独島の真実‐4 ‐于山島と三峰島‐ 世宗大学独島総合研究所編 1.『高麗史地理志』(1451) * 韓国の古文書の中で、初めて独島の意味で「于山島」の名称が使われたのが、 『高麗史地理志』である。『高麗史地理志』は端宗時代に編纂され、鬱陵島と于山 島を「二つの島」と記録した。原文は次の通りである。 鬱陵島がある。県の正東の海の中にある。新羅時代には于山国と呼び、武陵または 羽陵とも言った。地方は100里である。(中略)また言うには于山と武陵は本来二つ の島で、互いに距離が遠くなく風が吹いて天気が晴れなら、眺めることができると いう。(有鬱陵島在縣正東海中新羅時稱于山國一云武陵一云羽陵地方百里(中略)一 云于山武陵本二島相距不遠風日淸明則可望見) 『高麗史』、巻58、地理志12、地理、冬季、蔚珍県(1451) 『高麗史』、巻58、地理志12、地理、冬季、蔚珍県(1451) 2.『世宗実録地理志』(1454) *『世宗実録地理志』は1454年に端宗によって『高麗史』の次に編集された。于 山国に対する記述は『高麗史』より明らかになった。それは世宗時代の鬱陵島、独 島周辺の捜索で得た情報が加味されたためと理解される。原文は次の通りである。 于山と武陵、二つの島は県の正東の海の中にある。二つの島は互いに離れていない ので、天気が晴れるならまさに眺めることができる。新羅時代に于山国、または鬱 陵島とも言ったが、地方は100里である。(于山武陵二島在縣正東海中二島相去不遠 風日淸明則可望見新羅時稱于山國一云鬱陵島地方百里) 『世宗実録』、巻153、地理志、江原道、三陟都護府、蔚珍県(1454) 『世宗実録』、巻153、地理志、江原道、三陟都護府、蔚珍県(1454) 朝鮮時代に鬱陵島を「武陵島と于山島」と称したというのは、鬱陵島が于山国と 同じ概念であったという意味である。そして「地方は100里」というのは、武陵島 に関する発言である。于山島(=独島)は面積が非常に小さいために、武陵島の面積 で鬱陵島全体の面積を示したと言える。 この『世宗実録地理志』の記述は、太宗と世宗による鬱陵島捜索によって得た二 島に対する知見を集大成した文章である。実際に現在も于山(=独島)と武陵(=鬱陵 島)の二島は互いに距離が遠くないので、天気が晴れなら眺めることができるので ある。 3.三峰島捜索作業 成宗元年(1470年)に永安道(=朝鮮時代に咸鏡道を指した名称の一つ)から、「三 峰島」に賦役を避けて逃げた人々がいるという情報が王朝に入ってきた。成宗は、 翌年1471年に武陵島(=鬱陵島)に逃げた人々を再び陸地に連れ戻し、三峰島とは鬱 陵島ではなく新しい島であると確信するようになった。 当時、武陵島(=鬱陵島)への海路は常に開かれており、海に出れば武陵島と別の 島を簡単に区別することができた。それで成宗は三峰島が新しい島だと信じ、本格 的に捜索しようと心を決めた。 1472年3月、成宗が朴宗元を「三峰島敬差官」に任命した。そして1472年5月、朴 宗元ら一行は4隻の船で三峰島捜索を開始したが、島を見つけることができずに帰 還した。 3年後の1475年5月、金漢京と鏡城(=現在の咸鏡北道鏡城郡にある邑)の人々が海 で三峰島を見たと朝廷に報告した。さらに1475年6月、永興(=咸鏡南道永興郡にあ る邑)の住民金自周が、三峰島の近くまで行ったら30人余りの朝鮮人たちが白い服 を着て島の入口に立っている姿を見たという報告をした。 こうした報告により1479年閏月10月、朝廷は三峰島に入居を希望する人々など30 人余りを3隻の船に乗せて、第2次三峰島捜索を許可した。この捜索には、初めて直 接に三峰島を見たと報告した金漢京も参加した。そして3ヵ月後、彼らは三峰島か ら戻ってきて報告した。 しかし金漢京らの供述がおかしいと判断した永安道観察使李克墩が、1481年1月 成宗に金漢京らの報告は虚偽であると報告するに至った。永安道観察使は、金漢京 らを調査した結果、彼らの言葉は辻褄が合わないと報告したのだった。これにより 金漢京らについて調査が続行され、結局三峰島の話はすべて虚偽と判明した。 1482年2月、金漢京は極刑に処され、彼の娘は奴婢となり、三峰島捜索13年の歳 月は終わりを告げた。三峰島捜索中、数回にわたって鬱陵島への官吏派遣が別途に 行われた。それは朝鮮朝廷が鬱陵島と三峰島を区別していたという証拠である。 三峰島とは独島であるという説があるが、『成宗実録』を読めばそういう解釈が 誤りであるということが分かる。鬱陵島自体も、見る角度によって三峰のある島に 見えるのである。 独島も角度によって三峰に見える
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