波治加麻神社【はじかまじんじゃ】 所在地:泉津木出場 都道を泉津集落から大島公園へ向かう途中、山側へ曲がる道がある。その道を上ると波治 は ぶ ひ め の みこと 加麻神社の鳥居が見えてくる。延喜式(1)(905 年編纂開始)の神名帳(2)に、波浮の波布比咩 命 あ じ こ は ち 神社、野増の阿治古神社(後の大宮神社)と共に波知神社として載っており、旧郷社の中の一 つである。ここの地名を波治ヶ間または八ヶ間と称している。三宅記(3)によると大明神が諸 龍王に命じて島々を焼出させ、その三番目の島を大島と名づけ、五人の后の一人を大島に置 いた。はぶの大后が波布比咩命神社の祭神、そして二人の王子の太郎王子(阿治古命)は大宮 神社、次郎王子(波治命)が波治加麻両神社の祭神であるという。参道には杉が林立して陽光 をさえぎり、緑の杉苔が絨毯のように本殿へと続いている。本殿の周囲は深山を思わせる静 寂さで、神秘的な雰囲気を漂わせている。本殿は昭和に入り造営されたもので間口が約 1.2m、 奥行き約 1.1m、拝殿(4)は間口が約 3.7m、奥行き約 3.6m で本殿と拝殿との間に幣殿(5)があ る。本殿の右奥と左奥に石祠がある。左側の石祠は歯の神様とされており、右側について詳 細は不明である。 (1) 「延喜式」は全 50 巻から成る律令の施行細則を記載した書物。巻 9・10 が神名帳とい われている。 (2) 神名帳は、祭祀を行う対象の神社を一覧表にしたものであり、ここに記載されていると いうことは延喜式の完成時に神社が存在していたことになる。 (3) お伽草子と軌を一にするもので、その成立年代は室町時代の永享 2~文明 2(1430~ 1470)年頃と推定されているが 、前田本には文明 13(1481)年とある。物語は仏や菩薩 が仮に神の姿となって衆生を済度するというもの。 (4) 神社で、本殿の前に設けられた礼拝を行うための建物のこと。 (5) 参詣者が幣帛(6) (へいはく)をささげる社殿。拝殿と本殿との中間にある。 (6) 神前に供える物の総称。
© Copyright 2024 ExpyDoc