漱石と鷗外 漱 石 と 鷗 外 と を 対 比 的 に 見 る 場 合︑ 彼等 の 出 生 や 生 立 ︶︒鷗外 ﹃漱石と 外 とのちがい﹄ ちの相違がかなり重大な意味を持つものになっているこ とは︑すでに中野重治も指摘している︵ は津和野藩医の長男に生れた︒旧い封建的な家族制度に あっては︑いずれその家を背負うべく運命づけられてい た長 男というものが︑それだけの意味をこめて大事に育 てられたものであったらしい︒時勢の変り目ではあり︑ 早くからすぐれた才能を示していた鷗外の場合には︑そ 5 の上にそういう条 件から来る期待が加わったためであろ ﹁両親の晩年になって出来た﹂子供であった とか︑その後改めてやられた養家から帰った時にも両親 に入れられて︑毎晩四谷の大通りの夜店に曝されてゐた﹂ であった︒古道具屋の﹁我楽多と一所に︑小さい笊の中 れ た の を 振 出 し と し て ︑ かな り 不 幸 な 生 立 ち を 持 っ た の ために︑母がその懐姙を面目ながったあげく里子に出さ 末っ子 ︱ ゆる﹁冷飯﹂の末っ子であったばかりでなく︑そうして ら扱われていたのであった︒それに対して︑漱石はいわ うが︑特に大事に︑常に深い敬愛をこめて周囲のものか 6 ︱ は冷たかったとか ﹃坊 つちやん﹄に書かれている下 女の清がかげでひそかに同情していたというようなこと も︑事実あったらしい︒そういう育ちかたの相違が︑そ の後の二人の物の感じ方や作品のあり方に︑大きなかげ を落さずにはいなかったのである︒ と同時に︑その後の閲歴がまたこの二作家の道に著し い対比を持たせるようになったことも︑もう多くの人々 によっていわれている︒医学を学んだ鷗外が陸軍と結び ついたことも︑その陸軍の豊かな費用で留学したのがビ ス マ ル ク 治 下 の 独 逸 で あ っ た こ と も ︑ そ れ が まだ ﹁ 処 女 7 の や う な 官 能 ﹂ と ﹁ 嘗 て 挫 折 し たこ と の な い 力 を 蓄 え て い う こ と の 仄 か な 反 映 も 認め ら れ た の で あ っ た ︒ 伊 藤 博 秘書として有為な才能を示したとある辺りなどに︑そう な っ た と い う ︒﹃ 舞 姫 ﹄ の 主 人 公 太 田 豊 太 郎 が 天 方 伯 の 外は︑やがて外交官として生きることを望むようにさえ 会合に出たり︑かなりはなばなしい活動を示していた鷗 学生としてあっただけでなく︑演説をしたりいろいろな のであった︒そういう空気の中で︑単に衛生学を学ぶ留 外の前途を即時代的な明るい希望に充ちたものとさせた ゐた﹂二十三才の若い時代であったことも︑すべてが鷗 8 文等が独逸から帰って︑そこの政治のあり方を直接わが 国のそれの手本としたのであったことなども︑後には高 級官僚となった鷗外のあり方と︑結びつけて考えられて いいのではないかと思う︒それに対して︑予備門在学中 から月謝かせぎのアルバイトをしなければならなかった 漱石の︑年齢的にも少し遅かった洋行が︑甚だしくみじ め で 冴 えな い も の で あ っ たこ とや︑ そ の み じ め さの 中 で はげしい勉強を続けたあげく︑一応は自己本位の立場を つかみながら︑結局は例のはげしい神経衰弱を抱いて帰 らねばならぬことになったのであることなどは︑誰でも 9 知 っ て し る 通 り で あ る ︒﹃ 道 草 ﹄ で 見 る と ︑ 彼 は 三 流 政 ないわけだ︒ まりにも対比的な二人であったことを思わずにはいられ を︑小堀杏奴か誰かが書いていた︒いろいろの点で︑あ ただけで平気でそこを通り過ぎてしまったということ け に 咎 め ら れ か け て も ︑ た だ 一 言 ︑﹁ 森 林 太 郎 ﹂ と い っ を間違えて他の場所に入ってしまったのを︑その受けつ たりしているのに対して︑鷗外は︑招待された展覧会場 は細君で質屋などというものとも交渉を持つようになっ 治家の拭きこまれた玄関で見苦しく滑りかけたり︑細君 10 そういう違いが︑作家としての漱石には︑当然抑圧さ れたものとしての暗さや苦悩の中から発想させている︒ ﹁ 愚 な る 教 師 と な ら ん あ ら涼 し ﹂ と か ﹁ そ の 愚に は 及 ぶ べからず木爪の花﹂とかいう作品にこじれた心境を示し ていた時代からそうだったし︑低回趣味や非人情をとな えたのも︑わずかにそういう立場を裏返して見せたに過 ぎなかった︒ましてその低回趣味の一つの見本として提 出した﹃坑夫﹄において︑強く統一された生を生きるこ と の 出 来 な い も の の 不 安 に 触 れ た 後︑ そ の問 題 を 推 し つ め て 結 局 ﹃ 門 ﹄ に 行 か ね ば な らな か っ た 辺に は︑そ のこ 11 とを強く感じさせるものがあろう︒三四郎はいろいろの 表面的な意味で反自然主義を立揚としていた彼が︑ここ こ み 場 所 で あ っ た ︒ 低 回 趣 味 や 非 人 情 主 義 の 時代 に は ︑ までもなく抑圧に抗しきれなかったものの敗北的な落ち 深い怖れを感じながら生きているのである︒それはいう た宗助は︑しがなく疲れた無感激の奥に︑社会に対する げしく触着した︒その結果として社会の外に弾き出され た我の自覚を︑こんどは強く生きぬこうとして社会とは 意を失っていた代助は︑三千代の登場によって新にされ 理由から自我を生きそこねた︒そのため積極的な生の熱 12 まで来て自然派の人々と同じ落ちこみ場所に落ちこんだ ことになるのであった︒その後そういう怖れや不安の由 来を探って我執の問題につき当った彼が︑例の則天去私 の救いを見出して行くようになったのも︑自然派の︑例 えば田山花袋などが︑やはり我執とか執着の心とかいう ものを怖れて︑宗教的な救いを求めて行ったのなどと︑ 或る程度並行的な道筋でなかったとはいえない︒抑圧と そういう形であらわれた探求力の限界が いう外部からの問題をまで内部に移して考えずにはいら ︱ れなかった そこにあったことになるのである︒ 13 漱石の非人情主義や低回趣味と呼応するかのように︑ つかみながら上記のような方向に傾いたくらいだから︑ であったことを思わせる︒が︑そうして事態をはっきり 漱石よりずっとはっきりその頃の事態をつかんでいたの 定 さ れ る思 想 の 方 向 に 傾 い て 行 っ た 点か らい えば︑ 彼は 体に順応した集産主義﹂とか﹁天皇制社会主義﹂とか規 お い て ︑ 天 皇 制 温 存 の た め の 工 夫 を 説 い た あ げ く ︑﹁ 国 官 僚 ら し く ︑﹃ か の よ う に ﹄ や ﹃ 藤 棚 ﹄ の よ う な 作 品 に 自 然 主 義 を 立 場 と し て い た鷗 外 が ︑ い かに も 忠 義 な 高 級 いわゆる﹁あそび﹂の主張などを示して︑同じように反 14 抑圧下に疾苦するものの苦悩などには彼は何の共感も同 情も示さなかった︒その頃の現実を眺め渡そうとした作 品﹃青年﹄における︑酒井未亡人などの描き方がそれを 端的に物語っている︒疾苦するが故にともすれば頽廃な どにも陥ろうとする人々を︑冷ややかにただ醜い堕落だ とばかり考えた彼は︑そういう崩れた醜さに対置される も の と し て ︑﹃ 山 椒 太 夫 ﹄ の 安 寿 の 場 合 な ど に 見 ら れ る ような︑清純な少女の一念凝った献身の美などを︑彼と しては珍らしくやや強調的な筆致で描いて見せたり︑崩 折れることを知らない昔の武士の意地強さを傾情的に描 15 いたりすることになったのである︒それもむろん我執の などを︑縁側から蹴落したりしたというほど︑容易に取 ているのである︒激すれば子供が大事にしていた植木鉢 ら来 るものが︑そういう対比をいわば決定 的な ものにし ようになったのであることが思われよう︒出生や閲歴か 尊 ん だ こ れ と が ︑ そ う い う 点 か ら も 対 比 的 な も の を示 す になっていたばかりでなく︑我執を恐れた彼と︑意地を する立場が︑ここまで来れば︑はっきりと対立的なもの で︑同じ時代の苦悩に対処して新しい生の道を探ろうと 克服に道を見出そうとした漱石の場合と並行的なもの 16 りみだす人であった漱石に対して︑鷗外が決して取りみ だ さ ぬ 人 で あ っ た こ とな ど も︑ 恐 ら く こ こ で関 連 的 に 考 えられていいことであろうし︑前者の文学が持ったはで な に ぎ や か さ と ︑ 後 者 の そ れ が 持 っ た簡 素 で 緊 密 な 整 い の問題なども︑何かしらそこにつながりのある事柄のよ うに感じられる︒ が︑そんなことより︑そうして意地強く生きぬくこと を尊んだ鷗外は︑そうした生にまつわる悲劇をも幾つか は見ていながら︑結局は人生の明るい可能性を信じよう とする人であった︒だから彼は︑マイレンデルやショウ 17 ペンハウェルには頭を振って︑科学の未来を信じようと 去 私 を 思 う 人 と な っ た の で あ っ た︒ 尤 も 則 天 去 私に つい じて︑著しく悲観的な否定観に傾いたあげく︑例の則天 であるため︑そこに穏かな平和などあり得ないのだと感 とう凌ごうとする我執の集積としてのみあらわれるもの か ん で い た ら し く 見 え る け れ ど ︑ ただ そ の 発 展 が 他 に 勝 それに対して︑漱石もまた歴史を一応は発展においてつ ずがない︑というようなことを書くようになっている︒ 千年もの間人間がそんなに不合理な生活を続けて来たは したし︑古人の営為にも高い意義と価値とを感じて︑何 18 ては︑それがも一つつきぬけたら︑もっと明るい肯定観 が生れることになったのではないかと思われる節がある し︑その意味での漱石はまだその道を歩みきれぬうちに 死んでしまったことになるのだけれど︑とにかくその相 違 が ︑﹃ 明 暗 ﹄ と ﹃ 澁 江 抽 斎 ﹄ 以 下 の 史 伝 物 と の 相 違 と なってあらわれていたのではないかと思う︒その意味で 鷗外は漱石のようには打砕かれなかった人だったのであ り︑漱石は打砕かれたところから立直りかけたところで その生を終った人だったということになる︒そこにもま たその立場の相違が或る程度関係づけて考えられてよか 19 ったのではないかと思う︒ にもかかわらず︑鷗外の多くの作品にも底深い寂寥感 嘆かずにはいられなかった漱石の場合とも︑或る程度通 う 点 で は ︑﹃ 猫 ﹄ や ﹃ 虞 美 人 草 ﹄ 以 来 常 に そ の 無 力 さ を 故の寂寥感とが書きたかったとも語られている︒そうい 何事もし出かすことが出来なかった綱宗の無力さとそれ 誰 で も 知 っ て い る ︒﹃ 椙 原 品 ﹄ の 中 に は ︑ そ の 境 涯 故 に 多くの場合深い諦観と結びついたものであったことも︑ し ︑﹃ 舞 姫 ﹄ の 否 定 的 浪 漫 主 義 か ら 出 発 し た 彼 の 道 が ︑ が秘められているのは︑すでに定評になっていることだ 20 い 合 う も の が な い こ と も な か っ た の で あ る ︒ 操 觚 者 とな ろうとして果さず︑外交官への夢も実らず︑科学からも 閉め出されたことその他︑いろいろな事由がむろん鷗外 の 場 合に も 考 え ら れ ね ば な ら ぬ け れ ど ︑ 根本 的 に は 民 衆 一般に明るい可能性を見出すことの出来なかった人々の 不幸が︑そこに同じように示されていたことになるので はないかと思う︒それなりに︑漱石にはかなり広い範囲 の人々をも読者として考慮していたようなところがあっ たのに対して︑鷗外には︑少くとも晩年以外は︑もっぱ ら高いところから彼等を見下しているようなところの多 21 かったのが︑彼のすがたを一そう孤高の趣あるものとし に︑そういう点を主とした二人の比較論が収められてい れど︑もうその余白もない︒生田長江の﹃最近の小説家﹄ なおいろいろとここで触れるべき事柄は残されているけ の和歌︑絵画的な多彩さと彫刻的な雅醇さの問題など︑ 性 に 対 す る 鷗 外 の 貴 族 性 の問 題 ︑ 彼 の 俳 諧 に 対 す る こ れ とや︑漱石の江戸時代芸術への親近とその意味での庶民 門 流 が 多 か っ た の に 対 し て︑ 鷗 外に は そ れ がな か っ たこ そういうことと関連して︑漱石にはその周囲に直接の たのであろう︒ 22 ︵ ︶ 二十八年八月 ﹃解 釈と鑑賞﹄ ることだけでも︑せめて参考のためここに記しておくこ とにしよう︒ 23
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