非言語表現行動と実質行動の中の敬意表現 ヱ 目 U 田 ほ ついて﹁礼儀﹂と舌ロうと、﹁敬語﹂のことが多く占 をめるから、 ヮ舌口語 る。それは通常﹁礼儀﹂と呼ばれるものとかなり重なりあ,。 動など定式化が確立しているものを除いて、とらえにくいものだか すいものだが、行動の規艇は テーブルマナーや葬式で る 人は多い。これには無理のない点もある。 の決まった行 相手に配慮しての非言語の規範は﹁敏活行動﹂ないし、﹁敬釜日 け足 動﹂ 自分白身をその規範の外に置き、拘束されないように までしてしま てしまう。困ったことに当のその強者は 一方的に作られ、執行 @れ Ye 立したものがあるから︵それでもめれている規範もある 、規範を ぅ ことがある。 い批判者は多い︶。ところがこの敬意行動には規範についての一定 なものであるかを見ることによって、それを明らかにしていこ,つと ノョン行動に限って、敬意・配慮・尊重を意図した行動 がどのよう 人間の行動は確かにとらえにくい。本稿では人間の コ、 くュ ニケー の共通の認識のあるものもある一方、現職がゆれている、ないし存 あてにならない一人よがりの規肥をふりかざして反省することのな 逸脱した者に対する非難の根拠はかなり正当性がある ︵もちろん、 行動の規範から逸脱すると当然非難される。敬語の規 らである。ところが、規範が確立していないと強者によって規範が @語の規 範 はとらえや て敬意行動の規範︵と勝手に思っているもの︶からの逸 脱を非難す 難するのと同じように、あてにならない一人よがりの規 範 に基づい 住 しないものもある。にもかかわらず、敬語の規範か らの逸脱を非 均 と言ってよい。敬語の使い方を誤ると非難されるのと同様に、敬意 @ ロ語に一定の規範があるように、人間の非言語行動にも 規範があ ノ氏 思う。それによって言語と非@語とによる敬意表現の役割の分担の 様子や共働の様子がわかるだろうし、あてにならない 実態がわかるだろう。 ここでは、日常の舌口語生活の中にしばしば見られる行を 動批判 非難している木をまずとりあげる。ところがその批判 非難の万が 的外れで間違ったもの、という困った本である。しかし、そのよう な批判・非難が行われるのは規範にゆれが存在することを示すもの 国人が不思議がる日本人のあんなクセ 、こんな クセ や コミュニケーションにかかれるものも扱われている、 けだが、 そ 一体なぜ P﹂ そして﹁ 外 ロ 伍Ⅲ に映し出す辛ロエッセイ盤編 ﹂とのことである。当然そ れには @ ︵同じくカバーから︶と日本人の行動を批判しているわ 0行動の持つ意味をまったく理解せず的外れな非難を加えているだ けというものである。問題の箇所を挙げていこう。﹁事 例:・:・﹂は 私が加えた。あとで参照するためである。 を知るのに有益であると考えて、その万法を用いることとする。先 ついて批判・非難の応酬のあることは、普通の舌口語生の 活ありきま 月蝕のときに天体のことがよくわかるように、言語生 活の規範に れをまさぐる習慣はまだ外国では採用されず、まず握手が先です。 とが一般的になりました。︵中略︶それでも紹介されてすぐ名刺人 慣を輸出し、外国の ビジ ネスマンも日本人と会う場合はそうするこ ﹁日本人のビジネスマ ンが、会うとまず名刺を差し出すという音 ﹁名刺とう べル﹂から ほど、人間の行動はとらえにくいと述べたが、この方法を用いるこ 日本ではどうしてそんなに名刺が重要なのでしようか。外国人同士 事例 工 とによって、少しでもその総体をとらえることができるようになる ですと、自分がどういう人間であり、どういう仕事をしているのか を﹁ことば二で説明し、 柏手はそれを聞きながら、話し手の話し振 @さ りを観察し、途中で質問 を挟んだりして、お互いの人物を知り合お その木とは千葉敦子﹁ちよっとおかしいぞ、日本人口 ︵一九八五 年 ・新潮社︶である。回書の新潮文庫版二九八八年︶ のカバーの 一O九 私の千葉氏への批判を加えていこう ︵以下同様に︶。﹁外国人﹂ うとします。﹂ ナリストが、日本人の趣味趣向、民族性、美意識を鋭くユーモラス 内容説明によると、﹁ニューヨークを舞台に活躍した国際派ジャー ことを願っている。 であり、病気のときに人間の休のしくみがよくわかるよう に、日蝕 一 " 一 一" 一 とはいったい何者なのだろうか。私は台湾に住んでいたが、台湾人 人的な表現が使われます。柏手のその日の予定を頭に置いて、同本 蚕 れは不特定の柏手に対する挨拶であり、配偶者間などではもっと 個 うに、 コサンキュー。ハブ・ 一一 O が 日本人以上に名刺を使う のを見てきた。千葉氏 にと っては台湾人 議 がうまくいくように祈るよ﹂とか、﹁うまくあなた好みの上着が 。お住まい 家 に 招いて 下 、お遊び ア ・ナイス・デイ ロとい いますが、 こ ﹁外国人﹂ではないようだ。﹁ニューヨークを舞台に活躍した国 し とか︵以下略︶﹂ お 遊びに目なんか行けますか。﹂ 決まり文句︵定式化した表現 - のない 80 事例 3 ﹁なぜ、 トシ を聞くの﹂から ﹁︵略 ︶フランソワーズ・サガンが日本にきたとき、 コム百社に のた ろう 6歳をきかれるので、一遍に百年も歳をとった気がする 、といって たれ 誰にムムって が加わる︵ことば通りの意味ではなくなる︶ことは容 易に 想像でき 行われるか、の違いがあるのだし、定式化してしまったら別の意味 か。その定式化の程度が強いか弱いか、どんな局面に定式化がよく @ 語なんてある れちゃう。冗談じゃない ョ、お ヒて なときなんかないし の、お ヒてなときに会社の万へお遊びにおいで下さいL なんていわ はどちらですか﹂とたずねれば、﹁うちは所沢ですけれ ど ⋮⋮。 あ さるのだと 早 ムロ点して、﹁まあ、ありがとうどざいます に ・・・・・・﹂というもコ のお 。 遊びにしというからには、 ﹁もうひとつ、日本人がよくいう決まり文句。﹁どうぞ みつかるといいわぬ は テソ J ﹂から コじ やあね、頑張 という挨拶、いつからこんなに多用されるよ, ヮ ﹁決まり文句﹁ガンバッ あいさつ 際派 ジャーナリスト﹂らしく目はアメリカにしか向いていないよう 事例 2 ﹁ガンバッ テソ コきようなら ヒ の代わりに コでは、どめ ん下 -さい二の代わりに コ頑張って 下 になったのでしょう。 って ね L といい、 ていると さい ロ という。いわれた方は何を頑張るのかしらと 一瞬 とまどって せん@ さ しまいますが、そういうことを一々詮索しないのが、 日本人の粋 と いうものらしい。﹂ ﹁それにしても、日本人の挨拶はあまりにも型にはまっ 思いませんか。日本に長く住む一米国人ビジネスマン が流暢な日本 語 でこ う いっています。同日本人の女性はとても魅力的 だけど、 結 婚 となると考えてしまいますね。なぜって、毎朝 "行 ってらっし ゃ いガ で送り出されて、毎夕 ガお帰りなき いガ で迎えられ スwと 回心うと Ⅱ ノ ゾッ としますからね。どうして、その人らしい挨拶のことば、その 仏 ァメ ときどきの気持ちを表すことはを使わないんでしょう とロ 力でも、たとえば店で何か買ったりすれば、売り手は判で押したよ リヵ は住宅建設が伸びているよう ですし、西独は輸出が回復し、 英 いましたね、ホント トを シ 、き 日き 本た い 人が はり す、 ぐ い方がある。事例 2 で千明氏が言っている﹁個人的な表現 ﹂﹁その 人ま らしす い﹂ね ﹁こ。 とば︵ ﹂を略 日本︶ 人も使っているにことがわかる。 の向 とが こあ ろり に 年齢でものごとを判断する私 傾 を 入 くる読者か、 ら 判の で手 押紙 しも たよ 年う 蛉 にれ ︵て 略自 ︶己事例 4 ﹁隣のビル ヘ歯を磨きに﹂から ﹁記者会見︵略︶で日本人の クセ があらわになります。 外国人の 紹介が書かれています。﹂ 記者語 は︵使 略︶用 自由の な発基 想で準 質問を をし決 ますが、日本人の記者は げその める イ るン 日本人が﹁トシをききたが﹂ のは敬 にふさわしい ガ 質問をします。﹂ 頼 だ デッス に クしたいからだろう。問 敬 語と のい 存, 在席≦ そ の も の が 、なぜだ ﹁日 日本 の景 気回 復が 他の先進諸国より遅れているのは なら︵私も敬語の存在が差 作っ 別て のい なく いこ 社と 会 を こ れ か ら お思で いでい すかる ﹂と︶ 聞くそ ようの な場合、日本人の記者ですと 、コアメ りい だて が なは 、悩とん とどうかかわっているかに通 つ ではシ 個人を 消費が ⋮ く ロと﹂ いった前置きが必ずくっつくのです。答え 要 は 敬語使用のインデックスと 必 な性 るあ なる ら。 ﹁国ト 聞 にい、 わせれば 司そんなこと知っているよ L といいた いところで る方が ﹁日本人 トは を シす ⋮ぐ いいたが﹂る 私は と︵ の特 こに と初 だ 外 国人が答 え しか ょうけ が、そ こはい 礼儀よ 正しい 日本 人、と 黙っています、 考﹂ え負 て担 自を 分 対面の︶柏手に﹁トシを聞く な う に 6京 人でオ あると きばン 、 ピ 司そッ れで質 問はの 7 ロ と、き えぎる 人 もいますけ きえ にば は﹁ 小東 学 から舌ロうことがある。たと と リ ク 。そして、質問の範囲というものが無 ミロのルールに基 いて決まっ 校五年生 アで ベ 選べ 手の⋮﹂とか 博の ﹁き と 大、 阪私 のは 万ち 国どょ てい行 るので すね 。﹂した﹂と ﹁か オら イよ ルく うど大阪の高校の二年生でしか た き ま の 四 例て 5 ね ﹁五セ 五と 季節 感﹂ から ノコックは大学二年生のとき に年 あ生 りの ま事し 、 寮 の 同 室 し、 てもらう ﹁いつでも季節感を探そうとする クセ 、舌口外に余情を持 たせよ う 人の就職が話 ⋮彊 に ﹂合 なわ どせ と年 て冊 を 言像 想 い た だ ろも う︶ 。 私ん の 備 年 がい わる か人 っも のである︵これをう 読 で とす るクセなどは、俳句から生まれたんじゃないでしょぅか 。新聞 の報道記事の中にも突然、記事の内容と関係のない季節の叙述なん ま ロ@ な かがい 出てき て、 よくびっくりします。たとえば︵略︶ が 論文﹁人に年齢をたずう ね に 、 るま さ ﹂ざ で@ 述 べて る よ 一一一 Ⅰ夫と ︵略︶性を詰り合える様な間柄になれたら・・・:な んて、 そ,菩った 。しかし、ややもして 、日功Ⅰ なりました。 7 ﹁お世辞ではなく・・・⋮﹂から 一一一一 合 。日本人は クダクダ といいわけをい う 人が多い。﹂ 事例 ﹁日本人は、どうもひとを褒めるのが下手ですねえ。 ﹁酒に飲まれる﹂ コ酒を飲むということは酌をし、 私はかって高校で﹁現代国語﹂︵当時の科目名︶を教 えていたこ ら せんC た もの 薄 めようなことを考えたりするの﹂。取りこんだ 洗 濯 物を ︵略︶たたみながら、 れるような人間でないのかも知れませんけれど、日本大に褒められ す 。﹂ 事例 8 ﹁日本人にとっては、 L こ卜は gロ L しなっているⅠつ@ しいのですソ朽。 仏﹂ 四 されるこ う 目と疑っているわけでもないのに、 コお世辞ぬきに して L とか、 さきまわ コお世辞い うわけじゃないんですが目などと先 廻りきれ ちゃうので いわけがつくんですね。こっちは別に コお世辞いって い るんでしょ ではなく、いい水だと思いました目というよう に 、 何か 刊置きやい っぱり、無理でしょうね﹂。夕暮れの窓に、サクラが白 く見 向サクラロが出てこなくち や ならない ﹁来週、また電話してよ﹂から う 日時、場所を決 めること 伝 言も 、外国 コお戻りになりましたらお 電 話を下さ ム﹁度 は相手が席 ないような 頼 の ︵と 言 う より日本語︶の行動の底にある意味を知ろ, つともせず、 とにかく、ここに掲げたものだけからでもわかるよう に、日本人 ﹁予定を変更しなくてはならなくなった場合も、柏手が外国人な それを外国︵それも﹁外国﹂の一部の国︶との対比において、徹底 て 、この間のお約束、変更をお願いしなくてはならなく といった 兵 ら 実に簡単です。 一週間後の同じ時刻、同じ場所にしていただけますか﹂ 的に非難しようとするものである。実はこのような評 韮 ㎜は多い。 向申しわけないのですが、急用がは いってしまっ りない声の人が電話口に出ていたりする。﹂ にいなくて、きちんと伝言口を受け取ってもらえそうも い ﹂という伝言なんですね。こちらからかけると、 います。ところが日本人は 大 なら︵略︶こちらから電話一本人れれぱいいような形で残されて い 。私は︵略︶留守番電話を入れていますが、︵略︶ ができるのに、日本人だと何度も電話をかけ合わなければならな ﹁柏手が外国人だと一木の電話で、会 事例 6 んでしょうね。﹂ ︵略︶なんでこんなところに は 、司 お世辞 るという経験はとても少ない。たまに褒められる場ムロ が える。 褒 以前千葉氏の実害まき散らしの被害は広く及んでいることに気が それは 近 ・現代の日本の言論 界 のあ の近代︵化︶﹂というのがある。 れはいい、と思った本、作家︵文筆家︶がありますかⅠ﹂との私の ついたことがある。一回は本学の推薦入学試験の面接 とがあるが、その科目で扱われる評論教材の大きなテーマに﹁日本 0万から言って当然のことであり、したがって教材も多くとられ、 問 ㈹に、﹁千葉敦子﹂と答えた女子受験生がいたときである 0 もう 試 験の際、﹁こ 大学入試にもその方面のものがよく採用される。このことには多く 一回はある講演の中でこの本を本稿同様のとらえ万で ぞ 、日本人﹂ 批 刊 してとり の人が気づいていて、沢部ひとみ氏は大学入試にとられる評論文の コちょっとおかしい あげたとき、﹁千葉敦子という人が ⑦ 問題の解き方を説明した本の中 で次のように言っている。 価値観に大きな信頼をお いて、西欧の新しい学問や思想の紹 いう声が聞こえてきます。︵略︶﹁近代評論﹂には西欧的な しているのでしょう。︵略︶﹁わが国の近代化う んぬん﹂と 現 なのであり、﹁あなたの話をちゃんと聞いている﹂という 表示な と指摘している。しかしむしろ、これこそ非 @ 語行動に よる敬意表 も ﹁対決嫌い﹂の章でこの う なづきが﹁ コ同意 目と間違 えられます﹂ ときである。この﹁う なづく﹂という行動にも意味があり、千葉 氏 う なづいた 介 につとめたものが多く見られます。﹁西欧は A 、それに 対 のだ。私はそれに加えて、 とい,≦本を⋮﹂との私の発話に二ー三人の女性の聴衆が して日本は B﹂といった 遠いをあげたり、﹁西欧は 0 、それ ていることをちゃんと理解しているのだ︵あるいは前から 知って い ﹁評論﹂という文章のなかで、おじきんたちは一休何を話 にひきかえ日本はX﹂といった西欧にあこがれたりするタイ るのだ︶。偉いだろう﹂ということもあるのではないかと 考えてい う なづきの意味は、﹁私はこの人の言っ プが多かったのです。 千葉氏の論はこの﹁近代評論﹂の後者のものからまったく変わって 大 学 での 授 業 に対しても女子学生の方が男子学生よりよくう なづく このときうなづいたのが女性であったのは興味深い。 皇代言口語行 的な価値観に大きな信頼をお﹂くことを、このような舌 の私や他の教師の話に参加者︵はたいてい生徒の母親だ から︶が ょ 察することであるし、高校の教師をしていたとき、 いない。これまで引用した例がすべてそうであった。しかし﹁西欧 動 にかかわるところでやられては困る。どのように因るか、以下解 くうなづくのを見てきたこともある。教師の話に母親がう なづくと 保 護 者会の席で の 観は日々 明していくことにする。そして千葉氏 の実高まき散らしをやめさせ なければならない。 一一一 一 いうのはまきしく敬意表現ではないだろうか。女性がそれをするの はちょうど敬語でも男性より女性の方が丁寧な形式を求められてい ることと一致する。また、日本人の男性と女 昨 とでも行動に差があ るなら﹁外国人︵千葉氏の言う︶﹂と日本人とに同様の差があって バラエティ 日 0ののり り㎎ づar 日モ 一一四 また、 林四郎氏は﹁敬語行動の位置づけ﹂として左のょ う な図を 提示している︵本稿に関係のない下方の部分は省略する ︶。 ハ非言語表現行動 "/ ":Ⅹ "" 準 言語学的﹂なことにかかわっている。 いの人物を知ろうとする﹂方法とは異なることになる︶ あ ることを 伝 か万 手筆 かボ| 、それに 名 をとり︵千葉 氏 が例に挙げている﹁﹁ことば﹂で説明し ︵略︶お互 ルペンかまで悩む︶いつもその選択に苦しむ。自己紹介という手段 れておく か ︵手紙なら、紙はどういうものか、鉛筆 内線電話のあと直接会いに行くか、個人宛て文書整理箱 に手紙を入 れる。私も学内で同僚に何かものを頼むとき、内線電話を 使 うか、 するか︵これは﹁ c ネットワーク﹂にもかかわる︶の選択を迫ら えるのに手紙 か ︵手紙にも各種ある︶電話か、直接合, ヮか、人を介 |氏の﹁ a 書き言葉でする︵つまり名刺︶かということ、つまり 木山ノストⅡンイ二 事例 工 について、まずこれはあることの伝達を話し@葉 でするか 以下 当然だと思うはずだ。 この受験生や聴衆が千葉氏 のために誤った知識・判断を身につけ てしまれないように、ニー三のモ デル を使って 、右にあげた事例を 検討することによって、敬意表現 のあり様を調べてみよう。 パロール的な表現 O 宮 np- メッセージ ネットワークロの︵ 毛 0﹁オ 話題的︵ a 進言語学的Ⅰ り﹁aぎ的 三のヱ n b C d e 3 @ ま旧 的な表現︵敬語︶ 2 Ⅰ非言語的な表現 提示している。 ネ ウストプニ ー氏は﹁敬意表現の分類﹂として左の ような分類を 五 もあわてたよ う にして名刺入れをとり出すという﹁舌口語随伴動作﹂ う表記の誤りと﹁マエダ ・キン﹂という音声の誤りとどちらが嫌か ある。私は﹁前田均﹂で﹁マエダ ・ヒトシ﹂だが、 コ刊田等﹂とい もう一つこれは日本人が音声より表記を重視することにも原因が があるが、あれも ﹁あなたのような偉い人に会って緊張して名刺を と問われれば︵もちろんどちらも本当は嫌だがⅠ表記の誤りの方が 刺を 使 う という だけだ。しかも﹁名刺入れをまさぐる﹂際 、いかに 出すのを忘れてしまって申しわけない﹂という気持ちを表そうとし 嫌だと答える。これに賛同する日本人は多数派ではないだろうか。 台湾人はよく名刺を使うと書いたが、製作費が安い以外にもつと てのことである 。千葉氏は同書の別の草﹁両手のマナー﹂の草で 頭を ニ、三回 下げ てからでなければ商談を始められません。﹂と書 重要で切実な理由がある。台湾人の漢字の名前は台湾での言語状況 お互いの名前を尊重し、その表記を尊重するため記きれた名刺を交 いているがこれ も ﹁言語随伴動作﹂であり、この場面では言語及び を反映して、北京語、閲南詔、客家譜、日本語のどの発昔で読まれ ﹁名刺の父 換 。あんなに軽いものを両手でやったりとったりしなけ 行動を決められた一定の順序で組みたて実行していく﹁メッセ | るかわからないのだ。しかし漢字は字形としては一定だ。名前は個 換する。ここに名刺の重要性がある。 ジ﹂の規則にの っとったものである。﹁頭をニ、三回下げ﹂たあと、 人 に所属しているもので、崔昌華氏が正しく名前を呼ばれなかった ればならないの ですから大変です。柏手のお名刺は押し 戴 いて︵略︶ 相手の名前を口 の中で名刺を読みながらブッブツとつぶやくという ことからもわかるように、人格の一部として尊重すべきものである として正しく呼は なかった NHK を柏手どって起こした裁判がある また﹁軽い﹂ かどうかは問題ではない。国旗には大きいものも小 ことは舌ロうまでもない。日本人以上にその表記が大切台 な湾人が名 場面を最後に入れれば完壁である。 さいものもある が、たとえ小さく軽いものであっても配慮を払うの 事例 2 について。これはネウストプニー氏の﹁メッセ|ジ﹂に該 は、柏手︵また はその人︶の所伝する国家︵その人の所属する集団 出する。同氏は﹁メッセージの中には、敬意を一次的な意味として のではないだろうか。 象徴していると考えるからだ。国旗に対する配慮のあることは、国 伝え、他にあまり特定の意味のないルーティン︵決まり文句︶が め 刺をよく使うの は︵会社の宣伝など実利の面もあるが︶理解できる 破 損壊が一般の 物品損壊より大きく扱われることからもわかる。長 の中でも﹁国家 ﹂を最重要視するというのも確立したルールだ︶を 崎国旗事件における議論がそれを示している。 一一五 る 。これはいわゆる コあいきつ口である﹂と説明している 0 ある 場 はないだろうか。 て聞かれる る Lしきに、 いミ巳 なりコ人ル㎞ ツいLⅠこスついト は はいので 士り 人仏目っ えのきどけ ちろう氏は﹁美容院へ行って︵略︶シャンプ | してい 際 ﹁ルーティン﹂を用いるか否か、それともその場面では表現︵ 柑 のは困りものです。﹂と自分の経験を語り、その質問の意味・意図 いるか、その し こ卜はい T レ 手の存在を認めることが敬意表現だ ︶をしないかは官租 伯ハL 入ロコ卜仏 を次のように解釈している。﹁ 司かゆ いところはないで 斗リⅢ 面 で発話するか否か、または﹁非舌口語表現行動﹂を用 文化どとに決まっているはずで︵その規範があてにならないことが いです L も のすどく 変 がある甘口語ト ム 多いのはもちろんだが︶、ルーティンのない @ 韮山の方 質 間 している ふ 発 話 を一万 れる定式化した発話なら、右の対話の例は定式化した発 話を二人で って知られる。﹁口上﹂が一定の場面で一定の人に向かって発せら 的に述べるものがあるのは、それを言おう として失敗する落語によ ﹁口上﹂という一定の場面ではかなり長い定式化した しがありますね。﹂この観察は鋭いと思 う 。 もある。先方も、こっちがそ,三目うのを前提にして ヮの コお湯加減いかがですかし﹁いいですL とい, 結局、このやりとりの他はないでしょう。 りすぐれている︵またはその逆︶ということはない。 にはス フ う そ﹂ではある。 @ 伍巾 な 会話だ。あと、 ﹁どうぞ、お遊びに⋮﹂は確かに﹁ そほつきものである。しかし、これもある場面での定式化が進め ば 、発話の内容︵﹁拙宅に来て下さい﹂︶より、そのよう な発話も 行 なったことに意味があることになる。まきしく﹁敬土忌を一次的な 意味として伝え﹂ているわけである。なぜ﹁お遊びに﹂となるかと 言 うと 、柏手に奉仕しょう、柏手の喜ぶことをしてさしあげようと 表現なので 家の風呂に 入 行 う ものなのではないだろうか。﹁お湯加減﹂は仙人の 柑手を尊重、柏 意思表示する︵本当はその気もないのに︶ことが、 っているところを想像させる。そのような対話のバターン にせよ、 はないだろうか。 ﹁口上﹂にせよある場面におけるある人に対する尊重の 手への配慮︵平たく言えぱ相手を持ち上げる︶ことに なるのだ。 ﹁どうぞ、 このようなルーティンには二人の発話のパターンが決ま っている がある。ただしその定着の度合いはそれぞれで異なる。 事例 3 については事例の直後で一つの反諭を加えてあ るが、これ にはもう一つ意味がある。柏手に対して関心があるとを示そうとし ︵ 00 家 族 ︶と参りたいと思います﹂︵発話の形式はさほど固 まっていない ているのではないだろうか。相手の関心は相手への尊重、配慮であ お 遊びに・・・﹂に対する﹁ありがとうどざいます。近い う ちに ことがある、その点では内容が優先する︶はかなり定着したもので る。道で会って﹁どちらまで︵行くのか︶Ⅰ﹂もフライ バシーの 侵 氏は ﹁毎度、 しれない調子でこのような文を挿入するのはあるジ ャシ ルの日本語 の短い文章にあるパターンだ。そういう談話構造だとしか言えな い。﹁外国人﹂の発話に唐突に﹁神 ﹂が出てくるの を千葉氏は知ら 生ロという面もあるが、やはり相手への関心である。千葉 お騒がせします﹂の章で﹁日本人は他人のプライヴ ァシ |に 鈍感で ないのだろうか。 なお、このような季節の叙述が新聞の天気予報の欄 ︵天気は季節 す﹂と書いていて、私もその通りだと思うが 、このよ,レな質問に関 してはその批判は的外れである。あとこのパターンは類するものと は 既に井上ひさし氏がしている。 と大いに関係があるからまだましだが︶に唐突に現れるという指摘 柏 手に所属する ﹁拝啓﹂と書いて次に時候のあいさつを書かなけ ればならない日 しては﹁お父さんもあいかわらずお元気でいらっしやいますか﹂と か ﹁お子さんも大きくなられたでしょうね﹂という ものに舌口 反 するというのもある。家族のことなどほ っ といてくれと ている。一定の長さの発話を組み立てるにはどのような順序で話を 事例 4。この間頼は談話構造が言語どとに異なること にかかわっ る。ただし、同じ北半球の台湾から日本へ手紙を出すときできえも らない手紙は目上の人には書いて出せないということからもわか この構造を守ることが敬意表現になっているということは、形式ば 本語の手紙を千葉 氏 はど う 思っているの た ろ う 。手紙の形式が決ま 進めるかを考えなくてはならないが、それが言語にょ って異なるの 時候のあいきつに困り、ましてや南米からどんな時候のあいさつを いう気もするが、これらの質問に対する予想きれる答えとして﹁お だ。同様に何を省略するかしないかもこの談話構造の問題である。 書いてよいのやら悩んだことのある私は、そのよう な手紙の形式が っているというのはまさしく談話構造が決まってい ることであり、 話の順序というと文章で言う﹁段落﹂だから論理展開 にかかわって 国内だけで手紙のやりとりをしていた時代の遺物だとは思ってい 蔭 さまで﹂がある。 くる。﹁外国人﹂の談話構造のみが正しく、日本人のそれは誤りだ る 。そういうときには﹁当地では⋮: すが、御地 では︵または、 とする考えからは、日本人は、日本語は論理的でないという 問 追っ 懐しい日本では︶⋮⋮でしょう﹂という形式を使ってはいたが。 いう 文脈から出てきたものである。その当否は舌口語 には関係ないの 事例 6。この千葉氏の指摘は、日本人は計画が立てられない、と 七 たとらえ方が生まれる。どの言語にもそれぞれの論理の展開法があ るはずなのに。 引例 5。これも談話構造の問題である。唐突ととらえられるかも 一一セ で考えないとして、伝言の問題を考えよう。私は﹁きちんと伝言を を ミロわないのか規範が自分のとずれているからといって という規範が国内でもずれていることを示している。何を 言い、 何 一一八 受け取ってもらえそうもないような頼りない声の人﹂で はないつも ダ ﹂とマイナス評価の語を加えてはならない。 か 。それでした ド つきよたあとでか 卜りなおしま ヰリ ﹂と舌口われる 。これは 話に出、伝言をもらおう としても、たいてい﹁いらっし や いません 己 紹介が書かれています﹂とあり、千葉氏の規範では年齢は不要と わかる。事例2 の﹁なぜ、 トシ を聞くの﹂の章に﹁年 蛉を入れて 自 哩いがよく 何を言い、何を言わないかは人を紹介するとき、そのみ ﹁クダク りだが、同店している両親のところに両親の不在中かかってきた 電 いだろうか。 不ウストプニ ー氏の言う﹁ネットワーク﹂の問題ではな なっているようだ。千葉氏は何を言う ことを望んでいる かというと ト なことをどうしてもいいたいのなら、 二リナ 身長とか、体重とか、バスト・ウェスト・ヒップのす 法界Ⅰも重日Ⅱ ﹁歳のようなプライヴェイ ょ いかどうか、 伝言とは人を介することだから、敬意表現上、それが かけてきた人は悩んでいるのた ろ う 。 次に﹁日本人は クダクダ といいわけをい う ﹂ことにつ いて。これ 血液型とか くありませ 下さる万が 、読み手の想像を刺激していいんじゃないでしょうか。 ︵略︶年齢なんか聞かせていただいても、ちっとも面白 も 一つのことを伝えるのにどれだけのことを言 う かが 敬 意 にかかわ ん ﹂だそうである。若年者の自己紹介を聞いていると、 っているのだ。それと長い発話と短い発話とではどちらが 丁寧かと いう問題でもある。一定の長さのある発話の方がこのような 場ムロ、 星座とかを言うことが多い。かつてのえとにかわるものか。この 血 関東地方にある学校はどうしても関西人の教師は少ないのたろ う 。 木人も関東人の友人の同校の教師が私に教えてくれたことがある。 当時臨戦体制下にあった台湾では、万一空襲があってけ が 人が出た 語学科学生名簿に各人の血液型が併記きれていたのを思い出した。 私も否定するが、かつて台湾の大学で日本語を教えていたとき目木 い人もたくさんいます﹂と言っている。性格判断や占いのためなら で性格を分けるのも好きですね。外国人には自分の血液型を知らな 液型については千葉氏は ﹁ベビーパウダー﹂の章で﹁ 日 適切なのでほないか。その長さに @ ぬ Ⅲどとの差がある だけだ。 関東地方のある大学に一人の関西人の教師がいて、その 遅うから気に それで珍しい関西人の教師の言語た 行動が自分たちの とぬ とき急いで輸血する必要がある、そのときのためでないかと考え や 謝罪の舌口い万がくどいとまわりの教師たちは思って い ると、その いう 内容でど う組み合わせ、どれだけの長さを持ったも のにするか 障ったのであろう。このことは、ある同じ意図を持った発話をど う 酒人はやはり含まれないようだ。それだけではなく臨戦体制下にあ つし出きれてたのを思い出した。どうも千葉氏の ﹁外国人 ﹂には 台 た。そういえば映画館で上映の前に、空襲の際の避難万 法 が必ず ぅ 種 となっていることがわかる。そういう観点からこの ﹁酌 ﹂もとら とか﹁いっしょに飲む﹂といった表現があり、飲酒が敬 意表現の 一 があるのである。ほかにも﹁一席設ける﹂とか﹁一献差し上げる﹂ ︵略︶韓国のソウルを訪問したとき、︵略︶ 全大統領が ヵラ 間 四十分にわ いかがなものでしょうか﹂とあきれ返っている。しかし私は前に見 たって、献杯の応酬とカラオケに終始する首脳のム工合というのは、 オケ大会を催して︵略︶歓迎したそうです。︵略︶一時 首栢が なくてはコミュニケーションのできない日本人を非難し、﹁中曽根 カ ラオケが えなおす必要がある。 ずれるなら、 千葉 氏は ﹁カラオケ、コミュニケーション﹂の章で、 る外国の人々に思いをいたすべきだろう。本学の学生が 作る名簿に り 生年月日。 は出身高校が書かれている。台湾ではなかった。生年月は 両方にあ る 。ただし年までは本学では入れない。台湾では文字通 ﹁仲人口﹂という表現があるが、人の紹介において言 う ことと 言 何を舌口れないかが日本国内の個人でもずれ、世代でも きであろう。 Ⅱ、 れないことがあることをよく表している。いずれにせよ何を舌ロリ 口木と﹁外国﹂ではずれても不思議はないことを知るべ 南アジアのどこかでⅢを国境としている二つの国がⅢに 浮かぶ島が た テレビのニュースを思い出す。詳しくは覚えていないのだが、 東 う 。杉戸清刷 氏は ﹁日常の言語行動をふりかえって どちらの領土なのか争っているのを止めようと、その島 で、両国の このような﹁注釈﹂をつけるのも一種の敬意表現であろ 式 ないし言語行動についての 日まえおきロコことわり口コ注釈口外 は 大統領や首相が会談したあと、両首脳が踊りを踊ったというもので 7 どと呼ぶのが適当な、共通の性格を持った一群の@ 語 行 動 のあるこ あった。きっとこの国では﹁友好﹂とか﹁会が成功程に 終わった﹂ 事例 とに気づく﹂としてこのような人への配慮を示す注釈的表現にっ い とかいうときに踊りを踊る習慣があるのだろう︵隣の国とは甘口いな 伍拍膨ル み ると、舌口 て考察している。この視点にたってこのような表現も見なくてはな がら同じ文化でよかった︶。踊りもカラオケ、つまり歌 も、 酒も栢 表現方法なのだろう。 手へのなんらかの配慮を示し、コミュニケーションを保とうとする らない。 酌 をし、 さ 事例 8。酒を無理に飲ませるのはよくないし、もっと本質的なこ と る ミロえば酒を飲むこと自体、問題がある。しかし、﹁ れる﹂のは飲酒という一つの行為を相手とともに行うところに意味 一一九 一二O @リ か ﹁タバコを吸 う﹂とか、本来﹁表現﹂とかかわりのないもので か 日 表 る。ところがそれが敬意表現として宕の例ではマ イ ナスの 敬 土@ 塊だが︶働いてしまうのだ。図式化すると、 一実質行動 となる、ただし、これは表現の送り手と受け手との認識0差がある ところが問題ではある。 マイナスの敬意行動だけでは何としてまずいのでプラスの敬意︵億 べきだと思っている。﹁食べる﹂というのは実質行動 命 をつな 動 となる実質行動を見てい乙う。私は出きれた食べ物は 全部食べる それ以外のも 林氏の分類によると表現をするのは表現行が 動、だ 動 になる。新入生とのムロ宿で学生といっしょに宿泊 ぐためのの代表のはずだが、次のような場合、 の払八 冊五 心百 ゲ仁 プ フつハ タバ ﹁る 非表現行動﹂ 現と目ロってよい。表現行動に対する概念をと 立、て 尊重をするのが敬意表現なら、 うそ しないことをマイナスの敬意表 いからだ。配慮や なくてよい。他人磐 一に 対する配慮も尊重もな てな いる。 私 その行動は私に対してのマイナスの敬意表現っと この鉄則は一種の舌口語随伴動作︵﹁おいしいですね﹂ 対一 ︵及び柏手の家族︶だから相手との関係が先にで な どと言って きてしまう。 絶対断ってはならないというのは鉄則である。ただしこの場ムロは一 や国外での言語調査に行ってインフォーマント宅で出されたものは る。一対一、またはそれに準ずる場合、たとえば国内での方言口調査 す ることがある ろで平然と のはないのたろ うか。私と話すときや私がいること が、そういうときの食事で出たものは残してはいけないと考えてい か﹂ ﹁食べる﹂と ないし﹁実質行動﹂と言える。これらは﹁歩とく ︵で はない。しかし、 コをすぅ人がいる。タバコをう 吸のは表現行動で 人 7 離する老年者の姿がある。 行動を自分たちの規範でもって非 ぅ千葉 氏 のよう に、芳年者の言五月 ロ@ に、﹁外国﹂ と日本とでそれがずれたら常に﹁外国﹂が正しいと@ 月行動のパターンがあったとき ものをほかに 探してみると、ある吉宴 X﹂という 一面的なとらえ方をするところにある。これとよく似た 坦は﹁西欧的は価値観に大きな信頼をおいて﹂﹁西欧は0、日本は ものもあるが、言語生活全体を見るためあえて掲げた。千葉氏 の間 千葉 氏 をま な板の上にのせてきた。中には純粋の敬意行動でない 七 もし全部食べない教師がいるとすると、これは実質行 動 によ くれた学生個人︵あるいは少数︶に配慮するわけではな る マイ 一万、 に配慮する︶である。新入生との合宿なんて大人数だからよ そって 食べた場合︶あるいは非言語表現行動︵すっかり食べ ること で相手 で生活すればいいのに﹂と思ったが、そのとおりニュー ヨ| 人がいいのなら日本になんか任 んでいないで、きつさと外国 苛だが、それ以上に読後感が不愉快だった。﹁そんなに と書いている。言語には関係ないので引用しなかったが、女性には 徹底的に旧く、男性には徹底的にきびしい態度をとり、 ナス の敬意表現となる。よく教師は学生をさして、﹁礼 儀が なって ない﹂と言うが 、この﹁礼儀﹂で示されるものは言語行 でもダブル・スタンダードを適用している。ダブル・ 変えると、 そのものがマイナスの敬語表現となる。 村氏の図式をも つと私流に しくあたられた者︵私は日本人の男些だ ︶から見れば千 葉氏の存在 こららの方 やお じぎなどの言語随伴行動ぐらいまでであって、このよう なもの というものは柏手によって接し万を変えるというものだから、敬意 る敬語 までは含んでいないのではないか。つまり最初に述べたよう に敬意 表現の大もとである尊重とか配慮とかとは無縁のものである。 きび はやはり反発をかったらしく、 ス い もので 表現のすべてを見ていなくて、自分で勝手な基準を作 って ある。 作家の群よう子氏は、 となる。この根木の﹁生きざま﹂のところですでにマイナスの敬意 細工したって無益である。表面をとりつくろう 敬昔足付動 がうまくて 行動なのであり、根木が腐っていては、 あと下に行くに従ってどう ジャーナリストの 故 千葉敦子 さんの特集をしていた。私は彼 ETV8 女の﹁ 乳ガンなんかに負けるれない﹂を読んで、何と嫌な女 も根本の腐っている人をよく見かけるし、そのような人の本質を解 一一一 なんだ るぅと 思ったことがあ る。ガンにかかったのはお気の では再々を 発抱 のえ ガた ン休で仕事をしていた、 ンダードの持ち主である。このこと る よう に同氏は﹁外国人﹂に旧く、 日本人にきびしいダブル・スタ 千 某氏の木を批判しつつ論を進めてきた。引用部分のみでもわか 九 飛鳥新社︶ 松蔭女子学院大 学 国文学会。 明 するためにも敬意行動の総体を明らかにしていくことは必要であ る。 注 ①﹁文林﹂二十三号・一九八八年・ 十二ー十四ぺージ。 ③沢野ひとみ﹁評論なんかこわくない ロ 二九九二年 ③入学・就職試験での面接の際、愛読書や好きな 作 家を尋ねるこ 間 すべきで とは思想チェックになるためいけないという考えもあ る 。居住 ぬ 、出身地、保護者の職業、家族のことなどと同様、質 めるはず ないとするのである。その考えに少し賛同する気も持ちつつ、 勉 強 ︵それには本を読むということがかなりの部分を占 ⑥ ⑦ ⑧ 7 行動の中の敬語﹂︵一九 セ 三年 ﹁準 言語的﹂とすべきか。 コ敬語講座 の ﹁敬語行動のタイプ﹂ ム﹁、日本に国旗があるかないかという議論にはこ うない。 えのきどけ ちろう﹁ 新 ・ニッポン非公認記録﹂︵ 河 田 書房新社︶十三ぺージ。 明治書院︶ こではたち 入 一九九二年 と い う 視点﹂ ⑨井上ひきし﹁私家版日本語文法﹂︵一九八一年・ 新 潮社 ︶の﹁晴 清樹 ﹁待遇表現としての言語行動注釈 れたりくもったり所により雨 ﹂ ⑩杉戸 ﹁日本語学 L 二巻 セ号 、一九八三年 セ月 。 ⑪私は何もアレルギーをはじめとする身体上の困難 なおしてまで 全部食べろと言う気はない。ただし、もしそのような機 会を控 え だ︶のため大学に入ろ う としている人には尋ねてもよ い質問のよ う にも思 う。この件は本稿の目的からははずれるのでこれまでに 事前の敬意表現となる。 サ会三春秋︶ ているなら、その日をめざし節制につとめる必要はある0 これは 決意も長くはもたず﹂ 所収の﹁テレビでれんこ日記﹂中の﹁ 司毎日を精一杯 に L 殊勝な 群 よう子 コ撫で肩ときどき怒り肩﹂︵一九八八年 入試﹂という面接の欠かせない︵ある場合、しなくてもすむかも ⑫ 五一能 とどめ、自分の配慮の欠如を反省するとともに、最近 ﹁一せ のだから、 世界の敬語﹂︵一九 セ四年・明治 書院︶の﹁ 世 しれないが︶入試が多くなっている現状に、その危険性を指摘し 8 ておくこととする。 ④﹁敬語請座 界の敬語敬語は日本語だけのものでほない﹂ ⑤この用語は不適切ではないか。﹁学問﹂ではない
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