06 慢性疼痛治療による健康増進 現状 疼痛対策が重視される動きがあり、疼痛の緩和および治療の 国際疼痛学会(IASP)は、慢性疼痛を「治療に必要とされる ての疼痛政策サミットを実施、 「国家疼痛戦略」の政策モデ 痛み(疼痛)は、急性疼痛と慢性疼痛の二種類に分類され、 期間を超えているにも関わらず持続する痛み、あるいは非が ん性疾患で進行性の痛み」と定義している。慢性疼痛の原因 として多い疾患としては、腰痛症、変形性関節症、関節リウマ チ、骨粗しょう症などがある。 過去20~30年間、世界的に慢性疼痛の疫学や原因の究明お よび診断・評価・効果的な治療法に関する様々な研究が行わ れ、医学的治療は大きく進歩した。しかし、日本を含む多くの 国々では、慢性疼痛治療と患者の満足度に大きなギャップが 生じている。 各国で実施されている慢性疼痛の疫学調査、IASP、米国科 学アカデミー等の調査によれば、各国において慢性疼痛、お よび慢性疼痛に対する医学的アプローチが、患者に様々な影 可能性が広がっている。IASPでは2010年に世界大会で初め ルを提案し、18カ国の政策実施状況の評価を発表。モントリ オール宣言を発表し、 「疼痛のマネジメントを受けるのは基本 的人権である」と宣言した。 たとえば、2010年に米国議会とオバマ大統領は患者の保護 と疼痛管理に関する研究や治療を全国的に推進するための 法律を成立させ、2011年は米国議会の指示に基づいて、米 国科学アカデミーが「米国における疼痛の緩和ー予防、治療、 教育、研究変革の青写真」という政策白書を発表している。4 また世界保健機構(WHO)は、2011年に「規制薬物の入手 可能性と入手アクセスについてのガイドライン」において、疼 痛薬剤を含む医療用規制薬物のアクセスに関する国家指針 の均衡是正を提言している。5 響を与えていることが指摘されている。 IASPの各国における疼痛戦略の取組みに関する研究によ 慢性疼痛を持つ人の約1/3(全人口の約6.7%)は、失業また 部、家庭医卒後研修、専門医卒後研修、医師継続研修、その は仕事の能力が下がった経験がある。 1 未治療の慢性疼痛患者は、育児が困難になったり、睡眠不足 になったり、通常の就労が困難となる場合もある。さらに、うつ、 引きこもり、自殺願望などの問題にもつながることがある。 2 極端な場合、寝たきりなど、家族や社会一般にとっての負担 ると、1)疼痛の研究(疫学・基礎)2)疼痛教育(大学医学 他医療従事者、一般市民)3)患者アクセスと治療のコーディ ネーション(治療、薬剤、情報、専門医への紹介、診療科を超 えた多面的アプローチ、自己管理)4)モニタリングと質の向上 (治療までの時間、サービスの質、生活の質、経済負担、特殊 なニーズの観点から各国の評価がなされている。様々な国が 疼痛対策に力を入れてきているが、まだ課題も残っている。1 増となる。特に原因不明の慢性疼痛は、患者にケアやサポー 一方、日本においては、他国と類似した社会的影響がでてい 不十分な治療は患者、家族および社会にとっても生理的、心 もかかわらず、痛みは我慢すべきものと考える国民性や社会 トを提供する医療従事者にとっても、大きなストレスになる。 理的、経済的、社会的な悪影響をもたらす。 効果的な疼痛軽減が得られたのは、がん性疼痛患者におい て50%以下、急性の疼痛も50%以下、非がん性慢性疼痛患 者においては10%以下である。 2 経済的には多くの国で行われた大規模調査で、非がん性慢性 疼痛は、がん、循環器疾患に次いで、3番目に費用のかかる る。しかし、実際には低コストによる問題解決が存在するに 的背景や、疼痛の問題の大きさが社会的に認知されていない ため、慢性疼痛に対する注目度は低い。 全国国民意識調査によると、20歳以上の日本人の11.3%が、 痛みのレベルが5以上(0~10までの11段階の痛みスケール) の疼痛を3カ月以上継続したり、再発する、いわゆる「慢性疼 痛」を経験しているという。6疼痛による日本の経済的損失額 は、年間約3,700億円と試算される。6経済的負担の詳細に 健康障害であると報告されている。 米国では疼痛の経済負 ついては、勤務している慢性疼痛の人のうち、42.5%が過去 いと報告されている。 る。その内訳として、職場で全力が出せなかった(生産性が 3 担が5,600億~6,350億ドルで、心疾患・がん・糖尿病より高 4 国際的には社会的・経済的影響の大きさを受け、世界各国で 30 | 健康寿命の延長による日本経済活性化 一カ月の間に慢性の痛みのため仕事に何らかの影響がでてい 下がった)のが25.2%のため、痛みのせいで勤務時間を減ら さざるを得なかったのが13.7%などであった。6 また、社 会 的 影 響については、慢 性 疼 痛を経 験している 慢性疼痛に関す委員会を設置した。このような政府の努力に 去一カ月間で「階段の昇り降りや歩行が困難だった」、28.4% ろう。 46.7%が過去一カ月間で「気分が落ち込んだ」、40.3%が過 が「買い物や用事に出かけることが困難だった」という。6 よって、慢性疼痛の患者の悩みは解放される方向へ向かうだ 日本でも学際的研究や新規薬剤の承認により、以前に比べ 政策提言 •• 厚生労働省は「慢性の痛みに関する検討会」の2010年 軽減することが可能になり、通常の日常生活を取り戻すこと •• 治療ガイドラインや治療法が導入され、以前に比べ効果的治 •• 疼痛をコントロールする選択肢が広がり、その結果、苦痛を ができるようになった。また、国際的にも慢性疼痛の新しい 療が施されるようになっている。 2010年9月にはこの組織から、1)医療体制の構築 2)教育、 普及・啓発 3)情報提供・相談体制 4)調査・研究の取組みを 開始することが急務と提言された。厚生労働省は2011年度 予算において、提言の実現に向けた一定の研究費を盛り込ん でおり、その実現が引続き期待される。日本政府の対策とし 疼痛とそれが及ぼす問題に関する社会的認知を高める。 最新の診断・治療法に基づき、急性および慢性疼痛に関 推進することが重要である。特に、安心して治療できる 医療用規制薬物などの適正使用の教育をはかることが 痛の緩和の取組みが医療の一環として進んでいる。一方で、 組織し、疼痛患者の痛みからの解放が進むことが期待される。 む研究、評価を実施する。 や患者に(疼痛の治療・自己管理について)教育・啓発を 現在、がん性疼痛については、がん対策基本法によって、疼 生労働省は2009年12月に「慢性の痛みに関する検討会」を 日本における疼痛による社会的、経済的影響の検討を含 する教育を医師・看護師に行うこと(学部、卒後、専門) 現行政策 がん性疼痛を除く慢性疼痛の政策面での取組みについて、厚 の提言を早急に実施すること。 •• 望ましい。 疼痛治療の医療システムの構築と、その促進のための診 療報酬の加算、変更も含めて検討することが重要である。 案として、一次治療(開業医・一般病院)、二次治療(基 幹病院などで診療科を超えた看護師も含めた痛みの専 門チーム)、三次治療(専門の痛みセンターなど)のよう に医療システムを再構築する。 て、厚生労働省は2009年から新たな対策を検討、その中に、 参考文献 1. International Pain Summit, September 3, 2010, Montreal Canada organized by the IASP. 2. 厚生労働省は2010年9月に2009年の一年間に自殺者がでたことで失われた所得やうつ病をきっかけとした休業や失業で生じた国の負担を 合わせた経済的損失が2.7兆円になると推計した。 3. From Huijer Abu-Saad H. Chronic Pain: a review. J Med Liban 2010; 58: 21-7; and from TsangA, Von Korff M, Lee S, Alonso J, Karam E, Angermeyer MC, Borges GL, Bromet EJ, Demytteneare K, de Girolamo G, de Graaf R, Gureje O, Lepine JP, Haro JM, Levinson D, Oakley Browne MA, Posada-Villa J, Seedat S, Watanabe M. Common chronic pain conditions in developed and developing countries: gender and age differences and comorbidity with depression-anxiety disorders. J Pain 2008; 9: 883- 91; both cited in “Desirable Characteristics of National Pain Strategies: Recommendations by the International Association for the Study of Pain” from the IASP International Pain Summit, September 3, 2010, Montreal, Canada. 4. Institute of Medicine of the National Academies “Relieving Pain in America-A Blueprint for Transforming Prevention, Care, Education and Research.” 5. WHO Policy Guidelines Ensuring Balance in National Policies on Controlled Substances, Guidance for Availability and Accessibility for Controlled Medicines (2011). World Health Organization Press, WHO, Geneva, Switzerland. 6. ACCJ「疾病の予防、早期発見および経済的負担に関する意識調査:報告書 確定版」2012年7月 http://www.accj.or.jp/ja/about/ committees/committee-materials/cat_view/13-materials/56-healthcare 健康寿命の延長による日本経済活性化 | 31 6. 46.7%の慢性疼痛の回答者が気分の落ち込みを経験、 40.3%が階段の昇り降りや歩行するのが困難と回答 質問:(痛みのレベル5以上が3カ月以上続いた563人の対象者に)痛みによってあなたの日常生活 にどんな影響が出ましたか。あてはまるものすべてお選びください。(複数回答) 気分が落ち込んだ 46.7% 階段をのぼったり歩いたりするのが困難 40.3% 買い物や用事に出かけるのが困難 28.4% 料理や掃除など家事をこなすのが困難 25.4% 睡眠が困難 20.4% 家族の手助けが必要 9.4% 食事が困難 6.0% 子どもや孫と思うように遊べない 5.3% 死にたいと思った 3.4% 介護が必要 2.0% 家族や友人との関係が険悪になった 1.6% その他 9.1% 0 10 % 20 30 40 出典:ACCJ「疾病の予防、早期発見および経済的負担に関する意識調査:報告書 確定版」(全国5千人対象)2012年7月 32 | 健康寿命の延長による日本経済活性化 50 6. 疾患による経済的損失額のうち、精神疾患が最も高く、 年間約1兆円、続いて疼痛が約3,700億円と試算される 病気欠勤 による損失 疾病就業 による損失 病気転職 による損失 病気退職 による損失 経済的損失 合計 けがまたは身体 障害 287億円 315億円 663億円 282億円 1,547億円 感染症またはウ イルス感染 259億円 291億円 473億円 564億円 1,587億円 疼痛 882億円 526億円 1,967億円 345億円 3,720億円 感染性ではない 慢性疾患 166億円 671億円 739億円 1,362億円 2,938億円 2,015億円 1,014億円 5,096億円 2,110億円 1兆0,235億円 3,609億円 2,817億円 8,939億円 4,662億円 2兆0,027億円 損失の種類 精神疾患 自身の疾患の合計 出典:ACCJ「疾病の予防、早期発見および経済的負担に関する意識調査:報告書 確定版」(全国5千人対象)2012年7月 6. 疾患による損失があった1,619万人のうち、 疼痛が原因が713万人で最も多いと試算される 疾病就業による 病気転職による 病気退職による 経済的損失が 損失があった人 損失があった人 損失があった人 あった人数の試 数の試算 数の試算 数の試算 算の合計 自身の疾患 の種類 病気欠勤によ る損失があっ た人数の試算 けがまた は身体障害 2,160,026 935,179 830,618 1,082,845 4,866,246 感染症ま たはウイ ルス感染 1,171,675 911,897 353,013 458,833 2,789,702 疼痛 4,407,729 1,474,557 726,791 895,641 7,131,568 感染性で ない慢性 疾患 1,219,498 1,078,755 415,309 1,104,869 3,691,635 精神疾患 2,518,702 1,245,612 851,383 1,607,749 5,495,502 自身の疾 患の合計 7,970,576 3,880,412 1,887,768 3,670,660 16,192,854 単位:人。20歳以上の日本人口104,876,000人(総務省2011年11月概算値)を元に算出した、調査期間(2011年10月31日~ 11月2日)中の日本全体での推計値。 出典:ACCJ「疾病の予防、早期発見および経済的負担に関する意識調査:報告書 確定版」(全国5千人対象)2012年7月 健康寿命の延長による日本経済活性化 | 33
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