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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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実践知と身体 : 『ニコマコス倫理学』第六巻のフロネー
シス論について
渡辺, 邦夫
茨城大学人文学部紀要. 人文コミュニケーション学科論集
, 19: 19-45
2015.9
http://hdl.handle.net/10109/12707
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222
︶﹂の主要な五つ︵学問的知識、思慮深さ、技術、
dianoētikai aretai
うとする。
︵一︶理論的学問の力︵﹁知恵︵
︶﹂で代表される︶
phronēsis
一九
この概括は第六巻第十二・十三章の哲学的難問論の前提となるもの
慮深さ︵
︵二︶生活上の知恵ないし、日常的実践にかかわる知的な徳︵﹁思
︶﹂で代表される︶
sophia
で問題となる知的な徳は、おおむねつぎの二種類であると概括しよ
知恵、知性︶以外のものをもそれぞれ特徴づけた後で、結局倫理学
︵
か れ 独 特 の 思 索 の 過 程 を 忠 実 に し る し、 い わ ゆ る ﹁知 的 な 諸 徳
ア リ ス ト テ レ ス は ﹃ニ コ マ コ ス 倫 理 学﹄ 第 六 巻 の 後 半 六 章 で
はじめに
character, intuition, body
渡
辺
邦
夫
『ニコマコス倫理学』第六巻のフロネーシス論について
実践知と身体
Abstract
One disputed interpretative problem on EN VI is the one about the
role(s) of phronesis. It has been agreed that phronesis can contribute to
the setting-up of the end of an action, though Aristotle’s official statement
confines its role to the invention of its means. But recently Moss gave
an interpretation which seems entirely true to this statement. I interpret
VI 12-13 giving special heed to their contextual connection with the
immediately preceding chapter, VI 11, which contains unquestionable
commitment to the role of positing the end played by phronesis. I believe
the key to understnding this role lies both in recognizing how flexibly
Aristotle understood the meanings of ‘intellect’ there and in allowing that
practical wisdom essentially relates to our body.
Keywords
四
- 五頁
Aristotle, Ethica Nicomachea, phronesis, intellect, equity, virtues of
実人践
﹃
文知
コと
ミ身
ュ体
ニケーション学科論集﹄十九号、一九
© 2015 茨城大学人文学部(人文学部紀要)
221
であり、その一章前の第六巻第十一章の第二段落一一四三a 二五か
ア﹂ に か ん し て は ﹁賢 者 の 知 恵﹂ で あ って 日 常 的 で 世 間 的 な ﹁賢
理自体を、直観的に把握する力として規定した︵第六章︶。﹁ソフィ
二〇
ら始まるものだとわたしは解釈するが、その点を論ずる本論に入る
さ﹂と区別されるというギリシア語の日常的語感に忠実に、エピス
渡辺
邦夫
前に、このような概括がアリストテレスの倫理学探究全体にとって
テーメーとヌースを併せ持った、原理を直観できて原理からの導出
0
重 要 な 意 義 を 担 う も の で あ った こ と を、 は じ め に 確 認 し て お き た
もすぐれて行える理論的学問の総合力の優秀性として規定する︵第
0
い。
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七章︶。 実践と制作のほうに目を移すと、 アリストテレスは制作に
0
アリストテレス以前には、徳をかれのように組織的に分類し、一
0
かかわる思考の徳として﹁テクネー﹂を規定する︵第四章︶と同時
0
つ一つの徳の明確な意味内容を定めて専門用語のようにして使うと
0
に、初期プラトンにおいて徳とは知であるという主張を典型的に担
0
いう試みは記録に残っていない。かれの師匠プラトンは、たとえば
0
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うことが多かった﹁フロネーシス﹂に、実践と行為における﹁知恵﹂
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﹁フ ロ ネ ーシ ス﹂ と ﹁ヌ ース﹂ と ﹁エ ピ ス テ ーメ ー﹂ を ﹃メ ノ ン﹄
0
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ないし﹁賢さ﹂、 つまり、 学問が抜群にできる﹁ソフィア﹂ とはさ
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の非常に重要な箇所で互換的であるかのように使ってみせ、そのこ
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しあたり別の日常的場面での実践的知恵、思慮深さという定まった
0
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とで読者自身に言葉の意味をその都度の文脈で考えさせることを、
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意味を割り当てた︵第五章︶。 そしてこのことによってかれは、 こ
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そ し て、 こ の よ う な ﹁ア リ ス ト テ レ ス 的 な 語 彙 の 世 界﹂ の 樹 立
第六巻の第一∼七章における課題であったと思われる。
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積極的な意味を込めたひとつの教育手段にしていた。生きた言葉に
0
の﹁思慮深さ﹂ と、﹁人柄の徳﹂ としてあらかじめかれの側で狭く
0
0
生きた自分の哲学的思考を沿わせてゆくことが重要なプラトン的問
捉えなおしておいた﹁徳﹂とのプラトン的な密接な関連を、自分の
0
答法において、このような日常の自然言語のそのままの受容は、哲
0
倫理学内部の第六巻第十二・十三章において保存しようとした。た
0
学と教育の根幹を占める事柄であったように思われる。これに対し
0
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だし、同時にアリストテレスは、プラトンにおいては意のままに行
0
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アリストテレスは、言葉の意味を言葉でまず説明し、そして自分の
0
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いえた﹁フロネーシス﹂﹁エピステーメー﹂﹁ヌース﹂の自由な言い
0
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その説明通りに以後一貫して使ってみせることではじめて、倫理学
換えを、自らに対しても、かれの授業の聴講者に対しても、きっぱ
0
のメッセージと議論を聴講者に明確に伝えることができると考えた
りと禁じたのである。以上のアリストテレス特有の言葉の確立が、
0
にちがいない。
したがってかれは、﹁エピステーメー﹂ を学問的知識として、 学
問の原理が与えられたときにその原理から論証する力として明確に
は、西洋倫理学の長い歴史において、絶大な影響力をもった。現代
0
規定して限定し︵第六巻第三章︶、﹁ヌース﹂を知性として、エピス
徳倫理学の代表的論者の一人フィリッパ・フットは、用語の整理と
0
テーメーではすでに与えられたものとしてそこから出発する学問原
220
いう観点でプラトンには難があるとし、アリストテレスとトマス・
の理論的学問の脈絡で用いる方針を示し、他の理論的主張をそこか
︶
らエピステーメーによって演繹すべき、理論学の原理の知的直観と
︵
アクィナスのほうにいっそう信頼を寄せる旨、明言する。これに賛
0
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いう意味に限定する︵一一四一a 三∼八︶。 第八章でもヌースは、
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同する意見も多い。また、かれらと内容的に別の、あるいは反対の
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実践的推論において個別的なものの知覚という直観が﹁ことの始ま
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倫理学的立場の哲学者でも哲学研究者でも、その多くは内容的に反
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り﹂であることと対照的な﹁始まり﹂であると断言する︵一一四一
0
対でありつつ、アリストテレスがおこなった語彙の整理と﹁著作内
0
a 二五∼三〇︶。 しかし、 その同じアリストテレスが第十一章に至
0
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部の倫理評価語等の使い方﹂の明記と、定義に従った使用という方
0
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ると、実践にかかわる知的な複数の徳を列挙しつつこれらが同じ範
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針自体には賛意を示すように思われる。このことは、多くが大学等
囲のすぐれた行動力と判断力の人々に帰せられるとして、そのよう
0
に籍を置き、研究論文や教材執筆における説明責任を負うという、
な徳のひとつに﹁知性﹂を含めている。第十一章の知的な諸徳の名
0
アリストテレスを遠い先達とする特殊な﹁社会的責任のありよう﹂
の 用 法 は 例 外 で あ って こ こ か ら 教 訓 を 引 き 出 す べ き で は な い と す
︶
も関係している。そして後代の倫理学者の独自の語使用も、たどっ
る 、 ジ ェ シ カ・ モ ス の 挑 発 的 解 釈 も あ る が ︵ 第 三 節 で 彼 女 の 解 釈
にコメントする︶、 わたしにはそのようなことは信じられない。 以
︵
てみればアリストテレス的な使用と自分の使用とがどう違うかとい
0
う観点を追認できるものが、多いだろう。
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下、 第十一章の議論が文脈上重要であり、﹃ニコマコス倫理学﹄ 全
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しかし私見では、アリストテレス自身は境界人的な独自の個性も
0
体の議論の成否を握るとさえ言いうること、そして、アリストテレ
0
示している。かれはプラトンの教育方針に従って多くの対話篇を書
0
スが連続する議論中で用いて、一見すると両立させがたい二種類の
0
いた。生きた言葉や言葉による生きた倫理実践と倫理的評価の行為
0
﹁知 性﹂ の 意 味 は、 行 為 と 行 為 者 の 能 力 を み る か れ の リ ア リ ス ト 的
0
に、ただ単に人工的な制限を加えることが実践哲学の領域で良くな
なパースペクティブからは、重要な仕方で﹁一性﹂を言えるもので
筆体験においても熟知していたと思われる。
こ の 点 に も っと も 深 く 関 係 す る 徳 の 名 は﹁ヌ ース 知( 性 ﹂) で あ
る。 こ の 語 は プ ラ ト ン ﹃メ ノ ン﹄ 八 七 B ∼八 九 C で は フ ロ ネ ーシ
一
第六巻第十一章の解釈を遂行するために、まずこの章の全文を訳
ス、 エピステーメーと互換的に使用され、﹁徳は知である﹂ との知
宣 言 に も 用 い ら れ た が、 ア リ ス ト テ レ ス は ﹃ニ
intellectualism
二一
出してポイントを挙げてゆく。論述の都合上五段落に分け、段落に
実践知と身体
コマコス倫理学﹄第六巻第六章では﹁ヌース﹂を実践の脈絡とは別
性主義
あったこと、この二点を示すことにしたい。
い効果を持つことを、かれは師の教えとしてのみならず、対話篇執
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2
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渡辺
邦夫
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二二
も の だ と い う こ と が、 道 理 に か な った こ と な の で あ る。 な ぜ な
0
記号を付す。五段落で三部分をなす。第一の〔A〕は前章の続きで
ら わ れ わ れ は、 察 し の よ さ も、 物 わ か り の よ さ ︵
0
マイナーな知的な徳の説明である。
〔B〕
〔C〕
〔D〕の三段落は﹃ニ
慮 深 さ も、 知 性 ︵
0
コマコス倫理学﹄全体の大きな転換点をつくる一連の議論であり、
のような人々が、察しのよさと知性と思慮深さと物わかりのよさ
0
アリストテレス自身の第六巻第六章と第八章における公式の﹁知性
を、兼ね備えていると言うからである。実際、これらの能力はす
0
︶﹂の意味の説明から逸脱し、拡張された意味を説明すること
nous
べて、最終的なもの、つまり個別的な事柄にかかわっている。そ
0
により、実践推論と幸福の関係を新しい見方でみるものである。最
して、思慮深い人がかかわる事柄について適切に判別をおこなう
0
終段落の〔E〕は、以上の〔B〕∼〔D〕の成果を、つぎの第十二・
ところに物わかりのよさがあり、すぐれた察しがあり、察しのよ
︵ ︶
︶ も、 み な 同 じ 範 囲 の 人 に 帰 し て い て、 そ
nous
︶ も、 思
sunesis
十三章のアカデメイア由来の哲学的難問の解決に使用するという趣
さがある。なぜなら、高潔さが問題となる公平な事柄とは、他人
〔A〕われわれが﹁思いやり︵シュングノーモーン︶﹂とか﹁思い
的なものにかかわる。つまり、思慮深い人は個別的な事柄を認識
〔C〕 他 方、 為 さ れ る 事 柄 は す べ て 個 別 的 な 事 柄、 す な わ ち 最 終
︵
旨の短い説明である。
との関係におけるあらゆる善き性質に共通の事柄だからである。
やりがある︵グノーメーン・ エケイン︶﹂ と語る際、 こうした表
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に つ い て の 知 覚︵
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︶ を そ な え な け れ ば な ら ず、 そ う し た
aisthēsis
0
事柄から普遍へと到達するからである。こうして、個別的な事柄
0
めの始点なのである。 というのも、︹行為の場面では︺ 個別的な
実、こうしたほかのあり方を許容するものが、目的に到達するた
︶ が な い。 知 性 は、 論 証 の 場 面 で は 不 変 不 動 の 第
logos
しなければならず、物わかりのよさや察しのよさは為される事柄
0
0
現はいわゆる﹁察しのよさ︵グノーメー︶﹂ に由来しているのだ
0
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にかかわるが、為されるこれらの事柄は最終的なものである。そ
0
0
が、この﹁察しのよさ﹂と呼ばれているものは、高潔な人の正し
︶
0
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して知性は両方向の最終的なものにかかわる。つまり、知性は第
︵
0
0
い判別のことである。その証拠として、われわれは、とりわけ高
0
0
0
一の項と最終項の両方にかかわり、このどちらも、それについて
0
0
0
潔な人のことを﹁思いやりのある人﹂と言い、或る種の事柄につ
0
0
0
の 理 由︵
0
0
0
いて﹁思いやり﹂をもつことが﹁公平なこと﹂だと言っている。
0
0
0
一の項にかかわり、行為の場面ではほかのあり方を許容する最終
0
0
0
そして、思いやりとは、公平な事柄を正しく判別する察しのよさ
0
0
の 項、 す な わ ち も う ひ と つ の 前 提 で あ る 小 前 提 に か か わ る。 事
4
のことである。ただしここでの﹁正しい判別﹂とは真なる事柄の
0
0
判別をおこなうことである。
0
〔B〕 し か し、 こ れ ま で に わ れ わ れ が 述 べ て き た い く つ か の ︹魂
0
の︺性向は、すべてじつは同じ一つのところへと収斂するような
0
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0
知覚こそ、知性なのである。
に続くものであり、﹁思いやり﹂ を含めて、 ここの思慮深さと密接
0
0
に関連するがニュアンスを区別しておくのが議論遂行上便利な、三
0
0
〔D〕 し た が って、 こ の 能 力 は 自 然 に 身 に 付 く も の だ と も 考 え ら
0
0
つ の 名 辞 を め ぐ る も の で あ る。 こ れ に 対 し て、 第 二 ∼四 の 〔B〕
0
れている。つまり、だれも自然に知恵ある人にはならないが、察
0
〔C〕〔D〕の中心三段落の趣旨は、徳の区分や限定的説明とは逆方
0
しのよさや物わかりのよさや知性は自然に身に付くものだと考え
0
向に、これまで個別に説明してきたいくつかの徳目を大括りにまと
0
られているのである。その証拠に、こうした能力は歳を取るにつ
めることができるというものである。この議論の向きの大転換に基
0
れて身に付くものだと、つまり或る一定の年齢になると知性や察
づいて章末の〔E〕において、知的な徳は本稿冒頭に掲げた二つの
0
しのよさがそなわるものだと、われわれは考えている。これはわ
徳の名、つまり︵一︶﹁知恵﹂と︵二︶﹁思慮深さ﹂によって概括的
0
れわれが、その原因が自然にあるとみなしているということなの
に論じられることになり、第十二・十三章におけるこの二つの知的
0
である。それゆえ、われわれは、経験豊かな人々、年長者たち、
徳にかかわるものとしての哲学的難問の考察が、晴れておこなえる
0
および思慮深い人々による論証なしの発言や判断にも、論証に劣
ことになる。
0
0
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︶
0
0
0
0
0
︶﹂ と、 こ の
epieikeia
︵
︶﹂がまさに人柄にかかわるよう
dikaiosunē
0
冒頭の〔A〕において、直前の第五巻で人柄の徳の最大最後の主
0
らず注意を払わなければならない。なぜなら、そうした人々は経
験によって事態を正しく見抜く眼をそなえているからである。
題 と な った ﹁正 義 の 徳 ︵
0
高 潔 さ の 理 想 に 見 合 った、 対 応 す る 知 的 な 徳 ︵の 候 補︶ が 主 題 と
な ﹁徳﹂ で あ る こ と を 端 的 に 示 す ﹁高 潔 さ ︵
ぞれが何にかかわっているのかということ、またこれらが、魂の
なっている。正義の徳は、節制や勇気などの感情や欲望の知的コン
〔E〕 以 上 の こ と か ら、 思 慮 深 さ と 知 恵 の 本 質 が 何 で あ り、 そ れ
なかのそれぞれ別の部分にかかわる徳であるということが語られ
トロールが問題となる﹁人柄の徳﹂らしい人柄の徳とは異なる、
﹁対
議論である。この文脈は、第六巻第九章の﹁考え深さ︵ないし、す
明して、類似してみえる他のいくつかの徳とは区別しておくという
続きであり、その一連の徳の最後のものとしての﹁思いやり﹂を説
第一段落〔A〕は、前章までのややマイナーな知的な徳の説明の
を持つ﹁正義の人﹂の養成を至上命題としたことを踏まえて、アリ
あるという事実に基づき、プラトンが﹃国家﹄において﹁正義の徳﹂
まりに従ってふるまう人間の養成がいかなる社会においても重要で
的で人為的な決まり︵法やもろもろの掟や規則︶の世界で正しい決
︶﹂、第十章の﹁物わかり︵
euboulia
ストテレスがどのような﹁正義の教育﹂のプログラムを持っていた
ぐれた思案の力
実践知と身体
二三
︶﹂の説明
sunesis
人徳﹂という本質的特徴を持っている。したがってここでは、社会
た。︵第六巻第十一章一一四三a 一九∼b一七︶
5
217
たが、
︶〔A〕後半の﹁その証拠として、われわれは、とりわけ高潔
二四
かという解釈問題に答えなければならない。 拙稿﹁﹃ニコマコス倫
な人のことを﹁思いやりのある人﹂と言い、或る種の事柄について
渡辺
邦夫
理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について﹂でふれたように、ひ
﹁思いやり﹂をもつことが﹁公平なこと﹂だと言っている。そして、
0
とつの有力解釈は、アリストテレスにとってもはや、プラトンのよ
0
思いやりとは、公平な事柄を正しく判別する察しのよさのことであ
︶﹂と﹁真理︵
dianoia
︶﹂は、
alētheia
︶﹂ と は、
dianoētikai aretai
0
うな﹁正義の徳﹂﹁正義の人﹂ の強調は実質的な論点ではなかった
る。ただしここでの﹁正しい判別﹂とは真なる事柄の判別をおこな
0
というものである。これは、アリストテレス自身の第五巻第五章に
0
うことである﹂︵一一四三a 二一∼二四︶ における﹁真なる事柄の
0
おける、正義は対人徳であるがゆえに性向の問題ではなく、正義の
0
﹁そ れ ゆ え、 こ こ で の ﹁思 考 ︵
と の 印 で あ る。 な ぜ な ら、﹁知 的 な 徳︵
判別﹂ が、﹁知的な﹂ 徳が高潔さと公平さの場面で登場しているこ
0
︶
epieikēs
行為の問題だとする断言︵一一三三b二九∼一一三四a 一三︶を典
拠とする解釈でもある。しかしその一方で、﹁高潔な人︵
が 法 の 運 用 の 責 任 あ る 立 場 に い て、 法 を 文 字 通 り 適 用 す る と ﹁不
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alētheia homologōs
︶とは、
︹真
tou praktikou kai dianoētikou
行為にかかわるようなものである。そして、行為にも制作にもかか
正﹂ が 発 生 す る と き に ﹁衡 平 ︵
0
わることのない、 理論的観想にかかわる思考の善し悪しは、﹁真﹂
0
︶﹂の措置を取って柔軟に対
epieikes
0
応して真の公正を実現することこそ正義の行為なのだと第五巻第十
0
と﹁偽﹂ということである︵なぜなら、真偽の把握が、あらゆる知
0
章でアリストテレスが強調を込めて主張するとき︵一一三七b二六
0
0
的思考が持つような働きだからである︶。 これに対して、 今問題の
0
0
∼二七︶、 かれは健全な共同体と国家のために、 そのような﹁法の
0
0
行為にかかわる思考の働き︵
0
0
正しさを是正できる正義の人﹂の必要性と重要性にやはり荷担して
0
理のなかでも︺﹁正しい欲求﹂ に合致した真理︵
0
0
い る と 言 う べ き だ と わ た し は 思 う。 い ま 問 題 の 第 六 巻 第 十 一 章 の
0
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0
であり、実践にかかわる人柄の諸徳と思慮深さの相互関連の場面に
0
︶を把握することなのである﹂︵第六巻第
ekhousa tēi orexei tēi orthēi
0
〔A〕〔B〕 は、 そ の よ う な 人 柄 の 徳 の 重 要 な 一 部 と し て の 高 潔 さ
0
二章一一三九a 二六∼三一︶というように、一般に真理把握の能力
0
を、知的な徳の整理分類という観点から論じなおすという文脈的意
義を担っている。
0
0
おいては、状況内の行為の力を、当該状況での︵自らの欲求に関連
0
0
第六巻は知的な諸徳の研究であるから、 第十一章〔A〕〔B〕 で
0
する︶真理把握の力として捉え返したものと言えるからである。高
0
は高潔さに相当する知的な徳の特徴は、いわゆる﹁温情﹂のような
潔さの徳自体はさしあたり行動力としてあらわれ、適切な行為の性
0
感傷的共感とは一線を画することが明言される。︵第五巻第十章と
向であるが、それはただ単に横の人間関係のあれこれのニュアンス
0
はちがって、法の適用にかぎらない正義にかかわる柔軟で倫理的な
の間を主観的な気持ちのあり方の問題として動くような性向の境域
0
ふるまいなので﹁エピエイケス﹂をここでは衡平でなく公平と訳し
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兵は、勝てる十分な見込みの下でふるまいが﹁勇敢﹂だが、そのよ
アリストテレスは勇気の例で、技術的に強く経験豊富なプロの傭
0
現した事態は、倫理的行為と道徳判断が典型的にどのような場合に
0
を超えて︵そのような性向はもちろん、そのかぎりで道徳的な高さ
0
0
問題になるかという別の視角からみれば、一般的な意義を持つと言
0
でも、 徳でもない︶、 同時に縦の絶対的真理の観点において、 関係
0
わざるを得ないものである。
0
する人全員に正しい、真の措置をおこなう知的な徳としてもみられ
ることができるものでなければならないということが〔A〕末尾の
メッセージである。
0
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0
0
うな見込みがなく、裸の人格が問われる厳しい戦いで勇敢なのはア
0
〔A〕 に お け る こ の 高 潔 さ と ﹁知 的 な 徳﹂ の 結 び つ き の 論 点 を 承
0
マテュアの市民兵であると指摘する。こうすればこうなると経験か
0
けて、〔B〕 から知的諸徳の統合と再整理の議論が始まる。 私見で
0
ら、また技術的にわかっていて、そのために恐怖を感じない人をか
0
0
0
は理解の鍵となるのは、第五巻の正義論では既存の法の文言通りの
0
0
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れは人柄の徳の持ち主と認めず、技術が通用しない場面での恐怖や
0
0
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適用が不正になる場合という、限定された場面の問題として論じら
0
0
0
矜持の情と知の関係においてすぐれた性向であり、その性向に基づ
0
0
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0
れた﹁高潔さ﹂が、じつは倫理というもの一般、ないし人柄の徳が
0
0
0
いて行動でき、正しく判断できる人が勇気ある人だとする︵第三巻
0
0
重大な問題となるあらゆる状況において潜在的に問われるもので
0
0
第八章一一一六b三∼二三︶。 法を、 法技術を超えた次元で是正し
0
0
あったことを主張する、〔B〕 末尾の﹁なぜなら、 高潔さが問題と
0
0
つつ使える人が高潔であるように、戦争や航海等の技術と無関係に
0
0
0
︶ と は、 他 人 と の 関 係 に お け る あ ら ゆ る
ta epieikē
発揮される人格的な力が人柄の徳としての勇気であり、そのような
な る 公 平 な 事 柄︵
善き性質に共通の事柄だからである﹂︵一一四三a 三一∼三二︶ と
徳の持ち主がみせる知的な力が思慮深さである。規則やマニュアル
0
0
0
いう一文である。この一文は、倫理性とはそもそも何か、また実践
や﹁知識﹂ではどうしようもないような場面で一人の人間としての
0
0
0
的な知恵とはがんらい何かという観点から理解されなければならな
内面的な力で事態を掬い取る﹁人格の力﹂と﹁知性﹂が問題だとい
0
0
い。アリストテレスは思慮深さを第六巻第五章ではじめに規定する
うことが〔B〕末尾の一文の趣旨である。
0
それゆえ、 この一文に至る〔B〕 冒頭の、﹁しかし﹂ と訳した逆
0
般理解を、 議論の導入に使っていた︵一一四〇a 二九∼三〇︶。 法
接の接続詞 ︵
de一一四三a 二五︶は、第六巻全体としても非常に大
0
や規則の運用や適用が﹁人柄﹂や﹁徳﹂の問題にならざるを得ない
きな文脈の転換を示すと解釈すべき言葉である。知的な徳相互の区
0
のは、技術的対処ではときにうまくいかないケースが出てくること
別と明確な規定という、以前の文脈の流れをアリストテレスはここ
0
際、﹁技術の適用がない物事﹂ の領域における知の優秀性という一
に よ る。 そ し て、 そ こ で 高 潔 な 人 の 衡 平 を 生 む 措 置 が 必 要 と な っ
でいったん停止して、逆に、細分され、いつでも術語のように使え
二五
た。この第五巻第十章で実定法の特殊な問題という外見を伴って出
実践知と身体
215
渡辺
邦夫
0
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0
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0
二六
0
され、かけはなれた認識に属し、しかも人間的な世界でもっとも重
0
0
るようになった語彙の、日常的でそれほど意味が細分されない使用
0
要とアリストテレスがみなす個別的事実や個別的特徴と逆の極にあ
0
における重なりの場面のほうに視点を移動させて、事柄を論じ始め
0
る、 普 遍 性 の 高 い 学 問 原 理 を 対 象 と す る 認 識 の 力 だ った か ら で あ
0
る。〔B〕 の主要部分を再掲すると﹁しかし、 これまでにわれわれ
0
る。これに対し、第十一章のわれわれが問題にしている箇所では、
0
が述べてきたいくつかの︹魂の︺性向は、すべてじつは同じ一つの
0
第六章とまったく異なる実践の領域の﹁知性﹂が話題となり、しか
0
0
ところへと収斂するようなものだということが、道理にかなったこ
0
0
も そ の 知 性 が、 も っと も 普 遍 的 な 原 理 の 対 極 の、 も っと も 個 別 的
0
となのである。なぜならわれわれは、察しのよさも、物わかりのよ
0
な﹁最終的なもの、つまり個別的な事柄﹂にかかわると明言されて
0
さも、思慮深さも、知性も、みな同じ範囲の人に帰していて、その
0
いる。同時にアリストテレスは、ここの﹁知性・ヌース﹂が、人々
0
ような人々が、察しのよさと知性と思慮深さと物わかりのよさを、
に よ って 日 常 的 に 頻 繁 に 使 用 さ れ る 言 葉 で あ る こ と を 明 記 し て い
0
兼ね備えていると言うからである。実際、これらの能力はすべて、
る。 そ の よ う な 日 常 語 法 に お い て ﹁知 性 が あ る 人 々﹂ と ﹁物 わ か
0
最終的なもの、つまり個別的な事柄にかかわっている。そして、思
り が よ い﹂﹁思 慮 深 い﹂﹁察 し が よ い・ す ぐ れ た﹂ 人 々は 範 囲 が 重
0
慮深い人がかかわる事柄について適切に判別をおこなうところに物
なっているということを、かれはこの議論のもとになる事実とする
0
わかりのよさがあり、すぐれた察しがあり、察しのよさがある﹂
︵a
の で あ る︵一 一 四 三a 二 六﹁わ れ わ れ は・・・ と 言 う か ら で あ る
︶﹂︶。 日本語の﹁知性﹂ に似て、 ギリシア語の﹁ヌース﹂
legomen
0
二五∼三一︶というものだが、倫理的行為にかかわりを持ち、杓子
︵
0
定規なやり方や技術的対処を超えた知的諸徳が列挙され、﹁思慮深
もまた、専門用語や術語として扱うだけでは足りない、重要な生活
0
上の用法も担っていた。その用法において、知性は思慮深さと近似
0
さ﹂がそれらの類名となるべく議論が組み立てられている。
はじめにもふれたように、ここで列挙される徳の名辞のうちもっ
的に用いられ、日常経験の個別の状況で重要な倫理的行動を正しく
遂行するための﹁知﹂﹁知性﹂というほどの意味合いである。
︶﹂である。察しのよさと物わ
nous
とも特異に思えるのは、﹁知性︵
かりのよさなどついては、第九∼十一章における術語としての規定
0
また、〔B〕 におけるアリストテレスの主張はその用法の事後的
0
においてもすでに思慮深さの圏内の優秀さであることが明白だった
0
追 認 に と ど ま ら ず、 問 題 と な る 人 々の 日 常 的 な 語 り 方 に お い て は
0
と 言 え る が、 こ れ と 対 照 的 に 知 性 に か ん す る 第 六 章 の 公 式 の 説 明
0
知 性 が ほ か の 知 的 徳 と と も に ﹁最 終 的 な も の、 つ ま り 個 別 的 な 事
0
は、普遍的で必然的な対象にかかわる理論的学問の究極の原理の直
柄 に か か わ る︵
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0
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0
0
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0
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0
0
︶﹂︵一 一 四 三a 二
tōn eskhatōn kai tōn kath’ hekaston
観的把握という内容であり、そもそも思慮深さの領域である人間的
九︶ と 詳 し く 分 析 し、 当 の 語 り の 積 極 的 意 義 を 解 明 す る と こ ろ に
0
な﹁ゆらぎ﹂の多い、自由と意志が問題になる世界の認識とは区別
214
tōn eskhatōn ep’
︶ がない﹂︵b一︶ という二つの句が注目に値
logos
まず、﹁両方向の最終的なもの﹂︵a 三五∼三六︶および﹁それに
0
の 言 葉 に 注 目 し て、 議 論 の 趣 旨 と 動 機 に つ い て 最 小 限 の 理 解 を 試
0
ま で 踏 み 込 ん で い る。 さ ら に、 語 使 用 に か か わ る か れ の こ の 分 析
0
み、予備的整理をしておこう。
0
は、 続 く 〔C〕 に お い て 実 践 的 推 論 の 構 造 を め ぐ る 分 析 と し て 継
0
続され、﹁知性は両方向の最終的なものにかかわる︵
つ い て の 理 由︵
0
0
0
0
する。アリストテレスは明らかに、学問的推論のスタートとなる原
︶。つまり、知性は第一の項と最終項の両方にかかわり、
amphotera
こ の ど ち ら も そ れ に つ い て の 理 由︵
0
理︵﹁第一の項﹂︶の直観と同じく、日常的倫理的行為を導く個別的
0
︶ が な い。 知 性 は、 論 証
logos
0
0
の場面では不変不動の第一の項にかかわり、行為の場面ではほかの
0
0
対象ないし特徴︵﹁最終項﹂︶の認知も、理由による推論ではなく、
0
あり方を許容する最終の項、すなわちもうひとつの前提である小前
0
推論を経ない直観であって、そのゆえに﹁知性・ヌース﹂という同
0
提にかかわる。事実、こうしたほかのあり方を許容するものが、目
0
0
一 の 語 で 表 現 さ れ る と い う 判 断 を 示 し て い る。 つ ぎ に、 同 じ ﹁知
0
0
的に到達するための始点なのである。 というのも、︹行為の場面で
0
0
性﹂という語が別の用法で使われていることを説明するために、論
0
0
は︺ 個別的な事柄から普遍へと到達するからである﹂︵一一四三a
0
0
証の場面と行為の場面を、理由づけと説明という観点から﹁個別対
0
三五∼b五︶と論じられる。これは日常語法の行為と選択にかかわ
0
普遍﹂という固定的な対立軸においてのみ比較することを、かれは
0
る﹁知性﹂を、第六章で規定した、学問原理を直観する﹁知性﹂と
0
0
断念しているように思われる。そして、それに代えてここで新たに
0
0
の類似性でとらえるための議論であり、そのための推論構造の分析
採用されているのは、当事者による行為や学問活動の原因の観点で
0
0
0
であるように思われる。 そして、 最終的にこの分析は、〔C〕 を締
0
0
0
ある。行為の場面で、たとえば﹁歩くことは善いことだ﹂のような
0
め く く る ﹁こ う し て、 個 別 的 な 事 柄 に つ い て の 知 覚 ︵
0
0
0
︶を
aisthēsis
大前提から思考と選択と行動が始まらず、はじめには﹁もうひとつ
0
0
0
そなえなければならず、 そうした知覚こそ、 知性なのである﹂︵b
の 前 提 で あ る 小 前 提﹂ の 直 観 か ら、 つ ま り﹁今・ こ こ の・ こ の 要
0
五︶という、知覚と知性とを同一視する驚くべき主張につながって
因﹂の善いものとしての把握から、そのつぎにそれを正当化し説明
0
ゆく。
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二七
0
0
0
する大前提をみつけると同時に現実に︵たとえば、歩き出すという
0
最後に登場したこの主張は、﹃魂について﹄ で展開されるかれの
0
よ う に︶ 行 為 す る、 と い う 時 間 的 前 後 関 係 が 問 題 で あ る。 そ れ ゆ
0
心の哲学の基本的枠組みにおける知覚とヌースの厳格な区別を無視
え、状況に入った時にいきなりはじめに起こる知覚が、説明の前後
0
した、大胆な﹁逸脱﹂にみえるものである。したがって節を改め、
関係で言えばまったく対極の位置づけで押さえられる﹁知性﹂であ
0
この同一視そのものの検討を行わなければならない。しかしその前
るとみなされた、と推測することができる。
0
に、検討の準備のために、ここの議論全体の流れをめぐりいくつか
実践知と身体
213
渡辺
邦夫
0
0
0
第八章一一四一a 二五∼三〇︶
︶
二八
それは、︹固有対象の知覚とは︺別の種類の知覚である。︵第六巻
し、これは思慮深さというより、むしろ知覚なのである。ただし
性の︺方向に進んでも、そこで探究は停止するからである。しか
なら、その︹一般性の強い定義や原理とは反対の、具体的な個別
︵
象だからである。しかし知覚といっても、知覚に固有の対象を知
0
以上を予備的考察として、次節で﹁知覚イコール知性﹂とい
0
覚するということではなく、数学︹的推論︺において最終的なも
0
う、例外的で奇妙な印象のぬぐえない主張の、本格的検討をおこな
0
のが三角形であることを知覚するような場合の知覚である。なぜ
0
うことにしよう。
二
0
﹁そ う し た 知 覚 こ そ、 知 性 な の で あ る﹂ と い う 〔C〕 末 尾 の 一 節
は、前節でふれたアリストテレスの認識の分類の一般的原則からみ
0
0
0
0
0
0
﹁数 学 ︹的 推 論︺ に お い て 最 終 的 な も の が 三 角 形 で あ る こ と を 知
0
知 能 力 で あ り、 知 性 は ﹃魂 に つ い て﹄ 第 三 巻 第 三 ∼八 章 に お い て
0
覚するような場合の知覚﹂︵a 二八∼二九︶あるいは﹁︹固有対象の
0
も、﹃分析論後書﹄第二巻第十九章においても、﹃形而上学﹄Θ巻第
0
知覚とは︺ 別の種類の知覚﹂︵a 三〇︶ とは、 アリストテレスの心
0
十 章 等 で も、 そ し て 本 書 ﹃ニ コ マ コ ス 倫 理 学﹄ の こ の 章 の す ぐ 前
0
の哲学の用語では﹁付帯的知覚﹂のことであり、さまざまな色を見
0
に 位 置 す る 第 六 巻 第 八 章 に お い て も ま た 明 確 に、 知 覚 お よ び 表 象
0
るとか匂いを嗅ぐとかの固有知覚ではなく、また運動や静止や形や
0
︶ の能力を基盤としつつその上に動物のなかで人間にの
phantasia
︵
0
数などの共通知覚でもなく、これらの﹁自体的な﹂知覚と対比され
0
み実現する、より高度な認知能力である。第六巻第八章のアリスト
る知覚のことである。これは、事実や、学習された内容を知覚内容
ること﹂を例として挙げる。赤や白を見ることは健全な視覚があれ
0
テレスの説明は、かれのこの件に関するそうした標準的見解をも背
に含む知覚である。アリストテレスは﹃魂について﹄第二巻第六章
このことのゆえに、思慮深さは知性と好対照だとされるのである
0
ばできることだが、向こうの白い何かをだれかの息子として見るこ
︶。なぜなら、知性はさらに遡って根拠︵
antikeitai
0
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0
0
0
とは、視覚経験にとっては﹁たまたまのもの﹂にすぎない、人の見
0
ることのできない︹始まりとなる﹁最上位﹂の︺定義にかかわり、
0
知りや一部の人間にのみ可能なほかの経験を必要とする。三角形を
0
それに対して思慮深さは最終的なものにかかわるのだが、この最
見る、ないし三角形として見ることも、視覚や知覚能力一般を超え
0
終的なものは︹もはや︺、 学問的知識の対象ではなく、 知覚の対
︵
︶ を与え
logos
四一八a 二〇∼二三において、﹁白いものをディアレスの息子と見
景に語られたとみなすことができるものである。
て、 明 白 に 破 格 の 言 い 方 で あ る。 知 覚 は 人 間 が 動 物 と 共 有 す る 認
6
212
0
0
た﹁幾何学の学習﹂を前提とする点で﹁付帯的﹂である。
0
0 0 0
0 0 0
0 0 0 0
0
的な大変化を別にすればアリストテレスは、直観的な知られ方と推
0 0
論的な知られ方の違いが理論の場面でも実践知の場面でも同等に重
0
じつは第八章末尾の論述と、先に引いた第十一章〔C〕の論述は
0
要であることを承認しており、この違いを一般的な仕方でどう表現
0
同じ事態を全く別の観点と語法から表現したものであると思われ
するかという観点でやり方を変更したのにすぎないように思われ
0
る。第八章では、理論的学問の第一原理を直観的に把握する特殊な
る。
0 0
能力という、新たに定義した﹁ヌース﹂の意味を固定的に考えてい
ここに、アリストテレスの第六巻前半七つの章の用語整理が人工
0 0 0 0
る。その上で、理論的学問の場面で知的直観であるヌースが、原理
的な試みであったことが関係するとわたしは考える。 つまり、﹁知
0 0 0
からの推論による学問的知識︵エピステーメー︶に対するように、
性︵ヌース︶﹂という日常の言葉を、
︵第六巻第十一章︶
推論を含む
日常的実践の場面でも、論拠や説明を通じて推論的な思案の末選択
表
わる
部分的認知の種類 ﹁最終的なもの﹂ にかか
0
0
0
実践︵全 体 の 徳 =﹁思 慮 深 個 別 の 性 質 の 知 覚 と し
0 0 0 0
﹁思慮深さ ﹂③
さ ﹂=③+④︶
ての知性④
0
理論︵全 体 の 徳 = ﹁知 恵﹂ 学 問 原 理 の 直 観 と し て
0 0
学問的知識②
の知性①
=①+②︶
認知の領域
2
と 行 為 を 行 う 思 慮 深 さ ︵フ ロ ネ ーシ ス︶ に 関 連 し て 推 論 に 先 立 つ
﹁直 観﹂ を 問 題 に し な け れ ば な ら な い 局 面 が あ り、 こ れ は 知 覚 ︵付
0
最終のものの直観
帯的知覚︶として押さえることができるとかれは説明している。表
推論的な知り方
0
知覚
④
の右の欄の最上段
二九
ス﹂ は両義性を帯びているように思われる。〔E〕 の﹁以上のこと
そして、 この捉え方の変化に連動して、﹁思慮深さ・ フロネーシ
価の実態に忠実なのだと思われる。
のみに出現したときより、はるかに日々のわれわれの能力帰属と評
り他の知的な徳との区別を優先した用語法で表
という、認知の新しい整理によってとらえておくほうが、さしあた
2
︵第六巻第八章︶
第一のものの直観
0
学問的知識
②
0
知性
①
思慮深さ
③
1
で示すなら、つぎのように書くことができる。
表
理論
実践
一方、第十一章の〔C〕に至ると④にあたる知覚の別名が、この
0 0 0
とは別の言葉遣い
表 でいえば縦横両軸のいずれにおいても離れた位置に書かれる①
の﹁知性︵ヌース︶﹂ とされるようになり、 表
実践知と身体
が行われることは、直ちにわかるのである。しかし、この一点の劇
1
1
1
1
211
渡辺
邦夫
三〇
がいなかった﹁実践的知恵と道徳性の関係にかんする問題﹂と、諸
倫理を奉ずるアカデメイアにおいて最大の哲学的難問のひとつにち
こでの﹁中間性﹂とは、
﹁︹その人の︺分別によって中間と定まり、
は﹁われわれにとっての中間性を示す性向﹂である。そして、こ
したがって、︹人柄の︺徳とは、﹁選択を生む性向﹂であり、それ
︶
meson,
うな実践の場面での﹁直観﹂の重要性の問題として表現されるべき
0
から、思慮深さと知恵の本質が何であり、それぞれが何にかかわっ
0
事 柄 で あ る と 思 わ れ る。 人 柄 の 諸 徳 に か か わ る ア リ ス ト テ レ ス の
0
ているのかということ、またこれらが、魂のなかのそれぞれ別の部
0
一 般 的 説 明 は、 い か な る 人 柄 の 徳 も、 感 情 と 行 為 の ﹁中 間 ︵
0
分にかかわる徳であるということが語られた﹂︵一一四三b一四∼
0
0
︶﹂を狙い、超過と不足の﹁中間﹂であるものである、とい
mesotēs
0
0
一七︶において﹁知恵﹂と並べられ、つぎの第十二・十三章でその
0
0
うものだった。アリストテレスの第二巻第六章の説明によれば、レ
0
対比において詳論される﹁思慮深さ﹂は、実践全体に匹敵する総括
0
スリング名人のミロが食べる、かれに合った多量の食事や、ハード
0
的 な 知 的 な 徳 の 名 に あ た る ﹁思 慮 深 さ ﹂ で あ って、 推 論 の ﹁は じ
0
0
な練習メニューは、初心者に適切な食事量や運動量をはるかに超え
0
0
まり﹂
﹁原理﹂が別ルートで与えられた上の実践の場の推論である、
0
る。 こ れ と 同 様 に、 感 情 と 行 為 に お い て も わ れ わ れ は ﹁事 柄 の 中
間﹂、 つまり超過と不足を足して二で割った単純な中間ではなく、
0
思案︵ boulē
︶の優秀性という意味の狭義の思慮深さ︵
﹁思慮深さ ﹂
︶
よりも、明らかに広いからである。
0
ミロと初心者でべつの食事量と運動量がそれぞれの人の﹁中間﹂で
0
アリストテレスが自ら一回定めた﹁知性﹂と﹁思慮深さ﹂の用語
0
あるように、われわれひとりひとりに応分の量である﹁われわれに
0
法から、この第十一章で逸脱していること、そしてその逸脱が自覚
とっての中間﹂をそれぞれ選び、持つのでなければならない。アリ
0
0
的であったことは、テキスト上明らかであるように思われる。第一
0
0
ストテレスはこの﹁中間﹂をつぎのように一般的に説明する。
0
徳の一性の問題の両方の一挙解決を狙う第十二・十三章の議論の、
かつ思慮深い人ならばその中間性を定めるような定め方において
いてそう定まる﹂における知的な徳のフロネーシスへの明示的言及
︶ならば・・・定めるような定め方にお
ho phronimos
︵
議論空間を用意するためであった。さらに第三に、以前の章で自身
に比べ、われわれの倫理的行為と道徳判断
﹁思慮深い人︵
そう定まるもの﹂である。︵一一〇六b三六∼一一〇七a 二︶
二に、第十一章における第八章の用語法からの逸脱は、知性主義的
0
に、第八章と第十一章は同じ事態への二つの態度である。そして第
2
の用語法を定めたアリストテレス自身が、ここで人々の日常的な言
は表
は、前節で先に引いた第六巻第二章一一三九a 二六∼三一の論述を
7
1
葉遣いに根差した議論をしている旨、一一四三a 二六で明記してい
る。
私見では、表
1
の実情を、より正確に捉えている。このことは、人柄が問われるよ
2
210
0
0
0
も勘案すると、少なくとも選択における判断の真理性を含むもので
なければならない。
ているために、状況通りの認知が、感情というノイズによって不可
能になっている。したがって、これら大多数の人々が結果的に判断
0
0
0
0
0
において誤り︵あるいは、より悪い状態では判断自体がそもそも不
0
いま、﹁真理﹂ と人柄の徳の関係を、 勇気を例にとって説明すれ
能になり︶、 行動において失敗することは、 その状況に入る前に決
0
ば、﹁正解﹂ が一つしかない、 あるいはきわめて小さな範囲の行動
ま って し ま って い る こ と で あ る。 そ の 状 況 で は 最 初 か ら 恐 ろ し さ
0
0
可能性のなかにしかないような、難しい、恐怖や不安でほとんどの
で ﹁し び れ る﹂ か、 あ る い は 自 信 過 剰 で ﹁リ ス ク の 実 態 が 見 え な
0
0
人が行動も判断もままならない状況で、その難易度の高い客観状況
い﹂のである。その場で何かを直すことは、もはや、ほぼ不可能で
0
0
に も か か わ ら ず 適 切 に 行 動 し て ﹁状 況 そ の も の と 当 事 者 全 員 を 救
0
0
ある。逆に、自信の大きさも恐怖の感情も﹁中間﹂にあることにお
0
0
0
0
う﹂ことが、勇気の徳の持ち主の典型的行為である。それでは、な
0
0
0
0
いて成り立つ勇気の徳もまた、この状況以前のその人の行動履歴に
0
0
0
0
ぜ勇気ある人にはこの行為が可能であり、またかれならば当然そう
0
よって確立されたものである。したがって勇気ある人は、その状況
0
すると期待されるのに対し、ほかの凡人にはそのような期待もでき
0
に入った時に新たにかれの優秀性に当たる何かを努力して生み出す
0
ないし、かれらはたいてい事実的にも失敗するのかということは、
必要もなければ、その状況のなかで遂行することにかれの卓越性が
0
感情が適正なとき、直観的認知の役割を果たすからであると思われ
見いだされるというより、状況に入ったその時に見えていること、
0
る。アリストテレスが詳しく説明するとおり、勇気の徳とは、一方
知覚していることにおいて、すでにかれの徳が反映されていると言
0
で恐怖の感情が﹁中間﹂にあり、他方で自信の大きさが﹁中間﹂に
うべきなのである。
0
あるという二重の条件のもとで成り立つ︵第二巻第七章一一〇七a
0
0
したがって、いまの勇気・臆病・向こう見ずという一群の行動傾
0
三三∼b四︶。 或る、 だれもが恐怖を持つ状況を考えてみよう。 そ
0
向にかんしていえば、成功も失敗も、いずれも状況に入った最初の
0
のような状況で、大半の人は恐怖のあまり判断力が曇り、自信を喪
0
﹁見え﹂、ないし当該状況のアスペクトの知覚の正確さ︵ないし不正
0
失して、意味もなく逃げ出そうとしたり全体の秩序を乱したりする
0
確さ︶に起因するというべきであって、有徳な人と不徳の人に何か
0
だろうし、そうでなくともほかのパニック的で衝動的な行動に走る
共通の所与の知覚や認知のつぎにそれぞれの類型の人が遂行する知
0
だろう。より少数の例外的な人間たちは自信過剰のゆえに、これま
的推論過程に起因していると考えるべきではないだろう。勇気ある
0
た、そのような状況にまったくあわない向こう見ずな行動を周囲の
人 は こ れ ま で の 経 験 に よ って、 そ の 状 況 が ど れ ほ ど 恐 ろ し い も の
0
人に提案したり、個人的に実行したりする。両方の類型の人間は、
か、 自分︵たち︶ にどのような対応が可能なものかが﹁見える﹂、
三一
アリストテレス的説明でいう感情の﹁超過﹂ないし﹁不足﹂を持っ
実践知と身体
209
渡辺
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三二
二・十三章で哲学的難問論として検討する直前に位置する。それゆ
0
つまりそのような行動可能性を内蔵したものとして状況を見ること
0
え、この文脈の議論は、人柄の徳一般という観点を確立し、その観
0
ができる。これは、その程度の恐怖と、その程度の自信の大きさが
0
点のもとで人柄の︵諸︶徳と知的な徳の内的な関係を明確化すると
0
うちに発生することに見合うアスペクト知覚であるといえる。そし
0
人 柄 の 徳 の 一 般 論 を こ こ で 遂 行 す る ア リ ス ト テ レ ス の キ ーワ ー
0
いう趣旨を担うものである。
て対象を見る知覚であることにおいて、アリストテレスの知覚論の
ドは、 第一節において〔A〕 の逐語的説明中で論じたように、﹁高
0
て、この知覚は、そのような善い行為につながるアスペクトにおい
分類では﹁付帯的知覚﹂の一種である。或る目の前の形のものを﹁三
潔 さ︵
0
0
︶﹂ である。 この言葉のそのような役割は、〔B〕 の
epieikeia
角形として﹂見ることができる人は、そうできない人に比べて、そ
0
議論のなかで﹁そして、思慮深い人がかかわる事柄について適切に
0
の人がそのときまでに学習した知識としての幾何学の学習成果の上
0
判別をおこなうところに物わかりのよさがあり、すぐれた察しがあ
0
で、その知覚的な形姿を三角形として見ている。これは特定の色を
0
り、察しのよさがある。なぜなら、高潔さが問題となる公平な事柄
0
見る﹁固有知覚﹂でもなければ、知覚的な形姿そのものを万人の能
0
とは、他人との関係におけるあらゆる善き性質に共通の事柄だから
0
0
力としての複数感覚で共通に知覚する﹁共通知覚﹂でもないから、
0
0
である﹂︵一一四三a 三一∼三二︶ というように明記されている。
0
0
一般に知覚能力そのものの発現である自体的知覚ではなく、それを
0
0
高潔さは第五巻の正義論のなかで、第十章において法の不備を是正
0
0
超えた知的学習と知識にかかわる﹁余り﹂を持つことによる﹁付帯
0
0
する特殊な正義として導入されたが、 ここではより一般的に、﹁人
0
0
的知覚﹂である。まったく同様に、或るとき或るかなり難しい状況
0
柄の徳の、人柄の徳ならではの一般的特徴﹂を帯びた心性として扱
0
で、状況自体の難しさにもかかわらず勇気ある行為への可能な連関
0
われている。この新しい扱いは、人柄の徳というものについて、そ
0
において状況と諸要素を見ることができる人は、万人のものである
れが技術や知識一般とどのように区別されるのかという問題と、技
0
自体的知覚ではなく、善き人への学びという﹁余り﹂を持つことに
術や知識システムがいかに進歩しても、人間的認識能力の問題とし
0
よる﹁付帯的知覚﹂によって、悪徳の人や普通の人には知覚できな
て﹁人柄の徳の領分﹂が消えないと思われるのはなぜか、という問
0
いような独特のアスペクトを知覚することができている。
0
0
0
0
題から理解されるとわたしは考える。勇気の問題は戦争や緊急時の
0
以上の例示に使った﹁勇気の徳﹂は、個別的な人柄の徳のひとつ
0
﹁技 術 の 訓 練﹂ の 発 達 や 専 門 知 識 群 の 整 備 に か か わ ら ず 残 り、 幼 少
0
である。第六巻第十一章のいまわれわれが問題にしている文脈は、
期に始まるべき一個の人間としての内面性の整備という一般問題へ
0
そのような個別の人柄の諸徳が統合されてひとりの人の内部にそな
の解として答えられなければならない。そして、そのような一般問
0
わる可能性を一方で見すえながら、そのような可能性をつぎの第十
208
0
0
0
0
返して﹁笑い﹂を演出する場面での、あまりに微妙な対応における
0
題は、﹃ニコマコス倫理学﹄ 第三巻第六∼九章の勇気論中では語ら
﹁機知の問題﹂でも、同様だろう。
0
れなかった、具体的社会の具体的人間関係の中で解かれなければな
その一方で、このような形で人柄の徳が一定の共通特徴のもとで
0
らない問題である。そのような具体的社会と具体的人間関係は、正
論じられるということは、それらを﹁ひとつの知的な徳﹂のもとで
0
義の徳の議論の始まりの時点からアリストテレスの説明の重要な要
考察することが可能であるということを示唆する。ここからアリス
0
因として議論の前景に出てくる。その正義論における﹁高潔さ﹂と
トテレスは、高潔さが共通特徴を象徴的に担う人柄の諸徳全体を、
0
﹁衡 平 の 措 置﹂ と 並 行 的 に、 関 連 す る 軍 事 技 術 マ ニ ュア ル や 危 機 対
﹁知﹂の観点から﹁知性︵ヌース︶﹂と﹁思慮深さ︵フロネーシス︶﹂
0
応マニュアルが容易には適用されないか、むしろ明確に無効な場面
の、互いに領域的に重なる二つの知的な徳の名のもとでまとめあげ
0
前にもふれたようにこの論じ方は、一見すると奇妙なものに思え
0
格で勝負しなければならない。したがってここでも、正義における
るものである。なぜなら、アリストテレスは第六巻のここ以前の章
0
﹁衡 平﹂ の 措 置 に 似 て、 既 成 の 規 則 を 超 え た、 生 身 の ﹁人 格 的 な る
まで、ひたすら、知的な諸徳を﹁分断して統治﹂することに明け暮
0
もの﹂による創造的な対応が期待されるのであり、うまい具合に現
れていたからである。ここで、このような印象を最終的に払拭しな
0
で、 典型的に﹁﹁勇気の人﹂ の人による解決﹂ がなされなければな
ようとする。
実に勇気の人がその状況にいれば、そこでそのような鮮やかな解決
ければならない。﹁人間の徳﹂ を人柄の徳と知的な徳に分け、 人柄
0
らず、そのようなとき人々は、自己の置かれた部署で自己の裸の人
が示される。なお、個人の一回の鮮やかな解決は、一個人の高潔さ
の徳のそれぞれと知的な徳のそれぞれを説明することで議論を終
0
による法の正しい扱いがその後記憶され、共同体の財産にもなって
えようという意図は、﹃ニコマコス倫理学﹄ の構想を持った当初か
0
法改正などのその後の改革につながり得るのと同様、勇気の場合で
らアリストテレスにはなかったということのほうが、ことの真相で
0
あっても陰伏的には共同体とその進歩に関係する可能性を持ってい
あるようにわたしには思われる。第一に、すでにふれたように、ア
0
る。
0
リストテレスはかれに先行するプラトンたちが取り組んだ﹁倫理的
0
そして、この問題は本質的に、基本的欲望を抑制することがとく
知性自体の倫理性の問題﹂や﹁諸徳の一性の問題﹂などの哲学問題
0
0
に難しい場面での﹁節制﹂にかんしても同様だろうし、お金の得方
0
に、同じ﹁徳の倫理学﹂の陣営の一人として、また同じ﹁知性主義
0
と使い方にかんする、きわめて一般的であるが状況の偶然的特殊性
0
三三
0
倫理学﹂の陣営の一人として、個性的な解決案を提出しなければな
0
に よ り 極 度 に 難 し い た め に ﹁決 ま り﹂ に 頼 れ な い ﹁気 前 良 さ の 問
らない。それゆえ、一回諸徳を分離して個別的説明をした以上、そ
0
題﹂でも、さらには、或る他人からきわどくからかわれた際に切り
実践知と身体
207
渡辺
邦夫
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
三四
0
0
なぜなら、アリストテレスが第一巻と最終第十巻で二回幸福につい
0
0
のように分けていなかったプラトンたちと同じ問題の自分による解
て語って、聴講者や読者自身に幸福と人間的善にかんして考えさせ
0
0
決の提出という場面では、むしろ全体を再度総合する議論を自分で
ているとき、そこではかれは文字通りの﹁言語行為﹂で聴講者に﹁善
0
つくって、その上で議論しなければならないと言いうるのである。
く生きること﹂の重要性を直接説いているのであって、そこでの言
0
第二に、 アリストテレス倫理学における、﹃ニコマコス倫理学﹄ 第
語的な働きかけの具体的リアリティーに比べ、﹁かれの理論﹂ に基
0
二巻から第六巻を占める長大な﹁徳の議論﹂の全体は、幸福ないし
づく諸徳ひとつひとつの説明は、なんらか抽象性を免れえないよう
0
人間的最高善の第一巻第七章における定義のところに最終的な関連
に思われるからである。一例は、すでに示した。勇気や節制などの
0
性を持っていると思われる。その定義においてアリストテレスは、
典型的な人柄の徳は、むろん具体的社会におけるわれわれの具体的
0
﹁徳 に 基 づ く 魂 の 活 動﹂︵一 〇 九 八a 一 六 ∼一 七︶ と 言 って 単 数 形
な人間関係のなかでの行為︵群︶によって、また多かれ少なかれほ
の ﹁徳 ︵
0
︶﹂ でまず定式化をおこない、 しかるのち﹁そしても
aretē
かの諸徳の修得との一定の関連において、身に付く。これらにかん
0
し徳が二つ以上だとしたら、もっとも善く、もっとも完全な徳に基
するアリストテレスの説明は、後の︵例外的に巨大であり、問題の
0
づく魂の活動が人間にとっての善となる﹂︵a 一七∼一九︶ と言い
多い人柄の徳である︶正義の議論や、さらにその後の知的諸徳の議
0
換えて、補足的説明を付け加えている。ここの解釈は全巻の解釈に
論やフィリア論によってその細部が補われうることを織り込み済み
0
かかわる難問を含むが、 この箇所の自然な読みは、﹁人間の徳﹂ を
で進められたものと考えられるし、 ギリシアで伝統的に、﹁この徳
0
一定の大雑把なピント合わせでみると一体のものにみえ、それゆえ
には、このような教育﹂として暗黙のうちに受けつがれてきた、
﹁科
︶
そのかぎりでは単数形で語ってよく、それをより近づいて、ないし
目の学習﹂に類した内容を明示化して、伝統に自分なりの表現を加
︵
より詳しい分析装置に頼ってズームアップしてみると多種多様な複
え な が ら 一 定 の 意 図 的 改 善 と、 明 文 化 と 理 論 化 自 体 を 通 じ た ﹁啓
︶
数の徳のようにみえてくる、というものであろう。アリストテレス
蒙﹂も果たすという目論見をも実現するものだったはずである。し
︵
は縷々ズームアップした話をした後で、いつかまた、幸福の問題を
0
0
たがって、そのような精密で十分詳細な諸徳の説明を通じて、骨太
0
0
ストレートに語りうるもともとのピントの場面に戻ることができる
0
0
の﹁﹁徳﹂ により善く生きるとき幸福である﹂ という主張がどのよ
0
し、 また、 一度は戻らなければならなかったのである︵なお、﹁大
うに肉づきを得るかという関心で読んでいってかまわないように、
0
雑把なピント合わせ﹂は第二巻以後のアリストテレス自身の精密な
わたしには思われる︶。
したがって、ここでアリストテレスが﹁知性﹂と﹁思慮深さ﹂で
0
徳の分類と諸徳の周到な定義によって﹁乗り越えられた﹂とする解
釈ももちろんありうるが、わたしはこのタイプの解釈を採らない。
9
8
206
P 実践的推論における﹁知性﹂と﹁思慮深さ﹂の理解のための
例
実践にかかわる知的な徳の二側面を言い表したことは、倫理学の文
脈上、最大の宿題を解くことにつながる重要な一歩であったと思え
こう言う。
正直なことは善い。
大前提
0
るのである。理論にかかわる知性と知恵と学問的知識は、学問的知
0
小前提 この言い方は正直である。
0
識を働かせている場面において、知性による理論的直観でその学問
0
結論=行為
0
的推論の状況以前に原理をつかんでいる学問的研究者が、その原理
把握に基づいて推論を行い、新たな学問的知識を発見するという過
0
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0
0
Tの学問的知識に関連する理論的推論において、知性とは、この
0
程として記述される。〔C〕 のアリストテレスによれば、 この場合
0
推論以前に推論者が学習により持っている、植物学の原理の知的直
0
の﹁知性﹂は、もっとも普遍的で上位の学問的原理にかかわってい
0
観を意味する。その直観から推論者は推論を遂行することができ、
0
る。他方、実践の場面を同じ認識面での向上や新発見という観点で
0
結局﹁樹液の凝結﹂という、直観的に摑まれている学問原理から降
0
みるとき、その場の行為と実践的判断という状況に入る以前に適切
0
り て く る ﹁中 項﹂ の 介 在 に よ って こ の 場 の 理 論 的 推 論 が 遂 行 さ れ
0
な人柄の徳ないし感情状態を形成し終えた行為者であれば、そのよ
0
る。 そしてその結果、﹁葉の広い樹木は落葉する﹂ という内容の学
0
うな人柄の徳の力でかれの状況の個別的アスペクト把握に基づいて
0
問的知識が産出される。
0
﹁個別的な事柄から普遍へと到達する﹂︵一一四三b四∼五︶、 つま
0
他方、Pの行為者︵この場合は発言者ないし言語行為者︶は、現
0
り、その状況で個別的な要因のものとしてみえたアスペクトのもと
在の個別の状況以前に正直の徳の鍛錬やほかの人柄の諸徳の鍛錬が
0
で、自分の善ないし幸福の一般的な姿をも理解できるようになる。
バランスよく行われてきた。いま、この行為者はほぼ立派な人なの
心の余裕のある人間関係を大事にするあまり、事柄通りに物事を言
だが、言葉の正確さにおいて自分にやや甘く、また親しい相手との
つぎのような事例が考えられる。
T 理論的推論における﹁知性﹂と﹁学問的知識﹂の理解のため
う。ここでの知性とは、まさにこの発言の状況に入る以前にこの人
わずその場でおもしろおかしく脚色することを好んでいた、としよ
葉が広い樹木は樹液が凝結する。
の例
大前提
の持っている、人柄の︵諸︶徳にかかわる、感情全体の適切さに起
0
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0
0
0
0
0
0
0
0
三五
0
0
てのほかの構成要素がそろった中で、当の状況において自分の言葉
0
因する認識能力である。かれは話す相手と話の材料とその場のすべ
樹液が凝結する樹木は落葉する。
葉が広い樹木は落葉する。
小前提
結論
実践知と身体
205
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渡辺
邦夫
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三六
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0
知覚﹂であることが明らかであり、この﹁知覚﹂は付帯的であるが
0
がどのようなものでなければならないかを見抜く。この見抜きは、
0
ゆえに、直観的であると同時に、学習の成果と言いうる知性の範囲
0
推論を経たものでなく、過去の諸経験と蓄えられた知的・情緒的な
内の認識でもあったからである。すなわち、かりに人柄の徳にまっ
0
0
力に基づいてその場で直観として発揮されるものである。その人は
たく縁のない人間であれば、感情状態は感情状態のままで知との関
0
0
その見抜きにしたがって﹁小前提﹂にあたる自分の言い方にかんす
連性をまったく持たないままだったろうし、感情状態に基づく対象
0
0
る認識を持ち、そして、そのとおりに発言する。そしてその発言に
知覚であれアスペクト知覚であれ、知性と重なることはなかったは
0
おいて、 まったく同時に大前提﹁正直なことは善い﹂ が、︵長年、
ずである。しかし、人柄の徳を身に付け、そこで徳のない人と異な
0
0
この行為者に残っていた小さな弱点を克服する形で︶ついにかれの
る有利な認識の状況を持ちえた、今の主題である人の場合には、事
0
0
ものとなったと言いうるのである。このようなことが可能であるこ
情はまるで異なってくるというのが、アリストテレスの見解である
0
0
0
とは、Pの当事者がこれ以前に自分の行動傾向において十分な進歩
と思われる。そのような人は、読み書きの知識のなかった子どもが
0
0
0
を遂げており、今回のこの行為場面でその進歩が晴れて個別的成果
0
0
そ の 後 文 盲 に 終 わ ら ず に、 読 み 書 き の 知 識 を 身 に 付 け た の と 同 様
0
0
となるからである。そのとき、この行為者は、第十一章のテキスト
の、知覚と知性の︵静的な︶区別を自ら能力的に乗り越える大きな
0
0
の〔C〕のアリストテレスの論述のとおり、自らのこれまでの成果
進歩を経て、そうして今のこの状況での行為と認知を行っている。
0
0
に基づき今回正しく行為して、そしてそれと同時に、自己の目的と
したがって、人柄の徳が身に付き、感情状態によってアスペクトの
0
善にかんする認識をいわば﹁更新﹂することになる。
0
0
0
0
0
0
0
0
0
見え方がこのようになったという事態は、無知であった過去の経験
0
以上の描写においてこの読解方式と理解の妨げとなりうるのは、
0
から進歩を遂げて学習して知った状態になった後はじめて学習事項
0
0
心的機能のカテゴリーにおける﹁感情状態﹂と﹁知﹂のあいだの絶
0
0
に関連する活動に参画する場合と、並行的に論じられなければなら
0
0
対的に動かしがたい差異、ないし﹁知覚﹂と﹁知性﹂の間のカテゴ
ない。そして、アリストテレスの〔C〕の議論のポイントは、原理
0
リー的な不変の差異という発想であろう。しかし、いまわれわれが
0
0
を把握した人の理論的知識の活動とはまったく違って、人柄の徳の
0
問題にしているこの非常に特殊な文脈では、両者の差異を静止画像
0
確立後の人間の活動場面では、その場面で遭遇する事柄の新しい個
0
的に捉え、その上でカテゴリー的に別箇のものとみなす、というこ
別的認識がはじめにきて、しかるのちそのようなアスペクトの知覚
0
とを為すべきではないとわたしは考えるのである。というのも、ア
の一大変換から、行為の目的と人生の最大目的としての幸福の新し
0
リストテレスが﹁知覚﹂にはじめて言及した、先に引用した第六巻
い認識がそれに続いて起こる、というところにある。
0
第八章一一四一a 二五∼三〇で問題となる直観的知覚は、﹁付帯的
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章末尾のかれの主張は、続く人柄の諸徳にかかわる議論全体の前提
0
0
わたしには、ここでのアリストテレスの以上の論点は、人間にか
0
0
0
であり、その前提はこの第六巻第十一章でも当然維持されている。
0
0
んする当然の事実を述べたもののように思える。われわれは倫理と
0
0
したがってアリストテレス的な発想に基づくなら、もし或る人がア
0
0
0
幸福にかかわる場面で、﹁認識の一般的な進歩﹂ と言える事態を、
0
0
0
リストテレスの倫理学の考え方にせよほかの思想にせよ﹁頭で﹂受
0
0
0
自分の個別的経験のさなかに、ひとつの︵ないしいくつかの連続す
0
0
け入れ﹁信奉﹂するとしても、そのことだけではまだ、その人は﹁変
0
0
る︶個別的材料を舞台に経験するものではないだろうか?
そして
0
0
化﹂も﹁進歩﹂もしていないと言うべきである。新しい言葉や議論
0
0
振り返ってみて、﹁あのとき﹂ あるいは﹁あの頃﹂ 自分は前より少
を受け入れるだけでなく、そのことに加えてそれを自分の行動で示
0
0
しはましになったとか、﹁あのようにして﹂ 若気のゆえの考え違い
し、そのときの行動が確定した選択の上のものであって揺らぎのな
0
0
からようやく脱したと思えるものではないだろうか?
アリストテ
いものと後で判明した時はじめて、﹁そのとき﹂ 行為者は倫理的な
0
0
レスが﹁年の功﹂の意義を唱える〔D〕の、観察としてやや平凡で、
人柄の進歩を遂げたと言いうる。
0
かれが究極的には全面的に賛成するとは思えない主張も、数学や天
そして私見では、以上のアリストテレスの一見特殊な考えは、心
0
文学の認識には通用しない、個別的な﹁場﹂を多く経験しながら進
身関係にかんするかれの先駆的な考えと軌を一にするものである。
0
歩してゆけるという、﹁人生の認識﹂ の問題に特有の説得力を持っ
第一巻第十三章において徳を二分した時の﹁人柄の徳﹂という分類
0
ている。
0
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0
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箱自体が、﹁行為の原因﹂ としての感情と情動を承認し、 その上感
0
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その一方で、だれかにこれが当然に思えないとすれば、それは、
0
0
情の認知的性格を洞察した上で、その一方で感情が心身にまたがる
0
0
三七
0
その人の見解がアリストテレス的見解と、﹁倫理にかかわる学問的
0
0
経験であるがゆえに身体に根差すこと︵第二巻第五章︶から、感情
0
言説や議論や思想﹂が持つ﹁力﹂の性格の捉え方において、基本的
0
の 正 し い あ り 方 は 身 体 的 基 盤 の と こ ろ で 決 定 さ れ る 以 上 ﹁人 柄 の
0
に不一致であるからだとわたしは考える。リアリストであるアリス
徳﹂として確定した状態は、信頼性を持つとともに、安定的に持続
0
ト テ レ ス は、 人 生 に か か わ る わ れ わ れ 一 人 一 人 の 認 識 を ﹁頭 の 上
すると考えたために︵第二巻第四章、第三巻第三、五章︶生まれた
0
で﹂あるいは﹁単に議論によって﹂より善い方向に変えることは、
ものであろう。そのような、その人の人としての中心部分、すなわ
0
無理だという見解である。この章のはるか以前の第二巻第四章にお
ち心身両面の安定的な基盤のところでひとつの善い方向への明確で
0
いて、すでにかれは、ただの議論では﹁すぐれた人間﹂にはなれな
0
決 定 的 な 変 化 が 起 こ る こ と が 人 間 の 進 歩 で あ り、 人 柄 の 徳 の 獲 得
0
いと断言していた。﹁すぐれたことを為さないことからは、 だれひ
も、 諸 徳 兼 備 の 人 間 の 誕 生 も、 そ の よ う な 進 歩 で な け れ ば な ら な
0
とりとして善き人になれない﹂︵一一〇五b一一∼一二︶ という同
実践知と身体
203
渡辺
邦夫
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手段を考える
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三八
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(a)人柄の徳が行為の目的を設定する
0
0
かったのだと思われる。頭や議論でおこなう倫理学研究もまた、か
0
0
(b)行為にかかわる知的な徳である思慮深さは、 目的のための
0
0
れにとって、そのような構造のところの原因と結果に事実的にかか
われるかどうかが、そしてそれのみが試金石となるものであった。
0
それゆえ、アリストテレスの現実主義的で合理的なこうした考え
0
0
0
を文字どおり受け止めて、思慮深さが目的そのものの決定にはかか
0
方からすれば、そもそも行動とは一般に個別的な事柄にかかわる個
わらないと解釈するものである。マクダウェル、ウィギンズ、クー
0
と 呼 ぶ の で、 わ た し も 以 下 で 彼 女 の こ の 呼 称 を 使 う︶
Intellectualist
0
た日本語の﹁知性﹂や﹁理解﹂という言葉の使用も、そのようなわ
はすべて、そのような文言上の区別は皮相なものであり、アリスト
0
れわれ自身の生活上のリアリズムを反映した、根本的正当性を持っ
テレスは思慮深さが目的の決定に実質的貢献をすると解してきた。
0
別的な事象なので、理論における知性と実践にかかわる知性が、
﹁普
パ ーの 三 者 に 代 表 さ れ る 伝 統 的 な 正 統 的 解 釈 ︵モ ス は こ の 流 派 を
ていると思われる。アリストテレスは第六巻第十一章の議論で、そ
モスはかれらの解釈がテキスト上の根拠のないものであるとして、
0
遍と個別の対立﹂において対照的な位置を占めることは、当然の帰
︵ ︶
non-
知性主義的解釈
のようなわれわれの言語的営みの現象を、全面的に救済しようとし
従来の申し立て上の﹁典拠﹂をひとつひとつ、文字どおりの理解で
と 呼 び、 自 分 の 解 釈 を 非 知 性 主 義
Intellectualist
結なのである。ギリシア人の﹁ヌース﹂の日常的使用も、それに似
た。そして私見ではかれは、そのことに大きな成功を収めたように
解 釈 し な お し て み せ る。 詳 細 は 以 後 若 干 問 題 に す る が、 モ ス 流 の
︶﹂ と彼女が呼ぶタイプの主張になる。 そして
Practical Empiricism
読 み 直 し の 結 果 と し て の ア リ ス ト テ レ ス 倫 理 は ﹁実 践 的 経 験 主 義
︵
彼女がアリストテレスの立場の表現を定式化する際もっとも腐心す
︶
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0
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0
0
0
るのは、一言で﹁経験主義﹂と言ったときに誤解されやすいヒュー
︵
0
最近のアリストテレス倫理学研究の最大の成果のひとつは、フロ
︶
0
ム主義と、アリストテレス的経験主義がどのように異なるかを正確
︵
0
ネーシス︵思慮深さ︶とロゴスにかかわる、気鋭の若手ジェシカ・
12
0
0
かしモスがほかの箇所を文字通りに解釈してみた末に最後に残した
たならモスの正統派解釈掘り崩しはうまくいったように思える。し
0
わたしには、テキスト読解として、もし第六巻第十一章がなかっ
0
に描き出すというところにある。
三
思われる。
11
モ ス の 挑 戦 的 な 解 釈 で あ る。 彼 女 の 二 〇 一 一 年 論 文 は 表 題 ﹁徳 が
で繰り返し表明されるアリストテレスの公式見解
ゴールを正しくする﹂からも明らかなとおり、
﹃ニコマコス倫理学﹄
10
202
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0
この心的諸機能の相互作用の説明は、前節の最後にわれわれが得
0
第六巻第十一章の解釈にかぎってみれば、モス流経験主義というよ
た 説 明 と は、 ま る で 違 った も の で あ る。 実 践 に お い て 知 性 ︵ヌ ー
0
り、或る種の﹁合理主義﹂に、あるいはむしろ、ともに観念的な経
ス︶が思慮深さ︵フロネーシス︶に近いところで働くことは、
〔C〕
0
験主義とも合理主義とも一線を画する﹁リアリズム﹂にアリストテ
のアリストテレスの説明では、
0
レスを位置付けるほうが、穏当であると考える。以下、モスのこの
箇所の解釈と、わたしが自然と思う読解とを対比し、モス解釈の無
モスはアリストテレスが理論的領域において経験主義者である
大前提
例
P 実践的推論における﹁知性﹂と﹁思慮深さ﹂の理解のための
と 断 定 し、 実 践 的 領 域 で も こ れ と 同 様 に か れ の 思 考 を 表 現 で き る
小前提 この言い方は正直である。
理筋を指摘することで、この点を立証したい。
と す る。 習 慣 化 が 人 柄 の 徳 形 成 の 鍵 で あ る と ア リ ス ト テ レ ス は 主
結論=行為
こう言う。
正直なことは善い。
張している。それでは、なぜ習慣化は行為の目的を提供できるのだ
ろ う か?
こ の 問 い に モ ス は、 ア リ ス ト テ レ ス 的 な 帰 納 の 第 一 段
0
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というように例示的に模式図で表現される。思慮深さはここでは、
0
0
階に近似的に目的が与えられると答える。﹁有徳な活動の習慣化に
0
0
0
行為者に当の状況で見えた小前提から結論の行為を導くとともに、
0
0
0
より人は繰り返しそうした有徳な活動を知覚ないし経験する。問題
0
0
小前提において果たされた状況のアスペクト知覚の一般化としての
0
0
の知覚とは満足な知覚であり、これは結局、そうした活動を善い活
大前提をも、行為者の行為と、行為に直結する思考全体の中で、い
0
動として感ずる知覚である。ファンタシアの働きを通じてこれらの
わば生まれてはじめて位置を占める言葉として﹁導く﹂と言うべき
0
繰り返された諸知覚もしくは諸経験は
理論的領域の場合と同様
で あ る。 そ し て、 こ こ で そ の よ う に 解 釈 す る こ と が 可 能 で あ る な
0
に
有 徳 な 活 動 を 善 い も の と 表 象 す る よ う な 一 般 化 さ れ た 表 象
ら、かりにほかのすべての箇所で思慮深さは手段のみを考え行為の
とを承認している。
0
︶ を 生 む。 こ れ こ そ、 人 柄 が 提 供 す る 目 的 の あ ら わ
representation
目的の設定に関係しないとしても、ここではアリストテレスは異論
︶ が 入 場 し て き て、 非 理 性 的 な 認 知 に よ って 提
intellect
0
れなのである。人柄が善いものと表象する対象が、行為者が善いも
なく明瞭に、また積極的に、思慮深さによって目的が立てられるこ
︵
のとして追求する対象である。理論的領域の場合と同じく、この時
点 で 知 性︵
︵
︶
実際には、ほかのすべての箇所でモスの伝統的解釈転覆が成功し
三九
ているとまでは、わたしには思えない。とくに、前節まで繰り返し
14
供されたあらわれに同意し、そしてその際当のあらわれを概念化す
︵ ︶
るのである﹂。
実践知と身体
13
201
渡辺
邦夫
主張してきたように、第六巻第十一章は続く第十二・十三章の哲学
的議論の舞台を用意するという文脈的役割を担っている。したがっ
とを求めるのである。
四〇
〔L〕 実際、 生まれついた自然の性向ならば、 子どもにも、 獣
に も そ な わ って い る。 し か し、 知 性 ︵
︶ が伴わない場合にこ
nous
て第十一章以後の第六巻第十三章に属する、伝統的解釈が根拠地と
うした性向は、むしろ有害なものであるということは、明らかで
0
してきた箇所は、モス流にではなく、伝統的路線に近い形で読み解
ある。少なくともつぎの程度のことは、実例を見ただけでただち
0
かれるべきであるとわたしは考える。
ま ま︵
にわかるようなことである。つまり、屈強な肉体が視力を欠いた
来の哲学的難問に対して自分の解決を示す場面であり、アリストテ
え な い た め に、 ひ ど い 転 倒 の 仕 方 を す る こ と に な る が、 い ま の
第十三章の問題の箇所は、﹁諸徳の一性﹂ にかかわるプラトン以
レスが新しい言葉遣いを導入するところである。第十三章冒頭から
︹知 性 を 欠 い た 自 然 の 性 向 の︺ 場 合 で も、 事 情 は 同 じ だ と い う こ
︶ 動 き 回 る な ら 、 そ の 人 は ま わ り が ま った く 見
aneu opseōs
その導入のところまでを訳出し、解釈上の争点と、この問題にかん
と で あ る。 他 方 で、 も し 知 性 が 身 に 付 け ば ︵
︶、
ean de labēi noun
するわたしの主張を述べる。論述の便宜上、段落に記号をつける。
も、その人の性向は、本来の徳となる。したがって、魂の信念的
行 為 に 違 い が で て く る。 そ の 場 合、 以 前 と 類 似 の も の で あ って
〔K〕 では、 今一度徳について考察しなければならない。 なぜ
部分に頭のよさと思慮深さの二つがあるように、人柄にかかわる
な ら、 思 慮 深 さ と 頭 の よ さ ︵
部分にも生まれついた自然の徳と本来の徳の二つがあり、このう
〔M〕 このことから、 およそどのような徳も思慮深さであると
ち本来の徳のほうは、思慮深さなしには生まれないのである。
︶ の あ い だ に 成 り 立 った 関
deinotēs
hē phusikē
係
思慮深さは頭のよさと同じではないが似ている
に近い
関係が、徳においてもまた、﹁生まれついた自然の徳︵
︶﹂のあいだで見られるから
hē aretē kuria
主張する人々がいる。実際のところ、ソクラテスは或る点では正
︶﹂と﹁本来の徳︵
aretē
〔N〕 そ の 証 拠 に、 現 在 ど の 人 も 徳 を 定 義 す る 際 に は、 魂 の
である。実際、だれでもそれぞれの人柄は、なんらかの仕方で自
すぐに﹁正し﹂かったり、﹁節制﹂があったり、﹁勇気﹂があった
性 向 と そ れ が 何 に 関 係 す る の か を 述 べ た 上 で、﹁正 し い 分 別 に
しく探究していたが、別の点では間違えていた。︵中略︶
り、 あ る い は そ の ほ か の ﹁人 柄﹂ が そ な わ って い る と 考 え ら れ
基 づ く﹂ と 加 え て い る。﹁正 し い 分 別﹂ と は 思 慮 深 さ の こ と だ
然にそなわっていると考えられる。つまり、われわれは生まれて
る。しかし、それにもかかわらずわれわれは、本来のあり方での
か ら、 こ う し た 思 慮 深 さ に 基 づ い た 性 向 ︵
︶が徳であることを、だれもが、いわば予感していたよ
phronēsin
hē (sc. hexis) kata tēn
善いものをこのような﹁人柄﹂とはどこか別のところに探し求め
ており、そうしたものがこれらとは別の仕方で自らに身に付くこ
200
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0
する︵そしてこの部分は非理性的動物も持つものである︶と言われ
0
うにも思われるのである。ただし、われわれは少し言い方を変え
0
ており、明言的に部分として区別されているがゆえに、知性主義解
0
なければならない。つまり、徳とは単に﹁正しい分別に基づいた
︶
釈のいう﹁理性的状態の構成要素化﹂をアリストテレスは考えてい
0
ないと結論する。
︵
︶﹂ ではなく、﹁正しい分
hē (sc. hexis) kata ton orthon logon
0
性 向︵
0
別を伴う性向︵
0
0
しかし、モスが決定的証拠として挙げる、この〔L〕末尾の主張
0
0
である。そして、こうした事柄にかかわる正しい分別が思慮深さ
0
0
は、そこにさらに〔L〕全体の内容を考察に加えるとき、彼女の得
0
0
にほかならないのである。こうして、ソクラテスはもろもろの徳
0
たい結論と反対の結論の論拠となると思われる。知性・ヌースが倫
0
は分別だと考えたが︵かれによれば、およそ徳とは、知識だから
0
理的行動力と判断力に関連する重要な認知的な力として挙げられて
0
である︶、 これに対してわれわれは徳とは分別を伴う性向だと考
0
おり、この﹁ヌース﹂の果たす役割こそ、第十章までの議論では一
0
える。したがって、以上で述べてきたことから明らかなように、
0
言も触れられえなかったものである。そのゆえに第十一章でアリス
0
思慮深さがなければ本来のあり方における善き人であることはで
0
トテレスは、先行する章で理論学の原理の直観の意味に非常に狭く
0
きず、また人柄の徳がなければ思慮深い人であることもできない
0
限定していた自分のやり方を緩めて、日常的に自然言語の中で通用
0
0
0
0
たのである。第十一章の知覚としての知性という一見驚くべき主張
0
0
モスに批判される﹁知性主義的﹂ 解釈は、〔N〕 におけるアリスト
0
0
が登場したのも、この線上であった。知性によるそのような直観的
0
0
テレスの新語法の﹁正しい分別を伴う﹂が、旧来の﹁正しい分別に
0
把握は、関連する感情の、善悪が評価される性向の可能性の中でし
0
基づく﹂とは異なり、すぐれた理性的状態を構成要素として含むと
だいによき性向を形成してきた人が、そのよき人柄がいよいよ完成
︵
︶
いうニュアンスを担わされているとする。これに対して非知性主義
の域に達し、できあがった最初の証拠となる機会において、為すべ
0
解釈側の証拠としてモスは、〔L〕 末尾の﹁したがって、 魂の信念
き個別的なことをその状況に入った瞬間に、知覚し理解する。この
0
的部分に頭のよさと思慮深さの二つがあるように、人柄にかかわる
理解が知性であり、これにより人は、善の学びによる付帯的知覚の
0
部分にも生まれついた自然の徳と本来の徳の二つがあり、このうち
力で、徳のない人には見えない状況の要因を正しく見抜いてよき行
0
本来の徳のほうは、 思慮深さなしには生まれないのである﹂︵一一
0
動につなげる。人はそれと同時に、あるいはそれと平行して、その
0
四四b一四∼一七︶を引き、思慮深さが﹁信念的部分﹂であり、人
四一
よき行動の目的もまた、一般的に確立するのである。思慮深さがそ
している、個別的経験における直観的な把握の意味合いを加えてい
0
のである。︵第六巻第十三章一一四四b一∼三二︶
︶﹂なのだということ
hē meta ton orthon logon hexis
16
柄の徳のほうは、本来の徳であっても﹁人柄にかかわる部分﹂に属
実践知と身体
15
199
渡辺
邦夫
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0
四二
行為を為すということがあるように思われる。わたしが言ってい
0
れの確立に、この特殊な状況で中心的に貢献する。モスの説明では
0
るのは、選択によって、為される行為それ自体のために為すとい
0
信念的部分と人柄にかかわる部分が交わらないことがポイントであ
0
うことである。
0
り、ここが非知性主義解釈の根拠である。しかし私見では、第十一
0
そこで、選択は徳によって正しいものとなるのだが、選択のた
0
章の実践にかかわる知的な徳の再統合の議論は、個人におけるその
め に 本 来 な さ れ る べ き 事 柄 は す べ て、 徳 が 担 って い る の で は な
れる能力がある。これは、設定された目標へと向かうのに必要な
じて、 もっと明確に述べなければならない。﹁頭のよさ﹂ と呼ば
0
同様のことは、﹁魂の信念的部分に頭のよさと思慮深さの二つが
事柄を遂行して、目標を達成することができる能力である。それ
0
あるように﹂という、モスが使った箇所の最初の部分の解釈にかん
ゆえ、目標が美しい場合は頭のよさは賞讃されるが、目標が劣悪
0
しても主張できる。アリストテレスは第十三章の〔K〕∼〔N〕の
な場合には、それは﹁ずる賢さ﹂でしかない。われわれが思慮深
0
︶ という概念を導
deinotēs
0
ような交わりが可能であるという、その一点の保障のために行われ
く、ほかの能力が担っている。この点については立ち止まって論
入して知的な徳としての思慮深さが人柄の道徳的発達と本質的に結
い人のこともずる賢い人のことも﹁頭のよい人﹂と言うのは、こ
0
たと言えるのである。
びついた発生を持つということを論じていた。ここも訳出して論ず
のためである。
引 用 箇 所 以 前 の 第 十 二 章 で、 頭 の よ さ ︵
ることにしよう。
思慮深さは頭のよさという能力そのものではないが、しかしこ
の能力なしには成り立たないものである。また、徳がなければ、
0
しかし、思慮深さに基づいたところで立派で正しい事柄をいっ
0
魂のこの目に性向がそなわることもないということは、すでに述
0
そうよく為すことができるようにはならない、という先の論点に
0
べたとおり明白である。なぜなら、これから為される事柄にかん
0
ついては、より根本から、つぎの点を出発点にして論じなければ
0
する推論には﹁目的、すなわち最高善とは、これこれのものであ
0
ならないだろう。すなわち、或る人々が正しい事柄を行っていた
0
るから ﹂ その目的の中身はさしあたり何でもよい︵議論のた
0
としても、いまだ﹁正しい人﹂ではないとわれわれは言うことが
0
めには何でもかまわないので ︶ という、 始点となる原理があ
0
ある。たとえば、法で決まっている事柄を行っていても、その事
0
るからである。そして、この︹始点となる︺目的︹の中身︺は、
0
柄それ自体のゆえにではなく、不本意に、あるいは無知ゆえに、
0
善き人にでなければ、見えないのである。なぜなら、不良性が人
0
あるいはまた何かほかの理由によって行う場合がそれである︵中
0
を歪め、行為の始まりとなる原理について誤らせるからである。
0
略︶。 そのように、 善き人であるための或る一定の性向で個々の
198
0
0
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0
0
0
0
う こ と が あ る よ う に 思 わ れ る。︹﹁或 る 一 定 の 性 向 で﹂ と い う こ と
0
したがって、善き人でなければ思慮深い人でありえないことは明
0
で︺わたしが言っているのは、選択によって、為される行為それ自
体のために為すということである﹂︵一一四四a 一七∼二〇︶ は、
0
白である。︵第六巻第十二章一一四四a 一一∼b一︶
0
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0
0
そのようなすぐれた行為を自発的に自分が直面するあらゆる状況で
0
引用箇所全体のアリストテレスの論点は明確である。行為の目的は
0
おこなってきた成人のみが、善き人であるという事実を確認する言
0
願望される。願望の持ち方は人柄の性向によって決まる。したがっ
0
明である。
0
て人柄の徳が形成されてはじめて、正しい目的の下での正しい思案
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ここで、もっとも注意すべきことは、一度二度の状況のみならず
0
0
と選択も、正しい目的の下での正しい行為も安定的になる。そのよ
0
0
あらゆる状況で同じすぐれた行為をやり続けるということは、当の
0
0
うな正しい思案と選択を導く知的徳である思慮深さもまた、この段
0
善き人が毎回、そしてとくに困難な状況や誘惑の多い状況でも、完
0
階で人にそなわっており、これは﹁ただの頭のよさ﹂とは別物であ
0
全 に 実 直 に 善 さ へ の 荷 担 の 下 で 頭 を フ ル に 使 って や って こ な け れ
0
る。アリストテレスがこの頭のよさとの相違の結論の材料とするの
0
ば、可能なことではなかったということである。アリストテレスの
0
は、つぎのような事情だろう。一定の頭のよさがある少年少女たち
0
第十二章と第十三章にまたがる議論は、この点をわれわれが経験に
0
が何度も繰り返しよき目的のために頭のよさを使って、そのための
0
基づいて理解していることに訴えるものである。幼少期に頭のよさ
0
手段を毎回すぐれた仕方で考案した結果、よい目的のためにしか自
0
で手段の思案がうまかった人々の多くは平凡な人に終わるし、なか
0
分の頭のよさを使えなくなってくる場合、そしてその場合のみ、当
には悪人や恐怖政治家になって悪いことのために知能を駆使する人
0
の少年ないし少女は思慮深さをそなえた成人になったと言えるよう
もでてくることだろう。これは、簡単な多くの事例でそのような人
0
に思える。もし万一かれや彼女が目的のためなら悪い手段も考案で
が利口に正しく推理して正しく行動したとしても、結局自分の利害
0
きるとか、よく思えるがじつは悪い目的のために頭のよさで貢献す
と公共の利害が衝突する場面や、愛する人とさほど親しくない人の
0
るようなことになれば、そしてその上その点における内的習性まで
間で公正にふるまわなければならない場面や、極度に甘美な誘惑に
0
形成されるなら、その人は思慮深い人間と対極にある悪人であり、
打 ち 勝 た な け れ ば な ら な い 場 面 で、 す ぐ れ た 人 間 に な る こ と か ら
0
反社会的で犯罪者的な人物でしかない。
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の﹁予選落ち﹂が多く起こるということにほかならない。そこで、
0
アリストテレスが人柄の形成のはじめにくるすぐれた行為の至上
0
逆に、そのような予選も決勝ラウンドも例外なく安定的に結果を出
0
の重要性を一貫して説いていたことも、 ここに関係する。﹁そのよ
0
してきた人の﹁手段を思案する力﹂の優秀さが真の思慮深さである
0
四三
うに、善き人であるための或る一定の性向で個々の行為を為すとい
実践知と身体
197
渡辺
邦夫
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0
0
四四
ある。というのも、そうした徳に基づくもろもろの活動は、人間
0
0
0
なら、途中の厳しい試練を生き延びたこの人柄の徳の持ち主の人の
0
0
0
0
にふさわしい領域のものだからである。実際、われわれは正しい
0
0
﹁頭 の よ さ﹂ は、 も は や た だ の 頭 の よ さ で は な く、 よ い 目 的 の 設 定
0
事柄、勇気ある事柄、あるいはほかの諸徳に基づくほかの事柄を
0
と一体となって手段を考えるように動くことしかできない、人格の
0
為す際、あらゆる種類の係わり合いと必要な諸事項ともろもろの
0
倫理性とのみ組むことができる思慮深さへと、変身していたのでな
0
行 為 に お い て、 ま た さ ら に は も ろ も ろ の 感 情 に お い て、 各 人 に
0
ければならない。なぜなら、よい行為を反復することは、あらゆる
とってふさわしい事柄を保っているのである。そして、これらは
0
困難な状況を通してそうすると言う意味であれば、考えることなし
すべて、人間にふさわしい領域に属するものであるように思われ
0
に可能な単調な繰り返しなどではなく、逆に針の穴を通して正しい
0
る。
0
行為をそのつど見いだす創造性と、よき目的への全面荷担を必要と
0
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また、いくつかの感情は、身体がもとになったものであり、人
0
することだからである。課題はよい行為なので、そのような反復を
柄が持つ徳は、多くの点でその感情と身内のように結びついてい
0
自動車教習所用語で言えば、﹁学科教習﹂ に対する﹁技能教習﹂ で
0
るように思われる。ところが、思慮深さのもろもろの始まりをな
0
あったにせよ、この﹁技能教習﹂という実技は、為しうる善のため
0
す原理は、人柄にかかわるさまざまな徳に基づくものであり、逆
0
に考えることの、生きた荒々しい練習でもあったからである。この
に人柄の諸徳の正しさは思慮深さに基づくものである以上、思慮
0
生きた練習で生きた思慮深さが身に付き、それは善なる目的への徹
0
深さもまた、人柄が持つ徳へとつながっており、人柄の徳のほう
0
底的荷担のある人のみにそなわるものにちがいない。
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も思慮深さへとつながっている。それゆえ、まず、これらは感情
0
そして、こうした実践知の思慮深さは、知でありつつ、身体との
とも結びついているので、形相と質料の結合体に関係するものだ
0
本質的なつながりを持っている。このことは、第十一章を転機とみ
ろう。そしてつぎに、結合体の徳は人間にふさわしい徳だろう。
0
な す 以 上 の 第 六 巻 解 釈 で は、 あ ま り に も 当 然 の 結 果 と な る。 し か
したがって、これらの徳に基づく生活も幸福もまた、人間にふさ
0
し、じつはこの点で明確な解釈は、従来の解釈においては文脈の特
わしいものだろう。︵第十巻第八章一一七六a 九∼二二︶
0
0
深さと︵実践の場面での︶知性が、ここの引用で言及される感情と
0
を、完全に﹁定数﹂とみている。このことは、知的徳としての思慮
ア リ ス ト テ レ ス は 実 践 の 領 域 で の 心 身 関 係 ︵形 相 と 質 料 の 関 係︶
0
性の無視により、提出されてこなかった。そのため、アリストテレ
スが後の最終第十巻の結論部で、つぎのように主張することの意味
も、これまで十分に検討されていない。
その一方で、ほかの徳に基づく生活は、二次的な意味で幸福で
196
いう心身にまたがる心的機能の高次の発揮であるがゆえに心身関係
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を内蔵する人柄の諸徳の、認知的な﹁うわずみ﹂であるということ
0
を含む。したがってこの第十巻の結論部は、第六巻最終三章の主張
0
のラインをもう一度確認し、その上で幸福論の結論に組み込むとい
う文脈上の役割を持っている。翻ってこのことは、第六巻第十一章
の議論の方向の転換が、﹃ニコマコス倫理学﹄ 全巻の構想の中心に
︵ ︶
P. Foot, ‘Virtues and Vices’, Virtues and Vices and Other Essay in Moral Philosophy,
注
属する事柄であったことを意味する。
︵ ︶
Oxford 1978, 1-18, p.1.
J. Moss, ‘ “Virtue Makes the Goal Right”:Virtue and Phronesis in Aristotle’s Ethics’,
を
tōn agathōn
ているため、﹁公平﹂と訳す。
︵ ︶ これは、一一四三a 三一の
む。
︵
実践知と身体
︶、一∼二九頁、二頁参照。
2013
を読
en tois mathēmatikois
つ い て﹂ 茨 城 大 学 人 文 学 部 紀 要 ﹃人 文 コ ミ ュニ ケ ーシ ョン 学 科 論 集﹄ 一 五 号
︵ ︶ 一一〇七a 一ではOCTの hōi
を読まず、写本が一致している hōs
を読む。
︶ 拙 稿﹁ア リ ス ト テ レ ス 倫 理 学 に お け る﹁共 同 性﹂ と﹁観 想 の 優 位﹂﹂ の 関 連 に
︵
︵ ︶ 一一四二a 二八ではOCTの削除提案に従わず写本通り
︵ ︶ 拙稿﹁﹃ニコマコス倫理学﹄における正義と﹁知﹂の関係について﹂一八頁参照。
事柄﹂のように訳すことも可能である。
とともに中性形
Ethics: Translation, Introduction, and Commentary, Oxford 2002, p.186
に読む解釈による訳。多数派とともに男性形に読み﹁善き人々が共通に荷担する
S. Broady and C. Rowe, Aristotle: Nicomachean
る。ここでは法とその適用という第五巻の文脈を超えてより広い意味で用いられ
茨城大学人文学部紀要﹃人文コミュニケーション学科論集﹄ 一七号︵ 2014
︶、 一
∼二七頁、八∼九頁の第五巻第十章解釈中の翻訳では﹁衡平﹂と訳した言葉であ
Phronesis 56(2011), 204-261, pp.240f.
︵ ︶ 原語は epieikes
。﹁﹃ニコマコス倫理学﹄ における正義と﹁知﹂ の関係について﹂
︵ ︶
17
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
︵ ︶
9
11 10
12
Virtuous Life in Greek Ethics, Cambridge 2006, 99-126, p.101.
Cf. C. Rapp, ‘What Use is Aristotle’s Doctrnie of the Mean?’, in B. Reis (ed.), The
Moss, ibid.
Indianapolis 1986; J. McDowell, ‘Some Issues in Aristotle’s Moral Psychology’, in Mind,
Cf. J. M. Cooper, Reason and Human Good in Aristotle, Cambridge 1975, repr.
Value and Reality, Cambridge/Mass. 1998, 23-40; D. Wiggins, ‘Deliberation and Practical
Reason’, in: A Rorty (ed.), Essays in Aristotle’s Ethics, Berkeley 1980, 221-240.
R Polansky (ed.), The Cambridge Guide to Aristotle’s Nicomachean Ethics, Cambridge
Moss, pp.251ff.; cf. Moss, ‘Was Aristotle a Humean? A Partisan Guide to the Debate’, in
2014, 221-241.
る。
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に読
to sumperon pros to telos
︶。 わたしはクーパーに賛成だが、 この一か所の特定の解釈を
pp.230f., n.52
︶﹂
kata
から﹁伴う︵ meta
︶﹂ への変更は、 Broady and Rowe, p.383
の よ う に、 分 別 に 従 う
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ことでなく、自律と自己決定によることの言語的明瞭化と捉えることが妥当であ
成果の一部である。
かうものとしてのアリストテレス哲学の研究﹂︵課題番号
四五
︶ による研究
26370005
︵ ︶ Moss (2011), p.211.
︶本稿は平成二六∼二九年度科学研究費補助金︵基盤研究︵C︶︶﹁心身の難問に向
︵
前提しなくとも、旧来の Intellectualist
の立場の基本は十分守れる。
︵ ︶ わたしは語法修正をこう表現することが正確だとは考えない。﹁基づく︵
む︵
い う こ と に な る だ ろ う﹂ と 読 め る。 モ ス は 先 行 詞 を
詞を to telos
とすれば、﹁考え深さとは、 思慮深さが真なるものと判定を下した目
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的があり、その目的を達成するのに有益であるという意味での正しさである、と
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ク ーパ ーが 考 え る の は、 第 六 巻 第 九 章 一 一 四 二 b 三 二 ∼三 三 で あ る ︵ Cooper,
︶。 そこではOCTどおりのテキストを読み、 標準的に関係代名詞の先行
pp.63f.
︵ ︶ Moss (2011), pp.255f.
強調はモス自身。
︵ ︶ 思慮深さが目的にかかわるとアリストテレスが考えていることの唯一の証拠と
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