講演会レジメ

海外(インドネシア)滞在経験と、国際交流
1971 年 11 月、夫の仕事の関係で初めてインドネシアに約 2 年半滞在をしたのをきっかけに、
その後 2000 年に夫が会社を辞めるまで 4 回にわたり、約 11 年をインドネシアで暮らしま
した。たまたま最後の仕事がインドネシアであったことが我々老後の生き方に大きな影響
を与えることになり、縁あって東ジャワのバトウ―市に家を購入する機会を得て、2001 年 3
月より住み始め現在に至っております。
第 1 回目(1971 年より約 2 年)東ジャワマラン市カランカテス
(1973 年より半年)東ジャワモジョクルト市
日本政府による戦後賠償の為実施された、東ジャワのブランタス河流域開発の一環として
カランカテスダム建設のコンサルタントで駐在した夫に伴っていったことが私の海外生活
のはじまりでした。当時私は 第 2 子を妊娠中でしたので半年後に子供が生まれるまで行
動に制限があり、それが私にとって今思うと大変ラッキーだったように思います。という
のはその間にインドネシア語を集中的に勉強することが出来たからです。
当時のマランにいる外国人は殆どがこのブランタス・プロジェクトに関係する日本人ばか
りでした。途中、モジョクルトというスラバヤから 1 時間ほどのところにある、昔モジョ
パヒット王国があったという、古い町の中に河川ダム関係の仕事の為引越しを致しました
が、この時代の交友関係は共通しており、それにはだいたい二つに分けられます。一つは
夫の仕事関係であるインドネシア政府の人々、もうひとつはゴルフを中心の友人関係です。
今思いますと昔はよき時代だったのか、毎週のようにパーティーがあり華やかな時代でし
た。どちらにしてもそのインドネシア語がその後の我々の人生にどれほど影響を与えたこ
とか、はかりしれません。その頃の友人は今でも私たちの宝物です。
第 2 回目(1975 年より 1 年間)東ジャワマラン市カランカテス
カランカテスダムのすぐ隣にラホールダムが建設され、1 年おいて再度同じ場所で暮らすこ
とになりました。このときはブランタス所長(インドネシア政府)の奥様が WIC(Women’s
International Club)の会長だった関係で、Japanese Morning という、日本文化を紹介する
というイベントがあり、七夕飾りの下でお茶席を設けたり、いけばなの展示をしたり、浴
衣を 20 枚揃え盆踊りを現地の方と一緒に踊ったり、日本の歌を一緒に歌ったりと、又その
後も折り紙を教えることになったり、滞在期間は短くとも大変忙しく充実した 1 年間でし
た。
第 3 回目(1980 年より 3 年間)スマトラ島アサハン県,パリトハン
アサハンプロジェクトは日本円にして当時 4500 億円という、三つのダムとそのダムからで
きる電気を利用してアルミニウム精錬工場を作り、日本に輸出するという巨大プロジェク
トで、日本人だけでも各企業合わせて約 500 人以上が携わり、夫もコンサルタントとして
長期滞在することになり、3 年間家族揃って滞在いたしました。このときは学齢期だった二
人の娘達の教育のこともあり、何よりもスマトラ島の玄関口であるメダンから車で 6 時間
という、ジャングルを切り開いた土地に忽然と出来た日本人村のようなところに住んでい
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た為、我々日本人及びオーナーであるインドネシア政府のかたがたのみの交流となりまし
た。
しかし、こんなにも長く家族 4 人が揃って暮らせたというのは、後にも先にもこのときだ
けでしたので、平日は子供達の勉強を中心に、休日はゴルフや蝶々採集などをして、我々
家族にとっては本当に貴重な 3 年間でもありました。昨年 10 月その当時滞在した各企業の
かたがた、約 60 名とバス 2 台で 20 数年ぶりに当地を訪ね、センチメンタル・ジャーニーを
してまいりました。私どもも娘達を招待して当時をなつかしくしのびました。今考えて見
ますと、学校も無いところでしたので特に教育面で大変ではありましたが、山奥のパリト
ハンで暮らしたことは良くも悪くも忘れられない思いで一杯の土地となりました。
第 4 回目(1997 年より 4 年間)東ジャワ・トロンアグン市
ブランタス開発の最後のダム、ウォノレジョダム建設のため、4 年間、スラバヤより 3 時間
半のトロンアグン市(人口 50 万人)に滞在いたしました。娘たちも夫々独立した後で、こ
のときは夫と二人暮しとなりました。
1 回から 3 回目と違って宿舎ではなく、町の中の 1 軒家で暮らしました。又昔と違ってイン
ドネシア政府も経済引き締めの為か、以前のようにパーティーなども少なくなり、政府関
係の家族との付き合いもあまり無く、その代わりに現地の華僑の友人達との交流が多くな
り、インドネシアに暮らす華僑の実態を少なからず垣間見ることが出来ました。
1998 年 5 月におきたインドネシア経済危機およびルピア暴落ではインドネシア経済を握る
華僑の人々が迫害される姿を目の当たりにし、この先この国は一体どうなっていくのだろ
うと思いましたがスハルト政権が崩壊し、新大統領となり少しずつ華僑の功績が認められ
るようになり、たとえば華僑のお正月を公然と祝っても良いようになり、私も友人に招待
されその様子を身近に見ることが出来たときは、インドネシアのためにこのまま平和が続
き、わが友人達の為にもインドネシア人と中国人が平和に共存共栄するよう願わざるを得
ませんでした。
第 5 回目(2001 年より現在に至る)東ジャワ・バトウ−市
62 歳で夫が会社を辞め半年間日本で過ごしてから、私たちの老後を暮らす為再びインドネ
シアへ出発いたしました。今回は会社を離れて何もかもプライベートですので、自由では
あるけれど、ビザの件など今まで会社任せだったことを全て自分でしなければならず、改
めてこの国が賄賂の国であることを認識させられました。
しかし、バトウ―での暮らしは真に快適で、1 年中気温は平均 25,6 度。朝晩で 20 度前後。
高原野菜の産地ですので新鮮な野菜や果物が安くて豊富に手に入り、山の中腹に有る為景
色もよく、1 年中花が咲き乱れているので、庭に咲く花の絵をかくという新しい趣味も出来
ました。
昔と違ってマランでは企業や大学関係でたくさんの外国人が居住しており、私どもの住む
バトウ―でもかなりの外国人が住んでおります。ただ現在マランで働く日本人は殆どいませ
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ん。時折調査や出張などで来る方はおりますが長期滞在者は我々夫婦と他に留学生が 3,4
人いるようです。
勿論、ジャカルタやスラバヤ、バリなど都市や観光地には大使館や領事館、又各企業から
たくさんの日本人が駐在しており、夫々日本人会や日本人学校があり、いろいろな活動を
しているようです。
マランに住む外国人(アメリカ、オーストラリア、ドイツ、イギリス、ロシア、コスタリ
カ、スコットランド、スイス、マレーシアなど)がいろいろ情報交換をしたり、親睦をは
かる為に外国人の会があり、月に 1 度コーヒーモーニング(女性が多い)といって各自持
ち 回りで午前中お茶会をしたり、やはり月に一度プールサイド・チャット(老若男女)と
いって、夜プールのあるお宅に集まり、歓談をしております。
都会に住む日本人と違って地方に住むからこそかえって国際交流の場が多かったように思
います。遠く国を離れ異国にいるという環境が、お互いに助け合い親しい関係を築いたの
でしょう。又インドネシア人の奥様達との交流をはじめ、華僑の中国人とのお付き合いも
多くありますので結構忙しく退屈する暇は今のところなさそうです。
コミュニケーションの方法として、英語、又はインドネシア語を使うことになりますので、
自分自身のためにさび付いた脳に鞭打って、未だに英語に挑戦中の私ですが、インドネシ
アで得たたくさんの友人達は我々夫婦にとってかけがえのない財産と思っております。
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マラン市、バトゥ市について
マラン(Malang)は行政市であり、人口は76.6万人あり、マラン県では224.4万人の人口を擁し
東ジャワ州に属しています。州都スラバヤ市から車で南へ約2時間、熱帯に位置しながら、標高4
00mの高原地にあるため過しやすく、大都市の人々の避暑地、観光地となっています。
マラン市の西へ車で約40分に位置するバトゥ(Batu)市は、標高が700∼900mあり三方を300
0∼3600m級の火山に囲まれた盆地であり、温泉が湧き、沢山の花々やリンゴ、高原野菜の産
地として有名で、一年を通して朝晩は20度前後、日中は24−25度なので大変しのぎやすく、昔
から避暑地としてよく知られています。バトゥには乳牛牧場もあり、また山の中腹からの景観がす
ばらしく、インドネシアでは通称、「インドネシアのスイス」と云われています。
マラン市はブロモ山観光の基地にもなっています。ブロモ山は活火山であり、現在も周辺に住む
テンゲル(Tengger)人に崇められる聖なる山です。大きなクレーターの中には二つの山があり、ブ
ロモ山に降り注ぐような流星を眺め、日の出を拝むツアーは、まるで月世界にいるような気分にな
ります。
マラン市は学園都市としても有名で、市内には三つの国立大学のほか、いくつかの大規模な私立
大学、その他、雨後の筍のように増える私立大学や専門学校があります。
日本と異なり、インドネシアでは全国各所の教育レベルが一律でないため、初等、中等教育時か
ら、子供をマランの親戚に預けたり、下宿させたりするケースも少なくありません。ともかくマラン
は若者が多く活気溢れる街です。
今でこそインドネシアの国民の90%以上がイスラム教徒ですが、その昔は、仏教やヒンドゥ教の
王国が存在していました。マラン地域の王朝としては、8世紀頃、カンジュルハン(Kanjuruhan)と
いうヒンドゥ王朝があったことが確認されています。また日本の世界史教科書にも名前が出ている
「シンゴサリ(Singosari)王朝」(12世紀∼)の中心もこの辺りにありました。現在のインドネシアほど
の領地を有したモジョパヒット(Mojopahit)王朝(12世紀∼)も、東ジャワにありました。
現在でもヒンドゥ教や仏教のチャンディ(Chandi, 寺院)がマラン市近郊に幾つかあります。しかし
残念なことに、その多くは完全には保護されていません。オランダに持ち去られた彫像も多く、ま
た文化財修復や保存、研究のための国家予算が十分でないのが大きな原因と思われます。
マランはオランダの植民地時代(1603∼1942、その後1945年まで日本軍が占領)には、オラ
ンダ人の保養地として発展しました。そのため、現在でもヨーロッパ風の建築物が並ぶ一角も残っ
ています。マラン北部の広大な茶畑、南部の広大なさとうきび地帯などは、オランダ植民地時代
の農業プランテーション開発の名残です。
大纒
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