されることが問題になった。郡評論:評→郡の文字変更は『大宝
律令』公布以後とされる。なお、伊勢国にあげた、伊勢神宮の『皇大神宮儀式帳』に
のる国郡が「伊勢国渡會評、多氣評」と記されていたことも傍証になった〉
上野国
と
ね
あ
か
つ
う
す
ひ
か
む
ら
く
る
ま
利根郡(止禰)
群馬県利根郡水上町藤原
利根川、利根岳(大水上山)
群馬県吾妻郡中之条町伊勢町
吾妻神社、吾妻川
群馬県碓氷郡松井田町横川
碓氷神社、臼井村、碓氷峠
群馬県甘楽郡下仁田町南野牧
鏑神社、鏑 川
群馬郡(久留末)
群馬県群馬郡榛名町高浜
群馬郷、久留馬村
勢多郡(せた)
群馬県前橋市大手町
ま
吾妻郡(阿加豆末)
碓氷郡(宇須比)
甘楽郡(加牟良)
か
た
お
か
片岡郡(加太乎加)
群馬県高崎市片岡町
片岡郷、片岡村、片岡小学校
多胡郡(たこ)
群馬県多野郡吉井町多胡
多胡荘、多胡村 和銅 4(711)年設置
み
と
の
や
ま
た
緑野郡(美止乃)
群馬県藤岡市緑埜
山田郡(也末太)
群馬県桐生市川内町
山田郷、山田村、山田川
佐位郡(さい)
群馬県佐波郡赤堀町西久保?
佐井郷
那波郡(なは)
群馬県伊勢崎市堀口町
名和村、名和小学校
群馬県太田市太田、古氷
新田神社、新田郷、新田郡家
群馬県邑楽郡大泉町古氷
邑楽郡家、邑楽御厨
に
ふ
た
お
ぱ
ら
新田郡(爾布太)
き
邑楽郡(於波良岐)
㊟
前章『富士の語源』の利根川・上野国利根郡の起源に、利根川水源の大水上山をあ
げたが、次図には利根郡の中心地、沼田市の位置を記した。
117
左図に、「上・下毛野国」全部の郡名
推定起源地をあげたが、上毛野国の起源
地名群は、下毛野国西部と武蔵国北部に
連続して、同じ文化圏を形成していた様
子がうかがわれる。
山間の「利根、吾妻、碓氷、甘楽」郡
の起源地が、越後・信濃の国境線に並行
して点在し、碓氷郡の東の三点が「群馬、
勢多、片岡」郡、その下の二点が「多胡、
緑野」郡の起源地名である。
栃木県に近い扇状地にあるのが「山田」郡、その南の二点が「佐位、名波」郡、栃木・
埼玉県に挟まれた地域にあるのが「新田、邑楽」郡の起源地に想定できる。普通は、毛野
国の起源を鬼怒川に求めることは多いが、古墳文化の推移を考えると、下野国足利郡毛野
村があった足利市付近を「毛野」の発祥地と考えてみたい。
上図を見ると、武蔵国北部を知々夫国造の領域と考えた武蔵国での推論を改める必要が
生まれる。やはり 6 世紀に現われた埼玉古墳群と、埼玉の津があった武蔵国埼玉郡(埼玉県
行田市埼玉)や大里郡(熊谷市久下)を見直す必要がでてくる。
「安閑紀」に登場する武蔵国造の笠原値使主の笠原が、武蔵国埼玉郡笠原郷を名乗った
ことは定説になっている。つまり、さいたま市大宮区(元足立郡)の氷川神社(通称:足立
大宮)に祭祀だけを継承した「无邪志」は、上図の中下、縦に並ぶ二点(横見郡、比企郡)
右上の「埼玉郡」
、左の「大里郡」の起源地に関係したと考えられそうである。付近の地名
は、明治維新の際にも重要な働きをした。
明治 4 年の『廃藩置県』後に、いまの埼玉県域は「埼玉県」
「入間県」に統合されていた。
しかし明治 6 年に、入間県は群馬県を併合して「熊谷県」に拡大した。これは二つの県を
一人の県令(今の県知事)が兼任し、県庁を熊谷に置いて執務したためだが、明治 9 年 8 月
に両県を分離して、旧入間県の範囲は埼玉県に入り現在の県域になった。この措置が三年も
続いたのは、古代の上野国と武蔵国北部の密接な関係を無視できないとおもう。
「无邪志:むざし、むさし」は、
「Musa. 蒸す:湿地+sasi. 射す、刺す:斜面=湿地に
ある斜面」と解ける地名である。
『万葉集』に詠まれた「埼玉の津」は、かつては湊だった
水上交通の要衝が、こんな内陸にあった様子を現代に伝えている。
こと
埼玉の 津に居る舟の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言な絶えそね
巻十四 3380
他の国造と違って、どの地点を指すかの記録がない「无邪志、胸刺」は、武蔵国造の話、
郡名起源地の分布状況と地名の意味、
「埼玉=Saki. 先、崎+kita. 階、段+tama. 水溜り」
を併せて考えると、
「大宮、田園調布」より、行田市埼玉が『武蔵』の可能性が高いと思う。
118
この埼玉の津が、下総国府(千葉県市川市国府台)に結ばれていた史実が大切である。
勝鹿の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手兒奈し 思ほゆ
『万葉集』 巻三
433 山部赤人
勝鹿の 真間の井みれば 立ちならし 水汲ましけむ 手兒奈し 思ほゆ
巻九 1808 高橋連虫麻呂
う らみ
葛飾の 真間の浦廻を
漕ぐ舟の 舟人騒く 波立つらしも
巻十四 3349 読人不詳
すでに『万葉集』の時代にも伝説と化していた「手兒奈」が、どれほどの美女であった
かを空想するのも楽しいが、葛飾が「真間の入江、浦廻」にかかる枕詞として使われたと
ころが大切である。この地名は千葉県船橋市葛飾町を指し、かつては京成電鉄本線の駅も
「葛飾」駅を名乗っていたが、昭和 62(1987)年に「京成西船」駅へ改称されてしまった。
下総国の郡名に採られた葛飾は、奈良時代に江戸川河口にあった潟湖、
「真間の入江、浦廻」
を囲む砂嘴の先端につけられ、対岸の台地上に「下総国府、国分寺」が設けられていた。
市川市真間は入江に面した国府台の崖下につけた地名で、自然の攝理である台地端の湧水
を「真間(崩れやすい崖)の井」と呼んだのだろう。付近は名にし負う地盤沈下地帯のため、
かつてのよすがを留めていないが、海底の基盤地形はこの模様を記録している。
律令時代の江戸川は、中川と共に利根川の流路であり、上野国府(勢多郡:群馬県前橋市
総社町)
、下野国府(都賀郡:栃木県栃木市田村町)を海路と陸路でむすぶ「埼玉の津」の重
要性が浮かびあがり、東京の豊嶋郡(北区豊島)、荏原郡(品川区北品川)を結びつける荒川
へも行ける、「埼玉」の自在性が注目される。
関連資料がほとんどない「无邪志国造」への推測だが、武蔵国が 771 年まで「東山道」
に所属した史実と、埼玉稲荷山古墳から出土した 115 文字の銘々刀が重要にみえる。この
辺も、行田市を数回訪れただけの部外者でなく、地元の方々の考察に委ねるのが最善の策
であろう。
119
(6)
下野国(之毛豆介乃)
下野国では、那須国造の統括する二郡が、那須温泉(→那須郡)と、塩原温泉(→盬屋郡)
というのは不思議なところで、南部諸郡との関連が見られないのも不可解な現象である。
下毛野国造の領域は、上毛野国造に連続し、この様相は毛野国に造営された古墳群の遷移
に表現されている。
4 世紀中半から 6 世紀の始めまで、両毛国境の太田(上野国新田郡)、足利(下野国足利・
梁田郡)を中心に築造された古墳群も、6 世紀に入ると、上野国府がおかれる前橋(上野国
勢多郡)と高崎(群馬・片岡郡)、下野国府の栃木(下野国都賀郡)や小山(寒川郡)付近に
築造拠点が移動する。この模様も「毛野→上野・下野」国の分割を表現したのではないだ
ろうか。
下野国
あ
し
か
や
な
た
か
足利郡(阿志加々)
栃木県足利市伊勢町
足利荘、足利町
梁田郡(夜奈太)
栃木県足利市梁田町
梁田御厨、梁田村、梁田小学校
安蘇郡(あそ)
栃木県安蘇郡田沼町田沼
安蘇郷、安蘇川(秋山川)
都賀郡(つか)
さ
む
か
栃木県下都賀郡藤岡町都賀
は
寒川郡(佐無加波)
栃木県小山市寒川、中里
寒川御厨、寒川村、寒川小学校
河内郡(かふち)
栃木県宇都宮市平出町?
衣川驛
栃木県真岡市京泉
芳賀郷、芳賀郡家
鹽屋郡(之保乃夜)
栃木県那須郡塩原町中塩原
鹽屋荘、塩原温泉
那須郡(なす)
栃木県那須郡那須町湯本
那須国造、那須郷、那須湯本温泉
は
か
し
ほ
芳賀郡(波加)
の
や
左図は「下野国」だけの分布図だが、上野国から下総国・常陸
国へ連続する「足利、梁田、安蘇、都賀、寒川」郡と、少し離れ
た「河内、芳賀」郡、そして陸奥国境に近い山間の温泉地「鹽屋、
那須」郡に三分されている。どうして、こんな極端な分布を採っ
たかは判らないが、那須郡内には、那須国造を語る有名な石碑が
残されている。
「永昌元(689)年 4 月、飛鳥浄御原大宮(持統天皇時代)のとき、
あたえ い
で
那須国造の那須 直 韋堤が評督(→郡司)に任命された」と記した
那須国造碑が、栃木県那須郡湯津上村湯津上にある。
こほり
これは、国造制が律令体制の「 評 (→郡)
」へ替った史実を留めた、貴重な石碑である。
越、吉備、筑紫、豊、肥の諸国を「越前・越中・越後」
「備前・備中・備後」「筑前・筑後」
「豊前・豊後」
「肥前・肥後」に別けたのは 690 年秋、
『飛鳥浄御原令:689 年 6 月』公布の
翌年だったと推理する、本サイトの裏付けになるわけである。
120
那須郡に関しては『日本歴史総説 古代編』
(藤岡謙二郎編 吉川博文館 1975)によると、
式内武茂山神社(栃木県那須郡馬頭町武茂。2005
年から那珂川町に統合)に平安時代に砂金を
算出した記述が残され、
『延喜式 民部下』に記録されたとあるので、当該箇所をあたると、
交易雑物の中に「下野国:砂金百五十両、錬金 84 両」と記されていた。
他に金を算出したのは陸奥国:砂金三百五十両だけで、次に述べる北上川下流域の諸郡(陸
奥国)に、金の産出地に関わる起源地(桃生、遠田、小田、牡鹿、本吉郡など)がある。この
地域から砂金を採取した様子は、東大寺の大仏にメッキをする金の不足に悩んでいた時、
陸奥黄金山(宮城県小田郡涌谷町湧谷)から金が出て、年号を天平感宝・天平勝宝(749 年)
に改めた史実に表わされている。諸郡は、次の陸奥国でふれる「日高見国(仮称)」であり、
この金資源が、のちに奥州藤原氏を支える基盤になった。
上野国那須郡も単なる温泉地と考えていたが、金・銀・銅資源は火山の熱水鉱床が起源
であり、鉱物だけでなく、硫黄・明礬なども考えにいれる必要があるかもしれない。
「上野国・下野国」郡名起源地名の作図をして感じたのは、上野国「群馬、佐位、新田」
郡と、下野国「足利」郡の名が、
『延喜式 巻二十八 兵部省 諸国驛傳馬』に載る官道の驛家
名に一致することと、下野国府の近く田郡驛を通って、河内郡の衣川驛(宇都宮市平出町)
から白河を経て、陸奥国へ行く東山道が下野国中央部を縦貫していることだった。
ところが、図には南部の下野国「都賀、寒川」郡から、下総国の結城郡、常陸国「新治、
『延喜式』の官道が
真壁、筑波、河内(土浦)」郡へ連続性を持つ様相が出現する。ここは、
ないところだが、「上野国府―下野国府-霞ヶ浦」を結びつける重要なルートが浮上する。
土浦は常陸国府の石岡(茨城郡)と共に、霞ヶ浦水運、東北地方への交易拠点である。郡名
起源地の分布状況は、東山道へ行くより、こちらがメインルートだったようにみえるが、
こんな通路が利用されていたのであろうか?
ぬきさき
なお、上野国府は群馬県前橋市元総社町(勢多郡)、国分寺も前橋市元総社町、一ノ宮は貫前
神社:富岡市一ノ宮(甘楽郡)。
下野国府は栃木県栃木市田村町(都賀郡)、国分寺は下野市国分寺(都賀郡)、一ノ宮は二
荒山神社:日光市山内(河内郡)である。
毛野の推定起源地名:栃木県足利市八椚町、毛野新町(下野国足利郡)。
121
(7)
陸奥国(三知乃於久)
『古事記』『日本書紀』にも律令体制以前の「国造」が載せられているが、「先代旧事
本紀」の『国造本紀』は全国の国造を網羅している。先代旧事本記自体は、信用できるか
疑わしいところもあるが、これまで上げたように、
『国造本紀』は信頼できる資料といえる。
『国造本紀』道奥国の欄に、次の国造が載せられた。
国造名
郡名
㊟
曰利国造
Watari
推定起源地
曰理郡
宮城県亘理郡亘理町旧舘
亘理神社、曰理郷
伊久国造 Iku
伊具郡
宮城県伊具郡丸森町丸森
伊具荘
信夫国造 Sinopu
信夫郡
福島県福島市春日町字信夫山
信夫山
阿尺国造 Asaka
安積郡
福島県郡山市安積
安積郷
石背国造 Ifase
磐瀬郡
福島県岩瀬郡岩瀬村梅田字岩瀬
磐瀬郷
白河国造 Sirakafa 白河郡
福島県白河市旗宿
式内白河神社、白川郷
浮田国造 Uta
宇多郡
福島県相馬市中村字宇多川町
宇多川
染羽国造 Simefa
標葉郡
福島県双葉郡浪江町苅宿
標葉神社、標葉郷
石城国造 Ifaki
磐城郡
福島県いわき市平菅波
磐城郷
道奥菊多国造 Miti no Oku no Kikuta
福島県いわき市勿来町:陸奥国菊多郡
道口岐閇国造 Miti no Kuti no Kife
茨城県日立市助川町 :常陸国多珂郡道口郷
道尻岐閇国造 Miti no Siri no Kife
比定地不明
㊟ 曰利国造は、国造本紀に「思国造」と記されているので、曰利、または
思太(志太郡:宮城県古川市飯川)の誤写と推定されている。
道奥国は 7 世紀中頃に誕生し、
『常陸国風土記』多珂郡の項に白雉 4(653)年、多珂国造
から石城国造(福島県磐城郡)を分離した記録が残された。上記のように、『国造本紀』に
は福島県と宮城県南部に国造が記された他に、道口岐閇国造と道奥菊多国造が載り、この
「道口⇔道奥」の対比から、道奥の国名が生まれたと考えられている。
さらに『古事記 神代』天の安河の誓約の分注に、
「道尻岐閇国造」が記録されたが、比
定地は不明で、石城国造より北の地域とする意見が出されている。また「神武記」最後の
ひ たち
分注に「常道の仲国造」と共に「道奥石城国造」が載り、当初は「道奥」と記されていた
この国は、
『飛鳥浄御原令』公布(689 年 6 月)後に「陸奥」国へ当て字を変更した。
しかし道口が郷名に採用されたのに対して、道奥は郷名に残らず、道奥菊多国造を継承
した菊多郡は、養老 2(718)年に常陸国から陸奥国へ移管された。つまり、奈良時代初頭
まで道奥の起源地は常陸国に含まれていたわけで、なぜこんな現象が起きたかは、やはり
『地名の命名経緯』が継承されていなかった一般論が当てはまるようである。陸前浜街道
(浜通り)の一地域に発した「道奥→陸奥」は、小地域名の昇格を考えて良さそうである。
122
東北地方の国造も、他国と同様、郡名に継承されて、ヤマト政権に属した福島県の範囲
は 7 世紀中頃に行政組織ができていたと考えられている。先にあげた『道奥、道口、道尻』
を冠した国造名は、飛鳥時代末(690 年秋)に生まれた「越の道の後(しり)→越後。越の
道の中→越中。越の道の前(くち)→越前」国の用法とまったく違うところに、古い時代の
記録を残した可能性を見いだせる。
律令時代の東北は、蝦夷(ゑぞ、ゑみし)と
図 7-6 東北地方の郡名推定起源地
呼ばれた。この名は 5 世紀頃まで中部地方以東、
6 世紀に関東地方以北、7 世紀には東北・北海道
地方、16 世紀頃から北海道だけを指す呼び名と
して、時代に応じて範囲を縮小していった興味
ぶかい地域名である。
夷を「Wepisu,Wemisi」と読むのは、
「pi,mi」
の近似の関係からある程度理解できるが、この
語源は判らない。強引に「Weso←Feso⇔Sofe:
添え物」
「Fepisu,Femisu=Fe:辺+misu⇔sumi:
隅、住み」と解して、
「辺境に住む人々」と牽強
附会をするしかないのだろうか。
律令制度の陸奥国(←道奥国:Miti no Oku→
みちのく)は 7 世紀中葉に誕生し、出羽国
(Itefa→でわ)は和銅 5(712)年 9 月に越後
国から独立し、同年 10 月に陸奥国から最上・置
賜郡を加えて国域を拡大した。
右図に見られるように、平安時代中期の陸
奥・出羽国は東北全域を占めるものではなく、
岩手県南部と、秋田県中部の範囲にあった。
両国の北端にあたる『延喜式』神名帳にのる陸奥国斯波郡は、弘仁 2(811)年、出羽国
秋田郡の設置は延暦 23(804)年と記録された。斯波郡と同じ年に設立した陸奥国和賀郡と
稗貫郡が『延喜式、和名抄』に載っていないのは不思議な現象だが、この後にも郡の分離、
新設が行なわれ、10 世紀の終わり頃に東北地方全域が律令体制に組み込まれたようである。
『和名抄 巻 5 国郡部』
本サイトは、平安時代中期(930 年頃)の『延喜式 巻 22 民部上』
に記録された郡を扱ってゆくが、両書に記されず、鎌倉時代までに設置された郡は、次の
諸郡だった。
123
陸奥国
な らば
いはさき
だ
福島県
楢葉郡 磐崎郡
宮城県
本吉郡
岩手県
和賀郡 稗貫郡 閉伊郡 岩手郡 九戸郡
秋田県
鹿角郡
青森県
比内郡(二戸郡)糠部郡(三戸郡) 北 郡 津軽郡
て
田村郡 石川郡 大沼郡 河沼郡 伊達郡
もとよし
ひえぬき
へ
い
く のへ
か づの
ひ ない
にのへ
ぬ かべ
さんのへ
出羽国
ひ やま
由利郡 檜山郡
秋田県
平安時代中期頃から東北の名馬が注目をあつめ、鎌倉時代、南部氏は糠部郡(推定起源地:
青森県三戸郡三戸町梅内。糠部神社所在地)を九つの部に分割した。おもに軍馬育成のため各
いちのへ
く のへ
「二戸、三戸、九戸」郡である。
部に牧場を設置した「一戸~九戸」を郡名に採用したのが、
この名は地域名で、明治時代初期に青森県上北郡・下北郡に分割された全国で唯一、方位
を採用した「陸奥国北郡」と共に、郡名として珍しい例といえよう。二戸郡の別称は比内
郡(起源地不明。秋田県大館市?)、三戸郡は糠部郡と記録されていて、九戸郡と北郡以外の
郡は従前どおり、小地名を採用した様子が感じられる。
9 世紀前後に、坂上田村磨呂などを征夷大将軍として、陸奥の版図を拡大した際の新設郡
〈◍ 印は『延喜式、和名抄』に記載されなかった郡。図 5 に未記入〉
には次の諸郡があがる。
◍ 閉伊郡(へい)
岩手県宮古市藤原
閉伊川
◍ 稗貫郡(ひへぬき)岩手県稗貫郡大迫町大迫
稗貫川
弘仁 2(811)年設置
◍ 和賀郡(わか)
和賀川
弘仁 2(811)年設置
斯波郡(しは)
い
さ
は
え
さ
し
け
せ
い
は
膽澤郡(伊佐波)
江刺郡(衣佐志)
氣仙郡(介世)
ゐ
磐井郡(伊波井)
岩手県和賀郡沢内村猿橋字和賀
岩手県紫波郡紫波町升沢
志和稲荷神社、志和村
岩手県水沢市佐倉河
胆沢川、胆沢城
延暦 21(802)年頃設置
岩手県江刺市本町
旧名江刺
延暦 21(802)年頃設置
岩手県陸前高田市気仙町
気仙川、気仙郷
延暦 21(802)年頃設置
岩手県一関市磐井町
磐井川、磐井郷
弘仁 2(811)年設置
この諸郡の大半が、
「川名」を郡名に採用した様子を感じとれる。川の名を採った郡には
7 世紀以前に命名された例もあり、近世~近代に命名された市町村名にこの伝統が受けつが
れて、川が歴史上いかに重要な位置を占めていたかを窺わせている。
図 5 に現われたように、東北地方の郡名起源地は「阿武隈川―北上川」の東山道ルート
と、
「最上川、雄物川」流域の平野・盆地と太平洋岸の湊に集中する。信濃国や甲斐国にも
見られたように、平野・盆地の中心部をさけるように分布することも、郡名起源地に共通
する特徴といえる。これは律令時代に低湿地の開発が困難であった史実を示すと同時に、
大河川にそそぎこむ中小河川の扇状地が、とくに重視されていた様子を語っている。
124
すでに第六章『富士の語源』の北上川の項でふれているが、宮城県古川市(2006 年 3 月、
大崎市へ統合)を中心におく、仙台平野(大崎平野)に起源地が集中する現象は見逃せない。
この起源地名を列記すると以下のようになる。
く
り
は
に
ひ
た
と
よ
め
も
む
の
を
し
か
と
ほ
た
を
た
な
か
ら
栗原郡(久利波良)
新田郡(邇比太)
登米郡(止與米)
宮城県栗原郡栗駒町栗原
栗原郷
宮城県登米郡迫町新田
新田村、新田第一小学校
宮城県登米郡登米町寺池
登米神社、登米郷、登米村
宮城県桃生郡桃生町樫崎
桃生郷、桃生村、桃生小学校
宮城県石巻市日和山
牡鹿柵?
ふ
桃生郡(毛牟乃不)
牡鹿郡(乎志加)
遠田郡(止保太)
神護景雲元(767)年設置
宮城県遠田郡涌谷町太田
小田郡(乎太)
宮城県遠田郡小牛田町南小牛田
南小牛田村
長岡郡(奈加乎加)
宮城県古川市長岡
長岡郷、長岡村、長岡小学校
志太郡(した)
宮城県古川市飯川
信太郷、志田村、志田小学校
た
ま
を
つ
か
く
り
玉造郡(太萬豆久里)
賀美郡(かみ)
し
か
ま
く
ろ
か
色麻郡(志加萬)
は
黒川郡(久呂加波)
宮城県玉造郡岩出山町南沢
玉造郷
和銅 6(713)年設置
宮城県加美郡宮崎町谷地森
賀美石神社、加美石村
宮城県加美郡色麻村四竈
色麻柵、色麻郷、色麻村、色麻小
宮城県黒川郡大和町鶴巣北目大崎
黒川神社、黒川驛
律令時代に 2~4 郷を一郡として細分された各郡は、中世に色麻郡を吸収合併した賀美郡、
明治時代中期に「栗原+新田+長岡北部→栗原郡。長岡南部+遠田+小田→遠田郡」へ統
合したように、付近は東北随一の小郡密集地帯だった。桃生郡桃生町太田の式内日高見神社
は注目すべきで、
「景行紀」の日本武尊東征伝に登場する「日高見国」を、この付近に想定
する説も理解できる。戦国時代に、伊達正宗が岩出山城(宮城県玉造郡岩出山町東川原)に
拠点を構えたのも、地域の風土と伝統に由来した。
宮城~福島県の太平洋沿岸の通称「浜通り」の地域では、郡の起源地名が 20~30km の等
間隔にならぶ様子も興味をさそう。
び
や
き
な
と
り
わ
た
り
う
た
な
め
か
し
め
は
い
は
き
き
く
た
宮城郡(美也木)
名取郡(奈止里)
曰理郡(和多里)
宇多郡(宇太)
た
行方郡(奈女加多)
標葉郡(志女波)
磐城郡(伊波岐)
菊多郡(木久多)
㊟
宮城県仙台市宮城野区原町
宮城郷
宮城県仙台市太白区郡山
名取郷、名取川
宮城県亘理郡亘理町旧舘
曰理国造、亘理神社、曰理郷
福島県相馬市中村字宇多川町
浮田国造、宇多川
福島県原町市泉
行方郡家
福島県双葉郡浪江町苅宿
染羽国造、標葉神社、標葉郷
福島県いわき市平菅波
石城国造、磐城郷
白雉 4(653)年設置
福島県いわき市勿来町関田
菊多国造、勿来関
養老 2(718)年設置
和銅 6(713)年設置
白雉 4 年に常陸国多珂郡より磐城郡を陸奥国へ、養老 2 年に菊多郡を石城国(陸奥国)へ移管
125
太平洋岸に 20~30km の等間隔に並ぶ様子は、茨城県高萩市高萩(常陸国多珂郡)、日立市
久慈町(久慈郡)へと連なってゆく。標葉と磐城の間が 50km ほど離れているのが少々気に
なるが、この間には後に磐城郡楢葉郷(福島県双葉郡富岡町下郡山)を起源にした「楢葉郡」
が設置されている。浜通り諸郡の起源地にはラグーン(潟湖)があったようで、鹿嶋~宮城・
牡鹿をむすぶ海上航路の中継地、風待ち港の役割を担った湊であった様子が忍ばれる。
ただ、ここには「曰理、浮田、染羽、石城、菊多」国造の存在があり、この地域の南部
から「道奥→陸奥」国の名が生まれた史実を見ても、大化以前の時代から、常陸~宮城の
航路が利用されていたと考えられそうである。
陸奥国府がおかれた多賀城(宮城県多賀城市市川:宮城郡多賀郷)以北の太平洋岸では、
牡鹿郡(宮城県石巻市日和山)、気仙郡(岩手県陸前高田市気仙町)の他には、平安時代中期
以降に宮城県本吉郡本吉町津谷館岡(本吉郡)と、岩手県宮古市藤原(閉伊郡)の二港を起
源とする郡が新設されただけで、仙台平野と常陸国を結ぶ航路が特に重用されていた姿が
浮かび上がる。天然の良港である太平洋岸の釜石(閉伊郡)、久慈(九戸郡)、八戸(三戸郡)、
陸奥湾の野辺地(北郡)、青森(津軽郡)周辺の地名が郡名に採用されなかった史実も、日
本海側の航路が利用された様子を語り、この伝統は江戸時代にまで引き継がれていった。
『延喜式、和名抄』に記載された、中通り(阿武隈川流域)の陸奥国諸郡の推定起源地は、
以下の通りである。
し
ぱ
た
柴田郡(之波太)
かつ た
刈田郡(葛太)
宮城県柴田郡柴田町船迫
柴田郷、柴田驛
宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉
式内刈田嶺神社、刈田郷、刈田岳、
刈田峠
い
く
し
の
ぷ
あ
た
ち
伊具郡(以久)
信夫郡(志乃不)
安達郡(安多知)
養老 5(721)年設置
宮城県伊具郡丸森町丸森
伊久国造、伊具荘
福島県福島市春日町字信夫山
信夫国造、信夫村、信夫山
福島県安達郡本宮町大町
安達太郎神社、安達驛、安達太郎川、
安達太郎山
あ
さ
か
安積郡(阿佐加)
やま
耶麻郡(山)
福島県郡山市安積
福島県耶麻郡猪苗代町西峯
あ
ひ
つ
い
は
せ
し
ら
か
會津郡(阿比豆)
磐瀬郡(伊波世)
は
白河郡(之良加波)
延喜 6(906)年設置
阿尺国造、安積郷
いははし
いははし
式内磐椅神社、磐梯山 承和 10(843)年設置
福島県河沼郡会津坂下町開津
會津川(阿賀川)
福島県岩瀬郡岩瀬村梅田字岩瀬
石背国造、磐瀬郷
福島県白河市旗宿
白河国造、式内白河神社、白川郷、
白河村、白河関
大化 2(646)年設置
中通りと浜通りの地域は、奈良時代初頭の養老 2(718)年に、いまの福島県の範囲にあ
たる「信夫、安積、會津、磐瀬、白河」郡をまとめた「磐瀬郡→石背国」が設立されて、
浜通りの「亘理、宇多、行方、標葉、磐城」郡と、常陸国多珂郡北部を分割した菊多郡を
統括する「磐城郡→石城国」が立国した。
126
二国の分離は、陸奥国の領域が大きくなりすぎたことに加えて、新規開拓の要素が多い
北部(陸奥国≒宮城県)と、7 世紀にヤマト政権に組み込まれた南部(石城・石背国≒福島県)
では国情が異なり、分割して統治した方が有利だったためと考えられている。しかし遠隔
の地に三国をおいた政策はかえって混乱をきたし、10 年を待たずに元の陸奥国へ戻されて
しまった。律令政府の国勢調査不足が原因だが、中央の頭で考える合理性と、地域に根づ
いた保守的な伝統とをいかに融合させるかの難題の実例として、記憶に留めねばならない。
この二国は、
「王政復古」の大号令から、国制が有名無実になった明治元年 12 月、ふた
たび磐城国、岩代国(いはしろ:石背をよみ違えた名称)として復活した。だが、東北独立
を掲げた「奥羽列藩同盟」に発した東北戊辰戦争の大混乱期に、新政府の威光を誇示した
だけの施策が一般に浸透するはずもなく、明治 9 年、正式な行政区画の福島県が定められ
るまでのわずかな期間、国名が存在しただけで消えてしまった。
このなかで、大多数の人が知らなかった「磐城国」が地域名、幹線鉄道・高速道路名と
して「常陸+磐城→常磐」
「磐城+越後→磐越」に採用されて、大勢に影響しなかった歴史
のわずかなゆらぎが、将来に伝えられる名を残したのは、不思議な印象を与える。
つ
つ
こ わけ
陸奥国府は宮城県多賀城市市川、国分寺は仙台市若林区木の下、一ノ宮は都都古別神社:
福島県東白川郡棚倉町である。しかし、神亀元(724)年に多賀城を建設する前の国府は、
仙台市太白区郡山の「郡山遺跡」にあったと考えられている。貨物操車場と機関区があっ
たJR長町駅に隣接する遺跡は、名取川が流れる郡山の地名から、和銅 6(713)年に設置
した陸奥国名取郡の起源地名に推定される場所である。
陸奥の推定起源地名:福島県いわき市勿来町。
127
(8)
出羽国(以天波)
あ くみ
出羽国(Itefa→でわ)は、和銅 5(713)年 9 月 23 日に、越後国北部の「飽海、出羽、
おきたま
田川」の三郡を割いて誕生し、同年 10 月 1 日に陸奥国から「最上、置賜」の二郡を加えて
みまさか
「薩摩、大隅、
国域を拡大した。律令時代に新設された国々では「美作、丹後」国を除いて、
い はき
い はせ
す
は
安房、能登、石城、石背,諏方、和泉、加賀」国すべてが郡名を昇格させた史実をみても、
出羽国が郡の名を採ったことは明らかである。
国名の「Itefa」は、
「Ite:出で+tefa:出っ張り⇔果て」という突出した地形を表わし
い
で
は
ている。この起源地が『延喜式』にのる式内伊氐波神社、今の出羽三山神社がある羽黒山頂、
山形県東田川郡羽黒町手向(現鶴岡市)であり、字名の手向は「とうげ」とよむ珍しい地名
である。この辺は、第三章『言葉と地名 3-3 峠の起源』に地図を載せて解説したので、
御参照いただきたい。
だが、なぜ伊氐波神社が『延喜式神名帳』の田川郡の欄に記されたかの理由が判らない。
越後国出羽郡の設立は『續日本紀』に和銅元(708)年 9 月 28 日と記されたが、田川郡の
設置記録は無く、こちらの方が郡の歴史が古いかもしれない。出羽国出羽郡は、国と郡が
同一名の不都合から、中世に櫛引郡とも呼ばれたが、江戸時代初頭に田川郡へ吸収されて
消えてしまった。
出羽神社の開祖は、崇俊天皇の第一皇子、異形の様相で知られる蜂子皇子と伝えられて
いる。崇峻天皇は、在位中の 592 年、蘇我馬子に殺されたことで知られるが、この皇子が
開いた神社を郡名、国名に採用したことには、何らかの理由があったのだろうか?
なお、崇峻天皇の兄、やはり 587 年に蘇我氏に粛清された穴穂部皇子は、昭和時代末に
話題を集めた藤ノ木古墳(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西)の被葬者候補の一人とされている
(今もなお未確定)。
藤ノ木古墳の被葬者が話題を集めていた頃、宣化天皇の皇子の宅部皇子、
崇峻天皇、蜂子皇子や法隆寺と共に、出羽神社が連日マスコミに取り上げられていたのも、
懐かしい想い出である。
日本海側の出羽国では、陸奥国南部(浜通り)と違って、地形の関係から港の間が遠く離
れている。阿賀野川河口に位置した新潟市蒲原町(越後国蒲原郡)と新潟市沼垂(沼垂郡)、
村上市岩船(石船郡)の次の港は、最上川の河口にあった潟湖(砂潟→酒田)の湊、山形県
飽海郡平田町郡山(出羽国飽海郡)、雄物川の河口、秋田市寺内(秋田郡)の二港であった。
両港の間に、後に由利郡(秋田県本荘市古雪町?)が設置され、秋田以北では、米代川河口
の能代でなく檜山(能代市檜山)、十三湊のかわりに津軽…「齊明紀」に津刈、津軽と記載:
起源地不詳。弘前市内、または津苅川の名がのこる南津軽郡碇ヶ関村付近の旧地名?…が郡名
に採択された理由も、今後の研究課題になる要素をもっている。
第六章『富士の語源』の「川名の起源
⑦ 最上川、⑩ 雄物川」に記した、出羽国郡名
の推定起源地名をまとめると、次のようになる。
128
出羽国:和銅 5(712)年、越後国・陸奥国より立国(*印は陸奥国、◍印は越後国に属した郡)。
あ
い
た
か
は
の
べ
や
ま
も
と
ひ
ら
か
秋田郡(阿伊太)
河邊郡(加波乃倍)
山本郡(也末毛止)
平鹿郡(比良加)
を
か
ち
む
ら
や
秋田県秋田市寺内
秋田城
秋田県河辺郡河辺町和田
河辺村、河辺小学校
秋田県仙北郡仙北町払田
払田柵、山本郷
秋田県平鹿郡増田町増田字平鹿
雄勝郡(乎加知)
秋田県雄勝郡雄勝町院内
*
も
か
み
お
い
た
最上郡(毛加美)
み
置賜郡(於伊太三)
あ
く
み
い
て
は
た
か
は
天平宝字 3(759)年設置
雄勝郷、雄勝峠 天平宝字 3(759)年設置
ま
村山郡(牟良夜末) 山形県東根市郡山
*
延暦 23(804)年設置
◍ 飽海郡(阿久三)
◍ 出羽郡(以天波)
◍ 田川郡(多加波)
村山郷、村山野川
仁和 2(886)年設置
山形県最上郡戸沢村古口
最上峡、最上川
山形県南陽市郡山
置賜郷、置賜郡家
山形県飽海郡平田町郡山
飽海郷、飽海郡家
山形県東田川郡羽黒町手向
式内伊氐波神社 和銅元(708)年設置
山形県鶴岡市田川
田川郷、田川村、湯田川温泉
東北地方の郡名の起源を考える場合は、農業生産、交通路の要衝、
軍事基地を重視するだけでなく、この地方が、鉱物資源に恵まれて
いた史実に注意を払う必要がある。北上川下流域の諸郡(日高見国)
には、金の産出地に関わる起源地(桃生、遠田、小田郡など)があり、
出羽国雄勝郡は院内銀山、陸奥国鹿角郡は小坂、尾去沢、花輪銅山
に結びつくなど、金、銀、銅、鉄。さらに飛躍して縄文時代から利
用されていた秋田の石油(接着剤としてのタール。出羽国秋田郡の起
源地:秋田市寺内は八橋油田の隣接地)や琥珀(陸奥国閉伊郡)
、露天
掘りの可能性もある常磐地方の石炭を頭において良いかとおもう。
常磐地方を航路で結んでいた常陸国南部、とくに国府があった石岡
(茨城郡茨城郷)や、鹿嶋神宮のある鹿嶋(鹿島郡鹿島郷)には律令
時代の製鉄遺構が認められるところが大切である。
8~9 世紀の出羽国は、開拓に伴う争乱を繰り返したようで、出羽国府は確立していない。
奈良時代は出羽柵(比定地不明:出羽三山神社付近?)、天平 5(733)年には秋田城(秋田県
秋田市寺内)へ移動し、その後は河邊、平鹿〈『和名抄』は国府在平鹿郡と記録〉、出羽郡への
あ くみ
き のわ
移設も考えられており、最終的に飽海郡の城輪柵(山形県酒田市城輪)だったといわれる。
平安時代の国分寺は城輪柵に近い、堂の前遺跡が想定され、一ノ宮は鳥海山大物忌神社:
山形県飽海郡遊佐町吹浦である。
出羽の推定起源地:山形県東田川郡羽黒町手向。
2005 年 10 月 1 日から鶴岡市羽黒町手向。
129
山間地と東北地方を主体にする「東山道」諸国の、稲束数・水田面積に関するデータを
あげると、次の結果が得られる。ただひとつ、全国の稲作平均効率を上回る「美濃国」を
除いて、64 ヶ国中の 55・56 位と 60~64 位が並んでしまう。宝亀 2(771)年に東山道から
東海道へ所属を替えた武蔵国の偏差値は「36.8:58 位」であり、東海道の最下位にランク
されたことにも納得がゆく。
表 7-25 東山道諸国の稲束数と水田面積(平安時代中期)
国
名
国 の
稲束数
水田面積
郡数
等 級
一郡水田
郷数
面積
一郷水
偏差値
田面積
全国の
順位
美
濃
上 国
880,000
14,823
18
824
131
113
51.0
28
出
羽
上 国
973,400
26,109
11
2,374
65
402
39.4
55
近
江
大 国
1,207,400
33,402
12
2,784
93
359
38.8
56
陸
奥
大 国
1,582,700
51,440
35
1,470
188
274
36.0
60
信
濃
上 国
895,000
30,908
10
3,091
67
461
35.0
61
下
野
上 国
874,000
30,155
9
3,351
70
431
35.0
62
上
野
大 国
886,900
30,937
14
2,210
102
303
34.9
63
飛
騨
下 国
106,000
6,615
3
2,205
13
509
28.2
64
2,003
729
308
7,405,400
東山道
224,389 112
表 7-26 稲作生産効率 畿内七道分類
道区分
稲束数
水田面積
生産効率
偏差値
山陰道
4,357,700
53,956
80.76
68.5
山陽道
5,862,600
84,942
69.01
60.4
北陸道
4,186,400
73,980
56.58
51.9
南海道
3,327,300
61,861
53.78
50.0
西海道
5,990,500 117,448
51.01
48.0
東海道
10,438,500 213,493
48.89
46.6
55,298
37.74
38.9
7,405,400 224,389
33.00
35.7
43,655,600 885,367
49.30
畿
内
東山道
合
計
2,087,200
130
③ 北陸道
東海道、東山道全ての「国造、国、郡」名のルーツを探る
と、全数が小地名を採用した様子を御理解いただけると思う。
むろん 66 国 2 島、 580 郡の半分に満たない国・郡の検証だけ
では、
「国名、郡名は小地名を採用」した仮説を定理として認
められない。だが、この仮説を『定理』に昇格させなければ、
古代史に関心をもつ誰もが興味をいだく、あまりに有名な問
題の解決はおぼつかない。
1
古代史通説への疑問
それは、いうまでもなく「邪馬台国」の問題である。この研究で一般化している方法は、
『魏志』倭人伝にのる諸国を全国の地名、といっても、大半が北九州と近畿地方の地名を
対比して位置を比定する手法である。ここで問題になるのは、わが国の「国、郡、郷」名
は小地名をとってつけたと断言できるか、という点にある。この疑問点を仮説のまま放置
していたなら、国名の比定作業自体に問題があるわけで、少なくとも、この国に間違いな
く存在した律令時代の「国、郡」の名称が、どのようにして命名されたかの総括的な見解
を示す必要がある。これが邪馬台国研究の基本的な問題と感じるところで、さらに加えて、
『魏志』倭人伝にのる諸国のよみ方が、依然として確立されていない点も問題になる。
『三国志』が著わされた時代は、中国では、漢字のよみ方が上古音から中古音へ変化し
た時期にあたるため、国名をどちらで読んでよいかは、結論が得られていない。上古音・
中古音で、それぞれ全数を読むと、和語とは考えにくい名が出現して、弥生時代後期以前
から使われていた国名は上古音(たとえば奴国。上古音:ナ。中古音:ヌ)、「倭国大乱」後
に命名された国は中古音(伊都国。上古音:イタ。中古音:イト)のよみをとる説も提起さ
れている。たぶんこの考えは正しいと思うが、各国の命名年代をどのように区分するか、
という難問が介在することがこの説の弱点になっている。
また、渡来人を主体に国が成立した弥生時代には、和語だけでなく、当時の中国語、朝
はい せい せい
鮮語の国名が採用されていても、なんら不思議はないと思う。遣唐使の返礼として裴世清が
来日した記録(608 年)がのる『隋書』倭国伝(原文は俀國傳)に、
「秦王國」という中国人
だけで構成された国の名が登場することや、
『正倉院文書』に残る奈良時代初頭の戸籍に、
渡来人だけの里が形成されていた史実にも示されている。
さらに、現代に伝わる『魏志』倭人伝は 12 世紀の紹興版を基にするため、
『和名抄』と
同じように、誤写がある点も問題になっている。
よく知られるのが、卑彌呼が魏へ朝献した景初 2 年(238 年:倭人伝)は、魏が公孫氏
を滅ぼして楽浪・帯方の二郡を傘下に治めた年にあたり、戦争中に楽浪郡へ使者を送るは
ずがないことや、8 世紀初頭に倭人伝を引用した『日本書紀』が明帝景初 3 年(239 年:神
131
功紀)と記すことから、倭人伝のこの部分は明らかな誤写と考えられている。
邪馬台国へのあて字も、倭人伝は「邪馬壹國」、倭人伝の基本資料とされる『魏略』逸文
をのせる翰苑が「邪馬嘉國」
、
『後漢書』東夷伝は「邪馬臺國」と記し、『梁書』倭伝が「邪
馬臺國」
、
『隋書』倭国伝も「邪靡(摩)堆」と記し、形のよく似た「壹、嘉、臺」のうち、
「壹、嘉」は誤写とみるのが一般である。他の国名も、中国人が伝聞によって和語の地名
を書き記したもので、和人の発音を正確に写せたかにも疑問が投げかけられている。おな
じ様子は、日本人が中世以降に漢字をあてた「和蘭、阿蘭陀≒Olanda:ポルトガル語、
Holland:英語」「英吉利≒Inglez,English」「仏蘭西≒France」の記録だけでは、原形に
戻せないことに表わされている。
こうしてみても、倭人伝諸国のよみ方を確立するほうが先決の課題であり、いまのよう
に「国名は小地名を採用した」定理が証明されていないままに、よみ方が判らない国名を
「上古音、中古音、慣用音、呉音、漢音、字訓仮名、訓音」を適当に交えてよみ、いつご
ろ命名されたかも検証されていない地名を対照すること自体、三重のミスを犯した手法と
おほの
『古事記』序文に日本語表記の難しさを記したように、文字
いえそうである。 太 安麻侶が、
導入期の弥生時代に音訓併用は考えにくく、音よみの「慣用音、呉音、漢音」の混用も考
えられない。一般に流布する邪馬台のよみ方「ヤマタイ」は、「ヤ:慣用音・漢呉音+マ:
慣用音+タイ:漢音」のよみで、上古音・中古音にちかい慣用音は弥生時代に移入された
可能性はあるが、呉音(ヤメダイ)の導入は古墳時代、漢音(ヤバタイ)が奈良時代に広ま
った史実を参照すると、弥生時代の国名には、やはり「上古音:ヤマド。中古音:ヤマダ」
のよみを採用する必要があるとおもう。
これまで示したように、地名のよみ方と存在した範囲が確定していれば、自然地名と字
名の用例、地形語の解釈を基に、考古学上の成果と歴史書を参照して、小地名が失われて
いても曲がりなりにも推測はできる。だが日本全国を対象に、よみ方すら判らない地名を
相手にすれば、手の打ちようもなく、依然として絶望的な状況が引きつがれていると言わ
ざるをえない。さらに、邪馬台国問題に精通された方ならご存じのように、ここには地名
研究者が参加していない現実も無視できない。地域が限定されて、よみ方も、存在すらも
疑いようがない、平安時代の『和名抄』郷名への難渋な比定作業を体験した人が、これほ
どのものに、安直に手出しはしない。
いま必要なことは、性急に邪馬台国の比定地を求めるのではなく、先土器~平安時代の
考古学上の見解を基に、弥生時代後期の日本全国の様相を徐々に浮き彫りにすると同時に、
平安、奈良、飛鳥時代の文献記録から、古墳、弥生、縄文時代の各地方の中心地がどの様
な地勢、地形に立地したかを推理し、両者をクロスチェックしてゆく基礎的な作業が大切
だとおもう。これには畿内、北九州だけの狭い範囲を対象にする手法が採用できるはずも
なく、全国の一般的な傾向を探りだすには、東北地方から九州地方までを一律に扱う必要
がある。現在の趨勢では、弥生時代後期の様子は倭人伝諸国の比定からでなく、考古学上
の成果から、次のような事柄が明らかにされている。
132
「倭国の大乱:180 年代」と、卑彌呼没後の「倭国の乱:250 年代」は、戦闘防御施設の
「環濠集落」
、見張り台の「高地性集落」の発生と消滅時期の検証によって、前者が主に九
州地方と近畿地方の戦乱、後者は近畿地方と中部・関東地方の争乱だった史実が浮上した。
さらに、30 年ほど前には北九州、近畿地方のように、地方別に区分されていた弥生式土器
の変遷が統合された結果、倭国の乱をはさんで、中部・関東地方の土器が東海地方の影響
をうけて大変貌をとげたことが注目を集めた。古墳時代直前(270~300 年)に、近畿~関東
地方の集落から環濠が消える平和な時代をむかえた様相も現われて、地方毎に個性的な姿
をみせていた墳丘墓が、九州・中国・四国・近畿・関東地方では、前方後円墳の原形に想
定される、帆立貝型墳丘墓に変化した様子が知られている。
最近は、大韓民国の発掘調査が活発になったため、わが国独自の遺物と考えられてきた
筒型銅器や巴型銅器、前方後円墳が朝鮮半島にもあった事実が明らかにされた。三韓地方(主
に弁辰諸国)とわが国の交易も、2 世紀までは北九州が主体で、4 世紀から近畿地方との関
そ
な
か
や
き
め
係が深まるという。とくに注目を集めたのが、
「金官加耶国」の王墓に比定された金海市の
てそんどん
ぷ
よ
大成洞古墳群である。3 世紀に、従来の系譜とは異なる「夫余」を起源とした北方騎馬民族
の王墓が、旧来の古墳を壊して築造され、この時代以後に連続する王墓群は 5 世紀初頭に、
忽然と姿を消す様相が認められることが報告されている。
この状況は様々な推理を可能にして、なかでも注目されるのが、この北方騎馬民族の政
みまな
権がわが国に渡来したと考える説である。金官加耶国(従来、任那とよばれていた地域の中
心地)がわが国と密接な関係をもったことや、馬具・須恵器の渡来、人類学の上でも渡来人
(とくに畿内)の形質が朝鮮北部の「夫余」に近い様子が提起されていることなどから、こ
れらがどんな関係を有するかの解明が、焦眉の課題になっている。これまで、わが国の発
掘調査だけを基に発展してきた考古学が、韓国の発掘成果を交えて大きく変貌をとげ、年
ごとに定説が変化してゆく姿を目の当りにできるのは、考古学ファンにとって楽しいもの
である。ただ先土器・縄文・弥生時代の急速な進展に比べて、古墳時代の成果が、やや停
滞した状況にあるのは、宮内庁所管の「天皇陵、陵墓参考地」の発掘調査ができないこと
による。しかし地道な調査分析から、
『記・紀』『延喜式』の記録をもとに、江戸時代末か
ら明治時代初頭に定められた天皇陵の大部分が、築造年代が違う様子が明らかにされた。
こんだ
とくに著名な誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵古墳:大阪府羽曳野市誉田)と、『記・紀』に
ほむたわけ
記された誉田別尊(応神天皇)には半世紀ほど築造年が遅い年代差があって、大仙古墳(伝
仁徳天皇陵古墳:大阪府堺市大仙町)もおなじ状況が想定されている。
『古事記』にのる気比
、仁考の徳の記述を基
神社(福井県敦賀市曙町)の神の要請に応じて、名を換えた「応神」
おほさざき
『記・紀』への精密な分
にした「仁徳:大鷦鷯尊」の漢風謚号は奈良時代後期につけられ、
析結果によると、
「誉田別尊(応神天皇)、大鷦鷯尊(仁徳天皇)」のどちらかは存在しなかっ
た…同一人物:一人の伝承を二つに分けた…可能性も指摘されている。
考古学上では、すでに応神天皇陵、仁徳天皇陵の名を使わないことが暗黙の了解事項に
なっている。誉田山古墳、大仙(大山)古墳、または伝~天皇陵古墳と記さないと、考古学・
133
古代史への理解度が疑われてしまう。ピラミッドにも比肩される巨大古墳が、だれの墓で
あるかの検証すらできないのは困ったもので、私たちは歴史の授業でいったい何を習って
きたのかと考えさせられてしまう。
このように江戸時代まである程度踏査できた「天皇陵、陵墓参考地」を調査できない障
害があるため、古墳時代の研究では、後発の韓国の方が進展しているようにも見え、
「万世
一系」の天皇系譜を掲げた奈良時代の歴史改ざんが、現代にまで悪影響を及ぼしている。
文献史学の分野では、初代の神武天皇から 9 代目の開化天皇までは、架空の存在とする
のが定説化しており、崇神~仲哀天皇と、渡来系の応神天皇(先にあげた金官加耶国からの
渡来政権の可能性もある?)の間に、信憑性の薄い神功皇后が登場するため、仲哀⇔応神天
皇は無関係とする説が有力視されている。応神天皇の系譜も武烈天皇で途絶えたことは、
越前から登場した、やはり加耶諸国とふかい関係をもつ継体天皇の存在をみても明らかで
ある。『日本書紀』継体紀の最後に、『百済本紀』から引用した「日本の天皇および太子、
皇子ともに崩御す:辛亥の変」の記事がのせられ、この年(531 年)は、ヤマト政権を創設
した百済系(蘇我系)の欽明天皇の即位年…書紀は安閑・宣化天皇をはさんで 539 年と記す…
と同じ年であることが、
「上之宮聖徳法王定説」に記録されている。
さらに、『日本書紀』に天智天皇の弟と記され、中央集権体制を創設した天武天皇(天渟
中原瀛眞人:Ama no Nunafara Oki no Mafito)もまた、欽明天皇(天國排開廣庭:Amekuni Osifaraki
Fironifa)から天智天皇(天命開別:Ame mikoto Firakasu wake)の系譜とは異なる新羅系の
人物とする説が提起されている。これも文献考証から、天武天皇の年齢が天智天皇を上ま
う ののさ らら
わる可能性があることや、姪にあたる天智帝の娘の「大田皇女、鸕野讃良皇女(持統天皇:
高天原廣野姫:Takama no fara no Firono fime)、大江皇女、新田部皇女」の四人を娶ったこ
と、壬申の乱前後にとった大海人皇子の行動、百済を重視した天智天皇とは異なり、統一
新羅と関係をふかめたこと、天皇制度を確立した後の奈良時代後期にまで天智系と天武系
あめ
あめ
の確執があったこと、本名(和風謚号)の「天」のよみ方が異なること…天國排開廣庭と天
あま
あま
命開別は「天地開闢」の意味。天渟中原瀛眞人の天は、大海人と同じ「海」を表わす…な
どが理由にあげられている。
この解釈は、歴史の重大な論点であるが、本書もヤマト政権の欽明~天智朝と、中央集
権の天武朝は別種の存在と考えてみたいと思う。詳細にみると、この他にも播磨から招聘
された顕宗天皇の前に断点があるのは、
『古事記』飯豊王の記述に示されており、履中天皇
、反正天皇(瑞歯別:Mitufawake)の弟と記されながら、歴代天皇
(去来穂別:Isafowake)
をあさづまのわくご のすくね
でただ一人、和風謚号に宿禰を名乗った允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰←奈良県御所市朝妻)にも、
新規王朝の可能性を指摘する説があることには、耳を傾ける必要があるとおもう。
「万世一系」の天皇系譜が、飛鳥時代末から奈良時代初頭に作成された史実は『古事記』
序文に記され、古墳時代(300~710 年)の政権に断点がある原因は、朝鮮半島が戦乱期だ
ったように、400 年間が温暖、寒冷の時代をくり返した気候激変期にあったことによる。
134
世界の歴史をみても、この期間を一つの政権・政権が統治した国はほとんどなく、中国
は東晋(317 年)
・五胡十六国から南北朝(439 年)
、隋(589 年)
、唐(618 年)へ変容した。
朝鮮半島では楽浪・帯方郡の消滅(313 年)に始まり、弁辰から 4 世紀に独立した金官加耶
国の滅亡(532 年)に続いて、加耶諸国が全滅し(562 年)
、馬韓から 4 世紀に生まれた百
済の滅亡(660 年)
、紀元前後に成立した高句麗の滅亡(668 年)という激変の後に、統一
新羅(668 年)が生まれた。世界史の流れをみても、わが国だけが倭国の時代に全国が統一
され、激変のさなかに、同じ政権が続いたとは考えにくいのである。
邪馬台国研究は、弥生時代後期に倭国の中心がどこにあったかの解明が基本テーマだが、
この位置が畿内に比定されたとしても、すぐ欽明~天智朝のヤマト政権に結びつくことは
と
み
考えられない。これは神武東征伝にのるヤマト王権の創設が地元豪族の登美(奈良市鳥見町)
ながすね
し
き
の長髄彦や、磯城彦(桜井市金屋。式内志貴御縣坐神社所在地)を倒す話であり、この説話が 5
世紀初頭の河内王朝(応神・仁徳)の九州→畿内制覇の伝説に、6 世紀前半の継体、欽明帝
の伝承と、吉野から反旗を翻した 7 世紀後半の天武天皇の業績を加えた創り話であったと
しても、なんらの史実を伝えているのであろう。この様子をみても、弥生時代後期以来の
政権が存続した可能性はうすいと判定せざるをえない。
先に、邪馬台国の検証に地名を主体にする方法が採りにくいことを述べたが、この位置
が畿内、北九州、あるいは他の地方に比定されると話は違ってくる。邪馬台を呉音でよむ
「ヤメダイ」
、漢音の「ヤバタイ」は使用例のなさそうな地名だが、上古音、中古音に近い
「ヤマト、ヤマタ」が全国に分布する特性が効力を発揮する。再三のべたように、この地
名は「Yamato,Yamata=Yama:山、谷間、崖+mato,mata:±∨型の突端=扇状地」につ
けた例が多く、弥生時代の国名が律令期の国名、郡名に継承された例(一支国→壹岐嶋壹岐
郡。末盧国→肥前国松浦郡。伊都国→筑前国怡土郡)もあるので、起源地の推測ができる。
たとえば、「ヤマト」が畿内の大和国内を指すのであれば、起源地はヤマト川扇状地に
し き
しきしま
のる「奈良県桜井市金屋。 旧名:磯城 郡 城島 村 」が候補にあがる。この地は大和国磯城郡
やまと
し き むら
の起源地に想定されて、「神武東征伝」の磯城彦の支配地 ( 倭 国 磯城 邑 :神武記・紀)、
みづかき
かな さし
崇神天皇の都宮「磯城瑞籬宮」
、欽明天皇の都宮「磯城嶋金刺宮」に比定される重要な地で、
『万葉集』以来、和歌に詠まれた「磯城嶋のヤマト」という歌枕の使用法から、「大和国、
大和川」の起源地にも比定できる。多少問題があるのは、昭和 39 年の『河川法』改定以前
の大和川は、初瀬川(桜井市初瀬)と佐保川(奈良市法蓮町。佐保小学校所在地)合流点から
下流域のよび名であったことで、桜井市を流れる川は『記・紀』にも泊瀬川と記録されて
いる。ただ、川名は時代の推移にしたがって表わす範囲をかえる性質があり、いまと同じ
ように、上流域まで大和川と総称された時代はなかった、とは言い切れない。
このように、地名を主体に邪馬台国を探求するのは難しいとしても、ある程度の方向づ
けができれば、その傍証に地名研究の成果が威力を発揮するのは確実である。この辺が、
「国、
郡、郷」起源地名探求の本分であり、「万世一系」でない政権、とくに継体→欽明天皇の間
135
(531 年:辛亥の変)、欽明~天智天皇のヤマト政権と天武政権の間に断点があったと仮定し、
律令制度の国・郡すべてを提示して、全国名、郡名発祥地の分布を検証したい。まず継体
→欽明朝の間に断絶があった様子が、郡の歴史に残されているので、これを考えよう。
2
越国とヤマト政権の領域
こ し の み ち の し り
一般の古代史では、越国を分割して誕生したと考えられている越後国(古之乃三知乃之利
ぬ たり
いは ふね
た かは
→ヱチゴ)は、飛鳥時代末に「沼垂、石船、田川」の三郡で構成され、『大宝律令』公布後
く ぴき
い をぬ
こ
し
かむぱら
の大宝 2(702)年 3 月に、越中国から四郡(頸城、魚沼、古志、蒲原)を編入した。和銅
い ては
あ くみ
5(712)年には、越後国北部の「出羽(708 年設置)、田川、飽海」の三郡を分離し、出羽
国が独立した〈
『續日本紀』
〉
。
この経過に表われたように『大宝律令』公布以前、飛鳥時代後期の越中~越後国境は、
蒲原郡と沼垂郡の間に置かれたわけで、蒲原郡の推定起源地が「新潟市蒲原町、長嶺町:蒲
原神社所在地、古代の蒲原津。 Kamupara=Kamu.噛む:∪型地形+mupa:湿地端⇔pamu.食む:∪
ぬったり
、沼垂郡の起源地も、蒲原町に隣接する「新潟市沼垂東・西:
型地形+para.原:台地=湊」
沼垂郡沼垂郷、近世の蒲原津。 Nutari=Nuta.沼田、垈:湿地+tari.垂る:∪型地形=湊」に
(㊟ 左図に記された四角で囲んだ文字は、『和名抄』
比定できるところが重大な意味をもつ。
に載った郷名で、?が付けられている郷は、未確定の郷を推定した様子を表わしている。
図 7-8 蒲原と沼垂 左図:越後・佐渡の郡と郷(『新潟県の歴史』1970 山川出版社)
右図:Livedoor 地図
(2007)
今は道路と住居に変貌した蒲原~沼垂の間は、大洪水で流路が変わる江戸時代中期まで
阿賀野川本流が流れ、蒲原津の対岸に沼垂(近世の蒲原津)があったことが問題を提起する。
136
沼垂は、大化 3(647)年に渟足柵(Nutari no Saku:遺跡地は不明)を設営したヤマト政権
の前線基地であり、二郡の起源地名が隣接するのは全国で唯一ここだけであることから、
渟足柵は、越国の東北進出をおさえる意図で設置された歴史が浮かびあがる。
つまり、飛鳥時代末に越前・越中国だった蒲原郡以西の地は「越国」の領域で、沼垂郡
以北の越後国は「天智政権」の支配地と考えられるのである。
『日本書紀』孝徳紀 大化 2(646)年の最期の条に、
「今年、越国の鼠、昼夜相連なりて、
東に向かひて移りゆく」
。大化 3 年、渟足柵設置の項に「あまたの年、鼠東に向きてゆくは、
これ柵つくるきざしか」と記したのは、越の軍団と住民の東方への移動を「鼠=根住み(原
住民)」に例えた話と考えられて、蒲原にも柵が造られた様子を暗示している。
こ
し
お ほ ぴ こ
また古事記『崇神記』四道将軍の項にのる、朝廷の命により高志国へ派遣された大毘古命
たけぬなかは
が、東方諸国を平定してきた息子の建沼河別と会津で落ち合う記述も、なんらかの史実を
伝えているのであろう。江戸時代に会津若松藩領であった東蒲原郡(中世以前は沼垂郡)が、
廃藩置県で若松県に属し、明治 9 年に福島県へ統合された 10 年後(明治 19 年)に新潟県へ
移管された史実も、ヤマト政権に属した陸奥国會津郡、越後国沼垂郡の古代からの密接な
関係をうかがわせる。沼垂郡は、中世に蒲原郡へ編入されて消滅し、旧阿賀野川流路東部の
新潟市、阿賀野市、胎内市、新発田市と東蒲原郡、北蒲原郡に相当している。
図 7-9 越国の郡名起源地(推定)
『記・紀』に記された「高志国:記。越国:紀」
は 5 世紀まで越前国(現福井県・石川県)の領域
をさし、6 世紀に越中国(富山県)の範囲を加え
て国域を拡大したと考えられている。
この辺りは、越前~越中の郡の起源地名が海上
航路と陸路を主体にごく自然に海岸から離れた
台地端にほぼ当間隔に位置するのに対し、新潟県
では分散傾向をみせる分布状況が違う様子に表
現されている。この現象はどの地方にもみられて、
全国の傾向から判定すると、頸城郡以東の地域
(新潟県の範囲)は 6 世紀後半~7 世紀の開発が想定され、7 世紀中葉には新潟市内(蒲原⇔
沼垂)の攻防が北へ拡大する越国と、会津から阿賀野川を下って進出した天智政権の争点に
なったと推理できる(㊟ 越国の郡名起源地は、次の北陸道に提示)。
これが事実であれば、大化改新(646 年正月)は全国規模ではなかったことになり、越が
『日本書紀』に記された最後が持統天皇 3(689)年 7 月、越前国が最初に登場するのは持
統天皇 6(692)年 9 月であるため、この間(690 年秋。689 年 6 月制定の『飛鳥浄御原令』
の翌年)に、越国が中央集権の律令体制に組み込まれた史実が浮上する。周辺の情勢が落
ちついた 12 年後(702 年)に『大宝律令』を公布して越中―越後の国境を変更し、10 年後
137
(712 年)に出羽国を分離して、6 年後の養老 2(718)年に越前国から能登国を独立させた
史実をみても、当初から律令政府が旧越国内の状況を正確に把握していたとは考えにくい。
「越後」という旧ヤマト政権の領域にまで、隣国の名を採用した謙虚さ(?)は、史実捏
造の疑いをかけられても致し方ないのである。
同じ様子は、律令時代初期に分割された「日向→薩摩(702 年)、丹波→丹後(713 年)、
備前→美作(同年)、日向→大隅(同年)、上総→安房(718 年)」にもみられ、なぜこの諸国
が律令体制を確立したとき(690 年秋)に、分割されなかったかは問題視すべきであろう。
もうひとつ納得がゆかない史実は、最初の越後国府が沼垂郡(沼垂郷:推定)に置かれて、
越中~越後の国境変更の際、旧越中国府があった新越後国最西端の頸城郡(上越市)へ国府
を移動したことである。国境変更や国を新設した際には、租税徴収と流通の便宜をはかり、
国の中央に国府をおく律令時代の慣行をみても、この措置は異例としか映らない。
ふるこふ
たとえば越前国から独立した能登の国府が能登郡(中世に鹿島郡と改名)の七尾市古府町
におかれ、弘仁 14(823)年に、越前国から加賀郡・江沼郡を分割して誕生した加賀の国府
も能美郡…加賀国成立時に江沼郡から分離。石川郡も加賀郡(中世に河北郡へ改称)を分割…
こ
ふ
の小松市古府町に設置された史実も、国府を国の中央におく慣例に従っている。
明治 4 年の廃藩置県の際に、金沢藩(江沼郡と能美郡西部をのぞく石川県と富山県西部)の
領域から、旧加賀国の範囲(江沼郡、能美郡を含む)に縮小された金沢県は、県庁が金沢で
元金沢藩士の県政への介入を弱めるため、
明治 5 年 2 月に、
は北に片寄りすぎることに加え、
県庁を手取川河口の石川郡美川村に移転したことから、郡名をとった「石川県」に名を替
えた。だが、同年 9 月に旧能登国の七尾県を併合して県域を拡大したため、ふたたび県庁を
移動する必要がうまれ、明治 6 年 1 月、わずか一年の間に急激にさびれた金沢へ県庁(所属
は石川郡)を戻した後にも、県名だけが継承された史実も注目すべきである。
こうした史実を参照すると、大宝 2 年に誕生した新越後国では、強大な旧越国勢力の意向
をのんで、やむをえず国の最西端に国府をおいた様子を感じとれる。越後の交易の中心が
上越市の直江津から新潟に戻るのは江戸時代初頭、蒲原津にかえて新潟湊(新潟市湊町、船
場町、入船町、附船町付近:新潟市の起源地)を整備した元和 2(1616)年以後であり、寛文
12(1672)年に河村瑞軒が立案した「西廻り航路」の開設により、飛躍的な発展をとげた
新潟(駅北東の町名が蒲原、沼垂)には、意外な悲運の歴史が秘められているわけである。
ここで問題になるのが、
『記・紀』にのる天皇系譜である。大伴金村の要請によって越国
を
ほ
と
(後の越前国坂井郡)から登場した男大迹が、継体天皇として中央に進出した後、この子孫
とされた欽明~天智朝のヤマト政権に、なぜ越国が反抗したかという疑問である。
記録どおりに解釈すれば、越国が朝廷に逆らう理由はなく、渟足柵もまた東北開拓の拠
点とする通説に従うのが無難であろう。しかし先にふれたように、「継体紀」の最後にのる
「日本の天皇および太子、皇子ともに崩御す」の記事と、『上宮聖徳法王定説』を重視する
と、継体天皇は、欽明天皇と蘇我氏によって倒された可能性があるところが重要である。
138
もし、
「継体紀」の最後に疑問符をつけて記された 531 年の記述(辛亥の変)が史実であ
ったなら、信望の厚い男大迹(福井市内の足羽山に銅像が立てられている)の一族をヤマトへ
進出させて、失った越国の怨みは、骨髄に徹したものだったであろう。
この想いは、百年以上を隔てた渟足柵設置(647 年)までつづき、律令体制に組み込まれ
た後の越中~越後国境変更の際(702 年)に、政府が旧越国勢力の意向をのんで、越後国府
を旧越中国府の上越市においたのも、過去のしがらみに配慮したと考えてはどうだろうか。
この辺は、『日本書紀』国生み神話が、島でない越を「越洲:Kosi no Sima:領域?」と別
格に扱っているところに、共通点を感じとれる。
男大迹(449~531 年)は 58 歳の年に天皇の位を継いで、樟葉宮(Kutsufa:大阪府枚方市
楠葉)に 5 年、筒城宮(Tutsuki:京都府綴喜郡田辺町普賢寺:山城国綴喜郡の推定起源地)
に 7 年、弟国宮(Otokuni:京都府長岡京市井ノ内:山城国乙訓郡)に 8 年と、「磐余の玉穂
宮:奈良県桜井市池之内」というヤマトに入るまで、20 年の歳月(継体天皇は 78 歳!)を要
したと『日本書紀』は記した。
『古事記』は 43 歳で没したと記録するため、この経緯をど
のように捉えるかも問題になっている。
継体天皇(在位 507~531 年)の陵墓に指定された 5 世紀中葉の築造が想定される「太田
茶臼山古墳:大阪府茨木市太田」より、6 世紀前半に造られた「今城塚古墳:大阪府高槻市
郡家新町。付近は攝津国嶋上郡の郡衙推定地」を継体天皇の陵墓とするのが考古学上の定説
であり、なぜ継体帝が大和でなく、攝津に埋葬されたのを問題視すべきである。平成 16 年
に今城塚古墳の周囲から巨大埴輪群が大量に出土し、当時の祭祀が復元できるほどの質と
量のある埴輪の詳細な分析が、今後の古代史を書き換える可能性があるところに注目しな
ければならない。
平成 4 年に陵墓参考地の範囲外にあった入口から入り、玄室(石棺を収める部屋)と羨道
(玄室への通路:横穴)を撮った写真が公表されて話題を集めた「丸山古墳:奈良県橿原市
五条野町」は、奈良盆地最大の前方後円墳を欽明天皇の陵墓とする、考古学上の見解をはか
らずも立証する結果になった。が同時に、欽明天皇陵に指定される「梅山古墳:奈良県高市
郡明日香村平田」に誰が葬られているか、という変な問題も発生した。
応神天皇の 5 世の孫と伝えられた「加耶」系の継体天皇が、「百済」系の欽明天皇以後の
ヤマト政権の創始者であれば、大和に陵墓が造られたはずであり、両帝没後の扱われ方を
みても、継体(男大迹。531 年没:日本書紀)→安閑(廣國押武金日。531~535 年:日本書紀)、
宣化(武小廣國押盾。535~539 年:日本書紀)→欽明(天國押開廣庭。539 年即位:日本書紀)
(531 年即位:上宮聖徳法王定説)の系譜、とくに『日本書紀』に載る安閑・宣化天皇の記
述と、欽明天皇の即位年に、疑問が感じられる。
この辺を頭に置いて、北陸道の諸国を考えよう。
139
3
越前・越中・越後国
越国が『日本書紀』に記された最後が 689 年 7 月 23 日、越前国が最初に載るのは 692 年
9 月 21 日だったように、越国は律令国家が誕生した 690 年秋に『日本国』へ組み込まれた。
越国が、それ以前にヤマト政権(欽明~天智朝)に加わらなかった要因の一つに、中央から
の要請を受けて中央へ送り出した、男大迹(継体天皇)とその子孫を失ったことをあげた。
もう一つの大きな要因は、越国の巨大な生産力だった。これまであげた「稲作生産効率 畿
内七道分類」の表を再掲しよう。
表 7-27 稲作生産効率 畿内七道分類
道区分
祖稲束数
水田面積
生産効率
偏差値
山陰道
4,357,700
53,956
80.76
68.5
山陽道
5,862,600
84,942
69.01
60.4
北陸道
4,186,400
73,980
56.58
51.9
南海道
3,327,300
61,861
53.78
50.0
西海道
5,990,500 117,448
51.01
48.0
東海道
10,438,500 213,493
48.89
46.6
55,298
37.74
38.9
7,405,400 224,389
33.00
35.7
43,655,600 885,367
49.30
畿
内
2,087,200
東山道
合
計
租税の稲束数だけを見ると、北陸道は大したことがないように見えるのだが、山陰道が
「丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐」の 8 ヶ国の合計、山陽道も「播磨、
備前、美作、備中、備後、安藝、周防、長門」の 8 ヶ国、東海道は 15 ヶ国、東山道も 7 ヶ
国を集計した値である。
越国では「若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡」7 国の合計だが、律令時代以前
には「若狭国:24 万束」と、ヤマト政権の領域だった越後国北部(新潟市の旧阿賀野川以東:
約 30 万束)をのぞく、約 360 万束が「越国」の生産高であった。もちろん数値は平安時代
中期の推定値だが、
「越国」一国で畿内の稲作生産を軽く凌駕した実力が、5 世紀後半から
6 世紀前半に「継体天皇」を生み出した要因と考えたい。
『延喜式』に載る平安時代中期の国毎の祖稲束数、『和名抄』の国別水田面積を基に算定
すると、一国平均の稻束数は 64 万束、水田面積が1万 3 千町歩ほどと推定できる。なぜ、
面倒な計算をするかといえば、律令制度を実施した『飛鳥浄御原令:689 年』『大宝律令:
702 年施行』以降の歴史が、このデータに凝縮されているからである。
140
もっとも重要なことは、
「越、吉備、筑紫、豊、肥」国が分割された時期は、『日本書紀』
『續日本紀』を何度読んでも、持統天皇 4(690)年以外に考えられないことである。この
実例は持統天皇 4(690)年 9 月 23 日に「筑紫国上陽咩郡(Kamu tu Yame)
」
、同年 10 月 22
日に「筑後国上陽咩郡」と、筑紫から筑後へ国名が替わった貴重な記録が残されている。
平安時代中期に、旧越国全体の生産高が約 360 万束、旧吉備国が約 309 万束、筑紫国も
141 万束、豊国も 135 万束、肥国は 227 万束という値をとるところが不自然にみえる。
もしヤマト政権が、645 年前後に全国を統一していたなら、一律に租税を課したはずで、
国ごとの祖、すなわち、一国平均の稻束数を律令時代のように 60 万束前後に定めて国域を
決めて当然だった。むろん『大宝律令』施行から、
『延喜式』の間には二百年以上の年代差
があるので、補正も必要だが、それにしても差が大きすぎると思う。
もうひとつ不思議な現象は、越国を三分割したと伝えられる「越前、越中、越後」国の
中で、
『日本国』誕生の 690 年から『大宝律令』公布の 702 年まで、
「越後国」に旧越国の領
域が入っていなかったことである。この模様を旧所属評(新羅流の表現)…郡(唐風表現)
へは 702 年『大宝律令』で改称…名で表現すると次のようになる。
越前国
「敦賀、丹生、大野、足羽、坂井」
「江沼、加賀」「羽咋、能登、鳳至、珠洲」評
越中国
「礪波、射水、婦負、新川」
「頸城、魚沼、古志、蒲原」評
越後国
「沼垂、石船」
「田川、飽海」評
これらの諸郡は、
『大宝律令』公布以降、次のように所属国を換えた。(『續日本紀』記載)
大宝 2(702)年
越中国頸城郡・魚沼郡・古志郡・蒲原郡を越後国へ編入。
和銅元(708)年
越後国出羽郡を新設。
和銅 5(712)年
越後国出羽郡・田川郡・飽海郡を分離して出羽国を設置。
養老 2(718)年
越前国能登郡・羽咋郡・鳳至郡・珠洲郡を別けて能登国を分置。
弘仁 14(823)年
越前国加賀郡・江沼郡を分離して加賀国を設置。
先に述べたように、越国が中央集権の律令体制に組み込まれたのは 690 年だった。が、
最初の越後国に旧越国の領域を含めなかった慎重さも、周辺の情勢が落ちついた 12 年後
(702 年)に『大宝律令』を公布して、越中―越後国境を変更した。その 10 年後(712 年)
に出羽国を分離して、6 年後の養老 2(718)年に越前国から能登国を独立させた史実をみ
ても、当初から、律令政府が旧越国内の状況を正確に把握していたとは考えにくい。
このように、他の地域に類をみない大規模な国境変更をした「越」の諸国は、どのよう
な状況であったかを個別に検討しよう。
141
(1)若狭国(和加佐)
若狹国が越国、ヤマト政権のどちらに所属したかは解りにくい。しかし東大寺二月堂の
年中行事「お水取り」に対応して行なう、若狭井(福井県小浜市下根来)の「お水送り」の
神事をみると、行事が天平勝宝 4(752)年の大仏開眼から始まったとしても、古代からの
「若狭⇔大和」の密接な関係をうかがわせる。
国名の起源はこの「若狭井」に想定されて、
「若狭=Waka:湧く+kasa:浙す、傘:水に
浸ける」という湧水池が考えられそうである。律令時代以前の若狭国造は、いまの小浜市
を中心に活動したのだろう。
越国西端に天然の良港、敦賀があることや、律令体制に組み込まれた後に「越前、加賀、
能登、越中、越後西部、佐渡」へと分割された巨大な越国に対して、三方(みかた)
・遠敷
(おにゅう)のわずか二郡で立国した「若狹国」は、ヤマト政権の日本海への窓口として
重用されたと考えたい。畿内から琵琶湖の「今津―水坂峠―小浜」を結ぶ若狭街道が重視
されて、小国の若狭を立国したのだろう。この辺も、越国がヤマト政権に属していなかっ
た様子を留めた現象といえそうである。
もう一つの理由に、
『延喜式』にのる稻束生産高があがる。平安時代中期のデータだが、
「越前:103 万束、加賀:69 万束、能登:39 万束、越中:84 万束、越後:83 万束、佐渡:17 万
束」の合計 395 万束の越国(越後北部は旧ヤマト政権の領域)に対して、「若狭:24 万束」の
生産高は極端すぎるが、外交・公益面を考えると、小国であっても存在価値の高さが重要
だったようにみえる。さらに若狭に造られた前方後円墳が、次に述べる越前のそれに比べ
て畿内に近似するという点も気になるところである。
若狹国
び
か
た
を
に
ふ
お
ほ
ひ
三方郡(美加太)
遠敷郡(乎爾不)
大飯郡(於保比)
福井県三方郡三方町三方
式内御方神社、三方郷
福井県小浜市遠敷
若狹国造、遠敷郷、遠敷村、遠敷川
福井県大飯郡大飯町山田
式内大飯神社、大飯郷
天長 2(825)年設置
左図は若狭国と越前国の郡名起源地の推定図である。
三つの赤点は、西から「大飯、遠敷、三方」の起源地で、
黒点は、西から越前国「敦賀、丹生、今立、足羽、坂井」
と並んで、
「大野」だけが東の盆地に孤立している。
若狭国の郡名起源地は、海岸に近い小平地に位置して、
越前国の起源地は敦賀・坂井郡が湊に立地し、他の四郡
は海岸から離れた盆地、段丘端に存在する。これからあ
げる「加賀、越中」国の郡名起源地も、海岸平野の段丘
端に、ほぼ等間隔に並んでゆく。
142
若狭の領域は、越前と共に明治 6 年 1 月、今の福井県域に敦賀県(県庁は敦賀郡敦賀町)
として統合された。しかし明治 9 年 8 月に北部を石川県に、西南部は滋賀県へ吸収されて
敦賀県は消滅した。その後、敦賀県の復活運動が実り、明治 14 年 12 月に足羽郡福井町に
県庁を置いた福井県が誕生した。
この経緯に現われたように、旧若狭国の領域が、5 年間だけ滋賀県に属した史実が興味を
惹く。いまの若狭は、敦賀と共に大阪文化圏に入っていて、昭和 32 年に我が国最初の本格
交流電化をした北陸本線「敦賀~近江塩津」間を、京阪神間に直通運転をするため、平成
18(2006)年 9 月に直流電化へ変換したことが、これを表現している。
平成の大合併で、郷名(大字名)から郡名、町名が生まれた歴史が、誰にでもすぐ判った
「若狭国三方郡三方郷→福井県三方郡三方町三方」は、2005 年 3 月 31 日から「三方上中郡
若狭町三方」へ替わり、
「大飯郡大飯町」も 2006 年 3 月 3 日に「大飯郡おおい町」という
平成流の記号に換えられ、律令時代から 1,300 年続いた伝統を失った。これは、この地域
だけでなく、歴史を軽視する平成日本の特徴である。
若狭国府は福井県小浜市遠敷、国分寺は小浜市国分、一ノ宮は若狭彦神社:小浜市遠敷に
あって一地点に集中する。藤原宮から出た木簡には若狭国遠敷郡が「若佐国小丹生評」と
記されていて、702 年の『大宝律令』施行以前は、国名・評(郡)名の文字が違っていた様
子が判る。713 年の「好字二字化令」で当て換えた漢字より、古い当て字の方が読みやすい
のも皮肉な現象である。木簡では、調の「塩」を収めた例が多いところは注目すべきで、
北陸地方で『延喜式 主計上』の調に「塩」が記録されたのは、若狭国だけである。
若狭の推定起源地名:福井県小浜市下根来
143
(2)越前国(古之乃三知乃久知)
『記・紀』に記された「高志国:記。越国:紀」は、5 世紀まで越前国(現福井県・石川
県)の領域を指し、6 世紀に越中国(富山県)を加えて国域を拡大したと考えられている。
この史実をみると、越の起源は、やはり高志国造の領域を考えて良さそうである。
「こし:越」は峠を表わす地形語で、
「高志」が峠を意味したなら、
「木ノ芽峠、栃ノ木峠、
椿坂峠」など、越前を嶺北⇔嶺南に分ける山間の難所を意識してつけたのであろうか? 他
の地域で「~坂、~越」の名を広域名に使うときは、「鈴鹿、足柄、碓氷」など、個別の地
名を使った史実を見ると、「高志」が、峠の「越」を表わした可能性は薄いようにみえる。
「越し」には地形を表わす意味がないので、
「コジ、掘じ:コジル、掘り起こす」を原型
に想定すると、男大述(をほと:継体天皇)の伝承がある、福井市の足羽山麓でわずかに採
れた溶結凝灰岩の「笏谷石:しゃくだにいし」が頭に浮かぶ。笏谷石は、阿蘇山の溶結凝
灰岩と同様に加工し易いので、古墳時代の石棺に多用された。
九頭竜川扇状地を囲む山地にある、六呂瀬山古墳をはじめとする「丸岡古墳群:坂井郡
丸岡町」
、手繰ヶ城山・二本松山古墳などの「松岡古墳群:吉田郡松岡町」の 4 世紀中頃~
6 世紀中頃に造られた前方後円墳の玄室に納められた割竹型石棺、舟形石棺に排水孔をつけ
た独特の形で、阿蘇の凝灰岩は関西地方でも使われたのに対して、笏谷石は「越国」だけ
で使われたのが特徴という。前方後円墳が多い丸岡・松岡古墳群でも、舟形石棺は九州と
の関係が窺われ、畿内の長持型・家形石棺の影響を受けていない点が注目されている。
この古墳群の地図を見ていて気がついたのだが、標高 273m の二本松山の南側鞍部に、松
岡町越坂と永平寺町諏訪間をむすぶ「越坂峠」がある。この峠は 5 万分の 1 地形図に載っ
てないので考えなかったが、6 世紀初頭に山頂へ築かれた「二本松山古墳」は、越国造を埋
葬した可能性があるといわれるので、越坂が、「越国」の起源地名だった可能性もあるかも
しれない。しかし足羽山から、2 トンもの家形石棺を 270mの山頂へ、どうやって運んだの
だろうか?
本サイトは、笏谷石がとれた足羽山の山頂に、親しみぶかい男大述の石像も
あるので、ここを「高志」の起源地と推理したい。角鹿国造を受け継いだ敦賀郡、三国国
造の坂井郡を見ると、高志国造の領域は、足羽郡と考えられそうである。
こし
みち
くち
大国「越」は持統天皇 4(690)年秋に律令体制に入り、
「越前:越の道の前→エチゼン」
こし
みち
なか
こし
みち
しり
「越後:越の道の後→エチゴ」へと三分された。
(実際は
「越中:越の道の中→エッチュウ」
二分。最初の越後国はヤマト政権の評だけで構成した:後述)
越前国は「敦賀、丹生、大野、足羽、坂井、江沼、加賀、羽咋、能登、鳳至、珠洲」の
11 郡で生まれた。だがこの国域は大きすぎたようで、養老 2(718)年に能登半島の「羽咋、
能登、鳳至、珠洲」郡を分離して、能登国を立国した。さらに一世紀後の弘仁 14(823)年
に「江沼、加賀」郡の範囲を分割し、「江沼、能美、石川、加賀」郡の四郡に増設した加賀
国を設置した。
144
律令体制を整えて国域を決め、
『大宝律令』を定めた後に国を分割した例は多いが、二国
を分離したのは「越前国」と、大宝 2 年に薩摩国、和銅 6(713)年 6 月に大隅国を分けた
「日向国」だけだった。
「日向、薩摩、大隅」国に関しては、のちの西海道で考えたい。
能登国・加賀国を分離した「越前国」は、平安時代中期の『和名抄』の時代には、6 郡に
縮小していた。
越前国
つ
る
が
に
ふ
い
ま
た
お
ほ
の
あ
す
は
さ
か
の
敦賀郡(都留我)
丹生郡(爾不)
ち
今立郡(伊萬太千)
大野郡(於保乃)
足羽郡(安須波)
ゐ
坂井郡(佐加乃井)
福井県敦賀市角鹿町、曙町
角鹿国造、式内角鹿神社、敦賀町
福井県武生市丹生郷町
丹生郷、丹生驛
福井県鯖江市乙坂今北町?
弘仁 14(823)年設置
福井県大野市清瀧
式内国生大野神社、大沼郷、大野町
福井県福井市足羽
式内足羽神社、足羽郷、足羽川
福井県坂井郡三国町神明
三国国造、式内坂名井神社(神明神社)
越前国は二国を分離したが、それでも『延喜式 巻 22 民部上』にのる国の等級は「大国」
であり、102 万束の生産高をあげて、全 64 国中の 8 位に位置した。
図 7-28 全国の国別、稲束生産高ベスト 10(平安時代中期)
国
名
道区分
国 等級
稲束数
水田面積
生産効率
偏差値
順位
1
常
陸
東 海
大 国
1,846,000
40,092
46.04
44.0
47
2
陸
奥
東 山
大 国
1,582,700
51,440
30.76
36.0
60
3
肥
後
西 海
大 国
1,579,100
23,500
67.19
55.1
24
4
播
磨
山 陽
大 国
1,221,000
21,414
57.01
49.8
30
5
近
江
東 山
大 国
1,207,400
33,402
36.14
38.8
56
6
武
蔵
東 海
大 国
1,113,800
35,574
31.30
36.3
58
7
上
総
東 海
大 国
1,071,000
22,846
46.87
44.4
45
8
越
前
北 陸
大 国
1,028,000
12,066
85.20
64.6
5
9
下
総
東 海
大 国
1,027,000
26,432
38.85
40.2
52
10
出
羽
東 山
上 国
973,400
26,109
37.28
39.4
55
注目すべきは、稲束数を水田面積で割った「稲作生産効率」の偏差値を高い順に並べた
ランキングで東日本随一、全国 5 位に位置したのが大国「越前」だった。
これは、6 世紀初頭築造の二本松山古墳出土の朝鮮半島南部、伽耶風の金銅製「王冠」に
見られるように、渡来技術、とくに鉄製品の利用と治水技術を駆使して、九頭竜川の造っ
た福井平野を開発した 5~6 世紀の「男大述」一族の尽力の賜物と考えてみたい。
「稲作生産効率」の偏差値を高い順に並べたランキングを作ると、おなじ日本海沿岸の
諸国、山陰地方が上位を占めるのが興味をひく。
145
表 7-29
国
名
1
但
2
全国の稲束数と水田面積、稲作生産効率(平安時代中期)
道区分
国 等級
稲束数
水田面積
生産効率
偏差値
馬
山 陰
上 国
740,000
7,555
97.95
71.3
丹
後
山 陰
中 国
431,800
4,756
90.79
67.5
3
因
幡
山 陰
上 国
710,900
7,914
89.83
67.0
4
安
藝
山 陽
上 国
632,000
7,357
85.90
65.0
5
越
前
北 陸
大 国
1,028,000
12,066
85.20
64.6
6
伊
豆
東 海
下 国
179,000
2,110
84.83
64.4
7
土
佐
南 海
中 国
528,700
6,451
81.96
62.9
8
伯
耆
山 陰
上 国
655,000
8,161
80.26
62.0
9
石
見
山 陰
中 国
391,000
4,884
80.06
61.9
10
安
房
東 海
中 国
342,000
4,335
78.89
61.3
11
長
門
山 陽
中 国
361,000
4,603
78.42
61.0
12
若
狹
北 陸
中 国
241,000
3,077
78.32
61.0
13
伊
賀
山 陰
下 国
317,000
4,051
78,25
60.9
14
相
模
東 海
上 国
868,100
11,236
77.26
60.4
15
出
雲
山 陰
上 国
695,000
9,435
73.66
58.5
「稲作生産効率」の偏差値ランキング・ベスト 15 を見ると、「但馬、丹後、因幡、安藝」
のように、山陰の国々がランクされることが判る。そこでこの並び方を換えると、諸国は
「越前(64.6)
、若狭(61.0)、丹後(67.5)、但馬(71.3)、因幡(67.0)、伯耆(62.0)
、
出雲(58.5)
、石見(61.9)
、長門(61.0)
」と、有機的な関係をもつ配列になる。
東から西へ、いまの「福井・京都・兵庫・鳥取・島根・山口」の日本海沿岸、北陸西部
と山陰地方の各府県が、平安時代中期に稲作生産効率が高かった様子が浮上する。これは、
古代史の定説を裏付けているので、検証は山陰道で行ないたい。
こうして様々な角度から「越国」
、とくに越前国を眺めると、古墳時代~平安時代まで、
我が国屈指の活動を続けていた姿が浮かびあがる。
越前国府は丹生郡:福井県武生市内(位置は未確定)、国分寺は武生市京町、一ノ宮は気比
神宮:敦賀市曙町である。なお、父の藤原為時が越前国司を務めたため、紫式部の伝承を
のこす武生市は、今立郡今立町を併合した 2005 年 10 月 1 日に、越前市へ改名した。
越の推定起源地名:福井県福井市足羽(足羽郡)
146
(3)加賀国(加賀)
越前~越中国の間に、ちょっと異質の「能登、加賀」国が挿まれるのは、両国が奈良・
平安時代に越前国から独立して、国名に「能等国造、賀我国造」を継承した郡の名を採用
したためであった。
加賀国は弘仁 14(823)年に越前国より立国した、律令時代最後に設立された国である。
旧越前国加賀郡・江沼郡を分離して、加賀郡から石川郡、江沼郡から能美郡を分割して生ま
れた。「賀我国造」を継承した加賀郡の起源地名は、
「石川県河北郡津幡町加賀爪」に比定
できる。
付近は、近代に干拓される以前は河北潟の湊だったが、北陸本線と七尾線、国道 8 号と
159 号線の分岐点に近い、交通路の要衝に位置する。
「加賀爪=Kaka. 欠く:崖、湊+katu.
カツカツ打つ:崖、湊+tume. 詰め:崖」と解釈できる付近の地質は、この地域に珍しい
花崗岩で、鉱物資源を採掘した可能性があるところは注目すべきである。
江戸時代に加賀藩 5 代目藩主の前田綱紀が、津幡町潟端に「加賀神社」を創祀したのも、
当時の伝承や文献資料の分析から位置を比定したのだろう。
倶梨伽羅峠を越えた、富山県小矢部市の桜町遺跡から、昭和時代末から平成 9 年にかけ
ての発掘調査により、重要な史実が浮かびあがった。縄文時代中期に「高床式建物」が存
在し、その部材も「渡腮仕口:わたりあごしぐち」という、はめ込み方式の建築部材や、
壁面は「網代壁」という古墳時代以後に想定されていた手法が使われたことが判明した。
縄文時代の建築技法の素晴らしさを教えてくれた遺跡が、峠を越えた交通路の要衝、
「加賀」
でも発掘されることを期待しているのだが、まだ、望みは叶えられていない。
旧国名と同じ名の郡は、どの地域でも国名との区別をはっきりさせるために、律令時代
が終わると改名される宿命を背負っていた。定型に従って、
「加賀国加賀郡→加賀国河北郡
(潟湖の名称)
。能登国能登郡→能登国鹿島郡(七尾の古名が香島津)」へ変更された。
加賀国:弘仁 14(823)年 6 月 4 日、越前国より立国、律令時代最後に設立された国。
旧越前国加賀郡・江沼郡。石川郡は加賀郡、能美郡は江沼郡から分離。
江沼郡(えぬま)
石川県加賀市大聖寺
江沼国造、江沼神社
能美郡(のみ)
石川県小松市能美町
野身郷、能美荘
弘仁 14(823)年設置
石川郡(伊之加波)
石川県松任市源兵島町
石川村、石川小
弘仁 14(823)年設置
加賀郡(かか)
石川県河北郡津幡町加賀爪
賀我国造
い
し
か
は
現在も使われる石川県石川郡の起源地名は、もと石川郡石川村を名乗った松任市源兵島
町付近に比定できる。石川は、手取川(推定起源地:石川郡美川町手取町)の別称と伝えら
れて、かつては加賀国石川郡と能美郡の郡界を流れていた。
147
しかし江戸時代中期の大洪水により、手取川の流路が南西に移動し、源兵島町と手取町
は手取川流域にない変則的地名になった。
なお、
松任市と石川郡美川町は 2005 年 2 月 1 日、
白山市に統合された。
左図は、
「加賀、能登、越中」国の郡名起源地群である。
日本海に沿って、西から加賀国「江沼、能美、石川、加賀」
郡、これに続くのが越中国「礪波、射水、婦負、新川」郡、
赤点が南から能登国「羽咋、能登、鳳至、珠洲」郡である。
この「能登」郡の起源地名が、能登半島中央にあるところ
を御記憶いただきたい。
越前からつづく、加賀・越中の郡名起源地群がおおよそ
国道 8 号線、北陸本線…平成 27 年 3 月 14 日から、金沢以西
を第三セクターの「IRいしかわ鉄道」、富山県内は「あいの
風とやま鉄道」
、新潟県内を「えちごトキめき鉄道」に移管…沿いに分布し、律令時代の地域
区分が「北陸道」だったことに納得がゆく。
こ
ふ
しらやま ひ
め
加賀国府は石川県小松市古府町(能美郡)、国分寺も小松市古府町、一ノ宮は白山比咩神
はくさん
はくさん
社:白山市白山町(石川郡)である。
加賀の推定起源地名:石川県河北郡津幡町加賀爪(加賀郡)
148
(4)能登国(能登)
能登国は、養老 2(718)年 5 月 2 日に越前国から立国したが、天平 13(741)年、越中
国に吸収されて、天平宝字元(757)年に再分離した。同じ経過を安房国、佐渡国、和泉国
もたどり、聖武天皇の気まぐれとも見える政策は、いかにも独占君主の専制時代という感
じがする。能登が越中国に属した天平 18(746)年から、天平勝宝 3(751)年まで、大伴
家持が越中国司を務めて、越中のみならず、能登の歌も詠んだ。
香島より
熊来をさして 漕ぐ舟の
舵とる間なく 都し思ほゆ
巻十七 4027
珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり
巻十七 4029
旧越前国の「羽咋、能登、鳳至、珠洲」郡を分離して生まれた能登国は、能等国造の名を
継承した「能登郡」の名を国名に採用した。
この名は「のと:喉」と、倒置語の「との、殿:一段髙い段丘」の意味を合わせてつけ
た「石川県鹿島郡鹿西町能登部下:式内能登比咩神社所在地」が起源地名にあがる。昭和時代
に干拓して縮小した邑智潟(推定起源地:石川県羽咋市飯山町。邑智中学校所在地)は、今も
羽咋市内に残っているが、古代には南の宝達丘陵と北の眉丈山系に挟まれた邑智潟地溝帯
の半島中央までの大きさがあった。喉状の入江…比咩(姫)の名をもつ神社は、おおよそ湊
に立地…にあった能登部(喉辺)が注目されたのである。能登(喉)に対して邑智潟の入口に
ある羽咋が、
「吐く+食ひ=潟湖の口」の意味を持つのが素晴らしい。
縄文~室町時代の国指定の寺家遺跡がある羽咋から、かつては邑智潟を能登部まで航行
し、能登部から 10 ㎞ほど歩けば能登国府(七尾市古府町)に着き、ここから船で川を下り
七尾湾をへて、日本海に抜ける能登半島を縦貫する交通路が重用された。
能登国:養老 2(718)年、越前国より立国。天平 13(741)年に越中国へ吸収。
天平宝字元(757)年再分離。旧越前国能登郡、羽咋郡、鳳至郡、珠洲郡。
能登郡(のと)
は
く
ひ
羽咋郡(波久比)
ふ
け
す
す
石川県鹿島郡鹿西町能登部下
能等国造、式内能登比咩神社、能登部村
石川県羽咋市羽咋町、川原町
羽咋国造、式内羽咋神社、羽咋郷
し
鳳至郡(不希志) 石川県輪島市鳳至町
珠洲郡(須々)
石川県珠洲市三崎町寺家
式内鳳至比古神社、鳳至谷村、鳳至川
式内須須神社、珠洲岬
羽咋―能登部-香島津(七尾)の航路と陸路は、羽咋―輪島―珠洲岬を大回りする能登半島
一周航路より重用された。越の交易が活性化する 6 世紀から平安時代まで、能登は高句麗・
新羅、とくに渤海国への窓口として福良津などが重用された。しかし律令時代に大陸との
交易で重視された能登も、武家社会の時代に入ると次第に存在価値を失っていった。
149
越前国でふれたように、日本海に面した越国は、大陸との交易が活発だった山陰地方と
ふかい関係を持っていた。この様子は、能登国珠洲郡の珠洲岬先端にある式内須須神社には、
に
に
ぎ
このはなのさくや
み
ほ
す
す
み
天つ神の瓊瓊杵尊、木花之開耶姫命と共に国つ神の美穂須須見命が祀られている。この神は、
『出雲国風土記』嶋根郡美保郷にのる御穂須須見命…式内美保神社(島根県八束郡美保関町
こ
し
『風土記』の国引き神話に、高志の都都三埼(Tutumisaki=
美保関)の祭神…と同じ名で、
く にこく にこ
珠洲岬)を「國來國來」と引っ張ってきたのが美保埼と記録されている。これだけでなく、
弥生時代後期(3 世紀)に出雲を中心に、北陸地方にも造られた、「四隅突出型墳丘墓」が
越前・越中にみられることが、山陰地方との関係を残している。
下図は、四隅突出型墳丘墓と共に、参河国の発祥地に想定される「二子古墳:愛知県安
城市桜井町」がある東海地方から広がったと考えられている初期「前方後方墳」の分布を
〈2015 洋泉社〉に載る図を転載させて頂いた。
記入した、
『歴史 REAL 古代史の謎』
図 7-10
四隅突出型墳丘墓と初期前方後方墳の分布
にしたに
四隅突出型墳丘墓の最大規模を誇る、出雲の西谷三号墳(島根県出雲市大津町字西谷)は、
第三章『言葉と地名』の「3.峠名の解き方 ⑺
才ノ峠」で取り上げたが、図に記された
3 世紀後半から築造した、初期「前方後方墳」の分布域も興味をさそう。
関東では常陸、下野、上野、武蔵北部に多い 3 世紀から 5 世紀に造られた「前方後方墳」
には 100mを超す巨大古墳は少ない。「前方後円墳」のように地域の首長・国造を葬った例
もあるが、両者の差をどのように捉えるかは、まだ定説がない。
150
4 世紀中葉に築造されたため、図 10 に載っていない
が、
『能登』の起源地に想定される式内能登比咩神社の北、
眉丈山系の雷ヶ峰頂上にある「雨の宮古墳群:鹿島郡
鹿西町能登部上、西馬場」に約 40 基の円墳と、墳丘の
長さが 64mの前方後方墳「雨の宮 1 号墳」
、長さ 65m
の前方後円墳「雨の宮 2 号墳」が併存する。同じ大き
さの前方後方墳と前方後円墳が、前方部を向け合って
二基だけ突出した姿を見たのは初めての体験だった。
あめのひかげひめ
かつて 1 号墳の前方部に式内「天日陰比咩」神社が祀
られて、通称が雨乞いも行なう「雨の宮」だったため
にこう呼ばれるという。天日陰比咩神社はもう一ヶ所
あり、地図の東、邑智潟地溝帯の反対側、能登国二宮
い
す
る
ぎ
ひ
こ
の式内「伊須流岐比古」神社がある石動山への登山道の
入口、鹿島郡鹿島町二宮に鎮座している。こちらの天
す じん
み
ま き
日影比咩神社は菊の御紋章を掲げて、崇神天皇(御間城
いりぴこ い
に
え
入彦五十瓊殖)との関係を強調している。
5 万分の 1 地形図
い ざ な ぎ
氷見
能登部付近
あめのまひとつ
伊須流岐比古神社の祭神は「伊奘諾尊、伊須流岐比古」だが、ここに「天目一箇:製鉄
鍛冶の神」が祀られているのが気にかかる。石動山(Isuruki=Isu:石と同意+suru. 擦る
+ruki⇔kiru. 切る)の山名と、この登山口にある天日影比咩神社に応神天皇も祀られてい
るので、崇神天皇の時代に、鉄製武具の製造をした様子を伝えるのだろうか?
加賀の発祥地に想定した津幡町加賀爪と共に、石動山の地質も付近に珍しい花崗岩なの
で、まず、今は認められない類推をした。国名・郡名の発祥地が花崗岩と関係を持つのは、
東日本では美濃国「三野、本巣」国造くらいだが、西日本では、地質条件を度外視して国・
郡の起源は考えられないので、次章で詳しく検証したい。
ろくせいまち
か し ま まち
付近にはもう一つ大切な古墳があり、鹿西町に隣接した鹿島町…両町は 2005 年 3 月 1 日に
と り や まち
ちょう
おほいりき
鳥屋町を交えて鹿島郡「中能登 町 」へ統合…小田中には、崇神天皇の子、大入杵皇子が葬ら
れたと伝わる宮内庁管轄、帆立貝型前方後円墳の「親王塚」がある。木曽義仲、倶利伽羅
峠の戦いを描いた『平家物語』は、能登における源平合戦で小田中の親王塚に源氏軍が陣
を張った様子を記録した。親王塚から二面の三角縁神獣鏡を出土したことも知られるが、
旧街道を挟んで、やはり宮内庁所管、墳丘長が 72mの前方後方墳「亀塚古墳」がある。
四つの古墳では、4 世紀中頃に「雨の宮1号墳:前方後方墳」
、4 世紀後半に「親王塚:
帆立貝型前方後円墳」
「雨の宮 2 号墳:前方後円墳」の築造が推定されている。亀塚古墳の
築造年代は不明だが、前方後方墳の形態を考慮すれば、雨の宮1号墳と同時期の築造を考
むらじ
えてみたくなる。『古事記』に記された大入杵皇子は、崇神天皇と尾張の 連 の祖とされる
お
ほ
あ
ま
ひ
め
意富阿麻比売の皇子で、東海・中部地方に多い前方後方墳、畿内を中心においた前方後円
墳が 4 世紀に併置されたことは、越国と初期ヤマト王権の良好な関係を描き出している。
151
なぜこんな細かいことに触れるかというと、十代目の崇神天皇は、記・紀にのる天皇の
中で、
『古事記』が「初国知らしし御真木の天皇」、
『日本書紀』が「御肇国天皇:はつくに
しらす すめらみこと」と記した、実在した可能性がある最初の天皇だからである。
現代文献史学では、初代の神武から九代目の開化天皇までを『欠史九代』として、架空
の話と考えるのが普通である。そのため、記録に残るヤマト王権最初の大王が、越と深い
関係を持ったところが注目される。
史実とは考え難いが、
「神功皇后記」にのる越前国一ノ宮の気比神宮(福井県敦賀市曙町)
い
ざ
さ
わ
け
ほ む た わけ
の神、伊奢沙和気の要請に応じて名を交換した応神天皇(誉田別)の伝説も、ヤマト王権
と越国との良好な関係を示している。
(㊟ 天皇の和風諡号は『日本書紀』の表記を使った)
この関係が崩れたのは、応神天皇五世の孫と記された、越前の丸岡町高向から中央への
を
ほ ど
進出を要請された継体天皇(男大迹)の事件だった。この一族が滅ぼされた可能性を見せる
「継体紀」の最後に疑問符をつけて、『百済本記』から引用した 531 年の記述…「日本の天
皇および太子、皇子、ともに崩御す:辛亥の変」…が史実だったと考えると、ここから越国
とヤマト政権の関係が悪化した様子を想像できる。
ここまで考えなくても、応神天皇の 5 世の孫という「加耶」系の継体天皇が、「百済」系
の欽明天皇以後のヤマト政権の創始者であったなら、摂津国嶋上郡の「今城塚古墳:大阪府
高槻市郡家新町」ではなく、大和に陵墓が造られたはずであった。
古代史研究の妙味は、
『古事記・日本書紀』の記録が絶対正確とはいえないので、個人の
推量を加えられるところである。文献史学と考古学の知見のみならず、ここに、未解明の
『地名』の論理が加えられることを認識して頂きたいとおもう。
ふるこう
能登国府は石川県七尾市古府町(能登郡)、国分寺は七尾市国分町、一ノ宮は気多神社:
羽咋市寺家町(羽咋郡)である。
能登の推定起源地名:石川県鹿島郡鹿西町能登部下(能登郡)。2005 年 3 月 1 日に鹿島郡
中能登町能登部下に変更。
昭和時代後期の郡名変更は昭和 43 年の長野県「西筑摩郡→木曽郡」があがるだけだが、
平成時代には石川県「鳳至郡+珠洲郡→鳳珠郡」
、福井県「三方郡→三方上中郡」などの改
名が行なわれた。中世に名を替えた「加賀郡、能登郡」には賀我国造・能等国造の起源地名
が残されており、いまは観光資源として力を発揮しそうなので、きわめて地味な「河北郡、
鹿島郡」を元の名に戻しては如何であろうか?
152
(5) 越中国(古之乃三知乃奈加)
越中国が歴史書へ初めて登場したのは、
『續日本紀』大宝 2(702)年 3 月 17 日「越中国
の四郡を分かちて越後国に属す」の記事だった。
この記録から、越を分割した最初の越中国は、
「礪波、射水、婦負、新川、頸城、古志、魚沼、
蒲原」郡で構成されていた様子が判る。左図に
平安時代に古志郡から別れた三嶋郡の起源地
(柏崎市)を入れたので、690~702 年までの越
中国とは少し違うが、佐渡島の右下、新潟市内
の二点、
「蒲原―沼垂」の間を流れていた旧阿賀
野川を、最初の越後国との国境にしたのであっ
〈136P の図 7-8 蒲原と沼垂に表示〉
た。
これまでとりあげた東日本の郡名起源地のどこにもなかった隣町…西日本も同様…新潟
市中央区「蒲原町」と「沼垂:ぬったり」の地名を採った二つの郡が隣接し、ここに国境
線が引かれた。蒲原は「蒲原津」と呼ばれた越国北端の重要港で、沼垂は大化 3(647)年
に渟足柵(Nutari no Saku)を設営した、天智政権の最前線基地だった。
この異様な状況が何を語るかは、すぐお判りになるだろう。
越中国
と
な
み
い
み
つ
ね
ひ
に
ふ
礪波郡(止奈美)
射水郡(伊三豆)
婦負郡(禰比)
か
富山県小矢部市埴生
砺波山(倶利伽羅峠)
富山県高岡市二上
伊彌頭国造、式内射水神社、射水川
富山県富山市呉羽町
式内姉倉比賣神社、婦負の野(万葉集)
は
新川郡(邇布加波) 富山県富山市新庄町
新川神社
越中国から越後国へ編入された郡
く
ぴ
き
み
し
ま
○頸城郡(久比岐)
三嶋郡(美之末)
○古志郡(こし)
い
を
の
か
む
ぱ
ぬ
た
り
い
は
ふ
○魚沼郡(伊乎乃)
ら
○蒲原郡(加無波良)
新潟県糸魚川市大和川
久比岐国造、国造神社
新潟県柏崎市三島町、剣野町
式内三嶋神社、三島郷、三嶋驛
新潟県長岡市
高志深江国造
新潟県南魚沼郡湯沢町神立
式内魚沼神社、魚野川、湯沢温泉
新潟県新潟市蒲原町、長嶺町
蒲原神社、古代の蒲原津
新潟県新潟市沼垂東・西
渟足柵、沼垂郷、近世の蒲原津
新潟県村上市岩船、三日市
磐舟柵、式内石船神社、岩船村
越後国
沼垂郡(奴太利)
ね
石船郡(伊波布禰)
磐舟柵の設置は 648 年。
153
越中国から越後国に編入された四郡は、6~7 世紀の設置が考えられているが、6 世紀ま
でに設けた越前・加賀・能登・越中国の各郡とは違い、郡名起源地の間隔が離れている。
これは越国の東方への拡大を意味するが、ヤマト政権による渟足柵設置に続いて、翌年、
磐舟柵へ拡大した史実を見ると、越国の東方進出は完全に抑え込まれたとみて良いだろう。
二つの柵の名を越後国「沼垂、石船」郡に採用したのは、陸奥国北部と同じである。
690 年秋に律令体制に組み込まれて越国は二分された。が、
「越前、越中」国はいずれも
8 世紀初頭に国域を縮小された。これは、律令政府が「越前、越中」国の実情を知らなかっ
たことに加え、越後国を造るには、
「蒲原⇔渟足」で対峙していた越とヤマト政権の勢力を
すぐには一緒に出来ず、時間が必要だったからだろう。
大宝 2 年以降、四郡に減らされた越中国は、意外なことに、越前国と国情が違っていた。
この史実を表わす、北陸道各国の稲束数と水田面積、稲作生産効率の偏差値をあげよう。
表 7-30
国
名
道 区
北陸道諸国の稲束数と水田面積(平安時代中期)
稲束数
水田面積
郡数
分
一郡水田
郷数
面積
一郷水
国等級
偏差値
田面積
全国の
順位
越
前
北 陸
1,028,000
12,066
6
2,011
55
219
大国
64.6
5
若
狹
北 陸
241,000
3,077
3
1,026
21
147
中国
61.0
12
越
後
北 陸
833,500
14,997
7
2,142
34
441
上国
49.0
31
加
賀
北 陸
686,000
13,766
4
3,442
30
459
上国
46.0
36
能
登
北 陸
386,000
8,205
4
2,051
26
316
中国
44.5
43
越
中
北 陸
840,400
17,909
4
4,477
42
426
上国
44.5
44
佐
渡
北 陸
171,500
3,960
3
1,320
22
180
中国
42.6
48
4,186,400
73,980
31
2,386 230
322
641,990
12,982
8.7
1,494 59.6
219
北陸道集計
全国の一国平均
歴史資料としてほとんど利用されない『和名抄 水田面積』の記録が、こんなところに応
用できるのが素晴らしい。
「越前、若狭」国は、稲作生産効率が 60 以上で、弥生時代から
先進地域だった山陰諸国と同一レベルにあった様子を想定できる。
ところが、加賀以東の元越国の領域は、偏差値 50 以下、生産効率が全国平均を下回るの
である。これは土地条件と気象条件によったのだろうが、
「越中(18,000 町)>越後(15,000
町)>加賀(14,000 町)>越前(12,000 町)
」の水田面積どおりに、稲作生産ができなか
ったのは不思議にみえる。
そこで見方を替えて、律令時代に、国が成人男子に一定の口分田(2 反)を与えた制度に
注目し、稲束数を郷数で割ると、各国における一郷あたりの納税高(祖)を算出できる。
154
日本史で習ったように、律令時代の祖は一定値…口分田の収穫から一反につき稲 2 束 2 杷:
収穫高の約 3%。706 年以降は 1 束 5 杷…をとったと覚えたが、国毎に計算すると全く違った
値になる。一郷あたりの稲束数を使って、全国の模様を調べてみよう。
表 7-31
一郷あたりの稲束数が多い国と、少ない国の順位
郷数
稲束/郷
国
名
区分
稲束数
833,500
34
24,500
河
内
畿 内
401,000
80
5,000
北 陸
686,000
30
22,900
山
城
畿 内
424,100
78
5,400
中
北 陸
840,400
42
20,000
攝
津
畿 内
480,000
78
6,200
甲
斐
東 海
584,800
31
18,900
大
和
畿 内
554,600
89
6,200
備
前
山 陽
956,600
51
18,800
美
濃
東 山
880,000
131
6,700
越
前
北 陸
1,028,000
55
18,700
參
河
東 海
477,000
70
6,800
豊
後
西 海
743,800
42
17,700
尾
張
東 海
472,000
69
6,800
肥
後
西 海
1,579,100
99
16,000
淡 路
南 海
126,800
17
7,500
肥
前
西 海
692,600
44
15,700
筑
前
西 海
790,100
102
7,700
出
羽
東 山
973,400
65
14,500
佐
渡
北 陸
171,500
22
7,800
国
名
区分
越
後
北 陸
加
賀
越
稲束数
郷数
稲束/郷
稲束数を郷数で割った一郷あたりの租税に、平安時代中期といっても律令制度が運用さ
れていた時代に、こんな大差があったことは知らなかった。原因の追究は、律令制度の専
門家でない本サイトには無理なので、言及は避けたい。しかし全国の、数値が高い国々と、
低い国々にはそれぞれ際立った特徴が浮かびあがる。
左側の租税の高い国は、
「前、中、後」をつけて律令国家『日本国』誕生時に分割された
国々で、出羽・加賀国も 8 世紀・9 世紀に新設された国、甲斐国だけに異端の雰囲気が漂っ
ている。主に北陸道・西海道(九州)にある国々は、旧ヤマト政権に属していなかった特徴が
あり、律令政府が重税を課していた様子を記録したのであろうか?
右側、祖税が少ない国々のトップ7に、律令政府の中枢を担う畿内の四ヶ国と濃尾平野
三国が入ることが、こういった邪推を抱かせる原因である。これは、国ごとに「租」税の
比率…最大五倍…が違った様子を記録した、貴重なデータとみるべきであろう。
西海道では、九州地方の特例として、筑前国の大宰府(福岡県太宰府市大宰府)に租税を
納める特例が設けられていた。そのため中央に正確な情報が届いてなかった可能性があっ
て、
『和名抄』記載の「日向、大隅、薩摩」の水田面積が同一になる不都合があり、古くか
ら問題視されて来た。実をいうと、この集計に
も右表のデータが含まれるのだが、薩摩の郡は
小さなものばかりで、本州の郡と同一視できな
い事情もあり、意図的に除外した。
155
大
隅
西 海
242,000
37
6,500
薩
摩
西 海
242,500
35
6,900
表 7-31 の右表に淡路国と佐渡国が入るのは、実際に稲作生産高が低かったと捉えられる
だろう。ここに現われたように、人口密集域…畿内、濃尾平野、筑前国…では低い値をとる
ので、租税が低い国々は商工業が発達していた地域と捉えられそうである。ただ「庸・調」
の比率や「中男作物」を具体的数値にするデータは『延喜式』にないので、推測に留まる
のは仕方がないようである。
左表の租税が高い国々は、農業従事率の高さを表現したように見えるので、このデータ
を基にして北陸・山陰地方を比較すると、両地方の違いが判る。
表 7-32
北陸・山陰地方の「稲束数/郷」
郷数
稲束/郷
国
名
区分
833,500
34
24,500
因
幡
山 陰
710,900
50
14,200
北 陸
686,000
30
22,900
伯
耆
山 陰
655,000
48
13,600
中
北 陸
840,400
42
20,000
但
馬
山 陰
740,000
59
12,500
越
前
北 陸
1,028,000
55
18,700
丹
後
山 陰
431,800
35
12,300
能
登
北 陸
386,000
26
14,800
石
見
山 陰
391,000
37
10,600
若
狹
北 陸
241,000
21
11,500
丹
波
山 陰
664,000
68
9,800
佐
渡
北 陸
171,500
22
7,800
出
雲
山 陰
695,000
78
8,900
国
名
区分
越
後
北 陸
加
賀
越
稲束数
稲束数
郷数
稲束/郷
表に現われたように、北陸地方の下から二番目の「若狭国」を除くと、山陰地方 7 ヶ国
の「稲束数/郷数」の値は、すべて北陸の「能登~佐渡」国の間に入ってしまう。これは
奈良~平安時代初期に、北陸地方の稲作増産が行なわれたためだったのではなかろうか?
表 30 にあげた
「越中(18,000 町)>越後(15,000 町)>加賀(14,000 町)>越前(12,000 町)」
の水田面積に比例した稲束生産高をあげられなかったのは、潟湖の干拓をはじめ、圃場整
備に時間が掛かったからであろう。
これに対して、山陰諸国は弥生~古墳時代から金属器の採用をはじめ、農耕に習熟した
地域で、
「丹波国:26 位」を除く全ての国が、稲作生産効率上位 15 ヶ国にランクされて、
平安時代に開発の余地が少なかったと考えてみたい。丹波国から和銅 6(713)年に分離し
た「丹後国:2 位」がなぜ、こんなに生産効率に差があったかは、山陰道で検証しよう。
このデータから、大国「越前」と違い、わずか 2 郡で立国した「若狭国」は租税の低さ
をみても、旧ヤマト政権の領域と考えて間違いなさそうである。
平安時代中期の全 64 国の「稲束数/郷数」の平均値は「10,800」で、律令時代の最初に、
一郷あたりの稲束数を一万束に決めた様子を想像できる。
ただ、平安時代中期に生産効率が低かった旧越国西部も、「越中国:4,477 町。加賀国:
3,442 町」の一郡あたりの水田面積は、全国平均 1,494 町を遥かに超えて、常陸国 3,645 町
を間に挟んだ第 1 位、第 3 位であったところは注目すべきである。
156
こうした時代をへた越中国「礪波、射水、婦負」の三郡は、安土桃山時代に藩主の失政
から前田藩に組み込まれ、寒冷期の江戸時代に加賀、能登と共に「加賀百万石」を支えた。
この基盤が、律令時代の地道な新田開発によって創られた史実を確認できるのも、歴史地
理研究の妙味といえよう。
越中国府は富山県高岡市伏木古国府(射水郡)、国分寺は高岡市伏木一宮、一ノ宮は高瀬
神社:東礪波郡井波町高瀬(2004 年 11 月 1 日に南砺市へ統合)
。
昔から指摘されていることだが、越中国一ノ宮の高瀬神社、能登国一ノ宮の気多大社の祭
神は、共に「大己貴、大穴牟遲:おほなむち」命である。大國主命として知られる出雲の
神が越中・能登一ノ宮に祀られたのは、出雲⇔越国の親密な関係を描きだしている。3 世紀
中葉~後半に呉羽丘陵(婦負郡)に造られた「杉谷、鏡坂、富崎」古墳群に、10 基を越す
「四隅突出型墳丘墓」があるのも、3 世紀から両地域の交流があった様子を語っている。
「立山の
第六章『富士の語源 2 山名の起源(5)北アルプスの岳 ③ 立山』の解説で、
おおなんじ
最高峰、大汝 山(3015m)は谷名からの転用を考えたくなるが、大汝の復元型…Ofonamuti
…が大國主命の別名、大穴牟遲と一致するのは、なんらかの関係を表わすのだろうか?」
と記したが、富士山・白山と共に日本三霊山として敬われる、立山の式内雄山神社の祭神は
い
ざ
な
ぎ
あめのたぢからを
「伊邪那岐命、天手力男命」で、大穴牟遲命は祀られていない。ちなみに越前国一ノ宮の気
い
ざ
さ わけ
ほ む た わけ
比神宮の祭神は「伊奢沙別命、誉田別命(応神天皇)」、加賀国一ノ宮の白山比咩神社の祭神
しらやま ひ
め
あめのかごやま
、越後国一ノ宮の彌彦神社には「 天 香山命」が祀られている。
は「白山比咩命」
平成 27(2015)年 3 月 15 日に「北陸新幹線」が金沢まで開業した。この建設工事に伴う
事前発掘調査で、平成 21~22 年に旧越中国婦負郡、富山市呉羽町の小竹貝塚が発掘された。
北陸本線(現あいの風とやま鉄道)呉羽駅北方にある新幹線高架橋下の遺跡は、約 6,000 年
前の縄文時代前期後半に約 500 年つづいた、北陸最大の貝塚に位置づけられた。
特筆すべきは、ここから 91 体の保存状態の良い埋葬人骨が出土し、この内 13 個体から
ミトコンドリアDNAを抽出して、
13 個体が 5 種類のミトコンドリアDNAに分けられた。
この結果を中期以降の関東縄文人との対比を行ない、前期から中期以降の縄文人の遺伝的
連続性が立証された。この前期縄文人のルーツが北方系、南方系が混在した異なる起源を
もち、弥生人特有の渡来系ミトコンドリアDNAがなかったことが報告されている。
分子生物学が発達した現在は、母方の遺伝子だけを継承する「ミトコンドリアDNA」
の分析から、約 25 万年前にアフリカで新人が誕生した様相が浮上した。父方・母方から半
分ずつ遺伝子を受け継ぎ、環境変動に応じて変化しうる一般のDNA(ディオキシリボ核酸)
に比べ、ミトコンドリアDNAは一万年に一回新種がうまれる程度の安定した性質をもち、
今のところ現世人類のそれは八十数種、現代の日本人は十六種類のミトコンドリアDNA
で構成されることが判明している。アフリカで誕生した新人が東アジアに登場した時期は
約 5 万年前、日本列島に定着したのは 3 万年ほど前と考えられている。
157
(6) 越後国(古之乃美知乃之利)
越後国の初出は、
『續日本紀』文武天皇元(697)年 12 月 18 日で、翌年の 12 月 21 日に
越後国の石船柵修理の記事が載せられている。
本サイトが抱く疑問は、なぜ最初の「越後国」が、旧越国の範囲を入れずに、ヤマト政権
の前線基地の名を採った「沼垂、石船」郡だけでスタートしたか? という点である。
越中国の初出が大宝 2(702)年の越中国四郡を越後国へ編入した記録なので、それ以前
の両国の詳細は判らない。唯一手掛かりになるのは藤原京から出土した木簡の記載事項で、
ここに「越後国沼垂評、石船評」か、越中国「頸城、古志、魚沼、蒲原」評を記した木簡
が出ていれば、
『續日本紀』の記述は正しいことになる。若佐国小丹生評(若狭国遠敷郡)・
三方評、越前国丹生評、越中国利波評(礪波郡)が出土したのは知られているのだが…
しかし、越国を三分する予定の「越前、越中、越後」を 690 年に創っておいて、越後に
「蒲原・沼垂」抗争が収まるはずの 12 年後に、旧越国の領域を入れるといった悠長な計画
を立てるだろうか?
という新たな疑問も生まれる。単純な推測は、越国の旧領域を入れ
ない越後国を先に造っておいて、適当な時期に越国領域を入れるという発想である。
この可能性が感じられるのが、ヤマト政権と越中国の領域を合わせた越後国を 702 年に
造ったとき、困ったのは国府をどこに置くか、という問題だった。ヤマト政権の時代は、
越後国府を沼垂に置いたようだが、合併後は越後国西端の頸城郡、最初の越中国府の近く、
現在の上越市に設置したのである。国府は国の中心に置く不文律を守れなかったのは、旧
越国の巨大な勢力にヤマト政権側が押し切られたように見える。常識的な新潟が越後国府
のままであれば、後の上杉謙信や、直江兼継は生まれなかっただろう。
越後の中心地が、直江津から新潟へ戻ったのは、江戸時代初頭、蒲原津にかえて新潟湊
…新潟市湊町、船場町、入船町付近:新潟市の起源地…を整備した元和 2(1616)年以後で、
寛文 12(1672)年に河村瑞軒が立案した「西廻り航路」の開設により、飛躍的な発展をと
げた新潟には、意外に悲運の歴史が秘められていた。
かつて「高志の深江」とよばれた巨大ラグーン(潟湖)を、
流入する大河の堆積物が埋め尽くして生成した越後平野は、
近世まで大部分が湿地帯であったという。高志の深江国造が
支配した越後国古志郡は、信濃川河口に大きな潟湖があった
現在の長岡市周辺を指したと考えられている。
古志郡、蒲原・沼垂郡(新潟市付近)の開発は、潟湖・低
湿地帯の干拓、埋め立ての連続であった。越後平野は、一名
「放水路銀座(①~⑭の放水路)」と言われるほどに、近世~
近代に大治水工事が行なわれてきた。信濃川放水路(大河津
分水、新信濃川)の工事が、明治初頭に着手されて昭和 6 年
に完成するまで、一帯は大水害の常習地(1600~1899 年まで
158
図 7-11 新潟平野の河川と放水路
の 300 年の間、大洪水は 74 回と記録される)で、水稲耕作も湿田に腰から胸まで浸かって作
業するのが普通であったといわれる。
いまは高品位米の産地として名高い越後平野も、この千年以上の間は、低湿地の利水・
排水をいかに改善するかの戦いだった。昭和の高度成長以後の時代に、蒲原平野の「こし
ひかり」が注目され始めて、ブランド名崇拝の平成時代には、魚沼産「こしひかり」は超
一流銘柄になった。
奈良時代に「越前」
、江戸時代に「加賀・越中」
、現代は「越後」と、米の生産地として
常に注目を集めてきたのが、「越」の伝統といえよう。
越後国府は新潟県上越市今池(頸城郡)、国分寺は上越市五智、一ノ宮は彌彦神社:西蒲
原郡弥彦町弥彦、ならびに居多神社:上越市五智である。越後の国府・国分寺は、旧越中国
府の時代を含め、現在の妙高市から上越市の間を移動し、北上した様子が想定されている。
全国の国府・国分寺も全数が確定したわけでなく、ここに記している地名の一部は、暫定
的な地であることを御了承いただきたい。
159
(7) 佐渡国(佐渡)
海に浮かぶ佐渡国に成立年の記録はないが、
『續日本紀』文武天皇 4(701)年 2 月 19 日
に、越後国と佐渡国による石船柵の修繕記録が載っている。佐渡国も、聖武天皇の政策に
よって天平 15(743)年に越後国へ吸収され、孝謙天皇の天平勝宝 4(752)年、東大寺の
大仏開眼の年に、ふたたび越後国から分離した。
この国は、佐渡国雑太郡だけで誕生したが、養老 5(721)年に賀茂郡と羽茂郡を追加し
て三郡になった。最初にできた郡の雑太は『さはた』にあてた文字で、雑太郡に雑田郷が
あって、この郷の読みも『さはた』だった。佐渡国雑太郡雑田郷に国府が置かれ、ここは
今の新潟県佐渡市真野付近にあたり、国府川が流れていることが佐渡国府を実証している。
また、佐渡国一ノ宮は度津神社(新潟県佐渡市飯岡)である。神社の読み方は「わたづ」で、
平城京出土の木簡は、国名を「佐度国」と表記したという。
7 世紀末から 8 世紀の初めは、漢字の使い方が固定されていなかった時代であり、越後の
「いはふね:磐舟、石船、岩船」の用法も一例にあがる。この漢字の使い方と読み方が、
国名の起源を解くヒントになりそうだ。
佐渡国雑太郡雑田郷(さはた郡さはた郷)を眺めていると、佐渡の文字も『さはた』と
読めそうに見える。この捉え方は以前からあって、2004 年 3 月 1 日に全島が佐渡市に統合
される前、新潟県佐渡郡佐和田町は見慣れた町名だったので、意味が取りにくい「佐渡:
さど」よりも、佐渡を「さはた:沢+端→さわた」と読みたい感じがする。
佐渡国:立国年は不明。天平 15(743)年に越後国へ吸収。天平勝宝 4(752)年再分離。
さ
は
た
雑太郡(佐波太)
新潟県佐渡郡真野町吉岡
佐渡国造、雑田郷、佐渡国府
賀茂郡(かも)
新潟県両津市加茂歌代、梅津
賀茂郷、加茂歌代村、加茂湖
羽茂郡(はもち) 新潟県佐渡郡羽茂町羽茂本郷
羽茂本郷村、羽茂小学校、羽茂川
賀茂郡と羽茂郡は養老 5(721)年設置
佐渡の郡名起源地は、北の佐渡山地、南の佐渡丘陵に挟まれた平坦地と
の接点の名を採っている。北東の加茂湖に接した「賀茂」、南西の「羽茂」
の間に位置するのが佐渡の起源地、
「雑太郡雑田郷」である。佐渡丘陵の端、
扇状地にある「さはた」は文字通り「沢+端」を表わして、佐渡の原型が
『さはた』であった可能性を暗示している。
佐渡国府は、雑太郡雑田郷であった新潟県佐渡郡真野町吉岡、国分寺は真野町国分寺、
一ノ宮は度津神社:佐渡郡羽茂町飯岡。
佐渡の推定起源地名:新潟県佐渡郡真野町吉岡。2004 年 3 月 1 日に、全島が佐渡市へ統
合されたため、佐渡市吉岡に変更。
160
律令時代の東日本
これまで利用してきた律令時代の区分,「東海道、東山道、北陸道」の別け方では馴染み
のないところもあるので、現代の区分法「中部、関東、東北」地方にまとめて、各国郡名
起源地の分布図をあげよう。
図 7-12 中部地方の郡名起源地(推定)の分布図
中部地方を眺めると、まず濃尾平野、東山道の「美濃国」
、東海道の「尾張国」に郡名起
源地名が密集することが分かる。この地域は、弥生時代からの遺跡が多く、古墳時代にも
「三野前・三野後、本巣、牟義都」国造、「尾張」国造に統括されて、活発な活動をつづけ
ていた。中部地方では、濃尾平野から東海道・東山道へと、文化が伝播した様子が、郡名
起源地の分布状況に残されている。
161
本サイトの中心に置く『和名抄』に記録された「国、郡、郷」は、平安時代中期の人口
を推定するうえにも、貴重な資料になっている。
昭和 2 年に発表された『奈良朝時代民政経済の数的研究』〈澤田吾一〉では、正倉院文書
にのこる正税帳、戸籍、計帳をはじめ、
『續日本紀』『延喜式』『和名抄』などの歴史書の詳
細な分析から、一郷の人数を「1,400 人」と推定し、
『和名抄』にのる 4,041 郷の郷数から、
平安時代中期の人口を「560~600 万人」と算出した。律令時代の一郷は 50 戸で構成され、
澤田氏の詳細な分析により、1 戸が 25~30 人で成り立っていたことが解明されて、
「一郷の
人数:28×50=1,400 人」を使うことが標準になっている。
現在も古代の人口を考える上で、この論文が基本に置かれるので、本サイトも一郷の人
数を「1,400 人」として各国の人口を推定したい。
『和名抄』は、
「二十巻本」「高山寺本」
では記載事項が微妙に異なる点はあるが、大勢をみる場合に問題はないので、本サイトは
従前どおり「二十巻本」を使ってゆきたい。
ここにのる 66 国 2 島、591 郡、4029 郷では、一国の平均を計算すると「8.7 郡。59.2 郷。
83,000 人」になる。まず、中部地方のデータをあげよう。
表 7-33
国
名
区分
美
濃
東 山
遠
江
尾
中部地方の稲束数と人口(平安時代中期)
稲束数
郷数
稲束/郷数
人口:人
880,000
131
6,700
183,000
東 海
772,300
96
8,000
134,000
張
東 海
472,000
70
6,700
98,000
參
河
東 海
477,000
69
6,800
97,000
信
濃
東 山
895,000
67
13,400
94,000
駿
河
東 海
642,500
59
10,900
83,000
越
前
北 陸
1,028,000
55
18,700
77,000
越
中
北 陸
840,400
42
20,000
59,000
越
後
北 陸
833,500
34
24,500
48,000
甲
斐
東 海
584,800
31
18,900
43,000
加
賀
北 陸
686,000
30
22,900
42,000
能
登
北 陸
386,000
26
14,800
36,000
佐
渡
北 陸
171,500
22
7,800
31,000
若
狹
北 陸
241,000
21
11,500
29,000
伊
豆
東 海
179,000
21
8,500
29,000
飛
騨
東 山
106,000
13
8,200
18,000
162
図 7-12 の中部地方の分布図と、表 7-33 は同じデータを使っているので、図に見られる
郡名起源地の密集域が人口密集地帯を表わし、まばらなところが過疎地域を表現している。
中部地方では、人口全体に「西高東低」の様相が現われ、「東海道>北陸道>東山道」の順
に人口密度が高かった様子がわかる。
持統天皇 4(690)年秋に「国、郡、郷」制度を定めた律令国家『日本国』の誕生と同時
に生まれた諸郡の起源地名は、古墳時代後期から飛鳥時代の中心地名を引き継いでいる。
郡名起源地群は、「東海道、北陸道」の街道沿いに連続し、
「東山道」では中山道沿いに点
在して、律令時代の地方区分が、文字通り街道名を主体に区分した様子もわかる。この分
布図を読むと、郡は起源地名を中心に約 1,000 町歩の水田面積を基本に区分され、言い方
は悪いが、山間地域はその付け足しとして加えられたように見える。
この推理の元になる『延喜式』稲束数と、『和名抄』水田面積の国別データをあげよう。
表 7-34 中部地方の稲束数と水田面積(平安時代中期)
国
名
道 区
稲束数
水田面積
郡数
分
一郡水田
郷数
面積
一郷水
国 の
田面積
等級
偏差値
全国の
順位
越
前
北 陸
1,028,000
12,066
6
2,011
55
219
大国
64.6
5
伊
豆
東 海
179,000
2,110
3
703
21
100
下国
64.4
6
若
狹
北 陸
241,000
3,077
3
1,026
21
147
中国
61.0
12
駿
河
東 海
642,500
9,063
7
1,295
59
154
上国
57.1
20
參
河
東 海
477,000
6,820
8
853
70
97
上国
56.6
21
尾
張
東 海
472,000
6,820
8
853
69
99
上国
56.2
23
美
濃
東 山
880,000
14,823
18
824 131
113
上国
51.0
29
遠
江
東 海
772,300
13,611
13
1,047
96
142
上国
49.6
31
越
後
北 陸
833,500
14,997
7
2,142
34
441
上国
49.0
32
加
賀
北 陸
686,000
13,766
4
3,442
30
459
上国
46.0
36
甲
斐
東 海
584,800
12,249
4
3,062
31
395
上国
44.9
39
能
登
北 陸
386,000
8,205
4
2,051
26
316
中国
44.5
43
越
中
北 陸
840,400
17,909
4
4,477
42
426
上国
44.5
44
佐
渡
北 陸
171,500
3,960
3
1,320
22
180
中国
42.6
48
信
濃
東 山
895,000
30,908
10
3,091
67
461
上国
35.0
61
飛
騨
東 山
106,000
6,615
3
2,205
13
509
下国
28.2
64
合
計
9,195,000
176,999
105
平
均
574,690
11,062
6.6
1,686 49.3
225
641,990
12,982
8.7
1,494 59.2
219
全国平均
163
787
地方別偏差値:
51.2
表の偏差値は、
「稲束数÷水田面積」の値を全国 64 の国(志摩国、隠岐国、對馬嶋、壱岐
嶋を除く)の値を集計して稲作生産効率の偏差値(平均は 50)に換算し、順位を付けたもの
である。中部唯一の大国「越前国」がトップに立つのは特筆すべき事柄で、稲作生産効率
が「越前、若狭」国を除き、太平洋岸の東海道諸国が平均より上に位置するのは気象条件
によったのだろう。また「參河、尾張」国の水田面積が同じであることが問題になってき
たが、両国の「延喜稲束数、郡数、郷数」がほぼ同一なので、そのままの値を使用した。
稲作生産効率が低かった「加賀、越中、越後」国は、平安時代中期に「一郡あたりの水
田面積」
「一郷あたりの水田面積」が全国平均の倍を示し、以後の時代、とくに現代におけ
る一大穀倉地帯を築きあげた。21 世紀中盤以降、地球温暖化に伴う気候大変動、食糧不足・
飢餓時代、人口激減時代に、大いなる力を発揮するのは確実といえよう。
次に関東地方へ移るが、この地方の郡名起源地の分布状況は、現代の常識が全く通用し
ない。ここには、江戸時代から我が国の中心になった『江戸→東京』の姿が、影も形もな
いのである。江戸・東京が属した「武蔵国」の中心も、次の図に載るように、埼玉県中部
から北部にあったと考えられそうである。
図 7-13 関東地方の郡名起源地(推定)の分布図(平安時代中期)
164
平安時代中期には、いま 1,200 万人が住む東京都の範囲に「豊島郡:7 郷。荏原郡:9 郷。
多磨郡:10 郷」の計 26 郷があって、「26×1,400≒36,000」人が住んでいたと想像できる。
また横浜・川崎市の範囲に「久良郡:8 郷、都筑郡:6 郷、橘樹郡:5 郷」計 19 郷が存在し、
27,000 人が住んだ様子を想定できる。そこで、関東地方全体の人口分布を推定しよう。
表 7-34
関東地方の稲束数と推定人口(平安時代中期)
国
名
区分
稲束数
郷数
稲束/郷数
人口:人
常
陸
東 海
1,846,000
153
12,100
214,000
武
蔵
東 海
1,113,800
119
9,400
166,000
上
野
東 山
886,900
102
8,700
143.000
下
総
東 海
1,027,000
91
11,300
127,000
上
総
東 海
1,071,000
76
14,100
106,000
下
野
東 山
874,000
70
12,500
98,000
相
模
東 海
868,100
67
13,000
94,000
安
房
東 海
342,000
32
10.700
45,000
中部地方と比べると、関東地方の一国あたりの人口は多く、安房国を除き、ほぼ 10 万の
人口を想定できる。武蔵国全体では 119 郷、166,000 人ほどの人口が考えられ、103,000 人
が埼玉県の範囲に住んでいた人数と推理できる。
この比率をみれば、人口密集域の埼玉側に「武蔵」の起源地があったと考えるのが常識
的な捉え方だろう。東山道の「上野国」で述べたように、図 7―13 の埼玉県中央上にある
横に二つ並んだ右の点、武蔵国「埼玉郡埼玉郷:いまは行田市埼玉」と、左の点が表わす
「大里郡郡家郷:熊谷市久下」付近が、武蔵の発祥地と考えられそうである。
関東地方における郡名起源地の特徴は、一見利用できそうな平坦地があっても、ここを
使わずに空き地にしているところである。
原因は、繰り返し述べたように、自然状態の地球
温暖化による「海進→海退」現象に起因している。
図の青灰色の部分は縄文時代早期末から前期中葉
(約 7,000~5,000 年前)の海進時の海岸線、空色
部分は縄文時代後期頃(約 3,000 年前)の海水面の
想像図である。
図の海にあたる範囲が、1700 年前の奈良時代に
も居住地、耕作地としてほとんど利用できなかっ
た様子を郡の起源地名、すなわち古墳~飛鳥時代の中心地の分布状況が表現している。
165
この大湿地帯が開拓されるのは、平安時代に入ってからだった。この模様を表わすのが
次のデータである。
表 7-35
国
名
道 区
稲束数
関東地方の稲束数、水田面積
水田面積
郡数
分
一郡水田
郷数
面積
一郷水
国の
田面積
等級
偏差値
全国の
順位
安
房
東 海
342,000
4,335
4
1,084
32
135
中国
61.3
10
相
模
東 海
868,100
11,236
8
1,405
67
168
上国
60.4
15
上
総
東 海
1,071,000
22,846
11
2,077
76
301
大国
44.4
45
常
陸
東 海
1,846,000
40,092
11
3,645 153
262
大国
44.0
47
下
総
東 海
1,027,000
26,432
11
2,403
91
290
大国
40.2
52
武
蔵
東 海
1,113,800
35,574
21
1,694 119
299
大国
36.3
58
下
野
東 山
874,000
30,155
9
3,351
70
431
上国
35.0
62
上
野
東 山
886,900
30,937
14
2,210 102
303
大国
34.9
63
合
計
8,028,800
201,607
89
710
平
均
1,003,600
全国平均
641,990
地方別偏差値:41.4
25,201 11.1 2,265 88.9
284
12,982
219
8.7 1,494 59.6
表の最後に載る「一国、一郡あたりの水田面積」が、関東地方では全国平均の倍近くに
なるところに御注目いただきたい。とくに常陸国は日本一の稲作収穫量と、陸奥国 51,000
町歩に次ぐ、全国第二位の水田面積を誇っていた。
常陸国と郡数・稲作生産効率がおなじ上総国の郷数(人口と意味は同じ)を比較すると、
常陸国は上総国 76 郷の倍、153 郷を保有していた。常陸国一郡の平均郷数 13.9 郷が際立っ
た特徴で、『大宝律令:令集解記載』が規定した「大、上、中、下、小」に分けた郡の中で、
大郡が多かったのが常陸国である。全国の一郡 16 郷以上の大郡は、以下のとおり。
いひぼ
22 郷:常陸国那珂郡、紀伊国名草郡。 21 郷:常陸国久慈郡。 19 郷:播磨国揖保郡。
さふさ
なめがた
18 郷:常陸国茨城郡、常陸国鹿嶋郡、下総国匝瑳郡。 17 郷:陸奥国白河郡、常陸国行方郡。
あをみ
いかるが
16 郷:相模国大住郡、參河国碧海郡、丹波国何鹿郡。
郡の郷数に関しては、小郡を主体に立国した「薩摩国」の項で詳述するが、大郡の多い
常陸国は、やはり特別な存在に感じられる。とくに『常陸国風土記』が大化 5(649)年に
設置と記録した北浦南部の「鹿嶋郡」
、白雉 4(653)年成立の霞ヶ浦東岸の「行方郡」は、
大湿地帯の開拓を奈良~平安時代初期に成し遂げて、人口を増大させた郡と捉えられる。
自然条件を見事に活用した「藤原氏」の、政治・行政手腕は、鮮やかというほかはない。
166
北陸道の「加賀、越中、越後」平野も海進時の潟湖・湿地が残って新田開発ができたが、
断崖絶壁の多い「山陰海岸」はこの余地が少ないため、弥生時代以来の伝統農法に磨きを
かけたのだろう。
表 35 において、稲作生産効率が平均以下の大国が多い関東地方で、偏差値 60 を超える
「相模国」の存在は大切である。
『和名抄』記載の全 67 郷の比定作業を行なうと、大郡の
大住郡や、14 郷をもつ高座郡を中心に農耕地の積極開発が行なわれた様子が感じられる。
律令制の次の時代は「鎌倉」時代であり、安土桃山時代まで、北条氏が「小田原」に拠点
を構えて関東を支配したのも、相模国の潜在力を度外視しては考えられない。
こうして「中部、関東」地方の国・郡の成立
状況を検証すると、両地方とも、国ごとに立国
状況が違った様子がわかる。
「東北」地方も同様で、奈良時代初頭に中通り
いは せ
い はき
諸国をまとめた「石背国」と、浜通りの「石城国」
の領域は、共に郡の過半数が国造名を引き継い
でいる。国造名がない宮城県北部、小郡が密集
する大崎平野の日高見国(仮称:常陸国の項参照)
とは形成年代が違うように見える。
さらに、陸奥国の岩手県南部と出羽国の山形
県北部と秋田県の範囲では、律令政府の東北開
拓に伴う前線基地の名を郡に採った例が多い。
このように、陸奥国と出羽国でも、成立過程
が全く違うところは注意すべきである。
平安時代中期にその国域の広さから一国あたりの人口が最大だった陸奥国と、出羽国の
データは次の通りである。
表 7-36 東北地方の稲束数と水田面積(平安時代中期)
国
名
国 の
稲束数
水田面積
郡数
等 級
一郡水田
郷数
面積
一郷水田
偏差値
面積
全国の
順位
陸
奥
大 国
1,582,700
51,440
35
1,470
188
274
36.0
60
出
羽
上 国
973,400
26,109
11
2,374
65
402
39.4
55
国
名
区分
陸 奥
東山
1,582,700
188
出 羽
東山
973,400
65
稲束数
郷数
稲束/郷
人口:人
8,400 263,000
145,000
167
91,000
もうひとつ、国々の探索をしていた時に判らなかったが、九州各国の探索を終えて手直
しを始めた時、第六章『富士の語源』の阿武隈川に載せた「古墳の分布」を見てビックリ
〈小林清治・山田 舜 1970 山川出版社〉から転載
した。その図(右図)は『福島県の歴史』
させて頂いたが、古墳密集域と郡名の起源地、国造の本拠が一致するのである。
中通り
し
の
ぷ
あ
た
ち
あ
さ
か
い
は
せ
信夫郡(志乃不)
安達郡(安多知)
安積郡(阿佐加)
磐瀬郡(伊波世)
やま
耶麻郡(山)
福島県福島市春日町字信夫山
信夫国造、信夫村、信夫山
福島県安達郡本宮町大町
安達太郎神社
福島県郡山市安積
阿尺国造、安積郷
福島県岩瀬郡岩瀬村梅田字岩瀬 石背国造、磐瀬郷
福島県耶麻郡猪苗代町西峯
あ
ひ
つ
し
ら
か
會津郡(阿比豆)
は
白河郡(之良加波)
延喜 6(906)年設置
いははし
いははし
式内磐椅神社、磐梯山 承和 10(843)年設置
福島県河沼郡会津坂下町開津
會津川(阿賀川)
福島県白河市旗宿
白河国造、白川郷 大化 2(646)年設置
福島県相馬市中村字宇多川町
浮田国造、宇多川
福島県原町市泉
行方郡家
福島県双葉郡浪江町苅宿
染羽国造、標葉神社、標葉郷
福島県いわき市平菅波
石城国造、磐城郷
白雉 4(653)年設置
福島県いわき市勿来町関田
菊多国造、勿来関
養老 2(718)年設置
浜通り
う
た
な
め
か
し
め
は
い
は
き
き
く
た
宇多郡(宇太)
た
行方郡(奈女加多)
標葉郡(志女波)
磐城郡(伊波岐)
菊多郡(木久多)
常陸国多珂郡(たか)茨城県高萩市高萩
高国造、多珂郷
常陸国久慈郡(くじ)茨城県日立市久慈町
久自国造、久慈村、久慈川
を
し
か
び
や
き
な
と
り
わ
た
り
牡鹿郡(乎志加)
宮城郡(美也木)
名取郡(奈止里)
曰理郡(和多里)
宮城県石巻市日和山
牡鹿柵?
宮城県仙台市宮城野区原町
宮城郷
宮城県仙台市太白区郡山
名取郷、名取川
宮城県亘理郡亘理町旧舘
曰理国造、亘理神社、曰理郷
168
和銅 6(713)年設置
福島県「中通り」には、『延喜式 巻二十八 兵部省 諸国驛傳馬』の東山道の官道が走り、
北から「伊達、岑越、湯日、安達、葦屋、磐瀬、松田、雄野」驛が設けられた。
「浜通り」
の太平洋岸に官道は造られなかったが、郡名起源地が宮城県―福島県―茨城県へ 20~30km
の等間隔に並んで、太平洋航路の湊が存在した様子を表現している。
東山道の「(7) 陸奥国」では最初に国造名を上げて、起源地名がどこに当たるかを検証
したが、国造名を網羅した『国造本紀』がのる「先代旧事本記」の内容は別にして、国造
が多数のる「陸奥、常陸、上総、下総、越、吉備、伊豫」国では、国造名がおおよそ律令
時代の郡名に引き継がれたので、7 世紀以前の貴重な記録と考えられそうである。
前図のように、国造の支配域が古墳の分布域と重なることは、5~6 世紀の様相を記録し
た可能性が出てくる。ここに注目すると、同じ『国造本紀』に載る二つの国造名の重要度
が浮上する。
道奥菊多国造 Miti no Oku
no Kikuta
道口岐閇国造 Miti no Kuti no Kife
福島県いわき市勿来町:陸奥国菊多郡
茨城県日立市助川町 :常陸国多珂郡道口郷
陸奥国にふれたように、二つの国造は、郡・郷の起源地名に関係する重要な地名であり、
「道口⇔道奥」の対比から、いわき市勿来町は『陸奥国』の起源地名に比定されている。
陸奥国の南に常陸国があり、常陸の西に接する毛野国は、6 世紀初頭に「下毛野・上毛野」
国に分割され、南の総国も同時期に「下総・上総」国へ二分されているので、「陸奥国」も
5 世紀末から 6 世紀にヤマト政権に組み込まれた可能性をみせている。
第六章『富士の語源 (3) 大河の起源 ⑧ 阿武隈川』で検証したように、陸奥国一ノ宮は
つ
つ
こ わけ
「都都古別神社:福島県東白川郡棚倉町馬場」だが、この神社は都都古別神だけではなく、
あちすきたかひこ ね
「味耜高彦根命:奈良県御所市鴨神」も祀っている。奈良県御所市にもう一つ重要な式内社、
ひとこと ぬし
雄略天皇を屈伏させたという「一言主神:葛城坐一言主神社:奈良県御所市森脇」がある。
おははつせのわかたけ
5 世紀末に国を統合したと『記紀』が記した、倭王「武」に比定される雄略天皇(大泊瀬幼武
)が陸奥に進出した様子を、神社の祭神と国造の分布が教示しているのかもしれない。
次章に、この「味耜高彦根命」と「一言主神」を祭神にする、一ノ宮神社をもつ国が南海
道(四国)にあるので、これを取り上げたいと思う。
古代史の探索は、地名だけでなく、
「国造、縣主 屯倉」や神社の所在地、そして神社の
祭神も研究対象になるのである。
つぎに、
『平成の市町村大合併』で市町村名が変化した例があるので、新旧の地名を対照
して、全数をあげておきたい。なお、新市町村への改名年月日は『地名資料Ⅰ 市町村』に
載せたので、御参照いただきたい。
169
国名の推定起源地
東海道
所属国郡名
推定起源地名(1970 年度の住所)
平成の市町村大合併後の住居表示
伊 賀
伊賀国伊賀郡
三重県上野市古郡
伊賀市古郡
伊 勢
伊勢国度會郡
三重県伊勢市宇治館町
尾 張
尾張国山田郡
愛知県小牧市小針
参 河
参河国碧海郡
愛知県安城市桜井町
遠 江
遠江国磐田郡
静岡県磐田市見付
駿 河
駿河国駿河郡
静岡県沼津市大岡
伊 豆
伊豆国賀茂郡
東京都三宅支庁三宅村伊豆
甲 斐
甲斐国山梨郡
山梨県東山梨郡春日居町国府
笛吹市春日居町国府
相 模
甲斐国都留郡
神奈川県津久井郡相模湖町与瀬
相模原市緑区与瀬
武 蔵
武蔵国埼玉郡
埼玉県行田市埼玉
安 房
安房国安房郡
千葉県館山市大神宮
總
下総国相馬郡
千葉県我孫子市布佐
常 陸
常陸国茨城郡
茨城県石岡市国府
近 江
近江国滋賀郡
滋賀県大津市粟津町
美 濃
美濃国本巣郡
岐阜県本巣郡糸貫町見延
飛 騨
飛騨国大野郡
岐阜県高山市岡本町
信 濃
信濃国高井郡
長野県中野市越
毛 野
下毛国足利郡
栃木県足利市毛野新町
陸 奥
陸奥国菊多郡
福島県いわき市勿来町関田
出 羽
出羽国出羽郡
山形県東田川郡羽黒町手向
若 狭
若狭国遠敷郡
福井県小浜市下根来
越
越前国足羽郡
福井県福井市足羽
加 賀
加賀国加賀郡
石川県河北郡津幡町加賀爪
能 登
能登国能登郡
石川県鹿島郡鹿西町能登部下
中能登町能登部下
佐 渡
佐渡国雑田郡
新潟県佐渡郡真野町吉岡
佐渡市吉岡
東山道
本巣市見延
鶴岡市羽黒町手向
北陸道
繰り返し述べたように、ここにあげた地名はあくまでも推定で、
『国名、郡名は小地名の
昇格』との仮説を定理に昇格させるためであり、地元の方による精緻な調査が必要である。
170
郡名の推定起源地
伊賀国
推定起源地名(1970 年度)
あ
ぺ
や
ま
い
か
な
ぱ
り
く
は
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ゐ
な
ぺ
あ
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け
み
へ
か
は
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す
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か
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き
あ
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い
ち
し
い
ひ
た
い
ひ
の
阿拜郡(安倍)
た
山田郡(也末太)
伊賀郡(以加)
名張郡(奈波利)
平成の市町村大合併後の住居表示
三重県上野市一之宮
伊賀市一之宮
三重県阿山郡大山田村平田
伊賀市平田
三重県上野市古郡
伊賀市古郡
三重県名張市丸之内
伊勢国
桑名郡(久波奈)
員辨郡(為奈倍)
朝明郡(阿佐介)
三重郡(美倍)
鈴鹿郡(須々加)
庵藝郡(阿武義)
安濃郡(安乃)
壹志郡(伊知之)
か
飯高郡(伊比多加)
飯野郡(伊比乃)
たけ
多氣郡(竹)
た
三重県員弁郡東員町北大社
三重県四日市市朝明町
三重県四日市市采女町
河曲郡(加波和)
わ
三重県桑名市桑名
三重県鈴鹿市河田町
三重県鈴鹿郡関町坂下
亀山市関町坂下
三重県鈴鹿郡関町萩原
亀山市関町萩原
三重県安芸郡安濃町安濃
津市安濃町安濃
三重県一志郡嬉野町一志
松阪市嬉野一志町
三重県松阪市松ヶ島町
三重県松阪市目田町
三重県多気郡明和町斎宮
ら
ひ
度會郡(和多良比)
三重県伊勢市豊川町
志摩国
答志郡(たふし)
あ
ご
は
く
に
は
な
か
あ
ま
か
す
か
や
ま
た
あ
い
ち
英虞郡(阿呉)
三重県鳥羽市答志町
三重県志摩郡阿児町甲賀
志摩市阿児町甲賀
尾張国
り
葉栗郡(波久利)
丹羽郡(邇波)
し
愛知県一宮市大毛
愛知県一宮市丹羽
ま
中嶋郡(奈加之萬)
海部郡(阿末)
愛知県一宮市萩原町中島
愛知県海部郡十四山村海屋
ぺ
春部郡(加須我倍)
山田郡(夜萬太)
愛知県春日井市春日井町
愛知県名古屋市北区山田町
愛智郡(阿伊知)
愛知県名古屋市熱田区神宮
智多郡(ちた)
愛知県知多市朝倉町
171
弥富市海屋
參河国
あ
を
み
ぬ
か
た
碧海郡(阿乎美)
愛知県安城市古井町
額田郡(奴加太)
愛知県岡崎市柱町
幡豆郡(はつ)
愛知県幡豆郡幡豆町西幡豆
賀茂郡(かも)
愛知県東加茂郡足助町竜岡
あ
つ
み
渥美郡(阿豆美)
ほ
寶飫郡(穂)
豊田市竜岡町
愛知県豊橋市飽海町
愛知県豊川市豊川町
や
な
し
た
ら
は
ま
な
い
な
さ
あ
ら
た
八名郡(也奈)
愛知県新城市八名井
設楽郡(志太良)
愛知県北設楽郡東栄町中設楽
遠江国
濱名郡(波萬奈)
引佐郡(伊奈佐)
ま
麁玉郡(阿良多末)
ふち
敷智郡(淵)
な
か
た
や
ま
か
い
は
た
長田郡(奈加多)
山香郡(也末加)
静岡県浜名郡新居町浜名
湖西市新居町浜名
静岡県引佐郡細江町気賀
浜松市北区細江町気賀
静岡県浜北市宮口
浜松市浜北区宮口
静岡県浜松市東伊場
浜松市中区東伊場
静岡県浜松市天龍川町
浜松市東区天龍川町
静岡県磐田郡佐久間町大井
浜松市天竜区佐久間町大井
磐田郡(伊波太)
静岡県磐田市中泉
周智郡(すち)
静岡県周智郡森町森
や
ま
な
山名郡(也末奈)
静岡県袋井市上山梨
佐野郡(さや)
静岡県掛川市佐夜鹿
き
か
ふ
は
い
ぱ
城飼郡(岐加布)
ら
蓁原郡(波伊波良)
静岡県小笠郡菊川町堀之内
菊川市堀之内
静岡県島田市阪本
駿河国
志太郡(した)
ま
し
静岡県藤枝市志太
つ
益頭郡(末志豆)
静岡県藤枝市益津
安倍郡(あぺ)
静岡県静岡市安倍町
静岡市葵区安倍町
静岡県清水市有度本町
静岡市清水区有度本町
静岡県清水市庵原町
静岡市清水区庵原町
う
と
い
ほ
ふ
し
す
る
有度郡(宇止)
は
ら
廬原郡(伊保波良)
富士郡(浮志)
か
駿河郡(須流河)
静岡県富士宮市宮町
静岡県沼津市大岡
172
伊豆国
た
か
な
か
た
田方郡(多加太)
静岡県田方郡大仁町田京
那賀郡(奈加)
静岡県賀茂郡松崎町那賀
賀茂郡(かも)
静岡県賀茂郡南伊豆町下賀茂
伊豆の国市田京
甲斐国
巨麻郡(こま)
や
ま
な
し
や
つ
し
ろ
つ
る
山梨郡(夜萬奈之)
八代郡(夜豆之呂)
都留郡(豆留)
山梨県北巨摩郡白州町横手
北杜市白州町横手
山梨県東山梨郡春日居町鎮目
笛吹市春日居町鎮目
山梨県東八代郡八代町岡
笛吹市八代町岡
山梨県北都留郡上野原町鶴川
上野原市鶴川
相模国
あし から
足柄郡(足辛)
神奈川県南足柄市苅野
よ
ろ
き
お
ぼ
す
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あ
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か
は
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か
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ら
か
ま
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く
あ
た
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ま
こ
ま
ひ
き
よ
こ
み
さ
い
た
ま
お
ぼ
さ
ど
餘綾郡(與呂岐)
大住郡(於保須美)
愛甲郡(阿由加波)
高座郡(太加久良)
鎌倉郡(加末久良)
御浦郡(美宇良)
神奈川県中郡大磯町国府本郷
神奈川県平塚市岡崎
神奈川県厚木市愛甲
神奈川県藤沢市高倉
神奈川県鎌倉市御成町
神奈川県横須賀市浦郷町
武蔵国
久良郡(久良岐)
都筑郡(豆々岐)
な
橘樹郡(太知波奈)
多磨郡(太婆)
神奈川県横浜市磯子区栗木町
神奈川県横浜市港北区新羽町
神奈川県川崎市高津区子母口
東京都世田谷区玉川
荏原郡(江波良)
豊嶋郡(止志末)
東京都品川区北品川
東京都北区豊島
ら
新座郡(爾比久良) 埼玉県和光市新倉
足立郡(阿太知)
入間郡(伊留末)
高麗郡(古末)
埼玉県大宮市水判土
埼玉県狭山市入間川
埼玉県日高市高麗本郷
比企郡(比岐)
埼玉県東松山市古凍
横見郡(與古美)
埼玉県比企郡吉見町黒岩
埼玉郡(佐伊太末) 埼玉県行田市埼玉
大里郡(於保佐止) 埼玉県熊谷市久下
173
さいたま市西区水判土
はら
幡羅郡(原)
埼玉県深谷市原郷町
は
む
さ
は
を
ぷ
す
ま
榛澤郡(波牟佐波) 埼玉県大里郡岡部町榛沢
深谷市榛沢
男衾郡(乎夫須萬) 埼玉県大里郡寄居町富田
かみ
賀美郡(上)
こ
た
埼玉県児玉郡上里町嘉美
ま
兒玉郡(古太萬)
埼玉県児玉郡児玉町児玉
那珂郡(なか)
埼玉県児玉郡美里町中里
ち
ち
ぷ
い
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は
ら
う
な
か
み
あ
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る
ま
う
た
秩父郡(知々夫)
本庄市児玉町児玉
埼玉県秩父市番場町
上総国
市原郡(伊知波良)
海上郡(宇奈加美)
畔蒜郡(阿比留)
望陁郡(末宇太)
すえ
周淮郡(季)
千葉県市原市市原
千葉県市原市神代
千葉県木更津市真里谷
千葉県木更津市上・下望陀
千葉県君津市久保
あ
ま
は
い
し
み
天羽郡(阿末波)
千葉県富津市湊
夷灊郡(伊志美)
千葉県夷隅郡大多喜町小谷松
埴生郡(はにふ)
千葉県長生郡長南町市野々字埴生沢
な
か
ら
や
ま
の
長柄郡(奈加良)
べ
千葉県長生郡長柄町長柄山
山邊郡(也末乃倍)
千葉県山武郡大網白里町金谷郷
武射郡(むさ)
千葉県山武郡松尾町武野里字下武射
山武市松尾町武野里
下総国
か
と
ち
ぱ
し
か
葛餝郡(加止志加)
千葉県船橋市葛飾町
千葉郡(知波)
千葉県千葉市中央区本千葉町
印播郡(いむぱ)
千葉県印旛郡酒々井町上岩橋
は
む
ぷ
か
と
り
埴生郡(波牟布)
千葉県成田市並木町
香取郡(加止里)
千葉県佐原市香取
香取市香取
匝瑳郡(さふさ)
千葉県八日市場市松山
匝瑳市松山
う
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さ
う
ま
と
よ
た
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ま
ゆ
ふ
き
み
海上郡(宇奈加美)
相馬郡(佐宇萬)
豊田郡(止與太)
猨嶋郡(佐之萬)
結城郡(由布岐)
千葉県銚子市垣根町
茨城県北相馬郡藤代町宮和田
取手市宮和田
茨城県結城郡石下町豊田
常総市豊田
茨城県猿島郡境町大歩
茨城県結城市結城
174
安房国
な
か
さ
あ
さ
ひ
へ
く
り
あ
は
長狹郡(奈加佐)
な
朝夷郡(阿佐比奈)
平群郡(倍久利)
安房郡(阿八)
千葉県鴨川市宮内
千葉県安房郡千倉町南朝夷
南房総市千倉町南朝夷
千葉県安房郡富山町平久里中
南房総市平久里中
千葉県館山市大神宮
常陸国
多珂郡(たか)
茨城県高萩市高萩
久慈郡(くじ)
茨城県日立市久慈町
那珂郡(なか)
む
ぱ
ら
つ
く
ぱ
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ぱ
ま
か
ぺ
か
し
ま
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か
し
た
茨城県東茨城郡常北町那珂西
き
茨城郡(牟波良岐)
筑波郡(豆久波)
り
新治郡(爾比波里)
眞壁郡(萬加倍)
鹿嶋郡(加之末)
た
行方郡(奈女加多)
信太郡(志太)
かふ ち
河内郡(甲知)
城里町那珂西
茨城県石岡市茨城
筑波県つくば市筑波
茨城県真壁郡協和町新治
筑西市新治
茨城県真壁郡真壁町真壁
桜川市真壁町真壁
茨城県鹿嶋市宮中
茨城県行方郡麻生町行方
茨城県稲敷郡美浦村信太
茨城県土浦市下高津
175
行方市行方
近江国
し
か
く
る
滋賀郡(志賀)
も
滋賀県大津市滋賀里
と
栗太郡(久留毛止)
滋賀県栗太郡栗東町綣
栗東市綣
甲賀郡(かふか)
滋賀県甲賀郡甲賀町大原市場
甲賀市甲賀町大原市場
野洲郡(やす)
滋賀県野洲郡野洲町野洲
野洲市野洲
滋賀県蒲生郡安土町内野字蒲生野
近江八幡市安土町内野
か
ま
ふ
か
む
さ
え
ち
い
ぬ
か
さ
か
た
あ
さ
ゐ
い
か
こ
た
か
し
蒲生郡(加萬不)
き
神埼郡(加無佐岐)
愛智郡(衣知)
滋賀県彦根市甲崎町
滋賀県愛知郡愛知川町愛知川
み
犬上郡(伊奴加三)
坂田郡(佐加太)
淺井郡(阿佐井)
伊香郡(伊加古)
ま
高嶋郡(太加之萬)
愛荘町愛知川
滋賀県彦根市犬方町
滋賀県坂田郡近江町宇賀野
米原市宇賀野
滋賀県東浅井郡湖北町郡上
長浜市小谷郡上町
滋賀県伊香郡木之本町大音
長浜市木之本町大音
滋賀県高島郡高島町高島
高島市高島
美濃国
惠奈郡(ゑな)
岐阜県中津川市中津川字川上
土岐郡(とき)
岐阜県瑞浪市土岐町
可兒郡(かに)
岐阜県可児郡御嵩町中
賀茂郡(かも)
岐阜県美濃加茂市蜂屋町
か
か
み
各務郡(加々美)
岐阜県各務原市各務おがせ町
郡上郡(くしほ)
岐阜県郡上郡八幡町島谷
郡上市八幡町島谷
岐阜県武儀郡武芸川町八幡
関市武芸川町八幡
む
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や
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も
と
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武義郡(牟介)
山縣郡(夜末加太)
方縣郡(加多加多)
厚見郡(阿都美)
た
席田郡(無之呂多)
本巣郡(毛止須)
岐阜県岐阜市山県岩
岐阜県岐阜市八代
岐阜県岐阜市加納
岐阜県本巣郡糸貫町郡府
本巣市郡府
岐阜県本巣郡本巣町文殊
本巣市文殊
安八郡(あはちま) 岐阜県安八郡神戸町神戸
お
ぼ
の
い
け
た
た
き
ふ
は
い
し
大野郡(於保乃)
池田郡(伊介太)
多藝郡(多岐)
不破郡(不破)
つ
石津郡(伊之津)
岐阜県揖斐郡大野町大野
岐阜県揖斐郡池田町本郷
岐阜県養老郡養老町三神町
岐阜県不破郡関ヶ原町松尾
岐阜県海津郡南濃町吉田
176
海津市南濃町吉田
飛騨国
あ
ら
き
お
ほ
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ま
し
た
さ
ら
し
み
の
ち
た
か
ゐ
は
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し
な
ち
ひ
さ
か
荒城郡(阿良木)
岐阜県吉城郡国府町宮地
大野郡(於保乃)
高山市国府町宮地
岐阜県高山市岡本町
益田郡(萬之多)
岐阜県益田郡下呂町湯之島
下呂市湯之島
長野県埴科郡戸倉町若宮
千曲市若宮
長野県上水内郡信州新町水内
長野市信州新町水内
信濃国
な
更級郡(佐良志奈)
水内郡(美乃知)
高井郡(太賀為)
長野県上高井郡高山村高井
埴科郡(波爾志奈)
た
長野県更埴市生萱
小縣郡(知比佐加多)
佐久郡(さく)
あ
つ
み
つ
か
ま
す
は
長野県小県郡東部町県
千曲市生萱
東御市県
長野県佐久市長土呂
安曇郡(阿都美)
筑摩郡(豆加萬)
長野県南安曇郡安曇村島々
松本市安曇
長野県松本市筑摩
諏方郡(須波)
長野県諏訪市諏訪
伊那郡(いな)
長野県伊那市伊那
上野国
と
ね
あ
か
つ
う
す
ひ
か
む
ら
利根郡(止禰)
群馬県利根郡水上町藤原
ま
吾妻郡(阿加豆末)
碓氷郡(宇須比)
群馬県吾妻郡中之条町伊勢町
群馬県碓氷郡松井田町横川
甘楽郡(加牟良)
群馬県甘楽郡下仁田町南野牧
勢多郡(せた)
群馬県前橋市大手町
く
る
ま
か
た
お
群馬郡(久留末)
か
群馬県群馬郡榛名町高浜
片岡郡(加太乎加)
群馬県高崎市片岡町
多胡郡(たこ)
群馬県多野郡吉井町多胡
み
と
の
や
ま
た
緑野郡(美止乃)
群馬県桐生市川内町
佐位郡(さい)
群馬県佐波郡赤堀村西久保
那波郡(なは)
群馬県伊勢崎市堀口町
ふ
た
お
ぱ
ら
新田郡(爾布太)
き
邑楽郡(於波良岐)
安中市松井田町横川
高崎市高浜町
高崎市吉井町多胡
群馬県藤岡市緑埜
山田郡(也末太)
に
みなかみ町藤原
群馬県太田市太田
群馬県邑楽郡大泉町古氷
177
伊勢崎市西久保町
下野国
あ
し
か
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た
か
足利郡(阿志加々)
栃木県足利市伊勢町
梁田郡(夜奈太)
栃木県足利市梁田町
安蘇郡(あそ)
栃木県安蘇郡田沼町田沼
佐野市田沼町
栃木県下都賀郡藤岡町都賀
栃木市藤岡町都賀
都賀郡(つか)
さ
む
か
は
寒川郡(佐無加波)
栃木県小山市寒川
河内郡(かふち)
栃木県宇都宮市平出町
は
か
し
ほ
芳賀郡(波加)
の
栃木県真岡市京泉
や
鹽屋郡(之保乃夜)
栃木県那須郡塩原町中塩原
那須郡(なす)
栃木県那須郡那須町湯本
那須塩原市中塩原
陸奥国
閉伊郡(へい)
岩手県宮古市藤原
稗貫郡(ひへぬき) 岩手県稗貫郡大迫町大迫
和賀郡(わか)
岩手県和賀郡沢内村猿橋字和賀
斯波郡(しは)
岩手県紫波郡紫波町升沢
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膽澤郡(伊佐波)
花巻市大迫町大迫
西和賀町沢内字猿橋
岩手県水沢市佐倉河
奥州市水沢区佐倉河
岩手県江刺市本町
奥州市江刺区本町
江刺郡(衣佐志)
氣仙郡(介世)
岩手県陸前高田市気仙町
磐井郡(伊波井)
岩手県一関市磐井町
ら
栗原郡(久利波良) 宮城県栗原郡栗駒町栗原
新田郡(邇比太)
登米郡(止與米)
栗原市栗駒栗原
宮城県登米郡迫町新田
登米市迫町新田
宮城県登米郡登米町寺池
登米市登米町寺池
宮城県桃生郡桃生町樫崎
石巻市桃生町樫崎
ふ
桃生郡(毛牟乃不)
牡鹿郡(乎志加)
宮城県石巻市日和山
遠田郡(止保太)
宮城県遠田郡涌谷町太田
小田郡(乎太)
宮城県遠田郡小牛田町南小牛田
美里町南小牛田
長岡郡(奈加乎加)
宮城県古川市長岡
大崎市古川長岡
志太郡(した)
宮城県古川市飯川
大崎市古川飯川
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か
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り
玉造郡(太萬豆久里)
賀美郡(かみ)
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か
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く
ろ
か
宮城県玉造郡岩出山町南沢
宮城県加美郡宮崎町谷地森
色麻郡(志加萬)
は
黒川郡(久呂加波)
宮城県加美郡色麻町四竈
宮城県黒川郡大和町鶴巣北目大崎
178
大崎市岩出山南沢
加美町谷地森
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宮城郡(美也木)
名取郡(奈止里)
曰理郡(和多里)
柴田郡(之波太)
かつ た
刈田郡(葛太)
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宮城県仙台市宮城野区原町
宮城県仙台市太白区郡山
宮城県亘理郡亘理町旧舘
宮城県柴田郡柴田町船迫
宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉
伊具郡(以久)
宮城県伊具郡丸森町丸森
宇多郡(宇太)
福島県相馬市中村字宇多川町
た
行方郡(奈女加多)
標葉郡(志女波)
磐城郡(伊波岐)
菊多郡(木久多)
信夫郡(志乃不)
安達郡(安多知)
安積郡(阿佐加)
やま
耶麻郡(山)
福島県原町市泉
南相馬市原町区泉
福島県双葉郡浪江町苅宿
福島県いわき市平菅波
福島県いわき市勿来町関田
福島県福島市春日町字信夫山
福島県安達郡本宮町大町
本宮市本宮
福島県郡山市安積
福島県耶麻郡猪苗代町西峯
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會津郡(阿比豆)
磐瀬郡(伊波世)
は
白河郡(之良加波)
福島県河沼郡会津坂下町開津
福島県岩瀬郡岩瀬村梅田字岩瀬
須賀川市梅田
福島県白河市旗宿
出羽国
秋田郡(阿伊太)
河邊郡(加波乃倍)
山本郡(也末毛止)
平鹿郡(比良加)
雄勝郡(乎加知)
ま
村山郡(牟良夜末)
最上郡(毛加美)
み
置賜郡(於伊太三)
飽海郡(阿久三)
出羽郡(以天波)
田川郡(多加波)
秋田県秋田市寺内
秋田県河辺郡河辺町和田
秋田市河辺和田
秋田県仙北郡仙北町払田
大仙市払田
秋田県平鹿郡増田町増田字平鹿
横手市増田町増田
秋田県雄勝郡雄勝町上・下院内
湯沢市上・下院内
山形県東根市郡山
山形県最上郡戸沢村古口
山形県南陽市郡山
山形県飽海郡平田町郡山
酒田市郡山
山形県東田川郡羽黒町手向
鶴岡市羽黒町手向
山形県鶴岡市田川
179
若狹国
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三方郡(美加太)
遠敷郡(乎爾不)
大飯郡(於保比)
福井県三方郡三方町三方
三方上中郡若狭町三方
福井県小浜市遠敷
福井県大飯郡大飯町山田
おおい町山田
越前国
敦賀郡(都留我)
丹生郡(爾不)
福井県敦賀市角鹿町
福井県武生市丹生郷町
ち
今立郡(伊萬太千)
大野郡(於保乃)
足羽郡(安須波)
ゐ
坂井郡(佐加乃井)
越前市丹生郷町
福井県鯖江市乙坂今北町
福井県大野市清瀧
福井県福井市足羽
福井県坂井郡三国町神明
坂井市三国町神明
加賀国
江沼郡(えぬま)
石川県加賀市大聖寺
能美郡(のみ)
石川県小松市能美町
い
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石川郡(伊之加波)
石川県松任市源兵島町
加賀郡(かか)
石川県河北郡津幡町加賀爪
白山市源兵島町
能登国
能登郡(のと)
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石川県鹿島郡鹿西町能登部下
羽咋郡(波久比)
鳳至郡(不希志)
珠洲郡(須々)
中能登町能登部下
石川県羽咋市羽咋町
石川県輪島市鳳至町
石川県珠洲市三崎町寺家
越中国
礪波郡(止奈美)
射水郡(伊三豆)
婦負郡(禰比)
富山県小矢部市埴生
富山県高岡市二上
富山県富山市呉羽町
は
新川郡(邇布加波) 富山県富山市新庄町
越後国
頸城郡(久比岐)
新潟県糸魚川市大和川
三嶋郡(美之末)
新潟県柏崎市三島町
古志郡(こし)
新潟県長岡市
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魚沼郡(伊乎乃)
ら
蒲原郡(加無波良)
沼垂郡(奴太利)
ね
石船郡(伊波布禰)
新潟県南魚沼郡湯沢町神立
新潟県新潟市蒲原町
新潟市中央区蒲原町
新潟県新潟市沼垂東・西
新潟市中央区沼垂東・西
新潟県村上市岩船
180
佐渡国
さ
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た
雑太郡(佐波太)
新潟県佐渡郡真野町吉岡
佐渡市吉岡
賀茂郡(かも)
新潟県両津市加茂歌代
佐渡市加茂歌代
羽茂郡(はもち)
新潟県佐渡郡羽茂町羽茂本郷
佐渡市羽茂本郷
181