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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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アリストテレス倫理学における「共同性」と「観想の優
位」の関連について
渡辺, 邦夫
茨城大学人文学部紀要. 人文コミュニケーション学科論集
, 15: 280-308
2013-09
http://hdl.handle.net/10109/4588
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308
︶ の議論
ēthikai aretai
︶ 活 動 を 通 じ た ﹁知 恵
theōria
︶﹂ の発揮をその上に置いたので、 かれの﹁幸福﹂ は人柄に
sophia
を ず っと や って き た 延 長 上 で 観 想 ︵
や 正 義 や 節 制 や 正 直 な ど 人 柄 に か か わ る 徳︵
る も の で あ る。 ひ と つ の 立 場 か ら す れ ば ア リ ス ト テ レ ス は、 勇 気
観点における﹁﹁観想﹂ の﹁実践﹂ に対する優位﹂ の評価にかかわ
章において述べられる全巻の結論としての、﹁完全な幸福﹂ という
﹃ニ コ マ コ ス 倫 理 学﹄ 解 釈 最 大 の 謎 の ひ と つ は、 第 十 巻 第 六 ∼八
渡
辺
邦
夫
アリストテレス倫理学における
「共同性」と「観想の優位」の関連について
Abstract
Michael Pakaluk formulated a problem for the main claims of
Nicomachean Ethics according to which in his search of happiness Aristotle
was inconsistent in first pointing to the direction of the Collection of virtues
︵
﹁包括説﹂︶。 これと対立するもうひとつ
‘inclusive view’
かかわる徳の十全な発揮を包括する、ないし本質的条件とするもの
で あ った ︵
の解釈では、どんなによい実践を一生の間積み重ねても観想の与え
︵
︶
﹁優越説﹂︶。本稿では、
‘dominant view’
る﹁完全な幸福﹂は得られず、観想こそ幸福への独自の特権的ルー
トであるとするものである︵
© 2013 茨城大学人文学部(人文学部紀要)
and then concluding the ultimate correctness of the Selection of one virtue,
wisdom, as relevant to the problem of complete happiness. In this paper,
it is argued that Aristotle was highly sophisticated in his ʻCollectionʼ and
that, for a participant of his lecture, a realization of this Collection was the
ground from which the participant had to enter either the community of
philosophical contemplation or that of practice or ʻreal politicsʼ, so that his
﹁包 括 説﹂ 対 ﹁優 越 説﹂ で 包 括 説 的 直 観 を 活 か そ う と し た 諸 提 案 の
同意を前提した上で、優越説に立脚する二〇〇五年のパカラックの
arguments in NE were free from inconsistency.
Keywords
一
トテレス﹃ニコマコス倫理学﹄入門﹄と訳せる表題からも分かると
一般書で用いられる表現を手がかりに話を進めてみたい。﹃アリス
ア人リ
スー
倫シ
理ョ学
﹁十
共五
同号性
﹃
文ス
コト
ミテ
ュレ
ニケ
ンに
学お
科け
論る
集﹄
、﹂
一と﹁
二
九想
頁の優位﹂の関連について
-観
virtues, friendship
Nicomachean Ethics, theōria, ʻSelection and Collectionʼ, community,
挫折を経て、第十巻の観想論は優越説に有利であるとのおおむねの
1
307
渡辺
邦夫
二
も、﹁集積﹂ に関係させていると解釈できる。 これは、 今の一回の
︵ ︶
おり専門知識を要求しない入門書だが、著者はアリストテレス有力
︶
︶﹂ を 射 る よ う に 見 通 す と い う 比 喩 が あ
skopos
行為を選び取るために自分の究極目的としての幸福から当該選択ま
︵
で を、 正 し い ﹁的 ︵
0
0
0
0
ることによる。この﹁標的﹂ないし﹁ゴール﹂は、アリストテレス
0
対 立 に 相 当 し て 倫 理 学 内 部 に さ し あ た り 含 ま れ る 二 要 因 を、 相 互
0
の見解によれば、知恵の徳を発揮する観想的生活である。思慮深さ
0
VI 13,
︶。 このようなもろもろの徳が、 知性的徳
1145a6-11; cf.12, 1144a7-9
パカラックによれば、他方で第十巻第六∼八章の幸福論の結論に
も人柄にかかわる徳もみな、それぞれの適切な位置において相携え
0
︶﹂がすでに、
energeia
に
(Selection)
︶でいう﹁活動︵
1098a16-17
傾き、ほかの諸徳を排する形で知恵の徳の活動を︵完全な︶幸福と
0
0
0
0
0
おけるアリストテレスは、はっきりと知恵の活動としての観想活動
0
﹁何 ら か の 単 一 種 類 の 活 動﹂ な の か ︵セ レ ク シ ョン︶ そ れ と も ﹁す
0
こそ単一種類で幸福を約束するものであるとする一方、実践や実践
0
べてのそのような活動﹂なのか︵コレクション︶が問題となるもの
0
0
0
0
このように、コ
―
的知性の徳に基づく生活をたんに﹁次善のもの﹂とみなして、明確
︵ ︶
な選抜・セレクションを結論として提出する。
0
0
0
0
0
0
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0
0
レクションの方向の議論とセレクションの方向の議論が、調停など
パカラック自身は、アリストテレスに矛盾を語らせることを避け
0
とで、 或る種の﹁集積・ コレクション﹂ の形を示す。﹁諸徳兼備﹂
︶
あり得ないような形でアリストテレスの論述の別々の文脈に登場し
に近い有徳の人が出現することも自然である。また、それだけでな
︶
るように、第十巻の章分けにこだわらない自分の読みをのちに新仮
7
︵
く、このような﹁集積﹂が思慮深さの徳までにとどまるというよう
︶
説として提案する。これも、二次的な意味では考慮に値するアイデ
︵
に限定する理由も存在しない。パカラックによればアリストテレス
アだが、本稿で問題にしたいのはパカラックが最初に示した、アリ
5
は、もうひとつの重要な知性的徳である知恵という理論知性の徳を
︵
は、実践にかかわる知性の優秀性をひとつのゆるやかな統合のポイ
ているというのが、かれの説明である。
人 柄 に か か わ る 諸 徳 は 思 慮 深 さ︵
3
ントとして考えるなら可能なことであり、多くの場合、現実にそれ
︶ という知性的な徳のも
phronēsis
であった。その上で以後のアリストテレスの論述を追えば、まず、
0
づく魂の活動﹂
︵
てひとつへと集積の姿をみせてゆく。
つ、 そ の 徳 に か な った 行 動 を ね ら って い な け れ ば な ら な い ︵
0
に 不 安 定 な 関 係 に 立 つ 二 タ イ プ の 明 白 な 主 張 と 捉 え る。 か れ の 言
0
も人柄にかかわる諸徳も、そろって哲学的観想の生活が可能となる
0
い 方 で は、﹃ニ コ マ コ ス 倫 理 学﹄ に お い て、 一 方 で ア リ ス ト テ レ
0
ように、そのように弓の標的を知恵の生のところに明確に設定しつ
0
0
︶ を 目 指 し た 議 論 を お こ な い、 他 方 で 第 十 巻 第 六 ∼九 章
Collection
0
4
考えた。かれによれば、第一巻第七章における幸福の定義﹁徳に基
の 結 論 部 分 に 至 る と、 完 全 な 幸 福 を 約 束 す る 徳 の 選 抜
︵
スは第一巻から第十巻第五章までは諸徳の集積ないし統合の方向
パ カ ラ ック は、﹁包 括 説﹂・﹁優 越 説﹂ の 従 来 二 解 釈 上 の 立 場 の
研究者であり同書は良書である。
2
6
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こでのかれの主張は﹁セレクション﹂とパカラックが呼ぶ方向のも
0
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0
ストテレスのテキストに含まれる︵とかれがみる︶あからさまな矛
0
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0
のに一義的に定まっており、この点の曖昧さは存在しない。一方、
0
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0
0
盾の方である。なぜなら、もしもパカラックのいう﹁アリストテレ
0
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0
幸福を約束する﹁徳﹂一般にかんするアリストテレスの徳論のほう
0
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0
0
0
ス倫理学の問題﹂が、かれの言うとおりの仕方で問題であるなら、
0
0
0
0
は、私見では日常的言説との、日常討議レベルにおける対話という
0
0
0
0
そのことだけでアリストテレス倫理を現代人が問題にすることの意
0
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0
局面からは一歩引いた、エリートたち︵そのなかに研究の道に進む
0
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0
0
義が薄れてしまうからである。パカラックの指摘は、従来の﹁包括
0
0
者も出てくるだろうし、政治やほかの実務の道を歩む者も出てくる
0
0
説﹂対﹁優越説﹂の対立構造の根底にありながら見過ごされ続けて
0
0
だろう︶との共同的探究の形を取っている。第二∼六巻のアリスト
0
0
きた隠れた根本問題の、史上初めての勇気ある暴露をおこなう内部
0
0
0
テレスの徳にかんする議論は全体として、かれら優秀者への配慮に
0
0
0
告発というように解しうる、とわたしは考える。そして、この対立
0
0
基づく、学問的精神に根ざす﹁教育・鍛錬の局面﹂において構成さ
0
を前提して第十巻第六章以下を素直に読めば、﹁優越説﹂ しか採用
0
れ、遂行されている。したがってここの基調となる、徳の集積の形
0
で き な い よ う に 思 え る の だ が、 し か し、 パ カ ラ ック の 指 摘 に よ れ
0
を示す﹁コレクション﹂の方向は、そのような将来の自分の具体的
0
ば、これこそまさに、アリストテレスの第一巻から第十巻第五章ま
0
な道はともあれ、自分を磨いて幸福を目指すべき全員への指針を与
0
0
での論述を台無しにする、倫理学論考の自殺行為にほかならないの
0
0
えるという意味において、絶対的で普遍的な正しさを持っていると
0
0
0
こうであるとするなら、二つの説の同一平面上の対立
―
0
である。
0
0
アリストテレスが自負していたものであると思われる。他方第十巻
0
0
というその事態をあらかじめ避けるようにテキスト全体を読み直す
0
0
の観想論は、独立の材料を基に、今後、否応なく政治の道と研究の
0
0
ということが、唯一の抜け道であろう。わたしが本稿で追求するの
道に分かれて行かざるを得ない受講者たちに、二つのうち比較して
0
0
は、この路線である。
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0
0
三
以上が、本稿の解釈で論ずる概略であ
―
0
上位なのは研究の道であることを、解き明かそうとするという趣旨
0
以下の考察でわたしは、 この問題を、﹁矛盾はいっさいない﹂ と
0
を担っている。したがって、コレクションとセレクションは矛盾し
0
正面から答える形で解決する。 そして、 それと同時に、﹁包括説﹂
0
ないばかりか、コレクションあってのセレクションという意味にお
0
対﹁優越説﹂ の解釈対立の根底にある、﹃ニコマコス倫理学﹄ 中の
0
いて首尾一貫している。
0
諸議論の整理図式に代わる、新しい仮説を提出したい。私見では、
0
る。
0
第一巻第一∼十二章は幸福論序説のような形でもろもろの日常的な
言説にもじかに対峙する議論であり、同じレベルの日常的でワイル
ドな局面へと第十巻第六∼八章でアリストテレスは戻ってゆく。こ
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
305
渡辺
邦夫
一
「セレクションとコレクションの問題」への
第一次的接近
パカラックは第十巻第七章のつぎの章句におけるアリストテレス
︵ ︶
四
決着済みとの態度表明は、ここでまったく新たになされているもの
0
0
0
である︶。つまり、セレクションのほうへの傾倒があまりに明確で、
0
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0
しかもそのような傾倒がここで急に表明されてしまうため、最初か
らコレクションの可能性などなかったという理不尽な含みを読み取
らざるを得ないというのである。さらに、これが非常に奇妙に思え
もし幸福が徳に基づく活動であるなら、最高の徳に基づく活動で
での︶アリストテレスは、コレクションかセレクションかという問
点までの︵つまり、この書の九十数パーセントの紙幅を占める議論
の議論が謎だという。
あることが理にかなっている。そして、その最高の徳とは、もっ
題に対していっさい明示的な解答を与えていなかったばかりか、力
るもうひとつの理由は、第一巻から第十巻第五章の快楽論の終了時
︶ 徳 で あ ろ う。 そ こ で、 自 然 本 性 に
tou aristou
点はむしろ明らかにコレクション側に、すなわち幸福がもろもろの
︶ で あ ろ う が、 ほ か の な に か で あ ろ う が、 ま た こ の も の
nous
と も 善 き も の の︵
基づいて支配して主導し、また美しい事柄ともっとも神的な事柄
種類の徳の集積・統合において成り立つという常識的な方向にあっ
性︵
0
0
0
0
0
このパカラックが提起した問題に、以下で答えたい。かつ答を、
0
がそれ自体としても神的であろうが、われわれのうちにあるもの
0
0
0
0
にも、﹁セレクション﹂ を申し立てる場合にも、 じつはいっさい間
0
し立てとは、アリストテレスは﹁コレクション﹂を申し立てる場合
0
アリストテレスの説がもっともよく救済される方向で、つまりかれ
0
0
0
このものの、
―
0
のなかでは﹁もっとも神的﹂なものであろうが
0
0
︶
1077a12-18
の完全無罪を勝ち取る方向で考えたい。この場合の﹁完全無罪﹂申
0
が観想の活動であることはすでに述べられた。︵
0
0
0
0
違いを犯さなかったという主張である。そして、このような主張は
0
かれがアリストテレスに対して申し立てる苦情は、幸福が最善の活
0
最小限、﹁コレクション﹂ 対﹁セレクション﹂ の対立が、 同一次元
0
動であることがすでに決着済みのことなら、﹃ニコマコス倫理学﹄
の同一観点における﹁矛盾の関係﹂ではないとすることだから、以
0
全篇で幸福が複数の活動からなるという可能性に対し、アリストテ
下の解釈においてわたしは、﹁コレクション﹂ とはアリストテレス
0
レ ス は 態 度 未 決 状 態 で は あ り え な か った は ず だ と い う こ と で あ る
においてどのようなことであったか、また﹁セレクション﹂とはど
9
0
︵た だ し ﹁す で に 述 べ ら れ た﹂ と い う 引 用 最 終 行 の 指 摘 に あ た る 明
︶
のようなことであったかということを、もっぱら自分の責任で解き
︵
確な叙述を、これ以前の箇所にみることはできない。したがって、
0
それに固有な徳に基づく活動が、完全な幸福であろう。この活動
たということである。
について思考をめぐらすと思われるこのもっとも善きものが、理
8
304
明かさなければならない。
さ ら に パ カ ラ ック は、 引 用 後 ろ の ﹁完 全 な 幸 福 ︵
︶
teleia
ん な る 儀 礼 上 の 敬 意 の よ う な も の で、 し た が って ア リ ス ト テ レ ス
は、
﹁セレクション﹂に態度を決した瞬間に、ほんとうは以前の﹁コ
レクションの問題﹂に帰ってくることができなくなってしまってい
︵
︶ と い う 表 現 が 理 解 困 難 だ と い う。﹁完 全 な﹂
a17
︶﹂︵
eudaimonia
て、この問題を含むような幸福の問題への自分の態度決定が結局何
︵ ︶
と 訳 し た 形 容 詞﹁テ レ イ オ ス﹂ は 名 詞﹁テ ロ ス︵目 的・ 完 成・ 終
なのかをまったく示していないとパカラックは結論づける。
0
0
0
問題は深刻である。アリストテレスに﹁立つ瀬﹂がなさすぎるの
0
︶﹂ と 訳 す べ き 語 で あ る。 事 実、﹃ニ コ マ コ ス 倫 理 学﹄ 第
goal-like
︵
0
で、あまりに深刻であるともいえる。そこで、伝統的な解釈が多用
0
一巻で行為の目的の系列からの幸福論においては、そう訳すのがよ
0
してきた言葉に戻って、かりに一回﹁頭を冷やす﹂なら、つぎのよ
0
いとパカラックは解釈する。しかし、この訳し方を上掲引用文に適
0
一般にアリストテレスは、人間を二重の視点からみる見方を持って
反する奇妙な﹁幸福﹂の可能性に、荷担してしまうことになるから
での﹁もっとも善きもの﹂の導入を承けるように、結論部分でこれ
福とする議論の文脈においてアリストテレスは、先に引いた章冒頭
いた。﹃ニコマコス倫理学﹄ 第十巻第七章の観想の活動を完全な幸
である。ただし、パカラックも補足するように、アリストテレスは
の導入に伴い二重化する人間への視点を、﹁死すべきもの﹂ ないし
測する。そしてこの訳語の問題全体を振り返って、第一巻で、幸福
︶﹂ くらいになるだろうとパカラックは推
complete
素のどれひとつも、不完全ではないからである。その一方でこの
なるだろう。なぜなら こ[ の場合には 、] 幸福を構成するような要
程度に長い人生を得る場合には、人間の完全な幸福であることに
ゆえに、これ 理[ 性の活動 は] 、その活動が完結しているといえる
の区別として呈示する。
じ つ は 第 十 巻 で は、 知 恵 の 徳 に 基 づ く こ こ の ﹁完 全 な 幸 福﹂ を、
︶ と の 対 比 で 用 い て い る。
X 8, 1178a9
﹁人 間 並 み﹂ の 視 点 と、 理 性 に 着 目 し た 不 死 の 神 と の 連 続 性 の 視 点
︶﹂︵
eudaimonia deuterōs
︶である︵それだけで、もう、
I 7, 1097b14
らず、﹁完全な︵
十分である︶としたときの議論の観点とは、まるでずれてしまって
ような人生は、人間並みの人生よりもすぐれている。なぜなら、
であるならば﹁自足的﹂
︵
いるとコメントする。また、かれの苦情は最終的に﹁第二次的な幸
人がこのような人生を送ることになるのは、人間であるかぎりに
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
五
福﹂にも向かう。このような﹁二次的幸福﹂の使い方は相手へのた
そこで、﹁テレイオス﹂ には以前と別の意味が想定されなければな
福︵
人 柄 に か か わ る 諸 徳 プ ラ ス 思 慮 深 さ の 徳 に 基 づ く ﹁第 二 次 的 な 幸
究極目的という、アリストテレスとわれわれのふつうの幸福理解に
幸福が﹁﹁目的﹂ 的でない﹂ ことがありうることになり、 人( 生の
うにそこからのさしあたりの対応を述べることができる。第一に、
11
用することは不可能であるとかれはいう。なぜなら、その場合には
)
局︶﹂ と 同 根 の 派 生 語 で、 こ の 派 生 関 係 か ら す れ ば﹁﹁目 的﹂ 的 な
10
303
渡辺
邦夫
おいてではなく、かれの内部に神的ななにかが属しているかぎり
のことである。しかるに、そのなにかが 形[ 相と質料の 合] 成物と
でもあることになる。︵
0
︶
X 7, 1177b24-1178a8
六
0
少なくとも、さしあたり
―
人間的存在にかかわるアリストテレス的区
―
0
この結論部分を読むと、パカラック流の問題意識も分からないでも
0
0
0
異なるその分だけ、それの活動も、 理[ 性の徳の知恵以外の ほ] か
0
0
0
ないが、他面ではかれのように問題を︵アリストテレス内部の矛盾
0
0
の徳に基づく活動とは、異なる。ゆえに、理性が人間との関係に
0
ほかの点はともあれ
0
に即座に至るように︶定式化するのは
こんな勧告をする
―
おいて神的であるなら、理性に基づく生活もまた、人間並みの生
活との関係において神的なのである。一方
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0
0
0
別の導入という事態の重大性を、まったく顧慮していない態度だと
0
0
0
0
﹁人間なのだから人間的な事柄に考えを
―
人々もいるけれども
0
0
0
感じられる。なぜなら、この第十巻第七章以前では、死すべき者︵あ
0
めぐらす﹂ とか、﹁死すべき者なのだから死すべき者の事柄に考
0
0
るいは、たんに﹁人間並み﹂であるような人間︶としての善ないし
0
0
えをめぐらす﹂とかのことを、為すべきではないのである。むし
幸福という言い方は、一回も登場していないからである。したがっ
0
0
ろ、できるかぎり不死にあやかり、自分のうちのもっともすぐれ
て観想論以前の、第十巻第五章までの議論が、全体としてそのよう
0
0
た部分に従って生きるべく、ありとあらゆることを為すべきであ
な二次的でより劣った次元の人間論ないし幸福論であるという明示
0
0
0
︶
0
る。 な ぜ な ら こ の 部 分 は、 た と え 量 の 点 で は わ ず か で あ る に せ
0
ように思われる。
0
的な証拠は、どこにもないのである。アリストテレスの議論の表面
0
︶ を選び
ton hautou bion
0
よ、その能力と尊さの点では、すべての部分をはるかに凌駕して
0
0
的な粗雑さを嘆く前に、問題の﹁区別﹂が導入されるということは
0
0
︶ で あ り、
kurion
0
い る か ら で あ る。 そ し て、 こ の 部 分 は 主 宰 的 ︵
いったいどのようなことかという観点の議論が、一回は必要である
0
0
よりすぐれている以上、この部分こそ各人であるとさえ思えるこ
0
と だ ろ う。 し た が って、 自 己 自 身 の 生 ︵
0
第二に、この点で第十巻第七章末尾の引用箇所に﹃ニコマコス倫
0
取らないでなにか自分以外のものの生を選び取るなら、それは滑
理学﹄ 内部で直接の関連性を持つのは、﹁理性が各人である﹂ と全
0
稽なことであろう。そして、以前語られたことは、今もまたうま
巻ではじめて論じた、第九巻のフィリア︵愛、友愛︶論の二箇所で
︶
ho epieikēs
︵
く調子が合う。それぞれのものに自然本性的に固有のものが、そ
あ る。 第 一 の 箇 所 は 第 九 巻 第 四 章 で あ り、 高 潔 な 人 ︵
0
︶
eudaimonestatos
0
れぞれのものにとってもっともすぐれていて、もっとも快いので
0
の場合には自己への愛から他者への愛が派生するという論点のため
0
ある。ゆえに、理性がもっともすぐれて人間であるなら、人間に
に、つぎのようにいわれるくだりである。
0
と って も ま た、 理 性 に 基 づ く 生 が そ の よ う な も の で あ る。 し た
が って、 そ の よ う に し て 人 間 は も っと も 幸 福 ︵
12
302
なぜなら高潔な人は、自己自身と意見が一致しており、同一の事
柄を魂全体において欲求する。しかも自己自身に、善と善にあら
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ようなくだりである。
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・・・なぜなら、或る人がなによりもまず正義であること、もし
0
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われるものを、しかも自分自身のために︵というのも、思考する
0
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くは節制あること、もしくはほかの諸徳にかなったことを為すこ
0
0
︶ そ の よ う に 願 望 し、 為 す
tou dianoētikou kharin
0
部 分 の た め に︵
0
とに自らいつでも熱心である場合、また一般に、美しい行ないを
0
のであり、思考するこの部分こそ各人であると思われるからであ
いつでも自己の財として保つ場合、だれもこの人を﹁自己愛者﹂
0
る︶願望し、かつ為す︵というのも、善を涵養しておこなうこと
とは呼ばないであろうし、非難もしないからである。
0
が、善き人の為すことであるから︶からである。他方また高潔な
0
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0
0
0
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し か し、 こ の よ う な 人 こ そ、 自 己 を 愛 す る 者 で あ る と も 思 え
0
人は、みずからが、とりわけ、それにより自分が思慮をめぐらす
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heautou tōi
る の で あ る。 じ っさ い、 か れ は 自 ら に、 も っと も 美 し く、 も っ
0
と も 善 き こ と を 帰 し、 自 ら の も っと も 主 宰 的 な 部 分 ︵
0
︶が、生きることと、安全に保たれること
touto hōi phronei
もの︵
を願望するのである。なぜなら、すぐれた人にとって存在するこ
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︶ が 各 人 で あ る か、 あ る い は そ
to nooun
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︶ が支配するか否か
nous
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るのである。また人々は、自ら分別を伴うことを為したときに、
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により語られる。すなわち、理性が各人であるとしてそう語られ
0
抑 制 あ る 者 と 無 抑 制 な 者 と は、 理 性 ︵
0
︶ を 満 足 さ せ、 す べ て に わ た って こ の 部 分 に 従 う の で あ
kuriōtatōi
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とは善いことであり、各人は自己自身にとって善いことを願望す
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るから。そして、国家もほかのいかなる複合組織体も、なにより
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るが、自分以外の者になってまでありとあらゆるものを持つこと
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も ま ず も っと も 主 宰 的 な 部 分 で あ る が、 人 間 も こ れ と 同 様 で あ
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を選び取る人など、だれもいないのであり︵なぜなら神は現状で
0
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る。 し た が って、 こ の 部 分 を 愛 好 し て こ れ を 満 足 さ せ る 人 は、
0
0
も善を持っているから︶、 自分が現にそのようななにかであると
0
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もっともすぐれて﹁自己愛者﹂でもある。
0
0
いう本質を保ったままでの、そのような善いことを願望する。し
0
か る に、 思 考 す る も の ︵
0
︶
IX 4, 1166a13-23
うでなくとも、もっともすぐれて各人であると思われるだろうか
らである。︵
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もっともすぐれて本意から為したと思われている。ゆえに、この
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ものが各人である、あるいはそうでなくとも、もっともすぐれて
0
第二の箇所は、この第四章で予告的に、あるいはかりに輪郭的に
各人であること、そして、すぐれた人はなによりもまずこれを愛
0
言われた﹁自己の本体にかんし、それが︵人柄にかかわる徳におい
好していることは、明らかである。したがってこの人は、もっと
0
てすぐれた人の場合にはとくに︶、 理性的な思考の機能ではないか
も強く﹁自己を愛する者﹂であるだろう。ただし、非難される自
七
との推測﹂の、より本格的な展開を試みる、第九巻第八章のつぎの
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
301
渡辺
邦夫
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八
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各人と同等視する観点は、それ以前にはこの二箇所であり、かつこ
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己愛者とは異なる種類における﹁自己愛者﹂なのであり、ここに
の二箇所のみであることが注意を引く。これは、フィリア論が﹃ニ
0
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は、分別に従って生きることが感情に従って生きることと異なる
コマコス倫理学﹄の結論のために、最重要の役割を果たしていたと
0
0
ほどに、また美しい行ないを欲求するか、益になるとみえるもの
いうことを示唆する。かつ、フィリア論内部の当該論点の提出は、
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を欲求するかで異なるほどに、大きな違いがあるのである。
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人柄にかかわる徳の学びの質に連動して﹁各人と理性との同一性﹂
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すべての人が、美しい行為に際立って熱心である人々を、是認
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が意義をがらりと変えるという論点を含む。抑制のない﹁意志の弱
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し、称賛する。そして、もし全員が美に向けて競い合い、もっと
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い人﹂ならば、本人が﹁理性と一致﹂しているという主張ないし記
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も美しいことどもを為すべく努めるならば、公には為されるべき
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述を、言い方としては認めたとしても、実態上はあまりに重大な反
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ことがすべて為されるだろうし、各個人に固有には、もろもろの
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例を含んでしまうと言うしかない。まして、はっきりと悪や反社会
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善のうち最大のものがそなわるであろう。徳とは、そのようなも
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性への傾向を持つ﹁放埒な人間﹂や﹁不正な人間﹂となれば、当人
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の で あ る か ら で あ る。 し た が って、 善 き 人 は 自 己 愛 者 で あ る が
0
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がその類型に属するというその事実において﹁理性との一致﹂に明
0
︵な ぜ な ら か れ は、 美 し い こ と を 為 す こ と に よ り 自 ら 益 を 得 る と
白に足りないがゆえに、ここでは通用する言い回しにおいてさえ、
であると思われている。
0
ともに、 他者のためになるだろうからである︶、 悪人はそうでな
﹁反 理 性﹂ な い し ﹁没 理 性﹂ の 生 活 を 送 って い る と す る の が、 正 確
したがって、以上述べてきた仕方で自己愛者であるべきで
―
いのでなければならない。︵中略︶
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もしこのポイントが第十巻第七章の﹁観想の優位﹂の論点をも背
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あり、多数者がそれであるような[利己的な]仕方で自己愛者で
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が執筆されたとするなら、幼少の頃から人柄にかかわる徳の学びに
九巻の議論が正しく、かつ既出のその議論を見据えて第十巻第七章
きな見落としの上に描かれたものということになる。なぜなら、第
0
た﹁包括説﹂と﹁優越説﹂の単純な対立という構図は、もともと大
0
後から支えていたのであれば、解釈者たちが一致して自明視してき
般 に と って の、 人 柄 に か か わ る 諸 徳 を 積 ん だ ﹁す ぐ れ た 人 ︵
ア リ ス ト テ レ ス は 第 九 巻 第 四 章 で 予 兆 を 示 し た、﹁愛﹂ の 現 象 一
あるべきではない︵
︶
IX 8, 1168b25-1169b2
ho
ho
熱心であり、それだけでなく学びの結果大きな成果をも挙げること
︶﹂ ないし﹁善き人︵
ho epieikēs
︶﹂ の 自 己 愛 の 根 源 性 の 論 点 を、 こ の 第 八 章 で 再 論 し て い
agathos
は、﹁人間並みの﹂ 事実や﹁死すべきものとして可能な﹂ いわば二
︶﹂ ないし﹁高潔な人︵
spoudaios
る。その議論の鍵が、理性を﹁各人﹂と見立てる見方である。本稿
︶
級品的な完成といった評価がふさわしいものでは、ないことになる
︵
ではここの議論の逐語的解釈はできないが、第十巻第七章の理性を
13
300
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徳の起源、定義、分類︵第一巻第十三章、第二巻︶
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からである。そのような学びを経ないならば、理性と自己の一致と
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徳と行為のあいだに成り立つ関係︵第三巻第一∼五章︶
0
いう事態は、十全な意味では語りえないということが明らかに主張
0
もろもろの徳︵第三巻第六章∼第六巻第十三章︶
0
されていた。かりにその学びと達成だけのことなら人間並みもしく
0
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脇道の話題︵
︶
Side Topics
観、知恵・・︵第六巻第一∼十一章︶
B
思考にかかわる諸徳
論 証 知、 技 術、 思 慮 深 さ、 直
第六章∼第五巻第十一章︶
A
人柄にかかわる諸徳
勇気、節制・・・正義︵第三巻
0
は死すべきものとしての優秀性であるにせよ、このような勇気や節
0
制や正義の学びを経た者のみが、より高次な、観想に根ざし神に似
た完成への﹁厳しい予選﹂を通過したという解釈が、第十巻第七章
への応用を考えたときの第九巻第四章と第八章には自然である。
注意すべきはこの論点が、解釈パターンとして﹁包括説﹂と﹁優
0
越説﹂の対立を最初に是認しておいて、その後その是認の上で、今
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自己統御と自己統御のなさ︵第七巻第一∼十章︶
0
は支持されない包括説を復活させようという意味の主張ではないと
0
肉体的快楽︵第七巻第十一∼十四章︶
0
いうことである。私見では、むしろこれは、そのような対立自体が
0
フィリア・友愛︵第八巻第一章∼第九巻第十二章︶
0
無効であるという主張につながらなければならない点である。パカ
快楽一般︵第十巻第一∼五章︶
九
たるメインストリートの重要コーナーである。そこで節を改め、こ
では、フィリア論は倫理学の﹁脇道﹂や﹁横道﹂などではなく、堂々
るものである。わたしは、この点で異なる意見を持っている。私見
はパカラックだけでなく、有力解釈者が暗黙裡に一致してとってい
的影響を与えるとは考え得ないことになる。そしてこのような前提
て、この議論整理からは、本線に属する第十巻第七章の議論に本質
この図ではフィリア論はあくまで﹁脇道﹂の議論のひとつであっ
幸福再考︵第十巻第六∼八章︶
ラックやほかの解釈者が、解釈対立とこれまでの解釈論争の深層に
おける無効をいう、 この態度に向かわないのは、﹃ニコマコス倫理
学﹄全巻のマクロな議論構成にかんする、昔から広く承認されてき
た前提によることであるように思われる。例として、パカラック自
身が二〇〇五年の﹃入門﹄で示す構成の図式を示せば、つぎのよう
︵ ︶
)
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
諸徳と、徳の特徴的行為
探究の規準と領域 第( 一巻第一∼十二章
人間生活の究極目的
なものである。
14
299
渡辺
邦夫
の点を次節で説明して、従来の解釈とそもそも明確に異なる立脚点
を探ることにする。その立脚点に立つとき、そしてそのときはじめ
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一〇
①
第一巻第七章では、セレクションかコレクションかは未決の
問題であった。
②
これに対し第十巻第六∼八章、ことに第七章でセレクション
0
て、われわれは﹁包括説﹂対﹁優越説﹂の対立を描くスケッチ自体
0
に決定ということが、何の実質的議論も伴わずにいきなり宣
0
ということを、重大な解釈問題であると考えていた。わたしは、①
言されてしまった。
が、いかに非アリストテレス的な前提を内蔵していたかを見抜くこ
とができると思う。
二
第一巻と第十巻の精確な対応関係と、
に味方するテキスト上の証拠は存在しないと思う。つまりアリスト
アリストテレス倫理学書の議論の分節と大きな流れを新鮮な視点
しか予告していない。複数の徳が協力しあう、集積するという﹁コ
く活動がある場合に最善でもっとも完全な活動を挙げるということ
フィリア論の第十巻観想論への関連性
から追うということは、大きな仮説を立てるということである。た
レクション﹂のメッセージがここで語られているということはない
テレスは、﹁セレクション﹂ の側の主張に属する、 複数の徳に基づ
だしわたしは、通用している構成仮説の一定部分には、もちろん賛
と考える
されたとき、ここの議論と、同書最終議論の第十巻第六∼八章の議
て、 幸福のはじめの議論が﹁目的﹂﹁究極目的﹂ をキーワードにな
と定めているので、これらを︹みな︺美しく立派に為し遂げるこ
を或る種の生と定め、それを、分別を伴った魂の活動および行為
・・・ このようだとしてみよう。︹そしてわれわれは人間の働き
いて、
確認するなら、第一巻第七章の人間的善もしくは幸福の定義にお
成している。そこで、従来の説明では不十分であると考える一部の
点を、従来どおりでよいと思われる多くの点から分け、異説を出す
部分に集中して、議論を進める。
論が同水準の議論になっていることは、明らかであるように思われ
とはすぐれた人に属し、それぞれがなにかを立派に為し遂げるこ
第一に、﹃ニコマコス倫理学﹄ 冒頭の第一巻第一∼十二章におい
る。 こ れ は、 パ カ ラ ック の 話 の 出 発 点 の 位 置 を 占 め て い た こ と だ
と は そ の 固 有 の 卓 越 性 に 基 づ い て の こ と で あ る と し て み よ う。
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もし以上のようだとすると︺人間にとっての善とは、徳に基
―
が、 われわれもここから出発しよう。 ただしパカラックは、﹁セレ
クションとコレクションの問題﹂にかんし、
づ く 魂 の 活 動 と な る。 そ し て、 も し 徳 が 二 つ 以 上 だ と し た ら、
298
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る︵諸︶活動本体へという自然な議論の流れにおいて、第六章冒頭
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もっとも善く、かつもっとも完全な徳に基づく魂の活動が人間に
0
部分では、
0
とっての善となる。 ただしさらに、︿完全な生において﹀ という
以上でわれわれは、徳と愛と快楽にかんする事柄を語ったことに
条件も付け加えなければならない。というのも、一羽のツバメが
春をもたらすのではないし、一日で春になるのでもないように、
︶
X 6, 1176a30-32
ることである。なぜなら、われわれは幸福を、人間が営むもろも
なる。したがって残る課題は、幸福にかんする概略を詳しく論じ
︶
I 7, 1168a12-20
一日や僅かな時間が至福や幸福をつくり出すのではないからであ
る。︵
ろの事柄の目的と定めているからである。︵
というように、第一巻の幸福論で残った﹁宿題﹂にいよいよ取り組
というように徳の単数・複数に応じて、複数の徳の時にはなかでベ
ストの徳の活動を挙げるという考察の手順が予告されていたのであ
むことを宣言していると思われる。この点は、第六章のここに続く
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の も の が 再 度 登 場 す る こ と︵
︶、 活
1176a35-b7
︶ か ら も 明 ら か で あ る。 そ う で あ
b7-8
動が﹁徳に基づくもの﹂であるという第一巻第七章の定義の文面そ
定 義 の 基 調 が ﹁自 足 性﹂ 条 件 と と も に 再 現 さ れ ︵
論述からも、また﹁それ自体で選ばれる活動﹂という第一巻の幸福
る。
0
そして、徳は 当( 然ながら 複) 数であるがゆえに、アリストテレス
0
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は、最終第十巻第六章ではじめの幸福論に戻るに当たり、その前の
0
快楽論の﹁あとがき﹂にあたる第五章末尾の
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るなら、前節末尾に掲げたパカラックの﹃ニコマコス倫理学﹄構成
0
そ れ ゆ え、 完 全 で あ り 至 福 で あ る 人 の 活 動 が ひ と つ で あ る に せ
0
図式中、﹁快楽論一般︵第十巻第一∼五章︶﹂は、ただの﹁脇道の議
0
よ、あるいは複数であるにせよ、その活動を完成する快楽こそ、
論﹂というよりは本線の議論に本質的貢献をするものとして評価し
0
真 正 な 意 味 で 人 間 の 快 楽 で あ る と 言 え る だ ろ う。 一 方、 そ れ 以
楽 に か ん す る 事 柄︵
︶﹂
tōn peri tas aretas te kai philias kai hēdonas
こ と は、 快 楽 論 の 位 置 づ け だ け の 問 題 で も な い。﹁徳 と 愛 と 快
0
直さなければならない。
X 5,
外 の 快 楽 は、 活 動 も そ う で あ る よ う に、 二 次 的 な 意 味 で、 ま た
は る か に 劣 った 仕 方 で、 人 間 の 快 楽 で あ る と 言 わ れ る。︵
︶
1176a26-29
︶ と い う 言 い 方 が こ こ で な さ れ て い る こ と が、 ま ず 注 意 を
a30-31
引 く。 こ の 文 脈 指 示 表 現 は、 第 十 巻 第 一 ∼五 章 の 快 楽 論 の み な ら
︵
において、この帰還を予告していた。そして、この前章の予告を受
0
ず、第八・九巻のフィリア論もまた、徳論全体と並んで、第一巻と
0
一一
け、﹁幸福の感じ﹂ としての快楽という徴候から、 幸福の中身とな
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
297
渡辺
邦夫
0
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0
0
一二
をまったく異にする形相質料具備の人間にも内在することが
0
第十巻第六∼八章でおこなわれる幸福論の本体部分に貢献する重要
現実に可能であり、しかし、同時にたんにそのような薄い可
0
な議論であり、けっして脇道の議論とはみなされていなかったこと
能性だけのことでもなく、
0
を示唆する。
0
③
その﹁善きもの﹂の人間における内在を、正確には、これ以
0
以 後 の 第 十 巻 第 六 章 の 議 論 に お い て は、 こ の ﹁徳﹂ の 活 動 な い
外の要因の内在に劣らず、人間本性の問題として把握しうる
︶、 こ れ が つ ぎ の 第 七 章 の、
b9-1177a11
し ま じ め さ・ 真 剣 さ の 活 動 が 遊 び や 休 息 と 対 比 さ れ て 幸 福 だ と す
る 弁 証 的 議 論 が 構 成 さ れ︵
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IX 4,
1177b24-1178a8
と い う こ と が、 先 に 前 節 で 引 用 し た、 第 七 章 末 尾
0
パ カ ラ ック に よ って 問 題 的 と み な さ れ る 観 想 礼 賛 の 議 論 に 結 び つ
0
の議論の趣旨である。 ここに﹁理性が自己である﹂﹁主宰的な部分
0
︶ は、 人 柄 に か か わ る 徳 の 或 る 程
1166a13-23; IX 8, 1168b15-1169b2
0
を 持 つ。 そ の フ ィリ ア 論 の、 前 節 で 引 用 し た 二 箇 所 の 論 述 ︵
0
く。 そ の 第 十 巻 第 七 章 冒 頭 で は、 第 一 巻 第 七 章 の 先 に 引 用 し た 箇
が 自 己 で あ る﹂ と い う 主 張 の 参 照 先 と し て、 フ ィリ ア 論 が 関 連 性
kata tēn
︶活
kata tēn aristēn kai teleiotatēn
所 が 明 ら か に 意 識 さ れ て お り、 第 一 巻 第 七 章 の ﹁も っと も 善 く、
か つ も っと も 完 全 な 徳 に 基 づ く ︵
︶ が、 ほ ぼ 同 義 の ﹁最 高 の 徳 に 基 づ く ︵
1098a17-18
度十全な修得︵不徳の人間などはむろん問題外であり、それよりは
動﹂︵
︶ で 置 き 換 え ら れ、 こ れ が、 神 の 称 号
1177a12-13
︶活動﹂︵
kratistēn
0
0
0
)
︶ 関係の議論全体を前
phronēsis
ましな習性的に﹁意志の弱い﹂人間でさえ、事実上は﹁予選落ち﹂
0
と も い え る ﹁も っと も 善 き も の ︵
0
0
するような水準の修得︶を条件とする意味で、第一巻第十三章∼第
0
0
︶﹂ のアレテー・ 徳︵卓
ho aristos
0
0
越性︶ であるとされる。﹁もし幸福が徳に基づく活動であるなら、
0
0
五 巻 と、 第 六 巻 の う ち の 思 慮 深 さ ︵
0
0
最高の徳に基づく活動であることが理にかなっている。そして、そ
0
0
提としている。ゆえに、先のパカラックの構成図に代えて、
0
探究の規準と領域 第( 一巻第一∼十二章
人間生活の究極目的
の最高の徳とは、 もっとも善きものの徳であろう﹂。 第十巻で新し
0
いのは、ここで導入される﹁もっとも善きもの﹂というアレテーの
0
担い手のほうから、 そのような担い手に固有の﹁働きの良さ﹂・ ア
レテーとして最善・最高の徳をみるという視角である。その﹁もっ
とも善きもの﹂とは、
幸福論の結論に直接結びつく考察
①
徳論︵第一巻第十三章∼第六巻第十三章︶
0
①
本来は、神の全体的性格を示しつつ、
②
フィリア・友愛︵第八巻第一章∼第九巻第十二章︶
0
②
質料のない形相のみの神とは、経験の始まりと手持ちの資源
296
③
快楽一般︵第十巻第一∼五章︶
幸福再考︵第十巻第六∼八章︶
0
0
が、成熟に至る個人レベルの人柄にかかわる徳の地道な修養である
という論点によって、十分正当化される。しかしながら、以上のこ
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と は、 垂 直 方 向 に 個 の 質 が 絶 対 的 に 向 上 す る ﹁徳 の 話﹂ が、 全 体
として、対人関係の水平軸を形成するフィリアの話に流れ込むよう
0
︵脇道の議論?︶
にと配置されていたであろうということ、そして、愛という主題の
0
0
0
0
﹁学 問﹂ と が 正 規 に 対 話 で き る こ と が 保 障 さ れ た と い う こ と を 示 唆
0
の第一章の問題に帰って日常的な﹁幸福談義﹂とアリストテレスの
議論の完結という事態のもとで、そしてそこではじめて、もともと
0
第七巻
というようにかりの模式図を描くことが適切であると思われる。
﹁徳﹂、﹁愛﹂、﹁快楽﹂ の三題話が幸福論の結論を用意する三つの
哲学の枠組を離れても理解が難しい話ではない。 まず、︵1︶ 徳の
八・九巻の愛の議論と、第十巻の快楽および幸福の議論とのあいだ
つぎに、︵2︶﹃ニコマコス倫理学﹄自体の文脈の問題として、第
0
議論からただちに幸福の議論へという﹁本線の議論﹂を申し立てる
の関係は、愛の議論が最後に﹁宿題﹂として残す問題に、快楽論と
0
パカラック流の構成図式には、主題群の内容からいって直観的反論
観想論の第十巻の議論全体が答えるというものであったと考えられ
している。
があり得る。 徳とその学びの議論は、﹁一個人の修養の話﹂ として
る。なぜなら、愛の議論の最終章である第九巻第十二章には、人間
議論であるということは、アリストテレス哲学内部からも、かれの
おこなわれる。しかし幸福は、現実に︵さまざまな度合と種類の︶
0
が共生をおこなうような存在者として目指すべき、﹁成熟した人間
0
親しい人間をもち、各個人の人称的な関係の世界、今日の言葉でい
同士の共同的活動﹂の内容としての﹁どのような共同活動が幸福を
0
えば個を成り立たせる親密性の領域を問題とする関心のもとで、正
約束するか?﹂という問いが残されていると読めるからである。短
0
式の十全な議論ができるものであろう。アリストテレスも幸福の条
い第十二章全体を訳出すると、つぎのようになる。
恋する人々において、相手を眺めることがもっとも恋しいことで
0
件としての自足性の論点を第一巻第七章で説明するさい、人間がポ
リス的であるということは正しい自足性の成分として考えられる
︶。むろ
1097b8-16
あ り、 こ の 知 覚 に よ り 恋 ︵
べ き で あ る と い う 当 然 の 主 張 を お こ な って い た ︵
ん、このようなアリストテレス式の議論展開は、結局、そのように
る こ と が も っと も よ く 感 じ 取 ら れ る が ゆ え に、 か れ ら は ほ か の
︶ が存在することと生まれつつあ
erōs
人称性と対人関係の話が倫理学講義の最後に近いところに位置して
諸感覚よりもいっそう好んでこの 視[ 覚という 感] 覚を選ぶが、こ
一三
も 大 丈 夫 な よ う に、 そ の よ う な 関 係 を 十 全 な も の に す る 基 礎 自 体
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
295
渡辺
邦夫
れ と 同 様 に 友 人 た ち︵
︶ は ﹁共 同﹂ で
philia
︶ に と って も、 共 生 す る こ と が も っ
philoi
と も 望 ま し い の だ ろ う か?
な ぜ な ら 愛︵
あり、自己に対するように友人にも対しているのである。しかる
に、 自 己 を め ぐ って、 自 己 が 存 在 す る こ と の 知 覚 は 望 ま し い の
で、ゆえに友人をめぐってもそうなのである。しかるに、この知
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ら﹁尊いことは貴人から﹂ともいう。
一四
IX 12, 1171b29-
愛については、このかぎりで語られたこととしよう。快楽につ
い て 論 じ る こ と が、 こ れ に 続 く こ と で あ ろ う。︵
︶
1172a15
ここで﹁人は大人になって、自分と似た親しい人々とともにそれ以
0
︶ は、 共 生 に お い て 生 じ る。 ゆ え に、 こ れ
energeia
0
覚 の 現 実 態︵
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0
後の人生ずっと、何をするか?﹂という問いが理解されており、こ
0
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0
を目指すことはもっともなことである。そして、それぞれの人々
0
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れ に 応 じ て ほ か の 動 物 を 超 え た そ の よ う な 人 間 と し て の ﹁生 の 選
0
0
0
に と って、 存 在 す る こ と が い った い 何 か と い う よ う な、 も し く
び﹂が例示的に話題となっている。これは具体的で個人的で日常的
0
0
は、その人々がそれのために生きることを選ぶような、そういっ
な問いであり、第一巻におけるアリストテレスが、第四章で幸福を
0
0
たもののうちでそれぞれの人々は、友人とともに過ごすことを選
快楽や名誉や徳そのものと分け、徳からの接近を絶対的人生戦略と
0
0
ぶのである。 そのゆえに或る人々は﹁ともに飲み﹂、 或る人々は
して第七・八章で推奨し、降りかかる偶運に対してもこの戦略のほ
0
﹁ともに賭け﹂、 またほかの人々は﹁ともに体操し﹂ たり、﹁とも
うがただ結果を求める世俗の軽はずみな﹁戦略﹂と全然違うまっと
0
に狩猟し﹂たり、
﹁ともに哲学し﹂たりする。それぞれの人々は、
うな道であると第九∼十一章で論じたレベルの、もろもろの﹁生き
0
人の生に属するものごとのなかで、もっとも愛好するものにおい
0
0
る上での素朴な疑問﹂の地点に、戻ってきたということである。ア
0
0
リストテレスによれば、人間の場合の共生は﹁同じところで餌を食
0
て日を過ごすわけである。なぜなら、友人たちと共生することを
︶ の で あ り、 互 い に 言 葉 も 考
IX 9, 1170b13-14
0
願い、これらのことをおこなって、共生したい相手と交際するか
べることではない﹂︵
エネルゲイア
0
らである。それゆえ、劣悪な人々との愛は悪いものになるが︵な
0
︶、 意味があるとともに参加者がその意
b11-12
0
え も 共 有 し な が ら︵
0
ぜ な ら、 劣 悪 な 人 々と 交 わ る と き に 人 は ﹁不 確 か な﹂ 人 間 で あ
味を意識できる重要な活動を、あいだに介在させるような﹁共生﹂
0
り、 かつお互いに似ることにより、 悪い者になるからである︶、
でなければならない。
0
すぐれた人々との愛は、交際によりともに成長を遂げて、すぐれ
受 講 者 と の 関 係 で は、 こ の フ ィリ ア 論 最 終 章 の 議 論 は、 日 常 的
0
たものになる。また、人々は現実活動をおこない、お互いに矯正
な ﹁諸 君 は 今 後、 ど の よ う な 活 動 を 共 有 す る、 い か な る 人 間 関 係
0
し あ う こ と に よ り、 よ り よ い 者 に な る よ う に 思 わ れ る。 な ぜ な
に お い て ﹁人 生 の 自 己 実 現﹂ を 図 り、 自 身 の 幸 福 を 目 指 す か?﹂
0
ら、好む相手であるお互いを﹁模範とする﹂からである。ここか
294
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0
観点を踏まえるときの人間の認知や存在の実情にかんし、だれがど
0
という問いをつきつけるものと言いうる。この問いが登場すること
の角度から検討を加えても動かない基本線を自分は押さえたと思う
0
に よ り、 第 十 巻 の 考 察 全 体 も、 そ の な か で も こ と に 第 六 ∼八 章 に
が、その検討自体はあくまで将来の各世代の最高の頭脳が競ってお
0
おける、﹁幸福を約束するような、 成熟した人間としての活動は何
こなってゆくオープンなものだ、と考えていたのではないかとわた
0
か?﹂という、同次元で実質的に同内容の日常的な問いも、考察の
しは推測する。
フィリア論最終部分を瞥見した以上の材料から、わたしはつぎの
暫定的回答
三
「セレクションとコレクションの問題」への
視野にただちに入ってきたのだと、わたしには思われる。そして、
これらの問い自体が明らかに、方向としてそのような特権的活動の
﹁セ レ ク シ ョン﹂ を 志 向 し て い る。 し か し な が ら、 こ の こ と と 同 時
に、第九巻第十二章のこの問いに至ったアリストテレスのフィリア
論内部の長大な議論自体は、そのような﹁だれでもその考察に十全
に参画できる﹂日常的な次元そのものではないことに、注意が必要
ような仮説を立て、その妥当性を次節で、より以前の徳論にかんし
0
である。引用した第十二章の総括的文章は、たとえば第九巻第九章
て論じたい。すなわち、
0
における人間の﹁存在﹂とその感知にかんする、倫理学的考察中で
︵一︶︵脇道と解される一部の例外を除く︶第一巻第十三章∼第九巻
︶ を 含 ん で い る。 す
esp. 1170a13ff.
なわち、第九章によれば、自己のすぐれた活動の知覚が存在の知覚
第十一章でアリストテレスは、一見日常的にみえる分類や議論の順
も も っと も 難 解 な 議 論 の 成 果 ︵
と存在のよろこびをもたらすものとして人生に必要だが、自己が自
番に工夫を凝らし、読み手や聞き手が﹁自分のことを徹底的に考え
0
己自身を知覚することは実際には困難であり、より容易な自己に似
る﹂ための最短で最高の考察を用意した。この人工的な﹁探究﹂の
0
た隣人の活動の知覚を持ち、それをよろこぶことが人間の幸福には
議論空間において、考察の方向性は各種の﹁徳﹂を種類分けし、適
︵ ︶
必要だ、というのである。これらは﹃デ・アニマ﹄第三巻の共通感
0
切な種類ごとに規定し、かつ前半の人生においてそれらの高度な統
0
覚論や理性論、あるいは﹃形而上学﹄中心巻のエネルゲイア論に連
0
一五
0
合的集積が実現しているべきだと示すというものである。パカラッ
0
なる理論哲学の理解をも要求する程度の超高難度の議論である。ま
0
クの用語で言えば﹁コレクション﹂がこの方向を一言で言い表して
0
た、そのような議論が、完全に確定した結論をすでに持っていて今
0
いる。しかし、かれのこの用語は﹁セレクション﹂と完全に並列さ
0
後の検討の余地がないものとアリストテレスがみなしていた、とい
れるという一点において、﹁コレクション﹂ 以前に予備的になされ
0
うように考える必要はないと思われる。自然︵本性︶一般の理論の
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
15
293
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渡辺
邦夫
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ていた徳の暫定的で方法的な解体ないし分解もまた、アリストテレ
スの独創であったという事実を無視している。 したがって、﹁コレ
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しかし、これだけでなく、
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︶
一六
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0
了の現在まで学び手を導いてきた探究そのものの展開に、認識者・
られたものである。このような工夫の上に立って、第九巻分講義終
が、研究面でも教育面でも教育のプレゼンテーションとしても加え
新 た な 認 識 が 確 立 さ れ、 そ こ に ア リ ス ト テ レ ス 自 身 の 独 創 的 工 夫
シアではソクラテスとプラトンの努力によって多くの側面において
てとり、考えるような長い文化的伝統の上に立つものであり、ギリ
0
能になったということは、ありえない。それは実践とその意味を見
︵
に①のすぐれた実践の上に、いわばトコロテンのように自動的に可
スの第一巻第十三章∼第九巻第十二章の倫理学的言説自体が、たん
そのものに即して成立するということである。事実、アリストテレ
0
いう第十巻第六∼八章の課題設定は、アリストテレス倫理学の構想
0
とも実践の極致である政治的生活がそのような幸福を約束するかと
表現するならこれは、観想が完全で最高の幸福を約束するか、それ
一に、実質的な意味を与えるものであると思われる。言葉をかえて
政治の場面の生を選ぶか、第二の観想の生活を選ぶかという二者択
︵三︶ こ の 二 要 素 の 別 箇 性 は、 そ の 後 の 人 生 に お い て 第 一 の 実 践 と
といえる探究として、してきたのでなければならない。
0
②第二に、学び手は人柄と思慮深さの鍛錬の上で、そうした基礎
0
0
0
クション﹂の真の趣旨を詳しくみるなら、セレクションとのあいだ
0
0
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0
から見えてくる﹁自分と自分の世界のありのままの真実﹂にか
0
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0
0
の内部矛盾や不協和を語ることは無意味であることが理解される。
0
0
0
0
んして﹁考える﹂ことを、アリストテレスとともに﹁学問的﹂
︵二︶ そ し て、 も し こ の ︵一︶ が 正 し け れ ば、 ア リ ス ト テ レ ス の 前
︵
掲箇所に接する人は、アリストテレスによる﹁善き人への学び﹂を
0
自分自身でレッスンのように受けていることになる。この学びにお
0
いて、その学びの渦中ではだれもが同じひとつの過程を経ている。
しかし第九巻第十二章の段階で第一巻の主要な日常の問いが再度つ
きつけられる時点まで、このような﹁学び﹂を事実的に用意する、
0
学ぶ者に内在しなければならない前提条件は、じつは単一種類でな
0
く二種類あると言わなければならない。すなわち、
0
①第一に、全人格的にすぐれた人柄と思慮深さに向け、実践の鍛
0
錬が十分であり、徹底して実践の鍛錬をする心の用意もあると
いう事実がなければ、 学び手は、﹁徳に基づく愛﹂ の至高性を
0
謳うフィリア論の趣旨からも、次節で見るように徳論全体の論
0
調からも分かる、非常にモラリスト的なアリストテレスの倫理
学を、まったく理解できない。
17
す。
こ の 点 を 示 す と 思 わ れ る 基 本 的 な 材 料 を、 わ た し は 次 節 で 示
―
︶
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0
的にすぐれた学問の天才のような人に人格的問題があるというケー
0
観想する者として今後自らも参画するか、それとも実践としての実
スを、アリストテレス自身はこの論脈でそもそもまったく考慮に入
0
践 を 自 ら の 将 来 と 見 定 め て そ の 道 に 生 き る か は、 考 え 得 る な か で
れていなかったと言わなければならない。そして、かれのこのよう
0
もっとも重大な二者択一であると言わなければならない。アリスト
な態度は、もしほんとうだとすれば常識に反すると思われるかもし
0
テレスはこれについて、観想する者の存在論的に絶対的な優位を訴
れ な い。 こ の 点 の 疑 義 を 完 全 に 解 消 す る 材 料 が あ る と は 思 わ な い
0
えて﹃ニコマコス倫理学﹄の筆をおいたように思われる。そして、
が、わたしはつぎの二点の考慮がアリストテレスの態度を理解しや
0
観想する者が優位であるとする議論は、①と②の両方を条件として
す く さ せ る と 考 え る。 ま ず、 ア リ ス ト テ レ ス は 倫 理 学 探 究 の な か
0
ここまでの講義に接してきたまっとうな受講者の将来にかかわって
で﹁観想の優位﹂を説いている。アナクサゴラスのような世間に疎
0
語られる提言という文脈に属している。したがって、この仮説が正
いむかしの﹁知恵のある﹂自然学者の事例は挙げられるが、次節で
0
しければ同時に、つぎのようないくつかの帰結もまた成り立つよう
みるようにアリストテレスがいう倫理にかかわる理論の第一の原理
0
に思われる。
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︵
0
︶
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0
は、道徳的実践の質自体が、そのままこの件の理論的認識の力に反
0
第一に、パカラックのもともとの﹁不信﹂の一部をなしていた、
0
映するというものである。そのような観想が、そしてそれのみが、
0
︶とし、実践を﹁二次的な
X 7, 1017a17
観想活動を﹁完全な幸福﹂︵
0
かれの立ち上げたほかの諸学の観想と一体になる、神のような領域
0
︶ とする第十巻第七・ 八章における差異化は、
X 8, 1178a9
幸福﹂︵
0
0
0
0
0
0
一七
況の隔絶があるからこそ、学問とはそもそもどのようなものかをわ
0
ら関連性を持たない。しかし他面で、まさにそのような時代間の状
0
の活動を、この倫理という件にかんして、講義の受講者との関連に
0
0
文脈的には、むしろ問題のないものであると思われる。
﹁幸福﹂は、
0
0
おいて約束する。 つぎに、﹁観想﹂ はおそらく諸学問自体のまった
0
0
針の穴を通すように人生を正しくまじめに充実して過ごし切るとい
0
0
くの草創期にふさわしいもので、われわれが今日理論活動や学問の
0
︶
う事実の点では幸福として絶対的かつ無差別である。その上で﹁倫
活動と呼ぶものに比べ、全人格がつねに問われる程度に﹁心底骨の
︶
︵
理学的に考えること﹂に暗に含まれていた①と②の二次元のうちで
折れる﹂活動であったと想像される。そこでの﹁観想の人﹂の養成
0
は、どちらの延長線上にあることを今後の人生のおもな活動として
は、後代のわれわれが想像できる以上に、そのような﹁骨折り﹂を
0
今選ぶのかという受講者側の人生の課題に、アリストテレスがおも
続ける哲学的で人格的な力を強調するものであっただろう。このよ
0
に﹁存在﹂の問題の考察という、受講者には新鮮な観点から助言し
うな想像は、一面で今日の多くの専門の学問研究の現場では、なん
︵
ていると解しうる。そして、これは現実の岐路であり、選択は受講
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
20
18
第二に、以上の解釈路線では、しばしば問題とされてきた、理論
者各人にとって、目の前に迫っているものである。
19
291
渡辺
邦夫
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一八
徴を帯びることができる。知恵の活動は、思慮深さや人柄にかか
0
れわれが考える際に役立つ、まれな証言になるとも言いうるように
0
わるもろもろの徳の活動領域を超えており、逆にこれらすべての
0
思われる。
0
0
︵
︶
︶ で な く、 自 ら
kuria
︶。 第 六 巻 第 十 三 章 末 尾 の つ ぎ の
1144a3-5
人間くさい活動が、﹁知恵が幸福を中心的に構成する﹂ というた
0
0
第三に、観想活動にかかわるアリストテレスの神学的なニュアン
0
いへん特殊な意味で幸福を﹁つくる﹂ような、知恵の活動﹁のた
0
スも、徳がどのようなものであり、徳に基づく幸福がどのようであ
0
め﹂ で あ る と い え る ︵
0
るかを理論的に省察し、理論的に共同探究するという営みの質の観
せりふは、第十巻の観想論の基調をも予告するものである。
0
点から或る程度説明できる。次節で詳しくみるように倫理学理論と
し て ア リ ス ト テ レ ス の 徳 論 自 体 が、 フ ィリ ア 論 に お け る の と 同 様
し か し、 思 慮 深 さ は 知 恵 に 対 し て 主 宰 的 ︵
よりすぐれた部分に対しても、主宰的でない。これは、医術が健
0
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0
︶指令している
ekeinēs heneka
0
康に対して主宰的でないのと同じことである。というのも、医術
0
0
α
厳格にモラリスト的であると同時に、
0
0
は健康を使用せず、健康が生まれるようにはからっているのであ
0
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0
0
に、﹃ニ コ マ コ ス 倫 理 学﹄ 第 六 巻 第 十 二 章 の 説 明 に お い て、﹁生
そのような成果は、このような完全に正しい理論を提示できた暁
巻 の ﹁太 陽 の 比 喩﹂ に 描 か れ て い た。 わ れ わ れ が 或 る 対 象 を ﹁知
いうことの、明確でもっとも切実な意味は、プラトン﹃国家﹄第六
めた本格的創造の段階の﹁学問﹂がありのままの 真理を探究すると
﹁観 想﹂ で ア リ ス ト テ レ ス が い う 種 類 の、 混 沌 的 状 況 か ら 脱 し 始
︶
VI 13, 1145a6-11
のであって、健康に対してなにごとかを指令しているというわけ
0
とき、アリストテレスは、この二条件の遵守において自分の理論
0
ではないからである。さらに、思慮深さが主宰的だなどと言うの
0
が、学問の﹁真理への忠実さ﹂の規範に、模範的にかなうもので
0
は、人が、政治学がポリスのなかのすべてを指令するからといっ
0
あると考えていただろう。このような理論を考案し検討してゆく
0
て、政治学は神々をも支配すると主張するのと同じようなことな
0
こ と 自 体 は、 た だ 清 く 正 し く 生 き る と い う 事 実 の 問 題 で は な く
0
のである。︵
0
成﹂にそもそも属さないがゆえに、技術や正しく理解されるとき
る﹂という場合、われわれに知る者という性格を与えてくれて、対
︶﹁知恵︵
1144a1-3; cf.1143b19-20
0 0 0
︶﹂わけで
poiein
は な い と さ れ た︵
の思慮深さのようには、なにかを﹁つくりだす︵
︶﹂の特
sophia
とつも省かない理論を考え続けた成果という問題である。そして
0
て、そのような生き方の正しさにかんしてひとつも付け足さずひ
0
るから、したがって健康のために︵
β
個別の行為者の実情にかんして徹底してリアリスト的である
に、
21
290
まったく存在も重要性も気づかれない﹁第三の項﹂があるとプラト
象に真理性を与えてくれる、日常経験やそれのたんなる延長上では
のイデアに帰属される﹁存在の原因﹂という特徴から言って、神々
柄の原因そのものについて考察することは、太陽の比喩において善
はない。 さて、﹁知の空間﹂ そのものと、 認識と存在にかかわる事
覚に関連する、ほかの動物と共有する魂の能力が提供できるもので
0
ンは主張する。 これは、﹁見る﹂ という場合に光の介在により対象
の領域にストレートに立ち入ることにほかならない。このような考
0
が視覚に見えて、その光の原因である太陽が適切な﹁第三の項﹂で
察と正しい考察の結果としての﹁知﹂は、ただたんに生活のなかで
0
あることと、類比的である。そして、知の場合に﹁第三の項﹂とい
なんらかの対象を事実的に﹁認識﹂できることとはちがっている。
0
える、認識し・されることの究極原因は善のイデアであるが、善の
そ れ は ﹁観 想﹂ の 趣 旨 ど お り 現 実 を 何 ひ と つ 動 か さ な い 代 わ り、
0
イデアはたんにそれだけのものでもなく、われわれや対象や太陽が
﹁神 々﹂ と の 重 い 関 連 性 を 明 白 に 持 つ と い う 特 徴 が あ る。 こ の 知 の
0
このよう
―
に プ ラ ト ン は 説 明 す る︵
0
︶。アリストテレスはプ
Rep. VI, 306B-309B
探 究 は い わ ば、 世 界 の 最 大 の 秘 密 に 迫 る こ と で あ る と も い え る。
0
ラトン的倫理の多くの部分を受け継ぎながら、善のイデアを立てる
以上のプラトン的な発想を受け継いでアリストテレスの倫理学
―
0
こ と に は、 き っぱ り と 反 対 し た ︵ ︶
I6。 しかしわたしには、 アリス
の叙述自体も、知恵・正義・節制・勇気と並んでギリシアで重視さ
そもそも存在するということの根拠・原因でもある。
トテレス﹃ニコマコス倫理学﹄第六巻と第十巻の神学的章句を解釈
れた﹁敬虔の徳﹂の有無が正面から問われるような、人間のロゴス
︶
するのにもっとも役立つのはプラトンの太陽の比喩であるように思
の精密な体系において﹁神の領域の事情﹂を映し出し、人間のもの
︵
われる。人間的最高善としての幸福を善一般という主題に代えて立
にして代々研究を重ねていくという野心のあらわれである。倫理で
この領域でおこなっていることは、一方でそのような道徳家の系譜
0
てるかれの倫理学において、プラトン的﹁学問﹂の一定要素は無事
いえば、生活実感上﹁天才的に有徳な人物﹂がつぎつぎあらわれ、
太陽がおもに光を提供する空間で、われわれは向こうの対象を、
の 上 に も 立 ち、 他 方 で 同 時 に 道 徳 的 営 為 や 知 性 的 に 優 れ た 営 為 の
0
継続されているように思えるからである。この点の詳しい正当化は
その人物が一生生きて活動したことは、一定の吟味を経るという条
︶
別稿にゆずり、いまは実際に太陽の比喩に関連づけた説明を試みて
件つきで幸福と呼べるものだろうが、プラトンとアリストテレスが
暗さや曇りや邪魔な遮蔽抜きに透明な媒体をとおして見ることがで
﹁原因﹂を組織的に述べ、伝える、﹁神の領域に入り込んだロゴス﹂
︵
みよう。
きる。同様に理想的には、善が学知にかかわる透明性を保証してく
一九
したがって、第十巻第六∼八章において、このような二伝統をひ
の伝統の上にも立っている。
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
ることができる。そのような認識はプラトンの説明では、感覚や感
れる﹁空間﹂ においてわれわれは、﹁対象﹂ をありのままに認識す
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二〇
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﹁人 柄 に か か わ る 徳﹂ と ﹁知 性 的 な 徳﹂ の 徳 の 大 分 類 は、 ア リ ス ト
0
とつに結んだ探究的講義の最後にアリストテレスが、諸君は生き方
0
テレス以前のソクラテスやプラトンの徳論にはみられなかったまっ
0
として二つ選べるがお薦めなのは神々に連なる観想で生を全うする
0
たくの新機軸である。プラトンで徳の説明や議論においてこの二種
0
ことだと主張し、しかるのち政治学講義に向かうことは、けっして
0
類の種類分けが唱えられたわけではない。﹁新機軸﹂ であることの
0
次
―
不自然でも、意味のないことでもなかったように思われる。
0
意味は、さまざまありうる。この局面でわたしが解釈上の主張とし
0
節 で、 徳 論 に 関 す る 補 足 を お こ な って 以 上 の 仮 説 の 強 化 を お こ な
0
て申し立てたいのは、アリストテレスが、ソクラテスやプラトンが
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対話篇で問題にしていたあの諸事実やあの諸問題に、アリストテレ
0
う、ということである。すなわち、ソクラテスが登場するプラトン
単純に誤認していた事実を新たに発見したというわけではないだろ
0
う。
四
徳論の背景にある、叙述以前の「分析」と、
分析方法の特殊性について
0
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0
0
スは自分たち新学派ならばこのような準備のもとでこう接近する、
密に第一巻第十二章までの、幸福論と同水準で同一平面上の議論で
︶︶をめぐる総論的議論が、厳
ēthikai aretai
︶﹂ と区別される
dianoētikai aretai
をめぐる標準的言説を確立する重要な議論を考えてみよう。私見で
して、第二巻第四章において、アリストテレスが人柄にかかわる徳
部分に徳の分類の仕方も属していたということを示すような一例と
問題は共通で、接近方法が新しく、その接近方法の新しさの重要
こう扱うということが新しいのではないかと思われる。
あると言えるだろうか?
従来の解釈ではここも同水準であること
は、第十巻第六∼八章の遠くにあり、素朴な徳論の出発点にしかみ
第一巻第十三章と第二巻に至って、そこでの徳・アレテー︵とく
は自明であると考えられてきた。わたしは、おもにこの点に疑問を
えないこの章の議論こそ、アリストテレスのいう﹁観想﹂の特質と
に 第 二 ∼五 巻 で は ﹁知 性 的 諸 徳 ︵
挟むことから始めて﹁セレクションとコレクションの問題﹂への最
﹁実践﹂の特質をみるための、最良の材料のひとつである。
﹁人柄にかかわる諸徳﹂︵
終的接近と現時点の解答の仕上げをおこないたいと思う。なお、こ
プのために、 その議論を、﹁遠い予感﹂ ないし﹁疑いの兆し﹂ にあ
柄である場合に、或る事柄は﹁正義の事柄﹂とか﹁節制ある事柄﹂
したがって正義の人や節制ある人が為すであろう、そのような事
の点は究極的には巨大な議論を要するので、本稿ではスピードアッ
たると思えるひとつの材料を或る程度詳細に論ずるという形で遂行
というように語られる。他方ここでいう﹁正義の人﹂や﹁節制あ
る人﹂であるのは、[たんに]﹁そのような事柄を為すような人﹂
する。
アリストテレスの﹃ニコマコス倫理学﹄第一巻第十三章における
288
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なのではなく、それに加えて[そのような事柄を]正義の人々や
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に入り直すしかない。
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以上はこの議論からの帰結である。
―
節制や勇気や鷹揚さや温和さや正直さや正義など個別の人柄にか
0
節制ある人々が為す、そのとおりの仕方において為す人のことで
かわる徳の実現がみられる﹁有徳の士﹂と、その徳に関連するもろ
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もろの行為の正しさにかんし、
ゆえに、このようにして﹁正義のことを為すことから
―
ある。
正 義 の 人 に な り、 節 制 あ る こ と を 為 す こ と か ら 節 制 あ る 人 に な
0
る﹂というあの説は、正しいのである。そして、そうした[すぐ
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P︵個別の人柄にかかわる徳の理論︶徳タイプTの行為Aが状況
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れた]ことを為さないことからは、だれひとりとして善き人にな
0
Cにおいて行為者Sにとって正しいのは、タイプTの行為に
0
れる見込みさえないだろう。しかしそれにもかかわらず、多くの
かんして有徳な行為者がその性格特性Tに即してCにおいて
0
人々はすぐれたことを為さないまま[ただの]議論へと逃れて、
Aをおこなうとき、かつそのときにかぎる。
0
自分は知恵を愛していると思い、そんなやりかたですぐれた人間
になれると思っているのである。だがこれは、医者の言うことに
という説明は成り立つというのが、この章における明白な主張であ
る。同時に、そこでのアリストテレスの理解では、たとえば諸徳兼
0
0
柄にかかわる徳における﹁有徳な行為者﹂で済む。しかし、このこ
II 4,
注意深く耳を傾けながらも、医者が処方することの何ひとつをも
実行しない患者とおなじことをしているということである。
︵
0
備で道徳の権化である﹁完璧に有徳な行為者﹂のような︵実在する
ここでは、 人( 柄にかかわる 徳) の学びは、問題となる徳にかかわっ
とと同時に、たとえば﹁節制の徳﹂に直接関連する放埒な行為や逆
︶
1105b5-16
て﹁有徳﹂と言える人に固有の方式の行為であることを、一種のお
に欲望の不足する行為のような、タイプTの行為に直接関連する行
か否かを問わず︶だれかに言及する必要はなく、個々の関連する人
手本のようにして目標にすべきものであると断言されている。アリ
を準備した行為者自身の習性をみ
為
ずから直すための別の行為
が正しくないときに、その
ストテレスの叙述は、﹁節制ある行為から節制ある人が生まれる﹂
︵一般に﹁人柄にかかわる徳Xの行為から徳Xの人が生まれる﹂︶と
の外部にあるということもまた、著者アリストテレス自身の主張と
は、自明な形でPが問題にする行為群
いう普通の言い回しを正当化する脈絡で遂行されている。そして、
して、引用箇所の議論を支えているとみなされなければならない。
を矯正する
まさにそうであるがゆえに、節制ある人になることを阻害する悪癖
0
また、タイプTが正直の徳とするとき、虚言癖的行為
B-
A+
二一
がPの外部にくることを、アリストテレスならば喜んで承認
0
や欠陥を持つような人は、そうであるかぎりで節制の徳としての人
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
行為
A-
の﹁軌道﹂に反した行為によって自らを修正して、正しい節制の道
A-
B+
287
渡辺
邦夫
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︵
︶
二二
いてVによる説明は不成立であり、したがって徳倫理学は欠陥のあ
0
す る だ ろ う。 そ も そ も P は 一 見 し て 分 か る よ う に 隙 間 だ ら け で あ
0
る立場であるとする。
0
る。アリストテレスは、個別の人柄にかかわる徳との関連ではPに
0
0
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0
0
この反論は、アリストテレス自身の学説に対する批判としては通
0
積極的に荷担し、幼い頃から有徳な行為を繰り返すことによりほん
0
ストテレスはジョンソンの申し立てる虚言癖を持つ人間をも、その
0
用しないと思う。アリストテレスが荷担しているのは、あくまで小
ただし、ここに細心の注意が必要である。アリストテレスを古代
人間の心情がよい方向に変わればかれの講義室に招き入れることが
0
とうの有徳な人になれること、そしてこのような行為の継続から有
分けされた人柄にかかわる徳を説明するPであり、それらをまとめ
の最重要の論者とする現代徳倫理学の行為説明に対して、強い反論
できる。ただし、アリストテレスの講義に効用があるかないかはそ
0
徳者が生まれる過程こそ倫理というものの最初の語りの場であり、
て行為一般の話として論ずるVのような説明は、アリストテレスの
をつくったと自負する倫理学者ロバート・ジョンソンは、Pに一見
の人間次第であろう。その人間が自分の道徳的欠陥一般に対して羞
0
倫理を理解し幸福の実現にかかわるかぎりでの政治を理解しようと
念頭にもともとなかったと言うべきだからである。私見では、アリ
す る と 非 常 に 良 く 似 た 次 の 行 為 説 明 V に は、 致 命 的 な ﹁穴﹂ が あ
恥の念と改善への強い意志を持っていて、これに類する目立つ欠陥
︵
︶
コミットしている。
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有 徳 で 正 直 の 徳 を 持 つ 人 な ら、 想 定 上 そ の よ う な 行 為 を し な い か
場合の自己改善の行為が、Vの条件を満たさず︵なぜなら、完璧に
ジョンソンは、虚言癖を持つ人間がいやいやながら自分の癖を直す
章冒頭のアポリアをめぐる形で始まったものである。アポリアは、
行為﹂からしか勇気ある人になれない、と言うのである。議論は、
な行為﹂ を繰り返し為すことからしか正直になれないし、﹁勇敢な
始めないで当の徳に至ることはありえないと力説している。﹁正直
ストテレスは、任意の人柄にかかわる徳との関連で正しい行為から
0
どうみるかという点にかんし、わたしはつぎのように考える。アリ
われわれのほうでアリストテレスのこの二重のコミットメントを
0
倫理学において、Pに積極的にコミットし、かつVの非妥当性にも
﹁処 方﹂ と そ の 背 景 と な る 理 解 に な る だ ろ う。 こ の よ う に か れ は、
り、したがって徳倫理学の行為説明は不毛であるとの論点を提出し
0
は ほ か に あ ま り な い 場 合 に、 ア リ ス ト テ レ ス の さ ま ざ ま な 言 説 が
0
する者が最初に理解すべきことだとしている。
25
て、一部の論者の支持を集めているからである。
0
V︵人柄にかかわる徳の一般理論︶行為Aが状況Cにおいて行為
者Sにとって正しいのは、完璧に有徳な行為者がその性格特
︵ ︶
性に即してCにおいてAをおこなうとき、かつそのときにか
26
ら︶、 かつ正しい行為であるので、 これやこれに類した反例に基づ
ぎる。
24
286
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が、﹁徳の話﹂ はこのような重大な議論のためにあらかじめ単純化
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正義の行為をすれば、それだけでもう正義の人ではないか、読み書
0
0
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され、一定程度矮小化されている。たとえば、Mの徳目に、知性的
0
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0
の工夫の一環である。そして、このようなストレートな語り方は、
0
きができれば文法的に正しい人なのだし音楽をやれれば音楽的なの
0
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0
な徳である思慮深さや知恵や物分かりの良さは入りそうにない。正
0
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だから、といったたぐいの言説にどのように対応するかというもの
0
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義の行為にとっての正義の人、勇敢な行為にとっての勇気ある人が
0
︶。 ア リ ス ト テ レ ス は こ の ア ポ リ ア を 二 段
II 4, 1105a17-22
で あ る︵
0
いれば、つまり個々の人柄にかかわる徳と徳目ごとの有徳者を立て
0
階で解く。第一に、技術と倫理的行為の両者を通じて、何かが一回
0
る こ と が で き れ ば、 そ れ で 済 む よ う に 話 は で き て い る。 こ の よ う
0
0
できれば﹁それができる人﹂の称号を得るということはないと示す
に、Pが﹁正しい行為﹂の全部をスコープとせず大きな欠落を持つ
0
0
︶。第二に、倫理的行為で有徳な人は、技術の領域で音
1105a22-26
︵
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0
ことは、技術と倫理の話を並べてその異同をストレートに語るため
︶。
1105a26-b18
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楽 が で き る 人 や 文 法 術 を 持 った 人 が 持 つ 資 格 と も 一 味 違 う 資 格 を
持っているという点を論証する︵
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るように思われる。
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ア リ ス ト テ レ ス が、 第 二 巻 第 二 章
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れわれがいまの考察をしているのは﹁徳とは何か﹂を知ることのた
で ﹁と い う の も、 わ
1103b17-18
る問題が、はじめから暗々裏に議論の要因であったことが読み取れ
0
に、後に第十巻第六∼八章で明示的に主題となる観想と実践をめぐ
0
徳の日常的談義そのままでは無理であり、ここにアリストテレスの
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この議論をとおして、徳も有徳性も一貫して技術修得との類比と
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教 育 者 と し て の、 ま た 研 究 者 と し て の 工 夫 が 隠 さ れ て い る。 と く
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対比が成り立つ程度の事象として、あらかじめ整理整頓された形の
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に、かれが徳を、そもそも人柄にかかわる徳と知性的徳へと二分類
0
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ものにされている。その事情を説明しよう。まず、この章において、
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し た こ と の 利 点 が あ ら わ れ て い る。 そ し て、 私 見 で は 解 釈 の こ こ
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つぎの﹁アナロジーによる問題の定式化﹂がもくろまれている。
0
0
G︵文法学習︶ 一回日本語文を文法的な仕方で読んだ 日/ 本語文
0
法の技術を持っている
0
M︵徳の学び︶ 一回正義の行為をおこなった 正/ 義の徳を持って
いる
めではなく、自ら善き人になるためのことだからである﹂と倫理学
0
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0
講 義 の 主 旨 を 述 べ て い る こ と が、 こ の 文 脈 で 重 要 で あ る。 こ の 善
0
タイプGでもタイプMでも、ただ一回の成功は技術や徳の保持を保
に向けての教育は﹁われわれ﹂という複数一人称で遂行される共同
0
証しない。しかし、タイプGでの事情とタイプMでの事情は異なる
0
的探究の形を取るものとしてアリストテレスによって表現されてい
0
というのがアリストテレスの診断である。つぎに、この議論におい
0
る。そして、このようなかれの表現は、不正確なものでも、たんな
0
二三
てGは技術の話でMは徳の話であるとひとまず言うことはできる
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
285
るリップサービスのようなものでもない。GとMに訴える種類の、
が顕著にあらわれている。
愛﹂ は こ こ で は 邪 道 と 言 い 切 る 態 度 ︵
渡辺
邦夫
対比と類推による議論そのものが、議論に接するより年少でより経
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二四
︶ に、 そ の 点
II 4, 1105b12-16
以上の観察をまとめるなら、まず前節冒頭に示した︵二︶①の、
0
験と知恵の不足している聴講者や読者を、年長者とともにおこなう
0
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学び手のすぐれた実践による人柄と思慮深さの形成が、幸福の事実
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探究に参加させ、探究において考える実践を経させることにより、
0
0
的条件であることは、徳論の出発時に自明のことであったことが確
0
点ではほかのいかなる立場にも引けを取らない。
証される。アリストテレスの立場は、倫理の厳粛さを押さえている
徳の観点で引き上げることを目論見としている。
この改善への関心から、引用した第二巻第四章の議論自体が聴講
者 や 読 者 の 徳 性 一 般 に 及 ぼ す ︵と 思 わ れ る︶ 影 響 を 追 跡 し て み よ
0
0
しかし、つぎにその一方で、前節︵二︶②の共同的な理論探究と
0
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う。まず、アリストテレスは、MのみならずGのような﹁技術の事
0
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いう側面をも、ここの議論から抽出してくることができる。第二巻
0
0
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例﹂でも﹁一回一文の音読がうまくいくこと﹂はオウム返しに読む
0
0
第四章におけるこのような自分の主張を、そのものとしてアリスト
0
ことや偶然あたることがある以上、技術の体得の証しとはならない
0
テレスは理論的にも哲学の世界のライバルの諸﹁理論﹂に対して立
0
という事実を挙げる。つぎにアリストテレスは、たんに﹁徳のある
てている。この意味で聴講者ないし読者は、アリストテレス理論に
基づく﹁倫理一般の問題への接し方﹂を、ここで習うことになる。
0
行為を為していること﹂を超えた﹁有徳の士であって徳のある行為
を為していること﹂の主要条件を二点にみる︵
受講者は自分で納得してゆくことにより善くなるように、自由に考
え る 材 料 を 与 え ら れ て い る。 そ し て、 倫 理 へ の 接 し 方 の 第 一 原 理
︶。
1105a26-b5
︵a ︶有徳の人に固有の行為の仕方で行為を為している。
が、自分の﹁頭のよさ﹂や﹁議論のうまさ﹂よりも﹁文脈をひとつ
ひとつの人柄にかかわる徳にかぎった場合の、関連する自己の行動
︵b︶選択に基づき、確固たる態度で行為を為している。
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歴に見合った心の実力﹂にもっぱら信を置くべきだというものであ
0
この︵a ︶も︵b︶も有徳の行為を繰り返すことで、そしてそのと
0
る。受講者は﹁たんに生きてきたこと﹂から出て、生きている自分
0
きのみ実現するので、アリストテレスは、外にあらわれた一定タイ
0
の現実を考えるすべをここで学ぶと期待される。そのような思考に
0
プの行為の継続により内面が変わってくるという立場に荷担してい
おいて受講者は︵人柄にかかわる︶徳ごとに、現在時点での自分の
0
る。同時に︵b︶における﹁確かさ﹂と﹁持続的安定﹂のメッセー
到達点を見積もることになる。 たとえば、﹁節制﹂ に強く有徳者に
0
ジは、当の﹁内面の確定﹂に至る変容が一定の身体的変容を伴うも
近いが、﹁勇気﹂ に強くなく、 そこでなんらかの実質的改善が必要
0
のであることを示唆する。頭でっかちのただの議論による﹁知恵の
284
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現実に感情を持ち、その感情が行為に結実して当の行為と行為者が
0
であるといったことは、だれもが考えるはずである。そして、うま
0
倫理的評価を受けるときの評価の対象が、類として徳と悪徳を両方
0
のように形が定まった感情の状態から、今度は成人として﹁善悪の
0
くいっていない教科としての徳目では、これに適用されるPもやや
とも含む領域なので、そのような類的領域は心的﹁状態﹂であると
このように﹁理解﹂と言っても受講者一人一人、また受講者を固
目鼻立ち﹂が定まった上での行為へという、双方向の因果の関係が
0
定 し て も そ の 人 に と って の 徳 目 ひ と つ ひ と つ に か か わ る 実 力 に 見
問題である。そしてこの因果は、感情状態という心身両面が問題に
0
漠然としている。そこで、その人の﹁問題﹂はそこにあったことに
結 論 づ け ら れ る︵
合って理解も異なる。この点は、アリストテレス的理論では受講者
なる経験レパートリーを媒介因子とするため、心身因果でもあるこ
0
なり、つぎに善き人という目標に向け、どうしようかという話にな
行為からその人なりの一定の感情の感じ方へ、またそれと逆に、そ
が受講前に現実にどう自分について考え、現実にどう行動してきた
と、ゆえに徐々に形が明確になってきた上で一回固まった善悪の傾
︶。 こ こ で、 幼 少 の 頃 か ら の 数 多 く の
1106a10-13
る・・・
かによることなので、当然の事態である。実際には﹃ニコマコス倫
向は、固まった後ではなかなか変わらないことが理解されなければ
1106a26-
︶中間﹂
pros hēmas
︶。 第 二 巻 第 六 章 で は 中 間 性 を﹁事 柄 に
II 7, 1107a33-b4
0
理学﹄ という書物の全体が、﹁幸福﹂ という人間の最高善から自分
な ら な い︵
0
の人生と人生の一コマとしての今の現実を見る見方を、自分で得る
おける中間﹂と﹁われわれ一人一人にとっての︵
0
ための書である、という性格を色濃く持っている。その一方で、そ
に 分 け、 わ れ わ れ 一 人 一 人 に と って の 中 間 こ そ、 超 過 や 不 足 が あ
0
のような見方ができる受講者にとって、最強の理論的認識の拠点が
る 感 情 状 態 が 悪 徳 で あ る の に 対 す る 徳 で あ る と し て い る︵
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できていると言いうるように思われる。倫理という主題にとっては
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も の に な る と い う ス ト ーリ ーに な る ︵
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︶。こ
II 7, 1107a33-b4; III 6~9
し、その結果勇気ある行動の積み重ねの成果として勇気がその人の
ふるまえる中間を各人が経験的につかんで行動できるように努力
︶。ここから勇気の徳を説明するなら、恐怖の感情についても
1107a2
0
付随的にせよ、人間の哲学として考えるなら、受講者はここのレッ
0
自信の大きさについても、多すぎもなく少なすぎもしないで勇敢に
0
スンにおいて、人間的学習の本質を、適切な実例を総覧しながら理
0
論的に観想し始めてしまっている。
0
さらに、続く第二巻第五章においてアリストテレスは、人柄にか
かわる徳の﹁類﹂とは何かと問い、結論は状態︵
0
︶という﹁心
hexis
の説明もまた、独創的なアイデアであったPにあてはまるようにつ
0
的な傾向性﹂に決しながら、その結論のための議論において︵心身
くられている。すべてのポイントは明らかに、いま受講者が為すこ
0
︶ そ の も の と、 感 情 を 持 ち う る た め の
pathos
両 面 が か ら む︶ 感 情 ︵
とは、悪ければ後から取り返しがつかない場合がほとんどであり、
︶ を 類 の 候 補 と し て い る︵
dynamis
二五
︶。
1105b19-28
身 体 的 基 盤 能 力︵
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
283
渡辺
邦夫
善ければ後の報酬は予想よりはるかに多いという、人間にかかわる
冷 厳 な 事 実 へ の、 当 時 最 高 水 準 理 論 に 基 づ く 注 意 喚 起 に あ る が、
レ ッ ス ン の 功 徳 は そ れ だ け の こ と で も な い 。 心 と 身 体 、 感 情・ 感
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0
覚・表象・理性・行動の原因についてであれば、受講者は、これを
0
理論的に研究してゆく道にも、すでに実質的に入りこんでいるはず
なのである。
以上の短いサーベイは、徳にかんするアリストテレスの説明や論
0
0
述が、一方で人格陶冶への働きかけであると同時に、他方でその働
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0
0
二六
アリストテレスの結論を徹底して
―
0 0 0 0 0 0 0
倫理学の言葉で読み解く必要性
とも言いたくなる。続く最終節でこの点を簡単にみて結びとする。
五
かりの結び
0
ア リ ス ト テ レ ス の 倫 理 学 の 主 著 の 解 釈 を お こ な って い る、 と い
Ethics with
う 自 明 の 事 実 を 忘 れ て は な ら な い と 思 う。 こ の 点 で、 ア リ ス ト テ
レス倫理学にかんする最高峰のひとつといえる研究書
を 書 い た ブ ロ ーデ ィの 評 言 を 出 発 点 と 考 え る こ と が、 有 用
Aristotle
0
きかけを、受講者を巻き込む哲学探究の形をとって遂行していると
である。彼女は一貫して実践と観想の﹁分岐﹂が倫理学における議
︶
0
いうことを示している。しかもこの探究はそれの広がりにおいて、
論の核心的構造であると解するが、観想・テオーリアがまじめな実
︶
﹁規 則 に 従 う﹂ と い う 人 間 の あ り か た を、 主 題 と し て ﹁規 則 的 で あ
践的関心に値するものでなければならないことを正当に強調するこ
︵
る自然界﹂のなかで考えてゆくことや、行動における心身の関係を
とから﹃ニコマコス倫理学﹄の観想論解釈を実質的にスタートさせ
︵
物的な世界一般において考えてゆくことをも、不可欠の部分に含ん
る。解釈の主調音はつぎのものである。
0 0
でいる。この面では﹁知恵の徳﹂が、発揮されなければならない。
・・・アリストテレスの見解では、実践的生活は観想のための人
講義そのものも、知恵の徳の功徳なしには構想され得なかった。こ
のような観想の継続もまた、受講者のあいだから人がでてこなけれ
0
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0
0
すなわち、すでに実践に荷担しているのだ
―
が、実践と、自分との関係での実践の価値にかんして、自分が知
とき理性的存在者
︶であること、したがって実践的生
human potenntial
間的潜在力︵
0
ば不可能である。そして、傲慢を徹底して忌避するギリシア的敬虔
0
活は︵真に教育を受けた人間の目からは︶、 その形而上学的本質
0
理解によれば、﹁知恵﹂ は人間において、 共同に知恵を求めてゆく
が ︵い か な る 潜 在 的 な も の の 形 而 上 学 的 本 質 も そ う で あ る よ う
0
という、人間なりの形においてのみ実現する。このように、探究的
に︶なにかほかのものに至るようなものである以上、諸目的の目
0
であり共同的でありつつ善き人への学びであるという特徴が、﹃ニ
的ではないことを、哲学的に把握できる。しかし、われわれのご
0
それでもなお、倫理学で問題となる理論は、人間くさい真理
―
0
にとどまるので、観想本来の神学・形而上学の理解と隔絶している
0
コマコス倫理学﹄の全議論の特徴となっている。
28
27
282
るべきすべてを知って生まれてきたわけでも、そうしたすべてを
︵
︶
践 的 な 欲 求 に、 新 し い 形 式 を 与 え る こ と が で き る だ け な の で あ
れているわけなので。むしろこの発見は、すでに成立している実
のような善へということであればわれわれは、すでに動機づけら
われわれを動機づけるということは、ありえない。なぜなら、そ
に対する実践の関係にかんする発見が、実践的な善そのものへと
る解釈を成り立たせるという一事に過ぎない。この点でブローディ
釈者の思弁による言説という面を脱し、著者の言葉に基づく純然た
が新しく試みたのは、ブローディの解釈にまだ大きく残っている解
き解釈の姿を追求するものであることは、一目瞭然だろう。わたし
での本稿の解釈もまた、ブローディのいう﹁自然的発展﹂のあるべ
釈の路線としても、支持したい方向の正しさを持っている。ここま
凛とした本物の言説がここには述べられており、アリストテレス解
のことである。
この主張に対し、もし観想ぬきの実践が観想のための潜
―
知って育ってきたわけでもないような存在者
在 力 で あ る な ら、 観 想 は 実 践 か ら、 自 然 的 に 発 展 し て く る は ず
に 残 る 最 大 の 不 満 は、 彼 女 も ま た パ カ ラ ック や ほ か の 解 釈 者 と 同
る。
だ、という反論が出てくるかもしれない。われわれが観想へと機
様、フィリア論の文脈上の真の意義を、理解していないという点で
0
械的に進歩してゆくという意味なら、この議論は間違っている。
0
ある。かれらのこの弱点は、アリストテレスが後の倫理学者・哲学
0
一方、 もしも﹁自然的発展﹂ というとき、︿われわれがすでにわ
前節末尾でふれた、神学はアリストテレスの第一等の学問の形而
0
省を許容する諸条件の下にある、自己反省的な実践である。個別
上学のエッセンスであり、倫理学は第二等ないしそれ以下の考察に
0
者たちとおなじく、自分の哲学・倫理学的立場を表現したと考える
の条件へと分解していえば、 当の潜在力とは、︵1︶ アリストテ
属するという﹁学の等級﹂に訴える反論が待っている。ブローディ
0
れわれの人間的善であると考えている同じ実践的な卓越性 徳( に)
点にもつながる。アリストテレスはむしろ、自分たちのような探究
レスの倫理学がおもにそこに関係し、またアリストテレスがそれ
自身、﹃ニコマコス倫理学﹄ 第十巻にあらわれている言説を、 神学
0
よって、観想が正当化される﹀ということの反省的認識もまた、
や教育の営みを、そのような一般的な営みとして存在論的に個性化
を研究する前からもうすでに諸個人や諸共同体内に存在している
理論の完成形態というより、﹁神や理性にかんするなんらかの理論
0
当の発展に含まれると認められるのであれば、この議論は正しい
し、表現しようとしたのだとわたしには思われる。
︶ と、 さ ら に ︵2︶ こ
good conduct
も の、 つ ま り す ぐ れ た 品 行 ︵
︶
のための直観的出発点﹂とみなすべきだ、という適切な指摘をおこ
︵
の種類の研究に従事する反省的精神とに存することになり、これ
二七
なっており、ここでは一点の考慮事項を付け加えれば済むと思う。
0
のである。かくして観想のための潜在力の全体は、この種類の反
にとって、観想
―
29
は、 さらにまた、︵3︶ 当の研究が発生するための諸条件の下で
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
30
281
渡辺
邦夫
﹁形 相﹂ や ﹁純 粋 な エ ネ ル ゲ イ ア﹂ を ﹁理 解﹂ す る こ と は、 人 間
あるいは自己にかんして、自分が宇宙の中心でなく、自分が単独で
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は宇宙の中でこの程度のものであることをまず理論的に理解するこ
となしに、どのように始めてよいかも分からないことではないだろ
うか?
世界の理解は、身の丈分の自分のほんとうの理解とのみ真
に接続するのであり、倫理学で問題になる種類の理論が理解されな
い﹁観想﹂ は、﹁理解﹂ の重要な意味において無意味であるように
思われる。逆に宇宙や理性の理解は、自己理解としての倫理学理論
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を媒介にするとき、﹁神々しい原因の領分﹂ に立ち入っているとい
う点により、今度は、自らがそのような原因の考察者である者のも
0
0
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の と し て、 人 類 の 運 命 を も 改 善 す る 力 を 持 つ と 予 想 さ れ る。 し た
がって、倫理学講義のコーダ部分というより、政治学講義に入る直
前という位置の議論で観想の優位を説いたアリストテレスの意図中
に、政治の﹁当事者﹂もまた二分されるべきであり、その二者であ
る政治権力者と理論家がともに徳と幸福に向けて厳しい教育を経る
べきこと、そしてその上さらに、権力者が理論家︵集団︶に知恵相
︵
︶
このような将来への希望も
―
二八
Princeton 1989, pp.213-7, pp.241-251; J. M. Cooper, Reason and Emotion, Princeton
M. Pakaluk, Aristotle’s Nicomachean Ethics: An Introduction, Cambridge 2005.
1999, pp.229-236.
Pakaluk, pp.9f.
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
︵
︶
が伝統的表現でくだしたも
D. Bostock, Aristotle’s Ethics, Oxford 2000, p.25, pp.202ff.
のと同じである。
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0
0
0
︵ ︶
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Pakaluk, p.318.
︶﹁エピエイケース﹂について、﹃アリストテレス哲学における人間理解の研究﹄東
︵ ︶
︵
Pakaluk, pp.2f. Cf. Pakaluk, ‘On the Uniry of the Nicomacheau Ethics’ in: J. Miller (ed.)
年
(2013
頁参照。
)78-102
︵神崎
Cf. M. F. Burnyeat, ‘Aristotle on Learning to Be Good’, in: Rorty 1980, pp.69-92.
繁訳﹁アリストテレスと善き人への学び﹂︵井上忠・ 山本巍編訳﹃ギリシア哲学
の最前線Ⅱ﹄東京大学出版会・ 1986
年、 86-132
頁︶︶
︵ ︶この点はブローディに負う。第五節を参照。
︵ ︶
ていることを感覚する﹂日本哲学会編﹃哲学﹄
Aristotle’s Nicomachean Ethics: A Critical Guide, Cambridge 2011, 23-40, pp. 24f.
︵ ︶渡辺、 116-122
頁で論じた。この箇所に関連する﹁理論﹂については、中畑正志﹁見
︵ ︶
見方に対する批判は、 D. P. Maher, ‘Contemplative Friendship in Nicomacheau Ethics’,
にもある。
Review of Meraphysics 65 (2012), 765-794
海大学出版会・ 2012
年、第三章第三節参照。
︵ ︶渡辺、第二章に、ひととおりの解釈を記した。観想を﹁孤高の賢者﹂の業とみる
︵
Pakaluk, p.317.
︵ ︶ Pakaluk, pp.316f.
︵ ︶通常第六巻第十二・十三章が引用されるが、結論でなく予兆程度の叙述である。
が強烈な、過激きわまりないものである。
0
レクション﹂とはどのようなことかの全面的な見直しを必要とする程度に起爆力
0
を、 作者パカラック本人は正確に理解していないようである。 当の問題は、﹁コ
0
︵ ︶ Pakaluk, pp.322ff.
︶ パ カ ラ ック が 問 題 ま で 解 消 で き た と は わ た し は 思 わ な い。 ま た 問 題 の 破 壊 的 性 格
︵
Pakaluk, pp.212ff., pp.321f.
な お、 こ れ は ア リ ス ト テ レ ス 評 価 と し て は、 パ カ ラ ック 以 前 に
Pakaluk, pp.316-8.
2
64
応の至高の権威を承認する関係こそ、真の原因にもとづく人間界の
注
Los Angeles and London 1980, pp.15-33; R. Kraut, Aristotle on the Human Good,
Cf. e.g., J. L. Ackrill, ‘Aristotle on Eudaimonia’, in: A. Rorty, (ed.), Essays on Aristotle’s Ethics,
3
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ではないものの、﹁テレイオス﹂ の言葉の意味は﹁テロス・ 目的﹂ との関連で解
0
︶ な お、 第 六 巻 で は 観 想 は 実 践 の 目 的 と い い う る か ら、 目 的 手 段 の 系 列 と し て 単 線
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規範的マネジメントを約束すること
31
あったのではないかと、わたしは推測している。
︵ ︶
1
280
されてかまわない。
︶ 緊 迫 し た 選 択 が 問 題 で あ る 点 で、 桑 子 敏 雄 ﹃エ ネ ル ゲ イ ア
頁参照。
3-30
アリストテレス哲
―
学の創造﹄ 東京大学出版会・ 1993
年、 238
頁 と 似 た 見 解 だ が、 私 見 で は 後 半 生 の
﹁生の選び﹂の問題であり、桑子氏のいう一回的行為の選択が問題ではない。
Cf. Pakaluk 2005, p.214.
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
0 0
︶ 日 常 の 判 断 に あ ら わ れ る こ と の な い 学 問 的 中 項 を 鍵 と す る エ ピ ス テ ー メ ー・ 学 問
れて確定した形を帯びたものである。
的認識をめぐる考えは、プラトンからアリストテレス﹃分析論後書﹄に受け継が
年、 386
頁にアリストテ
1985
レスの観想論で問題となる宗教はギリシア宗教と隔絶しているとの主張がある
とまでは言えない。
R. Hursthouse,
が、説得的でないと思う。普遍性と啓蒙的要因はあるが、ギリシア的風土と無縁
︶ 岩田靖夫﹃アリストテレスの倫理思想﹄ 岩波書店・
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
Cf. S. D. Walsh, ‘Teleology, Aristotelian Virtue, and Right’, in: J. P.
62
アリストテレス倫理学における﹁共同性﹂と﹁観想の優位﹂の関連について
Broady, p.401.
Broady, p.393.
Broady, p.392.
頁参照。
この路線に基づく興味深い快楽論
S. Broady, Ethics with Aristotle, Oxford 1991, p.79.
解釈として、 加藤喜市﹁快楽と幸福な生﹂﹃倫理学年報﹄ 集︵ 2013
年︶ 87-100
を、かれに帰属することはできない。詳細は今後論じる。
慮 深 さ の 極 致 の 人 が ﹁権 威﹂ で あ り、 万 人 が 参 照 す べ き 模 範 で あ る と す る 言 説
十三章の﹁諸徳兼備﹂を論じる場面であろう。私見では、そこでも諸徳兼備の思
︵ ︶ Johnson, pp.818ff., p.829.
0 0 0
︵ ︶
﹁完璧に有徳な人﹂をアリストテレスが言い出す場所があるなら、第六巻第十二・
の点は近く論ずる。
︶。なおアリスト
Sterba (ed.), Ethics: The Big Questions, 2nd edn. Oxford 2009, 409-418
テレスは道徳改善の問題で﹁現代的感覚﹂があり、古風な権威主義ではない。こ
ア と は い え な い︵
定を付けて行為の正しさの説明を試みていたので、このジョンソンの態度はフェ
の 説 明 を 取 り 上 げ 批 判 し た と 言 う が、 ハ ース ト
On Virtue Ethics, Oxford.2000, p.28
ハウスは﹁有徳な行為者﹂と言い﹁完璧に﹂を付けないし、逆にほかの重要な限
︵ ︶ R. N. Johnson, ‘Virtue and Right’, Ethics 113(2003), 810-834, p.812.
かれは
︵
︵
︵ ︶
︵ ︶この点につき、渡辺、序章
︵
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︵
分類は、適切ではないように思われる。アリストテレスの現状改訂的側面はどの
︶ こ の 点 で プ ラ ト ン を 現 状 改 訂 的、 ア リ ス ト テ レ ス を た ん に 記 述 的 と す る 二 分 法 的
程度で、どのようなものだったかというように問うべきである。
幸福論の研究﹂︵研究課題番号
︶の研究成果の一部である。
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本稿は平成二二∼二五年度科学研究費基盤研究︵C︶﹁知の実践性と道徳性に基づく
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