哀調を持った美しさ H27.5.1 第56号 来賓玄関に、フジの花と似た黄 色い花が飾られた。早速持って来 ていただいた M さんに、花の名前 を尋ねた。花の名前は、「キングサ リ」という。花の姿は見たことは あるのに、名前の知らない花の何 と多いことか。そうか君は、「キン グサリ」という名前だったのか。 名前を知って、ちょっぴり安心し ている。 生けられたキングサリは、左右 にちょうどかんざしのように垂れ下がっている。ちょうどそこに自分の顔を入 れて、周りで掃除をしていただいている M さんと Y さんに「どう?」と尋ね てみる。まさにかんざしのようだとの返答が返ってきたが、花の美しさを損ね たと少し反省している。やはりモデルは美しくないといけない。 このキングサリの花言葉を調べてみると、そこには「哀調を持った美しさ」 とあった。その花言葉に出会った際、今朝のある新聞のコラムに引用された井 上靖さんの「星と祭」の一節を思い出した。今地震による大災害に苦しんでい るネパールの人々を描いた一節である。 「(この国では)洪水も雪崩も飢饉も、みな共同の運命なのである。自分の 難渋は他人の難渋であり、他人の難渋はそのまま自分の難渋である」 この一節に出会ったとき、何て美しいのだろうと思った。そして自らがその ような美しい心を、何処かに置き忘れていることに気付いた。人の苦しみ、悲 しみに共感できるということは何てシアワセなことなんだろう。自分だけが、 自分のことこそが、共感できることがなくなったということは何てフシアワセ なことなんだろう。そんなことを思った。 キングサリの小さな黄色の花を見つめながら、ネパールの人々のことを思っ た。それだけでなく、私の周りの子供たちのことも思った。「哀調を持った美 しさ」、それは真の哀しみを知る者のみが感じる美しさなのだと思う。そんな 美しさを感じる心を失いたくはないと思う。 そうか、確かにシアワセとは「なる」ものではなく「気づく」ものらしい。 今朝はそんなことを感じていた。 -1-
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