第174号 - 尾鷲市

共創・共育・共感
尾鷲市教育長だより
2016.4.28.(木)
第174号
家庭の教育力・文化力
家庭の教育力という言葉はよく耳にすると思いますが、家庭の文化力とい
うと何かピンとこない方が多いようです。文化というと、テレビや学校・地
域社会の分野でそちらにまかせておけば…と感じている方が多いようです。
今回は、家庭そのものが文化的施設であり、親は子どもに対して人間の生
き方を教える文化の伝達者であるといった話をします。
今日、多くの家庭は、昔にくらべてずいぶん文化的であるように見えます。
しかし、その大部分は、テレビをはじめとするマスコミの文化をもって家庭
の文化としているように思われます。こうした文化だけで、親が子に伝える
べき文化を代用させてしまってはいけません。家庭の文化は親の手でつくり、
親の手で直接子どもに伝えていきたいものです。
そういうと「とてもそんな期待にはこたえられませんよ」と言われる方も
いると思いますが、そんな大それたことをしなさいというのではありません。
家庭の文化といえば、新聞や本が生活の必需品であり、演劇・映画・音楽
・美術などが家族の話題になり、ときに家族でスポーツを楽しみ、子どもの
ピアノにあわせて歌をうたい、映画・演劇・音楽会・美術展を鑑賞したりす
ることと考えられがちです。
そうした文化活動や文化財への接近は、子どもを芸術・文化活動へ橋わた
しするだけでなく、子どもの生活を豊かにし、その理想を育んでいくのには
十分なことです。
しかし、もっと簡単に、どの親にもできて、しかも、金のかからない家庭
の文化活動があります。それは、親の日常生活です。親は自覚していません
が、日常、子どもの文化を育てているのです。
親の起居動作、その一つひとつが子どもへの生活文化の見本となっている
のです。さらには、子どもへの絵本や物語の読み聞かせ、寝物語に話す昔話
やおとぎ話などもあります。戸外の散歩もそうです。
今では少なくなりましたが、ときどき小さい子どもの手を引いて町を歩い
ている母親の姿を見かけます。子どもは戸外の一つひとつの事象に興味を示
し 、「 あ れ 、 な あ に 」 と 母 親 に 質 問 し ま す 。 こ れ が 子 ど も の 文 化 活 動 で す 。
また、遊園地や庭先で子どもと一緒に遊ぶこと、これも大切な文化活動で
す。遊びは文化の基本型なのです。
しかし、何よりも簡単にできる文化活動は、家族の会話です。その会話も、
格調高い教養にあふれるものである必要はありません。とくに、社会・経済
・政治・芸術に関することである必要もありません。
日常茶飯の出来事やそれにともなう喜怒哀楽の表現とその交流・交換でい
いのです。子どもは会話を通して自分とはちがう文化にふれ、ちがう世界を
知りながら、自分の文化をつくるからです。
家族が言葉を交わし、意思や感情を交流することが文化そのものなのです。
会話のある家族の団欒はきわめて親和的です。仲がよいことはもっとも文化
的な状態なのです。家族のおしゃべりを通して、家族の愛の文化を育てるこ
と、それが、家庭のもつ強い教育力なのです。
それと、親のあり方は子どもに対してかなりの人格的な影響を与えます。
子どもの自我は大変弱いものですから、ごく近くにいる父・母の自我を取
り込みながら成長します。父親からは父性的自我を、母親からは母性的自我
を取り込みます。
子どもは学校や地域の子ども集団の中で、さまざまな抵抗に出会います。
例 え ば 、 い じ め ら れ る と い っ た こ と で す 。 そ の と き 、「 や め ろ 」「 よ せ よ 」 と 、
跳ね返していく力は、父親の父性的自我から授かる力なのです。
この父 性的自 我をまち がえて 、腕 力をふ るうこ とが父親 の強 さだと錯 覚し、
子どもや妻に対して暴力的であると、子どもはその自我をとりこんで暴力的
に なりま す。す ぐに カーッと なって 暴力を ふるっ てしまう 子ど もがいま すが、
調べてみると、親が暴力的な例が多くあります。
精 神 分 析 の 権 威 フ ロ イ ト は 、「 子 ど も の 自 我 は 弱 い の で 、 愛 す る も の の 自 我
も、ときに憎むものの自我をもまねる」と述べています。考えてみれば恐ろ
しいことです。父親の生き方は、子どもの人格形成の上で強い影響力を持っ
ていることがわかります。母親についても同じことがいえます。