立教 178 年 平成 27 年 6 月 17 日 第 278 号 天理教一広分教会 ☎ 0745 (57) 0076 TENRIKYO ICHIHIRO BRANCH CHURCH 〒 635-0812 奈良県北葛城郡広陵町広瀬 306 おことば抄 大層と思うなれど、 一度の大層は 生涯の理になる。 明治 ( 年 21 月 10 日 ) 12 解説 このおさしづは、東京の方で事情ができ、その 事情治めのうえから、東京への出張を願われたことに 対してのものである。 幾多の事情から、当初、東京に教会本部が設置され た。そして、ほどなくして教会本部はぢばに移転され る。そのあとに、 東京本部の出張所が設けられた。一方、 東分教会が設置される。この頃、東京の信者は、ほぼ 東分教会の信者であった。ここに、出張所と東分教会 という派が分かれるような事情ができてきた。 そこで、分教会と出張所とを同所にすることを願わ れる。すると「皆んなたんのうの理を持ったら、皆治 まる。 」 「治まるの理はたんのうより無いで。 」とのお言 葉であった。この場合、手紙のやりとりだけでは、実 際のことが分からない。また意見の食い違いもでてく る。そこで、遠方で大層だと思うかも知れないが、運 んでやれ、との仰せである。 そして最終的には、分教会と出張所を一つにすると い う こ と で 治 ま っ た の で あ る。 こ こ で 大 事 な こ と は、 こうした解決には、小手先のことでは治まるものも治 まらず、かえって問題をひろげることにもなりかねな い、ということである。 いまでこそ、東京といっても、新幹線もあれば、飛 行機もある。会社の出張もほぼ日帰りらしい。けれども、 当時は、船と汽車を利用して上京した。大層なことだっ た。そこへ足を運べとのこと。手間を惜しまず、誠を もって話し合うところ、たんのうの理が治まる。事情 も治まる、 ということになる。そこに、 一度の大層は「生 涯の理」となって輝くことになる。 (み) 天誅組の騒動が大和国で起こった際に、永 原村と三昧田村の境あたりで、長州の浪人に 寄りました。 近辺で、教祖ゆかりの瓦屋だった場所に立ち ん。 切り殺されたと言います。元治元年のことだ 善福寺を後にして、丹波市町へ向かいまし たが、その途中、現在の「熊本詰所」がある と言いますので、ちょうど飯降伊蔵が初めて 元治元年に、飯降伊蔵が参詣し、たすけて いただいた御礼に、社を奉納することを思い 教 祖ゆかりの地 を た ず ね て 安井 幹直 お屋敷に参詣したころのことです。 は中山家の墓が残っているわけでもありませ 何度か行ってみたことはありますが、特に今 理教語学院の建物) の目と鼻の先にあります。 られたお寺です。 ちょうど勤務先の翻訳課 (天 とお定まりになる前に、 「五重相伝」を受け 善福寺(ぜんぷくじ)は、中山家の檀那寺 で、浄土宗のお寺です。教祖が月日のやしろ しました。 講義を聴いてから、善福寺~丹波市町を散策 その日は、教祖にゆかりの深い丹波市町に まつわる史実や逸話などについて二時間ほど した。 部の平野知三先生が講師をお勤めくださいま までは、一時的にこの善福寺に埋葬されてい のは五年後の明治二十五年のことです。それ また、教祖が現身を隠された後、今、お墓 地と呼ばれている豊田山に亡骸を埋葬された な気持ちになりました。 た私にとっては、目からうろこが落ちるよう たが重なることは、あまり実感がわかなかっ テレビ番組でもよく取り上げられる幕末か ら明治にかけての激動の時代と教祖のひなが いたのだなあと改めて感じました。 情勢がこの大和国の片田舎にまで押し寄せて になってきたころのことです。幕末の不穏な かけとなって、だんだん人が寄り集まるよう になった、と教祖伝には書かれています。 このことで、信者のなかには、怖れをなす 人もでて、出来かけた講社も沙汰止みのよう 居合わせた信者は留置されたのです。 入れて神名を唱えたため、神職にとがめられ、 をして通れ」と仰せられていたので、鳴物を こります。教祖が「神社の前を通る時は、拝 その後、教内は初めての普請に盛り上がり ますが、棟上げのお祝いが済んだ翌日、大豆 とめ場所の建設をご指示くださいました。 ろだからだと思いますが、その代わりに、つ 教 祖 が、 月 日 の や し ろ と な ら れ、 そ の 後、 つかれます。教祖にたずねると、やしろは要 貧のどん底時代を通られ、をびや許しがきっ らんとの仰せです。教祖ご自身が神様のやし としたらご存じの方もおられるかも知れませ 番組でもとても評価されていたので、ひょっ の描く絵は、先日のお宝鑑定団というテレビ のお墓があることを教わりました。冷泉為恭 に思いました。 べながら、少し教祖を身近に感じられたよう め掛けたと言いますが、その情景を思い浮か の善福寺から豊田山へ続く道に大勢の人が詰 期の有名な絵師冷泉為恭 (れいぜんためたか) ました。ちょうど豊田山へご改葬の際に、こ ればなりませんでした。 (次号へ続く) る支払いを、材木屋や瓦屋へ断りに行かなけ を尽くしますが、しかし、年末には滞ってい 蔵はそんななかも誠真実で、普請の完成に力 越の山中宅へ行く途中、大和神社のふしが起 ん。ただ、今回の史跡見学では、江戸時代末 そのことから、つとめ場所のふしんは支払 いが滞ってしまうことになりました。飯降伊 ひながたについて学ぶ勉強会で、天理教海外 先日、勤務先の勉強会に参加する機会があ りました。教祖百三十年祭をまえに、教祖の (2) (3) このときに、飯降伊蔵が行かれたのが、材 教祖のご誕生は一七九八年ですので、教祖も 木 屋 の「 坂 の 大 新 」 と 瓦 屋 の「 瓦 幾 」 で す。 お母様と一緒にこのお堂のなかに座って法会 というその瞬間を表現していると話されまし た。 坂の大新は、桃尾の滝の近くにあったそうで に参加、聴聞された場所でもあります。 人間も同じように精進を重ねるといずれは す。 今回の史跡見学では行きませんでしたが、 今回の史跡 見学では、迎乗寺のご好 意で、 龍になって天に昇ることができるという話で お堂にも上げていただきました。 した。 以前、桃尾の滝からずっと山を登って行った ことがあります。 に木を伐り出す仕事をしている人を見かけた した。 うど一番真ん中に一番前に座ることになりま から順番に座っていくと、たまたま私はちょ 案内されるままにお堂に入ると、どうぞ木 魚の前にお座りくださいと言われました。端 仏教の人が大勢で押しかけられたら、私は一 か考えていました。また、もし一広分教会に 分かるように話されるのがとても上手だなと 話を聞きながら、手元にあるものから話を 起こして、そして仏教の教えについてすっと ときに、滝から少し山に入っていったところ 「熊本詰所」の隣にあった 一 方、 瓦 幾 は、 そうです。当時の戸主は、福井幾蔵で、瓦幾 の初代でした。熊本詰所の隣の家には 「福井」 僧侶の木魚に合わせて一緒に叩くように言 緒におつとめをしましょうとか、お道の話を われまし たの で、一緒にお経を あげ ながら、 う ま く 説 明 で き る だ ろ う か 不 安 に な り ま し とのことです り一人ご焼香する間ずっと続きました。 みだ~なむあみだ~と唱えたのですが、ひと ポクポクと叩きました。なむあみだ~なむあ そのあと、お寺のお座敷で、とても美味し いお茶とお菓子をご馳走になり、迎乗寺の名 た。まだまだ精進が足らないようです。 の表札が出ています。現在は、瓦屋ではない 大和神社の件で、年末の支払いができなく なり、飯降伊蔵が頼んで待ってもらったこと 前入りのボールペンのお土産までいただきま した。 から、その恩返しに、明治二十年以降、三軒 小さな教祖が、このお堂のどこかに座って 同じようにお経をあげられていたのかなと想 三棟をはじめその他本部のふしんのときに 丹波市にある迎乗寺 (こ 次に向かったのは、 うじょうじ)です。ここは、代々前川家の菩 ては大きくなりましたが(笑)。 は昔の小さかったころのひなです。今となっ ちょうど旧街道(上街道)に、一部分です が道路に屋根がついている箇所があります。 は、ここの瓦を購入したと言います。 提寺でした。ここも善福寺と同じく浄土宗の 当時は、奈良から三輪にぬける街道沿いに 発達した市場があったそうです。その名残り 像すると嬉しい気持ちになりました。その時、 迎乗寺を後にして、丹波市の散策を続けま した。 お寺で、現在も五重相伝の儀式が執り行われ お経に続いて、住職のかたがお話ください ました。木魚に描かれている絵は一対の頭は で、屋根のついている部分の脇には、コンク 小さな女の子の代わりに思い浮かべていたの ています。訪問した際にも、案内の張り紙が 龍で、胴が魚という生き物だそうです。もと 水を飲むための水路があったそうです。 リートで覆われていますが、その下には馬が してあるのを見かけました。 迎乗寺門内のお堂は、江戸時代に一度焼失 もとは魚が川を上っていき、登竜門をくぐる したものの、 一七四九年に再建されています。 瞬間に、頭は龍になり、胴はまだ魚のままだ (4) 井 井 武 市 田 道 夫 和 幹 直 会 長 二 信 人 栄 直 枝 子 長 修 日)日曜日 午前 川 修 安 井 哲 郎 中 時執行 安 安 安 井 井 井 井 和 哲 幹 清 栄 郎 直 二 山 西 中 出 前 安 安 半 中 川 ヤ ヨ イ 安 直 子 田 安 会 武 長 西 井 千 賀 子 光 編集後記 く全力で、真正面から教えに基づいて話 すということが大事です。 ▽手紙もいいところがありますが、やはり 安 井 清 二 ▽一面の「おことば抄」のお言葉を求めて、 おさしづ書を繙くこと、ほぼ半日。なか 後 半 なかこれと思うものもなく、若干疲れ気 味。でもどうしても今日、いま、書かな 口 道 信 くては明日の発行に間に合わない。こん 川 修 な状況での執筆でした。でも何とか間に 井 英 樹 合いそう。ありがたい限りですね。 本 理 恵 子 ▽「 お こ と ば 抄 」 で 言 い た か っ た こ と は、 井 幸 枝 も の ご と は、 と く に 事 情 の お た す け は、 井 妙 子 安易な態度や小手先ではならない、とい 井 清 二 うことです。 「まあ、とりあえず」こうし ておこうか、ということでなく、とにか 子 川 子 中 光 佐 々 木 登 喜 子 川 中 修 中 武 子 栄 直 清 田 田 信 千 喬 池 て物をいうことが大事です。ときどき学 生がメールを寄越しますが、失礼なもの 尻 長 栄 もあります。まず電話で依頼する。そし 手紙は手紙だけのもの。顔を合わせて話 し合うことが基本でしょう。現代はメー ルを多用してますが、もう少し面と向かっ 和 直 栄 井 幹 郎 清 井 哲 て詳細はメールで、ということなら分か るが…。顔を合わせても物が言えない若 井 田 会 安 市 子 安 兵 妙 信 安 千 井 道 樹 山 本 理 恵 子 安 口 英 松 本 ハ ル ノ 出 井 大 橋 芙 美 代 西 川 西 井 千 賀 子 17 □五十一人のおつとめ奉仕者をお与えいただこう ◆勇もうさづけの取り次ぎに。 月 出 口 道 信 安 井 幹 直 安 口 清 座 り づ と め 出 長 会 会 安 井 大 橋 芙 美 代 安 山 本 理 恵 子 佐 々 木 登 喜 子 松 本 ハ ル ノ 西 井 千 賀 子 太 鼓 す り が ね 井 兵 中 川 ヤ ヨ イ 幸 郎 安 井 哲 安 三 味 線 胡 弓 地 方 川 10 指図方 5 て、元気に過ごしましょう。 (や) □ 挨 拶 会 長 。 講 話 会 長 夫 人 。 献 饌 長 安 井 清 二 。 伝 供 出 口 道 信 、 中 川 修 、 者が増えているようです。 安 井 哲 郎 、 西 井 英 樹 。 ▽ 本 年 の実 績 初 席 者 1名 。 お さ づけ の理 拝 戴 者 0名 。 ▽梅雨入りです。お互いさまに身体を労っ 修 養 科 生 0名 。 検 定 講 習 0名 。 三 日 講 習 会 0名 。 中 賛者 27 小 鼓 琴 拍 子 木 扈者 五月月次祭役 割 表 ( 平 成 年 会 長 笛 て を ど り ちゃんぽん 祭主 ↓
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