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第一節 谷山川の流れに沿って
新町
こ いで
山 川 の 上 流 部 は、 江 戸 時 代 に は 新 町 と い い ま し た。 現 在 の 谷 山 区
谷
あじやま
はっさか
ようじだに
(鯵山・八坂・楊枝谷・新町・新屋敷)にあたる場所です。新町は出石の城下に
とっては、京街道の東の入口となります。新町と名づけられたのは、小出氏が出
石の城主となった慶長年間(一五九六~)以降に、武士の人口が急激に増えたた
め、城下町の区画を整理し直しました。谷山町は武士の居住区として、その東を
新たに百姓・町人の住む場所としたからです。
谷山川に沿った地域
出石城下絵図部分
(井上美寿恵氏蔵)
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一の章 城下町を歩く
旅人の往来も多く、峠のある鯵山には茶店が四軒もありました。街道の両側に
は、きれいな水の流れる小さな溝があり、ところどころに深い水溜めを作って馬
の水飲み場とし、そこを馬井戸とよびました。
おうみのくに
文化七年(一八一〇年。以下、各町の家数は特にことわらない場合は同年)の
家数は一四〇軒もありました。新町は百姓・町人の居住区といいましたが、この
か
じ
くにともだんくろう
ころには下級武士の屋敷が六〇軒ありました。そのなかに、近江国国友村(現滋
賀県)から呼び寄せられた鉄砲鍛冶の国友弾九郎の屋敷もあります。新町に屋敷
を与えられた弾九郎は、この場所で鉄砲を製作しました。数は少ないですが、町
内にはその作品が残されています。
茶臼山古墳
ほり
町 の 区 域 内 に は、 古 墳 が た く さ ん あ り ま す。 そ の な か で も 楊 枝 谷 に あ る
ちゃ新
うすやま
茶臼山古墳は、直径が四九メートルにおよぶ北但馬で最大の円墳です。高さは七
メートル近くあります。古墳の周囲を巡る濠は現在は水田になっていますが、往
かさもり
にわとりづか
時の豪壮さを偲ぶことがで き ま す。 今 は 所 在 が は っ き り し な い も の も あ り ます
が、ほかにも、楊枝谷の北西に笠森古墳、 鶏 塚 古墳、丸山古墳などがあり、出
石高校裏山一帯に分布する前代の入佐山古墳群との系譜関係が気にかかるところ
です。
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大型円墳の茶臼山古墳
古い写真 周囲の田は濠跡
そりとしています。
古寺
いうお寺があったことからついた名前です。涅槃寺はお坊さんの住む僧坊が
す。
楊枝谷の東北には、標高四七二メートルの古寺とよばれる山がありねま
は ん じ
山のなかに寺を建てることがはやった平安時代のころに、真言宗の涅槃寺と
ふるでら
笠森詣で」という人もありました。敗戦後は参拝人も途絶えて、神社はひっ
もう
ない列を作りました。その行列がまるでアリのようだというので、「アリの
屋)の奥から、大嵯峨道という、山を切り通した道を越えて、絶えることの
お お さ が み ち
第二次世界大戦中には、兵士として戦地に送り出される人の無事を祈る家
族たちがこの石段を登りました。この時、参詣した人たちは出町(現在の魚
お参りするには二〇〇段の急な石段を登らねばなりません。
ません。さきほど紹介した笠森古墳も、この神社のそばにあります。神社に
守」はできものの神で、音が同じところから笠森へと転化したものかも知れ
があり、その分社かも知れません。かさ(瘡)とはできもののことです。「瘡
り、そこに笠森稲荷神社が
楊枝谷の西側、笠森山の中腹に小さな平地がやあ
な か
あります。創立年代や由来は不明です。江戸谷中の感応寺境内にも笠森稲荷
笠森稲荷神社
第一節 谷山川の流れに沿って
以前の笠森稲荷社のようす
(豊岡市教育委員会蔵)
山中の古寺跡
建物の礎石が残る
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一の章 城下町を歩く
八坊もある大寺院であったといわれています。山上にはそれらの建物の礎石が点
在し、かつての壮大さがしのばれます。
寺はのちに山上から移転して、いまは八坊のうちの光明院が魚屋区に、東光院
が宮内の総持寺として引き継がれています。かつては、この山は雨乞いの祈祷の
場所としてもよく知られていたそうです。
採石場
新町区域の東部から、有子山の南麓の日野辺地区にかけて、白磁の原料となる
陶石脈が走り、良質の出石焼原料として採掘されていました。そのなかで柿谷・
鶏塚鉱山は江戸時代後半から昭和にかけて稼動していて、京都にも移出され清水
焼の原料にも使用されていました。
あじやま
現在、鶏塚鉱山は閉鎖、柿谷鉱山は休止となっています。採掘された陶石を使っ
た白磁の美しい改良出石焼は、明治以降内外の博覧会に出品され、高い評価を得
ています。
鯵山峠
新町と寺坂村の境界にある峠は、鯵山峠とよばれています。峠の麓には茶店や
松並木や広場があり、出石城主の参勤交代の道中には休憩の場とされました。ま
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むろみだい
谷山町 しもたに
たにやまちょう
現在の下谷区を谷山町とよびました。武家町といわれる武士の居住区で、その
ました。
山に権現堂がまつられています。山あいの静かな環境は城下の秘境といわれてい
頃まで四、五軒の民家がありましたが、現在は一軒のみ残っています。集落の裏
たくさんの坂があったところから八坂と言います。城下で最も東の集落です。
鯵山集落から谷山川に沿って三キロメートルほどさかのぼった所で、昭和のなか
八坂
を無視した名にしてしまったことと似ています。
る室野代という奈良時代からの由緒あるよび名を、明治以降に室見台という語源
むろのだい
には愛知山と書かれています。
ところで鯵山という地名ですが、この専助の日記
むろはにほそみむら
後世に鯵山と誤って伝わったのでしょうか。旧室埴細見村の室野の水田を意味す
あ ち や ま
専助(百七十石)によって詳細に書き止められています。
頂上からは市内最高峰の床尾山を間近に見ることができます。仙石氏がここを
通って参勤したことが、寛政十二年(一八〇〇)の「道中日記」に、勘定方井上
とこのおさん
た見送りの人たちもここまでと決められていました。
第一節 谷山川の流れに沿って
現在の鯵山峠
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一の章 城下町を歩く
いるさやま
なかでも上・中級の武士が住んでいました。町内は谷山川を境にさらに南北に分
うらとの
かれていました。谷山川から南を狭い意味での谷山町、北側の入佐山側を裏谷山
町または裏殿町とよびました。家数は二二軒でした。
しかし明治九年(一八七六)の大火で、町は入佐山麓にあった西林寺を含めほ
とんどが焼失し、西林寺は廃寺となり住民の多くも引越してしまい、現在は小さ
な集落となっています。
番所
谷山町の東の端、谷山川にかかる橋のたもとに東の番所があり、往来の人々を
見張っていました。新町から橋をわたり番所を通ると、道は谷山川に沿って材木
町の裏側を通り、入佐町、上魚屋町裏から鉄砲町へ出て、豊岡道へ続いていまし
きちじょうじ
そうとうしゅう
た。豊岡藩主京極氏が参勤交代の時に通る道筋でもありました。 吉祥寺
よしまさ
ゆうざん
谷山川と楊枝谷川の合流点の南側に吉祥寺があります。曹洞宗の寺で、出石町
内では唯一仁王門や飛天の天井画のある寺です。寺の建立者である開基は、出石
城主小出吉政の母の長春院で、創始者である開山は吉政の弟の佑山和尚という、
小出家ゆかりの名刹です。
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吉祥寺山門
養をすることになりました。
ぶぜんのかみひさみち
くらのすけ
そ うや
めて宗也ほか九名の位牌新調を願い出て、許可が得られたために同寺に納め、供
仙石家では徳川家に遠慮して、同族の家老仙石内蔵允が吉祥寺に位牌を納めて
密かに宗也を弔っていましたが、天保十一年(一八四〇)に寺社奉行を通じて改
の陣で天王寺方面で奮戦し討ち死しました。
です。宗也もそのために、父の秀久、弟の忠政と分かれて豊臣方に付き、大坂夏
関ヶ原の役や大坂の陣など、天下を二分する合戦で大名家の多くは、父子ある
いは兄弟が敵味方となり戦いました。一方が破れても、もう一方が生き残るため
つられています。
です。また、仙石家の初代権兵衛秀久の次男豊前守久倫こと仙石宗也の位牌がま
ごんべえひでひさ
ます。とくに仙石家の筆頭家老荒木家の立派な石碑群は吉祥寺墓地のなかの圧巻
大総長)・新井晴簡(日露戦争の陸軍中将・男爵)家の墓など有名人の墓があり
檀家には武家が多く、境内墓地には荒木・酒匂・原など、のちに出石の城主と
なった仙石家の重臣や、その藩校弘道館の秀才といわれた加藤弘之博士(初代東
さ こう
のいた岸和田の玉泉寺を出石に移し、寺名も吉祥寺に改称したということです。
たつの市)二万九千石から出石五万五千石に栄転したのですが、その時に父秀政
小出家の本家はだんじりまつりで有名な泉州(大阪府)岸和田の城主で三万石
の大名でした。その岸和田城主小出秀政の長男が吉政です。吉政は播州龍野(現
第一節 谷山川の流れに沿って
仙石宗也の位牌
新調したもの
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