Taro-27学校だより 3号 6月 .jtd

常永小学校だより
第 3号
ほたるっ子
学校教育目標
ともに学び合い 心豊かにたくましく生きる子どもの育成
『かしこい子』 『やさしい子』 『たくましい子』
コミュニティ・スクール
コミュニティ・スクールとは,地域と学校と
がより緊密に連携をとることにより,子どもの
健やかな成長を目指していくという取組です。
学校・保護者・地域が持つそれぞれの教育力を
結集し,よりよい教育環境を創っていく仕組み
です。今年度から本校でもこの制度を導入しま
した。そのことに伴い,この活動の方向性を決
めたり,統括したりする組織として,学校運営
協議会を立ち上げました。
学校運営協議会委員
会長
佐野 統
副会長 今村 大和
委員 小澤 勝己
委員
委員 名執 明美
委員
委員 小澤 久生
委員
委員 山本 靖
委員
委員 佐野 勝彦
委員
委員 志村 隆
委員
委員 小宮山 昇
(敬称略)
保坂 千鶴子
望月 慶介
保坂 正広
谷内 清
柴 茂生
深澤 秀興
6月9日には,第一回学校運営協議会を開催
し , 委 員 の 委 嘱 ,「 昭 和 町 学 校 運 営 協 議 会 会 則 」
の確認,それを受けて「常永小学校学校運営協
議会要綱」が承認されました。
このコミュニティ・スクールの活動には,今
まで行っていたものをそのまま続けて行けば良
いという内容もありますし,新たに取り組んで
いく必要のあることもあります。いずれにしま
しても,短期間で速効的に成果や結果が現れる
ことではありませんから,腰を据えて取り組む
こと,苦痛に感じない負担とならない楽しくで
きる活動にすること,徐々に広がりや発展性の
あるものにすること,そういうことを念頭に置
いて取り組んでいきたいと考えます。これから
始まりですから手探りの部分も多く,うまく転
がるまでには時間もかかると思いますが,2年
前から導入している先達である押原小学校に習
い な が ら ,本 校 ら し い も の を 目 指 し て い き ま す 。
皆様の御理解,御協力をお願いいたします。
平成27年6月24日(水)
発行責任者 校長 志村 隆
不便を学ぶ
6 /4 ~ 5 日 に 5 年 生 の 「 林 間 学 校 」 を 長 野 県
の「 国 立 信 州 高 遠 少 年 自 然 の 家 」で 行 い ま し た 。
出発に先立ち,私はこんな話をしました。
「林間学校」
には,便利な
ことは用意し
て あ り ま せ
ん。山登りを
しますが,車
は使わずに,
自分の力で登
ります。泊る
部屋には,いつも皆さんが楽しんでいるテレビ
やゲームはありません。どう過ごすかは皆さん
次第です。お昼ご飯を作ります。便利なガスは
なく,薪で火を起こして,慣れない包丁も使い
ます。このように不便なことばかりです。でも
「不便」は大切なことです。人は「不便」を感
じると不満も言いますが,片方では知恵を出し
て何とかそれを克服しようとします。また,仲
間と力を合わせたり,励まし合ったりします。
その,知恵を出して工夫したり,仲間と協力し
て困難を乗り越えたりたりすることが,林間学
校の目的だと思います。
果たして,5年
生は,二日間で自
然と向き合い,自
然に対して美しさ
を感じたり,畏敬
の念を抱いたり,
また友達と
寝食を共に
するという
ことから仲
間との連帯
感や友愛を
深 め ま し
た。
良いことは
わからないようにする
先日、こんな光景を目にしました。
朝,子どもたちの登校の様子を見てもどってきた
ときのことです。ひとりの女の子が足元に落ちてい
たゴミくずを拾いました。その子は,私が見ていたか
らそうしたのではなく、当たり前のようにゴミを拾っ
たのです。
ま た , 過 日 , 「道 路 を 横 断 で き ず に 困 っ て い る
ときに,高学年の児童が,横断を手伝ってくれ
た の で , と て も 助 か り ま し た 」と い う 内 容 の 電 話
が学校にありました。
これらのことに出会う度,思い出す言葉があ
ります。それが『よいことはわからないように
する』という言葉です。
誰から聞いたのか,はっきり覚えていないの
ですがこの言葉を私が聞いたのは、小学生の頃
でした。でも、私にはしばらくの間、その意味
が分からずにいたことを今でも強く覚えていま
す 。「 良 い こ と を す る 」 と み ん な か ら 「 褒 め ら
れ る 」「 褒 め ら れ る 」 と 嬉 し く な っ て , い い 気
持ちになる。だから また「良いことをしたく
な る 」 そ し て ま た ,「 良 い こ と を す る 」 と 。 自
分の中ではこんなふうに納得していましたから,
「良いことをわからないようにする」というこ
とは当時の私には,不可解なことでした。
確 か に 、 幼 小 の 時 の 育 て 方 は ,「 ほ め て 育 て
る 」 と 言 わ れ る と お り ,「 良 い 行 い を ほ め る 」
ということは,本人の行動意欲を高めたり,自
己有用感を植え付けたりするのに効果的で,大
切なことです。
でも,誰にも見られていなくても,誰もほめ
てくれなくても「良いこと」ができるというこ
と が ど ん な に 上 等 な こ と か 。 逆 に ,「 ほ め ら れ
る」からするとか,ほめてもらえないと損だ,
なんていう考えは打算的であり,本物ではない
ということに気づいていかなくてはならないと
思います。かくいう私もこのことがわかるよう
になったのは,大分年をとってからでした。
みんなに見えないところで,みんなが気づか
ないうちに,みんなが喜ぶことや幸せになるこ
とをする。みんながやりたがらないような,で
も誰かがやらなくてはならないそんな良いこと
をさりげなくこっそりとやっておく。そういう
生き方というのを,私は美しいと思いますし,
そうなれたらいいなと思っています。
今日もきっと私の気づかないところで,常永
小 学 校 の 子 ど も た ち が , あ ち ら こ ち ら で ,「 良
いことをわからないようにやっている」のだと
思います。うれしいことです。
「褒めること」と
「認めること」の違いは
大人の側にしてみれば,この両者の違いは有
っ て 無 い よ う な も の で し ょ う 。「 認 め て あ げ よ
う と 思 っ て , 褒 め て い る 」「 褒 め る こ と は , そ
のまま認めること」という感覚なのではないで
しょうか。そして,多くの子どももそんな感じ
で受け止めていることでしょう。とりわけ,年
齢が低いほど,その差は無いに等しいに違いあ
りません。
し か し ,「 認 め て も ら い た い 」 と 強 く 思 っ て
いる子どもには,そんな大人の言い分は通じな
い か も し れ ま せ ん 。 中 に は ,「 褒 め ら れ て も 嬉
しくない」といった子どももでてきたりするの
です。一体何が違うのでしょうか。
大人が子どもを「褒める」ときは,一般に大
人の基準で「褒める」ことが多いように思われ
ます。大人から見て一定の水準に達したと評価
するのが「褒める」ことだと言えます。逆に言
え ば ,水 準 に 達 し な い 場 合 に は「 頑 張 り な さ い 」
と叱咤激励することはあっても褒めることは稀
でしょう。
そ れ に 対 し て ,子 ど も が「 褒 め て も ら い た い 」
ときというのは,子どもの水準や基準で「褒め
られたい」のではないでしょうか。子どもなり
のこだわりで努力したり工夫したりしたことを
「認められたい」のです。だから,大人の目か
ら 見 た 基 準 に 達 し て い な く て も「 褒 め て ほ し い 」
と考えたり,大人の水準に到達して「褒められ
た」場合でさえ,大人の基準とは異なる子ども
の基準でも「褒めてほしい」と考えたりするわ
けです。だから,自分がさほど努力もしていな
い , 自 分 の 功 績 で は な い こ と ,「 み な さ ん , よ
く頑張りましたね」と全員を一括りにして褒め
られても,さほどうれしくもなく,励みにもな
らないのかもしれません。子どもの実際の行動
と向き合うことなく,表面的にお世辞を言った
り,ちやほやしたりしても,子どもの「自己有
用感」はおろか「自尊感情」すら高めない可能
性が高いのです。行事に取り組む,学習に取り
組 む 際 な ど に ,子 ど も 自 身 に 目 標 や 工 夫 す る 点 ,
努力する点などを考えさせておき,その基準に
沿ってどこまで達成できたかを評価することが
「認める」という行為では重要になります。そ
れが「自己有用感」を育むのです。単に良かっ
た,悪かったと評価するだけの「褒める」では
「 自 尊 感 情 」 を 育 む こ と は で き て も ,「 自 己 有
用感」を育むことにはなりにくいのです。
『生徒指導リーフ』より
国立教育政策研究所発行