キリマンジャロの雪PDF

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キリマンジャロは雪に覆われた標高19,
710フィートの
アフリカ最高の山と言われる。その西側の峰をマサイはガ
ジンガイ、神の家呼ぶ。その西の峰の付近で干からびて
凍てついた豹の死骸があった。そんな高度でその豹が何
を求めていたが誰も説明できない。
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「痛みがないのは 素 晴 ら し い よ 」
男が言った。
「これで始まってしまったのが分かるよな」
「ほんとなの?」
「間違いなした。臭くてものすいごく悪いけどな、たまらないだろう」
「やめてちょうだい、お願いだから止めて」
「奴らを見ろよ」男は言った。「さて、視覚かね、それとも嗅覚でつられて来たのかな?」
男はミモザの大木の下のコットに横たわって、その木の影からは外れた、照り返しの強い草むらで身をおぞましくかが
めている三羽の大きな鳥を見ていたのだが、その頭上にはすでにもう 12,3
羽が舞いながら、地上にす速い影を走らせてい
た。
「トラックが壊れた日からいやがるんだが」と彼が言った。
「地べたを歩いたのは今日が初めてだな」
「始めのうちはは話の種にとも思って注意して見ていたんだが、今となっては笑い種だぜ」
「そんな事にならないといいのだけど」と彼女が言った。
「だだ喋っているだけじゃないか」
彼が言った。
「喋ってると、ずいぶん気がまぎれるんだが、煩いなら黙るぜ」
「あのね、煩いわけじゃないのよ」
彼女が言った。
「なんにもしてあげられないから、いらいらしちゃったのよ。飛行機が来るまでできるだけ気楽にしていましょうね」
「飛行機が来ないってことになるまではな」
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「そんなら、どうしたらいいのか言ってよ。私にだってできることはあるはずよ」
「脚を取っちゃってくれれば止まるかもしれないな。でもそれもどうだかな」
「いっそ撃ち殺してくれないかな。今じゃいい腕になっているんだからよ。撃ち方はおしえてあるよな?」
「お願いだから、そんなこと言わないで、なんか読んであげるわよ」
「読む?何をだ? 」
「鞄の中のまだ読 ん で な い 本 よ 」
「聞いてなんかい ら れ る か 」
彼は言った。
「喋っていれば気がまぎれる。言い合っているうちに時が経つ」
「言い合いなんかしないわよ。言い合いは絶対嫌よ。二度と言い合いはよしましょうね。イライラしてもしなくてもみん
なは他のトラックで今日中に戻ってくるわ、飛行機がくるかも知れないわね」
「俺は動きたくな い な 」
男が言った。
「お前は楽になるかもしれないけど、俺は動いたってどうにもならないよ」
「意気地なし」
「 憎 ま れ 口 な ん か た た か ず、 で き る だ け 安 ら か に 死 な せ て く れ ら れ な い も の な の か ね? い ま さ ら 毒 ず い て ど う す る ん だ
よ?」か
「死んだりなんか し な い わ よ 」
「馬鹿もいいかげんにしろ。俺はもう死にかかっているんだ。あん畜生どもに聞いてみろ。」
降下してきた四羽目が着地をするや小走りとなり、仲間の方に向かってユサユサ歩いて行った。
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「あんな鳥、どこのキャンプの周りにもいるのよ。知らなかったんでしょう。諦めなければ死なないわよ」
「どこで読んできやがったんだ。だからお前はど阿呆だっていうんだよ」
「だれかさんのこ と で し ょ う 」
「もういい加減にしろ。 俺のことは放っておいてくれよ」
黙って身を横たえたまま、茹だるような草原をかなたの茂みまで見渡すと、遥かに小さく黄色と白のトミーが二三頭、
さらに遠くには茂みの緑に縞馬の群が白く見えた。ここは大きなミモザの木の下の、丘を背にした素敵なキャンプで、涸
れかかってはいるが、朝になるとサンドグロワースが飛んで来る良い水が出る水穴もあった。
「読んでほしくな い の ? 」
彼女はコットの脇のキャンバスチェアーに座っている。
「風がそよいでく る わ 」
「読まないでいい よ 」
「トラックが来る か も ね 」
「トラックなんかどうでもいいよ」
「私はどうでもよくなくないわよ」
「俺がどうでもいいって言っている事にいちいちこだわるんだな」
「いちいちではな い で し ょ 」
「では酒はどうな ん だ ? 」
「それは良くないんじゃない、ブラックの本にもアルコールは全て控えるようにって書いてあったし飲んじゃだめよ」
「モロー!」彼は 叫 ん だ
「ウイスキーソーダ持ってきてくれ」
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「はい、ブアナ」
「だめよ」
彼女が言った。
「そういうのを諦めるって言うのよ。体に悪いって書いてあるじゃない。駄目なんだって」
「駄目じゃないさ 」
彼は言った。
「俺には酒が合っ て い る ん だ 」
もうみんな終わりだと思った。これで終結できなくなってしまった。こんな風に酒のことなど言い争いながら終わって
ゆくのだ。右脚が壊疽に罹ると痛みが消えて、痛みと共に恐怖も去って、今はとてつもない疲労感と、こんな終わり方に
腹立たしいだけだ。今まさに、この身に起きているこのことに対しても、ほとんどどうでもよくなってしまっていた。何
年もの間、こだわり続けたこの事が、まったく意味のないものになってしまったのだ。疲れるとなぜ、いとも容易くこの
ようになってしまうのかが不思議だった。
よく理解してから書こうとしていた幾つかの物事は、書かずじまいになってしまった。書かなかったから書き損じもし
なかったのかもしれないが、書けなかったからグズグズと後回していたのかもしれない。もう今となってはどうだか分ら
ないよ。
「来なければよかったわね」女がグラスを片手に唇をかんで言った。
「パリにいればこんなことにならなかったのに」
「あなた、いつでもパリが好きだって言っていたのにね。撃つのならハンガリーにいって楽しく撃てばよかったのよね」
「お前のあぶく銭め」彼は言った。
「そんなの身勝手 よ 」
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彼女が言った。
「お金はいつだってあなたと私の物じゃない。しがらみを全部断って、あなたの行くまま気の向くままにしてきたけど、
ここだけは来ないほうがよかったのね」
「ここが大好きって言っていたじゃないか」
「言ったわよ、あなたが丈夫だったからよ。でももう嫌いよ。私たちがいったい何したって言うのかしら」
「それはまず、引っかいたときにヨーチンをつけなかったことだと思うよ。いままで膿んだことがなかったからそのまま
気にしなかったんだよね。膿んでしまってからは、消毒薬がなかったから、オキシフルを水に溶いたやつを使って毛細血
管を麻痺させてし ま っ た ん だ 」
彼女を見ていっ た 。
「他にどうした? 」
「そんな事言って い な い で し ょ 」
「もし半端なキクユの運転手なんかじゃなくて、ましな整備士を雇っていたら。オイルをキチンと見てトラックのベアリ
ングを焼きつかすことなんかなかったよな」
「そんな事、言っ て な い で し ょ 」
「もしお前がオールドウェズベリーや、サラトガや、パームビーチの奴らを袖にして
俺を選ばなかったら、、、、、、」
「それは貴方がすきだったからじゃない。今だって好きなのよ。私のこと愛してないの?」
「いや、愛してないね」男が言った。
「まえまえから愛していなかったのだと思うよ」」
「ハリー、何てこと言うのよ、頭が狂っちゃったんだわ」
「いや、頭だけはいかれてくれないんだよ」
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「じゃあ飲まないでね、お願い飲まないで、やれることはなんでもやりましょうよ」
「勝手にしろ。おれはかったるぜ」
カラガッチ駅が頭に浮かんできた。荷物を携えてたたずんでいる。あれはシンプソンオリエント急行のヘッドライト、
闇を引き裂いてやって来る。あの大移動があった後のトラキュラを離れようとしているのだ。
この話は、朝食をとりながらあのナンセン翁の秘書ちゃんが窓辺からブルガリアの山並みに目を向けて、あれ雪じゃな
いかしら?と尋ねると、老人は、いや雪ではないよ。雪には早すぎる。それで秘書はそれをそのまま他の娘たちに、違う
わよ、雪じゃないわと言った。すると娘たちは、雪じゃなかったのね。見間違いだったのね、とてんでに言い交わしたも
のだった。しかしそれは紛れもなく雪だった。ナンセンによって遂行された民族交換政策によって送り出されたその子達
は、その冬、その雪の上をとぼとぼと歩いて死んでいったのだ、
、
、
、
、という下りと一緒に書こうとしていた話の種だった。
その雪はクリスマスから一週間ガルタガールに降り続いた。その年、皆が四角い磁器が半分も占めるような木こりの家
の部屋で寝ていると、憲兵がすぐ後から来るんだ、といって足を血に染めた脱走兵ガやってきたので、その男に毛糸の靴
下をやり、後から来た憲兵に吹雪が足跡を吹き消すまで話しかけて、追手を引止めようとしたことがあったっけ。
クリスマスのシュルンツではワインステューブから外を眺めると雪が白くて目が痛い。
皆が協会から帰ってくる。あの橇で均され小便色に黄ばんだあの川沿いの道を、重いスキーを肩にして、マドレーナハウ
スよりまだ上にある雪渓を滑るために、険しい松林の峠を幾つも越えて登ったんだったよね。
雪はケーキに塗った砂糖みたいに滑らかで軽い粉雪だったから、滑り降りる物凄いスピードが、鳥の急降下のように雑
音を消してしまったことを思い出したよ。
雪に閉じ込められた一週間。ブリザードの中での煙に薫るランタンの光でのカード博打。へールレントが負けるにつれて
掛け金が競りあがって、彼はとうとう有り金を全部をすってしまったんだ。シュシュールの金も、そのシーズンの儲けも
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元 金 も だ。 カ ー ド を 引 い て は 「 サ ン ボ ア ー ル 」
、あの長い鼻が目に浮かぶ。雪が無いといっては博打。降りすぎたといっ
ては博打。博打、博打の毎日だった。
そんなことだって、平原の彼方にブルガリアの山々が凛として輝くクリスマスにバーカーが前線を侵犯、オーストリア
の将校の帰省列車を爆撃して、逃げ惑う彼らに機銃を浴びせたことだって何も書いていない。帰還したバーカーが食堂に
入ってきてそのことを話し始めると、あたりは静まり返っって、その場の誰かが「この人殺し野郎め」と言ったことを思
いだした。
奴らが殺したのも、戦後にスキーを一緒にしたのも同じオーストリア人。いや同じであるわけがないよな。その年ずっ
とスキーを一緒にしたハンスは、カイザーイエーガーにいたんだ。だからパスビオの戦いや、ペルティカやアサロンの攻
撃のことを製材所の上の小さな谷間でウサギ狩りをしながら語りあったんじゃないか。そんなことだって一言も書いてい
ないし、モンテカルロもセッテコムーニやアルシエーロのことだって書いてはいないのだ。
ボラベルグやアルベルグで幾冬過ごしただろうか?四回だ。あの時ブルーデンツにプレゼントを買いに歩いて行った時
に狐を売っていたあの男や、桜ん坊の種の味がする上等のキルシュ、それに新雪がものすごい速さで根雪の上を滑り落ち
ることや、「ハイ!ホー!ってロリーがよー」
って歌って最後の急坂を直滑降し、果樹園の内を三回くねってから側溝を
よぎり、宿屋の裏の凍てついた道に出る。ビンディングを叩いて緩め、スキーを蹴り外して、ランプの灯りが窓辺から漏
れる板壁にスキーを立掛けて入って行くと、くゆる煙のその中は新酒のワインの温か匂いがただよって、アコーディオン
が奏でられていた っ け 。
パリではどこに泊まっていたっけ」アフリカでキャンバスチェアーに座っている女に聞いた。
「クリヨンよ。知っているでしょ?」
「何で俺が知って い る ん だ 」
「いつも泊まって い た じ ゃ な い 」
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「いつもじゃなか っ た だ ろ う 」
「サンジェルマンのアンリ クワトロのこともあったわね」
「あなた、そこを愛してるっていってたじゃない」
「愛なんて糞の山 だ ぜ 」
ハリーが言った。
「俺はそこに上がって勝鬨をあげている雄鶏だ」
「立ち去り際、すっかり皆殺しにしていかなければならないの?あのね、なにもかも巻き添えにしなかりゃならないって
こと ?馬も、妻も、殺さなければならないの?鞍も鎧も焼かなきゃならないの?」
「そうだよ」彼は 言 っ た 。
「もの凄いお前の金が俺のアーマーさ。スイフトでありアーマーさ」
「やめてよ」
「わかったよ。止めるよ。なにも傷つけるつもりはないんだ」
「もうちょっと遅 い わ よ 」
「そうかい。それならいたぶり続けようじゃないか。そのほうが面白い。お前とのたった一つの楽しみだって今じゃでき
ないんだから」
「そんなことないわよ。あなた、いろんな事をしたがったから、私だってお付き合いしたじゃない」
「ああ、べらべらしゃべらないでくれよ、頼むよ」
見ると彼女は泣い て い た 。
「なのね」と彼が言った。
「こんなことして、
楽しいとでも思う?なんでこんなことしているのかわからないんだよ。これじゃ
生きようっていうものまで殺してしまうと思うよ。話し始めたときはまともだったさ。こんなことし始めるつもりはなかっ
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たのに馬鹿みたいに狂っちゃって、酷いったらないよね。俺の言うことなんか気にかけないでくれよ、お前。本当に愛し
てるんだ。こんなに愛したことはいままでなかったんだ」
彼は飯の種にしている嘘にのめり込んでいった。
「あなたって、優 し い の ね 」
「スベタめ」彼が言った。「この銭すべた」これは詩なんだよ。詩の言葉でいっぱいなんだ。 腐った詩、腐れ歌」
「止めてハリー、何で今度は悪魔になっちゃうのよ?」
「何も残したくないんだ」男が言った。
「後に何も残したくはないんだよ」
もう夕刻だった。寝てしまったのだ。太陽は丘の後ろに入って、その影が草原いっぱいに伸びている。小動物が茂みから
かなり離れて、キャンプの近くまで出てきて小首を下げたり、尻尾を震わしたりして餌をあさっているのを彼は見ていた。
「奥様、狩行った」若い衆が言った。
「旦那なに欲しい」
「何にも」
彼女は彼がこのこじんまりとした草原で動物たちを見ていたいとの思いを知っているので、この草原の静寂を乱さない
ようにと、彼の見えないところまでいってすこしばかりの食糧のための狩りに出かけていったのだ。 知っていること、
読んだこと、聞いたことのあることにたいしてはいつもながら気を廻しやがると彼は思った。
女のもとに身を寄せた頃の彼がもうすでにだめだったのは、なにもこの女のせいではないのだ。
そもそもどうして耳障りが良くて実のない彼のおしゃべりを女が見抜くことができるのだろうか?話に意味がなくなっ
てからは嘘の方が女どもには受けが良かった、もうそれは嘘というより、話をしようにも本当のことがなにもなかったと
言うべきだった。 かつては持っていた自分の生き方が終わってしまうと、今度は今までは出入りもしなかったような界
隈でも最上の場所に、今までの連中とは違ったもっと金のある達と出入りする生活を送るようになったのだ。
それも深く考えなければ楽しいことだった。ただ、心根はしっかりしていたので、回りの殆どのやつらみたいに腑抜
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けきれずに、書けないくせに、もう以前の仕事には興味がない振りをして、本当は自分はここの金持ちではなく本当自分
は金持ち連中とは違ってスパイなのだから、いつかはこの国を出て、この国の事を書くことになるが、それこそ本当にこ
の世界を体験しただれかさんによってここの物語が出来上がるのだと自分では思っていた。しかし、結局書きはしなかっ
たのだ。軽蔑していたやつらと腑抜けた生活を送っているうちに、
能力が鈍って、
意思も軟弱になり、
とうとう書けなくなっ
てしまった。 今の知り合いたちだって、仕事をしない彼とのほうがとはるかに気楽にやっていけるのだった。アフリカは彼が最高に
乗っていた頃の一番楽しかった場所だったから、ここにもう一度戻ってやり直そうと思ってやって来たのだ。
贅沢を極力控えた豪華ではないサファリとはいえ、なにも過酷なことなぞなにもないのに、まるで山篭りして鍛える拳
闘家が練習で体内の脂肪を燃やしつくすみたいに、自分の魂の澱を落とせると思い込んでいたのだ。
彼女はそういうことが好きだった。大好きだと口に出して言った。違った場所で知らない人がいて、楽しい事があれば
何でも好きだったし、彼は彼で仕事向かう強い意志が戻ってくることを幻想したのだ。しかし今、このような終わり方を
するのを知っていたら、背骨が折れた蛇が自分の背中をかむようなことをすべきではなかった。それもこの女のせいでは
ない。例え他の女とだって同じことになっていたさ。嘘に生きたのだったら、嘘で死んでしまったらいい。そんな時。丘
のむこうから一発 の 銃 声 が し た 。
お人よしの成金女、親切ごかしの世話焼で、おれの才能の破壊者だ。何を言っているんだ。自分の才能を壊したのは自
分だろう。良くしてくれたのを恨んでいるのか。才能を使わずにだめにして、自身を裏切り、信念を裏切り、飲んでは才
能の刃先を鈍らせ、怠惰によって、気取りによって、慢心によって、偏見によって、ありとあらゆる事によって、
、
、
なんだこれは、昔の本の目録か?何が自分の才能だったのか?才能は紛れも無くあったのに使うことなく売り飛ばされ
てしまったのだ。やれば出来ただろうが、やり遂げたことはなにもない。そして彼はペンや鉛筆によって生きることをせ
ず、違う生きる道を選んでしまったのだ。いい仲になる新しい相手がいつでも前の女より金持ちだなんてなにか変じゃな
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いか? 誰よりも金持ちのこの女、持ちたいだけの金をもっているこの女、かつては主人も子供もいたこの女、一人なら
ず恋人を持ちながらも満たされずにいたこの女、作家であり、男であり、伴侶であり、自分の誇りとして彼を心底愛して
いるこの女。不思議な事だけど真意の愛のかけらもなく、嘘ばかりついているほうが、本当に愛している時よりも、女の
金に見合ったことをしてやれるものなのだ。
人はそれぞれそれの使命をもってこの世に誕生するのだが、知らず知らずに潜在する得意分野食ってゆくものだなあと
思った。生まれ持った活力をあれやこれやと売ってきた。 そこにはなまじ愛が絡まないほうが、もらった銭どうりのこ
とをしてやれるものがとは気づいていたが、それを書いたことはなかった。 書くに値するもtのであっても書かなかっ
たのだ。
彼女が見えた。ジョッパーを履いてライフルを持って平原を越えながらキャンプに向かって歩いてくる。彼女の後ろか
ら若い衆が二人で仕留めたトミーを担いで来る。まだまだ見栄えのする女だと思った。それに素適な体つきだ。性技に貪
欲で、反応がすばらしい。可愛らしい顔と言うわけではないが、彼好みの顔だ。物凄い読書家で、乗馬が好と狩猟が好きで、
それは確かに大酒飲みだ。まだ若い時分に夫を亡くし、しばらくは大きくなって親離れした二人の子供にかまけては疎ま
しがられたり、厩舎の馬や、本や酒に没頭したりしていた。夕刻になれば夕飯の前の酒が楽しみで、本を読みながらスコッ
チのソーダ割りをやった。すると夕飯までにはかなり酔っ払って、夕飯のワインで出来上がってそれで寝てしまうのが常
だった。
それは愛人が出来る前のことで、愛人がいると酔わなくても寝られるものだからそんなに飲まなくなった。しかし、愛人
等はつまらない輩だった。彼女の結婚相手は凡夫ではなかったから、その愛人たちには癖へきしてしまった。
そうこうするうちに、二人の子供の一人を飛行機の墜落でなくしてしまうと、愛人達が疎ましくなり、酒ももはや麻酔
薬とはならず、そのような生活から抜け出さなければならなくなった。そして突然孤独感に襲われ、一人でいるのが怖く
なり、誰か頼りになる人が欲しくなったのだ。
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始まりはなんてことはなかったのだ。彼女は彼の書いたものが好きで、いつも彼の行き方に憧れていた。この人はまさ
に生きたいように生きているのだと思った。
親密さを増しながら、とうとう恋に落ちていったその成り行きは、新しい人生を築き上げようとしていた女と、人生の
残りを売り払う男との、なるべくしてなったあたりまえの成り行きだった。
彼はそれで生活の安定と安楽を得たことは否めない。
他には何の為だ? 思いつかない。欲しがれば彼女は何でも買ってくれた。それはそうだった。
そんな女とは誰でとでもためらうことなもくすぐ一緒に寝ることになるのだが、この女とは誰よりも早かった。それはこ
いつが他の誰より金持ちだったから、気立てとてもよく、いやな顔一つせず、喚き散らすような女ではなかったからだ。
しかし、そうして彼女が再び造りあげたこの生活も、ウォーターバックの群れの撮影のため、二人が進み出ようとした
その時に、出来た茨の膝を引っかき傷にヨーチンをつけなかった事で終わってしまったのだ。鼻を上げてあたりをうかが
い、広げた両耳で音を拾い、何かあったら薮の中に飛び込もうとしていたその群の写真も撮れずに、すっ跳んで逃られて
しまった。
彼女が帰ってき た 。
彼は首を回して彼女を見ていった
「よお」
「トミーの雄を撃 っ た わ 」
と彼女が言った 。
「いいお澄ましになるわ。クリムでマッシュドポテトを作らせるわ。ご機嫌いかが?」
「ずいぶんいいよ 」
「よかったじゃないの。私そうなるって思っていたのよ。出かけるときにはお休みだったのよね」
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「ぐっすり寝たよ。遠くまで歩いていったのか?」
「いいえ、ちょっと丘の向こうまでよ。トミーをかなり見事に仕留めたのよ」
「そうだね、素晴らしい射撃だったね」
「楽しいわ。アフリカが好きになっちゃったわ。本当よ。あなたさえ大丈夫なら、こんなに楽しいことってないのよ。あ
なたと狩ができたら私、どんなに素敵か知れないわ。私この国が好きになっちゃったわ」
「俺も好きだよ」
「あのたが良くなるって、どんなに嬉しいか知れないわ。あんなに不機嫌なあなたって耐えられない。もうあんなこと言
わないでね、約束 よ ? 」
「だめだよ」彼が言った。「何を言ったのか覚えていないんだから」
「私をめちゃめちゃにしたってしょうがないでしょう?私ってあなたを好きで、あなたの好きにさせてあげたいただのお
ばさんなんだから。もう二三回はめちゃめちゃにされちゃってるんだから。もうめちゃめちゃにしないでよ。お願いよ」
「ベッドではめちゃめちゃにしてやりたいぜ」
「そう、それはいいめちゃめちゃなの。私たちそういうめちゃめちゃをするようになっているのよ。飛行機だって明日来
るんだから」
「なんでわかるん だ よ 」
「絶対来るわよ。来ることになってるんだもの。若い衆も薪の用意が出来てるし、狼煙のための草だって。下におりて見
てきたんだから。着陸の場所は充分だし、狼煙も両側に用意できてるのよ。
」
「何で明日来るって思うんだよ?」
「来るわよ。途中なのよ。町に行って足を直して、それから楽しいめちゃめちゃよ、あんな恐ろしい話し方、嫌だからね」
「いっぱいやるか?日も落ちたし」
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「飲んでいいの? 」
「飲んじゃうよ」
「じゃあご一緒す る わ 」
「モロ、レティ、デュイ ウイスキーソーダ」
モスキートブーツを履いたほうがいいよ」と言った。
「お風呂に入ってからね、、、、」
「飲むにつれ闇は深まり、黄昏時、暗くて撃てなくなると、いつものハイエナが草原を草原を横切り丘の向こうに帰って
行く。」
「あん畜生、毎晩あそこを横切りやがる」
男が言った。
「二週間毎晩だ」
「毎晩煩いのはあれなのね。私は気にしていないけど。だけど薄汚動物ね」
同じ姿勢で横たわっているのは辛いながらも今は痛みも消えて、二人は飲み、若い衆がたいまつに火を点けて、その影
がテントに躍り上がりると、敗北に甘んじるあの心地よさが舞い戻ってくる気がした。
彼女はとても良くしてくれた。それなのに今日の午後、彼はずうっと残酷で理不尽だった。彼女はいい女でほんとうに
素晴らしい。すると不意に死の訪れを感じた。
それは突然やってきた。それは水や風が寄せてくるのとは違う、おぞましい臭いの突然の虚空でで、奇怪にもあのハイ
エナがそのへりを軽やかにすり抜けて行くではないか。
「あれ何なのハリ ー ? 」
彼女が尋ねた。
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「なんでもないよ 」
彼は言った
「反対側に行ったほうがいい。風上にだ」
「モロは包帯を替 え て く れ た 」
「うん、今は石炭酸を使っているだけだ」
「どんな感じ?」
「ちょっとクラク ラ す る 」
「お風呂に入るわ 」
彼女が言った。
「すぐ出るわ。一緒にお食事してから、コットをしまわせるわね」
さあ。彼は自分に言い聞かせた。よく言い争いを止められた。この女とはあまり言い争いをしなかったが、好きな女と
はいつもよく言い争い、ぶつかりあい、その作用でとうとう互いにはぐくみあったもの全てを殺してしまったのだ。愛し
すぎ、求めすぎ、みんなぼろぼろにしてしまうのだった。
出掛けのパリで言い争い、寂しくやってきたコンスタンチノーブルでの事が頭に浮んだ。女を買ってばかりいたが、消
え去るはずの淋しさはつのるばかりとなり、とうとう自分を棄てたあの初恋の女に寂々とした手紙を書いてしまったの。
レジャンスの外に君の面影を見た思いに、気も遠くなるばかりに胸苦しく、君の面影を映すその人を、人違でないことを
願い、思いが裏切られぬことを願いながらそこを飛び出して、ヴールバードに君の面影を追っただとか、どんな女と褥を
供にしようとも君への思いは募るばかりだとか、昔の仕打ちの時の思いなぞ、もうどうでもよいほどに君が恋しくなって
しまったとか、そんなことを素面のうちにクラブで書いて、それをニューヨーク向けに投函した。返事はパリの仕事場に
くれとしておいたのは、そのほうが安全だと思っていたからだ。そしてあの夜、その女(ひと)を想うと胸の内が切なく
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苦しくて、さ迷い歩きタクシム広場を過ぎるころに女を引っ掛けて晩飯に行った。それから踊りに出かけてみたのだが、
女は気乗りのしないように踊ったので、相手をアルメニアのあばずれに取り替えたのだが、そいつは下腹が焼けるほどに
擦り上げて来やがった。この女を英国の砲兵隊の副官からいただいた時に一もめが起きたのだ。その砲兵隊員が表に出よ
うと言ったので、暗闇の中の砂利道で喧嘩が始まった。顎の横に二発叩き込んでやったが、ひるみはしない。こりゃ、ハッ
タリかまして出てきたんじゃないぞって思った。砲兵隊員がボディーと目尻に入れてきたから、もう一度左を振り回すと
それがぶち当り、奴は持たれも込んで来て彼の上着の袖を掴んで引きちったから、耳の後ろに二発振り下しておいてから、
突き放し様に右の一発をぶちかましてやった。奴が頭から崩れ落ちてゆく時、MPの来る音が聞えたから、女と逃げた。
二人でタクシーに乗り込んでボスホラスを走り、リミリヒサを巡ってから涼しくなった街に帰って女の寝床にしけこんだ。
女はちょっと見には熟しすぎのように見えたが、肌は滑らかで薔薇の花弁はしとどに濡れて、すんなりとした腹に大きな
胸で尻に枕をあてがうこともない女だったけれど、女のよれよれ面が朝日に照らされるなど見たくもないから、黒痣が付
いて目のままで袖が無いから着られなくなった上着を手に持って彼はペラパレスホテルに戻ったもんだ。
アナトリアに向ったのはまさにその日の夜だったが、その旅の終わりに馬に乗り、アヘン用の芥子畑を日長揺られてい
ると妙な気分になって、どちらを向いても距離感が掴めなくなってしまったことを思い出した。そこは以前、コンスタン
チヌス帝の将校達がそんな事情は露とも知らず、兵もろともに攻め込んで、なんと味方の中隊を砲撃してしまい、戦況視
察のイギリス人将校が子供のように泣き喚めいていた場所だった。バレー用のスカートと反り返った靴にポンポンが付い
た靴を履いた死体を見るなんてその日が初めてだった。トルコ軍が怒涛のごとく押し寄せるとスカートの男達が逃げ出す
のが見えた。将校達は逃げる奴らに発砲していたが、やがて自分立ちも逃げ出し、彼も戦争を視察していたイギリスの武
官も逃げ出し、胸が痛み口の中がペニー銅貨の味で一杯になるまで走ってから岩場の陰に佇んで外を垣間見ると、止む事
を知らず押し寄せるトルコ軍であたりは溢れかえり、考えられない様な光景が目の当たりに展開された。それから事態は
さらに悪化して、そのまた後も悪化の一途をたどっていった。だから、その時、パリに戻ってきても、そのことを語る事
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もできず、触れられる事さえ耐えがたかったから、間抜けなジャガイモ面のアメリカ人の詩人が何枚もの皿が重なるその
前 で、 ト リ ス タ ン ゾ ラ と 名 乗 る い つ も 片 眼 鏡 を 掛 け た 頭 痛 持 ち の ル ー マ ニ ア 人 と ダ ダ 運 動 に つ い て 話 し 合 っ て い る カ フ ェ
も素通りして、恋しさがまた募りだした女房の待つアパートに急いだものだった。言い争いは終わり、怒りっこもなし、
我が家に帰ってやれやれとしていたある朝、出した手紙の返事が仕事場から自宅のフラットに送られて来てしまい、そ
の筆跡を見て身が凍り、それを他の手紙の下に滑りこまそうとしが女房が言った。
「あなたそのお手紙どなたからかしら」
それが終わりの始まりだったのだ。
女たちとの楽しかったいろいろなときと言い争いの数々を思い出した。
女たちはいつもすばらしい場所を選んで言い争いを仕掛ける。なんで女たちはこの上ない幸せな気分のときに言い争うの
か? その事を書いたことはない。第一には誰も傷つけたくなかったから書かなかったし、そこまで書かなくても書くこ
とは十分にあると思っていたからだ。だがいつかはこの事を書いてやろうとは常に思っていた。
書くことは沢山あった。彼は世の中の変化を見続けてきた。それは出来事その物を指しているのではない。もちろん様々
な出来事にも居合わせて人々を観察してきた。しかし彼はその中に微妙な機微を見つけるために自からをその渦中に置い
て書く事を自分の定めとしてきた。だけと書いてはいないのだ。
「ご機嫌はいかが ? 」
湯上りの彼女が尋 ね た 。
「大丈夫だ」
「今食べられる?彼女の後ろでモロが折りたたみテーブルを持って、他の若い衆が皿を持っていた。
」
「書きたいんだ」
「おすましを少し飲んで力をつけなくっちゃ」
「今晩死ぬのに力つけたってしょうがないだろ」
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「ハリー御願いだから大げさなことを言わないでよ」
「鼻を利かせてみるんだな。太股の半分以上が腐っちまってるんだぞ。なんで馬鹿みたいに澄まし汁なんか飲まなけりゃ
ならないんだ?モロウイスキーソーダ持ってきてくれ」
「お願いだからおすましを飲んでよ」
彼女が優しく言った。
「分ったよ」
澄まし汁は熱すぎた。戻さずに飲み下にはカップを持って冷ましていなければならなかった。
「お前はいい女だ よ 」
彼が言った。
「俺になんかにかまったりしないでくれ」
彼女が彼を見た。以前よりベッドで少しやつれ酒で少々くたびれてはいたが、スパーやタウンアンドカントリーでお馴
染みだった人気者のあの顔だ。もっともタウンアンドカントリーには、あの素晴らしい乳房や器用な両腿、彼の腰を軽や
かに撫でるあの両手の手こそ載ってはいなかったが、誌上でお馴染みのあの優しい笑顔を目の当たりに見つめていたら、
死が再びやってきたのを感じた。今度は迫ってくるのではなく、ふっと吹く風が蝋燭の炎を細く揺らすようなものだった。
「後で蚊帳を外に出して木に吊るして火を起こさせてくれ。今夜はテントに入らない。入ったってしょうがないよ。今夜
は良い天気だ。雨 は 降 ら な い 」
お前はこうやって死ぬんだ。囁きが声にならない。
まあこれでもう言い争いはないだろう。誓ってもいい。誓いを反故にしないそんな気持ちに今初めてなった。でもたぶん
裏切るんだ。お前はなんで裏切ってしまうんだ。だけど今度は裏切らないよな。
「口述筆記はできないよな。できる?」
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「習ったことない の よ 」
「それじゃいいよ 」
そんな時間などありはしないから、うまくまとめて一節に簡略できないだろうか?
湖の上の丘に目詰が白いモルタルの丸木造りの家があった。扉の横に食事を知らせる鐘が竿に付いていた。家の裏手は
原っぱでその後ろは林だった。ロンバルディーポプラの並木が家から船着場まで続き、岬までは他のポプラが伸びていた。
林の際に沿った道が丘の上まで登って、その道々でブラックベリーを摘んだっけ。
あれからその丸木造りの家は焼け落ちてしまった。暖炉の上で鹿の足の上に乗っていた幾つかの銃も焼けて、銃身の中
で鉛弾が溶けてしまったまま洗濯釜の芥として使われる灰の上に放置されていたから、お前は爺さんにそれで遊んでいい
かと聞いたけど爺さんは駄目だと言った。それはなあ、そうなったって、それはまだ爺さんの銃だったんだよ。爺さんは
それを買い変えようともせず、狩にも行かなくなってしまっただろうが。
ブラックホレストで、あの戦争の後鱒釣りの沢を借りたが、そこに二通りの行き道があった。一つはトリベルグから渓
谷を下り、白い道際の木立の下を抜けて谷間を巡り、それから脇道を大きなシュワルツワルド風の切妻家がある小さな農
場の脇を登って流れを横切るまでの道。もう一つは森の端までの急な登りを登り切ってから、唐松の森を通り、丘のてっ
ぺんを横切って原っぱの外れに出ると、それを橋まで下りる道。川幅は広くないから澄んだ急流は細く絞られ、流れを沿っ
た樺の根方を抉って幾つもの淵を作っていた。トリベルグのホテルの主人にとって、それは申し分のないシーズンで、とっ
ても楽しく、みんな大の仲良しだった。しかし翌年はインフレが襲い、前年の蓄えではホテルを開業する用品が備買えず、
ホテルの主人は首を吊ってしまったのだ。
このくらいまでなら筆記できるだろうが、コントレスカルぺ広場で花売りが道端で花を染め、その染料が乗合バスの始
発場所の車道に流れ、ワインや安マリックで年寄り達や女どもが何時も酔っぱらい、寒さで子供達は鼻を垂らしている。
汚れた汗の臭いと貧困そしてカフェデアマテウスでの泥酔と階上二人して住んだバルムゼットの売春婦達。玄関の椅子の
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上に馬の毛の飾りを付けたヘルメットが置いてあるから、きっとアパートの受付嬢が共和国の警察官と自分の部屋でよろ
しくやっているのだ。廊下を隔てた部屋の自転車のレーサーを亭主に持つ女の部屋と、クリメールで見たロートを開いた
とき彼の始めての大レースで三位になっていたツールドパリの記事。彼女は顔を紅潮させて笑い声を立ててその黄色い新
聞を手に持って喚きながら階上に上がっていった。バルムゼットを差配していた女の亭主はタクシーの運転手だったが、
彼、 ハ リ ー が 早 の 飛 行 機 に 乗 る と き に ド ア - を 叩 い て 起 こ し て く れ て か ら 出 発 前 に バ ー の 金 属 カ ウ ン タ ー で 一 緒 に 白 ワ イ
ンを飲んだっけ。
運動好きは体を使っ
この界隈には二種類の人間が住んでいた。酒飲みと運動好きの奴らだ。酒飲みは飲んで貧乏を忘れ、
て貧乏を拭い去った。彼らにはコンミユーン党員の血が流れているから、彼らにとって政治とは、理屈をこねくり回して
理解するものではない。あのコンミューン崩壊の後、ベルサイユの軍隊が入ってきて町を取り上げ、節くれだった手をし
ているもの、運動帽を被ったもの、その他どんな風体でもそれが外労働者風であれば片端から捕まえて処刑した時に、ど
いつが彼等の父親や親類や兄弟を誰が撃ったのかを知っているからだ。そんな貧困の内で、あのブッシエシバリエ、あの
ワイン生協から道を隔てた一区画から彼の稼業は始まったのである。パリ中のどこよりもここが好きだった。伸びやかに
枝を広げた街路樹、裾が茶色に塗られている白く塗られた古い家並み、円形の広場の長い緑色のバス。花を染める染料で
紫色になった歩道。セーヌに下るカルデナルルモワ-ル通りの急勾配。それとは別の狭くいムフタール通りの賑やかさ。
自転車で登ったパンテオンへのあの道はタイヤに滑らかなその区域での唯一のアスファルト舗装の道で、細長い家々と
ポールベルレーヌが死んだあの背の高い安宿が並んでいた。住いのアパートには二間しかなかったので、家々の屋根と煙
アパートからは薪炭屋の敷地だけしか見えなかった。奴はワインも売っていた。悪いワインだった。金色の馬の首が突
突そしてパリ中の丘が見えるそのホテルの最上階を月に60フランで借りて書いていた。
き出たブシェリエ シュバリエには金茶と赤の馬の屍骸が幾つか店先に裸でぶら下がって、二人で安くていいワインを
買ったあのワイン生協は緑色に塗られていた。その他は白壁とご近所の家の窓だった。夜中にどこかの酔っ払いが寝転がっ
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たまま、フランス語であるわけがないような、あのいつものヘベレケ節で唸ったりうめいたりしていると近所の人達は窓
を開けてひそひそと話をしたものだった。
「お巡りは何処に行ったのだい?いらない時ばかり居るんだから。大方受付嬢と寝てるんだよ。警察に知らせようよ」
そのうなり声も誰かがバケツで水をかけるまでの事。
「どうしたんだい?水か。ああ、そりゃ賢いわ」
家政婦のマリーは時間労働制度に反対してこう言っていた。
「もし亭主が6時に仕事を終えれば帰りにそんなに飲まないから金も使わない。それが5時なかったら金がなくなるまで
毎晩飲んでしまうのよ。時短で酷い目にあうのは労働者の女房なんだよ」
「もっとお澄まし い か が ? 」
女が彼に言った 。
「いいよ、本当にありがとう。凄くうまかったよ」
「少し召し上がり な さ い よ 」
「ウイスキーソー ダ が 欲 し い な 」
「それは良くない わ よ 」
「違うよ。それは俺には悪いんだって言うんだよ。コールポーターが作詞作曲したやつだ。「お前は俺にくびったけ。それ
が俺には辛いんだ 」
「あのね。飲ましてあげたいのよ」
こいつがどこかに行ってしまったら、と彼は思った。飲めるだけ飲んでやる。飲めるだけではないではないが、ここに
あるだけは飲んでやる。ああ、彼は疲れた。疲れ過ぎた。彼は眠りかけていた。静かに横たわっていると、死はそこには
いなかった。きっと他の通りに行ってしまったんだ。二組の自転車で、全く音も立てずに進んでいるんだ。
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おっと、パリの事は書いてはいなかった。心に残るあのパリを書いていないのだ。まだ書いてないことがあったか?あの
牧場と銀ネズのセージの群れ、灌漑の澄みきった急流、深緑の馬肥やし。あの幾つかの丘に続く登り道に、夏の牛は鹿の
様に臆病な事。
秋、牛たちを山から下ろすときの引きもきらないあの鳴き声と、音を上げ土煙を上げながらゆっくりと移動する大きな
一群。山々の彼方で夕刻の光にくっきりと浮かぶあの峰と、月明りを浴びて馬に乗って降りてきたあの山道の事。見えな
くなると馬の尻尾を掴んで、縫う様に林を下った事のどれもが書く意味のある物だった。
誰にも干草をやってはならぬといわれて牧場に残された少し足りない牧童と、その子を以前、殴っては使っていたフォー
ク牧場のくそ爺が飼料を取りに立ち寄ったときの話。言われていたように、その子が飼料の持ち出しを拒むと、爺は又殴
られたいのかと言って納屋に押し入ろうとしたら、その子は台所からライフルを持ち出し、爺を撃ってしまったもんで、
皆が帰った時は死後一週間の死体は所々を犬に食われて牧柵内で凍りついていた。食い残された死体をなんとかその子に
手伝わせて橇に載せて、毛布に包んでロープで纏めて、60マイル離れた町までの道を引っ張って下ってからその子を引
き渡した。その子は捕まるなんて夢にも思っていなかった。役目を果たしただけだし、お前とは友達だし、きっと褒美で
も貰えるのだと思っていた。どんなに爺が悪い奴で、自分のものではない飼料を盗ろうとしたのかを皆に知らせ様と橇に
積みこむのを手伝ったのに、保安官が手錠をかけるなんて信じられなかったのだ。それでその子は泣きわめき出してしまっ
た。
あの場所から少なくとも20のよい話が思いつくのがわかっていたのに一つも書いて
はい。
「何んでだか、皆に言ってみろよ」
「何でだかってな に 」
「何でもないよ」
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彼を自分のものとした今、彼女はそうは飲まない。しかし彼女の事は生き長らえたとしても決して書かないだろうと自
分で分っていた。それどころか金持ちたちの事すら何も書かないだろう。金持ちは退屈で大酒のみで、バックギャモンば
かりしている。同じ事の繰り返しの退屈な奴らなんだよ。貧乏なジュリアンの金持ちに対するロマンチックな畏敬の念を
思い出して「大金持ちはお前や俺とは違うんだ」と彼が言ったとき、そうさ奴らは金がもっとあると誰かが言ってもジュ
リアンにはそれが冗談だととらなかったと言う小説の出だしを思い出した。彼は金持ちとは特別な魅力を持つ人種だと
思っていたのだが、それがそうではないと知ったともたいつもの様に落ち込んでしまったのだ。
自分は落ち込ませた方の奴等なんか馬鹿にしていたものだ。理解したからって好きにならなくてはいけないわけではな
いんだよ。気にしなければどんなのにもやられることはないんだよ。
そうさ。死ぬことだって気にしないぜ。痛いのだけはかなわないけれど。どんなに痛みが続いても男だからくたばるま
ではがんばってやるが、今度の奴は、何かたまらない痛みが襲ってきて、もう参ってしまうという直前になんと痛みが引
いてしまったのだ っ た 。
ずいぶん昔の事になるが、工兵隊将校のウイリアムソンが鉄条網をくぐって帰って来た時に、ドイツのパトロール隊の
誰かが投げた手榴弾に直撃されて、撃ち殺してくれと誰彼を問わずに叫びながら懇願していたあの夜のことを思い出した。
大げさな素振りが癖の奴だったが、太った有能な仕官であった。しかしその夜、サーチライトに照らしだされたままの彼
は内臓を針金に引っ掛かけてしまい、生きたまま引き入れ様とするには、はみ出した部分を切り離さねばならなかったの。
撃ち殺してくれよハリー。頼むから撃ってくれよ。何時だったか、我が主は人が絶えがたき苦しみは与えず、の意味で論
争したとき、痛けりゃ気を失うってことだと誰かが自説を述べていたが、その夜のウイリアムソンの事は忘れようにも忘
れられるものではなかったのだ。ウイリアムソンの気は確かで、彼が自分用に取ってあったモルヒネの錠剤を全部やって
もすぐには利かなかったものだった。
それに比べればまだこんな物はまだ楽なもので、もっと悪くならなければしなければ心配はない。ただもっとましな連
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中といたかったったってことはあるよな。
それじゃどんな連中と一緒ならよかったかを少し考えてみた。
だめだ。いつだってお前は長ったらしいしのろいから誰も残っていやしないんだ。パーティーは御開きでお前はお上さ
んと二人きり。
もう死ぬのも他の事と同じようにかったるくなってしまった。
「かったるいぜ」
声にだした。
「どうしたのあな た 」
「何をやっても俺は酷くのろいんだ」
自分と火の間にいる彼女を見た。椅子の背に見を持たせている彼女の型の良い顔の輪郭を焚き火が照らしだしているけ
れど眠そうに見える。焚き火の明かりの外でハイエナが鳴き声を上げた。
「書いてるんだけ ど 」
と彼が言った。
「疲れたよ」
「眠れると思う? 」
「まず大丈夫だよ。休んだらどうだい」
「あなたのそばで座っていたいのよ」
「なんか奇妙な感じがしないか?」
彼が聞いた。
「しないわよ。ちょっと眠いけど」
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「俺にはするよ」
彼が言った。
また死がやって来たのを感じたのだ。
「あのな、好奇心だけは無くならないんだよ」
彼女に言った。
「なにも無くしてないわよ。こんなに完璧な人私知らないわ」
「かんべんしてく れ よ 」
と彼は言った。
「女に何がわかるんだ。なんだそれは?いつもの思い込みか?」
それは死がやって来て息を臭わせながらコットに頭を持たせかけていたからだった。
「死神は鎌を持った髑髏じゃなかったんだな」
彼女に言った。
「それは自転車に乗った二人の警察官にも簡単になるし、鳥にもなる。あるいはハイエナのような大きな鼻面となること
もある」
それは彼の上に乗ってきたがもう形をなしていなかった。いまやそれは単に空間を占めるだけの物となっていた。
「うせろ、ってい っ て く れ よ 」
それはうせるばかりかもう少し迫ってきた」
「息が臭いんだよ 」
彼がそれに言った
「くさい野郎だ」
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それがますます迫ってくると声を出す事がだせなくなってしまったので無言で追い払おうとしたがそれはさらに乗りか
かって、そいつの重みが胸中に広がり、そいつが居座って動く事も喋る事も出来なくなっていると女の声がした
「ブワナはお休みよ。コットをそっと持ってテントに入れてちょうだい」
どかせてくれと言えずにいるとそれはもっと重く圧し掛かって息も据えない様になっていた。しかし、彼等がコットを
持ち上げると突然難とも無くなって胸の重しもなくなってしまったのだ。
朝だった、いつのまにか朝になると飛行機の音が聞こえてきた。小さく見えてから大きな輪を描くと若い衆が駆け出し
て灯油で火をつけて草を積み上げると水平の両端に二つの大な狼煙が立って朝風が煙をキャンプに運んでくるころ飛行機
はもう二回旋回してそれから高度を下げて滑空してから水平になって滑らかに着陸するとなんと長ズボンにツイードの
ジャケットそれにフェルトの帽子を被ったあのコンプトンがやって来るじゃないか。
「どうしたんだよ 、 お 前 」
「足が駄目なんだ。朝飯食ってくか?」
「悪いな。じゃ茶だけちょっと飲ませてもらうか。プスモスだからよ。奥方は乗せられないぜ。一人分しか空いてないからよ。
お前のトラックが や っ て 来 る よ 」
ヘレンがコンプトンを脇に連れて行っては話をしている。
コンプトンがさらに上機嫌になって戻ってきた。
「すぐ乗せるぜ」
彼が言った。
「奥方を連れに戻ってくるよ。だけど給油でリュシャに寄らなくなるいかもな。すぐ出発しようぜ」
「茶はどうするん だ 」
「そんな物飲まなくたってどうってことはないよ」
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若い衆がコットを持ち上げて幾つかの緑色のテントの間を縫ってから岩の側を通って赤々と燃えている狼煙の間を抜け
て草原に出た。草全体に火が回り、風が煙を小さな飛行機の方にたなびかせている。乗せるときは厄介だったが、乗って
しまってからはコンプトンの脇に片足を突き出したままでレザーシートに背を持たせかけた。コンプトンがモーターを始
動させて機に乗りこんで来た。彼がヘレンと若い衆に手を振り、エンジンの乾いた音は聞きなれた轟音となり、コンちゃ
んがワートホッグの巣穴を睨みながら機の向きを変えるとエンジンが唸り、機体は弾みながら狼煙の間を真っ直ぐに滑走、
最後の一跳ねで浮上すると、皆が手を振って立っているのが見えて、丘の脇のキャンプが扁平になり、草原は広がり、ま
ばらに群生する木々と、平面となった潅木になだらかな獣道は幾つかの水穴に向かって登り、そこには見たことのない新
しい水もあった。丸く小さく見えるゼブラの背中と大きな頭が点々と続くウィルドビーストの列は、まるで草原を覆った
手が長い指を動かして、よじ登っているみたいだ。機影が近づいたので今その列が乱れた。とても小さくなってしまった
から駆け足をしているのがわからない。見渡す限りの草原はくすんだ黄色で、目の前はあのコンちゃんのツイードの背中
と茶色のフェルトの帽子。そして二人は最初の丘陵地帯の上をウィルドビーストの列を曳航するように飛んでから、大森
林のあちこちが青々と隆起して、いくつもの断崖や竹だけの斜面がある山々を越えて、また峯々やいくつもの盆地を形ち
造 る 深 い 森 を 越 し 終 え と、 そ れ か ら は 下 り 勾 配 の 丘 陵 地 帯 と な っ て か ら 紫 が か っ た 茶 色 の 別 の 草 原 に 出 と 今 度 は 熱 く な っ
て、熱気に機体が跳ねるからコンちゃんが乗り心地に気を使って振り向いた。前方は黒々したさらなる山と山。機はアル
-シャには向かわず左に方向を変えたので、燃料は大丈夫なのだと思ってふと下を見ると、どこからともなくやってくる
ブリザードの吹き始めのような篩にかけられたようなピンクの雲が地面や空中を覆っていたが、彼はそれが南からやって
来たバッタの群れだと分かっていた。それから二人の機は上昇して東に向うようだったが、あたりが暗くなって、嵐に突
入した。雨脚は激しくまるで重く滝のなかを飛んでいる様だったが、それを抜けるとコンちゃんが振りかえってニヤリと
笑って前方を指差した。それはこの世界一パイに広がる偉大にそびえて日の光を浴び、信じがたいほど白い角張ったキリ
マンジャロの頂上だった。そうか、そこに行くのかと彼は思った。
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突然ハイエナがその夜鳴きやんで、人が泣くような変な声をあげ出した。それを耳にした女は胸騒ぎに身じろぎした。目
がさめないままの夢の中でロングアイランドの家に居た。娘が社交界にデビュウする前の晩だった。なぜだか彼女の父親
がそこにいて粗野に振る舞っている。そうしているうちにもハイエナが大声をあげるものだから彼女は目を覚ましてが、
自分がどこに居るのか判らなかったからとても恐ろしかった。それから彼女は懐中電灯を手にしてハリーが寝てから運び
込んだもう一つのコットを照らし出した。蚊帳の中に大きな体があるがなぜだか片足がベッドの脇に突き出てぶらさがっ
ている。包帯がみな解けたそれは見られたものではなかった。
モローが呼んだ。
「モロー、モロー 」
それから
「ハリーハリー」
と言った。
それから大きな声 で
「ハリーたら、お願いだからああハリー」
返事はなく、呼吸の音も聞こえなかった。
テントの外では相変わらずハイエナが彼女を起こしたあの奇妙な声をあげてたが、胸の鼓動でなにも聞こえなかった。
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