高橋邦太郎(監修)富田仁、西堀昭(共著) 『横須賀製鉄所―花ひらくフランス文化』 (有 隣新書、昭和 58(1983)年 189p.+viii)のなかに(pp.136-141)「黎明期のフランス語教 育」と題して次の重要な記述が見える。渡正元とも関連がありそうなので、以下に引用し ておく。 【136】黎明期のフランス語教育 一世紀以上にわたる日本とフランスの文化交流の歴史を振り返るとき、政治、外交、軍 事、法律、技術、芸術、思想などと比べて、フランス語の問題はとかく見落とされがちで ある。 しかし、フランス語がフランスの世界戦略の一つの道具であるところから、フランスは その普及に力を注いでいたのである。 幕府は、フランスと手を組み、弱体化した軍事力の立て直しをはかり、かつ強力な外国 の圧力に対抗しようとした。そのため、フランス語の研究にも努めて力を入れ、日本の各 地でフランス語の学習がおこなわれるようになった。 日本におけるフランス語の学習は、ロシアの開国要求とのからみで、まず長崎で始まり、 ついで箱館、江戸、横浜、横須賀、大坂、京都、静岡などへ広がって行った。その中でも 幕末では、江戸の蕃書調所(後に洋書調所、開成所、大学南校と改称)と横浜のフランス 語学所(コレージュ・フランコ・ジャポネ)が比較的規模が大きく、内容も優れていた。 これに続いて充実していたのが、横須賀製鉄所黌舎である。 文化五年(1808)に長崎のオランダ通辞本木庄左衛門、中山作三郎、石橋助左衛門、今 村金兵衛、【137】樽橋彦四郎、馬田源十郎ら六名が、幕命によってオランダ商館長ヘンド リック・ドゥーフからフランス語を学んだのが、日本におけるフランス語研究の始まりで ある。 通辞たちの学習の成果は、やがて『払郎察辞範」と『和仏蘭対訳語林』となって今日に 伝えられている。もっとも、これらの書物は、いずれも稿本であったので、一般にはほと んど知られることなく、長い間埋もれたままに終わり、つぎの世代へは受け継がれなかっ た。わが国のフランス語㈻の開祖といわれる村上英俊が、本格的に、しかも独学でフラン ス語研究を始めたのは、それから四十年後の嘉永元年(1848)のことであった。 通辞たちのフランス語学習と共に忘れてならない長崎の語学所(後に済美館、広運館と 改称)は、元治元年(1864)に大村町に設立されたが、ここではフランス語のほかに英語 やロシア語も教授した。フランス語の教師には、日本人では、前出の名村泰蔵、フランス 人では、パリ外国宣教会(ソシエテ・デ・ミッション・ゼトランジェール・ド・パリ)の 神父で、隠れキリシタンの発見者で知られるベルナール・タデ・プティジャン、東京大学 や東京外国大学の教師となったレオン・デュリー、授業中に蒸餅を食べたりして問題を起 こしたアルテュール・ド・ペルピニャなどがいた。このように日本のフランス学に大きな 足跡を残した長崎のフランス語研究も、政治・外交の中心が東京や横浜に移るにつれて、 1 自然に縮小されて行った。 関西では、大坂洋学所(後に開成所)と京都の仏学校がとくに注目される。前者にはペ ルピニャ【138】、後者にはデュリーが教壇に立ったことがある。 中部でも名古屋藩が仏学校を設立し、林欽次や、後に司法省の法学校の教師となったピ エール・ジョゼフ・ムリエを教師に迎えた。静岡県でも明治維新直後、学問所や沼津兵学 校が創設され、フランス語などが教授された。教師には旧横浜フランス語伝習生であった 長田銈之助(後に銈太郎)、神保虎三郎(後に長致)などが招かれ、フランス語や数学を教 えた。長野県松代のフランス学は、前述の村上英俊によってすべて代表される。佐久間象 山との出会いが村上英俊の運命をフランス学の方へ大きく変えたわけである。村上英俊の フランス語研究は、長崎の通辞や横浜のフランス語学所の伝習生の場合と違い、師を得た のでなく、すべて書物によっていた。ここに村上英俊の偉大さと欠陥がある。村上英俊は、 この姿勢を終生変えることなく、研究に、教育にまい進した。しかし、フランス人と接触 しなかったことが『三語便覧』などの発音表記に大きなマイナスとなってあらわれた。村 上英俊の評価を低くみる研究者がいるのもそのためである。 江戸のフランス学は、村上英俊や小林鼎輔、入江文郎、柳川春三らが教授を務めていた 蕃書調所が中心であった。蕃書調所は、幕府が押し寄せる諸外国に対抗するために、それ らの国の文化、とりわけ軍事を研究しようとして創設した洋学研究機関である。外国の研 究ということで、まず語学が重視されたのは言うまでもない。蕃書調所は、万延元年(1860) に初めて【139】フランス語の研究に着手した。そして、文久二年(1862)の『払郎西単語 篇』や慶応二年(1866)年の『法朗西単語篇』などとなって成果があらわれ、その研究は、 そっくりそのまま明治時代へ引き継がれて行った。蕃書調所は、後に洋書調所、開成所、 大学南校と名称が何度か変わるが、その内容も研究から教育へと変化し、わが国の洋学研 究の大きな流れとなった。また、パリ外国宣教会のメルメ・カションが、短期間ではあた が、アカデミー・エトランジェールを創設した。 東京では、明治時代に入り数多くの私立学校が設立され、蕃書調所と別の学問体系を形 づくるまでになった。村上英俊の達理堂、中江兆民の仏学塾、加田邦憲の東京仏語学校な どのフランス学を教授する私塾は、無数に乱立した英語学校に比較して、一校の重みが大 きい。 蕃書調所と異なり、フランス人による直接教授法を採用していた横浜のフランス語学所 は、幕府が設立した外国語学校の中でも異色で、横須賀製鉄所や陸軍三兵伝習と密接な関 係にあった。フランス語学所は、第二代フランス公使レオン・ロッシュと幕府の親仏派と 言われていた栗本鋤雲、小栗上野介、浅野美作守などの積極的な努力によって、慶応元年 三月六日(1865 年4月1日)、当時の弁天社の隣接地(現在の中区本町六丁目付近)に、ロ ッシュ公使の片腕となって外交界で影響力を持っていたメルメ・カションを校長に迎えて 開校した。創設に際しては、フランス政府が教員並びに教材の確保に努力し、幕府は、も っぱら校舎の建設、伝習生の募集【140】などを担当した。 2 教員は、最初メルメ・カション一人であったが、伝習生の増加に伴いシャルル・ビュラ ン、アンリ・ヴーヴ、レオン・ブラン、フェルナン・プーセ、ルイ、サミーなどの公使館 員や軍人が後から参加した。ここには専門の教員がいないが、外人不足の幕末ではそれも やむをえないことであった。いわゆるお雇い外国人が充実するのは明治も半ばになってか らのことである。なかには素性のわからない外国人も多くいて、そのためのトラブルもか なり発生した。そこで、まじめな良い教師を雇うために「諸学校ニ於テハ外国教師雇入候 節ハ専修ノ学科教授免状検査ノ上雇入条約可取結事」といった文部省通達が出されたりし た。 フランス語学所の伝習生は、ほとんどが幕臣・陪臣に限られたが、その中には栗本鋤雲 の養子惣領の貞次郎、小栗上野介の養子惣領又一、伊東玄朴の三男の栄之助(栄)、緒方洪 庵の子供の十郎(惟直)などのエリートが在学していた。 彼らは、明治時代の新しい職場において輝かしい業績を残したが、フランス語研究の分 野での『和仏辞書』(田中弘義)、『仏和対訳兵語字類』(茂木幸)、『和仏字書』(織田信義・ 田中旭ほか)など、わが国のフランス語教育史上きわめて重要なものであり、高い評価が あたえられる。 北海道におけるフランス学は箱館のメルメ・カションのフランス語学校が唯一であるが、 横須賀製鉄所に関係する塩田三郎や立嘉度を育てたことで、カションとの出会いが興味ふ かい。【141】この二人がカションと箱館で知り合わなければ、日本のフランス語㈻も少し ニュアンスの異なったものとなっていたかも知れない。栗本鋤雲とカションの、日本語と フランス語の交換教授についても同じことが言えよう。 3
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