こちら - 早稲田大学社会科学部空間映像ゼミナール

Research&Project 2015
2015 / 2 / 10 - 14
個人と共同の実験場
ご来場ありがとうございます。
この展示は、37 名のゼミのメンバーが、ゼミナールの中でこの一年間に
やったことを一つの場に集めてお見せするものです。
ここには「個人がやった」ことと「みんなでやった」ことが含まれています。
「個人がやった」ものは、その人の考えや人となり、性格などが否応なく
現れています。ゼミという場が面白いのは、多様な個性が集まるからです。
それは展示内容の幅とバリエーションになって現れ出ているでしょう。
ただしバラバラになりすぎてもうまく伝わらない。2年の展示のように
制約を与えることで、個性が見えやすくなることもあります。
4年生の卒業 PJ はその対極です。自分で問題設定から最終成果物までを
コントロールしていくので、ほとんど制約がありません。論文(あるいは
論文のようなもの)、制作物と、その形態はさまざまです。
「みんなでやった」ものとしては、3年の築地 PJ です。教員が出したお
題「消滅してしまう築地市場について、記録として残せないか」に対して、
学生たちがチームで取り組んだものが展示されています。
と、ここまで「個人がやった」ことと「みんなでやった」ことを2つに
分けて書きましたが、実は簡単に区別することなどできません。
個人の作品も共同プロジェクトの作品でも、制作の過程は複雑で、多く
の場合「個人」なのか「共同」なのか、判然と区別はつけられません。も
う一歩踏み込むなら、
「個人がやって、みんなに託す」=2年生「毎日写真」
「個人でやって、みんなに相談する」=4年生・修士
「大テーマを個々で分解、分担し、再び合体する」=3年生「築地 PJ」
ということになりますし、広報用に作った集合写真は、
「個人が発案し、そこにみんなが乗ってさらに展開」させたものです。
価値観が多様になるほど、共同的な創造を行うことには手間をかける必
要が生じます。多様な価値を認め、あいまいなものがもつ可能性を許容し
た上で、共同的な創造行為のための方法論をどう組み立てるのか。これは
存外深いことなのです。このことに真正面から取り組んでいく空間映像研
究ゼミナールの実験はまだまだ続くのです。
ご来場のみなさまには、我々の試みに、忌憚ないご意見をいただけます
ようお願い申し上げます。
早稲田大学社会科学部教授
佐藤洋一
3
目次
はじめに「個人と共同の実験場」 ... P 03
- 2年「うち、カメラはじめ展」 ピンホールカメラ を / で 知る
... P 06
毎日写真を終えて。
... P 08
1 年の流れ
... P 10
- 3年「築地ってなに?」 築地ってなに?
... P 12
築地を歴史から見る。
... P 14
築地を “ いま ” と “ むかし ” から見る。 ... P 16
築地を映像から見る。
... P 18
築地を音から見る。
... P 20
築地を地図から見る。
... P 22
築地市場から豊洲新市場へ。
... P 24
1 年の流れ
... P 26
- 4年・修士「Like It」 4 年 卒業研究概要
... P 28
修士論文概要
... P 36
後記
... P 38
ピンホールカメラ を/で 知る。
2年生のゼミは「ピンホールカメラ」から始まった。
環境に合わせて光を取り込む時間を変えたり場所を選
ピンホールカメラを作り、撮影して、現像する。大き
んだりする。数分間にわたって光を取り込むため動く
くいえば三つに要約できる活動ではあるが、今まで深
被写体は撮りづらく、カメラが動くこともブレの原因
く考えてこなかったカメラについて基礎から学ぶ機会
となる。つまり風が強い時や長くとどまれない場所に
となった。
は不向きである。
ピンホールカメラとは、内側を真っ黒に塗って密閉
また一枚ずつしか撮れないことも大きな特徴であ
した箱に、ごく小さな針穴を開けたカメラである。そ
る。一度カメラに印画紙を入れると、光を避けなくて
の穴から集まった光を、反対の面の印画紙に像として
はいけないために暗室でしか開閉できなくなる。現像
映し出すことで撮影できる仕組みだ。しかしただ撮影
するまでどんな風に撮れたかがわからないのだ。しか
するだけではネガフィルムの状態であるため、さらに
しそんな不便さがワクワク感を生み、純粋に写真を撮
これを暗室で白黒反転させることでいわゆる「モノク
ることを楽しめた。次はどこに行こうか、あれは上手
ロ写真」になるのである。こういった手順は、普段デ
く撮れるだろうか、と真剣に、しかし楽しみながら写
ジタルカメラや携帯・スマートフォンを使う私たちに
真にむかうことができた。
とって想像できないものだった。
撮影しては現像し、また印画紙をカメラに入れ撮影
写真になるまで
デジタルカメラと違ってピンホールカメラは撮影環
境に多大な影響を受ける。その最たるものは光である。
に行く。思うようにいかないことも多々あったが、自
分の理想の写真が撮れるまで何度も工夫し足を運んだ
撮影は、たくさんの時間と失敗を重ねて良いものは生
まれる、ということを教えてくれた。
制作から撮影まで。
6
2 年 うち、カメラはじめ展。
現像はさらに未知の作業であった。暗室で三種類の
他の人が見たり他の写真と見比べたりしていくうち
薬品につけ、水洗することで紙に像が浮かび上がって
に、どんな写真も十分に魅力を持っていることに気が
くる。目前でだんだんとはっきりしてくる自分の写真
付く。テクニック的に上手いとか、ただただ美しいと
に感動するのは、何度繰り返しても変わらない。でき
いった写真が良い写真というわけではない。この「ピ
あがるのは白黒の写真だが、そこからは確かにあたた
ンホールカメラ」は、特に写真の「面白み」が表れる
かみや冷たさ、その場の空気などが伝わってくるのだ。
活動であった。
ピンホールカメラとは
展示する
ピンホールカメラは偶然が生む写真が撮れる。箱の
今回の展示会では、全てではないが撮影した写真と
素材から撮影環境、さらに光を当てる時間や現像作業
実際に使用したピンホールカメラを展示している。普
といったアナログゆえの不確定な条件がいくつも重
段目にしているカメラとは大きくかけ離れていて驚か
なって一枚の写真が出来上がる。撮影時には、カメラ
れるのではないだろうか。いつもは一瞬で切るシャッ
が倒れて途中から被写体が変わっていたり、計測時間
ターが、ピンホールカメラでは数分かかるのである。
を間違えて光を当てすぎたり、紙全体に光が届いてい
どんなことを考えながら過ごしていたのか、聞いてみ
なかったり…。しかしそのどれもが、見返してみると
るとおもしろいかもしれない。
味のある写真なのである。納得のいかない写真でも、
(編 山碕千浩)
撮影から現像まで。
7
毎日写真を終えて。
「毎日写真」では各自 300 枚の写真を持ち寄って並
の出来る「写真」に現像した。そうすることによって
べ、
写真集を作り上げた。この実習は主に「撮影」
「現像」
1枚1枚を机上に並べ、円滑に見比べることが出来る
「批評」
「編集」の 4 つの大きなプロセスで進められた。
ようになる。それは、写真を他の写真との関係のなか
で見つめ直すことを可能にし、これまで気づかなかっ
① 撮影
撮影の段階ではせっかくのカメラを部屋の置物にし
てしまわぬよう、外出先へ持ち出す習慣をつけた。場
た自分の視点が露わになる作業であった。
③ 批評
数を踏むことによって、人前でカメラを構えることに
現像された自身の 300 枚にものぼる写真はゼミ
怯えたり躊躇しないようになった。構図や露出にも気
ナールの教室ですべて広げられ、ゼミ生によって批評
を配りつつ、撮影の腕を磨いていった。
された。どんな瞬間にカメラを構えるのか、どんな角
私達のゼミナールの基本にある「写真を撮る」とい
度で撮ることが多いのか。普段撮っているだけでは気
う行為を習慣付けることによって、日常の何気ない風
づかない自分の些細な癖を指摘されるこの時間は、発
景を意識化する。そのようにして今後の活動の根幹と
見に富む非常に有意義なものであった。また逆に他
もなる感覚を着実に養っていった。
のゼミ生の 300 枚もの写真を鑑賞することによって、
② 現像
普段の会話や態度以上にその人の為人を感じ取ること
が出来ることもこの一連の活動の醍醐味だ。他のゼミ
次に、撮った 300 枚の写真を画面上の「データ」
生の写真にインスパイアされて自分自身の新しい方向
から実際に目の前に形をもって存在し、手に取ること
性を模索することも出来た。
8
2 年 うち、カメラはじめ展。
④ 編集
にする段階では、本作りを基礎から学び、余白や紙の
それらの写真を使って 1 冊 20 枚ほどの写真から構
質も考慮して写真の集合を作品に昇華することを目指
成される 、3 冊の写真集を組んだ。1 , 2 冊目はペア
した。
を作り、相方の写真を選んで編集した。最後の 3 冊目
は自分の写真を使って自分オリジナルの写真集を作っ
これら一連の活動を「毎日写真」として半年以上を
た。そしてそれらをまた全員で批評し、最終的に自分
かけて完成させた。そこでは写真を通して自己を見つ
の写真集を製本し、一冊の作品として完成させた。
め直し、写真を撮る姿勢やそれを鑑賞する目を養って
独立した1枚1枚の写真を組み合わせることによっ
きた。技術的な面だけでなく精神的な面をも学ぶこ
て写真は新しい意味を持ち、同じ写真でも最初に 300
とが出来た実習であったのではないだろうか。批評会
枚並べられたときの印象とは全く異なったものに見え
を重ねるごとに目に見える形で成長してきた個人が、
ることも多々ある。それこそが他者の写真で 写真集
来年度の活動で集団としてどのような成果を生み出す
を組むことの面白さでもあるだろう。他者の写真に自
ことになるのだろうか。それも楽しみではあるが 今
分なりの意味づけをして写真の見方を学んでいくこと
回の展示ではそのように創作的な活動を続けてきた私
は、それは自分自身の写真に対する態度をも追求する
達の集大成を、この 1 年間の原点でありゴールで あ
ことに繋がった。そして自分の写真を製本して写真集
る「写真集」というかたちで表現する。
(編 高橋美生)
9
2年生の一年間 4月
は3学年合同授業
3 月 春合宿にて映像ワークショップ
新年度の抱負を語る
4年生企画のワークショップ
今年度から3学年合同での授業を始めました。
なかでも目玉は4年生が企画するワークショップ
(以下 WS)です。「最も効率のよい学びは教える
5月
こと!」と豪語する佐藤により、4年がワーク
ピンホール
カメラ実習
ショップ企画を提出しました。様々な企画が出さ
れた中で今年度は三つのワークショップを実現で
きました。
鬼ごっこワークショップ
合同町歩き
公園で 3 チームに分かれて鬼ごっこをしました。
捕まると監獄エリアに。あらかじめ決めた VIP 役
が捕まるとボーナスポイント。与えられた写真と
同じ場所を探して撮影すると、収監者を一人解放
編集1巡目
7月
毎日写真
2コマ連続で第一回 4 年生企画合同 WS。戸山
テーマは体力と駆引き。ルールがひねられており、
写真講評
6月
鬼ごっこワークショップ (5/20)
できる、など。鬼ごっこというより、公園内の隠
れ場所探し WS の態でありました。確かに「隠れ
場所」「見晴らし」に対する動物的な感覚が鋭く
絵本づくりワークショップ
なりました。各自にふられたポイント加算で勝負
を決めます。場所を変えて 30 分間の試合を二回
行いました。
9月
夏合宿にて映像ワークショップ
夏合宿の反省、後期の目標
編集2巡目
10 月
11 月
絵本づくりワークショップ(7/22)
11 個の抽象的なお題から 11 人がリレー方式で絵
を描きためて、最後の絵にコトバをつけて 11 見
開き 22 ページの絵本をつくるというものでした。
広報用ポートレート撮影会
編集3巡目
写真展準備
が優秀賞に選ばれました。教室で黙々と絵を描く
時間は美しい瞬間でした。
演劇ワークショップ (12/16)
2014 年の最後のゼミは、演出家で佐藤の友人
展示プラン検討会
演劇ワークショップ
1月
ショップ。11 人×3チームで、次々に出される
最終作品の中から「世界にひとつだけの宇宙船」
毎日写真
12 月
4年生主催の3学年合同「絵本づくり」ワーク
である小林七緒さんを招いて小野記念講堂で演劇
WS。各自が名乗る名前を呼び合う<名前ゲーム
>、<歩くゲーム>でならし運転をしたあと、5
つの組を作りました。そこからは<一本橋><歩
きにくい場所>のパントマイム。最後は<無人島
のエチュード>です。ある理由があって無人島に
ついてしまった集団。という設定でそこから何を
していくのかを考え、各チームが演じながら、小
林さんのマジックで全てのお話がつながっていく
という仕掛けにびっくり。
10
築地ってなに?
安達笑美子 瓜生真奈 比嘉り子
築地市場内
築地プロジェクト発足
そこでは、一見では理解できぬシステムの中で奇妙
2016 年 11 月に豊洲への市場移転が決定した築地。
闇市を思わせる、煩雑で薄暗い卸売場にワクワクさせ
かつて市場は日本橋にあったが、関東大震災での市場
壊滅を受け、築地へと場所を移した。今では「日本の
台所」と呼ばれるほど、日本全国、そして世界中から
様々な食材が集まってくる市場となった。
一般的に、築地=「寿司や海鮮丼といった新鮮で美
味しい料理を食べられる場所」というイメージがあり、
観光客の多くは市場そのものに目を向けることなく、
市場外で食欲を満たし、帰路につく。
確かに、築地において「食べる」という要素は重要
であるが、市場文化そのものもまた、重要で魅力に溢
れるものなのだ。
な乗り物に乗っかり、忙しなく人とモノが駆け巡る。
られる。築地の魅力をここで語り尽くすことは出来な
いが、日本でも指折りの 妙々たるスポットであること
は間違いない。そんな市場が、消えてしまうのだ!
ゼミナール 3 年では、考現学の視点に立ち、移転前
の最期の築地の姿を、後世へ記録として残そうと試み
た。そして、謎の多い築地市場内で起こっていること
を調査し研究することで、約 80 年という時間の中で
築かれた築地の魅力とは何であり、どこから来ている
のかを解明しようとした。
まず、「用語」「歴史」「写真」「映像」「音」「地理」
の 6 つのアプローチから築地を調査し考察することと
し、それぞれのアプローチ方法ごとにチームを作り、
約半年間活動した。
12
3年 築地ってなに
用語集班としての活動
周りの外国人に圧倒されながらセリを見学している
私たちは用語集班として、築地で使用されている用
と、ほんの数分のうちに何十匹ものマグロがセリで落
語について研究をした。
とされた。その後、マグロのセリ人である、株式会社
築地で使用されている用語には、耳慣れない独特の
樋長の飯田さんに話を伺う機会があった。飯田さん曰
専門用語が数多く存在する。私たちは、実際に築地に
く、「初めてセリをした時は一匹何百万というマグロ
足を運び、築地で働いている方にそれらの用語につい
を落とすことにあまりにも緊張し、手の震えが止まら
て取材をしながら、築地用語集の作成を行った。
なかった」そうだ。
まず、築地の用語を「セリ」
「運搬」
「道具」
「人」
「場
様々な出会いと紆余曲折を経て、大学生の私たちだ
所」
「正月」の 6 つに分類し、調査した。
からこそ出来る用語集を作成することが出来た。実際
その中でも、セリについての調査は強く印象に残っ
に、築地で働く様々な方の、生の声を聞けたことは私
ている。海外で流行の sushi 文化の影響なのだろうか、
たち自身に築地の知識だけではなく、新たな価値観を
セリ見学に参加しているのは私たち以外全員が外国人
もたらしてくれた。
であった ( 私たちも外国人に間違われてしまった! )。
株式会社樋長の飯田さん、株式会社大峰の前川哲史
築地に訪れていた外国人に話を伺うと、セリは日本観
さん、榊マートの須藤さんをはじめ、様々な方々にお
光のガイドブックに当たり前のように載っているそう
世話になりました。ありがとうございました。
だ。 まぐろのセリの様子
作成した用語集パンフレット
13
築地を歴史から見る。
小西晃代 齊藤真智子 竹鼻亮人
築地の歴史
みなさんは築地市場内に鉄道が走っていたことを
はじまりは江戸時代。元々は徳川家に献上した魚の
知っているだろうか? またマグロが庶民の食べ物で
残りを売るために日本橋に魚河岸が存在していた。し
あったことを知っているだろうか?
かし 1923 年の関東大震災で魚河岸は壊滅。それを引
今回の展示に向けて年表を作成するにあたって、私
たちは一般的な「築地市場の歴史」だけでなく、「交
通輸送の歴史」
「マグロの歴史」という 2 つの観点を
加えて築地の歴史を辿ることにした。「交通輸送」は
築地にとって欠かせないものである。朝、築地を訪れ
ると多くのトラックが魚を積んで到着し、さらにター
レットや小車が忙しそうに市場内を走っている光景を
目にする。そしてマグロは築地の名物であるセリの看
板といえる存在である。「築地といったらマグロ!」
というイメージを持たれる方も多いのではないだろう
か。
「築地の歴史」
「交通輸送の歴史」「マグロの歴史」。
この 3 つの歴史を知ることで、豊洲に移転してしま
う築地について少しでも理解を深めていただければと
思っている。また年表だけでなく、年表上の歴史項目
に関して詳説のカードも作っているので、合わせてご
覧頂きたい。
き継ぐ場として、1935 年築地市場が正式に開場し、
日本の生活を支える重要な存在となった。
しかし開場から 6 年後、日本は太平洋戦争に突入
する。食料品が配給制となったり仲買人制度が撤廃さ
れたりと、築地は大きな打撃を受けた。戦後もしばら
くは統制がかけられ、戦前のような活発な取引はみら
れなかった。
1948 年ごろから統制が解除されたものの、1954
年には「ビキニ環礁水爆実験」により放射能で汚染さ
れたマグロが築地に届く。市場は混乱し、マグロの価
格が半分になるような事態も発生した。
混乱が収束した後、高度経済成長期には冷凍技術の
発達や交通網の整備が進み、人々はより新鮮でおいし
い魚を食べられるようになった。
現代の築地は世界的に見ても最大級の市場であり、
外国人観光客にとっての名物スポットだ。そしてこの
築地市場が 2016 年、豊洲に移転することになる。
年表作成にあたって、銀鱗会の皆様、旭冷蔵庫の田
中様には大変お世話になりました。この場を借りて感
謝の意を表したい。
簡単に、これら3つの歴史を紹介していきたいと思
う。
日本橋魚河岸の様子。明治末期。(提供:銀鱗会)
14
3年 築地ってなに
交通輸送の歴史
マグロの歴史
1935 年の市場開場とともに場内に「東京市場駅」
縄文時代から食され、奈良時代には古事記や万葉集
が誕生。戦争が始まれば大型輸送船は戦場に回され、
に「シビ」という名で記されたり、江戸時代の『慶長
水運による生鮮流通が滞ってしまうだろうという考慮
見聞録』では「シビと呼ぶ声の死日と聞えて不吉なり」
のもと、鉄道ありきの開場が計画されていた。そして
と記載されていたりとマグロの歴史はとても長い。
市場の外周に沿って大きなカーブを描いた円弧状の線
しかし昔は発達した交通網もなく輸送に時間がかか
路が敷かれることとなった。これには当初「買い回り
り、鮮度が落ちやすかったためその価値は低かった。
の客が奥にある売場まで足を運んでくれるだろうか」
江戸時代にようやく庶民の魚として広まるが、当時
といったような懸念もあったが最終的には円弧状の線
の高級魚といえば白身魚。マグロに関しては赤身のみ
路を敷設。貨車から直接荷卸しができるつくりであっ
食し、腐りやすく保存に適さないトロの部分は捨てら
た。
れていた。また、鮮度が落ちたマグロの身を醤油に漬
市場で発着する生鮮食品を中心に取り扱っていた東
けた「ヅケ」が登場し、ブームにもなった。
京市場駅であったが、1966 年以降には新たに開発さ
トロが食されるようになったのは昭和初期。ただ、
れた高速運転対応冷蔵車のレサ 10000 系貨車や、特
お金のない学生が食べたり問屋のまかない飯で出され
急鮮魚貨物列車「とびうお」「とうりん」の運行も始
たりするなど、
市場に出回っていたわけではなかった。
まり、さらなる発展を見せた。
トロが高級品となったのは「冷凍技術」の発達によ
るものだ。これにより私たちは新鮮なトロを食べられ
「東京市場駅」は日本の食卓を支え、全盛期には一
るようになった。そして 1960 年代、ついにトロと赤
日に 150 輌にも達する貨物列車が通過していたが、
身の立場が逆転した。
トラックの普及や高速道路網の整備などにより鉄道の
現在、世界的な日本食ブームによりマグロの消費量
時代は終わり、1987 年をもって運行は終了。現在市
が増大し、個体数が減少している。養殖マグロの誕生
場ではトラック輸送が中心となっている。
で多少は解決の道が開けそうだが、今後も天然マグロ
の保護が課題であるといえる。
東京市場駅が開場し、築地市場に線路が通っていた様子。
(提供:銀鱗会)
マグロの輸入。現代とは違って船から降ろしたら
そのまま置いていた。(提供:銀鱗会)
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築地を “ いま " と “ むかし " から見る。
佐藤亮介 二宮啓泰 堀円花
私たちは、初期の築地と現在=最後期の築地を写真
を用いて比較することで、築地とは何であるかを探っ
ていった。築地が竣工されたときの写真集が早稲田大
学中央図書館に残っていた。『東京市中央卸売市場築
地本場・建築図集』(東京市 , 1935.1)だ。この写真
集には付録で地図がついていて、写真がどこで撮影さ
れたかが事細かく記録として残っている。あたかも「未
来の築地市場と比べて下さい」といっているようだっ
た。そこでこの写真集から、竣工時の写真を使わせて
魚類部 青果部間通路(中央築山八浴恩園跡)
頂くことにした。写真班は写真集の写真と同じ場所を
探しだし、3 日間に亘り撮影を行なった。
写真について
“ いま ” の写真はすべて PENTAX の K-30 という一
眼レフで撮った。F 値は 7.1 に設定して、なるべく “ む
かし ” の写真と同じ場所、同じアングルになるように
撮影した。
撮っていて分かったが、築地は落ち着いて写真を撮
れる場所ではない。ここは日本だろうか、という疑問
が浮かぶほど交通の便が激しい。ターレット、バイク、
トラックが引っ切り無しに走っている。「ここかな?
ここかな?」とのんびりカメラを構えていたら命がい
くつあっても足りない。築地で写真を撮るには、タイ
ミングと手際の良さが必要になってくる。
隅田川の桟橋
そして、資料の “ むかし ” の写真と “ いま ” の築地
があまりにも様変わりしていて驚いた。同じ場所、同
じアングルで撮っているはずなのに全く面影がない。
忠実に同じ場所で撮ることを第一としているが、やは
り少しは似ていないと見ていておもしろくない。そこ
で同じ場所、同じアングルだが、建物の位置などに神
経を使い、見た人が受け入れやすいように撮るよう努
力した。他に努力したことは、資料の “ むかし ” の写
16
3年 築地ってなに
真の画角が均一でなく、出来上がった写真のどこを編
集で切ろうかなどを考えながら撮った点だ。
展示を終えて
私たちは写真を通して視覚から築地を紹介した。
「百
聞は一見に如かず」という言葉のように、文字だけの
情報よりはダイレクトに築地を感じられる作品になっ
たのではないかと思う。
そして、私たちがやってきた “ むかし ” の写真と “ い
ま ” の写真を比べるということは、時の流れについて
じっくりと考えるきっかけとなった。80 年という時
間は、想像以上に築地の風景を変えていた。来年には
その変わらなかった部分さえ全て無くなってしまう。
写真を撮るために何度も足を運んでいく内に、築地の
初期の魚類仲買人売場其四
魅力に吸い込まれてしまった私たちにとってそれは悲
しい現実であった。活動を通して尚、築地を伝えたい
という気持ちは確かなものとなっていった。
また、昔の地図と今の地図をリンクさせて写真を
撮っている際に「80 年前もここでカメラを構えた人
がいるのか」と考えるとなんとも不思議な気持ちに
なった。過去の撮影者はどんな気持ちでシャッターを
切っていたのだろうか。こんなに活気の満ちた未来の
市場を想像していたのだろうか。数十年後、誰かが私
たちと同じ場所で写真を撮ってくれたら是非見てみた
いと思う。
移転前の最後の築地の姿を残したいと思いスタート
したこのプロジェクト。
「一瞬を一生に変える」とい
う写真ならではの特性のおかげで、後世にまで築地を
残せる展示にすることができた。撮影に先立って協力
していただいた銀鱗会の皆さまには心より感謝申し上
初期の魚類仲買人売場其四
げます。
17
築地を映像から見る。
上岡巧 上田亜紀 澤岡佳介
勝どき門駐車場屋上からのタイムラプス撮影
撮影内容
2014 年9月から 2015 年1月の間の築地市場を映
①では、実際に築地で働いている方から貴重なお話
像で記録した。
をたくさん伺い、市場で働いていらっしゃる方達の人
撮影対象やアプローチの方法から内容は4つに分類
柄も記録に残すことができた。
される。
②では、築地市場に 1 日で運び込まれる物流の多
①築地市場で働いている方へのインタビュー
さを記録した。あわせて輸送協力会の古澤さんからも
②築地市場各所にカメラを取り付けて撮影した定点映
お話を伺い、運び込まれる荷物の区別、運送のルール
像
や問題点、豊洲移転後の市場の未来像など世界の市場
③ターレットや小車といった築地市場特有の運搬手段
と比較しながら教えていただき、物流の観点から築地
に直接カメラを取り付けて撮影した映像
市場への理解を深め、それを映像のなかに情報として
④築地市場の文化や風物に関する映像
盛り込むことに挑戦した。
以上の4種類の映像からなる約 100 分の記録映像を
③では、運搬手段の移動の軌跡から築地市場の仲卸
1本制作した。
の店同士の横のつながりが記録された。ターレットや
小車は築地市場の狭さゆえに独特に進化したものだ。
それらは豊洲移転後、使用されなくなる可能性があ
18
3年 築地ってなに
る。そういった点で③は大変貴重だと考えられる。
屋根から差し込む光の美しさに見とれたり、ターレッ
トの荷台に乗って場内を一周させていただいたり、潮
④では、仲卸のまかないの調理をとらえながら、店
待茶屋の二階でお茶をいただいたりして、築地市場に
内での売り手と買い手のコミュニケーションの様子を
深入りすればするほど、あれもこれも映像に記録し
記録し、そのほかには新年のマグロの初セリ、初荷旗
て、展示に来てくれる人に伝えたいという思いに駆ら
を手にして歩く人々の様子、1月 10 日に行われてい
れた。
た大相撲初場所の触太鼓の様子をとらえた。
そうして 100 分にもなる映像作品が出来上がった。
こうした一連の映像から、移転直前の築地市場の様
子や、物流の観点からの築地市場について伝えること
お世話になった方々
ができたらと思う。
映像のプロジェクトは、様々な方々のご協力により
実現した。インタビューにご協力いただいた濱長の田
下さん、小黒の佐藤さん、豊洲の魚屋西川の西川さん、
撮影こぼれ話
樋長の飯田さん、桐生製車の桐生さん、買荷保管所組
当初の段階では展示で使用する映像はターレットの
合理事長の福田さん。ターレットの映像、定点映像の
映像だけということだった。実際に築地に来てみて、
撮影にご協力いただいた亀谷さん、小車映像の撮影に
ご協力いただいた尾吾の刑部さん。主に物流の点から
築地市場について教えてくださった輸送協力会の古澤
さん。有り難うございました。
最後に、そしてこれだけは絶対に申し上げておかな
ければならないないのは、今回のプロジェクトは銀鱗
会の福地さんのご協力なしには実現しなかったことで
ある。プロジェクトが始動したての頃には誰もほとん
ど築地市場に行ったことがなく、仲卸の方にお声掛け
するのもとても遠慮があったが、福地さんが色々な方
営業終了後の場内
を紹介してくださったことで徐々に市場の中で顔見知
りが増え、またその方達も非常にご親切にしてくだ
さった。あの迷路のような築地の空間を福地さんが一
緒に歩いて案内してくださったことで、自由闊達に研
究することができた。福地さんに感謝の意を伝えた
い。。
初セリ後、初荷旗がはためく仲卸
19
築地を音からみる。
平出将之
築地のいろいろな側面に触れる機会が増える中で、
良いと思えるものを今回の展示で発表することにし
僕は築地の中で発生するその音の膨大さ・雑多さにと
た。
ても関心を引かれた。あの決して大きくはない空間で
あれだけの膨大な音量を響かせているのは一体どのよ
うなエネルギーを持った人達、場所なのであろうか。
そんな興味を持ったことが、築地の音について研究し
ようと思ったきっかけである。
さらに、模型地図と連動させて音を採集した地点に
ピンを立てることによって連動させて、どこでどのよ
うな音を採集したのか、築地の場所ごとに微妙に異な
る音の違いというものが視覚的にも分かりやすくなる
ようにした。
展示について
築地 PJ の展示は視覚情報が多いため、この展示で
発見
は耳で直観的に体感でき、より多角的な築地について
この調査を始めた当初の目的は、築地のいろいろな
の理解を得ることを目的とした。方法としては、サウ
音をサンプリングすることであった。築地の中で発生
ンドスケープという手法を用い、iPad とヘッドフォ
するその音の膨大さ・雑多さを細かく収集・分析し、
ンを使用し、音を採集した地点での画像を見ながらそ
波形ソフトなどを使い記録しようとしていた。そして
の場所での音を聴いてもらうという形式である。録音
その特色を見いだそうとした。そのため、例えばター
は時間帯別(朝、昼、夜)で複数の地点で行い、特に
レットの操縦音やマグロを解体する時の「キーン」と
たくさんの発泡スチロールが集積されている
20
3年 築地ってなに
波形 ( 発泡スチロール処理場 )
いった機械の音、製氷機が氷を作る時の音、発泡スチ
て今の展示形態に落ち着いたのである。
ロールが擦れる音、仲卸店舗での掛け声、場内での交
築地という空間は、多種多様な音の集合によって成
通を巡る小競り合い、水たまりを踏む足音など数えき
り立っている。それらは互いが連鎖することによって
れない程の音数を、レコーダーを使い収集しようとし
あの膨大な雑多さを作り出しているのである。ひとつ
た。
ひとつは決して大きい音ではなく、耳をすり抜けて
しかし、この方法で音を採集していくうちに、ある
問題に気づいた。どのように工夫しても必ず欲しい音
とは別の音が紛れ込んでしまうのである。築地におい
ては、絶え間なくいろいろな音が鳴り続けていてひと
いってしまうのだが、それらが集まった時にとても大
きなエネルギーをもった空間を作り出すのである。そ
の音の空間を今回の展示を通して体感してもらいた
い。
つひとつの細かい音を抽出するということはとても難
しい。築地という空間は、膨大な種類の音によって成
り立っているのである。ならば、いっそのこと、これ
らを全体的に捉えてサウンドスケープとして展示で発
表すれば良いのではないかという考えが芽生えたので
ある。そのようにすれば、音という側面から見たとき
に築地という空間について直感的に理解することがで
きるのではないかという結論に至った。このようにし
録音風景
21
築地を地図からみる。
三根正大
調査と地図
地図というものは知らない場所のことが分か
るだけでなく、知っている場所をさらに深く知
るためにも役に立つ。この「築地ってなに?」
プロジェクトが動き始めた当初、まだ方向性も
具体的になにをやるかも決まっていなかった段
階から、地図を扱う班は設けようということに
なっていた。空間を縮小し平面に落とし込んだ
地図は、調査段階においてはもちろん、展示発表・
アーカイブ化していく段階になっても必要だと
考えられたからだ。
特に私たちのリサーチの対象となった築地市
場という特殊な場所は、Google マップや種々の
道路地図などを見ても簡易的にしか表記されて
おらず、それらを見ても築地をより深く知るこ
とはできない。市場のいわゆる内外を問わず広
く、入り組んでいて複雑、さらに人もたくさん
いる築地。何度行ってもその全貌を窺い知るこ
とはできないのではないかと思われるほどに密
度が濃く、奥が深い場所である。しかし、詳細
な地図を一枚持っていくだけでぐっと場所に対
する理解が深まり、知識が増える。地図上で気
になる場所があったら実際に行ってみて、例え
ば「取引された水産物がどこを通ってどう卸さ
れていくかはなんとなく知っていたけど、途中
途中で出てくる発泡スチロールのゴミはこの『発
泡スチロール処理場』というところに行き着く
のか…」と、築地に今まで自分が持っていなかっ
た新たなものの流れのレイヤーを重ねられるよ
うになるといった具合に。
22
作製した場内市場図
3年 築地ってなに
から始まるセリを見学したい観光客の重要な宿泊場
展示物について
所になっているのに違いないが、豊洲周辺にそういっ
今回の展示において、新大橋通り-晴海通り以南、
た施設はあるのだろうか? と今まで考えたことのな
場外市場と場内市場の築地の模型を作った。フィール
かった問題にも気付いた。
ドワークを通してリサーチを行う私たちにとって、展
示における成果物と、対象となった空間は切り離せな
い。双方をリンクし、私たちがどこで何をしたのか?
展示内容で触れた場所は現実の築地においてはどのあ
たりのことを言っているのか? といったことを明ら
かにするための模型である。大きい平面の地図でもよ
かったが、やはり実際のスケールを感じて頂くには立
体であるに越したことはない。模型のサイズは大体
1m 四方で作製した。そのサイズが大きいか小さいか
は別として、スケールは約 1/700 という模型にして
は比較的小さい縮尺である。
アーカイブについて
展示が終わって場内市場が移転し、地図が現在の
築地の面影を留めなくなったその後に向けて、この
「築地ってなに?」プロジェクトの大きな目的は、移
ろいゆく築地の今をアーカイブし、未来に伝達して
いくことだ。展示のために作った模型に、その目的
の達成を負わせるのは不適当と言わざるを得ないだ
ろう。今後地図班は、ウェブ上で多くの方の閲覧に
供する目的で、今回のプロジェクトを地図ベースに
まとめたデジタルコンテンツを制作する。ウェブペー
1/700 で模型を作る、という細かい作業を通して
考えたことは、やはり場外市場の建物の多さと場外市
場で働く方々の今後のことだ。これだけ多くの建物と、
建物の中で働いていらっしゃる、建物の数より多いた
くさんの方々は築地が豊洲に移転したあとどうなるの
だろう、ということを考えさせられた。さらに製作し
ながら移転について考えると、今こうして手のひらサ
イズになっている晴海通り沿いの大きなホテルや、模
型製作範囲外の築地周辺のホテルは、夜が明けぬうち
模型制作の様子
ジ上に埋め込んだ Google マップに場内の詳細地図や
現在の築地の写真などを盛り込んだものにするつも
りだ。今後の開発・公開の情報は弊ゼミのホームペー
ジ で あ る「 て ら す web」(URL: http://www.terasuweb.com/) でご確認いただければ幸いである。
末筆ながらプロジェクトを支えてくださった銀鱗
会の福地さん、デジタルコンテンツの制作に助言を
与えてくれた岩田くんにお礼を申し上げます。あり
がとうございました。
試作段階のデジタルコンテンツ
23
築地市場から豊洲新市場へ。 上岡巧
2016 年 11 月に豊洲市場の開場が予定され、築地
から豊洲へと市場システムが完全移行する。
移転の理由
市場移転の理由には、施設の老朽化、物流量に対し
敷地が狭すぎること、高温や風雨の影響を受けやすく
遊歩道
商品の品質管理に問題を抱えていることが挙げられ
る。再整備しながら市場システムを維持するのは土地
屋上緑化広場
の狭さにより種地が確保できないため困難を極める。
豊洲に移転するのは、40 ヘクタール(築地の 1.7 倍)
に及ぶ広大な土地を確保でき、築地が作り上げてきた
商圏に近く、商売の継続を見込めるからである。
移転先の豊洲は、もともと東京ガス ( 株 ) の施設が
太
(屋
あったところで、地中に様々な有害物質が環境基準を
大きく上回る数字で存在していることが問題となっ
ていたが、汚染対策工事が行われ、2014 年 12 月 10
日に対策工事完了となった。
築地市場は 1987 年まで市場内に存在していた貨物
駅に着く列車、または船からの荷の搬入をするという
補助315号線
廃棄物処理施設
前提に基づいて施設が設計されていた。しかし、時代
とともに荷の運搬手段が自動車へと移り変わったた
め、現在の市場では施設と流通システムの矛盾が生じ
ている。豊洲新市場は、自動車での搬入を前提とした
施設・システムの設計となっている。
一方で、市場自体が広くなることにより移動距離も
増すため、移動時間が増加する可能性もある。
築地から豊洲に移転して変わること
築地市場は、壁のない開放型の施設を基本としてい
移転によって無くなってしまうこと / もの
たが、豊洲では卸・仲卸売場は閉鎖型の屋内施設とな
築地において、運搬手段の移り変わりにより敷地構
る。これにより、築地市場で懸念されていた夏場にお
造は効率的なものではなくなった。非効率的な敷地利
ける食材の温度管理の問題が解消される。
用の隙は、正規の市場取引ではない「グレーな取引」
施設も、市場システムに沿って合理的に配置され、
が展開される余地を生んできた。豊洲新市場では敷地
よりスムーズになるような設計がされているため、物
利用の無駄がなくなり、グレーな取引をなくすことが
流スピードもこれまでより増すだろう。
できるだろう。
24
3年 築地ってなに
晴海通り
環状2号線
千客万来施設
桟橋
ゆりかもめ「市場前」駅
水産仲卸売場
水産卸売場
青果卸売場・仲卸売場
太陽電池パネル
(屋上駐車場屋根)
太陽電池パネル
屋上駐車場屋根)
豊洲新市場完成予想図(東京都中央卸売市場 HP より引用)
今回の移転において、いわゆる「築地市場」が丸ご
うな怪しい雰囲気や、宝を探してダンジョンに足を踏
と移転するわけではなく、移転するのは場内だけであ
み入れたような心躍る感覚はない。
る。場外市場はそのまま築地に残る。そして場内跡地
展示会場では場外市場のあの荒廃したような雰囲気
に、小さいながらも仲卸を残した築地新市場もオープ
が、逆に人々を引きつけて商売に貢献している事例に
ンする予定だ。移転後の場内の敷地の使用方法につい
ついても紹介している。新市場の千客万来施設は心躍
てはまだほとんど白紙であるようだ。
るような体験を提供できるのであろうか。
だが、場内市場と場外市場が発散していた、あの不
まだ1年以上先ではあるが、今見られる “ 築地 ” は
思議な魅力は薄れてしまうだろう。豊洲新市場には、
無くなってしまうのだ。移転してしまう前に、築地の
「千客万来施設」というダイワハウスとすしざんまい
をオーナーとした場外施設的な役割のショッピング
魅力を場内・場外共に、ぜひ肌で感じて欲しいと思う。
もちろん、市場の人の邪魔にはならないように。
モールが建つ。しかし、そこには場外市場の闇市のよ
25
3年生の一年間 4月
5月
6月
3 月 春合宿にて映像ワークショップ
新年度の抱負を語る
写真展準備
築地 PJ こぼれ話
築地で酔っぱらった(6月)
今回の PJ で築地を扱うか決めあぐねていた6月
はじめの陽気のよい土曜日、みんなで築地へと
ヒビコレ展
出かけ、一通り回った後に「じゃあ、一杯」となっ
て、場外の居酒屋へ。ガラガラの二階に通され、
共同プロ
ジェクト
検討期間
築地 PJ
鬼ごっこワークショップ
合同町歩き
店員さんビールケースを指差して「ビールここ
から好きにとっていいから」との言葉に、勘違
いしてはめを外し、大いに飲んでしまったとさ。
舟から陸揚げする穴子をみた(7月)
新しく築地に架かった橋を観に行ったら、岸壁
文献講読
に小型船が横付けしていて、穴子を陸揚げして
いるのを目撃!穴子は横浜小柴から!まさに江
戸前。
チーム
分け
7月
は3学年合同授業
絵本づくりワークショップ
マグロのセリを観に行った(9月)
晴海通り交差点で夜明かしをし、マグロのセリ
見学へ。午前3時に受付が始まる。回りはみん
9月
11 月
築地 PJ
仕上げ作業
1月
調査・取材・撮影・見学・アポ取り・懇談など
10 月
12 月
な外国人!東京のど真ん中ですが、気分は海外
夏合宿にて映像ワークショップ
旅行。
夏合宿の反省、後期の目標
ターレットに乗せてもらった(10 月)
K さんのお店でターレットにカメラ(Gopro)
をつけるという交渉をしていたら、「今日暇だか
らのっけてやるよ」といわれ、場内をぐるりと
広報用ポートレート撮影会
一周。乗ったのはこれ一回ですが、その後も何
度もカメラを付けさせていただく。
最後の「市場祭」で海苔を売る(11 月)
豊洲移転前最後の「築地市場祭」をちょこっと
展示プラン検討会
演劇ワークショップ
だけお手伝い。東松島市のブースでおいしい海
苔を売るお手伝いをしました。
一本締めを見られず……(1月)
正月は初セリ。一本締めがあるわよ〜という F
さんからのお言葉に一同、これはいい映像が撮
れるわいと、早朝4時の築地に集合するものの、
ぼっとしていたのか、各所で行われていたはず
の一本締めにことごとくタイミング合わず、見
26
事に見逃す……
”Walkin’”
阿部 輝紀
とある街を白い T シャツ一枚で歩く男。T シャツに
私は今回、T シャツに映像を投影させた。それは単
プリントされたグラフィックは、風景や気分、ロケー
純に T シャツの柄が変形したらファッショナブルで面
ションにリンクして形を変え、動き出す。
白いと思ったからである。私の作品は編集の時点で合
成された実験的なものではあるが、いずれは動くグラ
この作品のポイントは 2 点である。1 つが実写とア
フィック T シャツが生まれるかもしれない。そんな期
ニメーションの融合だ。1 人の男が着る T シャツのグ
待を込めて作ったのがこの作品である。
ラフィックが形を変え、動き出す。とある街を歩き
回る男の実写部分に、T シャツの柄として様々なグラ
そしてもう 1 つが、この作品は全て一脚で撮影され
フィックが手書きのアニメーションとして重なり合
たということである。いわゆる「自撮り棒」と呼ばれ
う。
るものである。今、自撮り (selfie) は世界的ブームで
昨今、様々なエンターテインメントのシーンで見か
あり、一脚の普及率は拡大している。この流行りの自
けるプロジェクションマッピングをヒントにこの作品
撮り棒を使って自分撮りのスタイルで撮影されたのが
を作ることに決めた。プロジェクションマッピングは
この作品である。この撮影技法は、
トニー・ヒルの
『ヴュ
建物や物体、空間に映像を投影させ、投影対象と映像
アーを持つ』でも用いられたもので、今流行りの自撮
が重なり合うことで新たな効果が生まれる。映像を映
り棒でこれに習う。
し出すものと言えばテレビやコンピューターなどのモ
ニターが一般的であったが、プロジェクションマッピ
Music by Tame Impala
ングは投影対象の可能性を広げた。そして、今後も投
影対象として様々なものが生まれることだと予想され
る。
Tshirt に描かれるグラフィック
28
撮影の様子
4 年 Like It
家族写真の変遷とこれから
井上 明日香
私が家族写真というテーマに興味を持ったきっかけ
は、ある写真展で出会った写真である。
それは写真家、浅田政志の写真展・「浅田家」での
写真だ。彼は家族写真をテーマに写真を撮っている写
真家である。自身の家族を被写体にして毎回、様々な
シチュエーションで、それぞれが役になりきり写真を
撮っている。こんな形の家族写真があることに驚いた
と同時に、初めて他者の家族写真から愛を感じた。
その写真を見た後から、写真家「浅田政志」のこと
が気になっていた。そんなある日、偶然立ち寄った書
店で彼の著書である『家族写真は「」である。』を見
つけた。彼の本には、写真論だけでなく、家族論も述
べられていた。この本を読んだ瞬間に、大学四年間の
井上家にあった全アルバム
集大成として研究するにはこのテーマだと感じた。
彼の著書の中で一番印象に残った話がある。それは
最後に見たい写真の話だ。もし自分がもう少しで死ぬ
という状況の時、最後に見たい写真はどんな写真なの
か。それを考えた時、私は間違いなく家族の写真と答
えると思ったのだ。
しかし、普段の生活の中で家族写真を見ることはほ
とんどない。どんな人にとっても、“ 家族 ” という存
在が写った写真は大きな意味があるにもかかわらず、
だ。私はこの状況に疑問を感じた。自身の家族アルバ
ムを振り返ることで自分なりの家族論や写真論を導き
出したい。そしてこの論文に触れてくれた方に、家族
を、そして家族と一緒に写っている写真をもっと身近
なものにしてほしい。そう思い、このテーマを設定し
た。
私のはじめてのアルバム
日本人の家族写真の歴史や意識の変遷をたどりなが
ら、私たちは今後どのように家族写真と関わっていけ
ば良いのか、私なりに考え提案していきたい。
29
毎日をシンプルに生きる—Steve Jobs の価値観を取り入れた生活—
児島 輝
度々「大学四年間は人生のモラトリアム期」という
言葉を耳にする。高校までの受験勉強、部活動に追わ
れる毎日とは異なり、サークル活動、アルバイト、イ
ンターンシップ、海外留学等、自分のやりたいことを
見つけそれに没頭する時間が遥かに増える。そして自
由な時間が増えるが故に、その時間を無駄にしてしま
うことも多い。私もその一人であり、せっかくの自由
な時間を無駄にしていることが多かった。
私が最も時間を無駄にしていると感じていた時期
は、内定後就職活動中に購入した iPad でゲームアプ
リに没頭していた 2014 年 5 月頃である。就職活動中
の密なスケジュールからの開放感もあり、日々ゲーム
アプリにのめり込んでいったあの頃。予定があっても
時間をつくってまでゲームに没頭し、一日の大半を画
面上のキャラクターと過ごしていた。このような生産
性のない堕落した生活を変える為、無駄を省いたシン
プルな一日のスケジュールを考察したいと思った。
自分のユニフォームを決める
そこで参考にするのは、私の生活に無駄な時間を作
る原因となった iPad、他多数の機器の開発者である、
Steve Jobs である。
彼は禅に心酔し、Apple 製品はもちろん、自身の生
活にまで無駄を省いたシンプルなものを取り入れて
いた。無駄を省き、シンプルなものを追求する Steve
Jobs の考え、価値観を参考にし、生活上の無駄を省い
たシンプルな一日を考案し、実践したい。
第一章では現在の私の一日を一分単位で記録し、一
日の行動の振り返りを行う。第二章では Steve Jobs の
考え方、価値観についてまとめる。なおここではプ
ライベートを公にしない Steve Jobs が生前からイン
タビューに応じ、死後伝記として残した『Steve Jobs
(Walter Isaacson 著)』から物事をシンプルに考える
偉大なる Steve Jobs 先輩と
為のヒントを抜粋する。第三章では第一章で出てきた
無駄な時間をどうするかについて考察する。そして第
四章ではこれまでの考察をまとめ、無駄のない一日の
スケジュールを考え、実践し、まとめたいと思う。
30
4 年 Like It
映像によるアマチュアロックバンドのプロデュース実践
昨今、動画を専門としない人々でも動画を作り誰か
に発信することができる時代となった。しかし一方で、
動画は写真とくらべて気軽に撮る、見やすく加工 ( 編
集 ) することが難しい深い専門性と手間を掛ける必要
のあるコンテンツである。そのため、実際には動画を
用いた情報発信を行っている人は少ないだろう。
そこで、私は動画そのもののコンテンツ的魅力と、
自らの名声を高めていきたいアマチュアのロックバン
ドに関連性を見出し、卒業 PJ として「映像によるア
マチュアロックバンドのプロデュース実践」を行うこ
重綱 孝祐
ミュージックビデオを制作し公開した。
折しもミュージックビデオ制作に取り組むことに
なったバンドが自主制作 CD のリリースを控えている
ということからレコーディングに密着することにし
た。オリジナルソングに込めた思い、そして作品制作
の過程 ( レコーディング )、そしてリリースの折、ター
ニングポイントとなるリリースライブを追ったドキュ
メンタリーを制作した。この 2 本の動画を柱に動画と
いうコンテンツが持つ宣伝効果を発揮した作品をバン
ととした。
ドに対して納品するとともに、一人でディレクション、
動画コンテンツは撮影から編集、公開に至るまで、
夢を追った現在の若者のリアルな姿 ( ドキュメンタ
深い専門性と手間をかけた制作を行っていく必要があ
り、プロの出来とアマチュアの出来では歴然たる差が
生まれ、時にはアマチュアの制作したものではコンテ
ンツの魅力が白けてしまうという現象も起こりえる。
このことを踏まえ、卒業 PJ の目的に、第一にしっか
りと専門性を考慮した上で動画コンテンツに宣伝コ
ンテンツとしての魅力を内包させていくことを掲げ、
プロデュースした作品として私の卒業 PJ 作品とした。
リー ) と、表現者として振る舞う姿 ( ミュージックビ
デオ ) を映像としてまとめることができていれば幸い
である。
【制作成果物】
1) the Urban Symphonique
“Merry-go-Round” ミュージックビデオ
2 ) the Urban Symphonique
レコーディングドキュメンタリー ”Starting Over”
↑ レコーディング風景より
↗ ミックス作業。全てデジタルによる処理がなされ ている。
→ ライブ風景。ライブ現場にもお邪魔し、撮影を行った。
Thanks...the Urban Symphorique / Rinky Dink Studio(I.Terada)
/ Otsuka Deepa / F.Saito
31
ポスター制作とその過程における自己の成長
高橋 悠生
自分の卒業プロジェクトの方向性を模索していた私
は春先から繰り返し教授に面談 ( もはやカウンセリン
グに近かった ) をしてもらい、自分の趣味趣向や思想
信条まで根掘り葉掘り聞き出された。
そうして決まった卒業プロジェクトの内容とは、10
月から 1 月までの間、毎月一枚ずつポスターを製作
し、早稲田大学 14 号館 1 階のゼミ掲示板に掲示する
というものである。ポスターには毎月季節感を出すよ
う心掛け、内容は公共広告的なものにする。また、一
貫性を保つためにすべてのポスターに必ず共通して
一人のモデルに写ってもらう ( ポスターによっては複
数名写す場合もあり )。製作の目的は Photoshop や
Illustrator などの編集ソフトを使いこなせるようにな
10 月から 1 月までのポスターで使った小道具を
集合させて撮った一枚
り自分の 「モノづくり」 のスキルアップを図ることだ。
そして企画、立案、撮影、編集、宣伝など、これらす
べてを総合したプロデュース力を身につけたい。何か
を生み出すということは積極的にこの世界に影響を与
えていくことだ。
その第一歩として、まずは「静止画」を使ったプ
ロデュース能力を身につけるべくポスターを製作し
た。「制作」ではなく「製作」なので、ポスターを作
るだけではなく、撮影前のスケジュール管理や、小道
具の調達、撮影場所の手配なども行った。また、「そ
の時どんなトラブルが起こってどのように対処したの
か」や「何にお金がかかったか」などの苦労や小話、
モデルへのインタビュー、さらには没ショットやオフ
ショットなどを記録した小冊子を作って展示来場者や
関係者に配布する。もちろん冊子も「モノづくり」の
一環である。
この製作にあたって協力してくれたモデルの齊藤杏
11 月のポスター撮影風景
奈氏、岡崎早由里氏、川上貴弘氏、イラレの使い方を
指南してくれた田島菜那女史、各種手配をしてくだ
さった佐藤洋一教授にこの場をお借りして深く感謝の
念を申し上げたい。
32
4 年 Like It
「オリンピック」からみたピクトグラム
田島 菜那
© 1972 Copyright by Munich Organizing Committee
画像引用元 :Olympic Games Museum/ オリンピック公式報告書
(http://olympic-museum.de/index.html)
私たちの日常、身の回りに溢れている、絵文字こと
ザインは非常に多様であった。
「ピクトグラム」
。案内用の記号や指示記号などパッと
そのオリンピックがピクトグラムに与えた影響・
みて言語や教育程度に関係なく、意味を理解できるこ
デザインの変遷に興味を抱いた私は、論文の中でま
とが特徴であり、近年はグローバル化の中でのコミュ
ず、オリンピック夏季大会で使用された競技ピクト
ニケーション手段としても大きな注目を集めている。
グラムをそれぞれを紹介していく。
(オリンピックの
競技のピクトグラムが毎回変わっているなんて知ら
元々視覚表現に興味があり、アイコンや街で見かけ
なかった、という人も多々周りにいたので、まずは
る看板、記号などが好きであった私は、このピクトグ
是非各開催地域の個性溢れるデザインを目にしてほ
ラムに関心を持ち、研究テーマとすることに決めた。
しい!)
調べていく中でピクトグラムが発展していったきっか
け・軸とされる出来事として、
「オリンピックでの使用」
そしてこの各オリンピックで使用されたピクトグ
があったことを知った。
ラムを検討して、その流れを掴み、改めてピクトグ
ラム全般について検討をしていく。
オリンピックでのピクトグラムの使用は 1964 年の
東京オリンピックから現在まで途絶えることなく継続
ピクトグラムの発展のきっかけとなった「オリン
されている。そして、各開催都市ごとに使用する競技
ピックのピクトグラム」とはそれぞれどのようなも
ピクトグラムの検討を行い、違うデザインが適用され
のなのか。そして、そこから考えるピクトグラムの
ている。それぞれ競技が幾何学的に表現されていたり、
可能性とは。これらを紹介、検討していくのが私の
開催地域の個性を含む表現が施されていたり、そのデ
卒業 PJ である。
33
東京の環境音の可視化を目的としたサウンドビジュアルデザインの制作
真鍋 賢弘
音を視る
今回、私は目に見えないものである音を、可視化す
る制作を試みた。この制作の目的は聴覚で得られる東
京のイメージを可視化することである。視覚では得ら
れない情報を視覚的に表現し、来場者に東京の環境音
についてイメージしてもらうことがもう一つの目的
だ。渋谷、銀座の環境音をビジュアルデザインのプ
ログラミング言語である Processing でデザインした。
また、その映像と共に来場者がマイクにしゃべりかけ
ると、それに合わせて波形が動く映像も展示する。後
人の声に反応して動くアニメーション
人の声に反応して動く波形アニメーション
者は来場者に action してもらうことを目的としてい
る。レコーダー H4n を使って東京各地の環境音を録
音。ビジュアルデザインのプログラミング言語であ
る Processing を私物の Macbook Air、研究室所有の
iMac にインストールした。 無音が無い街、東京
問題提起/デジタルデバイスが発達したことで耳に
イヤホン、ヘッドホンを着けて街を歩く人を多く見か
けるようになった。そのため、環境音を遮断した生活
を送る人が多いと感じる。現代人に街で流れる音=環
境音について、今一度考えてもらいたい。
Processing
制作の説明/都市を形成する要素の一つである環境
音を研究対象とし、その環境音を Processing でデザ
インした。Processing に録音した環境音と連動して動
く波形と日時、録音場所、その都市にイメージされる
色とアニメーションで表現した。
渋谷の環境音を可視化したデザイン
人の声が溢れている街
雑音のような環境音で特に耳に入るのは人の声であ
る。この制作を通して、街の音の中で、人の声が大き
く占めていると感じた。そこで私はこの制作を通して
環境音とは『街の雑音 + 人の声』という結論を得た。
34
4 年 Like It
ほんとのワタシ
脇田 愛
私は世間が持っているワセジョのイメージを変え
たいと思っている。
「あぁ早稲女だね。
」そんな言われ方をしたことが
ある。褒められた言い方ではなく、どちらかといえ
ば少し馬鹿にされたような言われ方だった。もちろ
ん早稲女を褒める人もいる。一方で、
「酒飲み、下ネタ、
田舎者」。このようにワセジョへの世間の評判は酷評
ばかりが目立つ。
内容
・一人の選手につき、一枚の A3 サイズのカラー両面
紙
・練習・試合を通して努力の姿や支えてくれる存在を
取材、またプライベートも取材する。on と off の二面
を取材することで “ アスリートになる瞬間 ” を捉える。
・他大の男子学生に「早稲女」のイメージに対するア
ンケートを実施。客観的な世間の意見も取り入れる。
しかし当事者である私は早稲田大学で 4 年間を過
ごし、居心地の良さを感じた。それは私や私の周りの
女の子たちが世間のいうような「ワセジョ」だから
だろうか。いや違う!周りにいた早稲女たちは実際、
世間が思っているイメージではなく素晴らしい女性
ばかりだったからである。
注意点
*「早稲田スポーツ」さんと同じようにならないよ
うにすること。(試合結果、選手インタビューばかり
にならないように)
*友人だからといって、主観的になりすぎないよう
そこで早稲田大学で頑張る “ 女性アスリート ” に密
着し、一生懸命に取り組む「早稲女」の実態を世間
に発信したいと考えた。そこから世間が思う早稲女
のイメージを変えるきっかけにしたい。 スポーツという狭いくくりではあるが、頑張るそ
に。初めて見る人にちゃんと伝わるようにすること。
協力者:三田一紗代、坂元詩織(ともに社会科学部 4
年)
、早稲田大学ア式蹴球部、早稲田大学応援部チア
リーダーズ
の姿は見るものの心に自然と訴えかける。
チームを支える背中
最後の応援を終えて
35
修士課程研究論文「並行在来線の存続について —北陸新幹線金沢延伸開業時の上越地域を事例に –」
修士 2 年 町 凌介
1990 年 12 月、政府与党申し合わせにより、今後開業する整備新幹線について、建設着工する区間の並行在来
線は新幹線開業時に JR から経営を分離することを認可前に確認することが決められた。
その結果、長野新幹線の並行在来線であるしなの鉄道(長野県・1997 年)をはじめ、東北新幹線盛岡以北の並
行在来線・青い森鉄道(青森県・2002 年)及び IGR いわて銀河鉄道(岩手県・2002 年)、九州新幹線の並行在来
線・肥薩おれんじ鉄道(熊本県、鹿児島県・2004 年)が開業した。これらは第三セクターにより経営を引き継が
れた並行在来線である(以下、三セク並在線)。しかし、全ての経営を引き継いだわけではなく、輸送需要の高い
区間は JR から経営分離されず、また設備の維持コストがかかる横川〜軽井沢間の碓氷峠区間が廃止されるなどと
いった問題が残った。
新幹線駅はかつての特急停車駅に原則として設置され、在来線からは特急列車が廃止された。しかし、全ての特
急停車駅に新幹線駅が設置されたわけではなく、長距離輸送網から切り離されてしまった地域は全国各地にあり、
地域間において新幹線開業による格差が生じることとなった。
2015 年 3 月、北陸新幹線が長野から金沢まで延伸されるが、同時に4県にまたがる並行在来線が経営分離され、
それぞれの県の第三セクター会社が経営を引き継ぐ。その中で、唯一県庁所在地を通らず、輸送需要が最も懸念さ
れる地域が新潟県上越地域である。新幹線駅が設置されるのは市街地のはずれにある宅地と畑が広がる「脇野田」
という地で、主要駅である高田駅や直江津駅には乗り入れず、つまりこれらの駅周辺地域が長距離輸送網から切り
離され「役割が変わってしまう」地域になる可能性があるためである。加えて、地方でのモータリゼーション化の
波が並行在来線沿線地域でも進行しており、通学・通院と一部の通勤客を除いて地域における鉄道の利用需要が低
下していることが挙げられる。
本研究の目的は、北陸新幹線が延伸開業することで新潟県上越地域において JR から経営分離されてしまう三セ
ク並在線・えちごトキめき鉄道を、長期的かつ安定的に存続させるための利用需要と運営財源を確保する手段とし
て観光学的枠組みを用い、地域と鉄道が一体となるしくみを提示することである。
これは人口規模に対する地域内の鉄道利用需要には限界があり、その補填として外部からの観光客が担うという、
論理構造としては極めて単純なのである。しかし、観光客が安定して訪れる観光地としての機能をいかに持たせる
か、地域内外を結ぶ「装置」としての鉄道の具体的な在り方をどう提示し、地域の各セクションといかに結びつけ
るか、また先行研究である「観光・交流を支える中間システムを取り入れた地域内外の関係性モデル」にいかに地
域の具体性を持たせるか、といった部分は地域におけるさまざまなセクターが絡み合う複雑な構造であり、それら
を学際的に扱いながらアプローチする点が本研究の最大の意義である。
上越には高田公園や雁木通りの町家をはじめ、さまざまな時代の歴史を感じることができる観光資源があるほか、
文学作品にみられる<北>と<南>の対比描写や雪国の風土といった可視化されない潜在的な観光資源も少なくな
い。
「この山を越えて向うへゆけば雪のない明るい世界がある」
(小川未明)
「死にたくなったら直江津へ」
、
(林芙美子)
長い歴史の中で築き上げられた場所性が顕著である上越は新幹線開業によりアクセス性が向上するが、地域に入
り込む「装置」としての在来線の機能、地域内における観光客の余暇空間と地域住民の生活空間の棲み分け及び両
者の交流空間の整備により、地域、そして鉄道が元気であり続けることが期待でき、観光交通としての鉄道の可能
性が広がることは地域再生の可能性をも広げていくことが期待される。
36
修士 論文
新緑と雪山の共演、春の妙高山系
北陸新幹線新型・E7 系車両
上越
家
母屋
観光 ・ 交流を支える
中間システム
雁木通り
駅前商店街
( 装置としての鉄道 )
客間
観光列車
しなの鉄道 ・
トキめき鉄道
観光客の余暇空間
ブランディング
短期滞在の町家
文化
←
玄関
中長期滞在の町家
地域住民の生活空間
直江津駅 ・ 高田駅
→
北陸
新幹
線
地域外
駅前商店街
社会
門
→
中長期滞在としての町家
地域内
庭
観光列車
消費者
企業
投資家
地域外地域
門
居間 ・ 寝室
集客・投資・参加
在来線駅
自然環境
首都圏各駅
長野駅
短期滞在としての町家
地域づくり
地域内
家
日常生活圏
移動
←
手段
の列
車
→
上越妙高駅
フルサット
←
廊下 地域住民の
応接間 生活空間
観光客の
余暇空間
門
マーケティング
中間システムを組み込んだ上越地域における観光の関係性モデル
観光の視点から見た新幹線・並在線と地域の共存モデル
国鉄時代の特急車両で運用される「妙高」号
直江津から日本海を望む
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後記
この度は本展にお越し頂き、誠に有り難うございました。後記として、
ゼミについて、展示に至る過程について記そうと思います。
「なにをやっているゼミなの?」と、頻繁に聞かれます。一般的にゼミナー
ルというのは、アカデミックで専門性を有する集団と想起されると思いま
すが、僕らには当てはまりません。幅広くいろいろと ” なにか ” をおこなっ
ている、掴みどころのない、宙ぶらりんな性格を持っています。みんなで
山の頂上を目指すのではなく、ぷかぷかと海を漂っているかんじです。
目指すところがあいまいな集団ですから、所属する人間の種類もバラバ
ラです。集団として共通した趣味嗜好もなく、
モチベーションの差も激しい。
雇用関係もないので、みなさん自由です。
そんな集団が、発足後 5 年間のゼミ史上初めて 3 学年合同の展示を行う
ことになりました。学年ごとの活動内容はバラバラでその関係性も希薄な
のに、1 つの小ぢんまりしたスペースでまとめて展示してしまおうと計画し
たのです。
ゼミ生みんなのこと、学年ごとの活動のこと、全てバラバラなことをど
うやって 1 つにまとめればいいのか、迷いました。
こういった場合は、基本となるイメージ(かわいいとか尖ってるとか)
を決め、型を決め、それに当てはめるように全体を構成していくことでま
とまりをだせるのだと思います。しかし、結果として、反対のことをしま
した。イメージを作らないことにしました。
宙ぶらりんで、掴みどころがないというのは、いいことじゃないかと思
えたのです。決してキャッチーではないけれど、一歩足を踏み入れると、
誰でも暖かく迎えいれてくれ、ひとりひとりの趣向を擁護してくれるので
す。だから、無理にイメージを当てはめ、なにかにカテゴライズするのは
惜しいとおもったのです。
フライヤーやパンフレット、会場の空間デザインも、具体的なイメージ
(かっこいい、かわいい、男性・女性的など)を受け手に与えることを回避
するよう、心がけました。イメージをつけぬことで、ひとりひとりに集団
のフィルターがかかることなく、ひとりひとりをより鮮明に見てもらえる
ように。
今展示をご覧になられた皆様も、一歩足を踏み入れました。今後とも末
永く、お付き合いをお願いいたします。
3 年 上岡巧
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Research & Project 2015
2015 年 2 月 10 日〜 14 日
発行
早稲田大学社会科学部
空間映像研究ゼミナール
教員
2014 年 5 月 27 日 絵画館前にて。( 撮影 佐藤洋一 )
佐藤洋一
ゼミナール 1(2 年)
石川未紗 糸井翔真 狩野志穂
工藤早和子 久保廣菜 佐藤航
島田祥絵 鈴木さゆり 高橋美生
田下史也 中上駿 浜田若菜
山𥔎千浩 李姝君 ゼミナール 2(3 年)
安達笑美子 上岡巧 上田亜紀
瓜生真奈 小西晃代 齊藤真智子
佐藤亮介 澤岡佳介 竹鼻亮人
二宮啓泰 比嘉り子 平出将之
堀円花 三根正大
ゼミナール 3(4 年)
阿部輝紀 井上明日香 児島輝
重綱孝祐 高橋悠生 田島菜那
真鍋賢弘 脇田愛
修士課程
町淩介