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表紙画像:wikipedia より
―偏窟文豪列傳―
偏窟のすすめ
浜 崎 慶 嗣 目次 はじめに 「偏窟」とは 我等は「偏窟」である
………………6
………………8
………………
………………
………………
2
「偏窟」のすすめ 一.正しい漢字にこだわろう 漢字の発生と変遷 当用漢字の制定
失われた漢字の表意性
――角を矯めて牛を殺すな――
………………
二.正しい表音にこだわろう 漢音・呉音・宋音・唐音・慣用音
漢字の表音は漢音で
12 12 10
17
目次
三.正しい熟語にこだわろう 四.「現代語」
―あるバス停にて― 五.変遷か崩壊か ―現代語を考える―
六.日本語を守ろう 「偏窟」と「文芸」 「俳諧」「狂歌」の世界にみる偏窟
「落語」の世界にみる偏窟 「文学」の世界にみる偏窟 二葉亭四迷
森 鷗外
稲垣足穂
永井荷風
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
3
33 27 23 21
47 39 37 37
漱石と外国かぶれ 漱石と朋友師弟 漱石と病気 吾輩は偏窟である ―漱石寸描―
はじめに 漱石と狂気 漱石と転居 ユニークな漱石 漱石とペンネーム 漱石と自尊心 漱石と学歴 漱石と職歴 漱石と収入 漱石と熊本
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
………………
4
漱石と家系 漱石と博士号辞退事件 むすび
98 93 88 86 83 82 81 80 76 70 65 63 62 61
109 107 102
目次
〔添付図表一覧〕
漱石と病気一覧 漱石と転居履歴概要 ………………
………………
………………
………………
95 90 72
104
表 夏目漱石家系図(抄) 表 漱石と師弟・朋友一覧 5
表
表
(1)
(4)
(3)
(2)
はじめに
蘭学塾(現在の慶應義塾大学の前身)の創設者である福沢諭吉に、有名な著書「学問の
すすめ」
(原題「學問ノスゝメ」明治五年刊)があることを知らない人は、同大学出身者
でなくとも、まづいまい。
これは明治時代の一般庶民に学問の大切さを説き、文字通り学問をすすめる啓蒙書であ
るが、これとは反対に十数年前、
「 悪 徳 の す す め 」 と い う、 ま る で モ ラ ル の 破 壊 を 奨 励 す
るが如き本が出版され、話題となったことがあった。また昭和三十六年には、フランスの
作家サド侯爵の「悪徳の栄え」が出版されたが同年一月十日、猥褻文書として警視庁に押
収されると共に、訳者と出版社が起訴された。
本校は、
「学問のすすめ」のような高尚な啓蒙書でもなければ、「悪徳のすすめ」のよう
なインモラルなものでもなく、ましてや「悪徳の栄え」の如き猥褻なものでは勿論ない。
文豪と呼ばれる人々の、その性癖に関する一考察、題して「偏窟のすすめ」である。
具体的に言えば、わが国の文豪と呼ばれる人達の中には、果して偏窟な人物がいたか。
いたとしたらその偏窟ぶりはどうだったか。出来れば作品と偏窟との相関関係。即ちその
偏窟が文豪の作品に与えた影響、つまり作者が偏窟であるがゆえに生まれた作品はなかっ
6
はじめに
たか。など併せて考察してみたいと思う。
勿論本稿は学術論文ではないので、以下気軽に筆の赴くまま意のまま筆をすすめてみた
いと思う。
7
偏窟とは
オブスティネート
まづ偏窟とは何かを定義しなければならない。なぜなら偏窟の定義が確定しないことに
は、その文豪の思考や行動を常軌と対比し、偏窟の範疇に属するか否か捕捉できないから
である。
。
STUBBORNNESS
う。 OBSTINATE
。つまり
偏窟とは、一般に「性格が片寄っていて素直でないことモ」ノをマ言
ニ ア
「偏執」=ある物事に、あくまでも異常に執着すること。 MONOMANIA
。
ス タ バ ー ン ネ ス
オブスティネーシー
「片意地」=頑固に自分の考えを押し通すこと。
「頑固」=一つの考えを押し通すこと。 OBSTINACY
。
シ ン グ ル ・ マ イ ン ネ ス
「一本気」=純粋で、一つの事を一途に思い込む性質。 SINGLE-MINDEDNESS
。
以上を寄せ集めた性格の人と言えそうだ。
因みに辞書には
偏窟=性格が片寄り、ひねくれていること。
(広辞林)
=片寄り、ねじけていること。
(広辞苑)
8
偏窟とは
=なみはずれて、ねじけたる心。
(大字典)
とある。現代の若者に言わしたらさしづめ「あいつ素直でねェーよなァー」「可愛くねー
奴だぜ!」ということになるのか……。
つまり、
「偏窟」とは、純粋で一つのことを一途に思い込み、從って他人の言うことに
は耳をかさず、頑固にそれを押し通そうとする(性格の人)ということになりそうだ。
さて、皆さんの周囲には、このような性格の人いますか? いる。いる。います。
でも、こんな性格の人は、あまり若い人には見かけないように思いますが、いかがです
か。どちらかと言うと、心身ともフレッキシビリティ(柔軟性)が枯渇し始めた中年以
降、特に老人に多く見かけ、なかでも配偶者と死別しているか家族と離れ、独り暮らしし
て い る、 社 会 と は 没 交 渉 な 老 人 に 多 い と 言 っ た ら、「 差 別 だ!」「 エ イ ジ・ デ ィ ス ク リ ミ
ネーション(年齢差別)だ!」と言って怒られるだろうか。
では、
「そう言う貴様はどうなんだ!」と鉾先がこちらへ向けられたら、途端に困って
しまう。
「ヘイ。若干そのような性格が、近年しばしば見られるようになりました」
「確かに、
『若干』だな」
「イエ、かなり……」「ホンマに『近年』かい?」「へー。かなり
以前から……」
「かなり以前っていつ頃からだネ?」「ひょっとして生来的なものかも知れ
ません……」
「とうとう本音を出しおった」
9
へんこつ
我等は「偏窟」である
へんくつ もの
普通、素直でなく心がねじ曲がった人のことを「あい つ、 偏 屈者 だよ」と 言う。しか
し、われわれは(無断で皆さんを共犯者にしてはいけない。正しくは「私は」かな)「偏
屈」
(ヘンクツ)でなく、
「偏窟」
(ヘンコツ)である。(辞書に「偏屈」は「偏窟」の書き
換えとあるのは間違い。第一、ニュアンスが違う。)
では両者はどこが違うのか。先づ表音が違う。前者、後者とも「偏」は漢音、呉音とも
「ヘン」で問題ないが、
「屈」の方は漢音は「クツ」呉音は「クチ」又は「グチ」。ところ
が「窟」
(クツ)は慣用読みで、漢音は「コツ」呉音は「コチ」。しかし両者の最大の差異
はその意味にある。
いわや
ほらあな
「屈」は、
「屈折」
「屈曲」
「屈伸」のように、体を折り曲げてかがんでいる義。ところが、
「窟」は、
「窟穴」
「窟居」のように岩屋、洞穴のこと。
一方「偏」は、
「偏見」
「偏向」のように一方へ 片 寄 っ て い る 意 味。 元 来 こ れ は、 天 候 の
工合を調べたり、相手の言う意味が判らなかったり、もしくは不審な時よくする動作、
ちょっと頭を横にかしげている(横に傾けている)姿を表した漢字。
從って「偏屈」とは、そこいらにかがんでちょっぴり頭をかしげている姿。ということ
10
我等は「偏窟」である
になる。
「偏窟」
(へんこつ)の方は、
「 小 人 閑 居 し て 不 善 を な す 」 の 諺 言 通 り、 不 善
ところが、
こそしないが、洞窟(又は、洞窟のような暗い小さな家の中)で独り起居し、たえず頭を
傾けて、外部(世の中)の様子を眺めぶつぶつ独り言を言っているさまを表す熟語。從っ
て、狭い部屋から首だけ出して外部をのぞいているため、勢い視野が狭くなり、全体像を
見廻すことができず、ぶつぶつ訳のわからないことを独り喋り「編聴姦を生ず」の諺どお
しばしば
り一方に片寄り、文字通りまわりから、変人、奇人、偏屈者呼ばわりされることになる。
しかし、その言動は、世の中の凡ゆる利害、一切の打算を離れてなされるため、屡々人
生の真理に迫ることがある。
11
「偏窟のすすめ」
一、正しい漢字にこだわろう
「漢字の発生と変遷」
イン
「漢字」は言うまでもなく中国で発生し日本へ移入された表意性音節文字で、西暦紀元前
てんしょ
千五百年頃、古代中国の殷の時代に発明された「象形」ないし「指示文字」である「甲骨
文字」を起源とし、文字としての発達過程では、「金石文字」、「篆書」と変遷し、今日の
「楷書」となったとされる。
「表音文字」
、
「表意文字」を併用できるという他国に類をみないユニー
本来日本語は、
クな言語であるが、漢字の中でも、表音表意のうち表意性(訓読)が先行したであろうこ
おん
とは、甲骨文字など古文の資料により容易に推測できる。つまり「象形」「指示」「会意」
文字と発達し、より複雑な内容を伝えるため、音との連携により「転注」「仮借」の手段
が講ぜられ、表意性と表音性を両立させるため「形声文 字」が工夫され、この「 意」と
「音」の合成により急激に漢字の数が増えることになる。この形声文字が盛んに作られる
ようになったのは西周の末期西暦前七百七十年頃で、後漢の学者許慎の「説文解字」の中
12
「偏窟のすすめ」
りくしょ
こうき
には約九千三百字の漢字が、有名な「六書」の形によって分類されている。(因みに、こ
れまた有名な張玉書らの編になる「康熙字典」には四万九千三十字。うち九十%は「形声
文字」である)
日本へ漢字が移入されたのは三、四世紀頃つまり、女王卑弥呼が邪馬台国を治め、盛ん
に魏の国と交流のあった古代国家が成立して間もない頃、韓国を通じて伝来したと推測さ
いわし
たら
れているが、それ以降の漢字の変遷は目覚ましく、古来和人が所有していた「和語」と合
かつお
体し、無数の和製漢字、つまり「国字」が生まれている。
壽司屋に行くと、堅い魚と書いて「鰹」、弱い魚と書いて「鰯」、その他「鱈」な
因みでに
た ら め
ど「出鱈目」じゃないかと思われるほどの「和製漢字」が壁や湯飲みに散見される。
では実際にどれくらいの数の漢字が、戦前まで日本国内に出廻っていたのであろうか。
諸橋轍次編「大漢和辞典」には国字を含め四万九千九百六十四字の親字が収録されてお
り、実際には殆ど使用されることのない漢字を含めると、その数六万字に及ぶと言われる。
「当用漢字の制定」
ところが、この膨大な漢字に対し、戦後一大改革が加えられた。言わずとしれた「当用
漢字の制定」である。
一九四六年十一月、当用漢字の制定により日常使う漢字の数が千八百五十字に制限さ
13
れ、これにより「会意」の原理により無数に作り出された「国字」が「働」
「峠」
「畑」
「込」
の四字だけとなった。その後一九四八年二月には「新音訓表」により読み方が変り、翌年
四月には「新字体表」が制定され、当用漢字のうち難解な漢字が「略字」という形で簡素
化された。
じづら
か
な
これによって、われわれ教える側にとっても漢字の指導が楽になり、またそれを覚える
生徒の方も、学習上便利になると共に、新聞、雑誌などの印刷物も、紙(誌)面の難解な
字面の洪水から開放されることとなった。
た
失われた漢字の「表意性」
―角を矯めて牛を殺すな!―
ところが、物事の功罪は相半ばするものと見え、難解な漢字の廃止による「假名書きへ
の移行」によって、意味の取り違え、例えば「はしを渡る」という場合「橋」なのか「端」
なのか判然としない、假に「橋」だった場合でも読みづらいという難が発生した。幸い
4
4
「橋」は当用漢字に含まれているからよいが……。例えば、過日、市ヶ谷の自衛隊駐屯地
とん
ぶた
を訪れた際、
「駐とん地」と、衛兵の立つ門柱に書いてあったので、私はてっきり営内に
「豚」を飼っており、豚が逃げ出さないよう番をしているのかと思ったが、豚の番にして
は衛兵の姿がぎょうぎょうしい。そうだッ!「とん」は「屯」の字が当用漢字にないため
14
「偏窟のすすめ」
の苦肉の策だったんだと悟ったが、その時ほど日本を守る自衛隊の存在が軽薄に感じられ
たことはなかった。
べんとう
べんぱつ
かべん
一方、略字による「漢字の簡素化」は、漢字の生命とも言える「表意性の喪失」と言う
致命的欠陥を露呈することとなった。
「辨当」の「辨」も、
「辮髪」の「辮」も、「花瓣」の「瓣」も、「辯護士」の「辯」
例えば、
も、それらとは「音の類似」以外、全く意味の 異 な る、 本 来「 か ん む り 」 と い う 意 味 の
「弁」という漢字を持って来てこれに当てろと言うのである。
偏窟者諸君! どうせ文部省の役人たちが、ただ「書き易い」という理由だけで、漢字
本来の表意性を捨て、凡て漢字を簡素化してしまおうというのであったら、今後「糞便」
は「糞弁」と書こうではないか。つまり「弁」は「弁当」の弁で、言うまでもなく外出先
で食事するため持参する食事のこと。いまだ食道、胃、直腸を通過していないもの。ただ
ビフォー アフター
しいずれ通過する運命にある物。
「糞」は、それらの器官をすでに通過したもの。すなわ
ち両者の差異は「前」
「後」の違いだけである。
だったら「糞便」の「便」は今後字画を省略する意味で、(因みに「便」は九劃、「弁」
は五劃)從って「書くのに労力を軽減する」という利点から「弁」を使い「糞弁」と書こ
み そ
くそ
う。序に「便所」も「弁所」と書こう。
これで「味噌」も「糞」も一緒だ!
15
この間もこんなことがあった。新聞を読んでいたら「し好」と書いてあるしのだ。何だろ
うと思ったが、前後の文脈から「嗜好」のことだなと判断した。つまり「嗜」という漢字
が当用漢字にないため、平假名の「し」を代用したものだろう。これは漢字の表意性の放
棄、表音への転化である。このように漢字の「表意性」を棄ててよいのだったら、難かし
い漢字を書くことはない。かと言って假名文字は本来文章の叙述に使用されるものであっ
かしゃ
し
しにょう
し
て漢字(名詞又は熟語)の代理として用いられるものではない。ではどうしたらよいか。
「假借」の方法を用いるのである。つまり「嗜」の代りに「屎尿」の「屎」を当てるのだ。
漢字の表意性を棄ててよいというのだから叙述文字の假名を用いるより遥かに有効であ
り、かつ「新字体}
(略字)を奨励する文部省の意図にも字劃の省略(「嗜」は十三劃、「屎」
は九劃)という意味で合致する。そう、
「私の屎好デザートは、ショートーケーキである」
となる。ウーン、少々「ションベン臭いケーキ」だが、我慢しよう。
ここまで書けば、筆者が何を言いたいかおわかりだろう。戦後の漢字の簡素化及び假名
書きへの移行難解な漢字を平易な漢字にするか、假名書きにすることにより、教育実用両
面において便利になったが、他面、漢字が本来持っていた「味わい深い意味」例えば「さ
すが」を単に「さすが」と書いては何も思い浮かばないが「流石」と書くと「漱石枕流」
の故事を想い出す。勿論夏目漱石の筆名はこの故事による。(添付「吾輩は偏窟である」
―漱石寸描― 参照)
16
「偏窟のすすめ」
つの
た
「牛の角を矯めて、牛を殺すな!」
「角を矯める」とは、角を折って捨て去ることではなく、悪いものをよくし、曲がったも
のをまっすぐ直すこと(広辞苑)である。つまり教育、実用両面において不便で難解な漢
字を簡素化することは良策であるが、その結果、肝心の「牛」つまり、漢字が本来所持し
ている「表意性」までも喪失せしめてはならない。
漢字の「表意性」は、牛にとって大事な「角」である。從って、好きな形に曲げて整え
るのは構わないが、無理に曲げると折れるか、牛を殺してしまう。
二、正しい表音にこだわろう
かん
「漢音」
「呉音」
「唐音」
「宋音」
「慣用音」
ご
ご
「表音」つまり漢字の読み方に「漢音」
( 平 安 時 代、 時 の 政 府 に よ り 正 し い 読 み 方 と し て
とう
そう
定められたもの)
「呉音」
(もっとも古い読み方で中国の揚子江下流の「呉」で使われてい
たもの。仏教用語などに多い)
「唐音」
「宋音」(いづれも中国の同時代に日本に移入され
こう
たもので、その数は少なく、音声学的には体系化されていない)……以上があることは、
衆知の通りである。具体的な例を挙げると、
「行」という字の読み方。漢音では「銀行」
17
あん
ぎょう
のように「こう」と表音する。呉音では「苦 行 」 の よ う に「 ぎ ょ う 」 と な り、 唐 音 で は
「行燈」のように「あん」となる。この外に古くから言い慣らされて来た、間違った表音
である「慣用音」がある。
漢字の表音は「漢音」で
今時の若い女の子達が使う「ミー。イチロー、メッチャスキー」(「私は一郎選手が大好
き」という意味らしい。私はてっきりチャイコフスキーの兄弟かと思った)つまり「憧れ
ま
る」という意味の「憧憬」は「ドウケイ」でなく「ショウケイ」(「ドウ」は慣用音で漢音
では「ショウ」と読む)
。水不足の時など庭先に水を撒くことは市から禁じられているが、
この「撒水」は「サンスイ」でなく「サッスイ」
(説明は同前、以下同じ)。一昨年の「九・
一一事件」ではその恐怖と、テロ行為に対する怒りで、私の脳奨はグチャグチャに掻き乱
ラ ブ ス タ ー
されたが、この掻き回す意の「撹拌」を「かくはん」と読むのは誤りで、正しくは「コウ
ハン」
。
「伊勢えび」好きの私にとって「ラスベガス・ヒルトンホテル」の伊勢えびは「垂
涎」の的であるが、これは「ズイエン」でなく「スイセン(漢)+(漢)」又は「スイゼ
ン(漢)+(呉)
」
。先日テレビの報道番組でアナウンサーが「大東亜戦争のチョセンで勝
す
利を収めた日本は」と言っていたが、この場合の「緒戦」は「チョセン」でなく、「ショ
セン」
。この間テレビを見ていたら、ドラッグを喫っていた若者達が警官に踏み込まれ逃
18
「偏窟のすすめ」
げまどう姿が映っていたが、この「逃げ散る」意味の「逃散」は「チョウサン」でなく「ト
ウ(タウ)サン」
。最近の日本のテレビ番組、特にバラエティ番組を見ていると全くくだ
らなく、今にも北朝鮮のテポドンが飛んで来て日本は全滅しそうだと言うのに、若者達の
ちかん
しかん
国家を守ろうとする意識は、全く「弛緩」しているように思われるが、この「弛緩」は「チ
カン」でなく「シカン」
(
「痴漢」でなく「屍姦」と覚えよう)。新年や結婚式などで「死」
おおみそか
や「別れ」を話題にすることはタブーとされ「忌諱」されているが、これは「キイ」でな
く「キキ」
。昨夜は大晦日で、正月料理を堪能したが、これは「タンノウ」でなく「カン
ノウ」
(漢)+(呉)又は「カンドウ」
(漢)+(漢)。大器晩成型の作家が晩年傑作を発
表すると、よく「人生の掉尾を飾った」と言われるが、これは「タクビ」でなく「チョウ
4
4
4
4
4
ビ」
。私は壇之浦で敗れた平家の「末裔」であるが、これは「マツエイ」でなく「バツエ
イ」
。そしてこのように間違った表音を勝手に作ることを「捏造」(俗字は「揑造」)と言
うが、これは「ネツゾウ」でなく「デツゾウ」
(
「漢」+「漢」又は「デツゾウ「漢」+「呉」)
……これなどテレビやラジオ、中には新聞や雑誌などわざわざ「ネツゾウ」とルビをふっ
たものまである。
先日も、あるテレビ局のアナウンサーが「古墳をネツゾウした人は……」と言ったので
早速局へ電話を入れ、アナウンサーを呼び出し「あなた、さっき『ネツゾウ』と言いまし
たよネ。この『ネツゾウ』の「ネツ」は慣用読みで、漢音では『デツ』でしょう」と言っ
19
たら、アナウンサーなんと言ったと思う。
「 そ う で し た か。 で も 原 稿 に は そ う 書 い て あ り
ましたよ」だって。
「じゃーあなたは原稿を読むだけの機械ですか。表音には逐一疑問を
き
持ち辞書に当たってみるのが、放送文化をあづかるアナウンサーではないですか。これは
全国の人達が聴いているんですよ。日本の言語文化を崩壊しているのは、あなた達です。
責任を感じませんか!」と言ったらやっと謝ってくれた。しかしその謝った言葉の表音が
間違っていたのですから、もう全く処置なしです。曰く「すみません。ではソウキュウに
処置します」これは「サッキュウ(早急)の間違い。
「早」の表音は、漢音、呉音とも「サウ」である。実際の会話の表音として「サウキュウ」
とも言えないので、
「サウ」を「サッ」と読むか、「ソウ」と読むかに焦点が絞られるが、
「サウ」を「ソウ」と読むには、表音上の飛躍があるように思われるが、いかが?……
「はい、
『ソウ』ですね……?」
「それで、訂正してくれましたか?」
「するわけないでしょう。『赤信号、みんなで渡れば
怖くない』と思ってるんですから……」
「ア、やっぱり『ソウ』か」……。
ま
ただ
このように、一国の言語文化を守り、育てる立場にある筈の政府(文部科学省国語審議
会)や、マスメディア、否公共放送であるNHKのアナウンサーまで平然と、漢音や呉
音、とくに慣用音を「ごちゃ混ぜ」に使い、かつ平然とし、その誤謬を正そうとしない。
20
「偏窟のすすめ」
情ない限りである。
へんこつ
この際、われわれ偏窟族だけでも、正しい漢音の表音にこだわり、使おうではないか。
「それ間違いじゃない?」と言われたら、「ホラ、待ってました」とばかり
もし誰かに、
「あんた阿呆か! 字引き調べてみなはれ。漢字の表音は、文字通り、漢音で統一するの
が正しいのや!」と堂々と言い放ったらよい。
どこかの阿呆(阿呆で語弊があったら、私の師匠八五郎親分)が言った間違った言葉
が、正しい表音として次の人に伝播し、次々と人口に膾炙され、遂にマスメディアまで公
へんこつもの
認(?)してしまったのが、間違った表音「慣用音」なのだから…。(このように、正し
いものに徹底的にこだわろうとする私は、やはり「偏窟者」!?……)
このような誤謬は、
「表音」の世界だけではなく、「熟語」についても言える。
三、正しい熟語にこだわろう
いつだったか、大部以前の話になるが、有名な歌舞伎役者がテレビに登場した際、彼を
紹介して八五郎アナウンサーが叫んだものだ。
「歌舞伎三百年の重責を背負う、十二代市
川団十郎、弱冠三十九才……!」次の瞬間私はブッタマゲて叫んだネ。「ヤッターッ!」
21
そして私は考えたネ。
「このアナ、果して『弱冠』の故事を正しく理解しているのだろう
かと……。言うまでもなく「弱冠」とは「二十才」の異称である。出展は「礼記」で、古
代中国に於いては、十才になると「幼」と言って学問を始め、二十才になると「弱」と言っ
て元服する。三十才を「壮」と言って妻を迎え、四十才になると「強」と言って官に仕え
る風習があった。
從って「弱冠」とは、男子が「元服の礼」をあげる「二十才」のこと。勿論「弱冠」に
4 4 4
は「年の若いこと」という義が慣用的にあるが、(從って「若冠」と間違えて書く人もい
る)これもせいぜい二十五才どまり、どんなに譲歩しても三十才以前、それを四十才にも
なろうという人をつかまえて「若冠三十九才」はない。それは「じゃっかん」無理と言う
おんぶ
もの。エキサイトし恰好つけようとして言い馴れない熟語を使った気持はわかる。見た目
より若いので「ヨイショ」と背負した気持もわかる。だがアナウンサーは私情に流され
ることなく「正しく」事実を視聴者に伝えるのが仕事ではないか。「視聴者を甘く見る勿
ついで
4
4
4
れ!」セリフは再三再四吟味し、普段使っている言葉でも、今一度辞書に当たってみるく
にな
らいの謙虚さが欲しい。
「プロに『甘え』と『弁解』は許されない」序に「重責を背負う
は慣用上、
「担う」が正しい。
よく言葉は時代と共にあり、時代と共に変遷する」と言われる。しかしそれはあくまで
も正しく変わらねばならない。変遷の過程でその言葉の持つ本来の意味が抹殺されたら、
22
「偏窟のすすめ」
それはそれで変遷でなく「言語の破壊」である。
か
為政者を含めわれわれは、若者達の使う言葉をただ漫然と放置するのではなく、正しい
方向へ導いてやる必要がある。昨今、テレビや市井に漂う「若者言葉」の乱脈ぶりは余り
にひど過ぎる。
め
四、現代語 ――ある日、バス停にて――。
バス停前のベンチに、数名の女子高生が集り、眼の前を行き交う男子生徒の品調べをし
ており、その隅に、初老の男が座っている――。
「どう? あのコ」
「ダサーイ!」
チョー
「なにいってんの。メッチャカワイーじゃん」
「超ウザーイ。テユーかオヤジ入ってる」
「ミー、スゴーク感ジルー」
「案外ユーコにピッタシかもネ」
「アラ、ドーショー」
「ケドさ、さっきのケンの方がダンゼンイカスジャーン」
23
「わりかしイイセンいってるー」
「まじムカつく。空気読めよ」
「アラ、ミジメ。アンタってハッキリ言うジャン」
「カズコ、言っとくけどサ。彼タンソクよ」
「ウッソ!」
「アラ、知らないノ。マジ、シラケルー」
「ナニソレ。彼にケチつけるキー」
「マー。イイカラ、イイカラ」
「チェッ。イカサないな。ミーだったらダンゼン、ジュンの方をトルナ」
「ヤーネ、ジュリー」
「ナニガサ」
「ナンテカナ。カレフケツな感じジャーン」
「そこそこ、ソコガイイーンヨ」
「グーッと胸に来るカンジー」
「ミーコ、シビレちゃウー」
「ア、ヤベーバス来たワ。マ、二人トモガンバッテネ。アーバヨ」
「チェッ! シラケルー」
24
「偏窟のすすめ」
―男、ブツブツ喋りはじめる……。
〈チェッ! なにが「シラケルー」だ。シラケルーのは、よっぽどこっちの方だ。なにが
「胸にグーッと来る感じ」だッ! ローガイやツワリメぢァーあるめーし。どこが「シビ
レルー」だ!電気クラゲぢゃねェーぞ! そんなにシビレたかったらナ、裸になって裸電
線にブラ下がってろーってんだ。一日中シビれっ放しよ。このベラ棒め!……〉
「オヤ、おじさん。なにをそんなところでブツブツ怒ってるの?」
「これが怒らずにおれるかってんだ!」
「アラ、ワタシ達何かしたかしら……」
「なにかしたかしらーって、一体あんたたちの喋ってるの、なに語だね」
「なに語って……アッハッハッハ……このおじさん少し変よ。……日本語じゃない」
「てやがんでェー! 日本語ってーのはな、そんな舌足らずのわけのわからない言葉じゃ
ねェーゾ! 言葉にはな、自分の意志を相手に正しく伝えるというコミュニケーションと
しての要素が大事なんだ。そして正確な意思伝達のメディアとして、表意文字、つまり漢
字がある。君達のは「漢字」を使わず「感じ」で喋ってる……」
「変な感じ」
「コラッ! しゃれてる場合ぢゃないゾ。日本語と言うのは、われわれの祖先によって伝
統的に体系づけられた文法と、美しく磨き上げられたゴイによって成立ってるんだ」
25
「なに?その「ゴイ」って……」
「語彙、つまりボキャブラリーのことよ」
へ
「へー」
おん
い
「屁ぢゃないよ。世界中で表意文字を使ってる国は少ない。しかも日本語は「ヒョー意」
と「ヒョー音」の合成によって出来上がってるという、世界に誇り得る美しい言葉なんだ」
「言っとくけどさ。おじさん古いよナ」
「何が古いんだ。わしは新品のホヤホヤだい」
「ホヤホヤにしては古いこと言うわネ。言葉っていうのは時代と共に変って行くものな
の。平安時代には平安時代の、鎌倉時代には鎌倉時代の、江戸時代には江戸時代の言葉
があり、今だれもそんな言葉使ってないワ。
「いかがでござる。ご老体……」って言った
らおかしいでしょう。
「ヒョー」か「ヒョーイ」か知らないけれど、そういつまでもおじ
さんが若い頃使ったままの言葉ぢァないのよ。 言 葉 っ て、 変 っ て い く の。 わ か っ た? こわ
ネェーわかった? おじさん……」
「てやんでー。わかったふうなこと言いやがって……。変って行くんぢァねェー。君達が
勝手に毀してるんだ」
「アラ、そうかしら」
「そうだ。むやみやたら外来語や流行語をとり入れ、かと思うと「ら」行を抜き、ただ単
26
「偏窟のすすめ」
にフィーリングのみで喋ってる。そこには一片の論理も、知性のかけらもない!」
「私、そうは思わないワ。かりにそうだったとして、つ まりそれが「現代語」っ てわけ
ネ。意見の相違よ。…… アッ! バスが来たワ。ジャーネ。バイバイーッ」
「アア、もう、シラケるーッ!」
男、絶叫しつつ、その場に昏倒する……。
「自分だって『現代語』使ってるジャーン。ハッハッハ……」
遠のく意識の中に、彼女らの嬌声と嘲笑が呪文のように、いつまでも谺した……。
五、変遷か崩壊か!
―「現代語」を考える―
現在若者達が街頭などで使用している、いわゆる「現代語」は、大要次の特色に分類さ
れると思う。
「無性別」
性別がない。特に少女達が「だけどよー」など平気で乱暴な男言葉を使い、その
言葉かに
っこ
方が格好いいと思ってるふしがみられる。これは UNISEX
「性の不分離」という昨今の社
27
会風潮と不可分であろう。なんせ「最も男らしい女」と「最も女らしい男」がモテる世の
中だそうだから……。
「無階級」
、と言っても純愛ものでなく、「やくざ一家」の親分の娘が高
現在当地では「学園もの」
校教師に扮し、突っ張り少年グループとの葛藤を描いた「ごくせん」(「極道一家の先生」
という意味か。原作は「漫画」らしい)というドラマを放映している。その中で生徒たち
フィクション
は 平 気 で 教 師 に 向 っ て「 セ ン 公!」 と 呼 び「 ぶ っ 殺 し て や る!」 な ん て ホ ザ い て い る。
「これはドラマの世界、創作さ」と言えばそれまでだが、実社会の一面を写しているのも
ドラマである。このような無階級、無秩序なドラマを見ると現場に飛出して行きブン殴り
たくなるような義憤を覚えるが(少なくとも私の生徒にはこれほど教師に面と向って言え
る生徒はいなかった)いづれにしても教えてくれる教師に向って「セン公ッ!」はない。
さげ
このようなドラマの放映によってテレビ局のスタッフ(創作スタッフ→ディレクター→社
長)は、意図的に年長者である親や教師を蔑すむ社会風潮を、全国の青少年の間に巻き起
こそうとしているのだろうか!「模倣」は少年犯罪における動機の最大因子である。これ
は青少年犯罪の補導に携った体験からはっきり言える。戦前の反動にしては実際にも日本
の無秩序ぶりはひどすぎる。
「極道一家の娘教師が不良少年グループを更生させる話」な
ど単なるつけ足しに過ぎない。ドラマは奇を狙えばいい、視聴率さえ上がればいいという
28
「偏窟のすすめ」
ものではない筈。
「親や先生だなんて偉そうな顔をしてたって結局オレ達と同じ人間じゃ
ねェーかヨー。年が多い分先にクタバらー!」テレビの前の子供達はまづ親や教師を侮蔑
することを習う。俗に言う「おやじ狩り」を見給え。困ったことだ。これも戦後の「履き
違えられた自由主義」に起因しているのであろうか……。それとも国に子供達の胸を熱く
する国家的ビジョン(展望)がないためだろうか!
「無語彙」
現代語の最大の特長。戦後の国語教育の根幹にかかわる問題で、教場で充分な語彙の収
得がなされないため、創意に富んだ個性的会話ができなくなり、軽薄なテレビや流行語の
模倣に終始することとなったものと思われる。
「間投助詞」
「なんてカナー……」つまり「これは何と表現したらいいのかなァー」など、事物を適格
に表現する語彙の持合せがないため、やたら言葉を探す「マ」を作る無意味な間投詞を発
することとなる。
「情感語」
これまた現代語の最大の特長の一つと言え、漢字の字訓に乏しい現代っ子は、何かを
表現する必要にせまられると、勢い拙劣で幼稚な「感じを表す言葉」を口にすることに
なる。例えば「感じるー」がこれで、
「 感 ず る 」 の サ 変 動 詞 を 故 意 に 一 段 上 げ、 自 動 詞 を
29
他動詞のように使ったもので、
「るー」と延ばすところに新らしさがあると信じられてい
る。いかにも自信のなさ、投げ槍な現代っ子の生き様を見るような典型的成語。なぜはっ
きり「感ずる」と言えないのか。現代の情報過多からカルチュアショックに陥り、事物の
核心を把握し得ず、そのまわりを撫でまわす「感覚語」を乱発するようになったものと推
測する。
「省略語」
「かわいいジァン」は「可愛いじゃないの」
「 彼 イ カ ス ジ ァ ー ン 」 は「 彼 は な か な か 格 好
さんみいったい
いいじゃないの」の語尾を省略したもの。これは若者達の「怠惰」と「隠語の愉しみ」と
「 情 感 語 」 が 三 位 一 体 と な っ た も の で 故 意 に 語 尾 を ぼ か し た、 稚 語 に 比 す べ き 言 葉 と 言 え
よう。
「諦観語」
「シラけるー」は、
「物が乾燥して白くなる」ことを原義とするが、実際には単に「興味
がさめる」程度の意味にしか使われていないようである。「誇大表現」の一種ともみられ
よう。
「誇大表現」
も の ご と を「 誇 大 に 表 現 」 し よ う と す る こ と も 現 代 語 の 特 長 と 言 え そ う だ。「 ミ ジ
メー!」の本義は「惨め」
、
「見るに耐えられないような様子」のことだが、実際に若者達
30
「偏窟のすすめ」
の様子をのぞいてみると、そのような悲惨な状況に遭遇しているわけではなく、単に誇大
に表現しているに過ぎない場合が多い。最大で「気の毒に」程度のようだ。
「名前のカナ呼称」
「ケン」
「アキラ」
「カズコ」
「ユーコ」など氏名をすべて「ファースト・ネーム」で呼ぶ
のも昨今の若者の特長のようである。これは明らかに、欧米で親密な友人知人を「ジム」
「スティーヴ」
「ジャネット」など「ファースト・ネーム」で呼んでいるのを、映画やテレ
ビのシーンなどで見て、
「かっこいい」と飛びついたものだろう。「簡潔」でカッコよかっ
たら、若者が飛びつかない方がおかしいくらいだ。
「カタカナ乱用」
「ミーのフレンドって全くツイてないよナー。ハワイでウェディングの後、グアムへハニ
ムーンに出かけたが、そこでカー・アクシデントがハップンし、いまホスピタルでトリー
トメント中だってサ」
助詞。副詞、固有名詞以外凡てカタカナによる英語表記の羅列である。「嗚呼! 日本
語よ。いづこへ……!」と叫びたい。地名、人名など固有名詞は止むを得ないとして、美
しい国語、日本語の喪失には今こそ歯止めをかけねばならない。「商戦」を「バトル」と
言い「商品を購入したこと」を「ゲットした」と言う。日本語に転化できない言葉は止む
得ないとし立派な日本語があるに拘らず外国語を使うなど論外である。そして最大の問題
31
は、若者達が日本語より英語の方が「カッコいい」と思っていることである。
いづれにしても、現代っ子の使用する日本語は、長年培われ磨かれて来た日本語の、伝
統的表現上の約束を凡て否定し、語彙らしい語彙は見当たらず、仮りにあったとしても、
本来の意味とはかけ離れた用法に使用され、日本語の文体としての体裁をなさないもので
ある。
果してこれを、日本語の変遷の一過程と呼び得るだろうか。これは將しく伝統的日本語
の「崩壊」と言わざるを得ない。
その意味で次の井上靖の言葉は示唆に富んでいると思われる。
「若者たちに青春を賭けさせる言葉はあるが、生涯を賭けさせる言葉となると難しい」
(
「わが一期一会」
)
井勝一郎は、
「美しい言葉から美人は生 れる」(「現代美人論」) と言う
また、評論家亀
あやか
が、私はこれに肖り「伝統によって磨かれた美しい日本語の保持から、美しい日本は蘇生
する」
と言いたい。
民族が、自国と自国語に誇りを失ったとき、その国家は消滅するのだから……。
32
「偏窟のすすめ」
六、日本語を守ろう
な
「官公庁の白書などに聞き慣れない専門用語が多過ぎる。もっと、
先搬、小泉首相は、
庶民にわかり易い言葉にすべきた」という意味のことを述べた、この意見を受け、国立国
語研究所が、二〇〇二年八月「外来語委員会」を設け、最近その中間報告が発表された
が、
「遅きに失した」感あるも「何もしないよりまし」 BETTER THAN NOTHING TO DO
といっ
たところだろう。
筆者はこの件に対し、二十年以上も前から「外来語委員会」の設置を訴えて来た。
「
『外来選定委員会』の設定
なま
日本には「国語審議会」の中に、
「表記部会」や「述語部会」がある。しかしこれは転
入された外来語の表記を全国的に統一しようとする部会であって、外来語それ自体の進入
を積極的に防遏しようとする国家機関ではない。生のままの外来語、つまり外国語が異常
にわが国で繁茂しているのは、その語彙に対する適切な訳語がないからというより、むし
ろ奇をてらい、学識を披瀝しようとするために使用されている傾向が強い。つまり、それ
に対する適切な日本語が存在していないため、止むなく外国語を使用している場合は稀有
である。特殊な専門語、固有名詞を除いて、輸入外国語の防止まだは、その外国語に対す
る適切な日本語訳の選定ないし国定化は、充分検討の余地があると考える。
33
「外来語(乃至外国語)選考委員会」の設置は急務である。奇をてらうような生の外国語
を新聞や雑誌などの出版物及びラジオやテレビなどの放送媒体から閉め出し、不必要な外
国語の蔓延を阻止して欲しいものである。ここらで、「時世の趨勢だ」などと手をこまね
いて傍観することなく、積極的に「滅び行く日本語」に歯止めをかけ、われわれの祖先が
営々と築いた「美しい日本語」の保持に誠意努力するのは、われわれに課された、当然の
課題であると考える。
以上がその要旨である。從って「やっと政府が腰を上げてくれたか」の感が強い。今後
は前述通り、新聞や雑誌、テレビ、ラジオなど凡ゆるマスメディア(大衆報道媒体)の語
彙、熟語、表音などに目を光らせ、
「国家は売り渡しても、言語は売り渡さないぞ!」と
いう自覚を持ち、日本語で表記できるものは、どしどし日本語で表記するようメディアを
4
4
4
4
4
4
指導していって欲しい。因みに筆者が最も嫌いな「日本語英語」は、商品などを手に入
れることをすぐ「ゲットした」と言うことと、「商戦」などをバトルということ。前者は
「買った」又は「手に入れた」後者は割引「合戦」など立派な日本語があり、外国語を使
かっこ
う必要性は毫もない。外人でも使わない「日本語英語」を耳にすると、一瞬恥ずかしさで
身のすくむ思いがする。
文章で、どうしても英語を使う必要にせまられたら、最も適切な日本語を括弧内に併記
しよう。会話の場合、もう一度日本語で言い直そう。特殊な専門用語や固有名詞を除いて
34
「偏窟のすすめ」
日本語訳出来ない概念や熟語など、この世に存在しない筈だから……。
「国際化とは、決して日本語を捨て、外国語(国際公用語の英語)を喋り、書くことでは
ない。就中「外国語が話せる日本人は知識人だ」とする考えは、この際徹底的に打破する
こと。まづそのことを徹底的に子供達に教え込む必要がある。フランス人の自国言語に対
するプライド(誇り)の高さを学ぼう。
「日本語は、表記の多彩さと、その表音の美しさ
では、世界一貴重な言葉なんだゾ」と。しかもこの「日本語英語」は、時として外人に通
じない場合があるので始末が悪い。
これは余談だが、その会話や講演や著書にやたら外国語を使うことで有名な知識人がい
るが、さぞや英会話もうまかろうと思っていたら、外人記者クラブの米人記者が、彼の話
の内容をはかりかね頭をかしげていた。また先日も日本から訪れた大学教授を、あるアメ
リカ人に紹介したが、彼が後日私に「本当に彼は日本で英語を教えているのか?」と訊い
た。仕方がないので私は「古来日本の英語教育は、文法が主なので、会話とくに発音には
なまぬる
難があるんだよ」とにごしておいたが……。前述の首相の要請で答申した国立国語研究所
の「外来語委員会」は、これは強制でなく「参考」であると述べているが、そんな生温い
ことを言っていたら、現在わが国に押し寄せている「疾風怒濤」の如き外国語の洪水は防
さっきゅう
ぎようがない。
早急に「外来語表記英・日・対照表」を作成し、各メディアへ送り指導すべきだろう。
35
なにかというと、憲法の保障する「表現の自由」を振りかざし、政府関与に反撥するマ
スメディア(報道出版媒体)だが、しかしこれだけは理解して貰わなくては困る。將に日
本は今、言語文化国家存亡の危機に瀕していると言って過言ではないのだから……。(参
考までに、前項「現代語を考える」―あるバス停にて―を読み返して頂きたい。これは英
語でなく「若者達の言葉」だが、
「日本語の危機」という意味では異句同音である)
またこの際、外国語を会話や文章に混入している人はインテリ(知識人)又はエリート
(選ばれた特権階級)である」とする明治以来の外国人及び外国語崇拝の日本人の固定概
念を打破しよう。
やたら外国語をとり入れ、概念を抽象化し、内容をぼかし、複雑化し、相手を煙に巻く
のが高級な文章であると有難がる子供だましの風潮はもう止めよう。果して本人は理解し
ているのだろうかと疑うような文章もある。自分の思惟を適格に相手に伝達し得る語彙を
選択できないのは、書いている本人の責任である。(自戒!)
われわれはこの際次の示唆に富んだ「猫の言葉」を拳拳服膺すべきであろう。
「俗人は、わからぬ事をわかったように吹聴するが、学者は、わかった事をわからぬ様に
講釈する」
(夏目漱石「吾輩は猫である」
)
とまれ、言語は文化である。一国の言語を守ることは、その国の文化を守ることである。
美しい日本語を大事に守ろう。
36
偏窟と文芸
偏窟と文芸
俳諧・狂歌の世界に見る偏窟
なな
さか
俳諧、とりわけ狂歌の世界は、その作者が偏窟で、世の中を斜め、又は逆さに観察し、
なにより辛辣で達観した洞察力がないと生まれないと言えまいか。三百から五百年も前の
作者のうち、誰が偏窟であったかを知る手懸りは、唯一その残された作品を吟味する以外
方法はない。
「狂言作家はみんな偏窟さ」と言ってしまえば身も蓋もないが、俳諧でも「辞
世」には、その作者の性格がよく現れているように思われ以下有名なところを二、三列挙
し、吟味してみよう。
將軍足利義尚に仕えた後出家し、俳諧連歌書「犬筑波集」を残した山崎宗鑑こと志那重
範には「宗鑑はどこえと人の問うならば、用ありてあの世へと言え」の辞世がある。因み
に「辞世の句」という表現は間違い。宗鑑は近江国(滋賀県)の産で、本名支那弥三郎範
しゃだつ
重だと言われるが、寛正六年(一四六五)生まれで天文二十二年八十八才でこの世におさ
こと
らばしている。俳諧連歌の祖と言われるだけにその辞世は洒脱で垢抜けしている。しかも
宗鑑の死を知らない連中が「宗鑑はどこへ行った!」と騒がないよう、言づけした気くば
37
り辞世が心憎い。
に「東海道中膝栗毛」で有名な十返舎一九こと重田貞一には「この世をば、どりゃお
い次
とま
暇せん香の、煙とともに灰さようなら」がある。これなど駄洒落が効いて傑作と言えるか
も知れない。彼は駿河国、府中藩(静岡県)の産。明和二年(一七六五)生まれ、天保二
年没。その性格については「実直で潔癖」だったと言われる。しかし実はこの人柄が曲者
でこれは「偏窟」の別称。かなりの「偏窟」であったことは前掲の辞世の洒落に表れてい
る。享年六十六は当時の平均寿命を遙かに越えているが、江戸後期の作家曲亭馬琴(滝沢
馬琴)をして「浮世第一の天晴(あっぱれ)の戯作者、著作料で最初に生計を立てた人物」
と評させしめ、明治以降の大衆文芸興隆の道を開いた人だけに、もっと作品を残して欲し
かった。
これらの辞世の「未練調」では、狂歌集「千万紅」で有 名な江戸後期の狂歌師「 蜀山
人」こと大田南畝の次の一首が飛躍が効いて面白い。「冥土より今にも迎い来たりなば、
九十九までは留守と断れ」
はんばく
ところが、家人が彼の言いつけを忠実に守らなかったと見え、七十四才で冥土へ連れ
て 行 か れ て い る。 彼 は は じ め 漢 学 者 を 志 し、 内 山 賀 邸 や 松 崎 観 海 に 学 ぶ が、 天 明 七 年
(一七八七)松平定信の「出版統制令」などに反駁し一旦筆を折り、享和元年(一八〇一)
銅座詰として大阪へ現れ、その後文化元年長崎奉行所詰、五年後には玉川治水視察や勘定
38
偏窟と文芸
いもむし
奉行所において役人として働くが、大阪銅座に現れた際、かつての彼の活躍を知る人々に
ふかし
しょくさんじん
望まれ狂歌の創作に没頭するようになる。自からを「蜀山人」と名乗る大田南畝こと大田
ねぼけ
覃(寛延二年生まれ文政六年没)には蜀山人(蜀山は「銅」の異名)の外、「山手馬鹿人」
(因みに彼は東京牛込生まれ)
「寝惚先生」など自虐的俳号を有することから、かなり偏窟
な歌人であったことが窺える。
「落語」の世界に見る偏窟
ふうぼうりょう
( 一 三 六 八 ― 一 六 四 四 ) 末 期 の 文 人 馮 夢 龍( 一 五 七 四 ―
落 語 は 元 来、 中 国 は「 明 」
一六四五)が墨憨斎主人の筆名で、古今の笑話(七二〇余話)を集め刊行した「笑府」
が、文禄年間(一五九三~九六)に堺に輸入されたのを創始とする。一方噺本の元祖と言
せいすいしょう
われる戦国時代の説教僧で京都誓願寺の住職であった安楽庵策伝(一五五四―一六四二)
によって寛永五年(一六二八)有名な「醒睡笑」(一〇三九話)が出版され、その八年後
の寛永十三年にはちょっぴりエッチな艶笑小噺集「きのふはけふの物語」
(一五三話)が、
明和五年(一七六八)には京都円屋清兵衛(一七六話)や懞憧斎主人及び墨憨斎王人等に
かのこもち
よって「笑府」の訓訳抄出本(八〇話)が出版され、その後明和九年(一七七二)には木
室卯雲作「鹿子餅」
(六三話)が、文政十二年(一八九二)には遊戯主人によって、これ
39
また中国笑話本の翻訳書「笑林広記」
(三〇五話)が版出されている。(因みに元和元年
(一六一五)から慶応四年(一八六八)までの二百五十三年間に実に一千冊以上の笑話、
ネ
タ
落咄本、滑稽本、軽口本、艶笑小咄本が出版されている。その為本稿ではその凡てを網羅
できないし、またそれは本稿の目的ではない)そしてこれらの小咄を出典に江戸小咄や古
川柳が生まれ、それをまた脚色して一編の笑話や教訓話や人情噺に仕立てたのが現代の
「落語」で、從って落語はわが国における一種の「継承伝統文学」ないし「伝統文芸」と
呼んで過言でないと思う。
しかし本稿は「落語の沿革」が目的でなくあくまでも「偏窟」がテーマである。從って
ここではそれらの落語に登場する人物の「偏窟ぶり」に焦点を当ててみたいと思う。
落語の登場人物で、最も一般的なのが「八五郎」や「与太郎」で、それよりチョッピリ
マシなのが「熊さん」
(
「さん」づけで呼ばれている分、人々にリスペクト(尊敬)されて
いる?)この三人が看板スター(役者)で、その脇役が、一見博識で人情味があり、よく
長屋の住人の世話をやく反面、頑固で偏窟な「ご隠居さん」と大概相場は決っている。
きょう
從って本稿のスポット(焦点)は、当然このご隠居さんに当てられる。
いっ とき
「オー。熊さんぢゃないか。どうした。まァーあがれよ」「へー。今日はちょっとご隠居
さんにお伺いしたいことがありまして……」
「ホー。これは珍しい。『聞くは一時の恥、聞
かざるは末代の恥』と言うからナ。でその聞きたいことってなんだネ」「へー。こないだ
40
偏窟と文芸
ありはらの なりひら
『百人一首』を読んでたら……」
「ホー。これはまた珍しい。熊さんの口から『百人一首』っ
て言葉を聞こうとは思わなかったナ。で、貭問ってなんだネ」「ヘー。在原業平の『千早
振る、神代もきかず竜田川。からくれないに水くぐるとは』とはどういう意味ですかい」
「ですかいって、熊さん。こんな簡単な意味も知らないのかい」「ヘイ。知らねェーからお
伺いに参りました」
「しょうないな」
「じゃご隠居もご存知ないんで……」「じょ、じょう
だんぢァないよ、熊さん。この町内じゃ表を歩くとエンサイクロペチャ(百科辞典)が歩
すもう
いてるって噂してるくらいなんだよ」
「ぢァー教えて下さいナ」「じゃ、よーく聞くんだ
よ。二度と教えないから」
「ヘイ」
「竜田川ってーのは相撲取りの名だ」「エッ! 相撲取
おいらん
りですか」
「そうだ。その相撲取りの竜田川が華魁の『千早』に恋をしたわけだ」「なるほ
ど。相撲取りが華魁に恋して悪いって法律ありませんからな」「ところが、身分の高い華
魁のことだ。竜田川を振ってしまった」
「気の毒に……」「そこで番頭の『神代』に、『な
んとかとりなしてくれ』って頼むが、
『本人が嫌いだと言ってるんですから無理ですよ』
と言ってとり合ってくれない。仕方がないので竜田川は田舎へ帰って家業の『豆腐屋』を
始めた」
「ホー。相撲取りが豆腐屋をネ。さぞ腰の強い豆腐ができたんでしょうネ」「余計
なこと言いなさんナ」
「ヘイ」
「それから何年か経って、ある日竜田川の店の前に、女乞食
が立っていて『ここ二、三日何も食べていません。どうか一口でいいですから、卯の花、
つまり『オカラ』
『を下さい』
って言うんだナ」
「可哀そうに」
「ところがさすが竜田川、顔、
41
体はやせ衰え着物はボロボロだが、彼女こそ数年前俺を振った恨み積る『千早』だと見
う
破ってしまうんだナ」
「それで」
「ざまァー見やがれその格好。俺を振った神の報いだ。お
メーにやるオカラがあったら、犬にやった方がよっぽどマシだ。トットと消せろッ!』と
彼女を追っ払ってしまった」
「可哀そうに。それで」「それで世をはかなんだ彼女は、そば
の井戸にどんぶり身を投げ息絶えてしまった。というわけだ。どうだい、わかったかい」
「ヘイ。でも最後が『水くぐる』ならわかりますが『くぐるとわ』の『とわ』とは何です
かい」
「アー、それか。それはだナ……つまり『千早』は店で使う『源氏名』で、『とわ』
が本名だ」
(
『千早振る』筆者抄)
世の中には随分、ものを知らないのに知ったかぶりをし詭辯を弄する人がいるもので、
ひどいご隠居もいたものです……。
り「無知」ないし「こじつけ(詭辯)」若しくは「屁理屈」
これは一見「偏窟」と言うよ
いえばいはるるもののゆらい
(從って「醒睡笑」巻一の「謂被謂物之由来」
(事物の語源説明)ないし無知の僧(無学の
めんつ
僧の話)に分類されそうに思うが、自らの僧侶ないしご隠居という社会的立場又はプライ
ド(誇り)から面子を重じ「知らない」と言えない。つまり素直でない、從って「偏窟」
であると言えよう。
(六四話)の中にあり「百
因みにこの源話は、安永五年(一七七六)来風山人著「鳥の町」
人一首講釈の看板をかけ「どのような事をいふぞ」と聞かば、講師しかつべらしく「今晩
42
偏窟と文芸
はり
は在原業平朝臣の詠歌の下を申します。この歌は『千早ふる神代もきかず竜田川 からく
れなゐに水くゞるとは』これはそのかみ、竜田川と申す角力取が、千早といふ女郎の方へ
じゃけん
とり
たびゝ通ひましたが、張の強い女郎でござって、愛らしいこともなかった。されど竜田川
はことの外執心にて、かむろの神代といふを賴みましたが、神代も同じく邪見者にて執も
ちを致さず、さるに依って「千早振る神代もきかず竜田川」と申します……」と続く。
現代の落語家は、一切このことには触れずさも自分でこしらえた咄のように得意気に、
枕や枝葉をつけ、自分の持時間一杯高座で喋っているわけである。
がまん
それはそれで一向差しつかえないのであるが願わくば、古来四百年以上も、われわれの
先輩によって延々と語り継がれて来た、わが国の伝承文芸の奥深さに、心して欲しいもの
である。
「人間は我慢が大切だと申しますが、そのがまんも度を越しますてーと、人の逆を言い
へ ん こつ
たくなるもののようでございます。つまり「 偏窟」ですナ。よ く銭湯などで、湯は あつ
くて入りかねている客を見ますと、わざと「なんでい、こ の湯、からっきしぬる いじゃ
ゆ
ねェーか。オーイ、番頭、もっと熱い湯出してくれーッ!」なんて、顔から頭のてっぺん
まで真赤に茹で上っているのに、ヤセ我慢している偏窟男をよく見かけます。これも人が
見ているから強情を張るのでありまして、しかもこの見ている人がうら若い女だった場合
もうイケません。
43
「エエ、この灸少しおあつうございますが、体のためですから我慢なさって下さいまし。
途中でおやめになる方も随分いらっしゃいますが……」灸の順番を待っているお客さん達
がジーッとこちらを眺めている手前、
「お手柔らかに」とは金輪際言えません。「何言って
やふぁんでーい。おらァー江戸っ子だい。たかが灸ぢゃねェーか。どんどんすえてくん
ねェー」
「どこへいくつすえますか」
「かまァしねェーどこだってええー。どんどんたきつ
けてくれえー」まるで放火魔です。
「いくつほ ど 」「 な ー に 三 十 二 ほ ど ……」 ひ で ー 男 も
いたもので、灸一つすえても飛び上がるくれえあついというのに三十二ものもぐさに一
遍に火をつけたからたまりません。背中は不動様みたいに火を背負って、まるでカチカ
チ山の狸です。この様子を座って順を待っていた若い娘が「まァーなんでがまん強い方
だろうネ。私もいつまでも独りぢゃいられねェーんだから、こういう男らしい人を夫に
持ちたいワ」なんて言った声が聞こえたらもうイケません。火に油をそそいだようなも
の で す。 ウ ー ン、 ウ ー ン、 と 熱 さ に 耐 え、 う め き 声 を 上 げ な が ら そ れ で も「 ウ ー ン。 じ
れってェーなァー。もっとジャンジャンやってくれーッ!」と叫んでいます。もう背中は
もぐさが浅間山みてーに盛り上って、中央から真赤な炎を吹き上げています。「ウーン、
ウーン。なに言ってやがんでー。八百屋お七は、十七か十八で火あぶりになってらァー。
ウーン。石川五右衛門を見ろ、油がぐらぐら煮立ってる釜の中へ「ズボーン」と飛び込
んで辞世を詠んでやらァー。ウーン。〽石川や浜の真砂は尽きぬとも…ウーン。むべ山
44
偏窟と文芸
風を嵐と言うらむ…となァー。ウーン、ウーン」と唸っていたが、遂にたまりかねたの
か「ギァーッ!!」と悲鳴を上げ、火のついたもぐさを叩き落とすと「ウワッ、ウワッ、
アチチチ、タハハハ……」
「どうなさいました」
「五右衛は、さぞ熱かっただろうナ……」
(
「強情灸」筆者抄)
「偏窟」のなせるわざのようです。
このヤセ我慢も、
「灸」に関する小咄には、文政二年(一八一九)に発刊された小野秋津撰による「恵方
棚(一九話)の中の「灸」がある。
「コリャ三助、ここえ来て灸すゑてくれ」
「畏まりました」とすゑかかる。「ヤレあつい。
コリャどふする」
「コリャ皮切りでござりますから、ちとあつうござりませう。御辛抱な
されませ」
「べら坊め、気の利かねへ。皮切りは後へ回せ」
灸が熱いのは、江戸時代も今日も変りありません。灸の看板は最近都会ではめっきり見
かけなくなりましたが、それでも田舎へ出かけると「鍼灸治療所」の看板を見ることがあ
ります。私の幼少の経験から言うと、灸は特に最初にもぐさに火をつけた時が最も熱いよ
うでして、後は段々その熱さに馴れ、余り熱く感じなくなるようです。しかし、だからと
言って最初の熱い灸を最後にまわせとは、無理難題と言うものでしょう。
とまれ、中国笑話を起源とし、それを改良工夫して派生した「落語」の世界には、色々
偏窟者が登場するようです。
45
否、偏窟者は落語の登場人物ばかりとは限りません。それを演ずる落語家の中にも随分
と偏窟者がいたようです。三代目三遊亭金馬(本名加藤専太郎 一八九四~一九六四)な
い こ じ
どその筆頭で、
「かたくな」というか「依怙地」と言うか「偏窟で頑固一徹」、自分の弟子
にすら余り落語を教えなかったという位で、弟子の中には他の師匠に教わった者もいたほ
どで、これでは何のために弟子入りしたのかわかりません。
このように彼は高座でも私生活でもいかんなくその偏窟ぶりを発揮したようですが、そ
の最大の傑作は彼が臨終の際とった行動でしょう。彼は死の床で「私儀この度、拙者無事
死去つかまつり候間ご安心下され度く……ふだんの頑固お許し下さい」と自分の死亡広告
を書き新聞(東京新聞?)に掲載したと言われる。
し
自分で自分の偏窟を認め、臨終の際そのことを詫びるなど可愛いではないか。愛すべき
人物である。あるいは彼の偏窟は、彼自身意図的に仕込んだゼスチュア(見せかけ)だっ
たのではなかろうか……。
「一芸を極めるに、偏窟に如くはなし」
從って、偏窟者の金馬が、偏窟者の登場人物を演ずるのですから、その落語が面白くな
い筈はありません。金馬の演ずる「強情灸」は神技と呼んでよく、將に国宝級で圧巻でし
た。
あの特異な風貌と、ちょっぴり舌足らずで高音の、江戸っ子特有の「べらんめー調」
46
偏窟と文芸
……今にも顔前に彷彿と蘇ってくるようです。
「偏窟者」は大事にしたいものです。
わが国特有の伝承文芸である落語同様、
文学の世界にみる偏窟
二葉亭四迷
「 文 言 一 致 」 を 唱 え、 ツ ル ゲ ー ネ フ の 邦 訳「 あ い び き 」 で
わが国近代文学の先駆者で、
自らこれを実践した二葉亭四迷の本名は長谷川辰之助であるが、彼がペンネームを「二葉
4
4 4
4 4
4
4 4
ふたばってーしめー
亭四迷」としたのは、頑固な尾張藩士であった父親吉数から「てめえみてーな偏窟者は、
くたばってしめえ……」と言われたため、その表音を漢字に当てはめ「二葉亭四迷」にし
たとまことしやかに伝えられているが、これは巷説で本当は、東京外語露語科を中退後ツ
ルゲーネフやトルストイ文学に傾倒、それをわが国に紹介する作業の中で、ロシア文学の
偉大さに圧倒されると共に自分の非才さを知らされ、自身自虐的となりそのようなペン
ネームをつけたのではあるまいか。しかしあの品行方正で成績抜群だった彼が母校が東京
商業に吸収合併されるという理由だけで、卒業間近退学しているところに彼の純粋さ、一
徹さ、偏窟さをみることができる。またその「自虐ペンネーム」もむべなるかなである。
あるいは父と同卿の師、坪内逍遥の名を借り発表した「浮雲」第一編は、戯作者式亭三馬
47
(本名菊地久徳)の文意をまねたとされているところから、彼に傾倒するあまり「式亭」
の「式」の「エ」の柱を取り去り「弐」を「二 」 と し た と も 推 測 さ れ る。 い づ れ に し て
も、最初軍人を志望し陸軍士官学校を受験したが失敗、次に外交官を目指し東京外語に入
学したが、前記理由で卒業間近に退学、国際問題の理想を追いハルピンや北京など放浪、
帰国後心ならずも朝日新聞に入社、得意のロシア語を生かしゴーリキーの「ふさぎの虫」
やゴーゴルの「むかしの人」を翻訳発表する傍ら、長編小説「其面影」他を書いているう
ち文学に目覚めそれに生涯をかけようと思う反面、常に初恋が顔前にちらつき人生に対し
懐疑的であった彼……。それら満たされない胸中、屈折した人生や知見などから、自虐的
偏窟な性格が次第に形成されていったと言えまいか。
森鷗外
鷗外の偏窟の第一の理由は、そのペンネーム(筆名)の命名にある。彼のペンネームに
ついては諸説あるが、
「鷗外」とは「鴎の外」の意。つまり当時千住にある「かもめの渡
し」は吉原の別称。從って「夜明巷暗近寄るべからず」私事ならが、これは私が上京する
際、叔父から受けた忠告の言葉であるが、鷗外は自ら「私は遊郭の地に近寄らず、ひたす
ら学問の道に励みます」という自戒をペンネームに託している。(「鴎外みちしるべ」)血
気盛んな若者が一歩も遊郭に足を踏み入れないというのは、やはり偏窟か。それをわざわ
48
偏窟と文芸
ざペンネームにするのは、もっと偏窟と言えまいか……。
「鷗外漁火(友人斎藤勝壽の雅号「鷗外漁史」
第二は、そのペンネームの多彩さにある。
をもじって)
」
「千朶山房(書斎の所在地千駄木に因ん で)」「観潮楼主人(潮見坂 に因ん
で)
」はまだ良いとして「参木之舎(森の字は参本の木から)「九州隠流(九州に隠れて流
される。つまり小倉の第十二師団軍医部長として九州に左遷されたことを皮肉った自虐筆
名)
」
「ゆめみるひと」
「S・S・S」
「O・P・Q」「ドクトルニルワナ」など総計七十二
個を案出使用、近世文学史上最多筆名保持者である。いくら筆名の命名が自由だと言って
も、これでは命名を自ら楽しんでいるとしか思えない。「先生ちょっとお遊びが過ぎます」
第三は、これだけ多彩な筆名を持ちながら最も多く使用したのは、本命の「森林太郎」
だったということ。もともと鷗外は自分のペンネーム「鷗外」が余り気に入っていなかっ
た様子が見られる。明治三十年(一八九七)彼三十五才の時発表した「そめちがへ」が「鷗
ま
と
外」を使用した最後の作品となっているが、その「鷗外放棄」の弁明がいかにも意味深で
や
いもう
ある。
「 敵 が 鷗 外 と 云 う 名 を 標 的 に し て 矢 を 放 つ 最 中 に、 予 は 鷗 外 と 云 ふ 名 を 署 す こ と を
もと
もと
廃めた。矢は蝟毛の如く的に立っても、予は痛いとは思わなかった。人が鷗外と云ふ影を
捉えて騒いだ時も、その騒ぎの止んだ後も、形は故の如くで、われは故の我である……」
(明治三十三年「鷗外漁史とは誰ぞ」
)因みに彼は当時東京から左遷され第十二師団軍医部
長として小倉に住んでいた。なぜ彼は左遷されたのだろうか。またなぜ彼は「針ねずみの
49
ドケ」のような批判を受けねばならなかったのだろうか。かれは三年後東京の第一師団軍
医部長に返り咲いているから、単なる人事異動だったとも思われるが……。
第四は、文部省から「文学博士」の学位を受けたが、生涯彼はこれを使用せず、蔵書に
は凡て「文学士、森林太郎」としたこと。人も羨む博士号。幸田露伴など喜んで文部省に
貰いに行ったというのに、彼は受けるには受けたが、一切これを使用しなかった。ここに
「文部省官吏の支配に屈してたまるか!」という彼の反骨魂とその偏窟ぶりが伺える。因
みにその真の理由は、学位論文さえ通過すれば誰でも貰える「文学博士号」に対し、「文
と
ま り
ふりつ
あんぬ
るい
学士号」は当時唯一東京帝国大卒のみが受領できる学位で、後者が上位だったからであ
お
る。
(後編「吾輩は偏窟である」―漱石寸描―参照)
第五は、子供達凡てに外国人名をつけたこと。於菟、茉莉、不律、杏奴、類と一応漢字
O
T
T
O
M U R R A Y
F R I T S C H
A N N E
LOUIS
の表記になっているが、実は、オットー、マリー、フリッツ、アンヌ、ルイの欧米人(特
に ド イ ツ 留 学 に 因 ん で ド イ ツ 人 ) の 名 称 を 漢 字 音 に 当 て た も の で あ る。 日 本 語 表 記( 漢
まくす
とむ
れ
お
はんす
字)である以上、役場の戸籍係もこれを受理しないわけにはいかない。しかも、この偏窟
じょうじ
伝統が孫にまで受継がれているのはうれしい。 長 男 於 菟 の 子 供 真 章、 富、 礼 於、 樊 須、
常治がこれである。今でこそ日本人名と思えないような名前が平然とつけられているが、
二百年以上も前は大英断である。単に「鷗外の外国かぶれ」では済まし得ない。彼の反体
制的偏窟ぶりを窺い知ることができよう。このように、文久二年(一八六二)に生まれ、
50
偏窟と文芸
東京帝大医学部を卒業後、医学、文学の道を極め、「医学博士」「文学博士」の称号を得た
上、陸軍軍医総監、宮内省帝室博物館総長、帝室美術院院長を務めるなど、階級社会の最
高位まで登りつめ、大正十一年六十歳でその生涯を閉じるまで、一生、特にその後半生は
文名に溺れることなく反骨、偏窟に貫かれていたように思う。夏目漱石と共に「わが国に
おける偏窟文豪の横綱」と呼んで過言であるまい。しかもその偏窟は、隣近所の単なる偏
窟爺(いえ、筆者のことです)と異なり、合理性に裏づけられた偏窟だった。
よ
いわみのひと
ほっ
文面こそ、その証
そして彼は、死の瞬間まで、その偏窟ぶりを固辞いしかた。彼の遺言状いの
えど
左である。
「 死 は 一 切 ヲ 打 チ 切 ル 重 大 事 件 ナ リ。 奈 何 ナ ル 官 権 威 力 ト 雖 此 ニ 反 抗 ス ル 事 ヲ
得ズト信ズ 余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍省皆縁故アレドモ生死
もりりんたろうのはか
別ルゝ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス 森林太郎トシテ死セントス 墓ハ森林太郎墓ノ
ほか
べか
外一字モホル可ラズ……」※
※鷗外は大正十一年七月九日死去したが、これはその三日前友人賀古鶴
なん
なになに
所に筆記させた遺書の一節である。
ざ
等とか○○会社々長とか、やたら生前の肩書きを仰々
最近の新聞の死亡広告には、勲○
はい
しく書き立てているのを見るが、死んでしまえば凡てパー、「灰さようなら」である。い
かなる地位、名誉も「浮世の戯れ事」さすがわが敬愛する偏窟文豪である。
51
たるほ
稲垣足穂
足穂を「偏窟文豪」の範疇に捉えることはできない。それが彼が「文豪」と呼ぶに足ら
ないからでなく、逆にそのカテゴリーを遥かに超え、「全宇宙的」であるからである。つ
まり「文豪以上」
「超文豪」ということになる。
かれは明治三十三年十二月二十六日、大阪は船場に生まれているが、その年は西暦で言
うと一九〇〇年に当り、二十世紀最初の年である。そのことが彼の足跡と人格を考察する
場合、何か暗示的であるという気がする。実際彼自身「私は『マックス・プランク』が旧
時代を絶縁する量子常数『h』を発表した同じ年、同じ月に生まれている」と、「ヰタ・
アピール
マニキカリス」
(昭和二十三年刊)の中で述べ、旧弊に捉われない自分のユニーク(斬新)
さを誇示している。
そしてその奇怪な風貌……將しく「和製ラスプーチン」か……巨大な頭、しかもその頭
めがね
頂はタコ入道のように禿げ上り、太い黒ぶち眼鏡をかけ、特大のシガーをくわえ、男爵と
「ホーデン侍従」をフンドシ一本に包み、スッ裸で和室の小机に向っている恰好は、まる
で海坊主が書斎にはい上ったようで怪奇でユーモラスですらある。
しかも少年時代から飛行機に興味があり、そして宇宙に並々ならぬ興味と造詣を示して
いることから、実際に宇宙の彼方の彗星から地球に乗り移ったため彗星恋しさに「星を売
る店」
(昭和元年)
「第三半球物語」
(同二年)
「天体嗜好性」(同三年)など立て続けに書
52
偏窟と文芸
いていると思わせるほどである。そしてもっと奇怪なのは、その歯に衣を着せぬ毒舌ぶり
である。
「詩人は『よだれたらし』で『蟹の泡』である」(大正十五年『新道徳感覚』)と
うそぶ
喝破、
「婦人は容貌が不均衡な方が美人である」
(昭和二十三年「美少女論」とか「女に美
人はいない。美少女は美少年の変型である」
(昭和四十七年「男と女」)と嘯く。特にこの
少年には異常な嗜好性を示し、足穂自身そのことに触れ、私の最も興味のある物に関し
「私における3A」の中で、最初のAが「飛行機( AIR PLANE
)次が「天文学( ASTRONOMY
)
ふる
そして最後が「A感覚」つもり「ウンコしたいような震え」(これこそ学芸の源泉である
と言う)または「少年愛」つまり「 ANUS
(肛門)」これが「私の生涯のテーマである」と
喝破している。
しかも江戸川乱歩との交友を通じ「男色」への興味を深め「黒メガネにろくな男はいな
い」と言いながら野坂昭如と戯れている。
昭和初頭アルコールやニコチン中毒によって創作不能となった時期もあったが、「幸福
の正体は倦怠、または慰安ないし気晴しに過ぎない」(昭和二十三年「実存哲学の余白」)
とか、若者達に向って「君達の語る愛は、いとも愚昧なカリカチュア(戯画)に過ぎない」
(同年「まことの愛」
)と言い「生きるにしても死するにしても二十五才までに決めろ!」
(昭和四十九年「二十五才までに決定すべきこと」)などセンセーショナルな言辞を投げ、
若者達にハッパをかけている。
53
「光陰矢の如し」この時足穂七十四才。既に老境にあって、わが来し方を振り返り、これ
からの日本を背負って立つ若者達に対し、これは彼の血を吐くような叫びだったに違いな
い。
「群像」に発表した「A感覚とV感覚」の中では、われわれ人類の両性、つまり
一方、
「P(ペニス)感覚」と「V(ヴァギナ)感覚」は相対的限界を持つものであり、「A(ア
ヌスつまり肛門)感覚」こそ、絶対のものであると説く。
つまりこのことが彼の「少年愛」や「男色」につながるのであろう。
ロマンとメルヘン、ニヒルとパラドックスを匠に駆使した言辞。しかもこれを実践する
行動力は驚異に値し、將に破天荒で捉え所のない人物と言ってよい。もう「偏窟」という
概念などでは到底収まりきれない大文豪である。これこそ、偏窟者の私が、鷗外、漱石、
荷風についで、大文豪として敬愛、推奨する所以である。
永井荷風
マージャン
荷風というと、私は浅草のストリップ劇場「フランス座」を思い出す。昭和二十七年ぐ
らいだっただろうか。当時大学では「レッド・パージ」の嵐が吹き荒れ、「休講」の掲示
が頻繁に出たが、それが出ると、学生達は「図書館」組、「麻雀」組、「映画館」組、「帰
宅」組と、ほぼ四組に別れて散ったものである。私は映画館組で「赤い靴」「わが谷は緑
54
偏窟と文芸
なりき」
「落ちた偶像」
「オルフェ」など、洋画、中でも文芸作品を好んで鑑賞、西欧人の
生活の中にみるモダンな文化の香りを嗅ぎつつ、いつの日にかあのような優雅な生活をし
てみたいものだと夢想したものだが、計らずもその十年後その願いが叶い、渡米、今日に
至っている。また映画の外、興が向くと浅草のロック街を散策し、「ロック座」「浅草座」
「 フ ラ ン ス 座 」 な ど の ス ト リ ッ プ 小 屋 に 学 生 服 の ま ま 入 っ て か ぶ り つ き、 赤 や 青 や 黄 色 の
めがね
スポットライトに浮かぶ、この世のものとも思えない踊り子たちの華麗で妖艶な姿態に
酔ったものである。
そんなある日のことだった。舞台がはねての帰りがけ、楽屋裏口から黒ぶちの眼鏡を
か け、 よ れ よ れ の 紺 の ス ー ツ に ネ ク タ イ 姿 の 長 身 の 老 人 が、 踊 り 子 た ち の「 キ ャ ッ」
「キャーッ!」と騒ぐ嬌声に送られて出て来た。友人に「あれが有名な永井荷風だよ」と
言われ、驚いた記憶がある。当時彼は文化勲章を受けた頃で、殆ど毎日楽屋へ出入りして
いるということだった。だが、踊り子達に送られ、独り夜道をトボトボと歩く彼の後ろ姿
と、言い知れぬ淋しさをたたえたあの表情が未だに忘れられない。
郵船の上海支店長を務め
父は、元尾張藩士で、維新後高級官吏から実業界へ入り、日本
つね
たこともある久一郎。母は漢学者鷲津宣光(号、毅堂)の次女恒。そのような両家の長男
に生まれながら「荷風」こと荘吉青年は、父の推める実業界入りを拒み、芝居や寄席の世
界に没頭し、文豪広津柳浪や福地桜痴の門下生となり小説修行をしたり、落語家朝寝坊夢
55
楽の弟子となり高座に上がったりし、江戸庶民の生活に心を寄せる一方、ブルジョア的社
会の偽善とモラルに徹底して反逆し、その生活と作品は江戸庶民の戯作者に習う態度をと
るようになった。
明治三十六年から、父の推めで正金銀行の社員となり、アメリカやフランスに駐在した
こともあったが、
「あめりか物語」
(明治四十一年)及び「ふらんす物語」(同四十二年)
を残し、その後「新帰朝者日記」
(同年)
「腕くらべ」
(大正五年~)
「日和下駄」
(同四年)
など数々の風俗小説や随筆集を出版したが、昭和十二年に発表した「濹東綺譚」によっ
て、作家としての地位を不動のものとした。
私生活では、短期間ではあったが、ヨネと結婚したり、芸者ヤイと同棲したこともあっ
たが家庭的には恵まれず、晩年は親兄弟、親類とも縁を切り、孤独を深める反面、殆んど
毎日前記浅草のストリップ小屋の楽屋を訪れ、踊り子達と束の間の享楽にふけった。
昭和三十四年四月三十日、荷風は二千数百万円の銀行預金を残しながら、裸電球の下蜘
蛛の巣の張った六畳一間の破れ畳の上で、家族に見とられることもなく、独り淋しく波乱
に富んだその八十年の苦難の生涯を閉じた。
頑迷で、意固地で、偏窟で、正しいと思ったら打算を越え、職業作家でありながら文春
の菊池寛社長をはじめ、新潮社や改造社と平気で喧嘩するという明治の気骨を持った男の
壮絶な終焉であった。
56
偏窟と文芸
あっぱれ
通俗的社会規範に一切妥協することなく、自分の信念を一生貫き通すということは、そ
う容易なことではない。
天晴れ、われらが先輩「偏窟文豪」!! と大きな拍手を送り度い。
以上、荷風の生涯とその作品を瞥見したがそれらを考察しながら第一に感ずることは、
作品の中で述べられている言辞が、ことごとく彼の実生活を符牒し、かつ実践されている
ことである。それらが彼の実生活のどの部分を指すかは説明するほうが野暮というものだ
が、敢えて蛇足を加えると……。
「ああ、人間の血族関係ほど重苦しく、不快極まるものはない」(明治四十三年「監獄署
の裏」
)
從って彼は親兄弟、縁者と決別し、それを実践した。
「一般に対し絶望した一個人の取るべき道は、
『超然』と高く淋しい冷やかな貴族的態度
を取るより外に方法はあるまい」
(明治四十三年「新帰朝者日記」)
だから寝床以外、背広とネクタイを外したことがなく、英国紳士のように常に革鞄を下
げ帽子をかぶりコーモリを手から離さず毅然とした姿で淋しそうに市内を散策していたの
だ。
「結婚とは、最初長くて三箇月間の感興を生命に、一生涯の歓楽を犠牲にするものだ」
57
(明治四十二年「ふらんす物語」
)
だから生涯独身を通し、結婚しても長続きしなかったのですネ。
いづく
「得ようとして得た女ほど、情無いものはない。この倦怠、絶望、嫌悪、何処から来るの
であろう」
(明治四十二年「歓楽」
)
そのように毛嫌いした女とは、暗に誰を指しているのですか。「ヨネ」ですか、それと
も「ヤイ」のことですか……。
「きちんと整頓しているものよりも、乱れたものの中に、無限の味わいを見出す」(明治
四十二年「ふらんす物語」
)
さ
ず
だからあなたの室は、新聞紙や煙草やマッチや薬や茶碗があちこち散らかり、畳は煙草
の火でそこら中、焦げていたのですネ。実際は彼がアビニオンの娼婦の乱雑な部屋を見て
の感慨だが……。
ゆだ
「肉付きの可愛い女を見るのは非常に愉快なものだ。此の愉快は神様から授与かったもの
だから、我々男性は一生を女の研究に委ねる義務がある」
(明治四十一年「あめりか物語」)
しま
アー、そうだったんだ。あなたが毎日「フランス座」の楽屋に入りびたり、死ぬまで踊
り子達と遊び呆けた理由がわかった。女体の研究だったとは……。荷風の耽美主義躍如!
「日本人は三十の声を聞くと、青春の時期が過ぎて了ったように云うけれども、情熱さえ
あれば人間一生涯青春で居られる」
(明治四十三年「新帰朝者日記」)
58
偏窟と文芸
あなたがニューヨークへ渡ったのが二十四才、帰朝したのが二十九才、まだまだ青春
真っ盛り、先輩、さぞ楽しかったでしょうネ。実は私事ながら私は先輩の勤めた横浜正金
つら
銀行の後身「東京銀行」ロスアンゼルス支店に二十五年勤めました。
「孤独は時として寂しかろう。辛かろう。然し死んでも生きても、そわ全く己の好むとこ
ろであろう。決して彼の耐えがたい思愛や情誼の涙には捉われずに済む」(明治四十二年
「歓楽」
)
にあなたは自分の未来を予言しているようですネ。家も持たず、妻も持たず、親
当時既
きずな
かえりみ
兄弟の絆からも離れ、明日のわが身をも顧ない。放恣で自由な荷風の生活を言い得て妙。
寂しくても、辛くても世の中の煩雑なしがらみに拘束されるよりマシですネ。
イクスキューズ
とまれ、これらの作品に盛られた言葉は、破壊的、実生活に対する 弁 明 だとする観方
もあるが、私はそうは思わない。やはり一つの信念を持って一生それを貫き通すことは偉
大で素晴らしい事だと思う。
59
我輩は偏窟である
偏窟文豪列伝
わがはい
我輩は偏窟である
―漱石寸描―
61
はじめに
夏目漱石は、慶応三年一月五日生まれである。そのため彼の満年齢を数えるのに、いさ
さか便利である。
例えば、英国留学から帰朝した明治三十五年は、三十五歳だったということになる。
そしてその日から今年でちょうど百一年を迎え、生後百三十六年、没後八十七年にな
る。
(注 本稿は二〇〇三年に執筆されました)
この漱石は、非常にユニークな人だった。はっきり言って「偏窟な男」だったと言って
よいかも知れない。將に「吾輩は猫」ならぬ「吾輩は偏窟である」だ。
とお
やんちゃ坊主をそのまま大人にしたようなところがあり、茶目っけとユーモアを兼ねそ
なえ、悪く言えば、一本気のわがまま坊主で、融通のき かない男、よく言えば正 しいと
思ったことは、どこまでも徹そうとする、権威に追従しない一徹な真面目な男だった。
有名な「博士号辞退事件」は、その彼の「真骨頂を如実に示した事件」と言え、内政、
外交とも昏迷の度を増し、財政的にも逼迫し、腐敗に まみれたわが国、官、政界 にとっ
て、今最も求められている男の類型である、と言っても良いかも知れない。
また、不幸にして野口英世にとって変えられたが、永久に千円札の顔として残したい人
物でもある。大富豪どころか、大学と著作料などかなりの収入がある筈なのに、生活費の
62
我輩は偏屈である
外あまりの交友関係の広さによる交際費支出のため、「毎日が火の車でした」と鏡子夫人
を嘆かしめた漱石が、何故、最もポピュラーな日本の千円紙幣の顔となったか不明だが
……。
さて、一人の人物の一生を隈なく記述することは不可能であり、漱石についてもこのこ
とは言える。しかし彼を語るキー・ワードはいくつかある。例えば、「家系」「エリート」
「自尊心」
「ハイカラ」
「狂気」などであるが、どうしても書き落してはならないものに彼
の「偏窟」がある。
「 偏 窟 文 豪 」 が 生 ま れ る に 至 っ た 土 壌 を、 ま わ り の 証
以下、漱石の足跡を辿りながら、
言などから瞥見してみたい。
ユニークな漱石
ユーニーク
へんぶつ
一般に日本語で「ユニーク」という言葉は、「独特の」とか「珍しい」とか、又は「今
までの型にしばられない」という、どちらかと言うと好意的意味に用いられる場合が多い
エキセントリック
パ ー ソ ン
が、英語で「 UNIQUE
」という場合、特に口語慣用句として「変物」とか「偏窟」、又は「変
人( ECCENTRIC PERSON
)
」という意味に使われることが多い。
つまり日本語の場合、ポジティヴ(褒め言葉の一種)であるのに反し、英語は明らかに
63
CONTEMPTIBLE
ネガティヴ(侮蔑的)な意味に用いられ、慣用上「白痴」を意味する場合さえあるので注
ファニー
意を要する。從ってアメリカ人から「あなたはユニークな人ですネ」と言われたら、怒っ
ス ツ ッ ペ
た方がよい場合さえある。それを「ちょっと変わった面白い( FUNNY
)人だ」つまり褒め
たと考えニタニタし、
「サンキュウ」とでも言おうものなら、それこそ「こいつホンマの
阿呆( STUPID
)や!」ということになる。
古来文人には「変人」
「奇人」が多いが、普通「ユニークな作家」と言う場合、病理学
的に頭脳が弱い、つまり低脳、白痴の意味でなく「ちょっと変わった性癖を持った作家」
とか、
「 偏 窟 で 奇 行 の 多 い 作 家 」 を 指 す こ と は 言 う ま で も な い。 白 痴 が 歴 史 に 残 る よ う な
名作を書ける筈がないからである。
そんな作家の横綱は、何と言ってもわれらが夏目漱石。大関が、ペンネームを七十二個
も作って生涯使い分け、
「文学博士号」は、受けるには受けたが生涯これを使用せず、凡
ての蔵書に「文學士森林太郎藏書」と押捺した偏窟文豪、森鷗外。そして関脇は、「文藝
春秋」を始め一流の出版社と片っ端から喧嘩し、晩年は浅草の「ロック座」の楽屋に入り
びたり、ストリッパー達と日々戯れ、二千数百萬円の預金口座を残しながら、裸電球の六
帖間でゴキブリと住み、独り息絶えた文化への反逆 児、永井荷風であろう。そ して「小
ふんどし
たるほ
結」あたりに「A感覚という緊張感」つまり「ウンコしたいような感じや震えがあれば、
これが学芸のもとである」と喝破し、 褌 一本で机に向った昭和の奇行作家、稲垣足穂を
64
我輩は偏屈である
挙げることができよう。
こう し ん
ではなぜ、漱石がユニークな作家の横綱かと言うと、その答は彼のペンネームにある。
つまりそのペンネームが「私はユニークな作家、偏窟男」であると、自ら告白しているの
である。ではそのペンネーム「漱石」を以下考察してみよう。
漱石とペンネーム
(因みに漱石は慶応三年一月五日生まれ。この「庚申
文豪夏目漱石。本名夏目金之助。
の晩」生まれは、大泥棒になるという俗説があり、あわてた父直克はその「厄落し」に
「金之助」という名前をつけたと言われるが、余り「金運」に恵まれたとは言い難いが、
エピソード
大泥棒だけにはならずにすんだようである。
)この金之助のペンネーム「漱石」は、唐の
しんしょ
そんそでん
そうせきしんりゅう
太宗の勅令によって、房玄齢や李延寿らによって編纂された、歴史上の有名人の逸話を集
ひょうよく
めた「晋書」の中の「孫楚伝」の「漱石枕流」からとったと言われる。「孫楚」は秀才の
誉れが高く、馮翊の太守の地位まで登りつめた人物と言われているが、若い頃隠遁しよう
すす
と決め、親友の王済に向って「喧騒な都会を離れ静かな田舎へ引籠り『石を枕にして川の
そうせきしんりゅう
流れで口を漱ぐ』という意味の『枕流漱石』の生活に入る」と言うべきところを、どう間
違えたか、
「漱石枕流」と言ってしまった。友人の王済が「きみ、それは『枕流漱石』の
65
すす
しゃく
間違いではないか」と指摘すると「諺も知らないのか」と思われるのが癪にさわったのか
「いや、これでいいんだ。つまり『意思で口を漱ぐ』のは歯を磨くためであり、『流れを枕
にする』のは、嫌な話を聴いた時、川の流れで洗うためである」と強引にこじつけたと言
う。この「負けず嫌いで強情張り」の「孫楚」の故事がすっかり気に入った夏目金之助が、
これをちゃっかり自分のペンネームにつけたと言われる。
ところが一説には「漱石」というペンネームは、実は親友の正岡子規から譲り受けたと
言うのである。以下述べる事情から、こちらの方が信憑性が高いように、筆者には思われ
る。子規こと正岡子規は明治二十二年に発表した「七草集」で初めて「子規」の名を使
い、それ以前は「漱石」を使っていた。一方、漱石こと夏目金之助が初めて「漱石」をペ
もく せつ ろく
ンネームに使ったのは、彼が大学予備門時代、夏休みを房総で遊んだ際の紀行漢詩文集
「木屑録」からで、発表されたのが同じ二十二年。これは「『漱石』(ノ筆名)ハ、今友人
ノ仮名ト変ゼリ」と言う子規自身の証言(
「雅号」『筆まかせ』)と完全に符号する。事実
子規は「此頃余ハ雅号ヲツケル事ヲ好ミテ、自ラ沢山撰ビシ中ニ『走兎』『風簾』『漱石』
ナドアル」とあり「
『漱石』トワ高慢ナルヨリツケタルモノ」とあることから、百パーセ
ント「漱石」というペンネームは子規から漱石(金之助)に贈られたことは間違いない。
恐らく子規の使用していた「漱石」の俳名が自分の偏窟な性分とピッタリなので金之助の
方から願い出たものと推測される。
66
我輩は偏屈である
みょうせんじしょう
(
「名詮自性」で、漱石のペンネームほど、彼自身の性
いづれにしても「名は体を表す」
格を遺憾なく発揮したものはないように思われる。
うたげ
この偏窟ぶりは、実生活でも十分発揮されたようで……。この話は漱石が「虞美人草」
さいおんじきんもち
を書きはじめた頃だから、明治四十年五月頃だろうか。時の総理大臣西園寺公望が著名な
文士を集めて宴を開くということで漱石のところにも招待状が届いた。西園寺公望と言え
ほととぎす かわや
ば、当時政界のドン。立憲政友会総裁で、前年一月第一次西園寺内閣を組閣し、將に飛ぶ
が
東京へ帰省した際、長兄の大一(後に大助と改名)に
出の学士様だ。誰が頭を下げてまで貰いに行くか!」と我を張り、とどのつまり松山中学
の教師として都落ちしている。
鏡子夫人との見合いの席から帰る
もんなかったよ」と言う。すると漱石はカンカンに怒り、「本人に無断で断るなんて、も
う親でも兄弟でもない!」と言って家を飛び出した。
(3)
67
鳥を落すほどの羽振りであった。ところが漱石は「時鳥、厠半ばに出かねたり」と葉書に
認めこの招待を断っている。首相からの招待を葉書一 枚で断るとは! 厠(便所) の中
で「虞美人草」の想でも練っていたのか……。大した度胸である。というか、彼の名誉嫌
い、偏窟ぶりを如実に示したエピソードであると言ってよい。
この漱石の偏窟ぶりは今に始まったことではなく、 大学を出たての頃、駿河台の井上
ほそおもて
眼科で細面の気立てのよい娘を見初めるが、その性悪な母親が気に入らず「俺だって大学
(1)
「兄さん、縁談の申込みがあったでしょう」と言うから大一は心当りがないので、「そんな
(2)
新年会の福引きで、漱石
と、兄達が「どうだった見合いは?」と訊く。すると漱石は、『歯並びが悪く汚いのに、
お びじめ
それを平気で隠そうとしないところが気に入った」と答えた。
プ ラ イ ド
は「自尊心」 は「被
(2)
「見栄っ張り」は枚挙にいとまがない。この「自分を正直に表に出
かったんだが……」と言った。などなど、漱石の偏窟ぶり(因みに
「偏窟」
(1)
と漱石は「あゝあのハンカチは兄貴の子供のオシメにしたよ。俺としては帯〆の方が欲し
鏡子夫人があの日のことを想い出して、
「あのハンカチどうなさった?」と訊いた。する
「二人で取り換えっこしたら?」と言うので取換えた。結婚してしばらくたったある日、
には帯〆が当り、鏡子婦人には男子用のハンカチが当った。それを見た鏡子夫人の母が
(4)
間に出来た姉妹の妹)
「ふさ」をして「こんな偏窟ぢァ、この子はとても、ものにはなりゃ
しない!」と嘆かせたそうだが、後年文豪として大成したのだから、人の見たてほど当に
ならないものはない。
さて、漱石にはこの外「糸瓜先生」のペンネームがあるが、これは東京第一高等中学
(一高の前身)以来の親友(これは単に「親しい友」という意でなく、「親以上に親しい
たかはまきょし
きよし
友」の意)正岡子規(彼なくして文豪漱石の誕生なし。なぜなら漱石は子規の影響で詩歌
をたしなみ、また彼の紹介で高浜虚子(本名清)を知り、彼の口ききで虚子の主宰する俳
誌「ホトトギス」に漱石の「吾輩は猫である」の掲載が決まり世に出たからである)の辞
68
害妄想」
(4)
さない」偏窟ぶりは、少年時代からだったらしく、異母姉(父直克の前妻「こと」と父の
(3)
我輩は偏屈である
へちま
たん
世の句「糸瓜咲いて 痰のつまりし佛かな」や「痰一斗 糸瓜の水も間に合わず」からとっ
たものだろう。いかに漱石が詩歌の師正岡子規に傾倒していたかがわかる。子規は漱石と
同年(否、正確には子規の方が七カ月少ない)だが、子規を師として立てる漱石も偉い。
かん
ひろし
「 石 居 士 」 屋 号 に「 漱 石 山 房 」 が あ る。「 観 潮 楼 主 人 」「 ゆ め み る ひ
外 に「 則 天 居 士 」
と」
「S・O・S」など森鷗外の七十二個にはとても及ばないが、複数筆名者の多かった
明治、大正文壇の中にあって、菊池寛の一個(これは、本名「寛」の音読みであって、正
さ ん じ ゅう し
し
し
なおきさんじゅうご
確にはペンネームとは呼び難い)よりは多いが、三十一才から毎年ペンネームを変え、
三十四は「四」が「死」に通じ縁起が悪いと飛ばし、三十五で打止めとした直木三十五
(因みに直木の本名は植村宗一。言うまでもなく「直木」は「植」の字を分解したもの。
直木は昭和九年に四十三才で亡くなっているが、ではなぜ三十五から八年間「三十五」で
けい
し
留め、三十六、
三十七……四十三としなかったかについて、假に「三十六」とすると『三六
計逃げるに如かず』とまぜっ返す奴がいるから……とは本人の弁)と同数。「荷風」の外
「金阜山人」居号の「偏奇館」を入れて六個の永井荷風より少ない。
いづれにしても、漱石が「偏窟」な作家であったことは、その作品もさることながら、
そのペンネームが自から証明していると思われる。
69
漱石と家系
「漱石の母は、遊女屋の娘だった!」
なぬし
文豪の母が遊女屋の娘とは!……今だったら間違いな く、雑誌のトップスクー プか、
「中吊り広告」の一位を占めることだろう。
漱石の父、夏目小兵衛直克は、江戸牛込区(現在の新宿区)馬場下の名主(江戸時代、
郡政や代官の下で村政を司る、今で言う村長)で、牛込見附から高田馬場一帯の、当時の
行政権や司法、警察権を掌握していたのでその権勢は強大で、小兵衛が町へ出ると「名主
様のお通りだ」と言って通行人がみな道を開け、中には土下座する者もいたほどだったと
言われる。その名主も明治維新で凋落し一庶民となるが、最初に迎えた妻「こと」が二人
の幼い娘を残して病死したため後妻が必要となり、迎えられたのが漱石の実母「ちえ」
(又
は「知恵」もしくは「千枝」
)である。
「ちえ」は元来四谷大番町の質屋「鍵屋庄兵衛」の娘「福
ところがこの母の里が複雑で、
田栄」の三女であったが、名主夏目家に嫁入りするに当って、体面上異父長姉「鶴」の夫
で「俄長者」
(?)芝將監橋の高橋長左衛(元、川越庄「黒須豊吉」改名)の養女(妹)
とした。
(添付「夏目漱石家系図」参照)
ではどうして「ちえ」が遊女屋の娘などという噂が出たのだろうか。どうやらこれは
70
我輩は偏屈である
「ちえ」の前歴と関係ありそうだ。
「ちえ」は最初下谷の質屋に嫁いだが離縁となり、次姉
「久」の嫁ぎ先、新宿仲町の遊女屋「伊豆橋」に一時身を寄せていたことがあったらしい。
このことから、漱石の文名が上るにつれ、妬み半分に「漱石の母は遊女屋の娘」又は「そ
こで客をとっていた」という噂が広まったものと推測される。(この話は、漱石の次男伸
六による、祖母「ちえ」の姪「民」の娘「高橋栄子」よりの伝聞証言)しかし、だからと
言って、漱石の價値、就中その文学的偉業に何ら瑕疵がつくものでないことは言うまでも
ない。
こ の 複 雑 な 母 方 の 家 系 を 探 る に は 不 明 な 部 分 が 多 い 上、 本 稿 の 目 的 で も な い の で 割 愛
し、漱石直系の系図を略記すると、夏目小兵衛直克と前妻「こと」の間に長女「さわ」次
女「ふさ」があり、後妻「ちえ」つまり漱石の母との間に長男「大助」次男「栄之助」三
男「和三郎」五男「久吉」長女「佐和」次女「ちか」そして「金之助」こと漱石は四男で
ひとし
たけとう
ある。一方、漱石の妻は、貴族院の書記官長を務めた中根重一の長女「鏡子」で、弟妹に
次女「時子」三女「梅子」四女「豊子」長男「倫」次男「壮任」がいる。
そして漱石自身は、鏡子夫人との間に、長女「筆子」次女「恒子」三女「栄子」四女「愛
子」長男「純一」次男「伸六」五女「雛子」の二男、五女をもうけている。
以上が夭折した子供を含めた漱石直系の凡てである。勿論現在はその子供、孫の時代と
なっているが……。
71
私が漱石の系図を瞥見して先づ感づることは、民法上の血族関係とは別に、養子(又は
養女)縁組というシステムが、江戸時代ないし明治維新後、または昭和初期まで(或いは
現在でも)社会規範として立派に認知され、社会秩序上立派に機能していたということ。
夫婦間に子供がいないと兄弟親戚から養子として貰い受け、結婚する際相手の家柄との間
に格差がある場合、しかるべき家に養女として貰われ、その家から嫁入りさせるなど、ま
るでキャッチボールのように子供達がやり取りされ、しかもそれが社会規範として立派に
成立しているということである。社会規範を作り、市民生活を守るのが法律の使命だが、
ミラクル
その法律の満し得ない間隙を庶民の知恵で埋めているところが素晴らしい。
今一つは、一人の文豪を生み出すに至る血族的土壌の神秘さである。例えば漱石の「博
士号辞退事件」にみられる「潔癖性」や膨大な交友関係は厳格で(因みに、ちえは実子佐
和とちかをもうけながら前妻の子を気づかい養女に出している。)品位があり人を惹きつ
ける魅力があったという母「ちえ」から暗黙のうちに受けつがれていると思われるからで
ある。
漱石と博士号辞退事件
漱石の性格を論述する場合、必ずと言ってよいほど引き合いに出されるのが「文学博士
76
我輩は偏屈である
号辞退事件」と言って差支えあるまい。
かずとし
明治四十四年二月二十日、文部省から「学位令」(勅令)によって発せられた「文学博
士」の学位記(これは予備門時代の学友で国文学者である芳賀矢一と、後年「国語大学
典」の編者として有名な上田萬年の推輓によると言われる。因みに上田は漱石の「英国留
学」の推薦者の一人である。
)を、文部省の専門学務局長福原遼二郎から手渡すので、明
朝従事に出頭せよ。もし差し支えがあれば代理人を差し出せ。との連絡を受けたが、本人
は入院中であり森田さんに頼んで代理で受取って貰おうと話合っているところへ、いきな
り「学位記」なるものが郵送されて来た。鏡子夫人が漱石にこの旨告げると「断りの手紙
はく
は俺が書くからそれを添えて学位記を文部省へ返せ」と言う。それで森田草平がそれを直
接文部省へ届けた。
おとり
世の中には自分が社会的箔をつけるため、勲章や学位を欲しがる者が多い。私事ながら
私は大学卒業後母校の教授に師事し、学生に対する講義録や裁判所へ提出する控訴趣意書
や上告趣意書を必死に作成した時期があった。当時ある助教授が「囮捜査」に関する論文
を何遍教授会に提出しても却下されるので、私の恩師に博士号取得のための推薦状を書い
てくれるよう再三訪れたのを想い出す。これほど貴重な博士号(因みに彼の場合「法学博
士号」
)を相手の方から「呉れるから受取れ」と言って来ているのに、これを断り返送す
るなど勿体ない話である。ところがである。これで一件落着かと見えたこの事件、二カ月
77
後の四月十三日再び持ち上ったのである。文部省の福原学務局長から再び書状が送られて
来たからで、曰く「復啓 二月二十一日付けヲ以テ学位授与ノ儀御辞退相成趣御申出相成
い
候間御了知相成度……」つまり「あなたは博士の学位は要らないと言って来たが、既に発
令済であり、あなたはもう博士なんだということは覚えといて下さい。これは文部大臣の
命令である」というわけである。しかし漱石だって負けてはいない。「いくら大臣の命令
オブリゲーション
でも、学位の性質上私の方にもこれを断る権利がある筈だ」と喰い下り、遂に本音で「博
士の学位を押しつけられることで、文部官僚の恩恵を受け(「 借 り 」を作り)たくない。
なにがし
また文部省は学位の授与によって学者をコントロールしてはならない。私は学問が少数の
『博士の占有物』になることを怖れる。私はあくまでも『夏目 某 」として学者の道を歩み
たい。これは私の『自由』主義の問題である」という意味のことを述べている。さすがは
われらが文豪、
「学問の本質とその自由」を訴えた九十年も前の名言に拍手を送りたい。
しかしこの漱石の「博に士い嫌い」は今に始まったことでなく、十年前英国留学中、鏡子夫
人の妹梅子からの「お義兄さん、是非博士になって帰って来て下さいね」という手紙に対
し「俺は決して博士なんかにはならない。博士というのは、自分の専門以外何も知らない
い
という不名誉な肩書きなんだ」という返事を送っているくらいである。また、こんな偏窟
な漱石を見て兄直矩など「自分は要らなくても、子供達の名誉の為にも貰っておけばいい
のに。ほんとうに金ちゃんはすね者だよ」と嘆いている。全くだよ。通信省の電信修技学
78
我輩は偏屈である
校、つまりモールス信号手の養成学校以外、学歴らしい学歴などない幸田露伴など、大喜
がんめいころう
びで貰いに行っているというのにである。
このあたりに、漱石の生来的「頑迷固陋」さと、あくまでも筋を通そうとする偏窟さを
垣間見ることができる。
これは漱石の真意だったのだろうか。漱石と文部省の間にくり広げ
しかしバこトれルは一方お、
もしろ
られる攻防戦を、面白、おかしく書き立てる新聞、そしてそれを一喜一憂して読んでいる
読者に対する一種のポーズ(建前)だったのではなかろうか……という考えが頭をよぎる。
「本音」はつまりこういうことである。当時「博士号」は、医学であろうと文学であろ
うと東京帝大に学位請求論文を提出し、審査さえ通過すれば誰でも博士号は取得できた。
ところが「学士号」は、唯一東京帝大卒業生のみが取得できる学位であった。(明治三十
年、学位令の改正により京都帝大卒も取得できるようになったが……)つまり「俺はそん
や ゆ
ぢょそこらいらの博士号の奴らとは格が違うぞ! 東京帝大卒の『学士』様だゾ!」とい
うわけである。因みに漱石は、小説「坊っちゃん」の中で、赤シャツ教頭のことを「文学
セリフ
士で偉いんだぞ」と皮肉たっぷりに揶揄するくだりがある。彼自身、明治二十六年東京帝
大を卒業している。これは小説の中の登場人物の台詞を通じて、間接的に帝大の偉大さ、
そしてその卒業生である自分を誇示していると見れないこともない。いや、自意識、エ
リート意識の強い漱石のことだ。それくらいの芸当は朝めし前だろう。(こう解釈する私
79
もかなり偏窟
尚、漱石のプライドについては「漱石と自尊心」の項で述べる)
修善寺温泉
このプライドの塊のような漱石が、晩年、とくに明治四十三年八月二十四そ日
くてんきょし
菊屋本店での胃潰瘍による大吐血後、東洋的諦感であり、哲学観である「則天去私」つま
り自己本位の考え方を捨て、自然の中に自分を置いて物事を見る考え方に変わったのだか
おろかもの
ら年はとってみるもの、大病はしてみるものと言えそうだ。「私は五十になって始めて道
を志す事に気のついた愚物」と言い「その道がいつ手に入るか。そこまで行くにはまだま
だ大変な距離があるようだ」……としおらしい事を言っている。しかしこれは漱石の死の
直前の感慨。
いづれにしても、漱石の「博士号辞退事件」は、文学博士号は受けるには受けたが、実
際にはこれを使用せず「文学士、森林太郎」で通した鷗外と「横綱、大関」戦は好勝負で
むじな
ある。その鷗外が漱石の博士号事件に口をはさみ「呉れるという物は喜んで貰えばいいの
に」と述べているのは笑える。
「同じ穴の狢」だからだ。
漱石と自尊心
漱石が、エリート意識が強く、自尊心の高い作家であったことは、「博士号辞退事件」
を筆頭に、数々のエピソードによって立証できるが、漱石自身、明治三十九年弟子野間真
80
!?
我輩は偏屈である
だけ
は
じ
綱に宛てた手紙で「人間は、人が何と言っても自分丈安心してエライという所を把持して
行かなければ、安心も宗教も哲学も文学もあったものではない」と書き述べている。
パ ル ナシ ア ン
また、三十八年に発表した「断片」の中でも「自ら尊しと思わぬ者は奴隷なり」と喝破
している。將に「自尊心」を言い得て妙と言うべきであろう。
「 お 高 く と ま っ た 」 数 々 の 高 踏 派 的 作 品 は、 い づ れ も 彼 の 自 尊 心
漱石の、世俗を離れ、
より派生していると見ることができ、そのエリート意識を裏付けているものは、彼の学歴
であり、大学教授という社会的地位であり、読者の作品に対する評價であり、洋行帰りで
あろう。中でもその学歴は、当時としては充分エリートに値すると思われる。
漱石と学歴
漱石は明治七年十二月浅草区寿町戸田小学校第八級へ入学。九年、牛込区市谷柳町市谷
学校下等小学第三級へ転校。十年、同校を優等にて卒業。十二年三月、神田府立第一中学
校正則科入学。十四年四月、同校が「正則」で英語の課程がなかったため中退、三島中州
の二松学舎で漢学を、駿河台の成立学舎で英語を学ぶ。十七年九月、東京大学予備門予科
(のち「東京第一高等中学校」を経て「東京第一高等学校」と改称)入学。二十一年七月
同校卒業。二十三年九月、東京帝国大学文科大学入学。二十六年、同校英文科卒業。(因
81
みに、同期に正岡子規、中村是公、米山保三郎、上田万年らがいる)続いて同大学院に入
学。
(同期に美大教授となった大塚保治がいる)將にエリート中のエリートコースと言え
よう。
そしてこの間に培われた漢学と、英文学の知識の集成が、後年漱石の数々の名作の花を
咲かせる土壌となったであろうことは、想像するに難くない。
漱石と職歴
漱石の職歴は、至って簡単である。
「教師」と「新聞社」それに自由業の「作家」以外ないからである。
漱石が大学を卒業したのは、明治二十六年であるが、既に在学中に、今で言うアルバイ
トとして、東京専門学校(現在の早稲田大学)の英語講師として教壇に立っている。
卒業後、東京高等師範学校の嘱託英語教師を経て、同二十八年、四国の松山中学校の教
諭となる。翌二十九年、熊本へ赴き、第五高等学校教授として四年二カ月勤務した後、二
年三カ月のイギリスへの官費留学に旅立つ。帰国と同時に第一高等学校教授を拝命。同時
しょうよう
に母校東京帝大及び明治大学講師を兼任する。
四十年、池辺三山、鳥居素川らの慫慂によって大学を辞め、朝日新聞社に入社する。
82
我輩は偏屈である
以上である。
つまり、教師以外の職業は、自由業の「作家」業を除いて、新聞社勤めだけである。
しかも新聞社では、社員と言っても名目だけで、記者ではないので社外に出て取材する
わけではなく、営業ではないので新聞の勧誘や広告取りに駆けまわるわけでは勿論ない。
ただ「朝日文芸欄」を担当し、
「文芸評論」のような物を書き、年一回長編小説を一編、
その他は随時「短編小説」を書く以外仕事らしい仕事はなかったようで、これらの原稿書
きは彼の本業であり、わざわざ出勤しなくても、今までも家でやって来たことである。つ
まり、非常勤社員、ないし新聞社顧問のような存在だったようだ。これで二百円の月給の
外、半期毎に月給三カ月分(六百円)のボーナスを貰うのだから結構な身分である。
「吾輩は猫である」
「坊っちゃん」「草枕」などによって作家として社会的名
要するに、
声を得た漱石を、他の新聞や雑誌に書かせないため、専属ライターとして朝日新聞が社員
の名目で取込んだとみるのが、真相ではなかろうか。
漱石と収入
漱石の収入は、月額三十七円六十銭→八十円→百円→百五十円→二百円と、転職のたび
に上昇。十五年間で約五倍に増額している。
83
因みに、なぜ漱石が東京を捨て、松山くんだりまで落ちて行ったか、謎とされて来た
が、
(鏡子夫人は「失恋によるものでしょう」と言い、次男伸六は「理由はわからない」
と言っている)私の推察では、失恋も原因の一つになっていようが、今までの倍で、校長
より高い給料にひかれたのが、その主な理由と思われる。なぜなら、失恋と松山との間に
は直接因果関係はなく、横浜でも京都でも大阪でもよかったわけで、真相は、失恋(相手
は前述、駿河台の井上眼科で見染め、自分の意固地から疎遠となった女)でむしゃくしゃ
し、遠く東京を離れたいと思っていたところへ、無二の親友であった正岡子規から、彼の
故郷であり母校である松山中学での教鞭の話が出、給料もいいので行く気になったものと
推測される。
(推論の價値は、鏡子夫人も伸六も、前者は結婚前の話、後者はまだ生まれ
ていなかったという意味で、筆者と同格?)
。さて「漱石は、金銭に対して殆んど無頓着
だった」とは、鏡子夫人の証言であるが、それは結婚後の、しかも交友関係の支出に限っ
たこと。収支にわずらわされることを嫌った漱石が、しっかり者の鏡子夫人におんぶされ
ていたまでのことで、早大のアルバイトと言い、帝大、一高、明大かけもち勤務と言い、
朝日新聞入社時といい、特に朝日では、入社契約時の際の金銭の条項に関しては、かなり
クレーム
執拗に条件を出し、中でも入社後最初のボーナスが支給されなかったことに関しては、強
力な文句を出すなど、結構計算高かったと見る。
(「野分」)とか、
すぐ「カッコー」つけたがる漱石は「学問は金に遠ざかる器械である」
84
我輩は偏屈である
「学問をして金をとる工夫を考えるのは、北極へ行って虎狩りをするようなものである」
(同前)と言うなど「あれほど勉強して学問を収めたのに、実際社会に出たらちっとも収
入は増えない」と嘆いているように見えるが、どうしてどうして、朝日新聞勤務前後(明
治四十年。丁度「野分」が発表された頃。正確には「野分」同年一月発表。四月朝日新聞
入社。從って、学校の給料だけではなかなか収入が増えないので、池辺らの誘いに「渡り
に舟」と乗り入社したとも見える)は、月給の他原稿料、印税などかなりの収入(推定年
収三千六百円以上。現在の金額で一千万以上?)があったものと推測される。
4
4
4
4
これ
その分、漱石の交友関係の支出がまた大きかった。因みに漱石は「猫」の口を通じこ4う4
嘆かせている。
「金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないと云うのさ……義理をかく
(欠く=角)人情をかく、恥をかく、是で三角になる」
具体的には、交際費(冠婚葬祭費、病気見舞他)書生の小遣い、下女給金の外、基本支
出の家賃、食費、子供らの学費、所得税の外、 漱 石 の 奨 学 金 を 含 む 返 済、 書 画 骨 董 購 入
費、父や姉への仕送りなど、かなりの支出が嵩み、家系を預かる鏡子婦人をして「毎日が
火の車で、家の購入などとてもそんな余裕はありませんでした」と追想せしめるほどだっ
たようだ。
後年「千円札」の顔となり、いかにも金に縁の深そうな漱石だが、これほどの収入があ
りながら自分の持ち家は早稲田南町七番地の家だけで、しかも購入したのは漱石の逝去し
85
た翌年だった。つまり一生借家住まいだったわけである。
が千円札に登場した時、漱石の孫半藤末利子さんは、母筆子に訊いたそうであ
漱石の顔
じ い
さつ
る。
「お祖父ちゃまがお札になるって、どんな気持?……」すると母は「へーえ。お祖父
ちゃまがお札にねえ。お金に縁があった人とは思えないけど」と答えたと言う。(「漱石の
思い出」解説)
因みに、漱石が亡くなった時、筆子は十七才で、充分家計を知り得る立場にあった。
これは、漱石の最も身近にいた家族の、実際に家計の内情を見た者でないと話し得ない
記帳な証言である。
漱石と外国かぶれ
漱石がイギリスへ留学したのは、明治三十三年九月(辞令は六月)から二年三カ月であ
るが、その間漱石は一体何を勉強したのだろうか。勿論英文学の研究で、事実クレイグ博
士について勉強し、帰朝後の四十年に発表された「文学評論」(原題「十八世紀英文学」)
は、留学中の成果として一応評價されたようだが、その程度の成果なら、わざわざ英国ま
で出かけ、二年以上もかけ、四千円(現在の金額で千三百五十万円から二千万円?)も国
費をかけなくても、という批判がなかったわけではない。かれは急激な環境の変化から神
86
我輩は偏屈である
経衰弱となり、年一回提出義務のある文部省への報告書も殆んど白紙だったそうだから、
グロッキー状態と言ってよい。唯一の成果(?)は、彼がバタ臭くなり「外国かぶれ」に
なったこと位だろう。首許にはハイ・カラーをつけ、先の尖った靴をはき、英国仕込みの
キングス・イングリッシュをことあるごとにこれみよがしに使っていたことは、当時の
生徒や鏡子夫人の証言から明らかである。このため、帰朝後彼は言論界から「西洋かぶ
れ!」とかなり叩かれているようである。ところがこのことが却って彼の自尊心を高め、
これに固執するようになったふしがみられる。(偉い! さすがわれらが偏窟文豪!)
つい
てた手紙がそれである。
例えば、次の森田草平にな当
ど
くそ
く
いや
「僕のことを英国趣味だ杯と云う者がある。糞でも喰らうがいい。苟しくも天地の間に
一個の漱石が漱石として存在する間は、漱石は遂に漱石にして別人とはなれない」(「書
簡」
)
。また「
『自己が主で、外は賓である』という言葉を自分の手に握ってから、私は大
変強くなりました」
(
「私の個人主義」
)とも言っている。
この自己中心的思潮は、やがて反自然主義文学として、森鷗外と共に高踏的漱石文学の
中枢として結実、
「坊っちゃん」
「草枕」
「こころ」「それから」「虞美人草」「吾輩は猫であ
る」など、漱石の数々の名作を生む原動力となったものと推測される。
するとマスコミに叩かれると「シュン」となり、引っ込んでしまいがちだ
また、とも
きょうじ
は
が、常に「矜持」の心を持ち、作品の発表に寄ってこれを撥ね返すところに、漱石の漱石
87
ポーズ
たる所以があると言えるかも知れない。
この「尊大に構えた毅然とした姿勢」こそ漱石本来の姿で、「漱石の母は遊女屋の娘」
や「 外 国 か ぶ れ 」 な ど 心 無 い 中 傷 を 跳 ね 返 す 原 動 力 と な っ た と 推 測 さ れ る。 あ る い は
おの
は か
ひょっとして、町の顔役で名主だった父、小兵衛直克の血筋が現れたものか、興味深い。
てんじょうてんげゆいがどくそん
また、
「天下に己れ以外のものを信頼するより果敢なきはあらず」(同前)つまり天下の中
で、最も信頼できるのは、自分自身であるとも言っている。「天上天下唯我独尊」と言っ
て釈迦は生まれたと言われるが、この「孤高」こそ、漱石の、從って、漱石文学の原点と
言ってよかろう。
漱石と朋友師弟
漱石の伝記を瞥見してまづ感ずることは、その交友範囲の広さと、人物の多彩さであ
る。
(添付「漱石と師弟一覧」参照)
これは一つに、彼が教師という天職を得て、多くの先輩、同輩、師弟に接し得たこと。
また、一度彼に接し、又はその講義を聴講すると、人を虜にする豊かな学識と、巧みな話
術、なによりその人間的魅力が相手を捉え、離さなかったこと。そして自分の専門外、例
えば書画、骨董、詩歌、謡曲など何にでも興味を示す旺盛な好奇心を持っていたことによ
88
我輩は偏屈である
るものであろう。
加えて、人と会うと、先輩後輩に関係なく必ず「礼状」や「所感」を書き送り、逆に人
から葉書や書状を貰うと、必ず、中には自画像など営利で返事を書く「こまめ」さにあっ
たように思う。
ま た、 師 が ユ ニ ー ク な ら、 そ の 朋 友、 弟 子 達 も す べ て「 一 騎 当 千 」 の ユ ニ ー ク 揃 い
……。
大 学 予 備 門 時 代 か ら 下 宿 を 共 に し、 死 ぬ ま で 親 兄 弟 以 上 の 親 交 の あ っ た ス ポ ン サ ー
(?)中村是公(後年満鉄総裁となった是公は漱石に対し、満州旅行招待や、漱石が入院
した際、その医療費援助など数々の友諠を重ねている)や、東京第一高等中学からの親友
ほう
で、詩歌添削屋(?)兼、文学上の師で同時に友人でもあった俳人の正岡子規などはまだ
まともな方で、まるで下足番か召使いの如く漱石宅へ出入りしていた便利屋(?)で、平
ご ま
す
塚雷鳥女子との死の逃避行や「煤煙事件」で一躍その名を売った侍従長(?)森田草平。
漱石の「草枕」を明治文壇の最高傑作と褒めちぎった胡麻擂り男(?)野間真綱。師の作
品に傾倒するあまり、遂に「贋作・吾輩は猫である」を書き上げた模倣魔(?)内田百閒。
そしてそして極めつけは、死後彼の作品に値がつくことを予知したのか、毎日のように漱
ちょいん
石宅へ押しかけ、墨と硯と紙を差し出し、彼に書や絵や俳歌など山ほど書かせた功利派
(?)
「チョイン先生」こと、中央公論の滝田樗陰など、その師弟朋友は枚挙にいとまがな
89
い。
い
「友達は、絶対に要らないものにあらず、時によりて厄介になるなり。重荷を負うて旅行
するが如し。背負って居るうちは厄介。宿に着けば役に立つ」
これは彼の「断片」の中の一節であるが、漱石は「友人」についてどのような考え方を
持っていたか。友達というものは、いつもは交際費などの支出で厄介な存在だが、一旦何
かが起った場合、例えば漱石の場合失恋で失意のどん底にある時、親友子規によって松山
中の職を得たように、頼りになるのは親兄弟でなく親友である。と言う。漱石の功俐的考
え方の一断面を示しているようにも見える。
性派の師弟、朋友たちは「吾輩は猫である」や「坊っちゃ
いづれにしても、これらの個
モ
デ
ル
バリエーション
ん」など数々の名作の中の類型的登場人物となっており、漱石の作品の幅と奥行に貢献し
ていることを、看過してはなるまい。
出生~死亡
主な肩書
氏名・号
一八八四~一九六六 ドイツ文学者
東北大教授
師弟
関係
弟子
漱石の門下生中、第一指に挙げられる。
漱石との主な接点
夏目漱石(一八六七~一九一六)交遊録 師弟朋友一覧
小宮豊隆
90
我輩は偏屈である
弟子
一八八九~一九七一 小説・随筆家
鈴木三重吉 一八八二~一九三六 小説家
内田百閒
弟子
寺田寅彦
太宰施門
弟子
一八七八~一九三五 物理学者
東大教授
一八八九~一九七四 フランス文学者 なし
京大教授
一八七四~一九五九 俳人・小説家
朋友
高浜虚子
一八八一~一九四九 法政大学教授
一八八二~一九二五 『中央公論」
弟子
弟子
弟子
弟子
森田草平
滝田樗陰
編集者
一八八〇~一九四八 奈良県立
中川芳太郎 一八八二~一九三九 八高教授
野村伝四
先輩
朋友
弟子
一八六七~一九二七 満鉄総裁
東京市長
一八六四~一九四三 五高教授
一高教授
図書館長
松根東洋城 一八七八~一九六四 俳人・法学士
中村是公
菅 虎雄
友人中川芳太郎による紹介。
童話作家として著名。
東京帝大入学と同時に師事。
贋作「吾輩は猫である」で有名。
五高時代漱石に英語と俳句を学ぶ。以後師事。
内田百閒と同郷、同窓。漱石の「面会日」シ
ステムを真似た。
「吾輩は猫である」を自分の発行する「ホト
トギス」に掲載した。
漱石の「文学論」を編纂。
教え子注の優等生。
漱石の追悼記の中で最も多く登場する名物男。
漱石の書画の最大の蒐集家。
彼の英語力は漱石をして「もう少しなんとか
ありたいものだ」の程度。
松山中学での教え子。
以後、漱石に師事。
大学予備門依頼の友人でスポンサー。学友。
漱石を五高教授に迎えた。
ドイツ文学者。書家。
91
津田青楓
一八八〇~一九七八 日本画家
朋友
絵の
師
朋友
戸田秋骨
一八七〇~一九三九 英文学者
随筆家
米山保三郎 一八六九~一八九七 数学者
朋友
正岡子規
小山内薫
弟子
弟子
先輩
一八四一~一九〇〇 東大総長
文部大臣
一八六七~一九〇二 俳人
娘婿
外山正一
一八八一~一九二八 劇作家
演出家
一八九一~一九六九 小説家
松岡 譲
七高教授
弟子
一八七八~
野上豊一郎 一八八三~一九五〇 英文学者
同輩
野間真綱
一八六七~一九三七 国文学者
朋友
一八五一~一九〇六 貴族院書記官長 義父
上田萬年
一八六八~一九三一 美大教授
中根重一
大塚保治
漱石や妻や長女に絵を教えた。
漱石の著書を装釘する。
漱石の「ホイットマン」に関する評論に心
酔。次男伸六の慶大での恩師。
漱石と東大で同期。漱石を建築科志望から文
科へ転科させた。
漱石に英語、英文学の教師になることを勧め
た。恩師。
東京第一中学以来の親友。子規なくして漱石
はない。
東大英文科時代の教え子。
近代演劇の創始者。
長女筆子の夫。次男伸六と共に漱石研究の第
一人者。
東大英文科での教え子。「草枕」を明治文壇
の最高傑作と評した。
鏡子夫人の実父。漱石の狂気の時、よく鏡子
夫人を助けた。
一高時代の教え子。漱石の命日忌「九日会」
の有力メンバー
漱石の英語く留学と博士号推薦者の一人。恩
人。学友。
漱石の東大大学院時代依頼の友人。「九日会」
メンバー。
92
我輩は偏屈である
斎藤阿具
一八六八~一九四二 歴史学者
一高教授
「漱石は病気の問屋か?」
漱石と病気
朋友
英国よりの帰朝後、漱石に千駄木町の自分の
持家を貸した。
その他、先輩、朋友、弟子多数。
と言われるほど、彼は生涯病気を患い、いつも青い顔をしていた。彼が患った主な病気
は、天然痘(四才)虫垂炎(十七才)トラコーマ(十九才)肺結核(二十七、八才)痔疾
(四十四、
五才)糖尿病及び胃腸病(共に三十台から五十才まで)などで、特に消化器系が
弱く、死病となった「胃潰瘍」と狂気の原因とされる「糖尿病」は、その最大の疾患と言っ
てよかろう。
(添付「漱石と病気」参照)
TUBERCULOSIS
「肺結核」は兄二人の死病で、体質的には先天性遺伝があり不可抗
その原因であるが、
力として、その他の「痔疾」
「リューマチス」
「糖尿病」「胃潰瘍」はいづれも職業病、つ
まり教職、作家業に起因しているように思われる。特別臨床的根拠はないが、生活習慣と
して、長時間座っていると「痔疾」を起し、毎日毎日ペンを動かしていると、右上膊神経
R H E U M A T I S M
痛、つまり慢性関節リューマチスを起し、終日執筆していると自然甘い物が欲しくなり、
菓子類に手が伸び、やがて「糖尿病」を起し、毎日毎夜運動もせず頭ばかり使い間食ばか
GASTRIC U L C E R
りしていると、胃下垂、胃炎、胃腸病、終局的には「 胃 潰瘍」になる可能性が、他の職
93
業の人々に比べ高くなるであろうことは、想像するに難くない。
特に漱石のように書画、謡いの他は趣味らしい趣味はなく、酒や女道楽を知らない者
(若い頃は次兄栄之助に連れられ遊女街を徘徊したことはあったようだが、実際には「邪
魔者のように室の隅で陰気に黙り込んでいた」らしい)は、ストレスの解消が不容易で、
蓄積したフラストレーションは狂気として発症するか「胃潰瘍」へ道を直進することにな
る。多くの作者が胃腸関連の病歴を持っている事実は、このことを雄弁に傍証しているよ
うに思える。
また四女の愛子を手なづけ、鏡子夫人の隠している菓子類の所在を探し出しては間食ば
かりし、また執筆に神経ばかり使っていると糖尿病や胃腸病はなるべくしてなったと言え
るかも知れない。特に羊羹、ビスケット、汁粉類が好きだったらしい。その結果は、明治
四十三年八月二十四日の修善寺温泉での大吐血となり、人事不省となり危篤状態となるの
であるが、
「転禍為福」
「天上天下唯我独尊」的生き方や、作品に変化が起ったのだから、
漱石には悪いが、これは「不幸中の幸」と言うべきであろう。
しかしこの点を余り強調することを、次男伸六は余り好まなかったようだ。彼は「この
ま な で し
大病により、以後の漱石の作品や生活上に一大転機が訪れた」と力説する愛弟子込や豊隆
の説に異議を唱え「極度の肉体の衰弱により単に一時的に弱気になっただけ」と言ってい
るが、私はそうは思わない。一大転機と言われるほどの変化でなかったとしても、この大
94
我輩は偏屈である
患が漱石をして「肉体の限界」
「 生 き る こ と の 意 義 」 を 悟 ら し め「 人 や 自 然 に 感 謝 す る 素
つな
うなづ
あえ
直な気持」を生み、晩年の「則天去私」つまり「自然の中に自分を置いて、物事を見極め
このたんせい
ようとする文学感」の心境に繋がる転機となったであろうことは、充分肯ける。
またこのことは、漱石地震日記に「年四十にして初めて赤子の心を得たり。此丹精を敢
てする諸人に謝す」と柄にもなく(?)しおらしいことを言っていることから証明できる。
では諸人とは誰を指すのか。勿論直接医療行為に携わった主治医の真鍋教授、看護婦を
指すのは当然だが、その外わざわざ病床に見舞ってくれた無二の親友中村是公や森田草
通称
明治四年
発病年月
養父の家(浅草諏訪町)にて
原因、種痘未摂取による。
備考
95
平、小宮豊隆らの愛弟子らも含まれようが「丹精」とあるから最も言いたかったのは、
四六時中身辺にあり寝食を忘れ看護をしてくれた鏡子夫人に対してであったろう。テレ屋
けわ
の漱石がただその名を口にしなかっただけである。その夫人が大病後の漱石の変化につい
て「以前のような妙にいらいらした峻しいところがとれ、大変穏かになりました」と述べ
ていることから、この大病が漱石に一大転換を齎したことは立派に証明できる。
正式病名
疱瘡
漱石と病気〔主な病歴〕
天然痘
1
虫垂炎
トラコーマ
肺結核
痔疾
肺病
トラホーム
盲腸炎
〃 十九年
〃 十七年
痔病
〃 二十七年
〃 二十八年
〃 四十四年
〃 四十五年
大正五年
一月
〃 五年
四月
大学予備門下宿(極楽水)時代
毎夜の汁粉の食い過ぎ(本人弁)
大学予備門下宿時代、当時流行していた。
(伝染性急性結膜炎)
喀血。家計に肺結核の繋累あり。
長兄大助、次兄栄之助、同病にて死亡
九月、神田佐藤病院に入院。
手術する。
湯河原温泉にて転地療養。
右上膊神経痛、同不全麻痺。
主治医真鍋嘉一郎教授による診断。
糖尿病の既往症は明治三十七年頃より。
同温泉逗留中、大吐血( 500
g)
一時危篤状態となるが、その後小康。
朝日新聞に「それから」掲載中
胃痛にて病臥
六月九日血便。同十八日長与胃腸病院に
入院。七月三十一日退院。
修善寺温泉、菊屋本店にて転地療養。
〔急性、慢性胃炎、胃下垂、胃アトニー胃潰瘍を含む〕
慢性関節
リューマチ
リューマチス
糖尿病
糖尿病
胃腸病
明治三十七年頃 酸塩過多症
明治四十二年
より既往症あり
八月
〃
〃 四十三年
胃潰瘍の疑い
〃 〃
四十三年 八月 吐血( 180
g) 〃 〃
十四日、九日
八月六日
胃潰瘍
〃 〃
〃 二十四日
96
~
~
2
3
4
5
6
7
8
我輩は偏屈である
〃 〃
十月十一日
帰京後、長与病院入院。
四十四年二月二十六日 退院。
大阪の湯川病院入院。
(講演後倒れる)
九月退院。
胃痛にて病臥。
そのため連載小説「行人」一時休載。
胃痛にて病臥。一カ月間。
京都遊覧中。胃痛にて病臥。
二十二日 胃痛にて病床に臥す。書画休
筆。
二日、第二回目大内出血便。午後三時半
頃、排便のための腹圧により人事不省。
二十七日 第一回大内出血便。
二十八日 午後十一時半 人事不省。
血便
オピオム注射
悪寒・疼痛
十二月九日 午後六時五十分
臨終 逝去
〃 〃
十二月
脈拍、心臓鼓動
〃 〃
低下。
カンフル注射、
無効。
〃 四十四年
八月
大正二年
三月
〃 三年
十月
〃 四年
三月
かすづけ つぐみ
大正五年
糟漬の鶫を食後 〃 〃
。
十一月
十一月十六日 疼痛嘔吐
十二指腸潰瘍の
〃
〃
〃 疑い。
十一月
食塩水注射。
二十三日
~ 九日
〃 十二月七日
以上、長与又郎博士「解剖所見講演録」より抄出。
97
漱石と狂氣
古来「天才と狂人は紙一重」と言われる。だからと言って、私はわが敬愛する漱石を
「狂人扱い」する気はも毫もないが、しかし漱石の言動に「常軌を逸した」と思われる個
所があるのも、これまた事実である。
例えば、道向いの下宿屋の二階に住んでいる書生の部屋が、丁度漱石の書斎が見下せる
位置にあり、彼らの部屋に友人らが訪れ、雑談していると、いつも自分が看視され、自分
の噂や陰口を言っていると勘違いし「おい、探偵君、今日は何時に学校へ行くのかね」等
と言ったり、裏の郁文館中学の生徒のボールが庭に投げ込まれ、それを学生が拾いに来る
と、漱石の挙動を探るために故意に投げ込んだものと勘ぐったりする。
これは「常に誰かに看視され、追われている」と感ずる「追跡症」と呼ばれる「被害妄
想狂」の一種であるが、漱石の場合、それを自から認め「これは佯狂だ」と言っているか
ら始末が悪い。例えば、机の上の半紙に墨字で黒々と「俺の廻りの者は、皆気違いだ。そ
ま
ね
や
のため俺も気違いのふりをしなければならない。從って廻りの気狂い共が全快してから、
気違いの真似を止めても遅くないだろう」と書いてあったという鏡子夫人の証言がこれで
ある。
98
我輩は偏屈である
かんしゃく
ところで、鏡子夫人の言う「漱石の頭の病気」が異常に昂進したのは、やはり英国留学
中及び、帰国直後であろう。一緒に留学していた友人の証言や「一日中部屋に閉じ籠り、
めそめそ泣いていたかと思うと、いきなり癇癪を爆発させた」という英国での下宿屋の女
主人の証言などから「漱石が発狂したらしい」という噂が広まり、年一回提出義務のある
ロンドンとう
「 研 究 報 告 書 」 が 殆 ん ど 白 紙 だ っ た こ と か ら 文 部 省 で も、 こ れ が 決 定 的 と な っ た よ う で あ
る。
事実漱石自身「適応障碍による神経衰弱ぶり」を自著「倫敦塔」の中で「いきなり日本
から世界文明の中心ロンドンに連れて来られ、箱根の井戸の中の蛙が、いきなり日本橋の
上に放り投げられたと同じで、目がまわって街中を歩くこともできない。ただ下宿に引き
籠っているだけだが、いつ鉄道が自分の部屋へ衝突するかも知れず、心配で眠ることもで
きない……」と正直に告白している。
日本では最高学府、東京帝大の英文科を出たというのに、大英帝国に来てみると、その
習った英語は、車夫馬丁は愚か下宿のおかみにも碌に通ぜず、その違和感と絶望から神経
衰弱となり、時たま図書館へ行く以外、専ら下宿に引き籠ることとなる。
この鬱積した感情が頂点に達したのは、ロンドン滞在中から帰国直後にかけて起った
「五厘銭」事件であろう。つまり乞食にやった小銭と同じ硬貨が下宿の便所にあったのを
見て、
「下宿の主人が、俺を看視するため俺の行動を追跡している」と考えたり、信じら
99
れないのは帰朝後まで、同じ五厘銭が火鉢の淵に乗っていたと言って「探偵の真似をする
なッ!」と長女筆子を殴り泣かせたり、挙句の果は手当り次第家具類を投げつけるので、
鏡子夫人は子供達を連れて一時近所に身を隠したり、鈴木三重吉に当てた手紙で「癇癪が
起きると、妻君と下女の頭を、正宗の名刀ですぱりと斬ってやりたい」と言うに至って
は、やはり異常である。
その正確な原因については、精神分析医の診断に委ねるとして、常識的に考え、日々の
勉強と文部省に提出するリポートで頭がいっぱいになり、加えてカルチュアショックによ
るフラストレーションを回避できず、被害妄想となり、逆に攻撃的になったものと考えら
れる。
因みに、この「狂気」つまり神経衰弱ないし精神病を、死後漱石を解剖した長与又郎博
N O R D E N
士は、ノールデンの四千件の臨床例による結論「追跡狂モマタ糖尿病ノ時ニ起コルトイウ
コトガアル」を引用、漱石の「狂気」が糖尿病に起因しているのではないかとする推論は
CESARE
LOMBROSO
興味深い。また「天才は、精神病者の変型の一種」とするロンブロゾーの説を引用し、漱
石のような天才は、往々にして精神病者ないし精神病的状況を呈する場合があると説明し
ているのは、巷間で言われる「天才は狂人と紙一重」と符合しそれを傍証したことになる。
因みにロンブロゾーはイタリアの法医学者で精神病学者であると共に、犯罪人類学者
で「生来性犯罪人論」つまり「犯罪人は生まれ落ちた時から既に犯罪人となるべく出生し
100
我輩は偏屈である
た」と唱え「罪刑法定主義」を否定した主観主義刑法論者(即ち、犯罪者はその犯した罪
を単に法令の条文に当てはめて裁くのではなく、その者がその罪を犯すに至った家庭環境
や犯罪の動機を重視して裁けという主義)として有名であるが、彼の主張する犯罪人の身
欲望に対し抑制力が
体的特徴(例えば「マカークス型」ないし「ツェルコピテクス型」の耳)を持った人間は
酒や賭博に耽溺する。
女に対する欲望が異常に深い。などの精神的特徴は、現
必ず犯罪人になるという説は現代の科学では一笑に付されているが
ない。
(1)
ろちょうぶ
しかし、漱石の狂気は一種の神経衰弱ないしそれら幾分昂進した程度と推測される(多
つまり、文豪夏目漱石の繊細な神経は、歴史に残る数々の名作を生むと同時に「狂気」
をも生んだ、と言えるかも知れない。
「天才と狂人は紙一重」と言われる所以である。
証明されているところである)
み、又は逆に犯罪者や精神病者を生む土台となり得ることは、臨床医学乃至統計学的にも
一部、例えば左右の前頭葉や顱頂部の異常な発達、又はその器質的異常によって天才を生
ぜんとうよう
後一時期、教授につき「犯罪学」
「犯罪心理学」
「法医学」の研究に没頭したが、脳の或る
在でも犯罪者の類型として、統計学的にも信奉されている。(私事ながら、私は大学卒業
(3)
分OCD= OBSESSIVE–COMPULSIVE DISORDER強迫性障害)が、だが彼の文学作品を考察
する場合、一部偏執的考察や被害往相的記述など、決して看過し得ない重要な要素を含ん
でいると考える。
101
(2)
漱石と転居
「俺は好きで転居したのではない。勤務地が点々としたた
漱石を「転居魔」と呼ぶと、
め致し方なかったのだッ!」という漱石の叱声が墓石の下から聞こえて来そうだが、それ
にしてもよく転居している(添付「夏目漱石転居履歴概要」参照)
旧制高校や大学は、全寮制の場合は入寮するが多くは学校の近辺に下宿する。漱石が初
めて生家を離れ、下宿生活を送ったのは十八才の時、小石川区極楽水傍の法藏院の二階を
借り、駿河台の成立学舎に通った時のようだ。もっとも転居を「生家を離れる」という意
味に解すると、もっと古く生れ落ちてすぐで、四谷の小道具屋に里子として出されてお
り、その後三才で養子縁組のため新宿の塩原昌之助宅、五才で同養父移転のため浅草区諏
訪町、同寿町と、十才位までは生家と養父宅をたらい廻しされているようである。十九才
で猿楽町の下宿「末富屋」へ移り東大予備門入学のための受験勉強を始めている。
明治二十六年七月、漱石は東京帝大英文科を卒業後、十月東京高等師範学校の英語教師
を勤務した後、同二十八年東京を離れ、松山中学勤務のため、四国松山へ引越す。その一
年後、今度は第五高等学校教授として九州は熊本へ赴任。熊本には余年二カ月滞在したが
その間六回転居し、最後に入居した北千反畑町の家には三カ月しか住んでいない。文部省
102
我輩は偏屈である
イギリス
より英国への留学を命ぜられたためである。此の英国でも漱石の転居癖は直らず、到着し
F L O D D E N
R O A D
て二カ月後に下宿したフラッデン通りの下宿屋(漱石のロンドン滞在中の家として有名)
は、既に三軒目の家だったというから驚く。しかしこの下宿も入居後四カ月目には引払
B
R
E
T
T
T
O
O
T
I
N
G
C
L
A
P
H
A
M
い、ブレット一家と共にツーティングへ移り、その三ヶ月後にはクラップハムの下宿に移
り、翌三十五年十二月、きこくのためそこを引払っている。
「気むづかし屋」で「神経質」それに加え、
「 頑 固 」 で「 偏 窟 」 と き て い る か ら、 ち ょ っ
と気に喰わないことがあると、すぐ引越すのだろう。それに「どうせ下宿代や引越し費用
は国庫負担(因みに漱石の留学費は、家族手当を含め年額千八百円)さ」という気易さ
と、独り身という身軽さ(と言っても漱石は、英国留学四年前の二十九年六月、貴族院書
記官長中根重一の長女鏡子夫人と結婚し、漱石が英国留学となったため、夫人は前任地熊
本から実家のある東京牛込区矢来の離れへ帰京中。さしづめ今で言う「単身赴任」といっ
たところ)が、漱石のたび重なる転居に拍車をかけたと言えるかも知れない。
漱石は帰朝後、学友斎藤阿具が留学のためオランダへ旅立ったため彼の厚意で空家と
なった彼の持家、本郷区駒込千駄木町五十七番地に移り住んだ。三十九年、彼がオランダ
留学から帰朝したため、同区西片町十番地ろの七号に移転。
そして遂に、翌四十年、漱石終焉の地となった牛込区早稲田南町七番地に移転してい
る。つまり、五十年の生涯で、二十六回以上転居したことになる。
103
「理由はどうあれ、これぢァやはり転居魔ですよ。先生……」
夏目漱石 転居履歴概要
慶応3年
漱石
移転
移転理由 その他
移転年月日 かぞえ 移転先住所
回数
年齢
1才
東京都牛込区喜久井町一番地 出生
0
四谷の古道具屋
母ちえ 高齢出産のため乳母を求め、里子
に出す。
しかし、金之助を笊に入れて夜店に出して
いたのを見て異母姉ふき連れ帰る。
養子縁組
養父昌之助が浅草の戸長となったため、浅
草へ移転。
昌之助と養母やすとの不和による。
昌之助、やすを離縁。日根野かつを入籍し
た上、再び金之助を養子とする。
昌之助が金之助(漱石)を給仕にしようと
したため、長兄大助が実家へ連れ帰る。
104
1月5日
〃 〃 〃
月
新宿塩原昌之助宅
3月
浅草区諏訪町
4月
牛込区喜久井町の実家へ
浅草区寿町昌之助宅へ
牛込区喜久井町の実家へ
11
1
3才
〃 4年 5才
明治2年
3
〃 7年 8才
2
4
〃 7年 8才
才
5
〃 9年
10
我輩は偏屈である
〃 17
15
14
12
〃 9年
30
30
29 19
18
16
15
13
10
年
年
年
年
才
才
才
5月
同区柳町市谷小学校転校
〃
9月
市内合羽町へ転居
3月
神田府立第一地中学校入学
1月
三島中州の二松学舎入学
7月
駿河台の成立学舎入学
小石川区極楽水傍の寺、法藏
院の二階
猿楽町の下宿「末富屋」へ
松山転勤、
「城戸屋」旅館
松山の中腹の骨董屋の二階
伊予松山二番町上野宅
4月
熊本の菅虎雄宅
熊本市内
光琳寺町の一軒家
才
才
才
〃 年
才
〃 年
〃
〃
〃
〃
〃
年
才
〃 〃
年
〃 9月
大江村の落合東郭宅
3月
市内井川淵八番地
31
才
32
年
〃 30
この間の居住関連不明。
柳町の市谷小学校ぐらいまでは自宅通学
可として、中学の神田や三島や駿河台は
通学距離としては遠方過ぎるため、知人
宅にでも下宿したか。
東京大学予備門入学準備のため。
年同校「第一高等中学」と改称。
東郭が東京勤務を終え、帰郷したため。
東郭が東京勤務となったため。
光琳寺町の家の前が墓地であるため。
第五高等学校奉職のため
〃
〃
第五高等学校奉職のため
同右
松山中学奉職のため
19
才
〃 28 18
才
〃 29
年
〃 29
31
105
6
7
8
9
11 10
13
12
14
15
〃
〃
〃
年
年
〃
才
〃
〃
〃
才
〃
7月
市内内坪井町七八番地
3月~9月
市内北千反田町の家
月
ロンドン市内 ガワー・スト
リートの安下宿
月
プライオリー・ロードの安下
宿
月
ブレッド夫人宅
6 FLODDEN
ROAD,CAMBERWELL NEW
ROAD S.E.
4月
ツーティング( TOOTING
)
STELLA ROAD,TOOTING
GRAVENEY
7月
リール夫人宅
81 THE CHASE CLAPHAM
COMMON S.W.
五高教頭狩野亨吉宅が空いたため。また前
住居が手狭だったため。
飼い犬がやたら通行人や近所の人に噛みつ
いたため。
英国へ国費留学のため。
勉学の疲労と環境の急激な変化に順応で
きず神経衰弱となり追跡症などから市内
を転々とする。
106
10
11
12
34
35
〃
〃
33
34
〃 18
〃
19
16
20
17
21
22
我輩は偏屈である
〃 年
才
〃
40
1月
牛込区矢来の義父中根重一の
離れ
3月
本郷区駒込千駄木町五七番地
月
本郷区西片町一〇番地 ろノ
七号
9月
牛込区早稲田南町七番地
12
帰朝のため
いつまでも義父の厚意に甘えておれないた
め。
家主で学友の斎藤阿具が三年間のオランダ
留学から帰国したため。
この借家が、漱石五十年の障害の終焉の地
となる。
出来事を列強すると、ほぼ次のようになると思う。
(2)
鏡子夫人が第一子を流産したこと。(同年六月)
山川信次郎と共に、同
(4)
四 年 三 カ 月 の 滞 在 中 に、 六 回 転 居 し た こ と。
(三十年六月)
父 直 克 が 八 十 四 才 で 逝 去 し た こ と。
漱石が四国松山から九州熊本に移ったのは、当時松山中学の教師であった漱石を、五高
教授であった菅虎雄が、教授として招いたものであるが、漱石の熊本滞在中に起った主な
漱石が熊本に滞在したのは、松山中学から熊本の第五高等学校に赴任した明治二十九年
四月から、イギリス留学のため熊本を離れた同三十三年七月までの四年三カ月である。
漱石と熊本
才
41
才
39
年
〃 〃
37
〃 年
36
40
(3)
107
24
23
25
26
(1)
県玉名郡小天村字湯ノ浦にあった前田案山子の別荘に逗留したこと。(同年十二月)
と。
(同年九月一日前後「二百十日」頃)
長女筆子が誕生したこと。
(同年五月)そして
同
山川信次郎と共に、阿蘇山に登ったこ
僚奥太一郎と共に、宇佐八幡耶馬溪及び豊後日田方面を旅行したこと。(三十二年一月)
(5)
まんじ
こく
けむ
結実するのだから……。逆にそれが文学作品として漱石の頭脳の中で、昇華定着するまで
文学者の感受性や記憶力ほど、強大なものはない。われわれが普段なにげなく体験する
三、四日の温泉旅行が、十年も後にその記憶が鮮明に蘇り、歴史に残る文学作品として、
後(三十九年九月)名作「草枕」の素材となり、文学作品として結実したからである。
山川信次郎の案内で訪れ、三、四日逗留したこと。言うまでもなく、この小旅行が約十年
今一つは、熊本市から西北三里半ばかりの所にあり、山あり海ありの気候温暖の地で、
み か ん
おあま
蜜柑の名所として知られる「小天」の湯の浦にあった。明治の政客前田案山子の別荘に、
のなかに万遍なく巻き込まれて、嵐の世界を尽して、どす黒く漲り渡る……」
みなぎ
「刻々と逼る暮色のなかに、嵐は卍に吹きすさむ。噴火孔から吹き出す幾万斛の烟りは卍
せま
と見え「二百十日」に次のように描写している。
この中で突起すべきは、秀峰「阿蘇山」へ登り、後日名 作「二百十日」を生ん だこと
(三十九年十月「中央公論」発表)であろう。漱石はその雄大な姿にかなり感銘を受けた
(7)
に、十年の歳月を要したと言えるかも知れない。このように「文学は作者の過去の体験の
108
(6)
我輩は偏屈である
集成」と言える。
そのもの
実 漱 石 自 身「 野 分 」 の 中 で「 文 学 は 人 生 其 物 で あ る。 苦 痛 に あ れ、 困 窮 に あ れ、
きゅ事
うしゅう
な
窮 愁 にあれ、凡そ人生の航路にあたるものは、即ち文学で、それらを嘗め得たものが、
文学者である」と述べている。
いづれにしても、漱石にとって熊本での四年二カ月は、短期間ではあったが鏡子夫人と
のハニムーンの地であると共に、長女出生の地であり、また小天の湯の浦旅行や、阿蘇山
登頂の想い出の地として、從って、文学作品「草枕」と「二百十日」の揺籃の地として、
生涯忘れることのできない土地となったに違いない。
むすび
以上、漱石の「キーワード」を中心に、その五十年の生涯を、私見を交えながらなぞっ
てみた。
「 漱 石 は ユ ニ ー ク な 作 家 で あ る 」 と 言 っ た。 こ の 場 合 の「 ユ
ところで私は、はじめに、
ニーク」は「ちょっと変わった性癖を持った作家」ないし「偏窟で奇行の多い作家」の意
味であるとも……。そしてそれこそ本稿の最大のキーワードである。
果して漱石は、偏窟な作家だったのだろうか……。以上考察した範囲では、特に奇行は
109
とし
認められないし、唯一「博士号辞退事件」が偏窟と言えば偏窟と言えるが、誰でも齢を重
ねると偏窟になるのは世の常(因みに博士号辞退当時漱石は四十四才。今だったら中年の
働きざかりで、年を重ねたとは言い難いが、四十九才で逝去した漱石にとって四十四才は
晩年と言える)
。また、辞退の理由(通説)が、アンチ・アカデミズム、つまり博士号の
授与によって学者をコントロールしようとする文部官僚の特権意識(とは言っても若干漱
石の考え過ぎ、被害妄想の感があるが)に反抗したもので、世俗的意味の「拗ね者」「変
り者」
「偏窟者」には当らない。
「まァーまァー」の妥協が許せない、極めてṇᖖで、真摯な感覚の持主であったことが
推察される。
しかし、学生達が自分の行動を常に監視していると感ずるなど、一種の脅迫概念や、被
「 五 厘 銭 事 件 」 な ど、 若 干 の「 奇 行 癖 」 が あ っ た
害妄想的感情を持っていたのも事実で、
ことも否めない。
だが、この物事を「斜めに透して見る」又は「彼我倒錯観察手法」など、寓話手法の「猫
の目」や、天真爛漫で直情型の青年教師を主人公にもってくることによって、世の中の不
正や矛盾をあぶり出し、また驕慢な人物群を容赦なく読者の前に引張り出し、これに鉄拳
これら偏窟手法により、今まで漠然と看過されていたものが鮮明に蘇り、人物や風物に
を加え、読者の溜飲を下げてやる。
110
我輩は偏屈である
対する特異な観察眼が生まれ「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」その他の傑作が世に出、
読者の共感を得たと言えまいか。
漱石の作品に横溢している心憎いまでの人物や、風物に対する観察眼や、その痛快な描
写力は、並いる古今東西の作家の中にあって將に白眉と言ってよい。
これが漱石生来の「偏窟」によるものであるとしたら、將しく「偏窟萬歳!」である。
そして、このことこそ、筆者が「偏窟」をすすめる所以である。
いづれにしても、漱石のこれら数々の名作や業績は、日本文学史上に燦然と輝き、その
光芒は、永遠に失われることはあるまい。
111
著者プロフィール
浜崎 慶嗣(はまさきよしつぐ)
1932 年 (昭和 7 年)1 月 1 日、
Fresno California,U.S.A. 生まれ
2歳半で日本へ渡る
1932 年 (日本で教育を受けるため)
小・中・高を鹿児島県南九州市頴娃町(現在)にて終える
1952 年 中央大学法学部入学
1956 年 中央大学法学部卒業
1956 年~
樫田法律事務所に勤務
「検事物語」
(雄揮社・1956 年)
、
「犯罪と捜査」
(石崎書店・
1960 年)の出版に携わる
1961 年 山手 YMCA の(新聞配達少年のための)ボランティアとし
て、「巴里の空の下で」を新宿厚生年金会館にて公演
1962 年 博報堂(瀬木プロ)勤務
1966 年 東映動画(アニメーション)勤務
1966 年8月
帰米
1967 ~ 97 年
日本語学校共同システム(土曜日のみ)勤務
1969 - 97 年
Union Bank(東京 Bank)勤務
1997 年 退職
1995 ~ 97 年 「ひばり追悼公演」をプロデュース、 ロスの日本劇場にて
上演。
そのかたわら、「TV Fan」
(日系マガジン)、「羅府新報」
(日本語新聞)
にエッセイ等を毎月 30 年間寄稿
2013 年 11 月 26 日 死去。
112
偏窟のすすめ
―偏窟文豪列傳―
浜崎慶嗣
発 行 2015 年 7 月 7 日
発行者 横山三四郎
出版社 e ブックランド社
東京都杉並区久我山 4-3-2 〒 168-0082
電話番号 03-5930-5663 ファクス 03-3333-1384
http://www.e-bookland.net/
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