論説 - 鹿児島県立甲南高等学校HP

ふるさとを心に
がんばれ!
校 長 海江田修誠
ら国内外とも混沌として らに勉強し続けるしかな
先が見えない不安でいっ いのだと思います。
景かもしれません。
ぱいです。災害やテロ、
苦しいときに思い出す
経済不安など挙げればキ のは高校時代の様々な情
リがありません。
そのような中、今、時 「 ふ る さ と 」 と い う 唱
代は、旧来の枠組みをた 歌の歌詞の抜粋です。
忘れ難き故郷
一 夢は今も巡りて
恙無しや友がき
二 如何にいます父母
だ受け継ぐことではな
新しい価値を創造するこ
く、社会変革につながる
と、すなわち新たなイノ
背伸びせよ!
三学年主任 松崎 浩隆
格闘する姿、部活動に熱 れたかもしれない。しか 会う。甲南での学びが、そ
中する姿、大学入試問題 し、君たちはこの三年間 のときの拠り所に少しで
に悲鳴を上げる姿、進路 で用意された、今の時期 もなって貰えればと願う。
決断に苦悩する姿…。教 に経験してほしいと考え 「 一 生 勉 強 」 と い う フ
育に携わる者として色々 るプログラムを立派に乗 レーズがある。学びに終
なことを考える。今、果 り越えた。だから、胸を わりはない。自分が進む
たして君たちを自信持っ 張って自信を持って卒業 フィールドに、どんな夢
て社会に送りだせると言 してほしい。自分では見 を描くかは自分次第。誰
えるのだろうか。卒業生 えないが、紛れもなくそ にも負けないものをつく
を送り出す度に常に自分 の経験値(試練)が、今 ろうと努力してほしい。
に突きつけられる課題で 後の自らの思考に奥深さ 本物を追求してほしい。
頼れる過去の
自分を作れ
ゆく時間の中において、
次の瞬間には「過去」の
物となると同時に、これ
れる」自信へ変わって
PTA会長 から先へと進む際の「頼
小林 祐二
いったことと思います。
振り返れば、この高校
三年間も同様の自信を
桜島の活動
が活発化して
いる。マグマが
かなり溜まっ
てきていると
い う。 御 嶽 山
の噴火も記憶に新しいので
年の節目
心配だ。2015年は日本
日々積み重ねたことによ に と っ て 戦 後
り、益々多くの事に対応 と な る 年 だ。 戦 時 中 も 桜
主 化 が 推 し 進 め ら れ、 一
戦 後、 日 本 は、 日 本 国
憲 法 を は じ め と し て、 民
うか。
そんなことを考える。
できるようになっていた 島 は 噴 火 し て い た の だ ろ
春風香る桜花爛漫のも ことでしょう。
六十六期生諸君、まず ある。やりきったとは思 を与えてくれたはずだ。 その過程に人生の豊かさ
ベーションの実現を求め 三 志を果たして
いつの日にか帰らん
は卒業おめでとう。皆さ うが、もっとできたので 目の前にある事象を一面 が生まれると確信する。 と、甲南高校に入学でき
す な わ ち「 努 力 」 と
この歌詞のイメージは んと同じ時間・同じ空間 はないか。我々はまた君 的でない、多面的な見方 その土壇場での自分の英 ると決まったあの日。最 は、未来に対する「頼れ
昭和の日本の原風景です を三年間も共にしてきた たちに学ぶのである。
のできる人間力の構築に 断を信じよ。その向こう 近のことのように感じる る過去の自分を作る事」
六十六期の皆さん、卒 ています。皆さんが時代
業おめでとう。皆さんと の先駆者としてどう生き
70
れない喜びとして心に刻 安もあるかもしれません 成 長 を 遂 げ、 見 事 な 復 興
覇した皆さんは私にとっ 道、一以て之を貫く」とい られるように思います。 てくる。まだ初々しかっ うものすべてが身の丈を もっと険しい山を越えな るはず。諸君の未来に栄 いますが、今なお忘れら ちます。希望と同時に不 た 国 と は 思 え な い ほ ど の
前を懐かしく思い出しま
「 ふ る さ と 」 を 甲 南 ので、色々な映像が走馬
中学生気分の抜けない 役立ったと思いたい。社 に、 き っ と 鳥 肌 の 立 つ 人、遠い昔の事のように なのです。これから皆さ 方 で は 工 業 化 も 進 み、 わ
ノーベル物理学賞を受 が、
す。四月、甲鶴戦で三連 賞された赤﨑先輩は「吾か での高校生活に置き換え 燈のように頭の中を巡っ うちは、甲南高校で出会 会に出れば、もっと高く ガッツポーズが待ってい 感じる人、それぞれと思 んは、新たな世界へ旅立 ず か な 期 間 に 戦 争 に 敗 れ
初めて顔を合わせた一年 るかが問われます。
方針である「地球規模で さんのことを自ら学び、
ものを考え行動するリー 成長する必要がある。
ダー」を育成することも 世紀を生きる私たち自身
世界で活躍するグローバ がグローバルな視野を常
ルな人材を育成するため に持ち、世界に羽ばたい
4月 第42回スポーツ交歓会「英姿颯爽~美しく煌めく二つの炎」
5月 東京スカイツリー開業
7月 ロンドン五輪 金7,銀14,銅17
9月 第64回体育祭 颯爽凜華~今こそ見せろ不屈の魂~
第52回文化祭 颯爽凜華~未来へ紡ぐ我らの心~
10月 京都大学山中伸弥教授 IPS細胞でノーベル生理学・医学賞受賞
平成25年度
4月 第43回スポーツ交歓会「天翔乱舞~翔けあがる紅紫へ~」
5月 長嶋茂雄氏と松井秀喜氏に国民栄誉賞
6月 富士山が世界遺産に決定
9月 第65回体育祭 奏輝風来~煌めけ青春の滴~
第53回文化祭 奏輝風来~ Be true to your heart ~
2020年夏季五輪・パラリンピック開催地が東京に決定
2月 ソチ五輪 金1,銀4,銅3
平成26年度
4月 消費税8%スタート
第44回スポーツ交歓会「紅紫繚乱~二つの思いが躍動する瞬間~」3連覇達成
6月 富岡製糸場が世界遺産に
8月 広島市北部で大規模土砂災害
9月 全米テニスで錦織圭選手が準優勝
御嶽山噴火 死者57人
第66回体育祭 千花繚乱~駆け抜けろ!その先へ~
第54回文化祭 千花繚乱~ Happiness will find you !~
10月 赤﨑勇名城大学終身教授(二中出身)ノーベル物理学賞受賞
12月 衆議院議員選挙自民党が圧勝
僕たち…
三学年委員長
川野 容子
一 方 で、 現 在 の 日 本 は
校生も日本の一国民とし
て、 こ れ ら の 課 題 を 見 て
皆さんは体育祭では三 に三年間が過ぎた気がし 年 間、 受 け 継 が れ て き た
んが、同じ曲を何回も何
バトンを託された私たち
回も演奏し、ついにドラ 年間優勝できませんでし ます。
て甲南パワーで三連覇を が、
一期一会を大切にして、 よ り 後 の 世 代 に 伝 え て い
ム を た た く 人 が い な く たね。でも、甲鶴戦では
これから、皆さんはそ は、 た と え 戦 争 を 実 際 に
なった時、誰かが大きな 先輩・後輩心を一つにし れぞれ別の道に進みます 経 験 し て い な く て も 自 分
声で
き合ってくれて、ありが
おめでとうございます。
とを期待しています。
後
年という節目を機会
期生の皆さん、ご卒業 きく羽ばたいてくれるこ も 知 識 は 必 要 で あ る。 戦
「 僕 た ち の わ が ま ま に 付 成し遂げました。そんな、 感謝の気持ちを忘れず、大 く 義 務 が あ る。 そ の 上 で
とう。
」と叫んだ。
今日も桜島は噴煙を上
甲南高校での日々は、
そのあと次々と「ありが
最後になってしまいま に 自 分 で 調 べ て み て も い
とう」の輪が。感謝とや す ばらし い 仲間や 先 輩・ したが、いつも温かく支 いかもしれない。
りきったという思い、こ 後輩そして恩師に囲まれ え、導いてくださった担
体育祭が終わり、 期 れが最後だという思いが 驚くほど速く過ぎたので 任の先生方をはじめ、職 げ て い る。 こ れ か ら も 桜
生全員がいつものように いっぱい詰まった「あり はないでしょうか。キラ 員の皆様、そして 期生 島 は た く さ ん の 時 代 を 鹿
こ と で あ っ た り す る。
を後世に語り伝えていく
あ っ た り、 戦 争 の 悲 惨 さ
義」といった憲法の柱で
本的人権の尊重」
「平和主
変えてはいけないもの。
それは、「国民主権」や「基
けないものを。
て良いものと変えてはい
な け れ ば な ら な い。 変 え
な ら な い。 そ し て、 考 え
ことをよく知らなければ
の こ と を、 そ し て 世 界 の
関 係 な い。 ま ず は、 日 本
る の に、 大 人 も 子 ど も も
本の未来のために行動す
こ と を 考 え る べ き だ。 日
な く、 自 分 た ち の で き る
そ の た め に も、 私 た ち
は大人任せにするのでは
持たなくてはならない。
く 私 た ち だ。 問 題 意 識 を
引していくのは紛れもな
き な い。 日 本 の 将 来 を 牽
見 ぬ ふ り を す る こ と は で
その喜びは、絶えず流れ
いでしょうか?そして、 めでとう!
言ではなかったのではな 期生)の皆さん、卒業お 然 災 害 な ど …。 私 た ち 高
最高の喜びといっても過 高等学校三年生(六十六 国 と の 対 立、 度 重 な る 自
時の喜びは、それまでで 後になりましたが、甲南 る 国 債 や 社 会 保 障 費、 隣
と行動で乗り越えたあの 飛び出してください。最 地 方 の 衰 退、 増 加 し 続 け
その苦しみを自分の意思 自信を持って次の世界へ い る。 進 む 少 子 高 齢 化 と
かもしれません。しかし、 支えとなります。だから い く つ も の 課 題 を 抱 え て
れそうになる時もあった 信となると共に必ず心の
験という不安に押し潰さ の人生において大きな自 入る時代になった。
の皆さんの心は、高校受 実は、これからの皆さん 海 外 の 情 報 も 簡 単 に 手 に
確実に小さかったあの頃 して卒業できたという事 が行われ、情報化が進み、
じだと思います。今より 頑張れたという事実、そ 代。 さ ま ざ ま な 技 術 革 新
されました。自分の一生を さい。皆さんの「心のふ み込まれているのは皆同 が、この甲南高校で日々 を 果 た し た。 そ し て、 現
ても、とても頼もしい存 う言葉でその生き方を示 いつでも会いに来てくだ た入学当初の姿、宿題と 越えた大きな壁に感じら ければならない局面に出 光あれ。
在でした。
さて、皆さんがこれか かけるテーマと出会うに るさと」として甲南高校
ら旅立つ世界は残念なが は、若い時代に、がむしゃ はここにあり続けます。
め、受け継ぎ、後輩へと
を引っ張ってきてくださ 力で挑む姿を常に心にと
どあらゆる場面で私たち い思いを胸に、何事も全
動、生徒会活動、行事な から私たちは先輩方の熱
模範として、学業、部活 ちでいっぱいです。これ
先輩方へ
生徒会長 福重 望乃
いました。
先輩方と出会った日か 伝えていきます。
ら、先輩方と初めて話を
卒業されてからもこの
した日、先輩方と言い争 甲南高校で学んだことや
いをした日、先輩方と共 経験を活かし、これから
に汗を流した日、先輩方 開かれる先輩方の道を歩
と笑いあった日、先輩方 んでいってください。先
三年生の皆さん、ご卒 と涙をこぼした日。今ま 輩 方 の ご 活 躍 を 心 か ら
業おめでとうございま
で
の
毎
日
は
、
ど
の
部
分
を
祈
っ
ています。
す。先輩方と甲南高校で 切り取っても「充実して
今まで本当にありがと
過ごしてきたなかで私が いた」という言葉では言 うございました。
真っ先に思い出すのは、 い表せない程、私たちに
やはり、第
回甲鶴戦で とって決して忘れること
す。先輩方の熱い思いが などできない最高の思い
各部活動のプレーや応援 出です。
の姿から伝わり、甲南を
今まで、私たちを導い
一つにし、そして、甲南 てくださった先輩方が旅
年 に はスキージャンプ・ワー ( 1 8 7 5 年 ) に 現 在 の とりが行われることであ と世界に関心を向ける必
世界に目を向けて
二年 川畑 紗英
勝(平成 年1月 日 塾、商法講習所を開設し、 のものだ。日本のグロー て い く こ と が 求 め ら れ
平成24年度
高校初の快挙となる三連 立ちの日を迎えます。ま 覇を勝ち取りました。あ だまだ教えて頂きたいこ
の時の感動は今も鮮明に と、学びたいこと、話し
思い出すことができます。 たいことがたくさんある
もちろん、甲鶴戦に限 よ う な 気 が し て な り ま
らず、先輩方は甲南生の せん。本当に感謝の気持
ン ス で の テ ロ、 原 油 価
できるのではないだろう 賞受賞者は 人となり、 保里選手、テニスで初め 年)に現在の鹿児島市に である。
く機会をいただいたこと るものがある。受賞した の 日 本 人 が 活 躍 し て い の 洋 学 校 で 英 語 を 学 ん ロ ー バ ル 化 と は、 政 治・ 緊張する東アジア、イス
都賞とは、科学や文明の ろ で は、 青 色 発 光 ダ イ と 語 っ た。 平 成
れを聴く機会を得た。京 しい。記憶に新しいとこ だけの重さがあります」 たちと同年代である彼女 たのちに帰国。明治8年 規模で資本や情報のやり ためには、日頃からもっ
赤﨑教授は「(メダルは) る。その中でも注目した だ。慶応元年(1865 経済、文化など様々な側 ラ ム 国 の 台 頭。 世 界 は
昨年、京都賞の記念講 に感謝したい。
従来の国家・ 日々、動いている。私た
演が鹿児島市内で開催さ
近年、さまざまな分野 物理的な重さはわかりま いのはスキージャンプの 年)にイギリスに留学し、 面において、
れ、幸運にも私たちはそ で日本人の活躍がめざま せんが、みなさんが騒ぐ 高梨沙羅選手である。私 ロシア、アメリカと旅し 地域の垣根を越え、地球 ちが世界規模で活躍する
論説
グローバル化が叫ばれ 格 の 下 落、 ア メ リ カ と
かと思わせてくれた。こ 特に物理学、化学分野に て四大大会の決勝に進ん 生まれ、 歳から漢学を
のような貴重な講演を聴 おける活躍には目をみは だ錦織圭選手など、多く 学び、その4年後には藩 て久しいが、そもそもグ キューバの歴史的和解、
21
発展、人類の精神的深化・ オードの研究で赤﨑勇教 ノーベル医学生理学賞を ルドカップで歴代最多の 一橋大学の前身である私 る。我が甲南高校の教育 要がある。そして、たく
高 揚 に 著 し く 貢 献 し た 授、天野浩教授、中村修
方々の功績を讃える賞で 二教授の三人がノーベル
ある。講演は賞を受賞し 賞を受賞した。誰もが認
た先端技術部門のロバー める素晴らしい業績であ
ト・ サ ミ ュ エ ル・ ラ ン り、その技術は私たちが
70
44
その後、第一次伊藤内閣 バル化が進むことによっ る。そして、いつかは鹿
70
<主な記事>
2面 贈る言葉
3面 ノーベル物理学賞受賞
甲南高校新聞の軌跡
4面 名物生徒 鳶目兎耳
部活動潜入記
13
また、歴史をふり返っ の下で初代文部大臣に就 て、他国との関係を対等 児島に知識を持ち帰り、
ン博士、思想・芸術部門 してさまざまなところで の一人である。
スポーツ分野でも世界 てみても、世界で活躍し 任し、教育の改革を行っ に保ち、また共に環境問 故郷の発展に役立ちたい
の志村ふくみ氏、3氏の 用いられている。赤﨑先
わかりやすく興味ある話 生が甲南高校の前身であ 的 に 活 躍 す る 選 手 が い た日本人は枚挙にいとま た。世界中で得た知識を 題など世界的な問題を解 という思いを持っていた
のエドワード・ウィッテ のディスプレイを初めと 世界的に活躍する日本人 現在)を誇っている。
ガー博士、基礎科学部門 普段使っている電子機器 受賞した山中伸弥教授も
11
であった。グローバルに る二中出身であったこと る。オリンピックで金メ がない。郷土の偉人に焦 持ち帰り、祖国に生かす。 決していくことにもつな い。
合わせて吹奏楽部の皆さ ことと思います。
をもらい、あっと言う間 とうございました。
代であることを願う。
奏者のドラムのリズムに いた全ての人が感動した 者も皆さんに感動や元気 礼申し上げます。ありが れ が 戦 争 の な い 平 和 な 時
て、次々と代わるドラム 感謝の言葉に、その場に とでしょう。私たち保護 すべての皆様に心より御 あ り 続 け る の だ ろ う。 そ
パネルの前に集合。そし がとう」という皆さんの キラした三年間だったこ の子どもたちに関わった 児 島 の 人 と 共 に、 そ こ に
66
26
活躍する方々のお話を聞 は私たちにとって二重の ダルを獲得したフィギュ 点を当ててみると、森有 尊敬されるべき郷土の偉 がるのではないだろうか。
66期生3年間の主なできごと
発 行
鹿児島県立甲南高等学校
鹿児島市上之園町23の1
TEL(099)254-0175
編 集
甲南高校生徒会広報委員会
印刷所
㈱朝日印刷
27
66
25
新聞などで世界情勢の
く機会を持てたことが、 喜びであったが、三氏の アスケートの羽生結弦選 礼もその一人である。彼 人である。日本人のこの
私たちもまた世界で活躍 受賞で日本人のノーベル 手やレスリングの吉田沙 は、弘化4年(1847 ような活躍は嬉しいもの 記事を読んでみる。フラ
66
22
平成27年3月2日(月)
第 235 号
⑴
一 組 担 任 中村
自 立
一誠
はいません。努力しなけ
れば、進歩はありません。
周りのライバルは今この
ときも、一生懸命に成長
旅を組む
晋一
過ごした三年間が自然と い」ということです。で
心に浮かんできます。文 は幸せな人生をつかむた
化祭の混声合唱で一つに めの力とは?適切な判断
が忘れられない2の2。 る忍耐力や克己心。人生
二組副担任 時 﨑
な っ た 1 の 6。 ク ラ ス が で き る 判 断 力 や 思 考
カウントダウンのカレン を主体的なものにする向
マッチの「シャキーン!」 力。困難な時を乗り越え
かうかしていられませ
ダーをめくりながら一緒 上心や向学心。よき人間
ん。決して、現状に満足
き た 3 の 3。「 セ メ ン ト ワーク。全て皆さんが甲
してはいけません。
樽 の 中 の 手 紙 」「 無 常 と 南高校の3年間で学んで
しようとしています。う
皆さんの人生はこれか
ら大きく広がろうとして
に受験勉強を乗り越えて 関 係 を つ く れ る チ ー ム
います。この3年間の「泣
六十六期生の
皆さんへ 三組副担任 花田 伸一
三年生の皆さん、卒業
三年生の皆さん、卒業 き 」「 笑 い 」 の 経 験 を お
大学三年の秋、京都・奈 いうこと」等、一緒に考 きたことです。大丈夫、
おめでとう。皆さんがこ おいに生かしてください。 良へ十日間の一人旅に出た。 え 高 め 合 っ た 国 語 の 授 みんな幸せになる基礎力 おめでとうございます。
時刻表は現地でなければ いけたら、こんなに嬉し ちを超えて、より広い世
」
集。地元交通機関の路線・ てほんの少しでも生きて 大きな分岐点です。私た 作っていく。
「私たちは他から得た
の三年間で培ったものを
インターネット、携帯 業。皆さんは私の人生の は身についているよ。
今後の皆さんの活躍を
考えてみると様々なもの 期待するとともに、幸多 電話、ATMのない時代。 一部になりました。私も
これからの十年は人生 もので生計を立て、他に
が挙げられるでしょう。 からんことをお祈りして 本 屋 を 巡 り 資 料 情 報 収 皆さんの人生の一部とし のステージを決める更に 与えることで生きがいを
その中でも「自立」の二 います。
入手不可。期間・訪問箇 いことはありません。
皆さんの晴れの門出に
界へ、更なる高みへ、羽 あたって私から贈るこの
文字は今後の人生にとっ
らせることなく、地域や
途中投げ出したくなる
ことも。しかし苦労の一つ
入所の予約。
はいよ!」
・「
・・
指導力で勝利に導いた当
卒業生を見送るときに ばたいてください。じゃ 言葉は、第二次世界大戦
所・日程・移動手段。旅
においてイギリスを強い
費・宿泊費の見積もりと 願うのは、いつも結局「幸 あ最後に
国家・世界など領域はど
一つが楽しく、寝台列車か
二 組 担 任 岩川 康彦
経費捻出のアルバイト。 せな人生をつかんでほし
こでもよいので、人のた
ユースホステルや拝観・
めに貢献してほしいと切
ら降り、教科書でしか見た
ONE&ONLY
ても大切な要素になるは
ずです。
皆さんは有為な人材で
す。人生の目標を自己実
に願います。そのために
ことのない庭園・神社仏閣・
現という狭い視野に留ま
は、僕ら教師の能力や見
同宿者との交流では、
異国の観光客と英会話で
卒業おめでとう。こん 国宝を前にしたとき、私の
識を超えていく必要があ
ることは、言うを待ちま なに充実した3年間を皆 時間は止まった。
せん。自立とは、自分で さんと過ごせたことに本
ここでの生活は皆さん 四苦八苦、ドラマ?みた
自分を伸ばしていく行為 当に感謝しています。
の積み重ねを指すので
す。その自立の先に、大 にたくさんのことを教え いな偶然は甲南OGの大
直を良しとすること、友 あわてて途中下車したこ
いなる成長が待っている てくれたと思います。正 学生。方向音痴で遠回り、
はなく辛いこともあった
ことでしょう。しかし、
人生の「選択」
この三年間はいかがで
「人生とは正解を選び続
けることではない。選ん したか。予想しなかった
言葉があります。
この先、 しょう。実力を十分に発
だ道が正解になるように ことを経験したり、考え
八組担任 落
雅博
努力することだ」という させられたりしたことで
皆さんが3年間その歩み
を止めず進んできたから
いと思います。
は、その頑張りを讃えた
とができたのです。まず
ださい。
の選んだ道で努力してく きっとこれからの人生の
い選択をした」と言える までをも含めて、その全
も、後から振り返って
「い かったというようなこと
どんな「選択」があって 揮できずにうまくいかな
こそ卒業の日を迎えるこ
皆さんと共に過ごした
のは、1年間だけでした
肥やしとなるはずです。
ように、これからも自分 てが貴重な「学び」です。
が、たくさんの笑顔に囲
まれて、私自身も充実し
六十六期生の皆さん、
さて、宿題が多いとの
人生は一度きり! 自
た時間を過ごせました。 卒業おめでとうございま 分の思う人生を描けるの レッテルを貼られている
私にとっての「甲南生」 す。毎年のことですが卒 は 自 分 だ け で す。「 正 し 甲 南 で す が( 笑 )
、最後
んとまたどこかで会える それは「未知なる自分を
とは9割以上、 期生の 業生を送り出すのは少し い道」を歩んでいる皆さ の宿題を出しましょう。
印象です。そして、それ 寂しいものです。
卒業おめでとう
これからが本当の意味
環 での勉強です。あなたの
からご安心を。
報告の期限はありません
は自信と誇りをもって他
さて、これから世界へ ことを期待しています。 探して、その発見を報告
者に優しい目を向けられ 羽ばたいて行く皆さんの
せ よ。
」 で す。 た だ し、
る若者達の姿です。皆さ 前には限りない可能性が
人生として何を、どのよ
んと出会えたことを嬉し 広がっています。自分の
く思っています。
八組副担任 吉永
大いに楽しんでください。
分探しの旅を伸び伸びと
可能性は無限大です。自
ことも待っているでしょ います。しかし選んだ結
う。しかし、自分の人生 果も責任も全て自分で負
自分探しのコツは周り
を気にせず、その時時の
を切り開くのはいつでも わなければならないと聞
これから皆さんが歩ん うに選択していくかは全
でいく未来には、大変な て皆さん自身に任されて
自分自身です。うまくい くとちょっと尻込みした
自分の声に耳を傾けるこ
と、そして「未熟である
かないことを誰かのせい くなる気持ちになるかも
いできました。ですから、 れる。生まれた時から立 は、自ら問題を発見して のつながりは、自分一人 にするのではなく、自分 し れ ま せ ん。「 何 が 自 分
更なる活躍を期待し、
要だ。燃えるためには薪 率が上がり進化します。 卒業おめでとうございま
時の首相ウィンストン=
が必要である。薪は悩み サルの社会では、競争に す。青年期は、疾風怒濤 成長した君たちにまた会
チャーチルが述べたもの
である。悩みが人を成長 敗れたものは、他者に対 の時代と言われています えることを楽しみにして
です。私たちの人生は、
して寛大になり、精神的 が、みなさんの学び舎で います。
させる。
」
家族や友人、先生方など
松下幸之助 にも肉体的にも強く成長 の歳月はどのようなもの
多くの人々と関わらずし
し、次の競争には勝てる だったでしょうか。喜び
て成り立つものではあり
もあれば悲しみもある、
ようになります。
『縁心力』
ません。皆さんには幅広
これから新たな生活を ま さ に 大 波 小 波 の 時 間
く多角的な視野を持ち、 卒業生へ
七組担任 脇田 健吾
送るにあたり、皆さんにも だったのでしょうか。あ
自分たちと異なる文化・
五組担任 酒井 美和
様々な逆境が訪れるに違い るいは、その中にも、平
価値観を持つ人々を理解
ありませんが、逆境こそ進 穏な凪の時期もあったの
することの重要性を身に
化の原動力ということを忘 でしょうか。一番印象に
つけてほしいと考え、私
れずに、敗れる度に成長し、 残っていることは何でし
はこれまで世界史の授業
たか。今は思いつかなく
立ち上がってください。
を行ってきました。そし
ても、いつの日か不意に
て、皆さんには今後の人生
懐かしく思い出されるこ
で関わる他者と「幸せや喜
この岩盤の先に
六十六期生の皆さん、
とも多々あるかもしれま
びを共に分かちあうこと」
せんね。国と国との往来 卒 業 お め で と う。 ま ず
卒業おめでとう。みな 「金」はあるのか?
を自分自身の「生きがい」 がますます激しくなって は、親に感謝。そして友
さんと共に歩んできた三
五
組
副
担
任
福
永
幸
成
とする人生を過ごしてほ
いく二十一世紀は、他者 人・先輩後輩に感謝。恩
年間を振り返ると、まだま
しいと心から願いながら
とのコミュニケーション 師に感謝。心から感謝す
だやれたんじゃないかと
関わってきたつもりです。
能力がさらに問われる時 ること。多くの人たちに
後悔することも多々あり
皆さんがこれから歩む
「縁」な
代 に な り そ う で す。 グ 出 会 え た こ と、
ます。しかし、常に本気で
新たな人生のステージ
ローバルに考え、ローカ のですよ。ある本に、「人
みなさんと向かい合って
が、より素晴らしく、充
ルに活動することが、大 と人とのつながりという
きたつもりです。その時そ
実したものになること
切 に な っ て き そ う で す ものは、人間の個人的な
の時、最高の選択を考え、
と、皆さんの今後の大い
経済は常に等価交換と ね。問題を解決すること 意思でできたと思いやす
今を一生懸命に楽しみ、充
なる活躍を心から祈って
実させることに全力を注 いう概念をのもとで語ら も必須ですが、これから いもので、だからまたこ
います。そして、二年間
ありがとう。
皆 さ ん と 共 に 甲 南 に 自分」を素直に認めるこ
みなさんにも「今を楽しむ 派な消費者として育てら いくことも、さらに重要 の考えで、いつでも断て の人生に精一杯関わって にとって正しいのか」を
方法を一生懸命に考え、選 れてきた諸君は、常に自 になりそうです。これま るかのように無造作に考 生きていってほしいと思 常に選び続けることは非 「入学」してきた私にとっ とだと思います。
皆さんのご活躍を楽し
択し、決めたからには全力 分がしてきたことに対す でに育んできた、自分で えやすい。だが本当はそ います。皆さんの人生が 常に難しいことでしょう。 ては見送る寂しさもあり
る等価な結果を求める。
はまだ気づいていないか うでない。人と人とのつ 幸多きものとなるよう心
そこで皆さんに言葉を ますが、心からお祝いい みにしています。
で頑張ってほしい。
」
たします。
贈りたいと思います。
隆志 自分が選択したことに センター試験前に「金 もしれない可能性の種を ながりには、実は人間の から願っています。
後悔することよりも、
しっ を掘る老人」の話をした 開花させるべく、新たな いわゆる個人的な意思や
卒業おめでとう
ございます
四組副担任 宮脇
かり前を向いて、自分の のを思い出してほしい。 出逢いに物怖じすること 希望を越えた、一つの深
足で自分の道を切り開い 経済の論理でいけば、時 なく、若い感性と柔軟性 い縁の力が働いているの
てください。そして、周 間 と 努 力 を か け て 掘 っ で 自 分 の 軌 跡 を 描 い て である。」とある。「縁」
りにたくさんの幸せを与 た老人の人生は金が出な いってください。ぐっど・ を心で感じ力に変えて生
贈る言葉
う。でも、自分の信念を
かないこともあるだろ
り、イメージどおりにい
え、共感できる人になっ か っ た こ と で 報 わ れ な らっく・ふぉう・ゆう。 きたい。これからの道の
てほしい。辛いことが待 かった。しかし、老人は
卒業おめでとうござい ち受けていても、自分次 そうは考えなかった。何
ます。皆さんがこの3年 第できっと道は開けます。 故なら夢に向かってかけ
聴く姿勢を持つことで心
孝弘 しっかりと持った言動を
し、他人の言葉を謙虚に
の
老人にとって何よりの宝
試練と思い、正々堂々と
六組副担任 宇都
だったからだ。
前に突き進んでほしい。
は自分が成長するための
を拡げ、全て
Capacity
今回の受験が思う結果
でなくても、あるいは今後
「縁」を大事にしながら。
間で得たことは、今後の
みなさんと出会えた3 ることのできた時間と努
力を持ち得たことこそが
人生において大きな糧に 年間に感謝します。
ありがとう☆
と感じる時があっても、「自
武司 の人生でうまくいかない
卒業生の皆さんへ
五組副担任 山口
心の持ち方ひとつで幸せ
偉大なるパワーをもらい
信している。六十六期生、
皆さんの今後の飛躍を確
い方向に進めると思う。
を感じることができ、良
分の人生・努力って何だっ
たのだろう」と経済の論理 3年生の皆さん卒業お
に絡めないでほしい。赤﨑 めでとうございます。
先輩は、ノーベル賞受賞で 今、振り返るとあっと
ご自身の努力に対する等 いう間の3年間だったの
価交換を得たと思ってい ではないでしょうか。そ
哲郎
を、これからの人生で生
かせるかどうかは君たち
次第です。
謙虚さと向上心を持って
ください。それさえあれ
幸多き人生を
七組副担任 稲本
麻里
らっしゃるだろうか?そ の3年間で多くの人と出 ました。ありがとう。お
多くのことを学び、 元気で。(和気健)
んなことは無い。先輩は今 会い、
。
・・・
も自分の夢に向かって全 かけがえのない経験がで
力でノミを振り続けてい きたはずです。その経験
るに違いないのだから
六組担任 山元
平成26年度3年生(平成27年入試)66期生国公立大学出願状況
と僕は確信します。
高校時代の経験や繋が を持つこと、そして生涯 とも片手では数え切れな
りを大切にしつつも、大 に渡って学び続けること い。食事は名物料理をた
学 生 活 で は 新 た な こ と の意味。この3年間は、 らふく…しかも、うまそ
に、率先してチャレンジ その一瞬一瞬が将来に渡 うに食べ、車に乗り込む
してほしいです。成功体 す橋を築く作業だったの 客を尻目に、こちらはス
験は勿論ですが、失敗も です。甲南で手に入れた パゲティをお冷やで流し
皆さんの成長に大きく寄 ものはそのすべてが一生 込み、レンタサイクルの
なることでしょう。常に
チャレンジする気持ちを
忘れずに未来へ向かって
新されていく。今「正し 進んでください。
い」とされる事は限られ
さて、高校生活におい
たモデルの範囲内で正し て勉強や部活動、そして
いのであり、教科書や教 人間関係など誰でも悩み
科担任の言う事が恒常的 を抱えたことがあるので
に正しいとは限らない。 はないでしょうか。悩み
いずれ陳腐なものとなる と言うのは、大抵は現状
現在の知識の集積だけで と現状を改善しようとす
生 じ る も の で す。
「何と
「 学 業 」 し た と 満 足 す る る本人の意識の違いから
のは残念な気がする。
文字で埋め尽くす作業を、 る。学業の根幹は、書物や な る こ と も あ る で し ょ 本来毒の成分である物質
こになるな。潔く相手の が、授業の板書や口頭説明 あるいはそれの真意性を自 で人は良い方向に変わっ らされたとき、変革する
ば困難を前にしたときで
も必ず乗り越えられるは
0(0)
与します。小さな殻に閉 の宝です。何かにつまず ペダルを汗だくでこぐ。
充実感は人生の貴重なワ
おくることば
四組担任 久留主智洋
「学業」の本質
三組副担任 八木健二郎
信を持って生きよ。
「 悩 ん で ば か り い て を巧みに用いて薬として
自分より優れた者、強 自信満々で「学業」と言い 講義から得られた情報を自 う。
凄さを認めよ。上には上 をノートに遺漏なく記録 力で検証することである。 ていけると思います。悩 力が大きく発揮されると
う。そんな時もぺしゃん ないだろうと思っている 更にその本質を捉え直し、 います。でも、悩むこと うです。生物は逆境にさ
この甲南高校で過ごした な世の中でずっとずっと
がいるもんだと思え。そ することを「学業」だと満 (ここが凄く大事な所!) むことは決して悪いこと いわれています。アミノ
ずです。多くの人たちに
東京医科歯科大
じこもることなく、大き いたときには、きっと心 どれも忘れ得ぬ想い出と
しょう。
教科に全力投球してきま ブルはつきものですが、
したが、ついに選択の時 旅 の ノ ウ ハ ウ は 伝 授 済
がやって来ました。自分 み。幸多き旅を願い、ス
が 一 番 得 意 な こ と を、 タッフ一同、笑顔で送り
3年間はどのようなもの 輝き続けることを願って
して、自分が勝る日のこ 足感に浸る輩は数多く存 この「学業」の本質を深く ではないのです。まずは 酸合成能力を失った植物
支えられ、ここまで成長
卒業おめでとう。甲南
できたこと「感謝の心」 高校で過ごした3年間は
を忘れず様々なことに どのようなものでした
3年生のみなさん、御 チャレンジしてください。 か。楽しいことばかりで
1(0)
く一歩を踏み出してほし の支えとなってくれるで なり、成し遂げた自信と
いと願っています。
皆さんの眼の前には果 ンシーン。
六十六期生は、甲南生
活十一年の想い出に残る てしない世界が広がって
さて、甲南トラベルツ
素晴らしい「伝説」の学 います。それは自由で限 アーに参加の諸君。今日
尚史
界です。今まですべての 企画。事前の苦労やトラ
年でした。ありがとう。 りない可能性を秘めた世 からの旅は全てあなたの
3年生の皆さんへ
一 組 副 担 任 山元
三組担任
だったでしょうか。一人 います。
とを想へ。
自然科学では、「真理」 からそっと見守りたいと思 の言葉を贈ります。
大腸菌はヒートショック
は新たな実験や発見で更 う。卒業おめでとう。
「 人 に は 燃 え る こ と が 重 を加えることで形質転換
機に長蛇の列が形成される。 ていくのか、私はこの学舎 きましょう。最後に、次 いう説があります。
また、
前にはコンビニのコピー ジでどれだけ大きく飛躍し できることから変えてい ために動物に進化したと
在するらしく、案の定試験 理解し、各々が次のステー 現実を受け入れ、そして プランクトンが生き残る
一人の物語がよみがえっ
大成を祈る。
てくると思います。
卒業おめでとう。卒業
式を迎える今、皆さんと
新しいスタートをきり
い奴と会う日もあるだろ 切る者は君達の中にはい 力で消化・反芻・再構築し、 も仕方がない!」とは言 利用するという意味だそ 卒業おめでとう
上村 昌幸
ございます ますが、これまで以上に
卒業おめでとう
通用するまで磨き上げる
では「学業」の本質と か し た い 」
「どうにかな
ところで行き先はどち
卒業生の皆さん、ご卒
のです。ONE&ONL らですか。国内、国外、 「 私 は、 今 が 最 高! 最
今の君達に「学業とは は一体何か。自然科学にお らないだろうか?」と考 業おめでとうございます。
Y。世の中に同じ人間が それとも地球外?
強だ!」と毎日言えるよ 何?」と問えば、何と答え ける「発見」は、既成事実 え、時には原因を自分に 「 変 毒 為 薬 」 と い う 言
うに、充実した気力と自 るだろう。 ただノートを や理論への疑念から出発す してしまい、自己嫌悪に 葉があり、優れた医者は
たった一つだけ、社会に 出そう。
3年担任・副担任
3年生の皆さんご卒業 い。そして、皆さんの一
おめでとうございます。 人ひとりが、このクール
何かを見つけてくださ
対に自分にしかできない
二人といないように、絶
卒業する君たちへ
人は日々進化していま
す。いつまでも体力・技
術・精神力等何にしろ、
同じ位置にはとどまって
2(0)
(中期日程 含 )
1(9)
0(0)
0(1)
0(1)
3(0)
宮崎公立大
3(0)
0(0)
0(0)
0(2)
0(0)
1(2)
0(1)
2(4)
0(0)
法文35(16)教育10(14)
理10(11)医15(20)
工24(21) 歯0(0)
農19(17)水産9(5)
共同獣医0(1)
2(4)
0(1)
4(0)
0(0)
0(1)
1
4
7
1
3
4
1(0)
17(16)
0(0)
5(4)
1(3)
0(0)
2(6)
法文26(22)教育13(10)
理10(4)医7(16)
工20(17) 歯4(1)
農17(20)水産1(2)
共同獣医0(1)
0(0)
0(5)
4(5)
1(1)
0(1)
1(4)
0(1)
1(0)
3(1)
0(0)
1(3)
0(0)
2(2)
1(1)
5(3)
1(2)
熊本県立大
1(4)
98(93)
0(0)
宮崎県立看護
122(105)
0(0)
大阪府立
岡山県立
下関市立
高崎経済
都留文科
兵庫県立
5(9)
0(0)
11(15)
4(6)
1(3)
3(3)
27(29)
5(7)
6(6)
0(0)
2(4)
0(0)
2(2)
0(0)
0(1)
1(0)
10(4)
2(0)
1
1
3
1
1
1
1
1
2
1
1(0)
2(1)
0(2)
1(1)
17(20)
0(0)
大分県立看護
金沢
県立広島
神戸市外国語
神戸市看護
長崎県立
兵庫県立
名桜
山口県立
和歌山
3(4)
0(1)
7(10)
2(0)
0(0)
4(7)
0(1)
3(2)
10(4)
1(1)
0(1)
0(0)
1(4)
2(7)
4(5)
4(5)
2(1)
0(0)
2(6)
6(6)
1(3)
0(0)
贈る言葉
66
9(4)
0(1)
1(1)
2(1)
1
1
1
1
2
1
1
2
1
1
1
3(2)
大分県立看護
尾道市立
鹿屋体育
岐阜
九州歯科
高知
高知県立
神戸市外国語
静岡県文化芸術
室蘭工業
名桜
45(30)
法 5(2)理 3(4)
経済 5(4)芸術工 3(3)
文 5(0)農 8(2)
教育 0(1)医 4(4)
工 12(10)歯 0(0)
法 1(0)理 0(0)
経済 1(2)芸術工 0(0)
文 3(0)農 1(1)
教育 0(0)医 0(0)
工 3(1)歯 0(0)
薬 0(1)
平成27年3月2日(月)
第 235 号
⑵
きました。
エネルギー、環境などと
” と 紹介され
Researcher
『 ノ ー ベ ル 賞 創 設 か ら いう分類で展開されてい たそうです。赤﨑先生の
一世紀の歴史を経て、物 ます。皆さんもこれから 不屈の精神は、簡単にまね
広告が載った学校新聞
た の で は な い か。
」 と、
少しでも広告としての役
割を果たしていたのかも
広告だったの 生を見守っていてくださ
しれない。
だ。広告代は る黒木写真館と学校購買 【学校購買部】
学術、
産業、 ることができるものでは
理学、化学、医学・生理 の進路の中で、
学の区別がつきにくくな 社会における既存の区分 ありませんが、同じ校舎、
二五〇〇円か 部の方に取材を試みた。
私たちが購買部へ行く
といつも元気で明るい
「購買部のおばちゃん」
ら広告の存在 木写真館。これまで甲南 は驚く。
そんな濱田さんにどう
して広告を載せていたの し、
「当時は男子はお弁当
だが、やは きない写真を長い間撮り Bの堀切先生の学生時代
りその当時か 続けてくださっている黒 も知っているというのに
に違いない。 行事には欠かすことので の購買部で働き、甲南O
貴重な収入源
体育祭や文化祭、修学 濱 田 佐 代 子 さ ん。 な ん
になっていた 旅行など甲南生の楽しい と、三十八年もの間、こ
円まであり、 【黒木写真館】
ら一二〇〇〇
り、とりわけ本年度の物 ではない領域にチャレン 同じ校庭で過ごした先輩
いこうではありませんか。
国籍の方も含んで)の出身 健康が許す限り、本を読ん
%と極めて希少。ノーベ するたびに、二中時代の思
に疑問を抱く 生の色々な顔を見てこら
Prof. Barbara Cannon
人 は い た よ れたに違いない。
かがですか。」 前でした。
が、これからの甲南生
う慶事がありました
が今までは弱かったん
を作るにはBの
は、ものづくりの基本
甲南生に言いたいこと
ごいことですね!今の
ル賞をとったなんてす
る伝統のある新聞だ。生
二三五号にまで及んでい
元は学生用品店や進学塾、 ら れ て い た。( 一 方 で、 し か し、「 学 校 か ら の 頼 (笑)」と、おっしゃった。
にはどうしても広告を載 消し、私たちの見慣れた
彼 ら が 利 用 し た の が、
歴 史 を 持 ち、 今 回 で 第 り返ってみたいと思う。 り な い 分 を 補 う た め に
されて以来、六十六年の 新聞六十六年の歴史を振 し て し ま う。 そ こ で 足
は、昭和二十四年に発行 あるが紹介し、甲南高校 円の予算は軽くオーバー
と、
「購買部は んでみるが、旧字体が多
主に生徒たち すぎてなかなか読めな
が利用するし、 い。おまけに、あちこち
新 聞 の 広 告 は で活字がひっくり返って
そ ん な に 見 な いるから本当に読みにく
いからね…。」 い。甲南高校新聞の歴史
と、 あ ま り 効 を、一番実感できた瞬間
ここまで過去の新聞の
広告や特集記事、歴史あ
果 は な か っ た だった。
よ う だ。 し か
間を過ごしたようだ。そ るコーナーについて紹介
の後は東京へと向かい、 してきた。広告が載って
江ノ島や鎌倉大仏、横浜 いる学校新聞はかなり異
港などを見学して、都内 色で珍しいが、そこにも
やはり深い事情や長い歴
史があった。私たちは取
材をするために学校購買
部や黒木写真館まで足を
運んだが、当時の新聞委
員たちはたくさんの店へ
と走り、必死で広告を集
紹介されている。読み進 的だった。
きたのは、女子だけだった という、新聞委員たちの
験のために県外へ旅行し 生の姿を知ることができ
んどで、その半数以上が受 つての行事の様子や甲南
業後に進学する人がほと 事からは、知られざるか
のか。その当時、男子は卒 だ。また、過去の特集記
のだ。なぜ男子は不参加な 熱意が込められていたの
ていた。しかし、女子は進 た。生徒たちの手で作ら
る。今から五十年以上も 学する人も少なく、旅行す れ て き た 新 聞 だ か ら こ
を体験する機会を作って ことができたのかもしれ
いまと変わらない様子も じたりして、充実した時
たちも共感してしまう、 古代建築の古さを肌で感 ない。
ます。
ご愛読よろしくお願いし
こぼしたりと、現在の私 内を見学したり、奈良の きを過ごしていたに違い ていくだろう。みなさん
り、試験の多さに愚痴を めぐる。大阪城や京都市 も、東京で心躍るひとと 校の歴史に寄り添い続け
業中にうつらうつらした 揺られて、まずは関西を 五 十 年 前 の 甲 南 生 た ち 新聞。これからも甲南高
このように意外な一面
日程は三月二十六日か いたのだ。
ない。
がたくさん載せられてい ら 四 月 一 日 ま で の 七 日
高校生活最大のイベン
六十年もの間克明な記
る一方で、睡眠不足で授 間。山陽本線の夜汽車に ト で も あ る 修 学 旅 行。 録を残してきた甲南高校
女子クラスの方が多い。 うものだった。
ク ラ ス が あ り、 早 飯 は て、内容は今とは全く違 その分修学旅行で「旅行」 高校の歴史を伝えていく
・男女混合クラスと女子 昔 の 修 学 旅 行 だ け あ っ る機会に恵まれなかった。 そ、生き生きとした甲南
校側が禁止
・一対一の男女交際を学
れていた。
めるとこんなことまで分 「三年修学旅行
かってきた。
ほしい男子の参加」
昭和三十七年五月
・毎週火曜日の朝には校
八日第七十七号
庭でラジオ体操が行わ
昭和三十七年の修学旅
行を特集した記事であ
学校生活の様子が細かく されているところが印象 にこの修学旅行に参加で の人に読んでもらいたい
この特集記事には当時の く掘り下げ、的確に分析 記事の見出しにあるよう 南高校新聞をもっと多く
の問題点を論じている。 事でも問題点について深 逃せない違いがもう一つ。 目立たない広告には、甲
験を取り上げてそれぞれ 迫っていて鋭い。この記 のものだった。しかし、見 めていたのだろう。一見
見学へ。
「マンモス都市」
うかがえた。
「小さい事にも
過去の甲南高校新聞に 東京に圧倒され、東京駅
大きな意味が」
昭和四十年六月
は、学校生活をテーマに や銀座、東京タワーなど
二十八日第九四号
した特集記事が数多く見 の眺めを満喫して帰路に
甲南生の学校生活を見 受けられる。こうした記 ついた。
このように当時の修学
直 そ う と、 朝 礼・ 早 飯・ 事における新聞委員たち
いねむり・男女交際・試 の論評は、いつも核心に 旅行は今と全く違う様子
甲南高校の姿
特集記事から見る
高校新聞」という学校新
そこで、ひと味違う昔 に年に二回以上発行する りを持ち続け、長い間甲南
聞が存在している。これ の新聞をほんの一部では ことも考えると、三十万
とは幾分多い気がする。 記事の内容やレイアウト 会 に 与 え ら れ た 予 算 は
そこで私たちは、当時
甲南高校にも今、皆さ は、今と異なる部分が多 三十万円。しかし、印刷 甲南高校新聞に広告を掲
んが手にしている「甲南 い。
代や写真代がかさむうえ 載し、今も甲南高校に関わ
のある記事等から考えさ 無く、学校行事等が中心
それは予算の問題であ 高校新聞には、こんな意
せられることや感じるこ となっている。しかし、 る。 そ の 頃 の 新 聞 委 員 外な歴史もあるのだ。
明確さや発行されるコ
記事で取り上げている せなければならない理由 「 学 校 」 新 聞 ら し い 新 聞
ミュニティ内での親しみ ものは今とあまり違いは があったようだ。
になって今に至る。甲南
ネットに劣るが、情報の ことができる。
報性に関してはインター は、歴史の重さを感じる ないが、当時の新聞委員会 のか広告は紙面から姿を 店の名前を知ってもらえ が あ っ た か ど う か 伺 う いるのかと興味津々で読
かのように思える。確か 管されている。今にも破 広告があったのかと疑問
その後、十分な予算を 円だったそうだ。
そして、 することだ。広告の掲載 げただけでも破れてしま
に、新聞は情報伝達の速 れ そ う な そ の 記 事 か ら に思う人もいるかもしれ たてられるようになった 「 広 告 を 載 せ る こ と で お がお店の売り上げに影響 いそうだ。何が書かれて
昔に比べ減ってきている 十号からずっと大切に保 れていた。なぜ学校新聞に いたそうだ。)
おいて新聞を読む機会は 和二十六年二月発行の第 ら平成三年頃まで掲載さ た 目 が 悪 い。」 と 仰 っ て も 学 校 に 協 力 的 な 様 子
そして、広告で一番大 は、本当に驚いた。紙は
だった。広告代は、五千 切な役割はお店の宣伝を 茶色く劣化して、持ち上
インターネットが広く 徒会室の隣にひっそりと 喫茶店や映画の広告まで 当時の校長先生は「広告 み だ っ た か ら 引 き 受 け 広告代は五千円であった
初めて現存最古の甲南
普及している現代社会に たたずむ広報室には、昭 あった。それは発行当初か がないと新聞としての見 た。
」 と の こ と で、 と て という。
高校新聞を手にしたとき
「 川 島 さ ん、
“
私は甲南を卒業し、大 トックホルムで開催しま 学ではなく、マテリアル、 さ れ た 時、
下野さんの指 学で化学を専攻、化学会 した。その縁もあって、
揮 す る コ ン 社勤務を経て、公益社団 ノーベル物理学賞授賞式
サートに機会 法 人 日 本 化 学 会( 会 員 に、鹿児島弁を話せる唯
があればでか 三 万 人、 一 八 七 八 年 設 一のメンバーとして同行
校OBである寺嶋先生
ディスプレイのバック
にどのような期待をし
Dの研究開発はそれま
だけど、赤﨑先生方の
は物理だから物理の勉
ごしていた人がノーベ
でにもされていて、い
活躍で青色LEDが発
強を頑張ってほしいと
たちも一生懸命頑張り
自分の道を定めて貫いた
赤﨑先生。私たちは先生
の研究成果の恩恵に預
Persistentら思います。
う だ。 昭 和
也さん指揮の 二〇一四年十月七日
そんな黒木写真館に広 か を 伺 う と、「 生 徒 さ ん を食べた後、パンを五つ
(火) スウェーデン王立工学ア 領域の境界が薄れてきて クメダリストの両方を生 生や生徒さんの明るさや
五十六年発行 告を載せていた当時の話 たちに協力してほしいと ぐらい食べていた時代だ
コンサートが 夕方、ノーベル物理学賞 カデミー、日本学術振興 いることを明確に指摘し んだ高校はもっと限られ 気遣いなどを話されます。
来春名古屋で 発 表( 日 本 時 間 十 八 時 会 ス ト ッ ク ホ ル ム セ ン たことは画期的だったと ると思いますが。
これからもお元気で、鹿児
皆さんは想像すること のある記事には、新聞委 を 伺 う と、「 色 々 な と こ 頼まれたら、一番近くに からね。
」とおっしゃった。
あります。い 四十五分)の一~二時間 ター、在スウェーデン日 思います。国の施策や産
赤﨑先生は、二〇一一 島や甲南を見守りつつ、ご ができるだろうか。かつて 員会の定例化と十分な予 ろに広告を出していたか いる私たちが率先してし もしかすると、お店の売
本 大 使 館 と 共 同 で、 ス 業界の事業は、物理や化 年、 エ ジ ソ ン 賞 を 受 賞 活躍いただきたいと心か の甲南高校新聞には広告 算の確保を求める、委員 ら、はっきりとは覚えて ないとね!まあ、あの頃 り上げ自体は昔の方が高
が載せられていた。広告 たちの切実な訴えが載せ い な い …。」 と の こ と。 は 景 気 も よ か っ た か な かったのかもしれない。
甲南の下野竜 り を し て い た の が、 先生の講演会を企画し、 の言葉です。既存の学術 ル賞受賞者とオリンピッ い出、甲南の校舎や蔦、先
員に推戴させていただき 立科学アカデミーの理事 す。これは全国の高校数の おられます。また、お会い
一昨年、化学会の名誉会 おける、スウェーデン王 つ、つまり甲南は二位)で 続けていきたいと語って
ノーベルレクチャーの 高校は、二十一校(一校か だり大学に行ったりこれ
えた青色LEDというす
ばらしい業績に対して、 オープニングスピーチに ら二名、二十校から一名ず までと変わらない生活を
の出身であり、世界を変 にいたっている』
赤﨑先生は、授賞式か
日本人のノーベル賞受
(蛍光顕微鏡)は物理学
賞でもおかしくない状況 賞者二十二名(現時点で米 ら帰国直後の記者会見で、
学賞でも、また、化学賞 います。楽しみですね。
理学賞の青色LEDは化 ジする機会が増えると思 の魂を心に刻んで生きて
?!
「 赤 﨑 先 生、 こ ん な メ ー ル の や り と ました。昨年五月、赤﨑 長
川島信之(二十三期)
赤﨑勇先生ノーベル物理学賞授賞式に同行して
ノーベル物理学賞・ドレイパー賞受賞
赤﨑 勇先生 (二中出身)
わたしたちの大先輩である、赤﨑勇・名城大終身教授は昨年十二月十日
ノーベル物理学賞を受賞し更に、一月六日、「チャールズ・スターク・ド
レイパー賞」を贈られた。
ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノー
ベルの遺言に従って一九〇一年から始まった世界的な賞のことである。物
理学、化学、医学生理学、文学、平和、経済学の六分野で顕著な功績を残
した人物に贈られる。
ドレイパー賞は「工学分野のノーベル賞」ともたとえられ、全米工学ア
カデミーが、技術の発展に貢献した人に贈るものである。
受賞理由は世界に先駆けた発光ダイオード(LED)の開発に貢献した
というもの。ノーベル物理学賞は、赤﨑先生と名古屋大教授天野浩氏、米
カ リ フ ォ ル ニ ア 大 学 サ ン タ バ ー バ ラ 校 の 中 村 修 二 教 授 の 三 名 に、 ド レ イ
パー賞は、赤﨑先生と中村修二教授を含む五名のLED研究者に受賞が決
まった。
原色をいろいろなもの
に活用できるように
なったのですね。
」
他にどんなことがあり
に質問です!赤﨑先生
ライトに利用されたり、
ますか?」
のノーベル賞受賞とい
信号機も最近はLED
る?光の三原色で白色
寺「R G B っ て 知 っ て 寺「まさか同じ学舎で過
が増えてきました。
」
西「テレビやパソコンの
ますか?」
はイルミネーションの 広「では最後に、甲南高
の生活にもたらす影響
広「青色LEDが私たち
なかったんですね。
」
生は京都大学理学部化学 地から報告させていただ
け た い で す 立)におります。赤﨑先 し、赤﨑先生の様子を現
ね。」
ことのどこが評価され
広「青色LEDを作った
寺→寺嶋先生
西→西先生
広→広報委員
先生方に伺いました。
LEDについて物理の
青色LEDについて伺いました。
昨年のノーベル物理学賞受賞に加え、ドレイパー賞と改めて偉大な先輩
と同じ学舎で学ぶ喜びを実感できる出来事であった。
物 理 部 九州大会出場
未 来 の ノ ーベル賞候補
昨年十一月に行われた せ る 上 で 難 し か っ た 点
高等学校理科発表大会県 は、回路と本体のバラン
大会物理部門二位という スの取り方で、回路と摩
結果によって、二月七日 擦の関係がうまくいかな
~八日に本校物理部が沖 いと、振動したり真っ直
たのですか?」
ずれは高輝度の純青L
明されたことで、三原
うだ。主将の山床君の将
縄で開催された九州大会 ぐ走らなかったりするそ
本校の物理部は現在部 来の夢は大学の理学部に
員二名。山床太一君(二 入って研究者になること
EDを作ることはでき
色が揃って、より明る
西「純青でない青色LE
年)と井伊航大君(一年) で、自分のやりたいこと
ると言われてはいまし
Blue
が毎日理科教室Ⅰで活動 が将来の仕事になれば素
たが…。」
いうことですね。
」
になったんだよ。
」
い照明が作られるよう
中 で あ る。 今 回 の 大 会 晴 ら し い と 話 し て く れ
ないといわれていた研
寺「二十世紀中にはでき
は「リニアモーターカー た。部員が少ないので見
を作ろう」という発表で 学だけでもいいのでぜひ
ある。十二分間の発表時 放課後覗きに来てほしい
広「お忙しい中、ありが
初めて聞きました!青
ます!」
とうございました!私
ら、こんなに早く発明
色LEDのおかげで三
究なんですよ。ですか 広「RGBという言葉は
結果などを発表した。リ らの活躍を期待したい。
されるとは思われてい
間の中で、作成の過程や と話してくれた。これか
ニアモーターカーを走ら
(里仁)に
二〇一四年十二月十 の生活向上に大きく貢献 定性に不安のあるセレン る。「 電 気 の 通 じ て い な 葉 は『 論 語 』
日に、三人の日本人が した。特に私たちの先輩 化亜鉛と違い、窒化ガリ い地域の子どもたちが夜 ある孔子の言葉である。
ノーベル物理学賞を受 である、赤﨑先生は、こ ウムは物理的にも化学的 間でも本を読めるように 一年生の国語総合の教科
賞した。ストックホル の研究の基礎とも言える にも安定している。その な る で あ ろ う。
」 と、 天 書にも出てくる有名な言
ムのコンサートホール LEDの材料選定に窒化 大きな可能性を直感し、 野先生が語るように、こ 葉だが、実際に行動に移
で開かれたノーベル賞 ガリウムを選んだ。赤や 赤﨑先生は七十三年に前 の研究には私たちの生活 すことができる人がどれ
授賞式で、物理学賞の 黄緑色の発光ダイオード 人未踏の挑戦を開始し、 に最も身近な白色光の開 ぐらいいるのであろうか。
赤﨑先生の色紙から
私たちの暮らしにかか
赤 﨑 勇・ 名 城 大 終 身 は一九六〇年代に実現し 偉大な研究をなし遂げた。 発という大きな成果が関
せないLED研究一つに
教授
八五 、
(
)中 村 修
二・米カリフォルニア
大サンタバーバラ校教
六〇 、
(
)天 野 浩・
世グスタフ国王からメ ても実現されなかった。 が、LED照明が電力消 ではなく、様々な分野で 苦 労 が、 今 回 の 受 賞 に
ことを後輩の一人として
特集
ダルと賞状を授与され 最も重要なのは材料の選 費を七%減らすことがで の可能性も期待されてい よって少しでも報われた
た。彼らは青色発光ダ 択であると考えた赤﨑先 きるとの推計がある。太 る。
イオード(LED)の 生は七十年代にはほとん 陽光発電とLEDを組み 「 吾 か 道、 一 以 て 之 を 心から喜びたい。
基礎研究から実用化ま どの研究者が断念した窒 合わせれば簡単な照明シ 貫く」甲南高校の廊下に (広報委員 山内桃佳)
甲南高校新聞66年の軌跡
特集
に出場した。
左:川島氏
でを成し遂げ、私たち 化ガリウムを選んだ。安 ステムを作ることができ ある赤﨑先生の色紙の言
昭和26年2月13日
現存する最古の甲南高校新聞
「鳶目兎耳」
昭和34年6月23日(61号)~現在
【内容】→本校の先生方の紹介記事
「分水嶺」
昭和26年2月13日(10号)~現在
【内容】→本校生徒による一面のコラム
「我が校の誇る名物生徒」
平成22年9月30日(226号)~現在
「部活動潜入記」
平成11年9月22日(203号)~現在
「四コマ漫画」
平成5年3月2日(183号)~
平成11年3月3日
「甲南ライブラリー」
平成3年12月28日(180号)~
平成10年7月18日(200号)
【内容】→先生方に自分の人生に多大
な影響を与えた「吾が青春の一冊」
を紹介してもらう
「甲南ギャラリー」
昭和56年11月18日(153号)~
平成3年(179号)
【内容】→昭和56年2月20日に開館し
た甲南ドーム屋上の美術館に展示
されていた作品について、美術科
の先生方に紹介してもらう。
中央座席:赤﨑先生
名古屋大教授 五
(四 )たが、実用レベルの青色 東日本大震災後、日本 わっている。そして、明 か っ て い る こ と に 感 謝
の三人が、カール十六 LEDは七十年代になっ の原子力発電は停止した かりや省エネルギーだけ し、先生のこれまでのご
授
0.4
〈これまでの主な連載記事〉
平成27年3月2日(月)
第 235 号
⑶
平成27年3月2日(月)
第 235 号
⑷
鳶目兎耳
上原直哉先生の巻(芸術科・美術工芸)
先生の描いた作品「素敵 たという。高校時代、電
な眺めⅡ」が第六十九回 車通学で朝が辛かったと
南日本美術展で南日本新 おっしゃったが、朝の補
※タイトルの由来
トビのようによく見える目とウサギのようによく聞こえる耳のこと(ちなみに訓みは「え
んもくとじ」)。新聞の探訪記者などにいう。飛耳張目という言葉もある。皆さんがこの記事
をきっかけに、自らの見聞を広げてくれれば幸いです。
に 残 る 絵 を 描 き た い。」 も絵を描きながら聞ける ンジェロの、偏屈で唯我 いた。先生は優しく、愛
先生は常々、これをモッ から好きなのだという。 独尊的な人格だが、それ される人柄である。しか
る。過去描いてきた作品 値観にしばられず、常に
そんな先生に好きな画 に憧れを抱いたそうだ。 や、教師という仕事をこ
も 風 景 が テ ー マ で あ っ 変化していくことが大切 家は誰かと尋ねると、し 偏屈で唯我独尊、という なしながら作品を完成さ
た。風景画といっても、 だとおっしゃっている。 ばらく考え込み、美術準 点からすると、上原先生 せていくところからは、
先 生 に と っ て パ リ と 実際にある風景をそのま
上原先生は本当に絵が 備室にある資料を見返し は真逆の性格のように思 美術に対する情熱にあふ
聞社賞を受賞、あわせて 習の前にデッサン、昼休
第 二 十 回 吉 井 賞 に 選 ば みもデッサン、もちろん は、 高 校 生 の と き か ら ま描写するのではなく、 好きである。描くこと以 たりして、絞りきれない える。一年生の美術の授 れていることがわかる。
パリで学ぶこと
今回受賞された「素敵 トーとして掲げ、制作に 「 絵 」 中 心 の 人 生 と 言 っ を越えて納得させられる し、授業内で個人にかけ
師として勤務されてい
先生は、学生のときか ンをしていたこともあっ
な眺めⅡ」は風景画であ 励んできた。何事にも価 ても過言ではないだろう。 だけの実力があるところ る ア ド バ イ ス の 的 確 さ
る。二○一四年十一月、 ら熱心に美術に励んでい たそうだ。
上原先生は今年度から リへ留学されることが決 合間の十分の休み時間に
「素敵な眺めⅡ」
甲南高校で美術工芸の教 まった。
も美術室に走り、デッサ
229
て本格的に美術の勉強を ぶせてある、というもの
するそうだ。また、住ん だ。先生の過去の作品は、
でみて海外と日本の違い どれもいろいろなものが
も知り、日本の悪いとこ 一つの場所に混在してお
ろ や よ い と こ ろ を 見 つ り、今回のものとは印象
け、帰ってきてからこれ が全く違うものであった
からの人生に生かしてい という。何回か作品を描
き た い と い う。「 パ リ で きあげたが、どれも思う
学んだことは高校生にも ような結果を残せなかっ
伝えていきたい。最終的 た。そこで「自分が変わ
には、人間として成長で らなければいけない」と
き れ ば と 思 っ て い る。」 感じ、作風をがらりと変
嫌いが分かれても、印象
そう熱く語ってくださっ え て み た そ う だ。「 好 き
た。
大学時代(19才)の上原先生
心をもった先生であった。
先生は優しく、また熱い
て教えてくださった上原
ぶ。そのことを身をもっ
けていけばいつか実を結
があるように、諦めず続
継続は力なりという言葉
ジを残してくださった。
ること」というメッセー
先生は甲南生に「細く
てもいいから、長く続け
様々な国籍の人と交流し それにブルーシートがか ら旅行が好きで、ラジオ ていたが、先生はミケラ かけてくださったりして ものである。
な 美 術 館 を ま わ っ た り 漠に都市が沈んでおり、 ケッチしたい」と思うか い」と笑いまじりで語っ り、時間などを終始気に 生の熱意は、芸術家その
う。パリでは、いろいろ している。この絵は、砂 う だ が、「 こ の 風 景 を ス 育 会 系 な 芸 術 家 は い な も」とおっしゃっていた が大切だ。そう語った先
も楽しみにしているとい い、不思議な空間を演出 とを楽しみにしているそ なに筋肉がムキムキで体 めになる話はできないか まっすぐに伝える表現力
が、やはり嬉しく、とて るという。ありそうでな ラジオを聞いたりするこ ン ジ ェ ロ だ っ た。
「 あ ん 伺ったときも「あまりた はない。伝えたいことを
きた場所だ。不安もある せてイメージし作りあげ んだり、旅行に行ったり、 人選ばれたのは、ミケラ か い 雰 囲 気 で、 取 材 に よい作品ができるわけで
れ、一年間フランスのパ 放課後も、さらに授業の 二十年以上も憧れとして 部分的な風景を組み合わ 外では、幼い娘さんと遊 様子だった。その中で一 業はいつも楽しくあたた 絵を描く技術だけあれば
~音楽大好き少女集団~音楽部の巻
京都賞鹿児島講演会
本校二年生が参加
今回の部活動潜入記で あって練習しています。
取 材 し た の は 音 楽 部 で 「中学の頃からしてい
す。音楽部は昨年まで、 た合唱を高校でも続けた
部員不足のために活動し かった」という部長の福
ていませんでした。しか 永萌子さんを中心に活動
し、今年度入学してきた を再開した音楽部は、和
の中、部員全員から「音
六十八期生により活動が 気あいあいとした雰囲気
再開されたのです。
現在は部員六名で、平 楽が好きだ」という思い
日 は 毎 日 活 動 し て い ま が伝わってくるようでし
す。活動内容は主に合唱 た。
やバンド演奏などで、発
昨年は吹奏楽部の定期
声練習や音取りなどは、 演奏会での合唱ステージ
すべて自分たちで行い、 に始まり、文化祭の有志
部員同士で互いに指摘し 発表、アンサンブルコン
テスト出場など、様々な 「 現 在 も 部 員 を 募 集 し
活動をしてきました。活 ています。音楽が好きな
に応用することで実用化
昨年十一月十七日、鹿 いる。過去には本校出身の で 輝 か し い 成 果 を 挙 げ、
児島市民文化ホールで京 赤﨑勇さんも先端技術部 それらの研究成果を医療
都賞鹿児島講演会が開催 門で受賞されている。
今 回 は 先 端 技 術 部 門 を推進し、二つの革新的
され、本校二年生も行っ
てきた。今回、鹿児島で で、アメリカ人の生体医 成果を成し遂げた。一つ
初めて開催されたという 工学者であるロバート・ は組織工学分野の創出と
ことで、まずは京都賞に サミュエル・ランガー博 確立である。ランガー博
つ い て 紹 介 し た い と 思 士、基礎科学部門でアメ 士は再生医療の実現に不
リカ人の理論物理学者で 可欠な「足場」の概念を
う。
京都賞は、科学や文明 あるエドワード・ウィッ 世界で初めて提唱し、ヒ
の発展、また人類の精神的 テン博士、思想・芸術部 トの組織形成を実現して
深化・高揚に著しく貢献し 門で日本人の染織家であ いる。もう一つの革新は
ステム技術の展開とその
た方々の功績を讃える国 る志村ふくみ氏の三名が タンパク質の薬物送達シ
際賞で、毎年、先端技術、 受賞された。
生体医工学者であるラ 医療への応用である。ラ
基礎科学、思想・芸術の各
部門に一賞ずつ、計三賞が ンガー博士は、工学・医 ンガー博士の開発した技
贈られ、各部門とも四つの 学・薬学にまたがる融合 術によってタンパク質、
分野の中からその年の受 領域において世界のパイ 核酸などの薬物送達シス
命現象と息を合わせ、絶 体験だったと思う。甲南
数学的技能をもって多数 む心理を読み取り理解し 際的な賞を受賞した方々 かもしれないのだから。
れた物理的直感と高度な 大自然の営みの内実に潜 あったが、同時通訳や国 たの人生を変えてくれる
今回、講演会に参加し テレビで観てほしい。彼
理論物理学者としての業 自然そのものから色を得
志村氏は、 て 難 し い 話 も た く さ ん らの考え方や思想はあな
績だけにとどまらず、優 る行為である。
ウィッテン博士の功績は 続けてきた。草木染めは、 値観を追求し続けている。 している人の話を新聞や
要な動機となった。
また、 た紬を対象に美を探求し 人間にとって根源的な価 しい時こそ世の中で活躍
の大きな進展において重 たちによって織られてき は、自然との共生という 大変だと思うが、ぜひ忙
染織家である志村ふく 妙な色彩として顕現させ 生は日頃忙しくて色々な
場におけるアノマリーの
幾何学的要素は超弦理論 み氏は日本の農家の女性 る技法を極めた。志村氏 ことに耳を傾けることが
士によるゲージ場や重力 も著しい貢献をした。
理論物理学者であるエ の数学者の新しい研究を ようと努め、その複雑か の話を直接聴くことがで
ドワード・ウィッテン博 触発し、純粋数に対して つデリケートな植物の生 きたのは、とても貴重な
療応用へ展開した。
医工学融合領域を創生し医
ステムにおいて核心となる
このように、ランガー博
士は再生医療と薬物速達シ
まっている。
医療への応用展開も始
賞対象分野を定められて オ ニ ア と し て 基 礎 研 究 テム研究が進展し、再生
我が校の誇る名物生徒 華麗に舞う甲南のアナウンサー
動再開から約一年、まだ 人や音楽に興味のある人
部も可能なので、是非一
まだ未知数の音楽部の今 は誰でも大歓迎です!兼
後の活躍に期待です。
最後に、音楽部からの 度見学に来てください。
メッセージです。
お待ちしています!」
・
10
編集後記
みんなで協力して作り
ました。快く寄稿、取材
徒会長としても活躍して 努 力 し て い る 」
「勇気を
子・米倉ひなの・河野史
祐大・帖地桃子・西野友
有村妃織・山内桃佳・関
桑木栄美里さん に協力していただき、あ
りがとうございました。
【一年】
内 田 陽 介・ 肥 後 な な み・
吉 留 茉 由 子・ 若 杉 里 紗・
岡部敬天・竹之内はるな・
五 十 川 侑 輝・ 庄 子 正 樹・
桑 原 田 進 吾・ 堀 真 理 奈・
いた桑木さんは、ありっ く れ る 存 在 」
「とても仲
也・花木みのり
北 﨑 海 輝・ 福 永 ひ か り・
たけの思いをひとつひと 間思いの人」と口々に言
に勇気をくれる、そんな
木さんの懸垂幕が堂々と クラシックバレエだった とてもわくわくする」と ね続け、その姿が私たち だ。
梨・伊地知貴春・野元裕
太・上村純平・安樂奏海・
米盛光・川畑紗英
う 思 っ た か ら。
」 実 際 に はないか、そう思い担当 る。
」と言っていた。「そ え、自分の目標・夢に対 誰でも歓迎です!」
・・・・・ (委員長・佐藤英里佳)
今、甲南高校の壁には桑 医と相談して始めたのが れに何かに挑戦するって してひたむきな努力を重 どこまでも仲間思いの人 (副委員長・江 真南)
高校の壁に掲げたい、そ だ。何か他に出来ること し い と こ ろ に そ れ は あ ンディキャップを乗り越 「KBC部員募集中です!
る、自分の懸垂幕を甲南 大好きなのに球技は苦手 表現することが何より楽 のではないだろうか。ハ め少し割愛して・・・・・。
こ こ な ら 本 気 で 頑 張 れ いため、体を動かすのは た。すると、
「放送同様、 ちの胸に響くものがある くにおよぶものだったた
ていたのを知って、私も 生まれつき左目が見えな バレエの魅力を聞いてみ そらくこの言葉は、私た のだが、それは七百字近
先輩がNHK杯で優勝し は、
クラシックバレエだ。 こで、今でも続けている た ち に 伝 え る こ と 」
。 お ので文章にしてもらった
生徒の心にあかりを灯す く け ど、 何 が あ っ て も 力回復も図れるし、何よ
そんな彼女の将来の夢 彼女をこれからも応援し 【二年】
存在だったという。
あ き ら め な い 」 と お っ り幼いころから踊ること は、「バレエの先生になっ つづけたい。
上 敷 領 紫 苑・ 川 路 あ か
そして、甲南高校に入 しゃっていた。
が 大 好 き だ っ た 彼 女 に て、自分に限界をつくら
そして実は、彼女が最
り・ 濱隆世・福永由佳・
学。その理由を桑木さん
実は、桑木さんには知 と っ て は う っ て つ け の ず、壁を破り、努力する 後にどうしても伝えてお
福留健斗・田淵千尋・宮
は こ う 語 る。
「 緒 方 桃 子 られざる姿がある。それ 習い事だったそうだ。そ ことの素晴らしさを子供 きたいことがあるという
尾宏哉・竹内周・小原優
い言葉で伝え、いつでも 「 最 後 の 最 後 ま で 悩 み ぬ という。バレエなら、視 笑顔で付け加えた。
つ彼女らしく丁寧に優し う。顧問の稲本先生は、
」と中学校時代の同 こそのKBC」
「誰もみ
朗読部門で見事優勝。ま たは声が綺麗だから挑戦 の魅力にはまってしまっ
中学校に進学した桑木 た。
さに、甲南の看板アナウ してみれば?」
の一言で、 た桑木さんは、翌年も、 さんはやはり放送部に入 級生は語る。さらに、生 ていないところで人一倍
州放送コンテストでは、 の先生に言われた「あな んは言う。すっかり放送 本当に良かった。
」
と語る。 人の心に響く何かがあっ い て、「 栄 美 里 さ ん い て
ており、先日行われた九 かかわらず、当時の担任 に 目 覚 め た。
」 と 桑 木 さ がある。
放送に出会えて、「 桑 木 さ ん の ス ピ ー チ は Cの仲間は桑木さんにつ
Cアナウンス班に所属し 放送とは無縁だったにも 葉を届けることの楽しさ があったからこそ今の私 連続最優秀賞に輝いた。 励んでいるそうだ。KB
組 )。 桑 木 さ ん は、 K B 小学校四年生の夏。まだ き、
「 自 分 の 声 で 人 に 言 桑木さんは「この三年間 入選、弁論大会では二年 HK杯優勝を目標に日々
したいと思う。彼女の名
そんな桑木さんが初め を決意。そして、初出場 し、六年生のときには最 ンテストや弁論大会にも 次 々 と 賞 を 獲 得 し て い
は 桑 木 栄 美 里( 二 年 一 て放送と出会ったのは、 で優秀賞を獲得。そのと 優秀賞と観客賞を受賞。 出場。NHK杯では全国 き、緒方先輩につづくN
今回は、ある一人のア ンサーともいえる存在で 戸惑いつつも純心アナウ その次の年も、同コンテ 部。そして二年生、三年 掲げられている。強い野
ナウンサーについて紹介 ある。
ンスコンテストへの出場 ストに自らの意志で出場 生とNHK杯全国放送コ 望を抱いた桑木さんは、
Vol
部活動潜入記 第29回