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「小判は『銀貨』か ?」再 考
(東京大学大学院情報学環 教授)
馬場 章
はじめに
随分以前のことになりますが、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館で「お金の玉手箱」という企画展が
開催されました。それに付随したシンポジウムで、私は「小判は『銀貨』か?」という逆説的な講演をさせていた
だきました。我が国の江戸時代の貨幣制度である「三貨制度」に対して、私からの疑問を呈する講演でした。そ
の講演はのちに、国立歴史民俗博物館編『歴博フォーラム お金の不思議』
(山川出版社、1998 年)として出
版されています。講演から 20 年近くが経とうとする今日、もう一度、江戸時代における小判の意味を考えてみよ
うと思います。
センター試験に出題された小判改鋳
現在、大学の入学試験でいわゆる「センター試験」が大きな意味を持っています。センター試験と言うのは、
独立行政法人大学入試センターによって行われる共通入学試験のことです。かつては「国公立大学共通第 1 次学
力試験」
「大学共通第 1 次学力試験」と改称されて、現在の名称となりました。中央教育審議会は、文部科学
省に対して大学入試制度の改革を答申しているので、数年後にはセンター試験も改変されるかも知れません。
ところで、2013 年に実施されたセンター試験「日本史B」で、江戸時代の貨幣に関する問題が出題されました。
大学受験生の時代に戻って、問題を解いてみましょう。問題文を画像として掲載したので。文字が荒いのはご容
赦ください。
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「小判は『銀貨』か?」再考
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「小判は『銀貨』か?」再考
紙幅の関係から他の 2 問は省略しますが、賢明な読者の皆さんはもう正解がお分かりですね。そうです、正
解は④です。
①から④まで選択肢を検討していきましょう。まず、①からです。金の成分比は、慶長小判から元禄小判に改
鋳されるときに減っていますが、宝永小判から享保小判までは、反対に引き上げられています。ですから、すべ
ての改鋳をみるまでもなく、解答は「×」です。ちなみに、その後、元文小判・文政小判で比率が引き下げられ、
天保小判・安政小判・万延小判で引き上げられて一定となりました。
小判の金に混ぜられたのは銀ですが、その銀の成分比を尋ねたのが②です。問題文にいうように、文政小判
以降の小判は、すべて銀の含有量が 40 パーセント以上も含まれています。しかし、それ以前の元禄小判が、す
でに 40 パーセントを越えています。40 パーセントを越えたのは文政小判が最初ではないので、この文章も「×」
です。
小判にとって重要なのは、金の成分比だけではありません。小判そのものの重量、すなわち大きさも大事にな
ります。金の成分比や重量は、金貨としての価値を決定する大事な要素です。別の言い方をすれば、それらを調
整することで通貨の価値が決まり、流通や経済状況に大きな影響を与えるのです。
③は新井白石(1657 年[明暦 3]〜 1725 年[享保 10])による正徳の治の貨幣政策に関する記述です。表中
の正徳小判の欄を見れば一目瞭然なのですが、小判の重量を重くして、金の成分比を変えていません。ですから、
これも「×」ですね。結局①から③までの
選択肢のすべてを読んで、みな「×」とい
うことは、受験テクニックとしては、何も
考えずに、必然的に④を正解とすればよ
いですが、念のため内容を確認しておきま
しょう。江戸幕府が外圧に耐え切れず鎖
国を解いて開港したのちに発行されたのは
万延小判です。この選択肢には「ひっか
け」があり、
「金の重量を軽く」したと書
かれていて、
「金の成分比」ではありません。
しかし、万延小判は金の成分比を変えず
に、小判そのものの大きさを小さくして、
結局、金の含有量を減らしています。した
がって、④が「○」となります。その大き
さの違いを写真で比較してみてください
(写
写真 1 安政小判(個人蔵)
写真 2 万延小判(個人蔵)
真 1、写真 2)。
さて、私の解答は正しかったのでしょうか。念のため、ある予備校の解説を見てみると、以下のように書かれ
ています。
④が正しい。開国によって貿易が開始されると、日本と外国の金銀比価の相違から金の大量流出が始
まり、経済は大いに混乱した。江戸幕府は、金の流出を阻止するため、従来の安政小判と比較して
小判の重量を3分の1に落とした万延小判を鋳造したが、この改鋳は物価の高騰をもたらした。
①の慶長小判と金銀の成分比が同じ宝永・正徳小判などが発行された例があり、②の銀の成分比が
初めて 40 パーセントを越えたのは元禄小判、③の新井白石が鋳造させた正徳小判は金の成分比を上
げた良貨であるから、いずれも誤り。
(東進ハイスクール)
では、この問題は受験生にどれぐらい難しかったのでしょうか。同じ予備校の難易度評価をみてみましょう。
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「小判は『銀貨』か?」再考
第4問 近世の政治・経済・社会
江戸幕府の安定期から列強接近にともなう動揺期まで、江戸時代における総合的な問題であった。
(中略)問4の貨幣史に関する「表」など、出題のバリエーションに富んだ今年度のセンター試験を象
徴した問題であった。
(中略)また、通史学習で得た正しい知識と、史料や表を読み取る力を融合さ
せようとする深い洞察力を試す問題が目立った。いずれにしても深く「考える」力が求められていると
いえよう。
(東進ハイスクール、下線は筆者)
他の予備校の評価を見てみると、この問題は標準的な難易度とされています。しかしながら、東進ハイスクール
の分析では、
「小判の重量と成分比」という表を伴う出題に注目し、それを読み取る力と通史的な知識を融合させ
る重要性を指摘しています。つまり、貨幣史の観点から言うと、たんに小判の重量や成分比の変化だけにとらわれ
るのではなく、その変化の政治・経済・社会的な背景をも考えることが大事だということになるでしょう。表面的な
改鋳の事実だけでなく、その背景をも理解していなければならないという点では、意外と難しい問題だったのです。
そこで、次に、その指摘に基づいて、幕末の小判改鋳の理由を、もう少し詳しく見ていくことにしましょう。
安政小判の鋳造
安政小判は鋳造期間が短く、幕府によって直ちに回収されているので、
現在も残存している枚数が少ない小判です。その改鋳の理由には、迫りく
る幕末の開港が深く関係していました。
1853 年(嘉永 6)にマシュー・C・ペリー(Matthew Calbraith Perry、
1794 〜 1858 年)提督が率いるアメリカ合衆国の黒船が浦賀沖に姿を見
せ、江戸幕府は開港を迫られました。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰
(蒸気船、
上喜撰は宇治の高級茶)たった四杯で夜も眠れず」と狂歌で揶揄された
ように、幕府は対応に苦慮します。日本が下田・箱館(今の函館市)を開
港して外国との貿易を始めると、問題になったのは日本の貨幣と西洋の貨
幣の交換比率です。今でいう外国為替相場に似ています。当時は天保小
判が流通していました(写真 3)。そこで、1856 年(安政 3)9 月には、横
浜開港を前に、下田御用所(今の静岡県下田市)で、その交換比率を定
める交渉が行われました。当時の米国総領事タウンゼント・ハリス
(Townsend
写真 3 天保小判(個人蔵)
Harris、1804 〜 1878 年)の主張は次の2点です。
1)金貨、銀貨はそれぞれ同一質量をもって交換する。
2)したがって、1ドル銀貨の約3分の1の量目である天保一分銀 3 枚を持って 1ドルに換える。
これに対して、幕府側は、次のように主張しました。
1)一分銀は名目貨幣であり、金貨 4 ドル分の金を含有する本位貨幣である小判の兌換券に相当する
ものである。
2)したがって、1ドル= 1 分で交換する
結局、江戸幕府は米国側に押し切られ、1ドル= 3 分の交換比率を飲むことになります。ここに、外国人は
1ドル銀貨をまず一分銀 3 枚に交換し、両替商に持ち込んで 4 枚を小判に両替して、国外に持ち出し地金として
売却すれば莫大な利益が得られるという仕組みが出来上がってしまいました。外国人が両替商に持ち込んだの
が、いわゆるメキシコ銀でした。
ところが、天保小判の鋳造量は急速に衰退し、市場では二朱判や一分銀のような名目貨幣が凌駕するような
状態でしたので、交換は思うようには進みませんでした。また、市場では実質的に地金価値に近い相場が形成さ
れていたために、計算通りに利益を生むものではありませんでした。それでも、短期間で小判の流出が多額に上
り国内では、深刻な金貨不足を引き起こすことになります。
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「小判は『銀貨』か?」再考
ところで、この仕組みを利用したのは、なにも外国人だけではありません。海援隊を組織した坂本龍馬(1836
年[天保 6]〜 1867 年[慶応 3])もこの仕組みを利用して、国内で銀貨を金貨に両替し、それを香港に持ち出
して現地で大量の火器を購入しています。それを国内で販売して、利益を得ていたのでした。
さて、小判の大量流出に対する政策として、江戸幕府は、天保小判に対し量目を5分の4倍に低下させ、金
品位はそのままとした安政小判と、量目がほぼ 1ドル銀貨の半分である安政二朱銀を発行します。そのねらいは、
相場を 1ドル= 1 分に誘導して、金銀比価を国際水準に対して金高に設定された約 17.2:1 に是正しようとした
のです。これに伴って、1859 年(安政 6)5 月に幕府は安政金を天保金に対し 25 パーセントの割増通用させる
触書を出しました。なお、二朱銀の含有銀量は一分銀をも上回っていましたから、銀地金の確保が困難となるこ
とが予想されたので、二朱銀は貿易取引に限って通用させることとしました。
この政策の結果、1ドルの日本国内での購買力は3分の1に低下することになったので、ハリスら外国人大使
は激しく幕府に抗議しました。ゆえに、この安政小判および二朱銀は僅か 3 か月足らずの 1859 年(安政 6 年)
8 月までに 351,000 両を鋳造し、その後直ちに幕府によって回収されることになります。
万延小判の鋳造
小判の国外流出に対して、ハリス総領事は以下のふたつの案を提示してきました。
1)銀貨の量目を増大させ金銀比価を是正する。
2)小判の量目を低下させ金銀比価を是正する。
銀貨の量目を増大させるという案は安政の幣制そのものでしたが、幕府にもはや抗議する力は残っていません
でした。また、幕府は、小判の量目低下が激しいインフレーションを招き、幕府が吹替えによってこれまで得た
利益を帳消しにしてしまうことが予想されたため、小判の吹替えには消極的でした。
一方でイギリスの総領事ラザフォード・オールコック(Sir Rutherford Alcock KCB、1809 〜 1897 年)は、
不健全な貿易取引は西洋諸国のためにならないと考えて、健全な貿易取引促進を実現するために、江戸幕府の
金銀比価の是正させるようハリスに進言しました。それを受け、幕府側は、金地金の保有高の減少により、金
銀比価の是正手段として小判の量目を低下させる手段を採らざるを得ませんでした。そこで天保小判に対し、品
位はそのままで量目を 3 割以下と大幅に低下させる吹替えを行ったのです。含有金量は慶長小判の約 8.1 分の 1
となりました。これが万延小判です。人々はこの著しく小型化した小判に同情して、
「雛小判」と呼んだそうです。
これにより新小判に対する安政一分銀 1 両の金銀比価は、ほぼ国際水準である 15.8:1 となりました。幕府は、
新小判の発行に先立って、1860 年(安政 7)1 月に、既存の小判は金の含有量に応じて増歩通用することとした
ので、天保小判 1 枚は 3 両 1 分 2 朱、安政小判 1 枚は 2 両 2 分 3 朱として通用することになりました。
その結果、江戸では約 2 〜 3 倍もの額面の新小判に交換される旧貨幣を所持する者たちが群衆となって両替
商へ殺到して大混乱に陥ります。それは激しいインフレーションを招いて、物価は、乱高下を繰り返しながら、
激しく上昇するという事態に見舞われました。また新小判でさえ鋳造量は少量で、実際には、さらに 1 両当りの
金の含有量が低く、鋳造量が圧倒的に多い万延二分判が流通の中心的な貨幣となりました。1 両当りの金の含
有量は、慶長小判の約 11.4 分の 1 に低下したことになります。そのため幕末期の商品価格は、流通の少ない小
判ではなく、
「有合せ」の二分判および二朱判などを直立てとする「有合建(ありあいだて)」で表示されるように
なったのでした。
さらに、1860 年
(万延元)4月には古金銀 100 両当たりの安政金と万延金の引換割増が以下のように定めらます。
慶長金・武蔵金 : 安政金 258 両、万延金 548 両
元文金 : 安政金 150 両、万延金 362 両
元禄金 : 安政金 178 両、万延金 378 両
文政金・眞字二分判 : 安政金 130 両、万延金 342 両
乾字金 : 安政金 135 両、万延金 317 両
草字二分判 : 安政金 123 両、万延金 313 両
享保金 : 安政金 266 両、万延金 567 両
五両判 : 安政金 105 両、万延金 273 両
このようにして「両」は著しく価値を低下させていきました。それは、幕府の崩壊を予感させるものとなります。
万延小判は、1867 年(慶応 3)8 月までに 666,700 両を鋳造しました。
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「小判は『銀貨』か?」再考
金座後藤家と大判座後藤家
図 小判座([金銀座及び製法絵巻]より、国立国会図書館所蔵)
如上のように幕末の開港によって翻弄された江戸幕府の小判ですが、その小判の鋳造はよく知られているよう
に金座(小判座、図参照)で行われました。その金座を統括したのが後藤庄三郎です。ところが、大学受験生
ばかりでなく、一般人の方も、金座の後藤家と大判座の後藤家をしばしば混同するようですので、ここで、金
座後藤家の家系を、大判座後藤家との関係から見ておきましょう。
初代後藤庄三郎光次は、徳川家康の経済・外交政策の懐刀とも言うべき存在でした。1593 年(文禄 2)に
橋本庄三郎が徳川家康と接見し、1595 年
(文禄 4)に彫金師の後藤徳乗
(1548 年
[天文 17]〜 1631 年
[寛永 8])
の名代として江戸に下向することを命じられました。庄三郎の出身は美濃国加納城主である長井藤左衛門利氏
の末裔とされていますが、明確ではありません。また、庄三郎の本姓を山崎とする説もあります。庄三郎は京都
の後藤家の職人として、当主である徳乗に才覚を認められ、女婿となりました。そして、徳乗から後藤の姓の使
用を許されて後藤庄三郎光次と名乗るとともに、徳川家康から五三桐紋の使用を許されたのです。庄三郎の師
匠家に当たる京都の後藤家四郎兵衛家(歴代当主の通称を四郎兵衛と言いました)は、室町幕府以来の御用金
匠で、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に京都の三長者と呼ばれるほどの存在でした。また、京都の法華宗の
中心的な存在でもあり、天文法華の乱(1536 年[天文 5])では、重要な役割を果たしています。江戸時代には、
本来の家業である彫金のほかに、大判座として大判を鋳造し、また、分銅座として分銅の鋳造と検定を主宰して
います。他方、弟子筋の後藤庄三郎は金座を主宰して御金改役
(ごきんあらためやく)をつとめました。もともとは、
後藤庄三郎の役宅を金座、小判吹所を小判座と呼びましたが、のちに小判吹所は金座に吸収されます。また、
金座は、当初、江戸以外にも駿府・京都・佐渡・甲府にも設けられましたが、のちには江戸に一本化されました。
このような経緯が、師匠家の後藤四郎兵衛家と弟子筋の後藤庄三郎家を混同してしまう原因のひとつです。
しかしながら、師匠家の後藤四郎兵衛家は、あくまでも自身の家格が金座後藤庄三郎家よりも上であると主張
して、享保年間(1716 〜 1735 年)に、江戸城内の将軍拝謁の際の席次をめぐって何度も訴訟を起こしています。
つまり、それまでは、かつて徳川家康の側近でもあり、金座を主宰していた御金改役の庄三郎家が四郎兵衛家
よりも上座だったのですが、四郎兵衛家は、庄三郎家は四郎兵衛家の弟子筋なので、四郎兵衛家が上座である
べきで、庄三郎家は四郎兵衛家よりも下座であるべきだ、と主張したのでした。この訴訟の結論は判然としない
のですが、その後も席次の変更が見られないことから、大判座四郎兵衛家の敗訴となったのではないかと考えら
れます。大判座後藤家にとっては、何とも悔しい結末だったに違いありません。
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「小判は『銀貨』か?」再考
金座 14 代の歴代当主は以下の通りです。
初代
後藤庄三郎光(1571 年[元亀 2]〜 1625 年[寛永 2])
2 代目
庄三郎広世(1606 年[慶長 11]〜 1680 年[延宝 8])
3 代目
庄三郎良重(1622 年[元和 8]〜 1707[宝永 4])
4 代目
庄三郎光世(1645 年[正保 2]〜 1705 年[宝永 2])
5 代目
庄之助広雅(1674 年[延宝 2]〜 1705 年[宝永 2])
6 代目
庄三郎光富(1679 年[延宝 7]〜 1741 年[寛保元])
7 代目
庄三郎光品(?〜 1751 年[宝暦元])
8 代目
庄三郎光焞(?〜 1765 年[明和 2])
9 代目
庄三郎光暢(1759 年[宝暦 9]〜 1810 年[文化 7])
10 代目
庄三郎光清(?〜 1805 年[文化 2])
11 代目
庄三郎光包(?〜 1843 年[天保 14])
12 代目
三右衛門孝之(?〜 1814 年[文化 11 年])
13 代目
三右衛門光亨(1796 年[寛政 8]〜 1845 年[弘化 2])
14 代目
吉五郎光弘(1834 年[天保 5]〜 1893 年[明治 26 年])
初代から 9 代目までは庄三郎を、12・13 代目が三右衛門を、そして最後の 14 代目が吉五郎を通称としていま
すが、一般には、金座を後藤庄三郎家と一括して呼ぶことが多いようです。また、3 代目庄三郎良重は大判座
9 代目後藤程乗の嫡子であり、14 代目吉五郎は大判座 16 代目後藤方乗の嫡子です。他にも金座後藤家は遠縁
の者や金座人筋から養子を迎えることがありましたが、少なくとも 3 代目と 14 代目は金座後藤家の師匠家である
大判座後藤四郎兵衛家から養子を迎えており、このことも、金座後藤家と大判座後藤家を混同させる原因にな
っています。
なお、14 人の当主のうち、9 代目庄三郎光暢は、金目を横領して小判の品位を偽った罪で、1790 年(寛政 2)
に永蟄居となり、11 代目庄三郎光包も、1810 年(文化 7)に同様の罪で三宅島に流罪となっています。13 代目
三右衛門光亨は、不正・奢侈、加えて政治批判の罪を問われて、1845 年(弘化 2)に死罪となりました。大判
座後藤四郎兵衛家は、享保年間に江戸城内の席次をめぐって激しく金座後藤庄三郎家を攻撃しましたが、その
大判座の嫡子吉五郎が 14 代目の金座当主となって明治維新を迎えたのは、歴史の皮肉と言えるかも知れません。
しかしながら、金座後藤庄三郎家と大判座後藤四郎兵衛家は、家系や職掌が異なる存在であり、歴史的に
血脈がクロスすることはあっても、別の家として明確に区別しなければなりません。
むすびにかえて
まとめとして、本稿の表題「小判は『銀貨』か?」に結論を出しておきたいと思います。
小判は江戸時代の基本通貨とも言える存在で、小判に含まれる金の量目は、時の政権の経済政策を象徴して
いました。それが、幕末の開港により、外圧という新しい要因も加わって大きく混乱することになります。その混
乱は、金と銀の交換比率にありました。そして幕府は、含有銀量を大幅に引き上げた小判を鋳造せざるを得なく
なります。さらに、本来金貨の単位である「朱」の額面を有する銀貨が発行されたことにも象徴的に表れています。
それは、小判が基本通貨としての役割を終えたことを意味し、同時に、最後の封建国家である江戸幕府の終焉
をも予感させるものでした。
本稿では、紙幅の関係から出典を明記していません。江戸時代の貨幣制度に関心を持たれる賢明な読者の皆
さんが、自ら史料に当たり、史実を解明して行かれることを期待します。
なお、年号に関しては、太陽暦(グレゴリオ暦)に換算した西暦年を最初に表記して、次に()あるいは[]
内に元号を表記しています。しかし、日付に関しては太陰暦のまま表記していることをお断りします。また、貨幣
の額面金額には漢数字を、それ以外にはアラビア数字を用いました。
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