水に映れ - water shrines -

水に映れ – water shrines –
【紹介】
ぼく、お姉ちゃんを好きになれてよかった――。
神戸の中学生四人組は、修学旅行プランの検討のために宮島へと向かっていた。
熱狂的な阪神ファンの鞆、野球部の大輔、美人の誉れ高い美星、秀才タイプの新作。
四人は宮島へ渡る船の中で、広島カープの帽子をかぶった謎の少年と出会う。
顔貌の整った聡明な少年は四人といるのが楽しいらしく、鞆と対立しながらも行動をともにするのだが――。
少年への思いが時空をかけめぐる、スレスレの歴史ファンタジー。
【目次】
プロローグ ..................................................................................................................................................... 1
第一章 阪神ファンと赤い帽子..................................................................................................................... 2
第二章 参道と鹿と少年................................................................................................................................ 8
第三章 厳島神社にて ................................................................................................................................. 15
第四章 心の傷 ............................................................................................................................................ 22
第五章 少年は誘う..................................................................................................................................... 28
第六章 白い杖と少年の涙 .......................................................................................................................... 33
第七章 水に映れ ........................................................................................................................................ 40
エピローグ ................................................................................................................................................... 44
エピローグ2 - invisible - ........................................................................................................................... 46
プロローグ
プロローグ
ねえ、と裾を引かれて女は振り返った。足元には、まだ幼い子供の姿があった。
その子は尋ねた。あどけない、少し驚いたような顔で。
ぼくをこれからどこへ連れていくの、と。
そうなのだ。
私は、この子をどこへ連れて行こうというのか。
どこへ――。
水に映れ - water shrines - / 藤原
1
平城
第一章 阪神ファンと赤い帽子
第一章 阪神ファンと赤い帽子
「ねえ、吉田。この電車、いつになったら宮島に着くん?」
とも
車窓から射す朝日のような藤村鞆の明るい声に、車内の乗客の注意が一斉に集まる。
指名を受けた吉田新作は心持ち前かがみになり、眼鏡の奥から冷たい目線をうざったそうに鞆に向けた。
「この電車では着かへんって言うたと思うけど。終点に着いたら船に乗り換えるんやて」
「あっ、そうか! 宮島って島なんやもんね」
「鞆はやっぱりアホやな」
ずばりと言い切ったのは、二人の間に大股で陣取っている中村大輔だ。
身長百七十七センチは野球部でも大柄なほうで、大輔が一人でブレーカーを着こんで練習をしているとこ
ろを見れば誰だって中学三年生だとは思わない。
この日は荷物持ちの担当で、がっしりした右肩に黒いナップサックを提げている。敢えて利き腕に負荷を
かけているのは、一応は女子である鞆に荷物をぶつけないよう気を遣っているらしい。
「大輔には聞いてへん! あんたに聞いたってわからんに決まっとうから、吉田に聞いとんのがわからへん
のん?」
「と、鞆ちゃん……。みんながこっちを見とう……」
びせい
鞆の左側からためらいがちに話しかけたのは後藤美星だ。
内気な美星は鞆とは対照的なところが多いのに、なぜか二人は小さい頃からずっと仲がいい。今日の下見
も、鞆が誘ったら美星はすぐに乗り気になってくれたのだった。
「あっ、最初っから美星に聞いたらよかったんや!」
「海が見えてきたら、すぐに終点やったと思うんよ……」
そう答えた美星は、同性の鞆が見ても惚れてしまいそうな可憐な仕草でもじもじと肩をすくめ、ぽっと頰
を染めて下を向いた。
今日の美星は紺のワンピースに同系色の空色のカーディガンをコーディネート。肩から背中にかけてふわ
んと広がるセピアがかったフェミニンロングの髪は、誰もがうらやむ天然物だ。
「後藤は頭がええんやな」
つぶやきにしてはボリュームの大きな大輔の声。体育会系男子との会話に慣れていない美星は口も開けな
くなるほど緊張して、うつむいたままぷるぷると首を振った。
「ちょっと! 後藤『は』頭がええ、ってのはどういう意味やのん?」
「はあ? 鞆はアホやと俺がさっき言うたばっかりのに、もう忘れとうんか?」
「大輔かて、人のこと言われへんやん! さっきも『廿日市市』の『廿』の字が読めんかって、
『あまびいち
いち』って読んどったやんか!」
「知るかいや! そんな字、習うてへんのやから!」
見かねた新作がようやく二人の喧嘩ごしの会話に割り入った。
「あのな、二人とも絶対に漫才師やと思われとんで」
鞆は大きな目をさらに大きく見開き、
「うわっ、そんなの嫌やわ!」と露骨に顔をしかめて腰を浮かせ、大
輔との間に嫌味ったらしい隙間を作って座り直した。
ところが驚いたことに、鞆の隣で静かにしていた美星もまた同様に、鞆との間にたっぷりと余裕をとって
からしずしずと着席したのである。
「えっ? 美星、なんで?」
「鞆、おまえは自分の格好が変やというのに気づかんのか?」
急にうろたえる鞆を馬鹿にするような調子で大輔が言った。
「なんで? これのどこが変やのん?」
挑戦を受けるべく、鞆は敢然と立ち上がる。
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2
平城
第一章 阪神ファンと赤い帽子
ナチュラルボブの髪の上にかぶった白い帽子の間からは二条の黄色い布がひらひらと、虎の尾のように後
方へ垂れ下がっている。選手名と背番号が延々と書き連ねられたその布は、鞆が丹念に縫い上げた特製の鉢
巻きだ。
袖を通しているのは、勇猛果敢な猛虎のエンブレムを背中にあしらった、白地に黒のピンストライプのハ
ッピ。手には野球のバットを小さくした形の白黒のメガホンまで持っている。
もちろん、白い帽子の額には黒字のHとTを組み合わせたモノグラムの刺繡が燦然と輝いているのである。
「ここ、甲子園やのうて広島やねんぞ? なんで、わざわざ広島まで来て阪神ファンの格好をしとんや?」
「何を言うとん! 広島やから、わざわざ阪神ファンの格好しとんやんか!」
「はあ?」
「広島ファンが多いからって阪神グッズを身につけへんような奴は、本物の阪神ファンやないっ! アタシ
は回り全部広島ファンに囲まれたかて、絶対に負けへんで!」
「知るか」
呆れ果てた大輔が冷たく言い捨てても、鞆は恍惚とした様子でしゃべりつづける。
「でも、ホンマに広島ファンに囲まれたらどないしょう? 『阪神ファンは半殺しにしちゃるけんのう』な
んて凄まれたら……アタシも可愛い女の子やもん、びびって泣いてしまうかもしれへんわ。みんなっ、その
時はアタシを助けてくれるやんね?」
三人の同級生は一斉に席を立ち、熱く語る鞆をぽつんと置いたまま足早に離れていく。
「なんで? みんな、なんでそんなに冷たいのん? お願いっ、アタシを一人にせんといてっ!
ンに殺されるっ!」
「終点や。降りるぞ」
広島ファ
◇
宮島口の桟橋では多くの人が列を作って出航の時を待っていた。
家族連れや恋人たちに混じって外国人の姿も見かける。ぺらぺらと何かをしゃべっているけれど、もちろ
ん言葉は聞き取れない。
「宮島って外国人にも人気があるんやね」
鞆が率直な感想をつぶやいたら、四人の先頭にいた新作が振り返った。
「そらそうや。世界遺産やからな」
「世界遺産? それって姫路城のこととちゃうん?」
「鞆ちゃん、姫路城の他にもいっぱいあるんやよ。さっき見てきた原爆ドームかて……」
美星が小声で教えると、鞆は素っ頓狂な大声で、
「ええ――――っ? 原爆ドームもそうなん?」
「常識や。俺かて知っとうで」と大輔。「鞆は平和記念公園で何を見とったんや?」
「いや、その……向かいにある広島市民球場のほうを……」
「どうせ、今日はここで阪神の試合せえへんのかなあとか、そんなことばっかり考えとったんやろ」
「甘いっ、大輔! アタシはそこまでアホとちゃうで!」
鞆が自信満々の顔で反撃に転じた。
「広島カープは去年から本拠地を移したんや。そやから、あの球場ではもう試合せえへんねん。大輔、あん
た野球部やのにそんなことも知らんのん?」
「原爆ドームが世界遺産やというのも知らん鞆に言われたないわ!」
鞆と大輔の応酬から距離を置くように、新作が美星を手招きで呼び寄せた。
「後藤さんはどんなプランを考えとう?」
「そうやね……原爆ドームと宮島は確定やとして……」
「小学生の修学旅行の定番みたいな組み合わせやなあ」
頭脳チームの二人の会話を、鞆はしっかりとチェックしていた。
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3
平城
第一章 阪神ファンと赤い帽子
――あの二人、結構気が合うかもしれへんな。
万が一そんなことになったら、美星との友情はどうなるんやろか。そやけど、何事にも自信なさげな新作
には引っ込み思案の美星をリードできんやろから、そんな心配は杞憂かも――。
ぶるぶるっ。そんなことはどうでもいい。
自分たちはこの週末を使って修学旅行プランの下見に来ているのだ。
ここ数年、いや十数年、修学旅行の行き先が不動のラインアップよろしく固定されているのに辟易した学
年主任が、今年は各クラスで検討したプランの中から最も優れたものを採用してはどうかと職員会議で提唱
したのである。
修学旅行は秋だけれど、宿の手配などの準備を考慮すれば時間的余裕はほとんどないらしい。
特に目ぼしいプランがなければ、今年の行き先も例年どおり東京になる。
けれど。
どんなプランを作ったとしても、結局は東京に決まってしまうと思うのだ。
少年少女に絶大な人気を誇る、夢と魔法のエンタテインメント。
小動物っぽいカチューシャを着けてテーマパークを練り歩くのを楽しみにしている女子が少なくないこと
を鞆は知っている。
ああ、だがしかし。鞆のお目当てはそこではない。
鞆が行きたいと思うのは東京ドームであり、神宮球場であり、横浜スタジアムだ。ネズミではなくネコ科
の猛獣のほうが好きなのだ。
レフトスタンドに陣取って、在京のトラキチ達と一緒に愛すべき選手たちに黄色い声援を送りたいのだ。
この世界に、阪神タイガースをしのぐエンタテインメントがあるだろうか?
◇
阪神甲子園球場、シーズン最終戦。
対戦相手は言うまでもない、オレンジ色の憎い奴。
昨夜の時点では我らが阪神タイガースと同率の首位。もちろん、今夜この試合に勝ったほうが栄光のペナ
ントを手にするのだ。
敵は手強く、しかも貪欲だ。もう何十回も優勝しているのにまだ飽き足らないのか。
たまには弱小球団に優勝させてくれたっていいのに。
スタンドを埋めつくす超満員の観衆の中、戦いの火ぶたは切って落とされた。
ところが、シーズンを通して大車輪の活躍を見せた阪神投手陣は蓄積した疲労を隠せずに、序盤から相手
打線に捕まってしまう。
我らが猛虎打線も数少ない好機をものにしていくが、九回表の終了時点では四対七。
九回裏、三点差を追っての阪神の攻撃が始まった。
敵は満を持してリリーフ・エースを投入してきた。
あのストッパーの前に今シーズンの阪神打線はどれだけ沈黙させられてきたことか。
テレビの前でメガホンを握りしめたまま天を仰いだことが何度あっただろうか。
もう阪神ファンなんてヤメや、と涙声でつぶやいた夜の数は――。
しかし今夜のストッパーは少し様子が違った。
波濤のごとき甲子園の大歓声に魔物のような何かを感じ取ったのだろうか。
阪神は簡単にツーアウトを取られはしたものの、二つの四球と内野安打を絡めて満塁のチャンス。
三つの塁に立つ縦縞のユニフォームは、あの白いホームベースを踏むことだけを考えているはずだ。
ウグイス嬢が四番打者の登場を告げると同時、うおおおお、と悲鳴ともどよめきともつかない音が球場全
体に響きわたった。
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平城
第一章 阪神ファンと赤い帽子
そう、不動の四番打者である彼もまた本調子ではなかった。
しかしながら、度重なる故障を克服し、ときには克服できずに痛みを我慢して左打席に立つ彼の姿は、今
シーズンの阪神ファンにとってずっと心の支えでありつづけたのだ。
それに、彼は試合前のインタビューでこう言ったのだ。今夜はファンの皆様の前で監督を胴上げしてみせ
ます、と。
彼のその言葉を信じずに、他に何を信じろというのか。
今夜は四打数ノーヒット。
好機に空振りの三振に倒れて悔しそうにバットを叩きつける場面を見せつけられても、ファンは声を嗄ら
して声援を送りつづけた。
しかし今夜の彼は本当に不調だった。二球目を空振りした時など、ボールとバットが三十センチも離れて
いた。
ツーストライク。
鞆はもはやグラウンドを見ていられなかった。
二本の虎の尾を頭の後ろで震わせながら、得体の知れない何かに向かって必死に祈りを捧げていた。
お願いです、アタシの夢をこんなところで終わらせないでください。
デッドボールでも何でもいいから、アタシの夢をつないでください。
それが無理なら、せめて少しでも長くこの夢を見させてください――。
少女の祈りがどこかに通じたのか、打者を追い込んだストッパーが投じた遊び球の手元が狂った。
ボールが指先を離れた瞬間、投手はしまったという表情を見せた。
我らが四番打者はその球を見逃さなかった。
バットを一閃。白球は甲子園の夜空に高々と舞い上がる。
『打ったぁ――――!
大きい――――っ!
入るかぁ――――――――っ!』
ラジオのアナウンサーの絶叫は、直後に続いた万雷の歓声にかき消された。
もう放送を聴く必要はなかった。ある者は声に出し、ある者は心の中でアナウンサーと同じ言葉を叫んで
いたのだから。
阪神優勝――。
ナインにもみくちゃにされる満身創痍の四番打者。三度、四度と宙に舞う監督。スタンドに舞い飛ぶ幾千
万もの紙吹雪。大きな球団旗を持ってグラウンドを一周する選手たち。黒いバックスクリーンには大映しに
なった「V」の一文字。
そんな感動的な数々の場面も、涙でにじむ鞆の目にはよく見えない。
今宵は人生最高の一夜だ。
誰彼の区別なく抱きつき、ともに喜びを分かち合い、そして肩を組んで声も高らかに歌うのだ。
血肉のように阪神ファンの身体に染みわたり、何万人もの心すら一つにまとめる魔力をもったあの歌を―
―。
…………。
◇
スコポン。
鞆の頭上で間抜けな音がした。
「こらっ、鞆!」
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平城
第一章 阪神ファンと赤い帽子
「…………はにゃっ?」
我に返った鞆が見上げれば、大輔が珍獣でも見るような目で鞆を睨み据えている。その手にはさっきまで
鞆が打ち鳴らしていたはずのバット型メガホンを持っている。
スコポン、というのは大輔が鞆の頭をメガホンで叩いた時に出た音らしい。
「はにゃっ、やないわ! 六甲おろしを船の中で歌うなっ!」
「えっ、船? いつの間に?」
鞆は慌てて二度、三度まばたきをしてからあたりを見回した。
まるで絵はがきの一葉のごとき厳島神社の赤い大鳥居が、鞆の目の前をゆっくりと動いていた。もちろん、
実際に動いているのは大鳥居ではなく、鞆たち四人が乗っている船のほうである。
「アタシ、甲子園の夢を見とったんや……」
考えを巡らせ、鞆はその原因に思い当たった。
あれは桟橋から宮島行きの船に乗り込んだ時のことだ。満員の客を乗せた船がうならせるエンジン音と、
銀傘に柔らかく反響する一塁側アルプス席の歓声とが見事にオーバーラップしたのだった。
それにしては、手を伸ばせば摑めそうなほど現実感のある、実に甘美な白昼夢だった。
ああ、夢よもう一度――。
スコポン。
「六甲おろしを歌うなと、さっきから言うとうやろ!」
「ちっちっちっ。大輔、アタシが歌うとんのは六甲おろしとちゃうで」
「……はあ?」
「正しくは『阪神タイガースの歌』って言うんや。阪神ファンには常識やで!」
スコポン。
「痛いやん!」と痛くもないのにわざとらしく頭を抱え、
「これ以上アタシの頭が悪くなったら大輔が責任取
って……?」
ふざけてそう言いかけた鞆の言葉が途中で止まった。
鞆の瞳はただ一点を見据えていた。
そこには小学校に上がったばかりといった感じの子供が立っていて、その子も鞆をひたすら凝視している
のだった。
ベージュのスウェットにジーンズ。小学生の男の子ならば普通の身なりだろう。
しかし鞆の注意を惹いているのはその服装ではなく、その子が後ろ向きにかぶっている赤い野球帽だ。
前についているはずのマークはこちら側からは見えないけれど、あの真っ赤な色は見間違えようがない。
「あの子は……」
どないしたんや、と訝しがる大輔には構わずに、鞆は美星を選んで話しかけた。こんな時は日頃から人を
こまめに観察している女子のほうが何かと頼りになる。
「ねえ、美星。あんな子、最初っからこの船におった?」
「えっ、どの子?」
美星はまつ毛の長い目をびっくりしたように見開いて鞆の顔色を窺う。
「ほら、あそこに立っとうやろ? 広島カープの帽子をかぶった子が」
「うーん……。あんまり覚えてへんわ。ごめんね、鞆ちゃん」
気にせんでええよ、と美星に言ってから鞆は断定的にうなずいた。
「やっぱりおかしいわ。広島の帽子をかぶった子がおるやなんて」
「何がそんなにおかしいんや」
大輔が横から口を挟む。
「ここは広島県やぞ。広島の帽子なんて珍しくも何ともないやろ」
「いや、最初は絶対におらんかった子やもん」
「なんでそんなことがわかるんや?」
「だって、甲子園球場の巨人戦やねんで? 最終戦やってんで? そんなところに広島の帽子をかぶっとう
子がおったら、アタシはすぐに見つけたはずやもん」
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平城
第一章 阪神ファンと赤い帽子
「そら、鞆の妄想の中の話やろが!」
怒鳴る大輔がメガホンを振り上げ、鞆が両手で身構えようとしたその時だった。
赤い帽子の子は鞆をひたと睨みつけ、小さい指先を鞆の鼻先に向けるとはっきりとこう言ったのである。
「ぼく、このお姉ちゃん嫌い」
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平城
第二章 参道と鹿と少年
第二章 参道と鹿と少年
阪神ファンに対して絶対にやってはならないことが一つある。
自分が阪神ファンでない限り、決して阪神タイガースを馬鹿にしてはならない。
ちなみに、阪神ファン自身が自虐的にこれを行うのは良しとされることが多い。
「大阪の恥」だとか「フロントがアホ」だとか、いつまでも優勝できない球団を過剰に愛するファンが心の
底から絞り出す恨み節は、まるで傷をなめ合うかのごとくファン同士で共鳴し合うらしいのだ。
逆にそうやって毒を吐き出さないと、遅かれ早かれ阪神ファンは心身ともにズタボロになってしまう。
究極のカタルシスを得るためには、責め苦に耐えつづけることすら厭わない。阪神ファンとは悲しいまで
に因果な人間集団なのだ。
話を戻すが、今はそんな自虐的な局面ではない。
宮島へと向かう船の上で、頭のてっぺんから爪先、果ては見えない部分に至るまで阪神グッズに身を固め
た阪神ファン(美星にも内緒にしていたが、鞆はこの日阪神タイガースのパンツを身に着けていた)に向か
って、あろうことか他球団の帽子をかぶった子供がこう言い放ったのだ。
――ぼく、このお姉ちゃん嫌い。
甲子園の白昼夢から醒めたばかりでアイデンティティが阪神タイガースと一体化していた鞆は、この言葉
を直ちに阪神球団への宣戦布告と解釈した。
鞆が心の中で十四年間も可愛がってきた人懐っこい虎が、いまや抑えようもないほどに暴れ狂っていた。
もしも現在の鞆の胸中を窺い知ることができたなら、エンブレムの猛虎の口が普段の三倍ほども大きく開
いている絵が拝めたに違いない。
「なんやて! もっぺん言うてみい!」
大輔の手から白いメガホンを奪い返して野球帽の子に襲いかからんとする鞆を、美星と新作が必死になっ
て押しとどめた。
「鞆ちゃん、落ち着いてっ!」と美星が身を挺して鞆にすがりつき、
「藤村、ちっちゃい子を叩いて学校に訴
えられたら修学旅行がなくなるぞ!」と新作が背中から鞆を羽交い締めにする。
事の重大さを認識した鞆がぽろりとメガホンを取り落としたところ、大輔がワンハンドでそれを受け止め
た。
大輔はそのまま子供に歩み寄ると捕手のように姿勢を低くして、
「ごめんな、ボク」と鞆に代わって謝った。
「ボク、怖かったやろ? あいつは珍獣『阪神ファン』って言うんや。日頃はもうちょっと女の子らしいね
んけど、関西を離れたらすぐにああやって暴れ出しよるんや」
「こらっ、大輔! 適当なことを言うなっ!」
大輔の背後で鞆がきゃあきゃあとわめいていたが、それはかえって珍獣説を裏づける結果しかもたらさな
いようだった。
◇
「珍獣が襲いかからんように俺たちがしっかり見張っといたるから、堪忍してくれるか?」
大輔の言葉に少年はにっこりと笑い、それから大輔を見上げて感心したように、
「お兄ちゃんは、背が大きいんだね」
ああ、と大輔が相槌を打つと少年はさらに「弁慶みたいに大きいよ」
「弁慶?」
立ち上がった大輔はスポーツ刈りの頭を申し訳なさそうに撫でた。
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平城
第二章 参道と鹿と少年
「俺……そんなに怖く見えるか?」
「ううん、お兄ちゃんはちっとも怖くない」
少年はそう言って赤帽をかぶった頭を大げさに振り、あらためて鞆を指さすと、
「ぼくが怖いのは、あのお姉ちゃんだけだよ」
四人の中学生は一瞬だけ沈黙したが、鞆を除く三人はすぐに笑い出した。
新作の肩はぷるぷると震えているし、美星までも笑い声を嚙み殺している。
大輔に至ってはメガホンを床に叩きつけながらヒーヒーと笑いころげているのだった。
「ひどいわ! 何がそんなにおかしいん?」
鞆が再び暴れ出そうとしたその時に、下船のアナウンスが船内に流れた。
あっ、と新作が声をあげ、羽交い締めをほどくなり鞆に向かって怒鳴った。
「藤村っ、おまえのせいで写真が撮れんかったやないか!」
「写真? もしかして……アタシの?」
「アホか! 大鳥居の写真や! この船は大鳥居の前を回るコースを通るから、写真を撮ろうと思うて待ち
構えとったのに!」
「あ、そうやったん? でも、帰りにもこの船に乗るんやろ? そのときに撮ったらええやん!」
「それがあかんのや! この船、帰りは違うコースを通るんや! ああ、どないしょう……」
仰々しく頭を抱える新作。しかし鞆は比較的冷静な瞳で彼を見つめて、
「吉田、写真の一枚や二枚くらい撮れんかったからってどないやのん? 自分の目でしっかりと見てきたら
ええだけやん!」
「藤村のせいで、見るのもできんかったんや!」
「……あら?」
帽子の上からきまり悪そうに頭をかく鞆の肩を、大輔がぽうんと軽く叩いた。
「ほら、行くぞ珍獣。世界遺産を見に来た外国人に珍獣っぷりを思う存分見せつけたれ」
「中村くん、それはやめて……。私たち、恥ずかしくて修学旅行に来られへんようになってしまう……」
消え入るような声で、美星がそんなことを大輔に頼み込んだ。
◇
船客のほとんどは観光が目的らしく、宮島の桟橋から外に出ると二人三人と寄り固まってそれぞれの目的
地へと散っていく。
「日本三景碑」と記された地味な石碑の前で四人がぼけーっとしているうちに、桟橋前の広い公園には人が
ほとんど見当たらなくなってしまった。
「ねえ、これからどこへ行くん?」
何も考えていなさそうな鞆の質問に、新作は情けなさそうに眉をひそめる。
「そうやなあ……。後藤さんはどこがええと思う?」
「うーん、最初はやっぱり厳島神社がええのんとちゃう?」
しかし大輔は美星のもっともな意見を遮った。
「俺、腹へったんやけど」
「はあ? まだ十時やで!」と鞆がツッコミを入れる。
「それに、大輔はサービスエリアでもいろいろ買うて
食べとったやんか!」
「インスタントラーメンとスナック菓子で腹がふくれるかいや! 俺はメシが食いたいんや!」
「ああ、時ばぁがおったら決めてくれるのになあ……」
新作が自分に愚痴るような口調でつぶやいてから、春の宮島の空を仰ぐ。
中学生だけで行動しているのには、やむを得ない理由があった。
推定年齢五十九歳、
「時ばぁ」と呼ばれて慕われている三年一組担任の藤田時子が長距離運転の疲れから広
島市内でダウンし、今後の行動をすべて新作に託して早々とリタイヤしてしまったからである。
無理もない。高齢者ドライバーが適宜休憩を挟みつつではあるがたった一人で、しかも四人の騒々しい中
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平城
第二章 参道と鹿と少年
学生をステーションワゴンという密室に詰め込んで深夜の高速道路を走りつづけたのだ。平和記念公園まで
無事たどり着けただけでも僥倖というべきかもしれない。
「ねえ、吉田くん。先生はまだ原爆ドームのところにおるんやろか?」
「そうやろなあ」と新作はうなずき、
「宮島に着きましたって報告のついでに、どこに行ったらええか聞いて
みよか」
そう言いながら新作が携帯電話で時ばぁを呼び出していると――。
「最初はお参りに決まってるじゃないか」
不意に聞こえた幼い声に、四人は一斉に顔を向ける。
◇
「あんた、まだおったんか?」
鞆の刺々しい声を受けても、少年は赤い帽子を果敢にかぶり直すだけで一歩も退こうとはしない。
気炎を吐く鞆の顔をちらりと牽制しつつ、大輔が親切なお兄さん口調になって、
「ボク、はよ逃げんと珍獣が襲ってきよるで」
「ぼく、怖くなんかないよ」
「アホっ! 阪神ファンをなめとったら怖い目にあうんやぞ!」
「だって、あのお姉ちゃんを見張ってくれるってお兄ちゃんが言ったんじゃないか」
「そら、確かにそう言うたけどやなあ……」
「ぼく、今日はお兄ちゃんたちと一緒にいることに決めたんだ」
「……はぁ?」
「だって、お兄ちゃんたち面白そうなんだもん。いいよね?」
「あのなあ……。面白いのは鞆の格好だけやぞ?」
「大輔、何でもアタシに振らんといてんか! あんたの顔かて十分面白いやろ!」
「いや、大輔と藤村の二人とも面白いって。さすがは漫才コンビやな」
新作が言うとすかさず、鞆と大輔がぴたりと息を合わせたように、
「誰が漫才コンビやねん!」
ああ、しかし。
お笑いは大阪の文化であって、断じて兵庫の文化ではない。
舞台と聞いて連想するのは、なんばグランド花月ではなくて華やかな宝塚歌劇のそれだ。
北野や異人館に代表されるオシャレな神戸を、同じ関西にあるからというだけの理由でお笑いの大阪と一
緒にされては困る。
そう、自分たち四人は兵庫県から来ているのだ。甲子園球場のある、あの兵庫県だ。
まぶたを閉じれば、いつでもどこでも聖地の様子を思い出せる。
黒々としたグラウンド、満員のスタンドにへんぽんと翻る猛虎の旗、夜空を埋めつくすゴム風船、そして
高らかに鳴り響くあの歌――。
…………。
スコポン。
「鞆っ! 六甲おろしを歌うなって、さっきから何べんも言うとうやろ!」
「叩いたら頭が悪くなるって、アタシもさっきから何べんも言うとうやんか!」
「……あの二人、面白いね」
少年の無邪気な言葉に、美星は困った顔でうなずくことしかできなかった。
◇
食堂や土産物屋が並ぶ道をしばらく歩くと、松並木のような海沿いの参道に出た。
大きな石の鳥居をくぐり、四人の中学生と一人の少年はひたすら先へと進んだ。参道ではゆっくりと散策
する人のほうが多いから、一団はまるでゴボウ抜きを演じる駅伝走者のごとく観光客を次々と追い越してい
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10
平城
第二章 参道と鹿と少年
く。
「中村くん……もうちょっとゆっくり歩いてくれへん?」
先頭をゆく大輔に、美星が勇気を奮って呼びかけた。彼女の歩くペースが遅いからではなく、四人を慕っ
てついて来る少年を気遣ってのことだ。
それを聞いた大輔も、
「済まんな、後藤」と素直に従って歩みを止める。
「大輔、せっかくここまで来たんやから、じっくり見て行こうや。神社にお参りして帰ってきたら、ちょう
どお昼時になるんとちゃうか」
新作の言葉に「おう!」と気さくに応じた大輔は、参道の石灯籠に目をやると急に楽しそうな声をあげた。
「おい、ちょっと来てみ。鹿がおるで」
「えっ、どこに?」
鞆が一段と高い声で反応して、二本の虎の尾をなびかせながら大輔のもとへと駆け寄った。
大輔の言ったとおり、灯籠の下では小さな鹿が横になっていた。
傍らに鞆がしゃがむと鹿は首を少しもたげて、黒曜石のようなつぶらな瞳で鞆を見つめた。
「うわぁ、カワイイーっ!」
「そやけどこいつ、あんまり元気ないみたいやな」
「うん……。大輔みたいにおなか空かせとんとちゃう?」
白い斑点を散らした鹿の背中を撫でていた鞆はいきなり顔を上げて、
「ねえ、何か食べさせるものを売ってへんかな?」
「食べさせるって、鹿せんべいか? それ、奈良とちゃうんか?」
「奈良にあるってことは、宮島にもあるかもしれへんやん? アタシ、ちょっと売店を探してくるわ」
鞆がそう言って立ち上がりかけた時に、
「そんなの売ってるわけがないよ」
「……え?」
◇
「鹿せんべいは、ここでは売ってないよ」
美星に寄り添って仲良く歩いていた少年が、はきはきした声でそう言ったのだった。
「そうなん?」と驚いたのは、鞆ではなく美星だった。
「前に来た時には、鹿さんにおせんべいをあげたよう
な記憶があるんやけど」
「それ、奈良のことやなくて?」
大輔と同じようなことを鞆が聞いたら、美星はこくりとうなずいた。
「うん、宮島に間違いないわ。奈良とは違って、おせんべいをあげても鹿さんがおじぎをせんかったのを覚
えとうもん」
「だから、鹿せんべいを売らないようにしたんだよ」
「なんで?」
「鹿は神様の遣いなんだよ。それなのに人間に頭を下げてエサをもらうだなんておかしいじゃないか」
「そしたら、この鹿は誰からもゴハンをもらえへんのん?」
鞆が聞いたが、赤帽の少年は答えない。
「なんか、かわいそうやね」
「ちょっと待っとれ、エサになりそうなもんを探してみるわ」
そう言うと大輔はがさごそと音をさせてナップサックを手で探り、やがて小さな袋を得意げに取り出して
みせた。
「ほら、あんパンや」
「ちょっと、中村くん……そんなのあげてもええん?」
「後藤、鹿せんべいの中身を知っとうやろ」
「ええっと、小麦粉を焼いたんやったかな」
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11
平城
第二章 参道と鹿と少年
「パンかて小麦粉を焼いたんやから、鹿せんべいと一緒や。大丈夫、絶対に食いよる!」
鹿が消化不良を起こさないかどうかを美星は心配しているのに、大輔は鹿がエサを食べるかどうかしか考
えていない。恐るべき単純思考だ。
鹿の行動はそんな大輔の期待を裏切らなかった。
大輔がパンの袋を開けた瞬間に鹿の鼻がぴくんと反応した。そのまま首をぬーっと伸ばしてぺろんと舌な
めずりまでしている。
「おう、このパンを袋から出すまで待っとれよ」
愛おしくてたまらないという目で鹿に語りかけていた大輔だったが、不意に背中をどん! と小突かれる
やいなや、振り返りもせずに声を荒らげた。
「なんや、鞆! おまえにパンはやらへんぞ!」
「……それ、アタシとちゃうで」
「あん?」
かがみこんだ姿勢のまま後ろを向いた大輔の目の前に、大きな鹿の顔がスーパーズームアップで迫ってい
たのだ。
「うわああっ! なっ……なんやお前は! どこから来たっ!」
「さあ。大輔がエサを持っとうから鹿が寄って来たんとちゃう?」
うろたえる大輔の動きに合わせて鹿も首を左右に動かし、食料を奪わんとナップサックの中へ顔を突っこ
んできた。
「こらっ、俺の最後のパンを!」
「大輔、まだ食べ物を持っとったんか」
「やめろっ……こら……服をかじるな……」
飢えた鹿の前では、人間の言葉による説得も意味をなさなかった。
ようやく立ち上がった大輔は力ずくで鹿の口からナップサックをもぎ取り、百メートル十二秒台の俊足を
活かしたダッシュを決めて走り去ったのである。
◇
「なっ、中村くん!」
「あっはははは! 大輔、がんばって逃げやー!」
美星の心配顔をよそに、鞆は面白がってメガホンで声援まで送っている。
そんな様子を無感動に見守っていた新作はデニムシャツの胸ポケットからもったいぶった動作でメモ帳と
ペンを取り出すと、
「鹿の……エサやりは、禁止……と」
「吉田、何を書いとん?」
「いや、修学旅行で宮島に来る際の注意事項をやな……おわっ!」
新作の手の甲から垂れ下がったメモ帳の表紙が、いつの間にやら鹿の口にがっちりとくわえられていた。
「ねえ、美星。鹿って紙も食べるん?」
「うん。鹿せんべいの帯の紙まで食べるくらいやもん」
「そんなとこで……呑気な会話せんと……助けてくれ……」
「無理。吉田、あきらめて」
鹿と力比べをしていた新作が無理やりメモ帳を引っ張ると、綴じリングから表紙だけがバリッと外れた。
ようやく貴重な食料を確保した鹿は、チューインガムを嚙むみたいに口をもぐもぐさせて固い表紙と格闘
している。
「と、取れたっ!」と新作が叫んだ直後、美星が「吉田くん、早く逃げてっ!」
結局、新作も大輔の後を追うように神社のほうへと走っていった。
水に映れ - water shrines - / 藤原
12
平城
第二章 参道と鹿と少年
「鹿って可愛らしい顔をしてても油断ならへんなあ。美星もそう思わへん?」
同意を求める鞆に、青ざめた顔の美星は震えながら何かを言おうとしていた。
「美星、どないしたん?」
「ちょっと……なんか様子が変やよ……」
二頭の鹿が美星の両側から、じわりじわりとにじり寄っている。
よく見れば小さな角が生えているから、どうやら二頭とも若い牡鹿らしい。
「あのお……鹿さん? 私、食べ物やなんて持ってへんよ……」
「こいつら、食べ物が目当てやないみたいやよ」
「だったら、何やのん……?」
「うーん、ひょっとしてフェロモン?」
「嘘っ! いややっ! 鞆ちゃん、違うって言うてっ!」
「そんなこと、アタシに言われても……」
そんな会話をしている間に、鹿たちは着実に美星との間合いを詰めていく。
立ちすくむ美星の両側にぴったりと寄り添い、うるんだ瞳で彼女を見つめながら黒い鼻でカーディガンの
匂いをふんかふんかと嗅いでいる。
「きゃああああ――――っ!」
ドラゴンに襲われた王女のような細い悲鳴を残し、美星はその場から一目散に逃げ出した。
だが、猪から身をかわすようにジグザグに走るものだから、逆に先々で追っ手の鹿を増やす格好になって
いる。
「きゃ――――っ! きゃ――――っ!」
「美星、曲がったらあかん! 真っ直ぐ逃げるんや!」
鞆のアドバイスに耳を傾ける余裕もないのか、美星はますます細かく切り返しながら鹿の群れを振り切ろ
うとしていた。さながらスクイズに失敗して塁間に挟まれてしまった三塁走者のようだ。
その様子があまりにも滑稽で、悪いと思いながらも鞆はつい笑ってしまう。
「あっはははは…………は?」
下からの視線を感じて、鞆の笑い声が止まった。
◇
見下ろせば、無邪気な表情で鞆を見つめる少年の姿。
「お姉ちゃんだけ、鹿に好かれないんだね」
「ふん! あんたには関係ないっ!」
唇を尖らせた鞆は少年からぷいっと顔をそらし、三人が走り去った参道をずかずかと歩き進んだ。
けれども小さい子供を置き去りにして行く気には不思議となれず、やがて鞆は歩幅を狭めて少年が追いつ
くのを待った。
お姉ちゃん、と鞆を呼ぶ少年と目も合わせず、
「なんや?」とぶっきらぼうに鞆は応じる。
「さっきお姉ちゃんが言ってた『ふぇろもん』ってのは何なの?」
「ああ、フェロモンか。それは――」
冗談のつもりやったのに、と鞆は心の中でつぶやいた。
美星が必要以上に鹿を怖がるから、かえって鹿が興味を示して彼女の後を追いかけただけのことなのに。
それを少年に正直に説明したほうがいいか――。
「その『ふぇろもん』ってのは、女の人が男の人を集める力みたいなものなの?」
「えっ? ああ……そのとおりやわ」
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13
平城
第二章 参道と鹿と少年
思わず鞆は舌を巻き、それから感心の眼差しで少年の顔をじっくりと見つめる。
――こんなに可愛らしい子、見たことない。
つやつやした色白の肌。利発さを窺わせる、広くて形のよい額。
意志の強さを思わせるが、強情ではない澄んだ瞳。
小さいながらもすらりとした鼻筋に、きりりと引き締まった口。
この子は絶対に美形になる。今のうちから買っておけば、美少年が間違いなく手に入る。ウイーク・ポイ
ントがあるとすれば、気に障る広島カープの野球帽くらいのものだ。
「あんた、お利口そうな顔しとうなあ」
鞆の誉め言葉に少年はきらきらと笑顔を輝かせ、それからちょっとだけ恥ずかしそうにもじもじとからだ
をすくめた。その仕草がまた、鞆には抱きしめたくなるほど愛しく思えた。
少年が広島の帽子をかぶってさえいなければ、絶対にこの場で抱きしめているのに。
「……お姉ちゃんも、とっても綺麗だよ」
「えっ? ホンマに?」
思わず鞆は半オクターブも上ずった声で喜びを表した。
お世辞かもしれないとは露ほども思わない。
こんなにも無垢な少年が、お世辞だなどと駆け引きめいたことをするはずがない。
「本当だよ。顔がつるんとしてて、お人形さんみたいだもん。あの優しいお姉ちゃんにも負けてないと思う
よ」
少年が鞆のことを「優しくない」と思っていそうなことだけが気にかかるが、そんな失点など無視したっ
て構わない。
驚くなかれ、この少年は自分のことを美人だとはっきり告げてくれたのだ。
しかも、ただの美人ではない。クラスでナンバー・ワンの美少女の誉れ高い後藤美星と互角であるとまで
言ってのけたのである。
「いやぁん、この子ったらぁ♪ さっきは怒ったりしてごめんねぇ♪」
薄気味悪い猫撫で声を出す鞆に向かって、しかし少年はこう言ったのである。
「でも、お姉ちゃんのその服だけは嫌い」
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平城
第三章 厳島神社にて
第三章 厳島神社にて
すったもんだの末、ようやく一行は厳島神社の入口にたどり着いた。
「えらい目に遭うたなあ」と息切れもせずに言ったのは、日頃から走り慣れている大輔。
「あの道を通って帰るの、嫌やわ……」と泣きべそ顔でつぶやいたのは美星。
「おい、ちゃんと四人そろっとう?」
グループリーダーの責任を果たすべく新作が集合をかけたところ、鞆はしっかりと首を振ってこう答えた。
「ううん、余計なのんが一人おる」
鞆の隣には赤帽をかぶった少年がにこにこしながら立っている。
「お参りに行くんだよね? ぼくもついて行っていいよね?」
四人はぎこちない動作で顔を見合わせた。
「アタシは反対やな。だってこの子は、よりにもよってアタシの阪神――」
「まあ」
「別に」「ええんちゃう?」
「ちょっ、ちょっと!」
鞆が抗議の声を張り上げた。
「なんで? みんな、それでええん?」
「ご覧のように一対三で阪神の負けや。あきらめろ、珍獣」
阪神ファンの少女はその宣告を聞くとがっくりと肩を落とし、それから少年を恨めしそうに睨みつけたの
だった。
厳島神社の入口にはやたらと多くの人が集まっていて、人にぶつからずに歩くのが困難なほどであった。
マイペースで歩ける参道とは違ってここでは拝観料を支払う行為が含まれるため、どうしても人の流れが
滞ってしまうらしい。
四隅がきゅっと反りかえった神社ならではの屋根。朱色の柱に真っ白な漆喰の壁。
見る者の心を厳かな気分にさせる世界文化遺産の景観も、この人込みのせいで雑念めいたものが入ってき
てしまう。
「ダフ屋が立ってても納得してしまいそうな雰囲気やわ」
「鞆は甲子園の妄想から離れられんのか!」
「そやけど拝観料みたいなのは要るんやろなあ」
「吉田くん、みんなあそこで払うとうみたいやよ」
美星が左手で示した手前の建物に目を移した新作が、「僕が人数分払うてくるわ」と言って歩き出しかけ、
ふと足を止めた。
「この子も有料なんか?」
「おう、小中学生は百円って書いたあるみたいやぞ」
眼鏡が外せない新作に代わって視力のいい大輔が黒板の文字を読み上げた。
ぼくのことなら気にしなくていいよと少年は言ったのだが、美星は小さく前かがみになって少年と目を合
わせると女教師のような口調でこんな注意を下したのだ。
「ボク、お姉ちゃんがこれから言うことをようく聞くんやよ。もしも『年はいくつですか?』って聞かれた
ら、元気よく『来年から小学校に行くんです!』って返事するんやよ。わかった?」
「後藤って、可愛い顔して恐ろしいことを言いよるな」
大輔が冷や汗を垂らしながらそんなことを言うと、
「アタシもそう思うねん」と鞆もしみじみと同意したの
である。
◇
他称・小学生未満の少年を含めた五人は何事もなく関門を突破し、板張りの廊下を歩いて本殿へと向かっ
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平城
第三章 厳島神社にて
た。
朱塗りの柱の向こうに視線を通せば、潔いまでに直角に曲がる回廊と穏やかな瀬戸内の海が一望のもとに
見渡せる。海の真ん中には赤い大鳥居の姿も見える。
参拝客でごった返しているのは相変わらずだが、風を切るように歩く大輔を目印にすればはぐれることも
ない。
大きく逞しい大輔の背中を、鞆はぼんやりと見つめていた。
グレーの長袖の内側に着た濃紺のTシャツから背番号五一が透けて見える。
中村大輔。右投げ左打ち。
大輔が誰に憧れて野球に打ちこんでいるのかを、鞆は自分のことのように知っている。
鞆や大輔が生まれた年に、背番号五一のスーパースターは「がんばろうKOBE」の文字をユニフォーム
の肩に掲げてオリックス・ブルーウェーブ(当時)をパ・リーグ優勝に導いたのだ。
だが、その年の阪神タイガースは最下位。
「阪神はがんばらんでええんか」という野次が飛んだとか飛ばな
かったとか。
ふん。なんやねん、好き勝手なことばっかり言うて。
阪神ががんばらんかったわけがないやんか。
あのスーパースターが阪神におったら、阪神かて優勝しとったはずや――。
鞆がそんなことを考えていた矢先に眼前から背番号五一が忽然と消え失せ、代わりに濃紺のTシャツを着
た厚い胸板が鞆の前に立ちはだかったのである。
「鞆、なんでさっきから俺の背中をじろじろと見とん?」
「え? アタシそんなことしとった?」
「おまえ、隙を見て俺を海に突き落とそうとか考えてへんか?」
「そんなことするわけないやん! 大体、アタシが大輔を落としたら何かご利益でもあるって言うん?」
「さあ、俺は知らん。そやけど、もしも『厳島神社で誰かを海に突き落としたら阪神が優勝する』なんてジ
ンクスがあるとしたら、鞆は絶対にそれをやるはずや」
「…………否定しません」
◇
大輔はかくのごとく鞆をまったく信用せず、
「ここからは鞆が先に歩け」と言って鞆の背中をぐいぐいと押
すのだった。
「ちょっとぉ! アタシ、どっちに行ったらええのかわからへんで!」
「知るかいや! 誰かについて行ったらええんや。どうせ一本道なんやから」
鞆は渋々ながら先頭に立って歩き出した。
潮が満ちてきているのか、海水がひたひたと足元に押し寄せてくるような感じがする。
敢えて廊下の端に寄って外側を覗き込んだら、阪神の帽子をかぶった少女の不安げな白い顔が真下の海面
に映っていた。
もしもここへ修学旅行に来たらどうなるだろう。
わざと人を突き落とすことはないだろうけれど、調子に乗った男子生徒が足を踏み外して転落するくらい
のハプニングなら十分あり得る。
だけど、あのテーマパークの中にだって人工の川があったはずだ。
羽目を外して川に落ちた生徒が過去にいたなんて話も聞いたことがない――。
次の瞬間、「わっ」という掛け声とともに鞆の背中がぐいっと押された。
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平城
第三章 厳島神社にて
「きゃっ!」
「おおっと! 暴れんなよ、落とさへんから、!」
大輔は右手で鞆の背中を押すと同時に、虎の尾の鉢巻きを左手でがっちりと捕まえていたのだった。
「もうっ! 大輔、何するん!」
鞆は振り向きざまに甲高い声で大輔を怒鳴りつけた。
だって、本当に海に落ちるかと思ったのだ。鞆の心臓がやけに早い鼓動をとくんとくんと刻んでいる。
それなのに大輔ときたら、にやにや笑いを浮かべながらこう言うのだ。
「さっき、鞆は俺を落とそうとしとったからな。そのお返しや」
びったーん。
プラスチック製のメガホンでも、直接顔面をかっ飛ばしたら結構いい音が響くものだ。
「アホっ! もう、知らんっ!」
鞆は早口で叫び立て、左の頰を痛打されたばかりの大輔を残したまま足音をどかどかと踏み鳴らして廊下
を歩いていったのである。
◇
本殿に着いた。
その大きさには目を奪われるが、それでいて大きすぎることはない上品な造りの本殿だ。
整然と並ぶすらりとした朱塗りの柱は溜め息すら忘れてしまいそうな神々しさを演出している。磨き抜か
れた板張りの床には塵ひとつ落ちていない。
はああ……と、鞆が感嘆の声を洩らしてから隣の大輔を肘で小突く。
「ねえ、どうやってお参りしたらええん?」
「そら、賽銭箱の前でお参りするんやろ」
「そんなん、わかっとう! ほら、あるやん? 決まり事というか、作法というか」
「二礼二拍一礼だよ」
そのことを教えてくれたのはまったく意外なことに推定年齢六歳の少年であった。
「おじぎを二回して、かしわ手を二回叩いて、終わったらお礼をするんだよ」
鞆と大輔は二人とも目を白黒させている。鞆に至ってはこのまま少年を拝んでしまうのではないかと思わ
れるほど感心しきっている。
「ボク、賢いんやねえ」と美星が褒めると少年も満更ではない様子で、はにかみながら微笑んでいた。可愛
い。
「……はっ! 忘れんうちに、この子に教えてもろうたやり方でお参りをせんと」
「鞆はそんなに早よ忘れてまうんか」
大輔のツッコミに構っている余裕はない。
どんな神社であれ、足を運んだからには必ずしなければならない願い事があるのだ。
おじぎ、おじぎ。パン、パン。最後にお礼をペコリ。
雑念の入る余地などまったくない。まわりの景色や音が一瞬にして消え去ったような、そんな幻想的な感
覚が鞆の心と体を支配する。
だから、こんな雑音もまったく意に介さない。
「あんなにかしこまって、藤村は何をお願いしとんやろな」
「そんなん、聞かんでも想像つくやろ」
どんな願い事をしたかは、誰にも教えてはならない。
お参りの作法すら知らなかった鞆ではあるが、なぜかそれだけは覚えている。
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平城
第三章 厳島神社にて
しかし、鞆の全身から発せられるお願いのオーラに触れた者であれば、耳元で鞆が大声で叫んだのと変わ
らないだけの情報を得ているはずだ。
阪神ファンが一年のうちで最も元気がいいのは春先だ。
例年だと梅雨に入る頃に、好調な年でも夏の盛りを過ぎる頃になると、温度計の目盛りと反比例するよう
に阪神ファンの元気がなくなっていく。
そして秋も深まる頃になると、彼らは今シーズンの素晴らしかった試合の思い出話をしながら来シーズン
に自分の夢を託すのだ。
けれども今は四月の下旬。ペナントレースはまだ始まったばかりだ。
鞆のネガティブな思考回路も起動していないから、夢は厳島神社の本殿よりも大きく広がる。
修学旅行の時分には勝負の帰趨は決まっていて、我らが阪神タイガースはクライマックスシリーズで死闘
を繰り広げている頃かもしれない。
あるいは日本シリーズの出場権を獲得しているかも。
そんなことになったら、もはや修学旅行どころではない――。
「そうや、念のために絵馬も掛けとこ!」
鞆は決意の瞳で周囲を見回し、斜め後方の視界に売店を捉えると脇目もふらずに突き進んでいった。
売店の前に立った鞆はしゃきんと背筋を伸ばし、
「あのう、絵馬って売ってます? 虎の絵がバーンと大きく書いてるやつ」
「鞆ちゃん、そんなの置いてへんってば……」
「なんで? 今年は虎の年やねんで! あるに決まっとうやん!」
「そら、初詣の頃やったらあるかもしれへんけどな。でも、今はもう四月の終わりやし」
新作がもっともらしいことを言い、鞆を除く四人は一様にうなずく。
「鞆、だめ押しせんでもええって。鞆の『阪神優勝』の願い事は、やかましいくらいに神様の耳に届いたに
決まっとんやから」
「だっ、大輔! なんで、アタシの願い事を知っとう……?」
「鞆、おまえ……やっぱりアホやろ」
一同はまたもや深くうなずいたのだった。
◇
お参りを済ませた一行は本殿に背を向け、一段高くなった舞台の脇を抜けて海側へと歩を進める。
大きな舞台のような板張りの広場の一角が海に向かってひょっこりと突き出しており、そこからは大鳥居
を真っ正面に拝むことができるのだ。
「吉田、見てみい!」と鞆が大鳥居を指さして叫んだ。
「船の上からやなくても、こんなに素晴らしい写真スポットがあるやんか!」
鞆に言われるまでもなく、新作は取り出した携帯電話で撮影を始めている。
神社仏閣は撮影が禁止されているところも多いと聞くが、ここは構わないのだろうか。
「偶然やったけど、ええとこが見つかってホンマによかったわ。これでアタシも吉田に怒られんで済むって
わけやね」
「まったく、アホの当てずっぽうは恐ろしいもんやな」
「何べんもアホ、アホって言わんといて! 大輔かて学校の成績はアタシと似たようなもんやんか!」
「いや、今日からの俺は違うで」大輔は腕を組んで胸を張り、
「さっき『頭が良くなりますように』ってお願
いしてきたばっかりやからな」
「大輔、願い事を人に教えてもええのん?」
「あ……」
「あっははは! やっぱり大輔はアホやわ!」
鞆はメガホンで大輔を指しながら大声で笑い、それから少年の両肩を持って自慢の弟のようにぐいっと前
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平城
第三章 厳島神社にて
に突き出した。
「見てみ、この子のほうがよっぽど賢いで」
「そんなことあるかい! よっしゃ、ボウズ、どっちが賢いか勝負や!」
さっきまでボクと呼んでいたのが、いつの間にかボウズになっている。坊主頭は大輔のほうなのに。
というか、本気で小学生と勝負するつもりなのか?
「鞆、おまえも一緒に来い。新作、何か問題出してくれや」
「問題って、何の問題を出すねん?」
「何でも構わん。新作が手に持ってる神社のパンフから適当に選んだらええやんけ」
「ちょっと、子供相手に本気になってどないするん?」
美星がきわめて常識的にそう言ったのだが、少年はくりくりした瞳を輝かせてはっきりと宣言したのだ。
「ぼく、この神社のことなら負けないよ」
「よっしゃ、それでこそ男や! さあ、バッチ来ーい!」
大輔は喜々として、ノックを待つ内野手のように腰を落として身構える。
厳島神社の大鳥居をバックに、問題を待ち構える三人。
まるでドキュメンタリー形式のクイズ番組のような光景だ。
「ほな、行くで。問題――」
おかしさをこらえながら、新作が即席の問題を読み始めた。
だいじょうだいじん
「現在の厳島神社の社殿を造った、太 政 大 臣 にもなった人物といえば誰でしょう?」
たいらのきよもり
「 平 清 盛 だよ」
即答したのは――少年だった。
◇
「嘘っ!」と鞆が悲鳴をあげ、
「ボク、すごいやん!」と美星が手を叩く。
「ま、待てっ! 平清盛やったら俺かて知っとうで!」
「今さら自慢すな! 名前だけやったらアタシかて知っとうわ!」
「平清盛が太政大臣になったのは一一六七年や。これは間違いないぞ」
鞆は目をまんまるに見開いた。
「美星……それ、ホンマに正しいん?」
「さあ、私も年代までは知らへんわ」
美星は首を振る。
新作はパンフレットのページを繰っては清盛の記述を探している。
少年はきょとんとしたまま、何が起こっているのかさっぱりわからないといった様子だ。
「大輔、あんた……なんで急に頭がようなったん? アタシが叩いたはずみで頭の歯車が嚙み合うようにな
ったとか?」
「人を壊れた機械みたいに言うなや」と、大輔はさりげなく余裕を見せている。
1 1 6 7
「ちゃんと覚え方があるんや。
『清盛自慢のいい胸毛』って言うねん」
「それ……何?」
1
5
8
2
「語呂合わせや。面白いやろ。他にもあるんやぞ、
『織田信長のイチゴパンツ』とかやな……」
「知らんわ、そんなん。好きなだけ暗記しとき」
鞆が呆れてそう言った直後、海からの涼しい風がすうっと足元を吹き抜けていった。
鞆はぶるっと背筋を震わせて、それからちょっぴり後悔した。
この時期にキュロットは早かったかもしれない。
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平城
第三章 厳島神社にて
野球少女のファッションはジーンズかキュロットというのが常識だ。
なぜなら、スカートをはいて球場に行くと必ず奇妙なアングルの写真を撮影する輩に遭遇するから。
どうせ撮るなら野球選手を撮らんかい、と憤ってみたところで仕方がない。聖地甲子園で不愉快な思いを
しないためには最初から自衛しておくに限る。
けれど、今日の阪神タイガースのパンツなら少しくらいは撮られても――いや、やっぱり困る。
「そやけど平清盛は、なんでこんな海の中に神社を造ったんやろ?」
暖を取るように腕をさする鞆を馬鹿にした目で見ていた少年が、
「お姉ちゃん、そんなことも知らないの?」
「あぁん?」
「この神社は海の中にあるからいいんじゃないか」
「海の中が? なんで?」
「お姉ちゃん、あれを見てみなよ」
少年は赤い大鳥居を顎で示した。つられて鞆も鳥居のほうを見る。
「あの鳥居、水に映ってて綺麗に見えるよね」
うん、と素直に鞆はうなずく。
「そこがいいんだよ! 鳥居だけじゃないよ、回廊も本殿もみんな水に映るところが格好いいんだよ」
◇
「ふうん……」
年端もいかない少年の言葉に、妙に感心してしまった。
言われてみれば確かにそうかもしれない。
けれど、海からの風は容赦なく吹きつけてくる。
くしゅん、と鞆は小さなくしゃみをして、それから鼻をこすった。
「鞆、どないしたんや? 震えとう。オシッコにでも行きたいんか?」
メガホンで思いっきり叩いてしまった後なのに、大輔は優しくそんな心遣いをしてくれる。
ただ、女の子に対するデリカシーがないのはちょっと考えものだ。
「いや……ちょっと寒うて」
「お姉ちゃん、そんな格好で足なんか出してるからじゃないの?」
「ボウズかて、こいつのことアホやと思うやろ? まだこんなに寒いのにミニスカートやねんで」
「ミニスカートやない。キュロットや」
「キュロット? なんやそれは?」
「大輔、キュロットも知らんのん? 外からはスカートに見えるけど、中はズボンみたいになっとんやで」
女子のファッションに疎い大輔にキュロットの構造を教えてやろうかと思ったけれど、中が見えないとは
言え実践してみせるのはさすがに恥ずかしい。
「ああ、そうか! スカートで球場に行ったら、虎のパンツが見られてまうもんな」
「なっ…………!」
鞆の顔が耳まで真っ赤に染まった。
「大輔っ! あんた、なんでアタシのパンツの柄まで知っとん!」
「えっ、嘘やろ? 俺、冗談や思うて適当に言うただけやのに……」
「どっちがアホの当てずっぽうやねん! もうっ、許さへんからなっ!」
「ま、待てっ、鞆! 今度は俺のせいやないっ!」
大輔の顔をめがけて鞆が高目に振り切ろうとしたメガホンを、しかし大輔は華麗に左手で受け止めてみせ
た。
「ふふっ、野球部員の反射神経をなめんなよ! 何べんも同じ手は食らわへんで……っ!」
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20
平城
第三章 厳島神社にて
ばっちーん。
藤村鞆。右投げ両打ち。
しかも、鞆が阪神の一軍選手に憧れてテレビの前で打撃フォームの練習までしていることを大輔は知るよ
しもなかった。
大輔の右頰に痛烈な平手打ちを見舞った鞆は顔と左手を真っ赤にして、目にはうっすらと涙さえ浮かべて、
「大輔のアホっ! ホンマにもう知らんからっ!」
ヒステリックに言い放つと、鞆は両肩をいからせて早足でその場を立ち去ったのであった。
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21
平城
第四章 心の傷
第四章 心の傷
先頭を鞆が行き、中央に立つ美星の両脇は大輔と新作が固める。
まるでアメリカンフットボールのフォーメーションのような態勢で、四人は参道を歩いていた。
広島の帽子をかぶった少年はそんな四人を面白そうに眺めつつ、美星の後ろについてゆっくりと歩いてい
る。
エサを持たず、フェロモンも分泌せず、そのくせフラストレーションが高まって殺気だけは漂わせている
鞆を警戒してか、鹿たちは遠巻きに見守っているだけで近づいてもこない。
それでも美星はおどおどしつつ、身の安全を確かめるようにそろりそろりと歩いていく。
「美星っ、もっと早う歩き! ぐずぐずしとったら置いてくで!」
「と、鞆ちゃん……そんなこと言わんといて……」
かんしゃく玉を炸裂させる鞆に美星が泣きつく。
新作はとばっちりを恐れて鞆と目を合わせようともしない。
大輔だけが、有名な宮島の紅葉のごとき掌の跡を右頰にくっきりと残しながらも平常心を保ったまま悠然
と歩いている。
「ねえ、お兄ちゃん」と後方から少年が大輔に呼びかけた。
「どないしたんや、ボウズ」
「さっきお兄ちゃんが言ってた『いちごぱんつ』っていうのは何なの?」
「ああ。あれはな、織田信長が本能寺で殺された年の覚え方や」
「それじゃ、『とらのぱんつ』っていうのは?」
少年が放った二球目は鞆の頭部をかすめる危険球だった。
いきなり沸騰した鞆はオルゴール時計の人形のような動作でくるりと身を翻して少年に向き直り、織田信
長の形相で少年を睨みつけた。
「あんたはそんなことを知らんでもいいっ!」
「だけど、お姉ちゃんが大事にしているものなんだよね」
「そ……そうや」
気勢をそがれた鞆がうなずいたら、少年はにこっと輝くような笑顔を見せた。
この子は本当にどこかしら憎めないところがある。
「ねえ、優しいお姉ちゃんは『とらのぱんつ』をはかないの?」
「わっ……私はそんな恥ずかしいパンツなんて持ってませんっ!」
美星が振り向きざまにものすごい剣幕で少年を怒鳴りつけたので、びっくりして大きく見開かれた少年の
目にはみるみるうちに涙が溜まっていった。
「美星っ、落ち着いてっ!」
「後藤さんっ、ちっちゃい子を泣かせたら修学旅行がっ!」
クラス一の美少女・後藤美星は、その心もまた美しく優しかった。
すぐさま自分を取り戻し、小さなポーチから桜色のハンカチを取り出して少年の顔にあてがう。
「ごっ、ごめんねボク! 許してね、お姉ちゃんもう怒らへんから……。そうや、ボクが泣き止んだら、お
姉ちゃんと一緒にお昼食べよっか? ね?」
美星のこういうところは是非とも見習わなければならないと、つくづく鞆は思う。
美星と互角の美人だと言ってくれた少年の言葉が仮に事実だったとしても、それは思いっきり背伸びをし
てギリギリ届いている状態に過ぎないことを鞆は自覚している。美星と鞆とでは残念ながらベースラインが
違うのだ。
ちょっとしたことで腹を立てて眉間に皺なんて寄せていたら、美星との差はたちまち広がってしまう。
そう、死のロードを乗り越えられずにずるずると後退していく、我らが阪神タイガースのように――。
水に映れ - water shrines - / 藤原
22
平城
第四章 心の傷
「ねえ、大輔もおなか減ったんやろ」
美星には及ばずとも、角が取れて丸みを帯びた声で鞆が問いかけた。
「おう。腹が減って減って、さっきからもう倒れてしまいそうや」
「そしたら早めのお昼にしよ。さっき叩いてしもうたお詫びに、大輔の分はアタシがおごったるから」
「ホンマか?」
大輔は素直に喜びの声をあげ、しかも両手でガッツポーズまで決めると、
「よっしゃ! 俺、今日はめちゃめちゃ食うたるからな!」
目を輝かせ、舌なめずりまでしてみせた。
――あんなこと、言うんじゃなかったかも。
◇
「ボク、何が食べたい?」
食事処や土産物屋がずらりと並ぶ商店街。
柔らかく尋ねた美星に少年が指先で教えたのは、昭和時代にタイムスリップしたような、それでいて特に
変わったところのない食堂だった。
店先に並んだロウ細工を目で追っていた大輔が「どうや?」と確認を求める。
頰をひくつかせながらも鞆が首を小さく縦に動かしたのは、この価格なら鞆の財布もさほど痛まずに済む
という消極的な意思の表れだ。
「全員、穴子めしでええか?」
語尾の下がった疑問文。食事を前にして大輔は完全に場を仕切っている。
もっとも、メニューの選択に反対意見があるわけではなかったから、そのまま仕切りを任せた一行は大輔
を先頭にして食堂ののれんをくぐった。
まだ食事には早い時間帯ということもあって、店内には他の客は一人もいなかった。
「俺、この席な!」
大輔は一番奥の席にさっさと陣取って、残りの四人が席につくなり「おばちゃん、穴子めしを五つ!」と
厨房にまで通りそうな大声を張り上げた。
食堂のおばさんはこころもち不審な顔をして、
「ほんじゃけど、五つも注文しよったら数が合わんじゃろ?」
四人の中学生は互いに顔を突き合わせた。
「なあ、小さい子には、丼まるごと一つは多いんとちゃうか?」
新作がそう言ったのを受けて、美星が少年に尋ねた。
「ボク、一人で食べられそう?」
「後藤、違うんや。俺が一人で二人前食うんや」
「なっ……大輔! あんた、アタシのおごりやから言うて……」
「さっき、俺はめちゃめちゃ食うって鞆に予告しといたはずやぞ」
それを聞いた食堂のおばさんは張りのある声で笑うと、
「うちの穴子めしは美味いけんね」と言い残して下
がっていった。
「ど、どないしょう……。アタシ、そんなにお金持ってきてへんのに……」
「鞆、気にせんでええぞ。足らんようになったら俺が貸したる」
それでは食事をおごったことにならない。鞆は素直にうなずけない。
「それに交通費は僕が時ばぁから預かった分で払うとくから、藤村はその心配もせんでええし。他にお金を
使うとこ言うたら、お土産を買うときくらいとちゃうか」
「お土産……そうや、お土産!」
新作の言葉にしっかりと反応した鞆は、ホームラン性の打球を目で追う観客のような勢いで席を蹴った。
水に映れ - water shrines - / 藤原
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平城
第四章 心の傷
「このお店の向かいにお土産屋さんがあったやんね? アタシ、ちょっと見てこよっと」
「そうやな、僕も行っとくか。待ち時間は有効に使わんとな」
「私も」
「俺も」
最後に大輔が言った時に、美星がいつもの少し困ったような顔で「中村くん」と大輔に呼びかけた。
「ここ、全員おらんようになってもええん?」
「構わんやろ。それに、このボウズもおるんやし」
エースにすべてを託したヘッドコーチのように大輔は少年の小さな肩をとんと叩いて、
「ボウズ、ちょっと留守番しといてくれるか。お兄ちゃんら、買い物が済んだらすぐに戻ってくるからな」
「うん。わかった」
「大輔……ホンマに大丈夫なん?」
「心配ないって。このボウズは結構しっかりしてそうやし」
その点に関しては誰も異論はなかった。
大輔は明るい笑顔で一人うなずき、
「ほな、行こ」と率先して商店街へと繰り出したのだった。
◇
「もみじ饅頭って宮島の名物やったんやな。俺、ずっと広島のもんやと思うとったわ」
そう言った大輔がナップサック一杯に詰め込んだのは千円分ものもみじ饅頭だ。
千円分としか表現できないのはバラ売りのものを手当たり次第に買ってきたからであって、その様子から
すると自宅まで土産を持ち帰るつもりはないらしい。
「大輔、あんた……それ全部一人で食べるん?」
鞆の質問には二つの意図があった。
鞆も試食してみて美味しいと思ったのだけれど、つい買いそびれてしまったのだ。
だから、これだけ持っていれば一つくらい分けてくれるかもしれないという期待が、この質問にはこめら
れているのだった。
「みんなは何を買うたんや?」
もみじ饅頭のバラ売りほどではないが、他の三人の買い物もなかなか個性的な顔ぶれだ。
美星は定番のしゃもじだが、書かれた文字がなんと「努力」と「根性」。
オシャレ美少女のイメージに似合わない古風な熟語はもしかすると厳格な後藤家の家訓かもしれない。
新作は厳島神社のTシャツ。
ご丁寧に「JAPAN」と大きく筆文字で書いてあるのは外国人向けだからか。
受けを狙ったのだろうが、彼の仕事は受け狙いではなくクラスの連中に宮島の魅力を紹介することのはず
だ。そのセンスで大丈夫なのか。
そして、鞆が買ってきたものは――。
「じゃーん! 見て見て! しゃもじに自分で字を書いてきたんやで!」
予告ホームランのポーズで鞆が見せびらかしたしゃもじには、当然のごとく「猛虎」と大書されている。
女子中学生らしく丸っこい文字で末尾にはチャーミングなハートマークまで付いているから、猛虎という
よりは飼い猫といったほうがふさわしい迫力だ。
「どう? オンリー・ワンの宮島みやげやで! 格好ええやろ!」
「なかなかいいかもな」と新作が賛同の意を示すと、
「そうやろ!」と鞆がはしゃぐ。
「でも、これ……字を書かへんかったら、宮島のお土産やとわからへんのとちゃう?」
「心配無用っ。ここんとこに大鳥居が書いたあるんやもん。もう完璧っ!」
そんなことをしゃべりながら四人は食堂に戻ってきたのだが、
「あれ? 俺が座っとった席に客がおる」
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平城
第四章 心の傷
大輔が確保していた窓際の席には年老いた夫婦とおぼしき客が腰かけていた。
「おかしいなあ、あのボウズはどこに……あっ、あんなところにおる!」
赤帽子の少年は店の中央にある大きなテーブル席に頰杖をつき、あどけない顔を四人のほうに向けていた。
「ボク、席を譲ってあげたん?」
「うん」
美星と少年がそんなやりとりをしていると、老夫婦の料理を運んできた食堂のおばさんが四人を見て「あ
れっ!」と驚いた。
「あんたら急におらんようになってしもうたけん、まだ何も作っとらんよ」
「えっ? そやけど、この子を置いてやなあ……」
「この子? そんな子、どこにおるんじゃ」
おばさんは少年をまったく無視して、少年の頭越しに大輔に尋ねてくる。
「どこにおるって……。あのなあ、おばちゃん――」
「大輔、あんたが悪い。人のせいにしたらあかん」
鞆の言葉に大輔は眉をしかめ、どうにも納得がいかないといった顔で中央のテーブル席にどかりと腰を下
ろした。残る三人も大輔に続いて席についた。
間もなくおばさんが五つの丼を持って現れると、大輔の不機嫌もたちまちどこかへ押しやられてしまった。
◇
「うわっ、何これ! 美味しーい!」
右手に箸を持ったまま左手を口に寄せ、鞆が甘い吐息のような感想を洩らす。
関西では穴子は珍しい魚ではない。スーパーに行けば細長いパック入りのものが簡単に手に入る。
穴子めしとはそんな穴子をざく切りにしてご飯に乗せ、甘辛いタレをかけただけのシンプルな料理だ。鞆
の自宅でも手抜き料理の代表格として食卓にのぼることがある。
だが、店で食べる穴子は歯触りと柔らかさが違う。
矛盾する要素を比べていると思うかもしれないが、そうではない。
しっかりとした嚙みごたえがあるのに、口の中では白身がふんわりと魔法のように溶けていくのだ。
タレは甘さと辛さの両方を抑えた上品な味で、スーパーで売られている小袋入りのタレとは二味くらい違
う。
いつも家で出てくる穴子は、あれはBクラスの味やったんやな――。
心の中でつぶやいた鞆がふと前を見たら、新作が注意深く目をすがめて鞆の様子を観察しているところだ
った。
新作はおもむろに箸を置き、表紙の取れたメモ帳を胸のポケットから取り出すと、
「穴子めし……藤村も絶賛の、味……と」
「吉田、何を書いとん?」
「宮島に来てからちっともメモが増えとらんのや。そやから、他の人の意見も取り入れとこうと思うて」
「ふうん」
無関心を装って箸を動かしながら、鞆も負けじと新作の分析を試みる。
細面で細い目をした、さらさら髪の秀才型キャラ。ときたま見せる笑顔にもクールなところがあって、真
面目な美星が思いを寄せてもおかしくはない危険な雰囲気をまとっている。
初めて気づいたけれど、新作は右手にメモ帳を構えて左手でボールペンを持っている。箸も左手だ。新作
は左利きだったのか。
野球ならば左利きは貴重な戦力だが、新作は野球部員ではない。担任の時ばぁが顧問をつとめる地理歴史
部の部長だ。三年一組の旅行プラン作成責任者として新作に白羽の矢がぷすりと突き刺さったのも必然の帰
結といえる。
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平城
第四章 心の傷
「それやったら、ついでにああいうのんも取り入れといたら?」
鞆がそう言いながら箸の先で突つくように示した隣の椅子では、
「はいっ、あーんして……。美味しい? そう? よかったわあ……」
美星が自分の丼を取り分けて少年に一口ずつ与えていた。
まるで保育園の食事のようだ。少年はもちろんのこと、美星も心底嬉しそうな笑顔をしている。彼女はこ
うして世話を焼くのが昔から大好きなのだ。
「いや、やめとく」と新作は首を振り、「そんなこと書いたら、僕が男子の連中にしばかれるからな」
大輔は周囲には目もくれずに一杯目を三分四十秒ほどで平らげており、この時点でわしづかみに持ってい
る丼は二杯目だ。
「うまいな、これ。なんぼでも入るなあ」
大輔が穴子とご飯をかきこみながら、テーブルに立てかけたお品書きを箸先で読み上げる。
「おっ、カキめしってのもあるやんけ」
「あるやろなあ」と新作。
「広島はカキの養殖で有名やから、カキめしも美味いと思うわ」
「よし、それも食っとこ。おばちゃーん、カキめしを一つ追加な!」
「ちょっと、大輔! あんた、アタシのおごりやからと思って、そんなっ……」
血の気が引いた鞆はハッピの内ポケットから阪神タイガースの財布を取り出し、祈るような手つきで千円
札を数え始めた。
そして、運命の女神はそんな健気な鞆の味方をしたのだった。
◇
「なに? カキめしがないやて?」
焦る大輔に食堂のおばさんは「カキは冬のもんじゃけん」と、こともなげに言ってのける。
「中村くん、『Rのつかない月のカキは食べるな』って外国のことわざがあるんよ」
「四月って……Rはついてへんのか……」
大輔はうなりながら、フォークボールも難なく投げられそうな長い指を折って何かを数えている。
四月の英単語を思い出したくても語呂合わせを知らない。そんな様子だ。
「四月は……エイプリル・フールのエイプリルやから、A、P、R……あれっ? Rがついとう!」
「そやな。けど、カキの入荷はそれより前に止まるってことなんやろな」
「なんやねん! 話が違うやないか!」
大輔は不満たらしい声でさらに、
「新作、リベンジや! メモ帳に書いといてくれ、今度来た時には絶対に
カキめしも食うってな!」
「今度来たかてアタシはおごらへんで。今日は今日、今度は今度やからな」
胸を撫でおろしつつも、鞆がしっかりと釘を刺した。
「……ねえ、お姉ちゃん」
美星が口に運んでくれる穴子めしに舌鼓を打っていた少年が、突然鞆に話しかけた。
「お姉ちゃんたちは、どこから来たの?」
「あれ、言うてへんかった?」鞆は小首を傾げてから、「ウチら、神戸から来たんよ」
「……『こうべ』って?」
「ちっちゃい子にはわからへんのんとちゃう?」
少年を膝の上に乗せたまま美星が言うと、新作が悩ましそうに眉間を指で挟む。
「どう説明したらええんやろなあ……。ずうっと向こうに『ひょうご』ってところがあってやな――」
「あっ、
『ひょうご』なら知ってるよ! 大きな港があるところだよね!」
「そうそう! さすが、ボクは頭ええなあ」
「『わだ』ってところに岬があって、そこから船がいっぱい見えるんだよ」
四人の同級生が揃いも揃って絶句した。
「この子……なんで、そんなことまで知っとん?」
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平城
第四章 心の傷
「和田岬を知っとうやなんて、この子、鉄道ファンなんとちゃうか?」
鞆と新作がひそひそ声で相談めいたことを話している間に、美星が少年の頭をさわさわと撫でつけながら、
「私ら、和田岬のすぐ近くから来たんよ。神戸市の兵庫区ってとこでね」
「ほんと?」と少年は喜んで、
「素敵な町だったでしょ?」
とうとう二杯目も全部平らげてしまった大輔が、それは首を傾けて異を唱えた。
「それはどうかなあ。下町で結構ごちゃごちゃしとうからな」
「ううん、素敵な町だよ。だけど……火事でみんな焼けちゃったんだ」
「…………!」
◇
火事。
一九九五年一月十七日。
地震は一瞬にして神戸の街を破壊し、その後に発生した火災がさらに追い打ちをかけた。
兵庫区や長田区といった下町は特に火災の被害が大きかったところだった。
四人はその地震のあとで生まれた。
だから地震も火災も体験したわけではない。
しかし全員がそのことを知っている。
そう、知っていなければならないのだ。
震災ベイビー。
あの年、神戸で生まれた子供たちは誰からともなくそう呼ばれた。
この子たちが元気づけてくれた。この子たちが勇気をくれた。大人たちから何度そう言われたかわからな
い。
今までずっと――いや、彼らが生きていく限りこれからもずっと背負いつづけなければならない、ずしり
と重い荷物なのだ。
「あの時の学校はホンマにひどかったって、時ばぁも言うとったな。体育館は避難してきた人で一杯やのに、
大けがした人が次々に運ばれてきて……」
「吉田、やめて。もう言わんといて」
「私のいとこが、ちょうどこの子くらいの歳やったんよ。灘のほうに住んどってね――」
「もうやめてって言うとうやんか!」
金切り声で鞆が叫んでからは、もう誰も口を開こうとしなかった。
多かれ少なかれ、見えない心の傷を持っているのは四人とも同じだったから。
「ねえ……お姉ちゃん、どうしたの?」
少年が心配そうに問いかけても、鞆はずっと顔を伏せて小さく肩を震わせていた。
せっかくの食事にも、もう一口も箸をつけようとはしなかった。
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平城
第五章 少年は誘う
第五章 少年は誘う
帰りの船の中では誰もが言葉少なだった。
ばらばらになった四人は、ゆっくりと動く瀬戸内の景色にそれぞれの視線をさまよわせていた。
鞆は最上階のデッキに立ち、次第に遠ざかっていく宮島を物憂げな眼差しで眺めていた。
海風がデッキを洗い、鞆の虎の尾を揺らしていく。首から提げたメガホンも共振するようにわずかに揺れ
る。
知らずのうちに手に持っていたしゃもじに、鞆は視線を落とした。ハートマークを従えた「猛虎」の文字
が、まるで自身が犯した罪を責めたてているように思えてきた。
震災で大変な思いをしている人もおるのに、お気楽なもんやなあ――。
聞こえるはずのないひそひそ声が、鞆の胸をちくりちくりと針で刺す。
目をつぶり歯を食いしばってその痛みに耐えようとしたけれども、自戒の念から起こる衝動を抑えること
はもうできそうになかった。
こんなものっ――。
しゃもじを海へ投げ捨てようと鞆が振りかぶったところに、背後から虎の尾を引く者がいた。
鞆が振り返ると、赤帽の少年が真摯な表情でじっと鞆の顔を見上げていた。
「お姉ちゃん、ごめんね」
少年は沈んだ声で、しかしはっきりした発音でそう言った。
「ぼくがお姉ちゃんに変なことを言ったのが悪かったんだ」
「ううん、そんなことない」
瞳にありったけの優しさをこめて、鞆はゆっくりと首を振る。
「誰も悪いことなんてしてへんよ。地震も、火事も……誰が悪かったんでもないんやもん」
「ぼくを許してくれる?」
「あんた……もしかして、それを言うためにこの船に乗ってきたん?」
「……うん」
鞆の母性本能が心のドアを激しく叩いていた。
日頃は陽気な「阪神ファン」という性格に圧されて滅多に開くことのないドアが、今まさにこじ開けられ
つつあるところだった。
こっちへおいで、と鞆が手招きをすると少年は素直に鞆の前に立った。
「あんた、ホンマに可愛らしいなあ」
少年ははにかんだけれども、あの輝くような笑顔をまだ見せない。
鞆が許してくれるのを少年は待っているのだろうか。
なんと純真な子だろう。
こんな弟がいたら毎日可愛がってあげるのに。
そして今のうちに英才教育をほどこして、いつかは一緒に甲子園へ――。
「と、いうわけでぇ」
鞆は満面の笑顔で「猛虎・ハートマークつき」のしゃもじを少年に差し出しながら、
「仲直りのしるしにコレをあげるわ。世界に一つしかない、お姉ちゃんの特製品やで!」
「……何、これ?」
少年は難しい算数の問題に当たったような顔でしゃもじとにらめっこをしている。
「ああ、やっぱりカープのファンには通用せんのかあ」
「お姉ちゃん、その『かーぷ』ってのは何なの?」
「……は?」
「ぼく、そんなの知らないよ」
◇
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平城
第五章 少年は誘う
「カープを知らんやて……なんで? あんたのかぶっとう帽子やんか!」
そう言って鞆が少年の頭に手を伸ばしかけた時、ちょうど額の上にあった帽子のアジャスターに鞆の指先
が引っかかった。
帽子はぽろりとデッキに落ち、隠されていた少年の髪がはらりと後ろに垂れ下がった。
「あっ!」
少年と鞆がほぼ同時に叫んだ。
頭のすぐ後ろで一つに束ねられた少年の黒髪は、一筋の乱れもなく優雅に伸びていた。
単に長さだけを比べれば美星より少し長い程度だが、上背の低い子供の髪はその背中を通り越して腰より
下にまで達していた。
「あんた、その髪の毛……」
下船までにグループで集まっておこうと考えた大輔たち三人がぞろぞろとデッキに上がってきた。
「どうや、珍獣。少年と仲直りできたか……! どないしたんや、それは?」
三人が三人とも少年の容貌に動転して、その場で凍りついている。
少年は真っ赤な顔をして帽子を拾い上げるとしっかりとかぶり直し、長い黒髪を器用に畳んで再び帽子の
中へ隠してしまった。
「お姉ちゃん、なんてことするんだよ! ひどいじゃないか!」
「ごっ、ごめん!」
思いもかけない衝撃を受けた鞆はすかさず頭に浮かんだ言葉で謝ってから、付け加えるように言った。
「ずっと男の子やとばっかり思ってたけど……あんた、女の子やったん?」
その直後、鞆の眉間にしゃもじがストライクで命中した。
「お姉ちゃんの馬鹿っ! ぼくが女に見えるか? お姉ちゃんは男と女の違いもわからないのかっ!」
「い……いたたた……」
顔を覆ってうずくまる鞆のもとへ美星が駆け寄り、ハンカチを鞆にあてがってから細い眉を吊り上げて少
年を叱りつけた。
「こらっ! 女の子の顔に、なんてことするん!」
「ぼく……ぼく……ひっく、女じゃないもん……」
どうにかこらえていた少年の目から涙があふれ、すべらかな白い頰を伝ってデッキにしたたり落ちた。
「お姉ちゃんが……悪いんだもん……ひっく、お姉ちゃんが……ぼくの帽子を、取って……ひっく、女の子
だって、言うんだもん……」
少年は声を震わせて泣きじゃくっていた。
板挟みの立場に追い込まれた美星もついには耐えきれず、少年に歩み寄ってなだめるように抱きしめた。
二人の男子中学生は一歩も動けず、ただ黙ってその場に立ち尽くしていた。
◇
「はあ……」
鞆は河原にへたりこみ、憂鬱そうに首を動かして頭上を眺める。
コンパスで描いたように美しい弧を持つ橋が幾重にも連なって向こう岸に達している。
きんたいきょう
「岩国の錦 帯 橋 ……藤村は溜め息、と……」
新作が何だか不愉快なメモを取っているが、もう突っかかる気力もない。
「ほらっ、鞆。これでも食うて元気出せ」
透明なパックを持った太い腕が横からぬうっと伸びてきた。
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平城
第五章 少年は誘う
「これは……?」
「岩国寿司って言うらしいぞ。そこの店で買うてきたんや」
大輔は心底楽しそうな顔でパックを開き、四角に切られた散らし寿司の一切れを頰張ってから「ほい」と
鞆に残りを勧めた。
ありがとう、と会釈のように小さく頭を下げた。
大輔を真似て色彩豊かな寿司を指先でつまみ、小さく口を開けてかじってみる。
上品で柔らかい手作りの味がする。美味しいけれど、なぜかちっとも食が進まない。
宮島の穴子めしも半分以上残してしまったのだから、おなかは減っているのだけれど。
錦帯橋のたもとから、少年の手を握る美星と撮影を済ませた新作の会話が聞こえてくる。
「広島、宮島、岩国……。後藤さん、他にどこかいい場所あるかな?」
「うーん……。私ももう知らんわ」
「もう一つくらいインパクトのある場所が欲しいねんけどな。たとえば世界遺産とか」
いわみ
「ええっと……それやったら石見銀山とか?」
「そこ、岩国から近いんやろか?」
「あれって鳥取か島根やったでしょ? 電車では行けんかったと思うよ」
「そうか……」
鞆はゆっくりと立ち上がり、尻の汚れを軽くはたき落とした。
「みんな、もう帰ろう」
「帰るって……広島にか?」
「探したって見つかるような気がせえへんもん。それに、アタシもう疲れた」
日頃から元気いっぱいの鞆がここまで消沈した声で話すのは珍しいことだった。
チャームポイントの虎の尾も気落ちしたようにだらんと垂れ下がっている。
鞆の気分が沈んでいる理由を承知している三人も、彼女をこれ以上連れ回すには忍びないという顔をして
いた。
「わかった。ほな、時ばぁに連絡してみるか」
携帯電話を取り出した新作に、赤い帽子の少年が問いかけた。
「お兄ちゃん、楽しいところを探してるの?」
「ああ。でも、見つからへんかったから、これから神戸に帰ろうと思うんや」
「それなら、ぼくが楽しいところに連れてってあげるよ」
◇
「……知っとんか?」
新作が眼鏡越しに見た少年は得意そうに何度もうなずいた。
「ボク、その『楽しいところ』ってのはどこにあるん?」
少年の手を包むように握りながら尋ねた美星に、
あかまがせき
「ずっと向こう。赤間関ってところ」
「赤間関? 私、そんなところ聞いたことないわ」
「それ、下関のことや!」
新作が叫ぶ。
「山口県の端から端やないか! えらい距離あるぞ!」
「ねえ……行こうよ、お兄ちゃん」
訴えかける少年の信頼しきった目に「待ってや、今から聞いてみるから」と新作は断ってその場で時ばぁ
を呼び出しにかかった。
「――行ってきてもええって。夜のほうが高速が空いとうから、むしろ遅くなるくらいのほうがええんやて」
「お金は?」と尋ねる美星に新作はズボンのポケットを叩き、
「四人で下関までの往復やったら、時ばぁから
預かった分だけで行けるわ」
「よっしゃ。せっかくここまで来たんやから、このまま四人で下関に行こか」
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平城
第五章 少年は誘う
最後の岩国寿司を口に押し込んだ大輔が立ち上がった。
「……三人や」
鞆が落とした低い声。
「三人で行っといで。アタシは先に広島に帰るから」
「藤村は行かへんのか?」
「あんたら……この子を信用するん?」
言ってから鞆は伏目がちに少年を一瞥した。帰りの船での一件が尾を引いていたから、少年とは目を合わ
せる気にもならなかった。
「お姉ちゃん、ぼくのことを怒ってるんだよね」
「……別に」
「ぼくが言ってることだから、お姉ちゃんは嘘だと思ってるんだよね」
「……そんなことない」
少年にしてはあまりにも大人びた、その洞察力に鞆は感心する。
けれど、それを素直に評価する気にはもうなれない。
「楽しいところってのは、おばあちゃんが言ったんだ」
「……おばあちゃん?」
「うん。おばあちゃんが教えてくれたんだ。時が過ぎるのも忘れるほど楽しいところだって。だから、ぼく
は……」
そこまで言うと少年は寂しそうに視線を落とし、もう何も鞆たちに教えようとはしてくれなかった。
◇
五人は西へと向かう普通電車に揺られていた。
少年の無賃旅行は場数を踏むごとに巧くなっている。宮島口でも岩国でも自動改札機は完全にスルーで、
岩国では美星と手をつないだまま駅員に手を振る余裕まで見せていた。
そんな少年も電車の中では子供らしさを存分に発揮し、窓にへばりついて海側の景色を眺めながら美星の
問いかけに楽しそうに返事をしている。
新作はどうやら幕末マニアらしく、これから行く下関という町が幕末史的にどれほど重要だったかという
ことを得々と大輔に話し聞かせている。
大輔は「おう」とか「ああ」などと調子を合わせているけれど、恐らく半分も理解していないに違いない。
鞆は四人から距離を置き、たった一人で山側のボックス席に座っていた。
こんな電車に乗って本州の端っこを目指すつもりなんてなかったのに、四人と行動をともにすることに決
めたのはチームワークを大切にしたかっただけのことだ。
いや、本当はあと一つだけ理由がある。
決して少年の口車に乗せられたからではない。
ただ、少年が「おばあちゃん」と言ったことが気になったのだ。
見かけの割にしっかりしている聡明な少年でも、おばあちゃんが好きなのだ。
鞆はちょっぴり安心し、またそのことで少年をちょっぴりうらやましいと思った。
鞆、という素敵な名前を付けてくれたのは鞆の祖母だ。
けれど鞆は祖母の顔を知らないし、祖母に抱いてもらったことすらない。
広島県の漁村で生まれ育った鞆の祖母は、女の子を授かったら鞆という名前にしようと決めていたのだそ
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平城
第五章 少年は誘う
うだ。
ところが自分の子は二人とも男だったから、祖母は長男の子、つまり初孫にその夢を託そうとしたのだっ
た。
お腹の子の性別がわかった後で父からそのことを聞かされた母はよい顔をしなかったらしい。どうして我
が子の名前を姑が勝手に決めるのかと父に食ってかかり、電話越しに祖母と喧嘩までしたのだそうだ。
その次の日に、あの地震が起こった。
鞆の祖母は甲子園球場の近くで一人暮らしをしていた。
一階が店舗で二階が住居という木造の煤けた建物で、夜ごとに集まってくる阪神ファンを相手に酒や料理
を出し、客と一緒になって試合の行方に一喜一憂する、そんな暮らしをしていた。
苦労して二人の息子を育てあげた祖母がようやく手にした小さな平和を、あの地震がぺっしゃんこにして
しまった。
祖母が亡くなったことを鞆の両親は避難先で聞かされた。
後日、全壊した建物の中から掘り出された祖母の遺品を父は黙って母に差し出した。
雨水と土埃で汚れた日記帳の一月十六日のページには嫁の懐胎を喜び安産を祈る文章が鉛筆でびっしりと
書き連ねてあり、安産祈願の水天宮のお守りが栞の代わりに挟んであったという。
鞆の母は日記帳を抱いたままその場にうずくまり、声をあげて泣いた。
そして、鞆の名前はその日のうちに決まったのだった。
実際には「鞆」という漢字は人名には使えないから、戸籍には「藤村智」と記されている。
だけど自分の本当の名前は「鞆」の字だ。
孫がこの世に生まれ出る日を、そして恐らくは孫の手を取って甲子園球場へ連れていく日を心待ちにして
いた祖母が付けてくれたのは「鞆」という名前だから。
中学に進学した時に、当時から担任だった時ばぁにそのことを話したら「名前は大切にせなあかんねえ」
と言って出席簿の名前を印刷し直してくれた。口に出しては言わないけれど、そのことで鞆は今でも時ばぁ
にちょっぴり感謝している。
そして、大輔もまたそのことを知っている一人だ。
広島へ下見に行く話を新作から直接聞いた大輔は、真っ先に鞆に誘いの声をかけたのだった。
鞆のおばあちゃんは広島におったんやろ、鞆は広島に行きたいって言うてへんかったか、と。
なんでやろ。デリカシーもないくせに、なんで大輔は気を遣ってくれるんやろ。
なんだか少し気になる――。
そっと目を細め、鞆は再び四人のほうを見た。
電車の揺れが心地よかったのか、四人ともいつの間にやら眠ってしまっていた。
大輔は口をぽっかりと開き、新作は頭と前髪と眼鏡を垂らしてそれぞれの夢を見ているらしい。美星に膝
枕をしてもらっている少年の寝顔は幸せそうで、まるで母子像を見ているようだった。
その様子を見ていたら鞆もすぐに眠くなってきた。夜中からずっと起きていたのだから無理もない。
電車の窓に頭をもたせて微睡んでいたところまでは覚えていた。
けれど、そこから先は記憶がない。
水に映れ - water shrines - / 藤原
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平城
第六章 白い杖と少年の涙
第六章 白い杖と少年の涙
電車は夕方五時近くになって下関の駅に着いた。
五人が改札を抜けて駅前のバスターミナルを過ぎたあたりから新作のテンションが俄然上がってきた。
ひっきりなしにしゃべりつづけるさまはクラスの優等生である美星をも置き去りにして、まさに蘊蓄ひと
り旅といった様相を呈している。
「吉田松陰も高杉晋作も下関におったんやぞ。僕の名前も最初は晋作って字にしようかと思うとったんやっ
て」
ふうん、と誰からともなく相槌を打つ。
彼の名前が吉田晋作でもなければ吉田松陰でもないのは、我が子が歴史に名を残すことはないと判断した
親心のなせる業だと鞆は思う。
電車の中で自分の名前に思いを巡らせたばかりだが、名前というのは適度な期待を背負っているくらいが
ちょうどいい。
そうでなくても、自分たちは重い荷物を背負って生きているのだから。
「そういえば、吉田松陰の養父の名前は大助って言うんやってな。大輔もそっちの字やったらよかったのに
なあ」
「やかましいわ! 名前の字なんて別にどうでもええやろ!」
大輔が怒鳴り、鞆がうなずく。
もっとも、新作がうるさい点には同意するけれど、名前の文字については鞆も少々こだわりたい。
「ところで後藤さんは、なんで美星って名前なんやろな?」
「知らんわ。聞いたことないから」
教科書を音読するように抑揚がない調子の美星の返事。ハイテンションのうちに美星の秘密情報を聞き出
そうとした新作は、もう見事なまでにすべっていた。
この調子なら二人の仲が進展することはなさそうだ。他人の失敗を喜ぶつもりはなけれど、女子の友情の
危機が去ったことは正直言って喜ばしい。
流線型の水族館を過ぎ、左手が小高い丘になってきたあたりで急に新作が立ち止まった。
「あれっ、ところで僕らはどこに向かっとんやろ?」
「新作! おまえ、下関まで来て目的地も知らんと歩いとうんか!」
「いやあ……何となく海に沿って歩いたらええんかなあと思うて」
「吉田くん、もう少ししっかりしたほうがええんちゃう?」
美星の言葉と視線が冷たい。さすがに新作も大失策をやらかしたことを自覚したらしい。
そんな八方塞がりの新作を少年の一言が救った。
「こっちでいいんだよ。お兄ちゃん、よく知ってるね」
「えっ?」
「もう、すぐそこだよ。ここからはぼくが案内してあげる」
そう言って顔を輝かせた少年は、そこからは先頭に立って歩き出した。
やがて少年は足を止め、山側を仰ぎ見るようにその幼い顔を向けた。
「お兄ちゃん、ここだよ」
「ここは……高杉晋作の奇兵隊がおったところやないか!」
飛びあがった新作は長旅の疲れも吹き飛ばして石の鳥居をくぐり抜け、喜び勇んで一気に石段を駆け上が
っていった。
「さあ、ぼくらも行こうよ」
「う、うん……」
少年に促されて、残る三人も鳥居をくぐった。
赤間神宮。鳥居に掲げられた額には、そんな文字が刻まれていた。
水に映れ - water shrines - / 藤原
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平城
第六章 白い杖と少年の涙
◇
急な石段を上って白壁の大きな門をくぐり抜け、さらに階段を上ると朱塗りの柱も色鮮やかな本殿が鞆た
ちを迎えてくれた。
本殿前からはかなり遠くまでを見渡すことができる。さっきまで五人で歩いてきた国道を渡ったところに
駐車場があり、その先はすぐ海だ。海の向こうに見えるのは北九州の街並みだろうか。
豪華といっていいほど立派な神社なのに宮島のような参道はどこにもない。そもそも、神社の前には参道
ができるだけの余地が存在しないのだった。
「鞆ちゃん、寒くない?」
美星がそんなことを鞆に尋ねてくる。見れば、美星もそんなに暖かそうな服装ではない。
「うん。今は夕凪やから、そんなに風も吹いてへんし」
これが夜になると浜風が吹く。くぐり抜けたばかりの白い門に、石段が織りなす絶妙な勾配。
まるで甲子園のアルプススタンドにいるようで――。
…………。
「……おい、また歌っとうぞ!」
「はにゃっ?」
「鞆に何べん言うたかて埒があかんから、鞆が二度と六甲おろしを歌いませんようにって俺が神社にお願い
しといたろか?」
「やめてっ! そんなことしたらアタシがアタシでなくなってまう!」
自分から阪神タイガースを取ったら後には何も残らないと豪語する阪神ファンは少なくない。
しかし他人から同じように言われるのが果たして自慢できることなのか、鞆もいささか自信がない。一度
真剣に考えてみるべきかもしれない。
「鞆ちゃん、あの願い事はせんでええん?」
「もちろん、する」
難しい考え事はとりあえず心の奥底にしまっておくことにした。
賽銭を投げ入れ、午前中に教えてもらったように二礼、二拍、そして一礼。
まわりの景色や音から離れ、自分だけの世界に浸る。
これだけやれば願い事が叶うかもしれないなどと想像したら、鞆の元気も少し回復してきた。
参拝を済ませた鞆が回れ右をして本殿に背を向けた時、目の前を子育て中の燕がついっと横切っていった。
燕はヤクルトスワローズのマスコットだ。愛らしい野鳥に罪はなけれど、阪神ファンとしてはあまり縁起
がよろしくない。
「確かに綺麗な神社やねんけど……そんなに楽しいん?」
「さあ。でも、一人だけ時が経つのも忘れるくらい嬉しがっとう奴がおるけどな」
大輔の声が聞こえたとばかりに、新作がぴょんぴょん跳ねながら叫んでいる。
「おーい、こっちに来てみ! 面白いもんがあるぞ!」
「……美星、面白いもんって何やと思う?」
「きっと、幕末の志士にゆかりがあるものやと思うわ」
説得力にあふれる美星の言葉に、鞆と大輔は深々とうなずいてから新作の待つ本殿脇へと歩いていった。
◇
「あれっ、ボクも吉田くんと一緒におったん?」
「というか、僕がこの子に連れられてここへ来たっていうか……」
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平城
第六章 白い杖と少年の涙
やや興奮を静めた新作は少し照れ臭そうな顔でそう言った。
美星のそばにいた少年がいつの間に消えていたのか、鞆はちっとも気づかなかった。
気づかなかったが心当たりならある。恐らく鞆がいい気分になって神社の境内で歌っていた時のことだ。
まあええわ、と鞆はひとりごちて、
「この芳一堂ってのが面白いところなん?」
「おう、そうや。ここは『耳なし芳一』の舞台やったんやぞ」
「へーっ! ミミナシホーイチって幕末の志士やったんやね。アタシ、知らんかったわ」
「と、鞆ちゃん……それ違う……」
「ほな、誰やのん? ……わかった、ミミナシホーイチってお坊さんがこの神社を造ったんや!」
「アホ! お坊さんが神社を造るかいや! お坊さんが造るのはお寺じゃ!」
くすくすっ、という笑い声が背後から聞こえてきた。
「――教えてあげましょうか?」
振り返れば、すらりとした若い女性がそこに立っていた。
背中にかかるストレートヘアーで、明るい茶色のジャケットの内側には薄手の白いニット。
真っ黒な大きいサングラスを掛けているから表情はよくわからないけれど、どことなくファッションデザ
イナーのような雰囲気を漂わせている。
「四人とも神戸のほうから来たんでしょう? 話し方でわかるわ」
よく通る澄んだ声で話す女性の言葉にも、また関西地方特有のアクセントがあった。
「まあ、話し方でもわかりますけど、この珍獣の格好を見たら誰かて関西から、
」
言いかけた大輔が途中でぷっつりと言葉を切った。
不自然に感じた鞆はすぐに、その女性が右手に真っ白な細い杖を携えているのを見てとった。
「見えへんかっても、しゃべり方でわかるもんやよ。男の子は運動部と文化部で、女の子は活発な子と大人
しい子。違うかな?」
女性はそう言って口元で微笑んだのだった。
◇
新作が女性に手を貸して芳一堂の前へと誘導した。
女性は杖の先で足元を確かめると、石段に大輔が敷いたスポーツタオルの上へ腰を下ろした。
四人の同級生は女性を取り囲むように立ち、赤帽の少年は正面から真剣な眼差しで女性の顔を見つめてい
る。じろじろ見てはいけないと鞆は注意しようとしたのだが、少年の瞳に好奇心ではなく尊敬の光が宿って
いるのを知って口をつぐんだ。
「みんな、震災の年に生まれたんやねえ」
その女性は感慨深げに言って、「私はその時は六歳やったわ」
「六歳、ですか」と美星が念を押したのと同時、四人の視線が六歳くらいの少年の上に集中した。
「眠ってた時に頭に何かがぶつかってきてね。それから、かな」
女性はそう言って白い杖を持ち上げてみせ、さらに話を続けた。
「でもね、それから私は文学とか歴史にすごく興味を持つようになってね。今では読み聞かせのボランティ
アもやっとうんよ」
「読み聞かせって、だって……」
「覚えてしもたら簡単やよ。ここにいる琵琶法師も『平家物語』を全部覚えて、それを人々に語り聞かせと
ったんやから」
鞆は少し背伸びをして小さなお堂の中を覗き込む。
提灯に照らされた薄暗い台座の上に、丸みを帯びた弦楽器を構えた僧形の木像が胡座に鎮座している。
よく見れば、像には確かに両方の耳がない。
「あのう……つらかったことはなかったですか?」
水に映れ - water shrines - / 藤原
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平城
第六章 白い杖と少年の涙
美星の質問に女性は「まったくなかった、とは言わへんけど」と応じてから、
「つらいことや悲しいことを体験した人間は一生くよくよしながら生きていかなあかん、なんて思ったりし
てへん? 私はそれは違うと思うんよ。人はいつかは死ぬし、形あるものもいつかは壊れる。それをいつま
でも悔やんだり悲しんだりしとったら、人間のできることやなんて何もなくなるよ」
「そう……ですよね」
顔も知らない祖母を、鞆は思う。
亡くなった祖母は、鞆にどんな顔をしてほしいと願っているだろうか。
重荷を背負いつづけ、感情を殺して生きることを望んでいるだろうか。
そんなことを考えてみる。
――ううん、おばあちゃんに限って、そんなことはないはずや。
だって、おばあちゃんは陽気な阪神ファンやったんやから――。
多くの人が亡くなったから、街が廃墟になったから、笑ったり楽しんだりしてはならない――ということ
ではないのだろう。
だから、阪神グッズで身を固めて試合の行方に一喜一憂したって構わないはずだ。
まあ、時と場合によるかもしれないけれど。
「そうやねえ……せっかくやから、これからみんなに『耳なし芳一』の話をしてあげようかな。話を知らん
子もおるみたいやからね」
「いや、まったく何も知らん奴は一人だけなんですけどね」
「うるさいっ! 黙れ、大輔っ!」
大輔と鞆の掛け合いを聞いていた女性はくすっと笑ってから、昔を思い出すような口調で静かに物語を始
めたのだった。
◇
「……芳一は武士の頼みを受け、琵琶を持って夜ごと『平家物語』を弾き語りに……」
「楽器で弾き語り?」大輔が首をひねる。
「『平家物語』って音楽やったんですか?」
「中村くん、違う……。さっき、お姉さんが文学やて言うとってやったよ……」
ぎおんしょうじゃ
「大輔、
『平家物語』は実話ベースの物語や。祇園精舎の鐘の声とか、聞いたことないか?」
「恥ずかし。アタシかて少しは知っとんのに。この子くらいの小さな女の子をな、通りかかった貴族が『な
んて可愛い子や!』いうてお嫁さんにしてしまうねんで」
少年を女の子に見立てて鞆がそんなことを言ったので、少年は不服そうに鞆にしかめっ面を向けてみせた。
「鞆ちゃん……それ、
『平家物語』やのうて『源氏物語』やよ……」
「えっ? 嘘っ!」
鞆がちらりと女性の顔色を窺ったところ、女性も口に手を当てて笑いをこらえている。
「すみません、話の腰を折って……。先を続けてください……」
あんとくてい
「はい。……安徳帝の墓前で鬼火に囲まれて琵琶を弾いていた芳一。このままでは芳一が平家の怨霊に殺さ
はんにゃしんぎょう
れてしまうと危惧した和尚は、一計を案じて芳一の全身に般 若 心 経 を……」
「ああ、身体じゅうに字をびっしり書くっていうヤツ?」
「それが効いて、芳一の身体は怨霊からは見えへんようになるんやで」
新作が補足の説明を入れたところ、鞆はしみじみとうなずいて、
「わかるわあ。アタシの知り合いにもユニフォームに阪神の選手のサインをびっしりと書いてもろた人がお
ってな、それを着て寝たらぐっすり眠れるんやて!」
「そういうのは般若心経やのうて、阪神教っていうんや」
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平城
第六章 白い杖と少年の涙
大輔がうまいことを言って鞆をからかうと、鞆以外の全員が爆笑した。
「はっ……阪神を馬鹿にせんといてっ!」
鞆は地団駄を踏んでわめき散らした。
「お経もサインも違わへんやんか! お坊さんがやるのは良くって、阪神ファンが同じことをやったら笑わ
れなあかんのか!」
「すっ……すまん、鞆……そやけど、やっぱり面白うて……」
「なんやねん、大輔こそボウズ頭のくせして……」
鞆はまだぶつぶつと何かをつぶやいていたが、やがていいことを思いついたという顔になるとメガホンの
先で大輔を指しながらこんなことを言った。
「そうや! 大輔、あんたがお経を書いてもろうて、ここに一晩じゅうおったらええねん! ほんで、亡霊
が出てくるかどうか確かめたらええんや!」
「な、なんで俺がそんなことせなあかんねん!」
「あれっ? 大輔、もしかして怖いん? お経の力を信じとったらええだけやん! だって、見つからへん
のやろ? 平家の怨霊がひゅううーっ、と出てきたかて――」
幽霊のように両手を前にだらりと下げ、舌をべろんと出して大輔を挑発していた鞆の顔に、いきなり赤い
帽子が投げつけられた。
面食らった鞆が下を向くと、長い黒髪を垂らした少年が烈火のごとき形相で鞆をぎりりと仰ぎ睨んでいた
のだった。
「お姉ちゃん、真面目に話を聞けよっ! ぼく、お姉ちゃんが喜ぶと思ったからここまで連れてきたんだぞ
っ!」
少年に真っ向から正論をぶつけられた鞆の心に、どす黒い感情がむくむくと湧き上がってきた。
精一杯の皮肉をこめた声で鞆は、
「あんたが言う『楽しいところ』ってのは、この芳一堂のことなん?」
少年が口を開こうとする前に、鞆は容赦なく次の言葉をたたみかける。
「偶然会うたお姉さんが話をしとってやるから、ウチらも退屈せんとおるんやで? お姉さんがおらんかっ
たら、あんたはどうするつもりやねん? それとも、あんたが大輔の代わりに一晩じゅうここにおって、平
家の怨霊と対決してくれるって言うん?」
少年の色白の顔からはすっかり血の気が失せていた。
固く握りしめられた両手の拳だけでなく、その小さい身体のすべてがわなわなと震えていた。
「お姉ちゃんの馬鹿っ!」
「きゃっ!」
少年が全力で突っかかった体当たりをまともに食らい、鞆はその場で下半身のバランスを崩して尻からど
すんと地面に落ちた。
「お姉ちゃんなんか嫌いだっ! 大っ嫌いだっ!」
涙をぼろぼろとこぼしながら少年は叫び、すぐに鞆から目をそらすと大事な帽子も置いたままに本殿のほ
うへ走り去っていった。
◇
「ボク、待って!」
すぐさま美星が少年の後を追う。
鞆が尻をさすりながら「あんな子放っとき!」と叫ぶが、美星はまったく耳をかさずに小走りに駆けてい
く。
「僕も捜してくるわ」と新作も動き出した。鞆の横をすり抜ける時に「藤村、ちょっと頭を冷やしたほうが
ええぞ」との言葉を残して。
「鞆、あんまり気にするなや」と言ってくれたのは大輔だった。
「ボウズは俺らが捜しといたるから。鞆はこ
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平城
第六章 白い杖と少年の涙
こで待っといたらええ」
そう言って大輔も芳一堂を離れていった。後には鞆と白い杖の女性だけが残された。
女性がなだめるように「大騒ぎやったみたいやねえ」と言った。
「ごめんなさい、アタシとあの子のせいで……。せっかくの話が……」
「あの子?」女性の語尾が上がる。
「あの子って誰のこと?」
目の前にいたのに、と言いかけてから女性の白い杖を思い出して説明を組み立て直す。
「おったんです、小さい子が。アタシがからかったら『お姉ちゃんなんか嫌いだ』ってその子が叫んで、走
って逃げて……」
「そんな子、おらんかったよ」
「えっ? だってお姉さんは目が……いや、すみません。その……」
「あなた、さっき本殿の前で六甲おろしを歌うとった子でしょ。駐車場から聞こえとったよ」
「は、はあ。……ええっ?」
ここから神社の鳥居まで何十メートルもある。駐車場はさらに道路を渡った先にあるというのに。
「三人が子供を捜す声も聞こえてくるわ。そやから、あなたの言うとうことは嘘やないんやろね」
言われて鞆は耳を澄ますも、夕闇が迫る境内で鳥たちがさえずる音の他には何も聞こえてはこない。
「私は目は見えへんけど、耳はええんやからね。私の前に小さい子がおったら、その子が一言もしゃべらん
かったとしても足音とか息遣いで絶対にわかるんよ」
「そんな……」
「その子、どんな子やったん?」
手に握りしめた広島の帽子を、鞆は見つめていた。
◇
その子は――
「六歳くらいやったけど、その割には大人びた賢い子です。可愛らしい顔をしとって、色が白うて……それ
に髪の毛が長うて、そう……腰のあたりまで伸びとって」
突然、女性が掌を向けて鞆の話を遮った。
それから次のような一節を朗々と諳じてみせたのである。
しゅしょう
たま
おんかたち
「―― 主 上 今年は八歳にならせ給へども、御年の程より遙かにねびさせ給ひて、 御 貌 美しく、あたりも照
みぐし
り輝くばかりなり。御髪黒うゆらゆらとして、御背中過ぎさせ給へり」
「それ……何ですか……?」
「『平家物語』の、壇の浦の段。安徳帝のことを言い表した描写やよ。八歳ってのは昔の数え年でのことやか
ら、現代やと六歳くらいなんやろね」
「なんで、あの子が……『平家物語』の中に……?」
「私は読み聞かせのボランティア、ってのは言うたわよね?」
鞆は黙ってうなずいただけだったが、白杖の女性はそんな鞆の動作を正確に察したようだった。
「教えてあげましょうか? 私がどうして今日ここにいるのか、どうして『耳なし芳一』の話を聞かせてあ
げたのか、ここにいたという男の子とそっくりな子が、どうして『平家物語』の中に出てくるのか――」
落ち着きはらった女性の声は、少年の正体を確実に突き止めていることを示していた。
「さっきの、続きを……聞かせてくれませんか……」
かすれた声で鞆はそう言った。
ぽっかりと黒い口を開けた、絶対に足を踏み入れてはならない深い穴。そんな穴の入口に立たされたよう
な、どうにも形容しがたい感情が鞆の心を浸していく。
女性は悟ったようにうなずくと、
「鬼神も涙を流す」とまで言われる『平家物語』のクライマックスを、敢
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平城
第六章 白い杖と少年の涙
えて何の感情も含めない調子で鞆に語り聞かせたのであった。
われ
ぐ
そもそも尼ぜ、我をばいづちへ具して行かむとするぞ。
――ねえ、おばあちゃん。ぼくをこれからどこへ連れていくの?
極楽浄土とてめでたき都のさぶらふ。それへ具し参らせさぶらふぞ。
――極楽浄土という楽しいところがあるのよ。そこへ連れてってあげるわね。
なみ
たてまつ
ちひろ
「浪の下にも都のさぶらふぞ」と慰め 奉 って、千尋の底にぞ沈み給ふ。
千尋の、底に――。
浪の下の、都――。
「私は見たことがないけれど」
若い女性は空を仰ぐように顔を上に向けた。
「この神社、素敵な造りなんやってね」
「ええ、まあ……そうです」
「龍宮造りって言うんやってね。日本の神社でも、ここ赤間神宮しかないみたいやよ」
「龍宮……城……」
おばあちゃんが教えてくれたんだ。
時が過ぎるのも忘れるほど楽しいところだって。
だから、ぼくは――。
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平城
第七章 水に映れ
第七章 水に映れ
大輔たち三人が芳一堂の前に戻ってきた時には、阪神のメガホンと広島の帽子を持ったまま魂が抜けたよ
うに茫然と立ち尽くす鞆の姿だけがあった。
大輔に呼びかけられた鞆は救いを求めるように、感情の壊れてしまったその顔を三人に向けた。
「あかん、見つからんかった」
大輔は小さく首を振った。「そんなに広い神社でもないねんけどな」
「アタシの……アタシのせいや……」
血色を失った鞆の唇から、うわ言のような言葉が洩れ出した。
「……そうかもしれへんな」
新作は咎めるように言ったものの、鞆の様子がただごとではないのに感づいてそれ以上の追及はしなかっ
た。
鞆はふらふらと本殿のほうへ歩き出していた。
「アタシが……アタシが、捜してこなあかんのや……」
「そうやよ! 鞆ちゃんも私と一緒にあの子を捜したらええんよ!」
励ますような美星の言葉に、しかし鞆は絶望的な表情を浮かべて激しく首を振った。
「誰が捜しても……あの子は見つからへん……。アタシが……アタシが捜さんと……」
「そやけど、早よせんとそろそろ帰る時間やぞ」
「吉田……悪いけど、三人で先に帰っといて……」
「鞆っ、おまえ、まだそんなことを――」
「頼むわ、大輔」
三人に向かって鞆はうなだれるように頭を下げた。
「アタシが、責任もって捜すから……絶対に、捜してくるから……。お願いしますっ!」
さらに、帽子の阪神のマークが見えなくなるほどに深く頭を下げた。
「……新作、行くぞ。鞆がそない言うとう」
「でも、中村くん……」
「鞆はアホやけど、嘘はつかへんからな。信用したったらええ」
大輔は美星の不安を弾き飛ばすように背中を叩き、大きな手で新作の襟首をがっしりと捕まえてから石段
へと向かった。
「新作、俺らはどこへ行ったらええんや?」
「離せっ、大輔! 引っ張るな! 駅や、新幹線の駅へ行くんや!」
「ほな、新作が案内せえや。さっきみたいに適当に歩いとったら承知せんからな!」
◇
神社の前に停車したバスに三人が乗り込むのを見届けた鞆は踵を返し、本殿から少し離れたところにある
石段へと目を向けた。
あ みだじ のみささ ぎ
安徳天皇阿弥陀寺陵。
安徳帝を祀った陵墓が赤間神宮の敷地の中にあることを、鞆は先の女性から聞いていた。
だから、あの子はここにいる。
いなければ、あの子はもう千尋の海の底に――。
石段を仰ぎ見れば、禅寺のように質素な瓦葺きの門があった。
その門の影に隠れるようにして、女の子に見える小さな子供が膝に頭をうずめて座っていた。
鞆が石段を上り詰めたところで、その子供は涙の乾いた白い顔を静かに上げた。長い黒髪の先が冷たい石
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平城
第七章 水に映れ
段に音もなく触れた。
「やっぱり、ここにおったんやね」
鞆は少年の頭に赤い帽子をかぶせながら、何もかも納得したようにそう言った。
「ごめんね。お姉ちゃんが全部悪かったわ。堪忍してね」
少年はつぶらな瞳で鞆の顔をじっと見つめると、ようやくその小さな口を開いた。
「ぼく、怨霊に見える?」
「ううん、見えへんよ」
首を振ってそう言った途端に胸の奥から苦いものが込み上げてきて、鞆は次の言葉を口にする前にそれを
飲み下さなければならなかった。
「あんたみたいに可愛らしい子が、怨霊に見えるわけがないやんか」
よかった。そう言って少年は笑顔を輝かせた。
その屈託のない表情が鞆の心を真っ直ぐに貫いた。
「ぼく、もうすぐ帰らなくちゃ」
「帰るって……あそこに?」
「うん」
石段の上から遠くを見ながら、少年は答えた。
国道と駐車場の向こうには、夕陽を浴びて火のように染まった瀬戸内の海が横たわっていた。
「お姉ちゃん、行こう。いいものを見せてあげるよ」
少年はそう言って石段を降り始めた。鞆も黙って後に続いた。
石段を一段ずつ降りるごとに、少年の長い黒髪がゆらゆらと揺れ動く。
これから少年がどこへ行こうとしているのか、鞆はまだ知らなかった。
けれど、この子と一緒なら千尋の海の底でも構わない。そう思った。
少年は横断歩道の端に立って車の流れが途切れるのを待っていた。
だが、黄昏時を急ぐ自動車はいずれもまったく速度を緩めようとはしなかった。
まるで、そこに少年が立っているのを気にも留めていないかのように。
そう、もっと早く気づくべきだった。
宮島に向かう船の上で、そこにいなかったはずの少年の姿を見かけた時に。
神社でも食堂でも、帰りの船でも駅の改札でも、自分たちの他には誰一人として少年に注意を払う者など
いなかったことに。
そうとわかっていれば、もっといっぱい遊んであげられたのに――。
阪神のメガホンを高く振りかざし、鞆は横断歩道に飛び出した。
薄闇が迫る国道を軽快に飛ばしていた自動車が軽いブレーキ音とともに停止した。
それから鞆は「行こう」と小声で促して、運転手が苛立つほどのゆっくりとした足取りで横断歩道を渡っ
た。
◇
海に面した駐車場には、車は一台も停まっていなかった。
少年は肩越しに振り返り、赤間神宮と阿弥陀寺陵を正面に見ながら言った。
「ここ、格好いいでしょ」
鞆は無言でうなずく。
「水の中からはお城みたいに見えるんだよ。おばあちゃんが教えてくれたんだ」
「水の、中から……」
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平城
第七章 水に映れ
にいのあま
壇の浦の戦いにて平家の運命もこれまでと悟った二位尼は、まだ幼い孫の安徳帝をその胸に抱き、ともに
海中へと没した。
一一八五年四月二十五日、今から八百年以上も昔の、まさにこの日の出来事だった。
浪の下にも都のさぶらふぞ。
珍しい龍宮造りの建造物は、海に消えた幼帝を慰めるため後世の人々が建てたものだと鞆は先の女性から
聞かされていた。
だから、この赤間神宮は人間社会の営みを無視して海のすぐ近くに、しかも本殿や門がすべて海を向くよ
うに造られている。
美しい龍宮城がくっきりと水面に映るようにとの願いをこめて。
「だけど、昼間に見た神社だって良かったよね。あれはおじいちゃんが造ったんだ」
「おじいちゃんって、もしかして……平清盛?」
「うん。水に映るところがとっても綺麗なんだ。さすがはおじいちゃんだよね」
水に映る景色の美しさなんて今日まで考えたこともなかった。
けれど、水の中から、千尋の底から外の世界を見つめる少年が、確かにここにいる。
「この帽子、ぼくが外に遊びに行く前におばあちゃんがくれたんだ。赤は平家の旗の色だから大事にするの
よ、って」
「……優しいんやね、おばあちゃんは」
微笑を震わせて鞆が言うと少年はにっこりと笑い、それからきまり悪そうな表情で鞆に尋ねた。
「お姉ちゃんの白い服は……源氏の色じゃないの?」
「えっ?」
「ぼく、源氏は嫌いだ」
「源氏が……嫌い?」
「源氏の大将が来たから、町を燃やしてしまったんだ。おじいちゃんが造った綺麗な町だったのに……」
ふくはらきょう
福 原 京。
日本を海洋国家にすることを目指して平清盛が兵庫の地に築いた、新しい都。
木曾義仲との戦いによって福原京は焦土と化し、現在では遺構すら残ってはいない。
郷土の歴史を習った時にそんなことを聞いたような気がする。
鞆は白いハッピに目を落とす。平家の赤旗に、源氏の白旗。
そうやったんか。だから、この子は――。
「ううん、源氏やないよ」
鞆はそう答えた。
敵と味方を識別するための服であることには、今も昔も変わりはない。
けれど、野球は殺し合うための戦いではない。だから、これは平和な戦いの服だ――。
「それじゃ、源氏はどこにいるの?」
「源氏はもうおらんのやよ。日本には、怖いお侍さんはもう……おらんのやよ」
そうなんだ、と少年は朗らかに笑った。
沈みゆく夕陽が少年を背後から照らしていた。
にじむ涙と逆光のせいか、鞆の目に映る少年の輪郭が次第にぼやけてきた。
「もう敵も味方もないんだね。お姉ちゃん、仲直りしようよ」
燃えるように赤く染まった夕景の中で、少年が帽子を差し出してきた。
鞆は阪神の帽子を脱ぎ、前かがみになって少年の前に頭を下げた。
真っ赤な広島カープの帽子を、少年は鞆の頭にそっとかぶせてくれた。阪神以外の球団の帽子をかぶった
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第七章 水に映れ
ことは一度もなかったけれど、ちっとも嫌な感じはしなかった。
「お姉ちゃんのその帽子、ぼくにちょうだい」
鞆がかぶせてあげた帽子は少年の頭には大きすぎて、少年の顔を黒い目のあたりまですっぽりと覆い隠し
てしまった。
「お姉ちゃん、どうかな? 似合う?」
「…………うん」
「ぼく、お姉ちゃんを好きになれてよかった」
鞆は少年を引き寄せ、胸の中にしっかりと抱きしめた。
涙があふれ出してきて、もう止まらなかった。
声を殺して泣きながら、少年の頭を、頰を、小さな背中を撫でつづけた。
「この帽子、大事にするよ。ありがとう、お姉ちゃん――」
それが少年の最後の言葉だった。鞆の腕の中から少年がゆっくりと消えるように抜けていった。
暗くなりかけた空の下、目を泣き腫らした鞆があたりを見回した頃には、少年の姿はどこにも見えなくな
っていた。
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エピローグ
エピローグ
新幹線の車内で、三人は鞆の話に静かに耳を傾けていた。
鞆が涙を浮かべながらうつむきがちに話している間、美星は鞆と肩を寄せ合ったまま顔にハンカチを押し
当てて泣いていた。
新作は時折り眼鏡を外し、細い目でずっと天井を見上げたまま動かなかった。
大輔は腕が震えるほどの力で膝頭を摑み、口を固く引き結んでは心の中で何かと闘っているようだった。
広島到着の車内放送が流れた頃に新作の携帯電話が鳴り、新作は席を外してデッキへと向かった。戻って
くると新作は立ったまま言った。
「時ばぁ、これから平和記念公園の駐車場を出るらしいわ。迎えに行くから駅で待っとけ、やて」
最後のトンネルを抜けると広島の街が新幹線の車窓いっぱいに広がった。ネオンの灯が太田川の川面に映
ってきらきらと輝いていた。
「平和って、ええなあ」
ぽつり、大輔がそうつぶやいた。
ステーションワゴンの車内で四人から聞いた話を時ばぁは疑うことすらしなかった。
さりとて話のすべてを信じていたわけでもなく、ただ「いい体験をしたんやねえ」と月並みな感想を述べ
ただけだった。
「それで、修学旅行のプランは作れそう?」
「任しといてください、誰にも絶対に負けんヤツを作ります。反対する奴は僕が全員説得してみせます」
低い、はっきりした声で新作が言い切った。その態度にはいささかの自信の揺らぎも見られなかった。
「吉田くん、ホンマに?」と美星が嬉しそうな声で、
「がんばってね。私、吉田くんを応援しとうから」
「あ……ありがとう、後藤さん」新作はくすぐったそうに鼻頭に触れ、
「そやけど、その前に平安時代の勉強
もしとかんとなあ」
「そうやよ、吉田くん。幕末以外にも面白い歴史はあるんやからね」
後ろの座席に仲良く並んでそんなことをしゃべり合う二人の様子を、目を細めて鞆は見つめる。
親友をついに男子に取られた。しかも、こんな歴史マニアみたいな奴に。
でも、それでいい。生きているうちに人生をどんどん楽しまなければ。
「先生、俺も勉強して覚えることにしたんですよ」
助手席で広島風お好み焼きをぱくつきながら大輔が言った。フルーティーなソースの匂いが車内に広がっ
ていく。
「覚えるって、何を?」
「そら『平家物語』に決まっとう。語呂合わせばっかり覚えたかて芸がないからな」
「へーっ! 大輔、そんな難しいの覚えられるん?」
「中村くん、『平家物語』って結構長いんやよ?」
「目の見えへん人が一生懸命勉強しとったんやぞ。俺かてやればできるわい。修学旅行で壇の浦の話をクラ
スの連中に聞かせたるんや」
「あははっ! ボウズ頭の大輔にぴったりやわ!」
からかってはみたものの、そんな大輔を偉いと鞆は正直に思う。
とてもじゃないけど、自分には壇の浦の話なんてできない。あの少年のあどけない顔を思い出して、きっ
と泣いてしまうだろうから。
鞆は頭の帽子を取ってみた。
Cの一字が力強く刺繡された、真っ赤な帽子。顔を寄せたらほのかに潮の香りがした。
もう一度、あの少年に会いたい。
少年に会えるなら、アタシは何度だってこの帽子を――。
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「アタシ、広島カープを応援しようかなあ」
お好み焼きを頰張る大輔が急にむせた後で、助手席からわざわざ首を伸ばして鞆に叫ぶ。
「おまえ、正気か? 鞆から阪神タイガースを取ったら後には何も残らへんのやぞ!」
「そ、そんなこと……ないもん……」
小声で抗弁するが、さすがに自分でも無理があるかもしれないと思う。
「そやけど、帽子がなかったら阪神の応援にも行かれへんし……。そうや! 野球部の応援に行ったらええ
んや!」
「野球部って……ウチの中学のか?」
「他に応援する野球部があるか? 決まっとうやん!」
鞆は当然のごとく言ってのける。
「そして大輔を応援するねん。ねえ、今度の野球部の試合はいつなん? アタシ、大輔の分までお弁当作っ
て持ってったるで!」
「やめてくれ! 俺が野球部の連中に冷やかされる!」
冷やかされて恥ずかしがるってことは、脈がないわけじゃないんだ。
応援というものは、応援対象の力が足りない時にこそ真価を発揮する。
だから、しっかり応援しなくちゃ。大輔と、大輔を応援する自分自身を。
フロントガラスに「岡山県」という文字が映り、あっという間に後方へ流れていった。
隣の県まで戻ってはきたけれど、まだまだ家路は長い。
今年のうちに、また広島に来ることがあるだろうか。
新作は強気なことを言ってはいたが、それでも東京プランに負けるかもしれない。
その時は、また仲間だけで広島に来てみたいな――。
「ねえ、先生」と鞆は切り出した。
「先生が定年で学校をやめたら、ウチらと一緒に旅行に行かへん?」
「旅行って、広島にか?」と大輔が尋ねる。
「もちろん! 大輔も一緒に行くんやで」
そう言って鞆は広島の帽子をかぶり直す。
今度は祖母が過ごしたという港町にも行ってみたい。
祖母のような先生と一緒に旅行をして、孫のように甘えてみたい。
「ね、先生。約束やからね!」
「いいけど、誰かが車の免許を取ってからやねえ」
時ばぁがそう言ったら、ステーションワゴンには賑やかな笑い声があふれたのだった。
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エピローグ2 - invisible -
エピローグ2 - invisible -
二〇一〇年四月二十五日、午後七時四十分。山口県下関市阿弥陀寺町。
赤間神宮前バス停留所にて、一人の女がバスを待っていた。
既に日は落ちて、春の夜風が肌を刺す。
八百二十五年前のこの日に平家一門を呑み込んだ、暗く無情な海が駐車場の向こうに広がっている。
国道を走り過ぎる自動車の音に混じって、さらさらと波の音が聞こえてくる。
ねえ、と裾を引かれて女は振り返った。足元には、まだ幼い子供の姿があった。
女は口元を緩め、佇む子供に顔を向けた。けれども、眩いばかりに輝くその子の顔も、腰まで垂れたその
髪も、黒いサングラスに覆われた女の目に映ることはない。
自分と同じように長い黒髪を持つ女に、その子はこう問いかけた。
「お姉ちゃん、待った?」
「ううん、全然」
その返事を聞くと阪神タイガースの帽子を目深にかぶった少女はにっこりと笑い、白い杖を持った女の細
い手をぎゅっと握りしめた。
「お姉ちゃん、バスに乗って一緒に帰ろ」
「そうね、ボク」
「もうっ! お姉ちゃん、からかわないでよっ!」
ボクと呼ばれた少女がすべらかな頰をぷくっとふくらませると、姉はその表情が見えているかのようにく
すっと笑ったのだった。
程なく到着したバスに姉妹は乗り込み、仲良く並んで腰を下ろした。
しばらくしてから、
「今日は大変だったんじゃない?」
「ううん、全然! とっても楽しかったわ」
「見えないふりをする演技って、ちゃんとできたの?」
「うん。桟橋でも駅でも何も言われなかったわよ。危なかったのは食堂でお兄ちゃんに留守番を頼まれた時
かな。その時は食堂のおばさんにお願いしちゃった。わたしがに気付かないふりをしてくださいって」
「中学生のお兄ちゃんとお姉ちゃんは怖くなかった?」
「みんな、とっても優しくしてくれたわよ。あっ、怖いお姉ちゃんが一人いたけれど」
話し途中で駐車場での場面を思い出したらしい少女はとびっきりの笑顔になって、
「でも、最後にはちゃんと仲良くなれたのよ。ほらっ!」
妹が差し出した帽子に姉は手を触れてみる。
宮島口の桟橋で妹に手渡した帽子と比べて一回りほど大きい。それに額の刺繡の形も違う。
「阪神ファンのお姉ちゃん、帽子を交換してからずーっと泣いてたのよ。わたしが離れた時にも全然気づか
なかったくらいなの」
「演技がそれだけ真に迫ってたのね。その子、あなたが本当に海の底に帰ったと信じているかもしれないわ
よ」
「まさか! あるわけないのに、中学生になってそんなこともわからないのかしら」
「もちろん、よくわかっているはずよ」
そう、この世界では非現実的なことなど起こるはずがない。
年の割には驚くほど冷めた価値観を持つ彼ら自身がそのことを一番良く知っている。
それなのに――いや、だからこそ彼らは夢と魔法のファンタジーに憧れ、起こるはずのないことが起これ
ばいいと期待しながら、暗く無情な現実を生きている。
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それから姉妹はしばらく静かに座っていたが、やがて妹が申し訳なさそうに口を開いた。
「わたしたち、悪いことをしちゃったのかなあ」
「どうして?」
「だって嘘をついちゃったんだもの。わたしは女の子じゃないって。それに、おばあちゃんとかおじいちゃ
んの話だって……」
「それが演技というものよ」と姉は諭すように言って、さらに続ける。
「あなたが安徳帝だったとしたら、あなたの言ったことは何一つ間違ってはいないわよね。本物になりきっ
たら本物らしく振る舞うのは当然よ。そういうのを嘘とは言わないわ」
「うん……わかった、お姉ちゃん。でも」
「ん?」
「どうしてこんなことをするの?」
◇
純真な妹にそう尋ねられてから、姉が答えるまでには若干の間があった。
「それは――あの男の子が好きだから、かな」
あの震災で光を失ってから、人生の目的を見つけられなかった自分が初めて『平家物語』に触れた時のこ
とを思い出す。
いくら言葉を尽くしてもあの感動は決して他人には伝えられないと、今でもそう思う。
平氏の栄華と没落を描いた、史実に基づく人間ドラマ。
一言で説明すればそうなるのだろうが、その魅力はもちろん一言で表せるはずもない。
『平家物語』は、何百年も昔の人物が今すぐ目の前に現れても不思議ではない生々しい迫力をもって描かれ
ていた。さらに、琵琶法師なるストーリーテラーの手によって物語が刻々と形を変えながらその価値を高め
ていったことも知った。
物語の裏側には現実がある。
『平家物語』で取り上げられている悲劇も、多くは現実にあった出来事に基づ
くものだ。
だからこそ、春の海に消えた安徳帝の物語に、自分はこれほど胸をうたれたのだ。
幼かった少年の運命に深く同情し、それを美しい物語に乗せて八百年もの長きにわたって語り継いでいく
優しい心を日本人は持っている。
命のはかなさや世の中の無常さを後世に伝える術を日本人は知っている。
それらを何とかして次の世代に、できれば自分の言葉で伝えていきたい。
心の底から――自分はそう思ったのだ。
宮島口の桟橋で神戸の中学生グループの声を耳にした時点で今日の成功を確信した。
妹の長い髪を赤い野球帽の中に隠し、練習どおり白い服の人に話しかけるようにと指示を出してから桟橋
を離れた。
みたま
聡明な妹は少年の御霊の役を演じきって、必ずや彼らを赤間神宮まで連れてくるだろう。後は自分が語り
部の使命を果たせばいいだけだった。
私は、彼らを騙したのだろうか。
私のしたことは、間違っていたのだろうか。
二十一世紀の琵琶法師にしては過ぎた悪戯だったかもしれない。
読み聞かせの範疇もかなり逸脱したように思う。
それでも彼らの心に何かを刻みつけられたなら、彼らを勇気づけることができたなら、それは十分に価値
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があったことだと思うのだけれど――。
「なんだかよくわからないけど」と妹が言った。
「お姉ちゃんが喜んでくれたのなら、それでいいわ。わたし、あの男の子もお姉ちゃんも、どっちも大好き
だから」
「――ありがとう」
姉が笑って、小さな妹の肩を優しく抱き寄せた。
二人はそれっきり何も言わず、肩を寄せ合ったままゆらゆらとバスに揺られていった。
《了》
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