山梨出身の偉大な言論人・政治家として石橋湛山の評価が高まっており、 『石 橋湛山全集』の復刊も進められていますoこの間、山梨での湛山研究・紹介に関 わった浅川保、大西勉さんからのお話をもとに、湛山と山梨、甲府中学(甲府一 高)との関わりに迫りたいと患います。多数お誘い合わせご参加下さい。 石橋湛山と山梨、甲府中学 ◇と き 11月 21日(日)午後2時-4時 ◇ところ 山梨平和ミュージアム 甲府市朝気1丁目 ◇講 演 1石橋湛山と山梨 浅川 保氏(YPM理事長) 2 湛山から甲府中学生への手紙 大西 勉氏(甲府-高同窓会事務局長) .) 甲府中学時代の湛山 《 内容・講師紹介 》 浅川保氏は、 1 9 8 6年、甲府一高教輪時代に、同校F校友会雑誌J)所収の湛山の 中学時代の文章を発見、以後、湛山研究を続け、 r偉大な言論人 石橋湛山jI (山日ラ イブラリー)やr石橋湛山の生涯と思想』 (YPMブックレット)等を刊行。これまで の取り組みをふまえ、湛山と山梨との闘わり巳ついて誌されます。 大西勉氏は、甲府一高教諭を経て、現在、甲府-高同窓会事務局長。湛山ガ、 1 9 4 7年、母校甲府中学に送った「Boys be AmbitiaJS」の書への甲府中学からの感謝 の手紙に対して、湛山ガ送った書簡がこのほど、発見されました。 G H Qの不当な公取追放r=より蔵相を辞任させられた不遇な時期に、母校の生徒に力 強く語りかけた湛山の手紙を紹介し、合わせて、湛山と甲府一高との関わり巳ついて も話して頂きます。 山梨平和ミュージアム案内 * 2007年5月にオープッして3年 問い合わせ先 ミュージアムには5 7 0 0名を越える来 NPO法人山梨平和ミュージアム(YPM) -石橋湛山記念盤- 患者があり、展示の他に毎月、戦争と平 和に関わる企画を行っています。 〒400-0862甲府両軸気1-1-30 展示は、 1階が「甲府空襲の実相」 「甲府 連隊の歴史」 「戦時下の署らし」、 2階ガ 「石橋湛山の生涯と思想」です。 多数お誘い合わtfのうえ、見学にあい で下さい。 (県男女共同参画推進センタ一乗) TEL/FAXO55-235-5659 ホームへ-SJ'http://仰Tjafmjp 開館火.水を除く遇5Ej12:30-l7:00 入官料大人300円中.高.大学生200円 -I- 企画展「沖縄戦を考える」 好評開催中 闇 ヱ C ) dl ハU / ♂ / 一 〃 - 陸軍の「甲府連隊」の1部部隊が沖縄戦=BIに参戦したことを伝える が、平和資料館「山梨平和ミュージアム」(甲府市)が10日から開く企 画展で初めて公開されるD県内の部隊が沖縄に送られた事実は資料に乏し 史の事実を伝えたい」と寄贈したo (岩城興) く、これまでほとんど知られていない。沖縄で戦死した兵士の遺族が、「歴 (県内出身者34人)が戦死。 写しを寄せた。 碗亡したことを伝える死亡告 知書を保管。同館にカラーの を担当Cだが、戦況の悪化に 県茅ヶ崎市の元教員中瀬寛一 な資料を贈ったのは、神奈川 ・235・5659)へ。 一 ・ 問い合わせは同館(055 ある。 団白決」肇丁-マに講演があ 今月17日午後2時から「集 噂火曜永曜日、祝日休館C 開館時間は午後0時半∼同5 1人全員の名簿を展示するC 県内出身の沖縄戦機没者55 tiの「平和の礎」にならい、 いLし 者ら約24万人の名を刻む摩文 る。沖縄戦や沖縄出身の戦没 ひめゆり学徒隊なども紹介す は12月12日まで。集団白決や 企画展「沖縄軌を考える」 ◇ ってくれたらし。 り、多くが戦死した実態を知 いたo山梨の部隊が沖縄に渡 は生きて帰れないと覚悟して 入隊する父と別れるとき、父 中瀬さんは「私たち家族は 死したと記しているo 二 .・ [ ・ ・ ; ; ∼ .; ・ : 叩 ︰ 5 3 ; ・ 朗 ・ ( . i 部隊を示す「東六十三」と記 命令書は、入隊先として同 生存者は別人(同8人)だけ 伴い、他の部隊と再編成さ さん(79)ら。中瀬さんの父寛 今回、沖縄派遣を示す貴重 だった。 れ、45年3月以降は上陸した 雄さんが、予備役から同部隊 「国揺るがし続ける原点知って」 山梨平和ミ子ジアムで企画展きょうから 甲府の「東部第63部隊」で編 成された。 同本部は当初、那覇で前線 米軍と激しく戦った。その結 に召集された際の命令書と、 企画展「沖縄戦を考える」の会場=甲府市朝気1丁目 果、19CO人のうち164人 に軍需品などを送る後方支援 甲府連隊の沖縄戦問う 太平洋戦争末期の沖縄戦で は、日米両軍が住民を巻き込 んで地上戦を戦ったo企画展 アムの浅川保理事長(64)紘 の棄図について、同ミュージ 「沖縄をめぐっては米軍普天 0人が亡くなったとされる。 (けらま)諸島全体では約60 と指摘される「集団白決」も 相次ぎ、本島西側の慶良間 本軍との間で戦闘が続いた。 本土侵攻を遅らせるための総 力戦となり、全体で20万人週 が死亡。うち住民の犠牲は9 万4千人にのぼる。軍の強制 が沖縄に上陸。以来3カ月、日 太平洋警末期の1945 (昭和20)年3月下旬、米軍 畿沖縄戦 1944(昭和19)年7月、 (うち県内出身者は42人)0 . . : I : : J J . . . 1 ・ ・ : : I ; I . . ・ ( . . . . I : I 同館によると、県内から沖 い」と話す。 なる沖縄戦を深く知ってほし 揺るがしている。その原点と 戦後65年を迎えたいまも国を 科苔記述などの問題があり、 間飛行場移転や集団自決の教 第3種郵便物認可 ▲
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