平成 27 年 7 月 17 日 千葉大院融合 椎名 千工大教養の物理コラム その 12 マクスウェルの偉業 天才は如何に天才足らしめたのだろう? 胃がんにより 8 歳で母を亡くしたマクスウェルには教育係として家庭教師 がつけられる 。幼いころから才気にあふれたマクスウェルの質問は難解なもの が多く 、 次第にマクスウェルの興味は家庭教師では満足させられなくなって いく 。やがて家庭教師は辞めてしまった。家庭教師による教育をあきらめた父 は 1 0 歳のマクスウェルをエディンバラの叔母のもとへ送る。エディンバラ中 学へ通うようになったマクスウェルは、14歳で王立協会に論文を投稿したとい う神童であった。エジンバラ、ケンブリッジの両大学に学び、24歳でかのニュ ートンが就いたトリニティ・カレッジのフェローになった。マクスウェルはフ ァラデーが導入した磁力線や電気力線の運動という描像に、今日見られるよう な数学的な表現を与えて電磁気学の理論を築いた。しかし、マクスウェルにし ても、最初から力線そのものを物理的実体として扱ったのではなく、様々な力 学的模型を仮想して、考えを進めていった。例えば、磁力線は渦のように回転 しているもので、それに狭まれた荷電粒子が隣接する渦の回転速度が変化する ときに動き出すのが電磁誘導の起電力にあたる、というようなことを想像して ∂D いる。この粒子の変位による電流が変位電流 にあたる。しかし、1865年の論 ∂t 文“A Dynamical Theory of the Electromagnetic Field” 「電磁場の動力学的理論」が 完成すると、余分な力学的模型は姿を消している。それでもなお、電磁場はエ € ーテルという未知の媒質の運動によるものと考えられた。真空中の電磁場が、 それ自身で物理的対象として扱われるようになるには、相対性理論によるエー テルの否定が必要であった。 平成 27 年 7 月 17 日 千葉大院融合 椎名 千工大教養の物理コラム その 12 裕福な家庭に育ち、8歳で母親をなくしながらも、類い希なる頭脳をもち、な るべくして天才となった。そんなマクスウェルが「ファラデーが数学者でなか ったことは、おそらく科学にとって幸運なことであった」と言ったと伝えられ ている。自身の境遇に奢ることなく、正しい瞳をもって事象に対したことが自 然の摂理の扉を開くことにつながったのだろう。光が電磁波の一種であるとの 予見を得た際にもウェーバーが測定した 3.1×1010 [cm/sec]が光速と同じであっ たのは偶然ではない。光の物質と電磁気的媒質は同じと考える十分な理由があ る。」とわざわざファラデーに手紙を書いている。 € 1873年“A Treatise on Electricity and Magnetism”「電気磁気論」を刊行するも、 数学的にとても難解な内容は当時の人には理解されなかった。 母と同じ胃がんのため、48歳の若さでこの世を去り、入れ替わる かのように、 アインシュタインが生をうける。アインシュタインの 言葉にこんなものがある。 「ジェームズ・クラーク・マクスウェル- 彼と共に一つの時代が終わり、彼と 共に新しい時代が始まった」
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