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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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『ニコマコス倫理学』における正義と「知」の関係につ
いて
渡辺, 邦夫
茨城大学人文学部紀要. 人文コミュニケーション学科論集
, 17: 190-216
2014-09
http://hdl.handle.net/10109/10364
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216
society, i.e., in its multistory institutional conventions.
on normative human nature as exemplified in an equitable person in his
It is also argued that thinking about justice inevitably involves reflection
渡
辺
邦
夫
『ニコマコス倫理学』における正義と「知」の関係について
Abstract
In his Ethica Nicomachea Book V, Aristotle treated justice as one of
the virtues of character, but there is an interpretative dispute as to whether
Keywords
Aristotle, Ethica Nicomachea , virtues of character, justice, equity,
his general theory of a virtue as some ‘intermediate’ emotional state is
applicable to justice or not, especially because Aristotle himself seems
intellectualism, practical wisdom, friendship
一
「正義」を「人柄の徳」と考えることの問題
︶ē と不正の悪徳︵ adikia
︶
dikaiosun
﹃ニ コ マ コ ス 倫 理 学﹄ 第 五 巻 に お け る ア リ ス ト テ レ ス の 正 義 論
〕 ま た、 正 義 の 徳 ︵
は、つぎのように始まる。
〔引 用
について、それらはまさにどのような行為にかかわるのかという
こと、および、正義の徳とはいかなる中間性︵ mesot︶
ēsであり、
︶とは何と何との中間︵ meson
︶ なのかと
to dikaion
正 し い こ と︵
一
© 2014 茨城大学人文学部(人文学部紀要)
to be reluctant to admit that there is some simple intermediate state of
feeling(s) which could be cited as causally explanatory of just actions,
since according to him justice is characteristically and essentially a virtue
toward the other, so that the matter here is much more complicated than
in the cases of courage and temperance. In this paper, on the basis of
the interpretations of several passages concerning (kinds of) justice,
equity, consideration, practical wisdom, and friendship, it is argued
that he could safely assume some complex and socialized emotional
intermediate state for justice which would produce paradigmatically just
actions, and that such an intermediate state should thereby provide an
agent with an unbiased and prudent appreciation of the situation he is in.
﹃
ココ
マミ
コュ
スニ倫
に学
お科
け論
る集正
知一
﹂の二
係頁
について
﹃ニ
人文
ケ理
ー学
シ﹄
ョン
﹄義
十と
七﹁
号、
-関七
1
215
渡辺
邦夫
いうことの両方を考察しなければならない。なお、われわれの考
察は、これまでに述べられた考察と同じ方法によるものとしてお
こう。︵﹃ニコマコス倫理学﹄
︶
V 1, 1129a3-6
こ こ か ら 自 然 に 読 み 取 れ る こ と は 二 点 で あ ろ う。 第 一 に、 正 義 の
徳は、節制や勇気や気前良さや温和さのような﹁人柄の徳︵ ēthikai
︶﹂と呼ばれる種類の徳であるという点がある。つまり﹁思考
aretai
ねないものとなる。
0
0
0
0
0
0
0
二
第一に、アリストテレスによれば﹁正義の徳﹂は単にその個人の
0
0
0
0
0
優秀性や卓越性というより、その個人が他人との関係で、あるいは
社会の中でどのようにすぐれた仕方でふるまえるかという問題であ
る。この点で、節制や勇気を基本的に個人の修養の問題として論じ
︵
︶
0
0
ることができるのとは、事情が異なる。また第二に、
﹁対人的な徳﹂
0
0
0
0
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0
0
0
0
徳を対人関係でみたときには﹁正義﹂と言える。勇気ある人は勇気
0
を発揮して他人に対して正義のふるまいをしている、つまり法︵社
0
︶﹂と呼ばれる知恵や理性や思慮深さと区別
dianoētikai aretai
会の決まり︶に則ったよいふるまいをしていると言える︶と、部分
0
としての正義は、全体的正義︵=どんな人柄の徳であっても、その
さ れ、 感 情 と 行 為 の 中 間 を う ま く 射 当 て る よ う な、 そ し て 同 時 に
的正義︵節制や勇気と区別される配分の公正さや、不正行為を適正
0
ち ょう ど 適 切 な 中 間 の 感 情 と 行 為 で あ る よ う な 状 態︵ hexis
=傾向
0
性︶であるということが明言されているように思われる。第二に、
0
に罰するという意味での独立した徳としての正義︶に分かれる。お
0
引用最終文から自然に、そのような通常の人柄の徳の特徴を帯びる
0
もに主題となるのは部分的正義のほうで、部分的正義も公正さ・公
0
以上正義の徳の考察は、節制や勇気の徳の考察と同じように人々の
0
平さを等しさとして捉えるときの等しさの類型から配分的正義と矯
0
︶﹂ に 則 って 進 め て ゆ け ば よ い、 と 少 な く
phainomena
﹁あ ら わ れ ︵
0
正 的 正 義 に 二 分 さ れ る が、 こ の 壮 大 な ス ケ ール の ﹁意 味 の 重 層 構
0
ともさしあたり、 考えられている。 問題の﹁あらわれ﹂ は、﹁一定
0
以上の特殊性は、ほかの人柄の徳とは別の扱いが必要であること
0
造﹂は、節制や勇気にはみられなかったものである。
為し、そして正しいことを願望するようになるのだが、人柄にかか
を示唆する点である。これは、第一章に関する先の第二の点、つま
わるそのような状態こそ正義の徳である﹂︵
盾したことを言っているということだと、挑発的に解釈されること
る。
その一方で、第五巻の議論がほんの少し進んだ段階ですでに、正
もある。問題の核心を明言するアリストテレス自身の主張は、正義
︶
義の徳にかんして、これまでの人柄の徳とは性質が異なるというこ
︵部 分 的 正 義。 以 下 し ば ら く 断 り が な い か ぎ り、 部 分 的 正 義 を 主 題
︵
と も、 ア リ ス ト テ レ ス は 強 調 し は じ め る。 そ し て、 し だ い に 相 違
とする︶にかかわる一通りのかれの説明を締めくくる、第五巻第五
りほかの徳との扱いの同等性の論点に対して、アリストテレスが矛
︶ という内容であ
a7-9
0
の状態から人々は正しいことを為す者となる、つまり正しいことを
の 徳︵
1
のように見ることの正当性をも脅かしか
は、﹁正義の徳﹂ を引用
1
2
214
〕 不 正 と は 何 で あ り、 正 義 と は 何 か と い う こ と は 以 上 で
章のつぎのものである。
〔引 用
0
0
0
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0
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0
0
0
0
0
0
0
0
0
の問題にかんして、同時に一方の超過・もう一方の不足となる不正
に対し、双方にとっての﹁中間﹂を経験に基づいてつかむという問
題になる。
感
情
臆
病
超
過
勇
気
中
間
︵無
名︶
不
足
表にして書いてみよう。勇気の場合であれば 、
0
恐
怖
述べられた。そして、これらを規定したことから、正しい行為と
0
臆
病
0
勇
気
は不正を為すことと不正をされることの中間であるということが
0
向こう見ず
表
ち、まず、不正を為すとはより多く持つことであり、不正をされ
るとは、より少なく持つことである。つぎに、正義の徳とは一種
0
の 中 間 性 で あ る が、 こ れ は、 ほ か の も ろ も ろ の 徳 と 同 じ 意 味 で
0
に相当す
項 の 四 変 数 を 持 つ︶ こ と に よ り、 た と え ば 勇 気 に お い て、 恐 怖 の
し、 正 義 の 徳 が 対 人 的 徳 で あ る ︵し た が って 最 少 で 二 人 の 人 と 二
正 義 の 徳 は ほ か の 人 柄 に か か わ る 徳 と 同 様、 中 間 性 で あ る。 し か
きあがった、x にかかわるその人の中間状態↓②﹁不正﹂
﹁不公平﹂
る。これに対して正義の場合、①長いあいだの行動習慣によってで
き る か ら、 勇 気 の 人 が 勇 気 あ る 行 動 を し た と 言 い う る よ う に 思 え
い﹂特定場面でのすぐれた行動、という二段構えで考えることがで
0 0 0 0 0
過小・過大のような固定的な超過と不足に対し自分の感情と自分の
三
が問題になる特定場面でのすぐれた行動、というように﹁x ﹂に適
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
行為の﹁ちょうどよい中間﹂を経験的につかむという問題だったの
がった、恐怖と自信の大きさにかかわるその人の中間状態↓②﹁怖
このように勇気の場合、①長いあいだの行動習慣によってできあ
えるような感情を示すことができないのだから、というものである。
では、正義の徳の場合に表
というように、一定経験を経た一定年齢の人間は徳と悪徳にてらし
0
の﹁中間性﹂ではなく、ちょうど中間のものに達するという意味
0
て分類される。しかし引用
0
におけることである。これに対し不正の悪徳は、両方の極端に達
る表を書くことはできないとアリストテレスは論じている。 当然出
0
するものである。︵中略︶ これに対し、 不正行為にかんして言え
てくる疑問は、その場合正義の﹁徳﹂ と言って人柄の徳の種類であ
0
ば、︹行為の﹁損失﹂ と﹁利得﹂ の計算で︺ より少ない︹損失的
得的な︺ ものを得るのは不正を為すことである。︵
1
切な記述を入れて、①の側から②を説明するという企てはあきらめ
︶
1134a13
2
と、同様ではありえない。正義では対人関係における公平と不公平
V 5, 1133b29-
ると主張することもまた、不適切になるのではないか、
﹁中間﹂が言
1
な︺ものを得るのが不正をなされることであり、より大きい︹利
自信の大きさ
明 ら か と な って い る。 こ の 理 由 は 以 下 の と お り で あ る。 す な わ
2
213
渡辺
邦夫
なければならないということが、引用
の主張である。もちろんほ
︶ へ の 執 着﹂ の 多 寡 で
kerdos
0
の論点は、そのような執着の観点における﹁中
かの徳にない﹁x ﹂の候補は﹁利得︵
︵ ︶
ある。しかし引用
0
といえるだけのことかもしれない、ということである。表
四
の逸脱
AはXとYのあいだの当事者相互の関係に限定できる事例では﹁X
の中でも﹁不正を為すとはより多く持
がYに不正を為すこと﹂であり、逸脱Bは﹁XがYによって不正を
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
︶と表現された︶。配分における逸脱としてみれば、配
1133b31-32
つ こ と で あ り、 不 正 を さ れ る と は、 よ り 少 な く 持 つ こ と で あ る﹂
0
ことであろう。この意味において、正義の徳の場合、あくまで﹁②
0
︵
0
という結果を出すような人が﹁正義の︵徳の︶人﹂の候補になる﹂
0
0
分者Z︵Zが当事者Xと同一人物であっても、あるいは当事者Yで
0
0
という言い方しかできない、そして②と独立に①を押さえておいて
0
がAで
はXに不公平に有利に裁定し、Bでは理不尽にもYに有利に裁定し
配分を行ったのである。矯正的正義の問題であれば裁定者
こ れ は、 対 人 的 徳 と し て の 正 義 の 徳 の 複 雑 さ を 加 味 し た と き に
たのである。これに対し﹁中間﹂とは、正義の行為ないしXとYの
てくるのである。
の
議論のポイントは、節制や勇気が、表
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0
0
より小
逸脱A 中間=正義の行為 逸脱B
状態としての﹁不正の悪徳﹂との対比において正義の徳を考えてい
いても言いうると考えた。この理由は何よりも、アリストテレスが
徳の議論の構想において、﹁中間﹂を﹁正義の人﹂﹁正義の徳﹂につ
︵ ︶
Yは より大 等
し
い
不
足
それにもかかわらず、アリストテレスは人柄の徳としての正義の
ことである。
0
正義の場合﹁中間﹂において配分者Zは、比例関係どおりにXとY
0
線の上で超過・中間・不足が並ぶようにイメージできるのに対し、
0
に公平な配分を行ったと言える。そしてわれわれの問題とは、その
0
正義の徳の場合には関係項が二種類各二項の四つなので、二次元的
0
ような配分者︵ないし裁定者︶が、いかなる﹁徳である中間状態﹂
0
になってしまうということである。つまり、かりに正義の徳で利得
0
を背景に適切な配分ないし裁定を行ったかを、推測できないという
表
超
過 Yと等しい
超
過
4
たということである。不正な人は﹁貪欲な人︵プレオネクテース︶﹂
︶
当
事
者
X
不
足 Xと等しい
︵
当
事
者
Y
事柄の比に対してX
︵①︶というより正義の現実の行為︵②︶の場面で
0
をめぐる態度における﹁中間﹂がいえるとしても、正義の感情状態
1
﹁超 過﹂ と ﹁不 足﹂ は 意 味 を な す か、 と い う 問 題 で あ る。 引 用
あいだに或る時或る交渉で成立する公正な関係である。また配分的
Zʼ
のように一次元的に一本の
0
あっても話は変わらない︶が逸脱AではXに有利なように不公平な
2
若いうちから訓練することは不可能だ、という帰結さえ自然に思え
0
間状態﹂としての徳は、特定の事柄にかかわる特定の対人関係以前
0
2
2
されること﹂である︵引用
2
には、どのようなものかを明確に語ることができないものだという
3
2
2
5
212
0
0
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0
0
0
0
0
0
0
0
意図的に﹁不正をされ続ける﹂ような、あるいは配分に際して自分
0
0
であり不正の悪徳は﹁貪欲︵プレオネクシア︶﹂であって、﹁より多
︶
0
0
のために﹁より少なく取り続ける﹂ような﹁自己犠牲の人﹂は、正
︵
0
0
く︵プレオン︶・取る人︵こと︶﹂である。しかも、単にその場で一
0
0
義の人をも超えたスーパー正義の人、つまり仏教で言う菩薩や、キ
0
0
回より多く取るのではなく、習性的に、決まった傾向としてより多
0
リスト教の聖人ではないのだろうか?
0
く 取 る 人 が 不 正 な 人 で あ る。 正 義 の 人 と 正 義 の 徳 も ま た、 事 柄 に
0
アリストテレスにとって、逸脱②はあくまで逸脱であり、悪い状
0
合った比例関係に従って、その人の習性としての行動傾向からほど
態である。アリストテレスは宗教的境地の聖者を話題にしていない
︵
︶
だ、というものである。
0
0
付けようという、﹁裏のある世界の話﹂ として解釈すべきだという
犠牲的な、あるいは一見純然たる奉仕者としてのふるまいには気を
0
逸脱②は、配分や政治や組織運営一般にかかわる場合の一見自己
0
自身に反射的に跳ね返る悪徳としての﹁不正﹂を言うことは不可能
と、正義と不正はそもそも対人関係における徳と悪徳だから、自己
﹁自 発 性﹂ と ﹁不 正 を さ れ る こ と﹂ は 両 立 し な い と い う 自 明 な も の
︵ ︶
る不正﹂とも呼ばないという議論をしている。このことの理由は、
に、逸脱②を﹁自発的に不正をされること﹂とも﹁自己自身に対す
こ と は 前 提 し つ つ、 か れ は 第 五 巻 第 九 章 と 第 十 一 章 で 非 常 に 入 念
と思われる。そして、なんらかの不正な人間が逸脱②で問題である
よく、つまり﹁等しい分﹂取る人である。すなわち、似た表で一覧
︵ ︶
にすれば、
表
逸脱①=
貪 欲 と い う 中間=正義の徳 逸脱②=?
不正
超
過
よ
り
小
0
等
し
い
よ
り
大
0
事柄の比に対して
I Yは
0
不
足
0
Yと等しい
0
当
事
者
I=
超
過
自
分
0
Iと等しい
0
当
事
者
Y=
不
足
任意の他者
0
0
〕 あ る い は、 以 上 の 議 論 で も ま だ、 あ ま り に 単 純 な の で
のがアリストテレスの態度であると思われる。この点を確認するに
0
〔引 用
という種類の表が人の傾向にかんするものとして書ければ、結果の
0
は大きな問題を含んでいる。逸脱
間の状態﹂と言ってよいことになる。
見た瞬間に分かるように、表
は な い か?
というのも、︹他者により多く、 自己により少なく
五
ē﹂
epieik︶
s は、 そ れ を 得 る こ と が で き る
①︵﹁超過﹂ といえる︶ に該当するのは、 人間の類型としては貪欲
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
配分する︺﹁高潔な人︵
3
で不正な人だが、逸脱②︵﹁不足﹂︶に入る類型は何なのだろう?
3
8
6
は、つぎの箇所をみることがもっとも簡便である。
0
9
7
行為の問題を超えて、正義の徳をほかの人柄の徳と同じように﹁中
3
211
渡辺
邦夫
)
場合であれば、たとえば名声や無条件の美のような別の善にかん
して﹁貪欲﹂だからである。 中( 略
そして、 配分する者が不正を為しているのであり、︹配分の恩
0
六
るとき、権力の中枢にあるその人間を観察するわれわれは、純粋な
中の﹁高潔な人
善意というより、むしろ恐るべき野心やわいろを疑うべきだという
感覚からアリストテレスは話している。この引用
0
0
0
︵エピエイケース︶﹂は、不正な配分を現におこなう人間の形容とす
自
分
よ
り
大
Yと等しい
等
し
い
Iと等しい
超
過
当事者Y=
不
足
任意の他者
当事者I=
事柄の比に対し
I Yは
0
恵にあずかって︺より多く持つ者がつねに不正を為しているとい
れば、表面的には真に高潔な人に似ているが真似をしているだけの
0
0
うわけではないこともまた、明らかである。なぜなら、不正が帰
0
﹁怪 し い 人 物﹂ な の で あ る。 正 義 も 高 潔 さ も、 憧 れ の 的 で あ る 分、
0
属される人であれば不正を為しているというわけではなく、自発
0
それにまつわる事実誤認や意図的な嘘が多く発生しやすい徳だろ
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
よ
り
小
不
足
超
過
0
的に不正行為を為すことが帰属されるような人が、不正を為して
0
0
の箇所で明らかであると思う。
力に近い人のふるまいには気を付けるべきだと考えたことは、つぎ
われわれのこの現実主義的解釈に沿うように、アリストテレスが権
表
う。そこで、つぎの傍点部分の説明を入れて﹁正義の徳のマップ﹂
0
0
逸脱②=
大きな貪欲
の隠れ蓑
いる。そして、この﹁自発的に為す﹂ということが行為の始まり
0
0
0
逸脱①=
中
間=
貪欲という
正義の徳
不正
を描くことができる。
3
であるが、︹今の場合︺ 始まりは配分する者のうちにあるのであ
り、受け取る者のうちにはないからである。︵中略︶
さらに、まず、もし人が無知であって判断したのなら法的な正
しさの意味では﹁不正﹂を為してはいないし、その判断も﹁不正
なもの﹂ではないが、しかしそれでもその判断は或る意味で﹁不
正﹂なのである。というのも、法的な正しさと、第一の意味での
0
︹自 然 本 来 の︺ 正 し さ は 異 な る か ら で あ る。 つ ぎ に そ の 一 方 で、
もし人が知っていて不正に判断したのであれば、自分でだれかの
好意を余分に得たりだれかに余分な報復をしたりしている。ゆえ
0
に、不正行為に荷担した人の場合のように、このような理由で判
断する人もまた不正な仕方でより多く持っている。実際、畑にか
︶
V 9, 1136b21-1137a4
0
0
んしてかつてこのような発想で判断した人が、畑ならぬ銀貨を獲
得したのである。︵
0
人間が、政治や運営の中心にいて一見自己犠牲的なふるまいを続け
4
210
〔引用
〕・・・また、不正を為すこととは、条件ぬきによいもの
超過だけでなく、﹁逆方向のエゴイズムや、 無際限の権力への願望
0
0
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0
のほうに跳ねる心理的バネが働くほど、無理をすること﹂としての
0
のうち、より多くを自分に配し、条件ぬきに悪いもののうちのよ
0
不 足 に せ よ、 は じ め か ら 心 の 事 実 や 裏 取 引 と し て 超 過 を 持 つ ﹁仮
0
り少しを自分に配分することである。このゆえにわれわれは、人
0
装﹂ と し て の 不 足 に せ よ、 不 足 か ら も 守 ら れ て い な け れ ば な ら な
0
間が支配するのを許さず、︿理性の言葉︵ロゴス︶﹀が支配するこ
0
い。また、その都度中間と﹁ロゴス﹂を守って行動できる人間の中
0
とを容認するのである。なぜなら、人間はみずからにかかわるそ
0
から、正義の行為を大きなスケールで実行してゆく高位の立場の人
0
間が選定されるのでなければならないことになる。
0
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0
に
このように、﹁利得をめぐる中間状態﹂ を押さえることができる
0
るのなら、支配者は等しさの守護者でもある。そして、もし支配
0
から、部分的正義であれば、正義の徳も人柄の徳であると主張する
0
者が正しい人なら、その人は自分がより多く持つことがまったく
0
ことに原理的困難があるとは思えない。しかし、その一方で表
0
ないように思えるので︵中略︶、 そのような人には、 なんらかの
0
おいても、正義の徳の積極的な育成の仕方は、示されていない。こ
0
報酬が与えられなければならない。そしてその報酬は、名誉と威
0
の点では、正義の徳は節制や勇気とはちがって、やはりそれなりに
0
0
0
0
0
0
ることの主要なポイントのひとつは、それに伴って使える教育上の
0
0
アリストテレスは、
﹁やがて僭主になる人﹂が最初から悪徳に染まっ
提言が生み出されることなので、 この点は、﹁中間状態﹂ を言うこ
0
信である。しかし自分にとってそのような褒賞でも十分でないと
0
見込みのある人に配分や矯正の行動の場数を踏ませながら鍛えるし
ていて人々をだましたという素朴な見解を表明していないと思われ
との実質にかんする懐疑を再度生みかねない要因として、残ってい
︶
V 6, 1134a33-b8
る。むしろ当人の意識としては、志高く国政やほかの種類の運営や
る。ゆえに、おそらく、なんらか角度を変えてみれば、現実に待っ
かない徳であるという結果になる。 その一方で、﹁人柄の徳﹂ を語
人事にかかわり、自己犠牲的に組織全体のために﹁尽くした﹂人間
たなしの配分や調整の場に立たせる前の若者の育成に関する提言
能 な 心 理 が ス ト ーリ ーを 動 か し て い る。 そ の 上 で、 そ の よ う な ス
想から言えば、アリストテレスは、正義の徳も、なんらかの﹁感情
﹃ニ コ マ コ ス 倫 理 学﹄ 第 二 ∼五 巻 の 人 柄 の 徳 の 議 論 の マ ク ロ な 構
0
が、やがて名誉やほかの﹁価値﹂ではあまりにもないがしろにされ
が、見つかるのだろう。
トーリーの最後に、不正としての僭主的独裁が発生する可能性があ
七
的﹂ 状 態 が 背 景 に あ って 安 定 的 に す ぐ れ た 行 為 を 支 え る と 言 い た
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
ると言っている。 したがって、﹁行為における中間﹂ はその都度、
0
たと感じて独裁へと突き進むという、﹁ノーマルな﹂ 人間の想像可
き、人々は僭主となるのである。︵
4
支配者とは正義の守護者であり、またもしかれが正義を守護す
0
のような不正を為してそして僭主になるからである。
4
209
八
生すると予想される不利益に対する救済措置としての調整を行わな
渡辺
邦夫
い。ただしそれは、節制の徳や勇気の徳の場合のように見て取りや
ければならない。この調整が﹁衡平﹂と呼ばれる。アリストテレス
︵ ︶
すい感情ではないだろう。ベーシックな諸徳がそなわっている人を
0
は初めてこの問題を論じた研究者であり、正義論中の第五巻第十章
0
重要な位置に立たせて、高度な正義の問題に強いかどうかがさらに
︵および﹃弁論術﹄第一巻第十三・十五章︶が、その研究に当たる。
徳と高潔さのあいだ、ないし正義と衡平のあいだに存在するとみな
0
試験される問題であるのにちがいない。このとき、われわれの問題
アリストテレスが第五巻第十章の直接の目標としたのは、正義の
持ちや一般に内面の点で、育ち方においてとくにどのようなすぐれ
〔引 用
〕 高 潔 さ︵
︶ と高潔な人︵ epieik︶
ēs について、
epieikeia
頭でかれは、問題をつぎのように導入する。
される、一種の概念的なもつれを解消することであった。第十章冒
く。そのような議論の準備のためにアリストテレスは、問題の﹁感
情﹂ないし﹁内面状態﹂が、まず、法にかかわって杓子定規になら
ず倫理的な温かみのある仕方で正義を実現できる﹁高潔な人︵エピ
0
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0
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0
平 な も の︵
0
エイケース︶﹂ のふるまいから推測されると考え、 第五巻内部の第
0
うに関係するかを語ることが、以上に続くことである。というの
0
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も、考察する者にとってこの両者は、類において同じであるとも
思えないし、逆に異なるとも思えないからである。 中( 略 )しか
し、 時にはまた議論の筋道に従って、﹁衡平なもの﹂ が﹁正しい
︶﹂ と訳すのが適切である。
equity
抽象名詞である。中性形の名詞化﹁ト・エピエイケス﹂は法学や社
性形の名詞化である。高潔さである﹁エピエイケイア﹂は対応する
﹁高潔な人﹂ は﹁ホ・ エピエイケース﹂ であり、 形容詞の単数男
ば、︹別だと考えた前提に反して︺ これらは互いに同じものにな
うし、あるいは、そうでなく両者ともすぐれたものであるとすれ
は別とすれば、それは正しいものではないのかの、どちらかだろ
れたものではないのか、あるいは﹁衡平なもの﹂が正しいものと
はおかしいと思えるのである。 なぜなら、﹁正しいもの﹂ がすぐ
もの﹂と別の事柄でありながら賞讃されるものであるなら、それ
すなわち、法や、ほかの規則を文言通りに処理してしまうと明白な
るからである。
会科学で使う用語で、﹁衡平︵英
不公平になり、不正になる場合に、規則の適用に当たる人間は、発
二
高潔な人(エピエイケース)と、正義の徳
次節で、第五巻第十章の高潔な人の議論をみてみよう。
十章においてこの類型の人を論じている。
高 潔 さ は 正 義 の 徳︵ dikaiosun
︶ē と ど の よ う に 関 係 す る か、﹁衡
︶﹂は﹁正しいもの︵ to dikaion
︶﹂とどのよ
to epieikes
5
次 節 以 後、 こ の 問 題 を 念 頭 に 第 五 巻 と そ れ 以 後 の 議 論 を み て ゆ
た特徴のある人だろう?
はこうなる。
そのような試験で正義の人と証明されるのは、気
10
208
0
0
0
0
︵
︶
来の正しさ﹂に一度立ち返ってこの件の対処を考えるかという点を
0
0
0
そこで、この難問は、おおよそは、衡平なものにかかわる以上
0
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めぐって、現場における解決で何が為されているかということ、ま
0
0
0
のいくつかの論点により、結果するのである。しかし、ここに並
0
0
0
た為されるべき事柄は何かということの考察によって与えられるか
0
0
0
んだいくつかの論点は、じつはいずれも或る意味において正当な
らである。﹁衡平は或る種の正しさよりは善いものでありつつ、 な
0
のであり、︹その意味をよく考えれば︺ 互いに矛盾するようなこ
お も 正 し さ﹂ で あ る こ と ︵
0
0
は、かれがまじめであればあるほど、立法者であってもこの事態に
︶と言い換
b25
︶ と は、 後 に ﹁法 を
b8, b24
︶ が 解 決 の 説 明 で あ る。 こ こ で
b11-13
︶ お よ び ﹁衡 平 は 正 し さ で は あ
1137b8-9
とは何もないのである。というのも、衡平は或る種の正しさより
る が、 法 に 基 づ い た も の で は な く 法 的 な 正 し さ を 是 正 す る よ う な
0
0
は善いものでありつつ、なおも正しさであり、正しさとはそもそ
正しさであるという事実﹂︵
0
0
も異なる類の何かであるがゆえに、それで正しさより善いもので
衡平と比べられる﹁或る種の正しさ﹂︵
0
あるというわけではないからである。ゆえに、正しさと衡平とは
もろもろの事実的条件ぬきに扱うことによる誤り﹂︵
0
同 じ ︹種 類 の︺ も の で あ り、 両 者 と も に す ぐ れ た も の で あ り つ
えられるものである。すなわち、立法者は或る法を立法者自身の材
0
0
つ、両者のうちでは衡平のほうがよりすぐれているのである。そ
0
0
料と観察から立法する。しかし将来の適用に向けて法は普遍的にな
0
して、先の難問のもとにあるのは、衡平は正しさではあるが、法
0
らざるをえないから、或るとき或る事態に遭遇する法適用の当事者
0
︶
V 10, 1137a31-b13
0
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0
︶ で あ る。 つ ま り、 取 り 決 め に よ って 共 同 体 と そ の
b18-19
0
︶。アリストテレスに言わせればこれは、
b22-24
対しこの言葉通りの適用はしないだろうという判断に傾かざるを得
0
0
ないかもしれない︵
0
0
アリストテレスは、見かけ上難問にみえる正義と衡平、正義の徳と
0
事柄﹂︵
生活において法や規則を使うわれわれ人間に付きまとう﹁本性的な
の最
成員に起こってくる事態に対処しようとするかぎり、人間の宿命で
〕 そ し て こ れ が、 つ ま り 法 に 普 遍 性 ゆ え の 不 足 が あ る か
終文からも明白なとおり、ギリシア人が定式化した人為︵ノモス︶
と正義は類において同じか、それとも異なるか?﹂という問いが立
てられ、一見解決不能な様相を呈してアポリアとしての特別の扱い
ぎ り で そ れ を 是 正 す る と い う こ と が、 高 潔 な 人 の 自 然 本 性 で あ
︶
1137b26-27
九
が必要になっているのだが、その解決は究極的に、かつて人が決め
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
る。︵
6
た規則の単なる延長上で﹁正しさ﹂を捉えるか、それとも﹁自然本
〔引 用
ある。こうして、アリストテレスは﹁高潔な人﹂について、
れるとしている。関連する﹁意味の問題﹂とは、いまの引用
高潔さの関係は、﹁正義﹂ の意味の区別を的確に行うならば解決さ
あるという事実である︵
に基づいたものではなく法的な正しさを是正するような正しさで
11
と自然︵フュシス︶ の対立に基づく一般問題の一環である。﹁衡平
5
207
渡辺
邦夫
0
0
0
0
0
一〇
同様に、正義が法と政治と弁論の専門技術や、ただの﹁正義感﹂
0
と い う 本 質 規 定 を 述 べ る。 以 上 の ア リ ス ト テ レ ス の 論 述 は、﹁自
等の感性の問題に尽きないと主張できるなら、正義の問題が徳の問
な人として人間としての絶対的卓越が帰属される。
然 本 性﹂ の 視 点 に 立 脚 し て 法 の 杓 子 定 規 な 適 用 に 異 を 唱 え て、 事
題であることもまた示されるはずである。引用
0
0
法の解釈の問題にかんして、技術や気合の問題ではない人間的卓越
0
の議論において、
0
柄 と 自 然 本 性 的 な 正 義 に 合 った 法 の 柔 軟 な 適 用 を い う も の で あ る
︶。
b17-19, b24-27, b33-1138a3
0
︶
性の問題としての正義の﹁徳﹂が議題になっていることは、明らか
0
︵
注意すべき点がいくつかある。その第一は、文脈におけるこの引
、
だろう。アリストテレス自身の﹃政治学﹄第一巻第二章における説
用
0
明によれば、共同体は都市国家の水準に達するときに法を共有する
0
0
主題の正当性を訴える材料になるということである。勇気の徳がな
0
市民を生んだ。法の共有は価値の共有を含み、こうして、アリスト
0
ぜそもそも﹁徳︵アレテー、 人間としての卓越性︶﹂ なのかという
0
テレスによれば﹁生きる﹂ためにつくられたポリス国家が、同時に
0
問題を考えてみよう。勇ましいふるまいが技術や身体的強靭さの問
0
多くの人々が﹁よく生きること︵=幸福であること︶﹂ を一挙に可
0
題であるなら、あるいは単なる元気の問題であるなら、そのように
0
能 に し た の で あ る。 と こ ろ で こ の よ う な 国 家 も 法 も、 実 験 的 に つ
0
技術的に鍛えるとか身体の鍛錬をすればよかっただろう。しかし勇
0
0
くっては改良を重ねて人間とその共同性をさしあたり表現している
0
気が徳であると人類規模でみなされるということは、そのような人
0
と い う 側 面 を、 最 初 か ら 持 って い た。 そ し て 事 柄 の 本 性 か ら み て
0
間の局所的一側面における特定方向への向け変えでは済まない、人
0
も、 こ の 側 面 が 或 る 将 来 の 時 点 に お い て 全 面 的 に 解 消 な い し ﹁超
0
間としての卓越性であることを含む。そのような卓越した徳として
克﹂されるということは、想像不可能である。したがって、法や国
0
の特徴は同時に、 一定種類の行動メニューにおける、﹁自然的﹂ で
0
家運営技術の﹁専門職﹂ がつぎつぎと誕生し、﹁知識﹂ がつぎつぎ
0
あって生物種的に無理のない一般的な﹁判断力﹂の卓越性を含む。
生 み 出 さ れ る こ と は 当 然 の こ と と し て、 国 家 に お け る 正 義 の 問 題
0
0
勇気の場合、凡人であれば恐怖などのネガティブな感情に襲われて
が、法の一回の適用という問題にかんして適用当事者の道徳的問題
0
0
0 0 0 0
判断が曇り行動が思うようにならないような状況において、これま
0
0
0
を免れることは、原理的に不可能である。すなわち国家の要職の人
0
0
0
で の 行 動 歴 に 則 って 恐 怖 や 不 安 の 感 じ 方 が 適 切 に な って い る た め
0
0
間や法実務の現場の責任者は、まさに﹁高潔な人間﹂としての自然
0
0
に、その感情をその場で克服することにより、臆病にもならず自信
0
0
的資質に基づいた行為をする用意があるように、養成されていなけ
0
0
過剰にもならずに適切かつ冷静に判断し適切かつ主体的に行動でき
0
の高潔な人の本質を規定する議論は、正義の﹁徳﹂という
︵
5
ればならないと思われる。そして、以上の問題の瞥見において、当
0
6
る。したがって勇気ある人には、希少価値の人であると同時に有徳
12
5
206
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︵
0
︶
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︶
0
︶﹂ を分けて、 事
how-rules
であ
how-rules
︶﹂ で な け れ ば な ら な い ︵ V 9,
elattōtikos
は、超
れでよいという話には、けっしてなっていない。前節の表
0
ればならない。法を﹁自由に﹂解釈するとか、重要なことを毎回の
過と不足をともに避けて利得の欲求にかんする中間状態を実現させ
0
議決で決めていってよいといった考え方はアリストテレスにはない
0
ることが正義の徳であり、そのような状態に基づいて超過でも不足
0
中
―
し、この特定の意味ではかれは﹁個別主義者﹂でなく、普遍主義者
0
0
でもない中間の行動である正義の行為を為すことが、有徳者の有徳
︵ ︶
0
0
に属していた。問題が発生し、現実の法を条文通りに適用すれば正
0
0
行為として、アリストテレス的倫理による正義の現象の標準的説明
0
0
4
一一
間 不
―足の三つ組の表を示した後であれば、それを簡略化した、徳
0
義の原則として法と独立に人々に知られているものが明確に毀損さ
︶﹂ と﹁ど
that-rules
0
において成り立つことを示している。ところで、いったん超過
ストテレスの倫理において高潔な人は、より少なく取っていればそ
︶ と さ れ る。 た だ し、 前 節 で み た よ う に、 ア リ
1136b21; 10, 1138a1
は ﹁よ り 少 な く 取 る 人 ︵
つ ぎ に、 部 分 的 不 正 を 示 す 貪 欲 さ と の 対 比 に お い て、 高 潔 な 人
に従ったかれの解決を示す。
0
上で、純粋に高潔の徳の人といえる人間が、かれに見える﹁規則﹂
ることを、われわれも﹁ここだ﹂という形でまず発見できる。その
0
︵
の よ う に す る か、 と い う こ と の 諸 規 則 ︵
0
0
0
の人物養成は、技術や身体や情操レベルのみの問題ではなく、人間
0
0
態 を 説 明 し て い る。 人 々は 或 る 事 態 へ の 法 の 適 用 に 際 し、 か れ ら
0
0
の感覚か
that-rules
の自然的能力としての情操を高度に発達させてそのことにより関連
0
0
0
が共有する法規則にかかわる高階の規則としての
0
する感情にかかわるすぐれた知的判断力と知性の豊かさに基づく理
0
0
0
ら、困惑を覚える。文字通りに適用しては取り返しのつかない結果
0
0
性 的 行 動 力 が 発 生 す る よ う に す る と い う 課 題 で あ る。 正 義 の 徳 が
0
になることが理解される。ここで高潔な人が従うのは
0
﹁中間性﹂であると言わなければならないのは、まさにこの局面が、
り、これにより、この個別の場面における正義が実現する。以上の
0
共同体と規則にかかわって、いつまでも人間の問題として存在する
説明において、アリストテレスのポイントは過不足なく表現されて
0
からであるといえる。すなわち、利得にかかわって﹁ロゴス﹂を獲
いるように思われる。そして、法のこのような一種の﹁不具合﹂を
0
0
0
0
得できる、ちょうどよい中間量の欲求を持っている人が存在し、か
0
0
0
事前に完全に避けることはできないと同時に、不具合が起こってい
0
0
0
つ 重 要 部 署 に 配 置 さ れ な い か ぎ り、 国 民 の 長 期 的 福 利 は 実 現 し な
い。
0
0
15
れるという場合に、柔軟な適用が求められるのである。ブランシュ
まず、高潔な人が解決に乗り出すべき問題が、現実に存在しなけ
0
第十章前後にかれのきわめて繊細で周到な議論を配置していた。
い、ということである。そしてアリストテレスもこの点のために、
問題は、その外部から厳密に限定的に規定されていなければならな
0
あると言いうるためには、﹁高潔さ﹂ で解決されなければならない
注意すべき第二の点は、以上の第一の点が﹁人類共通の問題﹂で
13
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
ヴ ィク は ﹁そ う で あ る、 と い う こ と の 諸 規 則 ︵
14
205
渡辺
邦夫
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︵
0
︶
0
0
一二
の網掛け部分になってしまっていること、また、そのような人なら
︵ ︶
0
と 目 立 つ ほ う の 悪 徳 の 二 元 的 表 現 を 日 常 の 話 し 方 に 沿 って 行 って
0
0
ば網掛け部分を指示する法の条文解釈の誤りを、状況の中の自身の
0
0
も、実害はない。それだけでなく、前節の解釈が正しければ正義の
0
︶
認知が告げる実線で囲われた﹁中間﹂における自然的正義の理解に
︵ ︶
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0
0
︶﹂正しく、規範性と強制力を伴うので、矯
hōs epi to polu
︵
場合には、超過も不足もその﹁実体﹂が貪欲であるという特別な事
て い は︵
基づいて、正確に矯正することが理解される。そして、法は﹁たい
の不足も含む形ではなく、
以上の点は、より少なく取ること
実も存在しているのである。
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正の行動が、それほど多くはない事例で、しかし確実に発生しなけ
0
0
超過と不足をともに﹁より多く取ること﹂として不正の悪徳の全体
0
0
ればならないということが、規則に頼って社会を運営するわれわれ
0
0
と 同 一 視 し て、 こ れ に 対 す る 中 間 状 態 に お け る ﹁よ り 少 な く 取 る
0
0
の、宿命なのだと思われる。ここで、毎回単にたまたま少なく取る
0
0
人﹂、 つまりそのことによって共同体で模範となるロゴスの担い手
0
というだけの人には、この矯正行為は不可能である。ロゴスのパー
0
にふさわしい程度の利得への欲求を持っていることを表示している
ソナルな具現がまさにできる程度の﹁より少なさ﹂が保たれていた
0
は ず で あ る。 そ し て こ の こ と こ そ、 高 潔 な 人 が 希 少 な 有 徳 者 と し
場合に、そしてその場合にのみ、衡平の課題に見事に、また恣意の
0
をも発揮することの原因であると思われる。すなわち表
おける、衡平にかかわる高潔な人の﹁判断力﹂の評価にかんするア
︶﹂
ē から話を始め、これらが﹁高潔な人の正しい判定﹂
gnōm
0
ē)である﹂︵ VI 11,
hē tou alēthous (sc. gnōmē kritik︶
0
0
0
0
るわけではなく、感情状態の健全さに基づく実践的理性を持つ人格
0
人の判断力なのだが、温情ゆえにこの人がこの特別の場面で頼られ
0
法の欠陥に遭遇したとき頼るのは、温情ある正義の人である高潔な
︶ と 断 言 し て い る。 法 と 規 則 を 守 って 生 き る 市 民 た ち が
1143a23-24
な 察 し の こ と︵
あ る。 そ し て ﹁正 し い 判 定 を 行 う﹂ も の と は、 真 を 判 定 す る よ う
であり、﹁思いやりとは、 衡平な事柄を正しく判定する察しなので
察し︵
︶﹂
ē ないし﹁︹他人の心の︺
sungnōm
的生物としての人間の内的状態の三つのパターンを並べている。こ
よ
り
小
思考の徳に属する﹁思いやり︵
リストテレスのコメントからも、裏書きされる。そこではかれは、
不
足
中 間 = 正 義 逸脱②=
の 徳 お よ び 貪 欲 ︵の 別
行為
形︶
Yと等しい
︵法が指示
する裁定︶
︵不足︶
︵超過︶
逸脱①=
貪欲、不正
超
過
不
足
超
過
等
し
い
当事者X
︵=自分たち︶
当事者Y
︵=他人︶
Xと等しい
︵より大︶
表
の表の中間に位置する人であれば、現実の法の文字通りの適用が、
4
0
て、衡平の実現にあたってすぐれた知性とすぐれた行動力のいずれ
介入なしに答える人になれる。この点は、次巻の第六巻第十一章に
をアリストテレスが称揚する場合、表
19
18
は、自然
4
17
16
事柄の比に対し
よ
り
大
X Yは
5
204
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0
す る 人 々の 一 回 的 ふ る ま い に か ん す る 体 系 的 理 解 の 方 向 に も 視 線
0
に基づき、真理に沿った判断ができるような、そのような﹁他人へ
を 向 け る 際、 ア リ ス ト テ レ ス の 問 題 が、 人 の 内 面 状 態 に 対 す る 活
義の徳﹂の問題にまつわる高潔さの論点の特別の意義を押さえてお
︶ ないし使用︵ khrēsis
︶ の優位と呼びうる事態であっ
energeia
0
の思いやり、心の察し﹂があるから頼られる。このことは、アリス
動︵
0
トテレスが人柄の徳としての正義のいわばもっとも顕著な形態とし
たことは明白なので、本稿ではこの点に関連して、﹁正義の人﹂﹁正
高潔な人の仕事にかかわって注意すべき第三の、最後の点は、こ
きたい。われわれはすでにこの問題を、配分的正義にかんし、①長
0
て高潔さを考えていたことを物語る。
こまでみた衡平を実現する﹁高潔な人﹂にかかわる問題の、正義の
いあいだの行動習慣によってできあがった、x にかかわるその人の
0
現象全体の中での位置づけにかかわる。この点の議論はやや長くな
中間状態↓②﹁不正﹂﹁不公平﹂ が問題になる特定場面でのすぐれ
0
るので、節を改めて述べることにする。
た行動、というように﹁x ﹂に適切な記述を入れて、①の側から②
を説明するという企てはあきらめなければならないというかたちで
実際にはその都度の新たな関係性の中で正義の行為ができるか否か
三
高潔さ(エピエイケイア)と人間性
というだけのことと問題を見る方が、現実的に思えるからである。
0
正義の徳にかんして、全体的正義と部分的正義の区別が立てられ
そうであるとすれば、社会もしくは共同体の関係の多様性と質につ
0
V 1,︶
2、 アリストテレスの叙述の重点は明らかに部分的正義に置
いて﹁専門的な﹂学習をしてゆく過程として、正義にかんする個人
0
︶ と矯正
V3
0
︶ に 二 分 さ れ、 正 義 の 問 題 の 中 心 に 据 え ら れ た の は、
V4
的な力の育成と学習をみるほうが、﹁徳としての正義﹂ の修得を語
0
定式化した。﹁x ﹂ に﹁利得にかんする態度﹂ を入れたとしても、
人々の価値に応じて比例関係通りに外的善の配分を行う配分的正義
ることよりも、実効性があるように思えるかもしれない。たとえば
的 正 義︵
か れ て い た。 そ し て、 部 分 的 正 義 も ま た 配 分 的 正 義 ︵
︵
であった。そして、配分的正義においても、一人一人を等しい者と
バーナード・ウィリアムズは、アリストテレスの﹁正義の徳﹂の説
︶
して裁定を行って対人関係における不正行為の損害と﹁利得﹂を相
明が不整合を含むと考え、 サンタスは正義論が、﹃ニコマコス倫理
︵
殺する矯正的正義においても、現代のわれわれがこれらを、倫理学
︶
学﹄のほかの箇所の徳の倫理学というより﹃政治学﹄との関連が強
︵
や哲学の問題というより法学を含む社会科学の問題として基本的に
く、共同体論者の議論であると診断した。かれらほど概括的な主張
︶
押さえるという傾向を持っていることの最初の動因が、アリストテ
︵
ではないがフォスハイムも、全体的正義は徳という状態の問題では
なく、もっぱら徳の使用の問題であると解釈している。
一三
レスによって与えられたことは否定できない。
正 義 の 人 ︵々︶ の 活 躍 だ け で な く、 社 会 シ ス テ ム と そ れ に 参 与
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
22
21
20
203
渡辺
邦夫
この文脈において、エピエイケイア論の意義がとくに大きいとわ
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れ な い﹂ の で あ る ︵
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一四
︶。 つぎにアリストテレス
V 5, 1132b31-1133a2
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a26-27
︶ と説明す
V 5, 1133a3-5
0
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は、共同の積極的﹁絆﹂である﹁善に善でお返しすること﹂にかん
0
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たしは考える。私見ではアリストテレスはエピエイケイア論におい
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して、 人々の心の中の﹁カリス︵優美、 親切︶﹂ の働きという主題
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︶、以後、明示的
a19ff.
︶ が い ま あ る よ う に 交 換 に お け る ﹁中
nomisma
︶ を 挙 げ る。 そ し て、 こ の 二 条 件 を と も に 満 た す 必 要 性 の 代
khreia
︶ と、 交 換 が 始 ま る た め の 人 々の﹁必 要﹂︵
a10-12
0 0 0 0 0 0
0
て、﹁厳密さ﹂ の問題にかんして明確に徳倫理学陣営的な態度を示
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0
のもとで観察を述べる。カリスの女神たちの神殿は、当時ギリシア
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0
0
した。かれによれば、システムとしての法や規則の﹁厳密さ﹂にま
0
0
0
の 目 に 付 く と こ ろ に 建 て ら れ て い た。 ア リ ス ト テ レ ス は こ の 事 実
0
0
0
さって、人が感情と知性という一般的自然能力の発展上で正義を厳
0
0
0
を﹁これは、お返しが行われるようにと考えてのことである。なぜ
0
0
0
密に表現する場面が存在し、しかも良いシステムの中では少数の事
0
0
ならお返しは、この女神たちの親切心に特有のことだからである。
0
0
例であるにせよ、そのような種類の場面は、人為と自然のあいだの
0
0
というのも、親切にしてくれた相手にはお返しに奉仕しておいて、
0
0
原則的な﹁ずれ﹂の問題である以上、人類の存続とともに永久に最
そしてもういちど、今度は自分のほうからも進んで、相手に親切な
0
0
重 要 課 題 と し て 残 る か ら で あ る。 そ し て、 こ の 点 は 全 体 的 正 義 に
行いをしなければならないからである﹂︵
0
0
も、つまり対人関係という観点で見られたあらゆる人柄の徳の発揮
る。このような、当事者X↓当事者Y↓X↓Y↓X・・・という相
0
の意味での﹁正義﹂にも該当すると考えなければならない。この点
互への親切の︵自然には︶終わりのない連鎖が成り立つことが、交
0
に関係する、話題としての﹁正義﹂の意味のゆるやかな統一性を、
易をおこなう社会に共通する特徴であると思われる。連鎖の成立条
0
アリストテレスはとくに第五巻第五章において、生物界で人間に固
件としてかれは、比例関係に基づく等しさがはじめに成り立ってい
0
有 な、 特 異 な 共 同 の 始 ま り と し て の ﹁交 換﹂ に 着 目 す る こ と に よ
る こ と︵
0
り、説得的に描き出している。
正義の種類としての第三章の配分的正義、第四章の矯正的正義を
0
0
用 品 と し て、 貨 幣 ︵
0
0
等しさの質の違いに基づいて説明し終えたアリストテレスは、第五
0
0
間﹂ な い し ﹁媒 体﹂ と し て か つ て 導 入 さ れ ︵
0
0
章を、﹁応報﹂ という、 古くから正義と結びつけられてきた考え方
0
0
に均等化を経て比較される生産物をめぐって、それぞれほかのもの
0
0
の検討で始める。アリストテレスは応報という考え方の素朴さを軽
0
0
を生産する異質な人間のあいだで通用するようになったという推測
0
0
蔑的に批判しつつも、そこに比例関係があるならば正義として共同
0
が 述 べ ら れ る。 し か し ア リ ス ト テ レ ス に よ れ ば、 貨 幣 と は ﹁自 然
0
の 絆 に な る と い う 趣 旨 で、 自 説 に 基 づ く コ メ ン ト を 付 け 加 え る。
0
に よ る の で な く 人 為 の 定 め ︵ノ モ ス︶ に よ る も の で あ り、 こ れ を
0
か れ に 言 わ せ れ ば、 逆 に 悪 に 悪 で 相 応 に 応 報 し な い な ら 隷 従 に 甘
変えることも使用しないようにすることもわれわれ次第であると
0
んじているのだし、 善に善で適度に応報しないなら、﹁交換は生ま
202
0
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0
︶、 多種多様な交換と諸技術の集約を
V 5, 1133a13-16
安定した交換の可能性がそれぞれの技術の存続を保証する唯一の
解している、高潔な人間﹂しかいないと思われる。
の中で身につけた、自身のすぐれたふるまい方に基づいて事柄を理
人々による、善に善をお返しする現実の慣習にかんして﹁当の慣習
0
に不利な値段か相手に損をさせる値段かは、取引の場での人間とし
0
0
い う、 ま さ に そ の 理 由 か ら ﹁ノ ミ ズ マ﹂ と い う 名 を 持 って い る﹂
0
て当然論じうる。異議や抗弁が不可能であると論ずることは、この
︵
0
問題領域の議論の性質を取り違えることである。そして、改善や修
0
︶ものであり、﹁これほど異なるもの同士が互いに通約でき
a30-31
0
るようになるということは、ことの真実からいえばありえないこと
0
正をおこなうべき問題点をほかの人間よりも早く鋭い仕方で発見で
0
き、かつ自分によるにせよ他人によるにせよそれが発見された場合
0
︵ tēi alētheiai adunaton
︶ な の に、 必 要 に て ら し て い え ば 十 分 可 能 な
0
ōsである。それゆえ、貨幣
pros tēn khreian endekhetai hikan︶
こと︵
0
に頼られもするのは、明らかに、代用的フィクションである貨幣の
0
0
はひとつの何かでなければならないのだが、これは人々がそうでな
0
0
も と に あ る も ろ も ろ の 必 要 と、 そ の よ う な 必 要 を も つ 多 種 多 様 な
0
0
け れ ば な ら な い と 前 提 し て い る と い う 問 題 な の で あ る︵ touto d’ex
︶。
ō﹂
hypothese︶
s︵ b18-21
このアリストテレスの指摘は、正義の問題を論ずる上で関連性を
持つ、人為的な取り決めと自然本性との関係という観点において重
要である。生産物にせよ、共同体の中で﹁値﹂が比較される、名誉
0
要 因 な の で︵
0
や安全等のほかのいかなる外的善にせよ、価値を問題にできるほか
0
伴う国家の成立は、明らかに前段でふれた、交換にかんする人々の
0
のあらゆるものとの関係において真実には値はどれほどかという問
貨 幣 へ の 荷 担 を 踏 ま え る も の と な る︵
0
題には、或る意味で答えはないとかれは語っている。われわれは共
が定まり、生活のほとんどの領域において、全員が従う規則に自分
0
︶。 そして、 法
cf. 1132b33-34
同体全体に及ぶ大規模な交換が赤の他人のあいだで異質な物品同士
0
0
も 従 って 生 き る こ と が 要 求 さ れ る。 法 へ の 荷 担 と、 法 で 定 ま った
0
0
で成り立った後の人間であり、最初にそのような営みが開始された
0
﹁われわれの共同体﹂の価値の全員による共有の段階では、﹁財貨の
0
0
とき人々がしたのと同じ﹁荷担﹂ないし﹁前提﹂に今も立ってわれ
等しさの基準﹂を前提にしつつ、法に工夫を加えることにより、配
0
0
われの交換の行動をおこなっている。それゆえ、現在の現実におい
分の問題にかんして利得と損害をなくすような価値に応じた配分を
0
てわれわれがこの件にこれ以上の根拠や正当化を求めるのは、方向
0
目指すと思われる。
0
として間違った態度だとかれは考える。自分がつくったものとかれ
0
0
ところで、﹁利得と損害﹂ という語り方が配分の場面に限らず矯
0
がかの地でつくったものとは、慣習上この値で取引される。試行へ
正の場面でも現実になされるということが、アリストテレスが矯正
一五
︶﹂ の
to ison
の 荷 担 と い う ﹁こ と の 本 質﹂ は い つ ま で も 同 じ も の と し て 残 る か
0
的 正 義 と い う 第 二 の 部 分 的 正 義 を ﹁ 等 し さ・ 公 平 さ ︵
0
ら、拘束力のある現在の価格体系の中でそれが比例関係の上で自分
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
201
渡辺
邦夫
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0
一六
0
0
0
に﹁損得﹂の等しさの問題であるかのように説明されなければなら
0
別の種類にかかわる正義と主張したことの、一論拠であった。かれ
0
ないのは、社会には査定、それも体系性を持った査定の必要がある
0
は第五巻第四章において、﹁それゆえ裁判官は不公平︵ないし不等
0
という事情に関係する。貨幣の実在という問題に対し、それが実在
0
しなければならないとわれわれが前提していると言うべきであった
0
︶であるこの不正を、均等化︵ isazein
︶ し よ う と す る。 な ぜ
anison
0
なら、片方が殴りもう片方が殴られるとき、あるいは片方が殺し、
0
ように、不正な害を与えた人間は得をしたと言えるのでなければな
0
もう片方が殺されるとき、こうむった状態とおこなった行為がお互
らないとわれわれは前提しているということが、アリストテレスの
0
いに対して等しくない関係になったまま、分断されているからであ
洞察であると思われる。
0
る。 そこで裁判官は、﹁損害﹂ により﹁利得﹂ を減殺することで、
最小限実在し、本来性の裏打ちがある事柄は、共同の基礎として
0
均等化しようとするのである。 ここで、﹁利得﹂ が或る種類の人間
0
善に善を返すことであり悪に悪で返すことであって、ただし応報は
0
にとってぴったり適切な名でない場合があるのになぜこのように言
0
比例ないし等しさに基づかなければならず、それに反する場合逸脱
0
0
うかといえば、たとえば殴った人について言われることがあるよう
0
0
としての措置をとるべきだとかれは考える。共同の﹁形﹂がきまっ
0
0
︶、この種類の不正を犯し
hōs haplōs eipein
0
に、 雑 駁 な 話 と し て は ︵
0
てきて、貨幣や法などの決まりごとをわれわれは受け入れ、前提し
0
た人々について﹁利得﹂が語られ、不正をこうむった人々について
0
ているが、むかしの人々もそのようにこれらのシステムに荷担した
0
は﹁損害﹂が語られているからである。ただし、こうむった状態が
0
ことで、可能なことが一挙に増えたわけである。しかし﹁正義の問
0
0
ē、
hotan ge metrēth︶
i
0
0
ど れ ほ ど の 状 態 か が 査 定 さ れ る 段 に な れ ば︵
0
題﹂もまた、このような何重もの荷担の影を背負っている。その一
0
方で、とくに法の全面的強制力の観点で、たとえば節制の徳に反す
れる﹂︵
0
そこでは現に一方は﹁損害﹂と呼ばれ、もう一方は﹁利得﹂と呼ば
る姦通という﹁︵全体的︶ 不正行為﹂ も、 利得ほしさで部分的正義
0
0
︶ と 説 明 す る。 殺 人 な ど に ﹁等 し さ の 問 題﹂ と し
1132a6-14
0
0
ての公平・公正さの問題があると考えることは、盗まれて損をこう
0
に反する姦通の﹁︵全体的︶ 不正行為﹂ とともに、 法による罪や損
0
0
むるとか殴られて一方的に被害にあうことの﹁不公平だ!﹂という
0
0
害賠償の査定の観点で言えば、矯正的正義で問題となる不正と連続
0
実感と結びつくことである。しかしその点は前提した上で、ここで
0
的に捉えられなければならないという面がある。アリストテレスは
0
0
か れ が 読 者 に 注 意 を 促 す の は、 た と え ば だ れ か を 殺 し て ﹁得 を し
0
0
全体的正義と部分的正義を分けた功労者だが、両者の連続面を切り
0
た﹂とは、日本語で文字通りに言えないケースが現に存在するとい
0
捨てて区別したわけではない。かれは連続と断絶をこう言い表す。
0
う事実である。 利得を語るのは、﹁雑駁な話として﹂ 通用すること
である。それにもかかわらずこれが正義の別の種類として、全面的
200
引用
― で ア リ ス ト テ レ ス は ﹁正 義﹂ が 複 数 の 仕 方 で 語 ら れ る
語られるように思えるのだが、しかし意味は近縁であり、たとえ
だろう。 そして、﹁正義の徳﹂ も﹁不正の悪徳﹂ も複数の仕方で
の仕方で語られるなら、﹁不正なもの﹂ も複数の仕方で語られる
で語られるという結果になる。 たとえば、﹁正しいもの﹂ が複数
あると明言し、引用
要素が共通であることから部分的正義は全体的正義と同名同義的で
いる。引用
手﹂にあたる二義︶であるような意味の分れがあることを否定して
﹁
と 言 い つ つ、 典 型 的 同 名 異 義 語 の ギ リ シ ア 語 ﹁ク レ イ ス﹂ や 英 語
ば﹁クレイス﹂が動物の喉の下部の﹁鎖骨﹂の意味と戸を閉める
の意味に見えること﹂に或るリアリティが対応していることを、積
で あ れ ば ﹁銀 行﹂ と ﹁土
bank
﹁鍵﹂ の 意 味 と で、 同 じ 音 の 語 で も 違 う 意 味 で 呼 ば れ る よ う に、
極的に承認しているように思われる。私見ではここに、決まりごと
﹂ が 同 じ 綴 り で 同 じ 音 の 二 語︵
bank
遠くからでもより明らかなものの場合︵その程度に見て取れるよ
の世界のなかでわれわれが共通に前提し荷担している、いくつかの
2
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義と不正を論じ、 実感する。﹁全体的﹂ 正義であれば、 法の適用の
0
であるという前提の下で正義と不正を論じ、 実感する。﹁矯正的﹂
0
法 に 反 す る 人 も、 貪 欲 な 不 公 平 な 人 も﹁不 正 な 人﹂ で あ る と
0
正義であれば、不正行為には減殺されるべき利得があるという近似
0
思 わ れ る。 し た が って 明 ら か に、 法 を 守 る 人 も 公 平 な 人 も ﹁正
0
V 1,
0
0
0
0
観点で、利得のために隣人の伴侶と性交渉を持った人と同様に、放
0
0
0
0
埓ゆえにこの人と性交渉を持った相手をも、﹁不当な利得﹂ を得た
一七
は等しいという﹁正しさ﹂による。全体的正義では、矯正的正義の
という﹁正しさ﹂によるし、矯正的正義ではこれとちがって、市民
から見れば﹂配分的正義は価値に応じた比例関係を等しさとみなす
0
― 〕・・・ し た が って、 全 体 的 不 正 の ほ か に 部 分 的 不
〔引 用
かのように正義論的に扱い、 そう実感しさえするのである。﹁近く
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
的 不 正 と 同 名 同 義 的︵ sunōnumos
︶ で あ る。 な ぜ な ら そ の 定 義
︶が同じ類に属するからである。︵ V 2, 1130a32-b1
︶
horismos
︵
正 が 存 在 す る こ と は 明 ら か で あ る。 そ し て、 こ の 不 正 は 全 体
2
︶
1129a23-b1
公 平 さ で あ り、 不 正 と は 不 法 お よ び 不 公 平 な の で あ る。︵
0
的真理を、全面的で原則的な真理であるかのように前提した上で正
れは﹁配分的﹂正義において、主要な外的な善は値段の換算が可能
0
―中の﹁遠くから見ると﹁正義﹂はひとつ
1
―では定義において﹁他人との関係﹂での徳という
うな相違は、はなはだしいものだから︶とは事情が異なるがゆえ
7
7
し い 人﹂ で あ る こ と に な る。 そ れ ゆ え、 正 義 と は 合 法 性 お よ び
しよう。
原則が関係する。ひとつは、すべての物品等に通約できる値がつく
〔引 用
〕・・・ た だ し 、 一 方 が 複 数 の 仕 方 で 語 ら れ る
―
︶ な ら、 た い て い は も う 一 方 も 複 数 の 仕 方
pleonakhōs legesthai
1
に、それらの意味の違いが人々の注意を免れてしまうのである。
︵
7
というものである。この原則的前提を共有することにより、われわ
1
そこで、﹁不正の人﹂ がいくとおりの仕方で語られるかを把握
7
7
199
0
渡辺
邦夫
0
延長上で、ほかの悪徳に基づく行動への矯正等を﹁行っている﹂だ
けである。
0
0
0
0
0
したがって、高潔さによる衡平の実現は、法と合法性の意味の全
0
0
0
0
四
高潔さと思慮深さ
︶
一八
︶
teleia
高潔さ・エピエイケイアは完全な正義の人の特性であり、かつそ
0
0
0
0
0
〕 一 方、 わ れ わ れ が﹁他 人 に 対 し 思 い や り が あ る﹂ と か
0
︶ に基づいてアリストテレスは正義の徳を最大の人柄の
I 13
︵
の一方で、数ある徳の中でも正義の徳は伝統的に﹁完全な︵
0
体的正義の場面全体を問題の発生場所とみなした上で、そもそも善
0
徳﹂とされてきた。自分の独創であった人柄の徳と思考の徳の二大
0
に善を︵悪に悪を︶応分に返すという正義の自然的行為と自然的能
〔引 用
0
区 分︵
0
0
力を、各種荷担・前提の導入の後もはじめとまったく同じように高
0
0
徳として第五巻で取り上げ、高潔さを意味の焦点とする人柄の絶対
0
度に発達させた人間の判断力と行動力によって、決まりごとのぶあ
0
的 な 高 さ と し て 論 じ る こ と に、 さ し あ た り 成 功 し た よ う に わ た し
0
つい堆積のどこかに﹁つくられた決まりならではの間違い﹂がある
0
には思われる。 つづく第六巻においてかれは、﹁完全な人柄の徳﹂
0
場合に対処すること、と表現できる。また、このようなことは、各
0
の理性的行動力に匹敵する高さの、倫理の領域での﹁完全な思考の
0
種荷担が相互行為や共同行為のための前提であった以上、当然可能
0
徳﹂にかんして議論する。第十一章主要部を訳して論じることにす
0
であり、社会がいつのまにか劣化することなしに、新種の荷担ゆえ
る。
0
にさらに福利を増大させるための鍵でもある。そしてそれゆえ、こ
のような高潔さが可能である全領域は、ふつう人工の決まりに従っ
0
ていればそれでよく、各地で各種の決まりがさまざまあるだけに見
0
0
0
﹁[他人の心の]察しをもって判断している﹂ と言うときのいわゆ
0
えるような領域においてさえ、共同体の少数メンバーの人柄の徳と
0
る ﹁察 し﹂ と は、 高 潔 な 人 の 正 し い 判 定 の こ と で あ る。 と い う
0
しての正義の十全な保持と、多くの人による正義の徳への与りがじ
0
の も、 高 潔 な 人 は も っと も す ぐ れ て 思 い や り の あ る 人 で あ り、
0
つはつねに問われるような、そのような領域であると考えるべきな
或る種の事柄にかんする思いやりがあることが衡平なことであ
0
以上が、高潔さについて注意すべき第三の点とわた
0
のである。
次節で、以上の第五巻解釈を第六巻における高潔さの知的側面の
議論につなげてみよう。
そ し て こ れ ら の 状 態 は、 す べ て 結 局、 同 じ も の に 帰 着 す る と
ある。
判 定 す る﹂ も の と い う の は、 真 を 判 定 す る よ う な 察 し の こ と で
衡平な事柄を正しく判定する察しなのである。 ただし、﹁正しく
る、とわれわれは言っているからである。そして思いやりとは、
0
23
しが考えるものである。
8
198
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0
hautē d’ esti
︶ を持たなければ
aisthēsis
0
何 か の た め と い う 目 的 に 向 か う 出 発 点 だ か ら で あ る。 と い う の
0
0
い う こ と が も っと も な こ と で あ る。 な ぜ な ら わ れ わ れ は、﹁察
0
0
も、 普 遍 は 個 別 的 な 事 柄 か ら 構 成 さ れ て い る か ら で あ る。 し た
0
が って、 こ れ ら 個 別 的 な 事 柄 の 知 覚 ︵
0
︶。︵ V 11, 1143a19-b5
︶
nous
な ら な い。 そ し て こ の 知 覚 こ そ、 理 性 な の で あ る ︵
0
し︵
︶﹂ も ﹁ 物 わ か り の 良 さ ︵ sunesis
︶﹂ も ﹁ 思 慮 深 さ
ō
ē
gn
m
︶﹂ も﹁理性︵ nous
︶﹂ も、[みな]同じ一群の人々に適
phronēsis
︵
用される性質だと考えていて、その一群の人々が﹁察しがある﹂
と言うのだが、そのときすでにかれらについて、
﹁理性的である﹂
とも﹁思慮深い﹂とも﹁物わかりが良い﹂とも言うからである。
ら、衡平な事柄とは、他人との関係におけるすべての善に共通な
たり、[他人の心を]察した上の思いやりを示したりする︵なぜな
で、人は物わかりが良いのであり、また察しの良い判断力をもっ
思慮深い人が考えをめぐらす対象にかんして判定する力がある点
あ り 倫 理 的 場 面 の 思 考 の 徳 で あ る ﹁思 慮 深 さ﹂ の 観 点 か ら み た と
またいで連続する議論において、人柄の諸徳に対応する﹁賢さ﹂で
ことを示したい。その上で、第十二章と第十三章という最終二章を
う、実践の場面で発揮される思考の徳の一般名で概括されるという
︵
アリストテレスは、人柄の徳としての正義の一種である﹁高潔さ﹂
事柄だからである︶。 その一方で、 為されうることはすべて、 個
き、一見可能に思える﹁勇気は抜群だが節制に欠ける人﹂や﹁節制
この事情は以下のとおりである。すなわち、これらの能力はすべ
別的で最終の事柄に属する︵実際、思慮深い人は個別的な事柄を
で賞讃されるが志が低い人﹂などの﹁人柄の徳のアンバランス﹂は
て、﹁最終の﹂ 事柄、 つまり個別的な事柄にかかわる。 そして、
認識していなければならない。また、物わかりの良さも察しも、
現実問題としては起こりえず、ギリシア的な﹁諸徳兼備の理想﹂が
に 対 応 す る 思 考 の 徳 と し て ﹁思 い や り ︵
︶﹂ ないし﹁察し
ō
ē
sungn
m
︶﹂
︶﹂とい
ē を挙げ、このような徳が、﹁思慮深さ︵ phronēsis
gnōm
為されうる事柄にかかわっていて、しかも為されうる事柄は最終
正当化されると論じる。
︶ と い う 引 用 最 終 文 と、 文 脈 に お け
1143b5
第六巻第十一章の議論で注目に値するのは、﹁そしてこの知覚こ
の事柄なのである。そして理性もまた、両方の方向で﹁最終の事
柄﹂にかかわっている。なぜなら、第一の諸項にも最終の諸項に
そ、 理性なのである﹂︵
るこの文の含みである。﹁理性︵
︶
logos
はかかわりを持たないからである。そして理性は一方で論証に関
ざ ま な 学 問 的 知 識︵
も、理性がかかわりを持っているのであり、理由の説明︵
係して、不動で第一の諸項にもかかわるが、他方で為されうる事
そもそもの学問的原理の非推論的把握をする思考の働きを指す言葉
︶﹂は第六巻第六章では、さま
nous
柄 に か か わ る 前 提 に お い て は、 最 終 の ﹁ほ か で も あ り う る﹂ 事
であると結論され、この術語的意味で﹃分析論後書﹄第二巻第十九
一九
︶ē を学問的推論で生んでゆくための、
epistēm
柄、 つ ま り 第 二 の 前 提 に か か わ り を 持 つ。 な ぜ な ら、 こ れ ら が
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
197
渡辺
邦夫
0
0
0
0
0
0
二〇
アリストテレスが知覚イコール理性と語っていることは、高潔な
0
章などでも使用されている。第十一章では理論的学問的文脈でのそ
人であれば思いやりや察しの理性的な力によって、その状況の個別
0
のような意味を背景にしながら拡張をおこない、行為を導く実践的
的事象が﹁見える﹂という含みを持っている。その﹁見え﹂ないし
0
推論との関連でのこの言葉の使用に主に焦点が当てられている。両
0
知覚は、なんらかの理由や前提から推論過程を経て結論されたもの
0
まったく別の文脈での日常的使用法を根拠としてかれがここで使用
0
方の文脈に共通するのは、直接的に、ロゴス・理由や推論を媒介し
で は な く、 状 況 の 中 で 媒 介 な し に 直 接 ﹁感 知﹂ さ れ る と い う こ と
したことの、ひとつのポイントである。これと関連するこの語の使
0
︶ その系列の最終項は
1143a35-36
0
ないで﹁ロゴスの始まり﹂﹁推論の始まり﹂ を把握する力という意
が、 か つ て 学 問 論 で 導 入 し て お い た 理 性・ ヌ ース と い う 言 葉 を、
理性で把握されるしかないと言っている。︵ただし推論の形式を眺
用のもうひとつのポイントは、或る人のそのような個別的対象の知
0
味にこの言葉が充てられているということである。引用 ではアリ
め、 普遍的 個/ 別的の二元的区別でいえばアリストテレスの言葉ど
覚 が 起 点 と な り、 そ こ か ら 推 論 が 起 こ って 当 人 の 現 実 の 行 動 を 生
ストテレスは、﹁両方の方向で﹂︵
おり方向は逆なのだが、心の哲学で欲求が運動ないし行為を生む自
む、という原因論的なものである。
︵
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︶
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この二つのポイントいずれも、第二巻第六∼九章の人柄の徳にか
0
推論における﹁理性﹂と実践推論の具体的で個別的な項の知覚とい
0
んする一般的な説明枠を背景に手短に言われているように思われ
0
る。勇気ある人を考えてみよう。いま、状況Aにおいて山の端に雲
﹃デ・ アニマ﹄ 第三巻第十章
0
う ﹁理 性﹂ は、 因 果 的 説 明 に お け る ほ ぼ 等 し い 位 置 づ け を 担 う。
がかかり始めたとする。山に登る人々のリーダーが臆病であればそ
る善﹂︵
0
ないで動かすもの﹂ は、﹁欲求されうるもの﹂︵
0
の説明における、﹁動かされ
433b10-18
の雲は引き返すことのサインになり、向こう見ずな人と勇気ある人
0
︶﹁為されう
b10-11
はともにその雲が無視してよい﹁兆候﹂にすぎないとして山に登り
0
︶ であり、 これが行動に直結する欲求的部分︵﹁動かさ
b16
0
れて動かすもの﹂︶ に作用し、 欲求的部分の働きにより人間や動物
続ける。別の状況Bで同じあたりに同じように雲がかかり始めると
0
自身︵﹁動かされるもの﹂︶が行動を起こす。したがって、為されう
き、向こう見ずな人は登ろうとする。しかし勇気ある人は、その状
0
る善の認知は当該状況で初めに成り立つべき﹁事件﹂であり、その
況のその雲が﹁いわば﹂同じようであっても状況Aのような比較的
0
認知の優劣と適切不適切が、通常は、最終の行動の質にいたるまで
︶
多いケースと異なる特殊な特徴を帯びていて、まさに登山を続けら
うな引き返す決断をする。臆病な人は雲を見て恐怖と不安に取りつ
︵
保存される。こうして、学問的推論で原理︵の知的直観︶が﹁動か
れない荒天の兆しを含むとみて、ここでは臆病な人であればするよ
然的過程を考える時のアリストテレスのセンスでいえば、理論学の
8
されないで動かす﹂ことと、類比的に説明されることになるのであ
る︶
25
24
196
かれて自信がなくなり正しい判断とそれに基づく行動ができなくな
ぐれた措置ができるかということの原因説明は、
﹁思いやり﹂や﹁察
措置は容易にまねのできるものではないが、なぜまねのできないす
0
る。過去の行動歴により感情のあり方がノイズになって正しい認識
し﹂という標語のもとで、結局追求と忌避の態度につながるような
0
ができなくなっている。向こう見ずな人は状況Bにおいて自信過剰
個別の価値の見えに反映する、﹁当人の対人関係全体における適切
0
から正しく認識できない。感情のあり方が目を曇らせている。これ
な 情 と 知 の 関 係 の あ り 方﹂ に ま で さ か の ぼ る だ ろ う と い う 点 に あ
0
らの人々は、感情状態が明確に不適切で自分にも他人相手にも有害
る。そしてこれは、人柄の徳全体の或る高水準の修得の上で成立し
0
な行動をしがちという意味で、選択と願望の形成両方に難がある人
た賢さとしての﹁思慮深さ﹂を持っているということにほかならな
0
だといえる。勇気ある人は状況Aでは不安をあまり感じないで行く
0
い。﹁超過﹂ と﹁不足﹂ をここでも指摘することができ、 この程度
0
決断をする。状況Bでは不安を感じてそれが本当の危険を予測させ
0
0
の事例でも法を杓子定規に運用して当事者に厳しすぎる裁定者と、
0
0
る大きさのために逆に﹁引き返す勇気﹂を示す。両状況を通じて感
0
0
0
逆に重要度を問わず、救済のためなら条文を裁量でゆるく解釈して
0
0
0
情のあり方によって透明に個別的事態を価値評価込みで見ることが
0
0
0
よいとして、法体系を危うくする適用に陥る裁定者のいずれも、
﹁理
0
0
0
できている場合に、勇気の徳の持ち主︵の候補︶になる。見た瞬間
0
0
0
性を欠いている﹂という一般評価を受けざるを得ない。正しい裁定
0
0
0
0
に三者の成功不成功は︵ほぼ︶決まってしまっているのであり、そ
0
0
が難しいのは、問題自体の難しさに加えて、その状況で事件に接し
0
0
れ は 過 去 の 行 動 に よ って 今 感 情 が 適 切 に 発 揮 さ れ る か 不 適 切 か に
0
た そ の と き に ﹁そ の 事 態 が 見 え て い る﹂ と い う こ と が 難 し い か ら
0
よっている。
0
0
0
0
0
0
0
0
だ、とアリストテレスは言うだろう。法の規範性と強制力を一方で
0
高潔さが際立つような正義の人、つまり法の正しさに対してさえ
0
0
熟知しつつ、他方でその法の側に立つ人間として人々がどうなるか
0
0
0
も、内面のたくわえによる自然本来の正しさを主張できる程度に完
0
0
について偏見のない温かい見方ができるがゆえに、どの方向でどの
0
0
0
璧な正義の人でも、基本は同じことであろう。法は﹁鉄で傷を負わ
0
0
0
程度の裁定がこの場で適切かが筋の通った仕方で見え、認知できる
0
0
せる人間﹂に厳罰を処するよう定められ、或る人が鉄の指輪をつけ
0
0
人は、そしてそのような認知に基づいてここは法を文字通り適用す
0
た腕を振りかざしたりそのような腕で他人を殴ったりするケースが
0
0
るのではなくこのように適用すると判断できる人は、数が少ないは
︵ ︶
0
0
問題となる。この被告は鉄の鈍器で他人に大けがをさせた人と同様
0
0
ずである。そしてその人の判断は、潜在的にあった大前提としての
0
0
には扱えない、と高潔な人は︵われわれとともに︶考える。そして
願望ないし欲求に、この場で本人に見えた﹁可能なもの﹂を結び付
0
﹁鉄﹂ 条 項 を 事 実 上 は 無 視 し た 措 置 に し て、 以 後 の 模 範 と な る 裁 定
けて一回現実に実行された実践的推論の形で示される。その上で事
二一
をする。アリストテレスのポイントは、高潔な人の鮮やかで適切な
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
26
195
渡辺
邦夫
0
0
0
0
二二
アリストテレスが考えたとおり、若い人々の養成過程で十分に多く
0
後に、人々によってその行動と理由が評価され、そして、もしその
の近い素質の人間が高潔な人の判断や行動を或る程度共有でき、議
︶
評価結果が本物の高潔さの使用というものであるなら、その考え方
論でき評価する社会が望ましいのである。
︶ と し て の ﹁思 慮 深 さ﹂ な い し ﹁察 し﹂ の
nous
︶ と い う 一 文 は、 第 五 巻 第 十 章 の 説 明 だ け で は
1143a31-32
柄 と は、 他 人 と の 関 係 に お け る す べ て の 善 に 共 通 な 事 柄 だ か ら で
のスケッチを記しておき、本格的解釈を近日中に提出して補いをつ
な提言ができただろうか?
この問題が残っている。本稿では若干
アリストテレスは最終的に、正義の徳の教育にかんしてどのよう
プラトン『テアイテトス』
五
幸福とモラル
『ニコマコス倫理学』と
︵
が当の法を補うものとして、本格的な仕方で共同体に受容されるこ
とになると思われる。
こ の よ う な 理 性︵
重要性は、社会を営み、規則に従ってともに生きる人間であること
︵今 日 で い え ば︶ 刑 法 の 一 問 題 と も 思 わ れ か ね な い﹁衡 平﹂ と﹁高
けることにしたい。
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
︶ を 示 そ う と し た よ う に 思 わ れ る。 私 見 で は こ
relevance
︵
︶
︶ を 熟 読 し、 消 化 し て、 そ の 議 論 の 自 分 の バ ージ ョン
172C-177C
0
一
アリストテレスはモラリスト︵道徳主義︶の立場を幸福や徳や
0
も原理的な一般問題であることをアリストテレス自らが証言する
0
正義の語りの遂行の過程のなかで示し、そのことをもってまず正義
0
も の で あ る 。 ノ モ ス は わ れ わ れ に 対 し て 絶 対 的 拘 束 力 を 持 つ が、
0
の 徳 を 代 表 と す る 人 柄 の 徳 全 体 が 人 生 の 意 味 に 対 し て 持 つ、 本 来
0
前節でみたように、それはわれわれが全員、そうであることに荷担
0
的 関 連 性︵
0
しているためである。ノモスがロゴスの表現であることの﹁信﹂が
0
の よ う な、 人 間 と そ の 徳 な い し 卓 越 性 を 主 題 と す る 哲 学 的 議 論 の
0
そのような荷担の隠れた背景である。したがって、ノモスもポリス
0
結 論 と し て モ ラ リ ス ト の 立 場 が 帰 結 す る と い う 態 度 に お い て、 ア
0
国家自体も一面では人為の産物であることは動かないから、人間の
0
リ ス ト テ レ ス は プ ラ ト ン ﹃テ ア イ テ ト ス﹄ の ﹁神 の 似 像 の 議 論﹂
0
0
ほうで自然的にロゴスを表現できるという能力を養成することが、
0
︵
0
全員の盲目や全体的迷走やその末の破滅に至らず、当初の共同性へ
0
をつくろうとしたという一面がある。全面的な道徳主義の確立に向
0
の荷担を世代から世代へ絶えず引き継いで﹁なんとかやってゆく﹂
0
けられた議論は私見では三か所ある。まず第六巻第五章のフロネー
0
唯一の方針になるはずである。高潔な人は稀なので思慮深い人もま
0
0
シス論があり、つぎに第六巻第十二∼十三章のフロネーシスによる
こ も った 理 解 が 試 さ れ る 道 徳 と 幸 福 と の 関 係 に か か わ る、 も っと
ある﹂︵
潔 さ﹂ の 問 題 こ そ、 法 や 教 え ら れ た し き た り と、 人 々の 気 持 ち の
と、 本 質 的 に 結 び つ い て い る。 引 用 文 中 の ﹁な ぜ な ら 、 衡 平 な 事
27
た稀なのだが、このような人は出現しなければならない。同時に、
28
194
人柄の諸徳の統合の理想の議論がある。第三に、ややはなれて、第
なければ、帰属できないだろう。
こと﹂のあいだが、内部でいわば透明化してつながっている人にで
︶ 第六巻第十二・ 十三章においてかれは、 これとよく似た論
︶﹂ の 対 比 ︵ VI
ē﹂
deinot︶
s と ﹁思 慮 深 さ ︵ phronēsis
︶ と い う、 プ ラ ト ン ﹃テ ア イ テ ト ス﹄ に
12, 1144a20-VI 13, 1144b17
点 を ﹁才 覚 ︵
︵
九巻第四章のフィリア︵愛・友愛︶論中に、道徳性を愛の不可欠の
︶ 第 六 巻 第 五 章 で ア リ ス ト テ レ ス は 日 常 的 な 言 い 回 し で ﹁思
要素として主張する議論がある。
︵
︶﹂ という評言が、﹁技術がかかわりを持たな
phronimos
意味︵ a27 kata meros
︶ での﹁思慮深さ﹂ ではなく、﹁﹁よく生きる
いう、別途定まった目的のために立派に熟慮できるという部分的な
章の目的は、思慮ある人と真にいいうるのは、健康や体力のためと
︶ こ と を 手 が か り と す る。 こ の
1040a29-30
人柄の諸徳と手段の熟慮の優秀性である思慮深さは、成熟した個人
じ趣旨から第十三章のアリストテレスも、目的の十全な形成を担う
と﹃テアイテトス﹄の登場人物ソクラテスは提案する。まったく同
ではないから、そのような才覚の持ち主をほめること自体やめよう
ためにも手段を考案する力がすぐれている場合の利口さは真の知恵
︶ で 言 い 表 す。 善 悪 い ず れ の 目 的 の
cf. 176A-E
こと﹂のためにいかなるものが自分にとって善であり有益かを立派
の真正なものとしてはいずれも互いなしにはないものであり、﹁才
由 来 す る 表 現 の 対︵
︶。 部分的な目
a25-28
覚﹂とは不十分な発展段階にのみかろうじて該当する不純な言葉遣
0
的のために手段を考える力がすぐれていることでは足りない。いわ
い で あ る と い う ︵プ ラ ト ン 的︶ 論 点 を 主 張 し、 自 身 の バ ージ ョン
0
0
ば青天井のように考える事柄の範囲が究極目的に至るまで開かれて
の 知 性 主 義 を 展 開 す る。 ア リ ス ト テ レ ス の 哲 学 的 な 立 場 に お い て
0
0
いて、人生の目的自体の解明が一回の熟慮と有機的に結びつくよう
は、 人 柄 の 徳 の 独 自 性 と そ の 形 成 の 重 要 性 の 論 点 が 新 し い。 こ の
0
な熟慮の力が必要になるというのである。そして、この﹁思慮深い
新 鮮 で 独 特 な 観 点 に お い て、 人 間 が 人 間 に か か わ る 場 合 に ﹁自 然
0
人﹂の意味の理解が﹁思慮深さ﹂の意味の理解の基礎にならなけれ
︵
0
ばならないと論じる。要するにこれは、実践にかかわる思考全体の
じ得ず、規範の浸透と価値への荷担のただ中で人々にかかわる延長
に 熟 慮 で き る﹂ 場 合 だ と 論 じ る こ と に あ る ︵
善への荷担と﹁倫理化﹂を、いつかどこかで始めていなければなら
上に理論もまたあることが、十分に表現されるように思われる。正
︵
︶
0
0
0
0
0
二三
︶﹂ は規範や善悪が無記のいわゆる自然科学的観点からは論
phusis
0
ないという指摘である。ゆえに、思慮深さを要する正義の徳も、高
義の徳はそのような﹁価値への荷担という文脈における﹁自然﹂﹂
0
潔さの水準の正義の徳もとくにすぐれてまた、人柄の諸徳の修得が
において最大のものとなる。しかし、それでも第六巻ではまだ、正
0
済んでいるとともに、そのような﹁自分の人生の意味自体の一大転
義の徳の育成の着眼点をかれは示していない。
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
29
る﹂ 場 合 に 与 え ら れ る ︵
2
回﹂を自ら経験し、一回の倫理的行為のための熟慮と﹁よく生きる
い領域において、なにかすぐれた目的のために秀でた仕方で推理す
慮 深 い 人︵
1
193
渡辺
邦夫
0
0
︶ 第 八 巻 と 第 九 巻 に ま た が る フ ィリ ア 論 中、 第 九 巻 第 四 章 と
0
二四
第三節においてわれわれは、正義論における高潔さの至上の意義
が、遠いむかしの交換の始まりに遡ることを見た。そこではカリス
0
第八章においてアリストテレスは、高潔な人の自己愛にみられる特
の女神たちを敬って善に相応の善でお返しすること、つまりそこに
0
徴 が、 真 の 愛 の 主 要 な 特 徴 の 源 で あ る と い う 興 味 深 い 主 張 を 述 べ
0
たえず善︵親切︶の一定の余剰が出るように交換や対人交渉の場で
︵ ︶
0
る。第四章の叙述によれば、高潔な人ならば、a 自己に善とあらわ
0
ふるまうことが、X↓Y↓X↓Y↓・・・の関係が原理的に終わり
0
れ る も の を 願 い、 為 し、 自 己 の た め に そ う す る し、 b 思 慮 を め ぐ
0
なく続いてゆくことの鍵となっていた。言葉を換えればこれは、個
0
ら す 者 と し て の 自 己 が 生 き、 維 持 さ れ る こ と を と く に 強 く 願 い、
0
人の人柄の成長や、オオヤケのためのワタクシの成長という観点だ
0
c ﹁自己自身とともに過ごす﹂こと、つまり他人に依存せず自分の
0
け で は、 真 に 正 義 の 人 を そ の よ う な 人 と し て 伸 ば し て ゆ く こ と に
0
活動に専心することを願い、d自己との価値判断と苦しみと喜びの
0
は 限 度 が あ る、 と い う こ と で あ る。 わ れ わ れ は 私 的 に 愛 を 知 り、
一 致 も し く は 首 尾 一 貫 性 を 保 って い る ︵
0
︶。 この自
IX 4, 1166a13-29
人々のあいだでふるまいながら人が真に対等の者同士としていかな
0
己愛の特徴が、対人関係である愛の理想を与える。すなわちa 相手
cf.
︶。 そのような具体的人的環境の世界で比例
VIII 7, 1158b29-1159a2
0
関係や数的な等しさを語りうる存在者でなければ、正義についての
0
に生きることを選択し、d相手と同じ価値判断、苦しみ、喜びを味
生きた知識は学ばれもせず活用もされないように思われる。愛の学
0
︶。a ∼dが自己愛から他人への愛にそのまま変身する
a2-10
わ う︵
ことは、﹁自己愛﹂ が利己心と結びつく通常の卑俗なことばの理解
びを含む当人の世界の拡大過程においてであれば﹁人に対する徳﹂
VIII 1,
ではとうてい無理だが、アリストテレスは第四章ではこのいわば反
0
に な れ る の で は な く、 か れ ら に は 愛 も 付 加 的 に 必 要 で あ る ︵
としての正義を学ぶこともできるのだが、﹁正義の人々﹂ 同士が友
実 に み よ う と し︵
0
私 見 で は、 こ こ に ア リ ス ト テ レ ス が 正 義 の 徳 を ﹁人 柄 の 最 大 の
0
読者を説得しようとする。﹁理性が各人であること﹂ の理想も、 愛
徳﹂とみなしえた、究極の理由がある。正義と高潔さの原因自体は
︶。
1155a22-31
と友人のために善に尽くすべしという論点も、おそらくアリストテ
巨大で複雑な状態だから、われわれはそれをじかに育成する手段を
︶の自律という論点と結びつけて︵ IX 8, 1168b35, cf. b25-34
︶
nous
レスは、部分的に﹃テアイテトス﹄等から借りている。しかし高潔
︵ ︶
くみなければならないが、最後に或る人がほんとうに難しい公共の
持たない。したがって代表的な人柄の諸徳と道徳的知性の発展をよ
い提言がみられるように思われる。
さの理想のほうは独創的なものである。ここにかれの教育上の新し
︵
︶、 第八章に至ると高潔な人における理性
a33-b1
常識的な﹁変身﹂の秘密を、高潔な人における魂の明確な分節の事
0
る も の で あ る か を 早 い 時 期 か ら 経 験 し て い な け れ ば な ら な い︵
︵
3
のために善を願い、b相手のために友の生存を願い、c 相手ととも
30
31
192
0
︶
こ
cf. X 8,
︶ が不可欠の要因であるの
pathos
︶ を 類 似 点 に あ て た こ と で あ る。 そ の 主 た る 理 由
sophia
︵ ︶
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
H. Fossheim, ‘Justice in the Nicomachean Ethics Book V’, in: J. Miller (ed.),
V 2, 1130a24-32, b4; V 4, 1132a6-19.
B. Williams, ‘Justice as a Virtue’, in: A. O. Rorty (ed.), Essays on Aristotle’s Ethics,
参照。
Aristotle’s Nicomachean Ethics, a Critical Guide, Cambridge 2011, 234-275
として
V 3, 1131a15-18; V 4, 1132a17-24; V 5, 1133b32-1134a6, esp. 1134a1dikaiosunē, a1-2
︵ ︶
2
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
質的であり、これは改悪である。
く﹁見返りなしに︵ for nothing
︶ 取 ろ う と す る﹂ と 言 い 換 え る と い う 提 案 に よ り
アリストテレスの説明を改良しようとする。私見では比較級による言い換えは本
︵ ︶ 当 事 者 の 一 人 が こ こ で は 自 分 自 身 で あ る。 こ の 点 が 異 な る。 こ の 相 違 は、
M. Young, ‘Aristotle’s Justice’, in: R. Kraut (ed.), The Blackwell Guide to Aristotle’s
かかわる原風景をまず描き、それをアレンジして第三者の観点を対立する当事者
において定式化
Nicomachean Ethics, 2006 Malden/Oxford/Carlton, 179-197, pp.193f.
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
された、対立する二人の利害対立に、第三者として利害を持たない公正な人間が
が持てるかが問題であったとする解釈に基づく。
︵ ︶ ア リ ス ト テ レ ス は 悲 劇 の 母 親 殺 し を 題 材 に、 殺 さ れ た 母 に は ︵自 分 の 被 害 と 死
かわる自発性は帰属されない︵殺害者である息子が、自発性の唯一の担い手であ
︵の意味︶ をどう受容するかという問いとは別に︶ 当該の出来事・行為自体にか
る︶と論じる︵ V 9, 1136a23-31
︶。
︵ ︶ V 11, 1138a11-12, 14-15, 18-20, 20-23, 23-24, b5-13.
この点でアリストテレスは、
﹁内
なる正義﹂というプラトン﹃国家﹄ IV, 441C-444C
の考え方に反旗を翻している。
二五
︵ ︶ 量的中間説という立場にわたしは荷担している。﹃アリストテレス哲学における
論である。
国 家 は 目 的 の 意 味 の 自 然 に よ る も の で、 人 間 は
Cf. 1252b27-31, 1253a7-18, 29-39.
自然本来的にポリス的動物である︵ 1253a1-3
︶ とすることの古典的典拠となる議
確認されている。
係にかんし、多元主義的かつ反相対主義的に論じるというかれの原則が、すでに
︵ ︶ II 6, 1106b16-18, 36-1107a2; II 7, 1108b6-9.
︵ ︶ これ以前に第六章と、とくに第七章では、法の正しさと自然本性的な正しさの関
︵ ︶
C.
II 7, 1108b6-9; V 1, 1129a3-5, 6-10.
V 1, 1129b1-11.な お M. Pakaluk, Aristotle’s Nicomachean Ethics: An Introduction,
は 貪 欲 を ﹁よ り 多 く 取 ろ う と す る﹂ と 言 い 換 え る の で は な
Cambridge 2005, p.188
ho dikaios.
Berkeley 1980, 189-199.
3
︵ ︶
4
場面で高潔さを発揮するかそうでないかを見極める最短の手段は、
その人のそれまでの愛の世界の発展を跡づけることである。
のようなメッセージが、第五巻から第九巻に至る議論の流れの大筋
ではないかとわたしは推測している。
二
ア リ ス ト テ レ ス は﹃ニ コ マ コ ス 倫 理 学﹄ 第 十 巻 第 七・ 八 章 の
二 章 で 同 書 の 幸 福 論 の ひ と と お り の 結 論 を 述 べ る。 そ こ で の 叙 述
︵
は、 神 と 人 間 と 動 物 と 世 界 に か ん す る、 西 洋 哲 学 の そ の 後 の 流 れ
0
は、死すべき動物の世界の最高限界に達したことを、そしてそのこ
わけではない。なぜなら、感情の芸術的完成による正義と思慮深さ
しかしアリストテレスの考えでは、それで﹁神に似た者﹂になった
活用して最高の﹁賢さ﹂を得たときに、高潔な正義の人になれる。
態度をも正当化する。われわれは、いわば生物学的な資産を最大限
︶ で あ る。 本 稿 の 解 釈 は こ の 点 の ア リ ス ト テ レ ス の
1178a13, 15, 20
に対して、感情は神的なカテゴリーに入らないということ︵
の ひ と つ は、 正 義 な ど で は 感 情 ︵
知 恵 の 徳︵
似 像﹂ に お い て か れ が 正 義 を 類 似 性 の 要 因 に 分 類 せ ず、 も っぱ ら
に大きな影響を与えたものである。 私見では重要なことは、﹁神の
32
5
6
7
8
9
11 10
12
13
とのみを含んでいるからである。
注
33
︵ ︶ 全 体 的 正 義 は 人 柄 の 徳 で あ る と ふ つ う 前 提 す る が、 こ の 前 提 に 反 対 す る 解 釈
1
191
渡辺
邦夫
C. Horn, ‘Epieikeia: the Competence of the
人間理解の研究﹄︵東海大学出版会・二〇一二年︶第一章第二∼四節参照。
︵ ︶こ の 点 で の バ ラ ン ス の よ い 解 釈 は
Perfectly Just Person in Aristotle’, in: B. Reis (ed.), The Virtuous Life in Greek Ethics,
Cambridge 2006, 142-166.
J. Brunschwig, ‘The Aristotelian Theory of Equity’, in: M. Frede and G. Striker (eds.),
0
︵ ︶
︵ ︶
V 1, 1129b25-1130a13.
二六
Cf. C. D. C. Reeve, Aristotle on Practical Wisdom, Cambridge (Mass.)/London, 2013,
リ ーブ は 特 定 タ イ プ の 行 為 が ︹ ︺ 幸 福 か ら の 実 践 推 論 の 結 論 と、
pp.231-234.
︺ 幸福という行為者の目的の具体的特定という二つの役割を担うとする
0
0
に 帰 納 的 方 向 の︹
︺ のほうにあり、︹
︺ は︹
︺ に 時 間 的 に 先 立 つ。 逆 に、
︵ p.234
︶。 私見では、 高潔さ、 察し、 思いやりから説き起こしており、 nous
の意
0 0 0 0 0 0
味の最小限の拡張で済ましたいはずのこの章のアリストテレスの強調は、明らか
︹
1
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
レス哲学における人間理解の研究﹄ 第一章第三・四節および注
0
0
0
0
0
0
0
0
a higher
参照︶。 この補
と い う 言 い 回 し で、 実 践 的 推 論 の 特 性 へ の
order of situational appreciation (p.231)
対応を示す。 アリストテレス自身のテキストに基づく説明として、﹃アリストテ
0
連 感 情 状 態 に よ る と い う 点 を 補 足 す る 必 要 が あ る と 思 う ︵ウ ィギ ン ズ は
0
いが、わたしはさらに、顕著さの知覚は状況に入る前に確立した、理性化した関
0
対応する大前提を活性化︵ activate
︶ す る と 解 釈 す る。 有 徳 な 行 為 の 創 造 性 を 押
さえ、行為の理由の全面確立は行為と同時か事後的であると考える点を支持した
は、 最 高 の 実 践 的 知 恵 の 人 は 状 況 中 で 自 己 が 行 動 す べ き 文 脈 の
215-237, pp.233f.
もっとも顕著な︵ salient
︶ 特 徴 を 見 抜 き、 そ れ か ら 実 践 的 推 論 を 組 立 て る の で あ
り、この特徴が、状況中の顕著さを生む関心の一般的趣旨を解き明かすような、
D.Wiggins, ‘Deliberation and Practical Reason’, in: Needs, Values, Truth, Oxford 1987,
ある。
ストテレスがその︵実質的意味が不明な︶論点に荷担すると言うことは冒険的で
論で行為者に幸福が初めに直観的に﹁見えている﹂という論点を含むなら、アリ
0
もし︹ ︺が幸福︵普遍︶から行為タイプ︵個別︶に演繹的に降りてくる実践推
2
︵ ︶
0
︵ ︶
1
Rationality in Greek Thought, Oxford 1996, 115-155, p.116, pp.140f.
︵ ︶ 片 方 の 悪 徳 が 無 名 の 場 合 も、 徳 自 体 が 無 名 の 場 合 も あ る と ア リ ス ト テ レ ス は 言
0
関係のこの一般的な言い換え可能性だけでは、正義が真に人柄の徳であることは
0
う。 II 7, 1107b1-2, 7-8, 29-31, 1108a5-6, 16-19 et passim.
︵ ︶ 中間は超過と不足の﹁中﹂であると同時に、悪徳に対し﹁極﹂である。しかし二
正当化できない。
︶ と 高 潔 さ を 論 ず る 後 半︵ 1137b341137a31-b34
︶ の 整 合 性 を め ぐ る 解 釈 問 題 が 存 在 す る ︵ C. Georgiadis, ‘Equitable and
1138a3
︵ ︶ 第 十 章 に は 衡 平 を 論 ず る 前 半︵
Equity in Aristotle’, in: S. Panagiotou (ed.), Justice, Law and Method in Plato and
︶。前半は裁きの問題だが後半は配分の
Aristotle, Edmonton 1987, 159-172, pp.165f.
取り分の問題とも受け取られる。 Brunschwig, pp.135-141, esp. pp.137f.
は ﹁ま た、
悪 い 方 向 に 杓 子 定 規 に 法 を 解 釈 し て し ま う こ と が な く、 立 場 上 法 に 守 ら れ て い
な が ら も よ り 少 な く 取 る 人︵ elattōtikos
︶ が、 高 潔 な 人 で あ る﹂︵ 1138a1-2
︶中
2
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0
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0
章 1374a29-b1
︶。
︵ ︶ フロネーシスの意義にかんする考察として、荻野弘之﹁﹁賢慮﹂﹁フロネーシス﹂
︵ ︶ これがアリストテレスによる衡平の唯一の例示である︵﹃弁論術﹄ 第一巻第十三
の観点から理解可能になる。
0
れ、出発点をなす個別的知覚により人が﹁動かされ﹂行動に現に至ることが原因
0
足があれば、小前提と、それを一般願望から説明する大前提が現に﹁活性化﹂さ
0
44
の elattōtikos
が 衡 平 さ を 守 る 裁 定 者 を 指 す と し て、 こ の 問 題 を 解 決 し た。 ま た、
は
S. Broady and C. Rowe, Aristotle: Nicomachean Ethics, Oxford 2002, p.175, p.255
McDowell, ‘Virtue and Reason’, in: R. Crisp and M. Slote (eds.), Virtue Ethics, Oxford
、荻原理訳﹁徳と理
1997, 141-162, p.148, n.12 (orig. The Monist, 62(1979), 331-350)
性﹂︵﹃思 想﹄ 1011
︵二 〇 〇 八 年 七 月︶
- 頁︶
- 頁 の、 こ の 箇 所 を 規 則 遵
0 0 0
守 に か ん す る ウ ィト ゲ ン シ ュタ イ ン 流 の 原 理 的 な 問 題 と 関 連 さ せ る 態 度 も、 D.
24 23
について﹂
﹃上智大学哲学科紀要﹄ 二( 〇一三年 ) - 頁、とくに
- 頁参照。
︵ ︶ ﹃テ ア イ テ ト ス﹄ の 議 論 に か ん し、 拙 稿 ﹁﹃テ ア イ テ ト ス﹄ の ﹁脱 線 議 論﹂
義を論じた。
︵
︶の意義と内容について﹂茨城大学人文学部紀要﹃人文コミュニケー
172C-177C
シ ョン 学 科 論 集﹄ ︵二 〇 一 二 年︶
- 頁 で、 モ ラ リ ス ト 的 内 容 と 文 脈 上 の 意
17
18
Wiggins, ‘Incommensurability: Four Proposals’, in: R. Chang (ed.), Incommensurability,
Incompatibility, and Practical Reason, Cambridge (Mass.)/London 1997, 52-66, pp.61f.
の、実践の本質としての非法則性をみる態度も、いずれも不正確である。
Williams, esp. pp.194ff.
G. Santas, Goodness and Justice, Malden/Oxford 2001, pp.259-289, esp. pp.278-284.
Fossheim, esp. pp.256-259, pp.262-264.
1
1
19
を﹁法を控えめに解する人﹂と訳して、より単刀直入な解決を出した。
elattōtikos
0 0 0 0
︵ ︶
第十章の議論、とくに 1137a19-24
に か ん し、 ホ ル ン の 法 を め ぐ
Cf.
Horn,
pp.159f.
0
る問題という主題把握と、
﹁たいていは﹂の準法則性を押さえる態度が正しく、 J.
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
39
1
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︵ ︶ 荻 原 理 ﹁わ れ わ れ が し て い る こ と に め ま い を お ぼ え て は な ら な い﹂﹃思 想﹄
、
- 頁 参 照。 ア リ ス ト テ レ ス も ﹁わ れ わ れ の 実 践 の 合 理 性 を 支 え る も の
1011
が生活形式の共有だけであるという事態﹂に﹁めまい﹂を覚えることは不適切だ
︵
頁参照︶、と考えたと思う。
80
96
0
0
︵二 〇 一 三 年︶
15
性に基づく幸福論の研究﹂︵研究課題番号
1
29
﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について
︶の研究成果の一部である。
22520007
- 頁参照。
︵ ︶ 本稿は平成二二∼二五年度科学研究費補助金基盤研究︵C︶﹁知の実践性と道徳
茨 城 大 学 人 文 学 部 紀 要 ﹃人 文 コ ミ ュニ ケ ーシ ョン 学 科 論 集﹄
︵ ︶ ﹁アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について﹂
から始まった可能性もある。
六巻 757E1
の epieikes
と sungnōmon
は ア リ ス ト テ レ ス の ﹁人 に 内 在 す る ロ ゴ ス に よ
る救済﹂以前の﹁情状﹂にすぎず、否認される︶のプラトンに対する内部の異論
0
︵ ︶ エピエイケイア論は、すぐれた法の制定に向かう﹃政治家﹄と﹃法律﹄第九巻︵第
二章参照。
︵ ︶ この二章について詳しくは、﹃アリストテレス哲学における人間理解の研究﹄ 第
82
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二七