東南アジア研究 53 巻 1 号 2015 年 7 月 「パオ仏教」の創出? ―ミャンマー連邦シャン州の民族と仏教の境界― 村 上 忠 良 * The Birth of “Pa-O Buddhism”? Buddhism and Identity of the Pa-O in the Shan State of Myanmar Murakami Tadayoshi* Abstract In this paper, I consider the Buddhist practices of the Pa-O in the Shan State after the independence of Myanmar (the Union of Burma). The Pa-O, a group of Karen speakers, is an ethnic minority living in Myanmar. Most of them are Theravada Buddhists and could be considered as a Buddhist minority in Myanmar. Generally speaking, the Buddhism of ethnic minorities in mainland Southeast Asian countries is regarded as resulting from the diffusion of Buddhist traditions from powerful majorities. It is deemed to have an assimilation effect on minorities into the Buddhist majority of each country. As for the Pa-O, it is said that their Buddhist practices have been influenced by neighboring Buddhist majorities: Mon, Burmese, and Shan. From this diffusionist point of view, the Pa-O have been described as passive actors who received a foreign religion under the cultural and political influence of majorities. However, this paper will argue that we should not view the Pa-O as merely an ethnic minority but also as “Buddhists.” We demonstrate the endeavors of Pa-O Buddhists to construct their own Buddhist tradition by creating sacred place through the renovation of ancient pagodas, organizing monks and m onasteries, and advancing Buddhist education for lay people. Keywords: Pa-O, Shan State, Buddhism, Sangha organization, pagoda キーワード:パオ,シャン州,仏教,サンガ組織,仏塔 * 大 阪 大 学 大 学 院 言 語 文 化 研 究 科;Graduate School of Language and Culture, Osaka University, 8–1–1 Aomatani-Higashi, Minoh, Osaka 562–8558, Japan e-mail: [email protected] 44 村上: 「パオ仏教」の創出? I 問題関心 東南アジア大陸部には,11 世紀から 15 世紀にかけてスリランカから伝来した大寺派(マ ハーヴィハーラ派)の仏教,いわゆる「上座仏教」が伝わり広く浸透していった。その過程を すすめたのは,国や地域を越えて移動する仏教の交流であった。このような仏教(徒)の「越 境・交流」により,東南アジアの大陸部は国家や民族の境界を越えた「上座仏教圏」と呼べる 1) 一方,多様な民族からなる東南アジア大陸部の 緩やかな共通性を有する地域となっている。 上座仏教徒は,それぞれのやり方で仏教を自らのものにしようと,たゆまぬ努力を行ってきた。 王朝国家の支配者たちによる寺院や仏塔といった宗教施設の建設,パーリ語やそれぞれの言語 で著作された仏教書とその継承,また,土地のことばを巧みに使って説法する僧侶や,月 4 回 の布薩日に寺院の宿堂にこもる持戒行を行う在家信者,盛大な仏教儀礼を催行し寄進を行う篤 信の寄進者も,それぞれブッダの教えを身体化して実践するという意味で仏教を自らのものと することを試みているといえよう。ここではこのような試みを「土着化」と呼んでおく。 越境・交流によって共通性を維持しつつも地域ごとに土着化された東南アジアの仏教は,タ イ仏教,ビルマ仏教,カンボジア仏教という東南アジア大陸部の国家単位のくくりで把握され 2) あるいはそのような国家単位の枠に対して,特定の研究対象となる民族や地 ることが多い。 域を設定し,シャン仏教,モン仏教,カレン仏教あるいはラーンナー仏教といったくくり方を する場合もある。研究対象を限定することにより,特定地域・特定の人々の間での仏教の土着 化の様子が明らかになってくる。しかし,このように研究対象を限定する枠自体は,研究者に よって便宜的に設定されたものであるか,それぞれの国家や民族が自らの仏教伝統を確立する ために設定したものであり,必ずしも所与のものではない。それを自明視してしまうと,越 境・交流と土着化を特徴とする東南アジアの仏教の姿が見えなくなってしまうこともある。 「タイ仏教」の例を挙げると,1830 年代に僧籍に身をおいていたモンクット王子(のちのラー マ 4 世)が興したタマユット運動は,近代化を目指す「タイ仏教」の原理主義的改革運動と分 析される。そこではモン・サンガから厳格な戒律遵守の精神を継承したことも,経典研究の資 料としてシンハラ仏教のパーリ語経典がスリランカからもたらされたことも, 「タイ仏教」の 。このような 改革運動の一過程として解釈される[石井 1969: 184–189; Tambiah 1976: 212–213] 視点からでは,タイの仏教史におけるモン仏教の影響や,19 世紀の南アジア・東南アジアにお 1) もう少し厳密にいうと,西南中国雲南省のタイ(Dai)族の居住地域である西双版納,耿馬,徳宏の諸 州も,また地理的区分では島嶼部とされるマレー半島中部のタイ仏教徒居住地域も上座仏教圏の中に 含まれる。 2) この枠組みは単に近代国家成立時に確定したものではなく,19 ∼ 20 世紀にかけての東南アジアの王朝 国家で行われた「仏教改革」によっておおよそ形作られたものであり,西欧植民地支配の時代を経て 独立した上座仏教徒が多数を占める国家に継承されたものである。 45 東南アジア研究 53 巻 1 号 ける仏教の交流といった越境・交流の事実は, 「タイ仏教」の近代化の歴史の背景に退いてし まう。一方,タマユット運動と関連して,どの言語の文字にもよらない世界共通のパーリ語表 記文字(アリヤカ文字)を新たに考案したモンクット王子の先見性は「タイ仏教」の近代化・ 。 合理化にはほとんど貢献しなかったため,忘れ去られている[cf. Chauksuvanit 2010] さて本稿では,東南アジア大陸部における仏教の越境・交流と土着化の過程の研究として, ミャンマー連邦共和国(以下,ミャンマー)シャン州に居住する少数民族パオ(Pa-O)の人々 によって 20 世紀半ば以降に行われてきた仏教に関わる諸活動を事例として取り上げる。これ も一つの研究対象の限定の枠であるが,本稿では研究対象を「パオ仏教」として名づけ自明視 するのではなく,パオの人々の仏教が越境・交流と土着化のなかでどのように表れてくるのか 3) を明らかにしたい。 シ ャ ン 州 南 部 の 丘 陵 地 帯 に 主 と し て 居 住 す る パ オ の 人 々 に と っ て の 仏 教 は, ビ ル マ ,シャン(Shan) ,モン(Mon) ,カレン(Karen)といったパオに隣接する諸民族と多 (Burmese) くの共通点を有しており,自らの民族範疇内で完結するものではない。以下では民族の境界を 越える仏教の越境・交流の現象と仏教の土着化の観点から,パオの仏教と民族の関係を考察 する。 II シャン州南部のパオ II–1 パオ概説 パオは,ミャンマー東部に位置するシャン州,カレン州,モン州にかけての地域に居住する カレン系言語を話す民族集団である。自称はパオで,ビルマ語ではタウントゥー(Taungthu) 4) 黒または濃紺を基調とする民族衣装から,かつては「黒カレン」とも呼ばれて と呼ばれる。 5) シャン いた。正確な人口数の把握は難しく,人口推計も 75 万人から 200 万人までの幅がある。 州南部では,パオは篤農の畑作民族として知られており,比較的平地に近い丘陵地帯に畑を拓 き,陸稲や大豆やニンニク,その他の野菜類,さらにビルマ式葉巻の巻葉(タナペッ)を生産 3) 本稿のデータは,主として 2010 ∼ 12 年の間にミャンマー・シャン州南部のパオ村落において行った 短期訪問の聞き取り調査から得られたものである。 4) 一部はタイ国北部・北西部のチェンマイ,メーホンソーン,ターク県などにも居住している。タウン トゥーという民族名称の語源の由来には二説ある。一説には,ビルマ中央平原に住むビルマ民族が, 東方の山地に居住するパオを「タウン(山) ・トゥー(人) 」 ,つまり「山の人」と呼んだことに由来す るとされる。もう一説では,ミャンマー南部のタトン地域に故地を持つパオを「タウン(南)+トゥー (人) 」 ,つまり「南の人」と呼んだことに由来するとしている。パオと同地域に居住するシャンからは, 「トーンスー」 (Tongsu)と呼ばれる。これはビルマ語の「タウントゥー」からの借用語である。 5) クリスチャンセンとサンチョーは,シャン州南部に 50 万人,タトン周辺地域に 10 万人,全体で 75 万 人と推定している[Christensen and Sann Kyaw 2006] 。一方,パオの民族自治組織の一つである PNO (Pa-O National Organization)によると,パオの総人口は 200 万人に上るとしている[PNO n.d.] 。 46 村上: 「パオ仏教」の創出? している。パオの多くは仏教徒であり,村々には寺院が建設され,僧侶や見習い僧が止住して いる。その一方で,土着の精霊信仰も実践するが,親族組織を基盤とした精霊祭祀は顕著では 6) ない。また一部にキリスト教徒もいるがその数は少ない。 パオ自身の説明によると,パオはモン州のタトン周辺を故地としており,そこから東・東北 方角のカレン州,カヤー州,シャン州へと拡散・移住していったとされる。パオの民族史の中 でタトンという土地は重要な意味を持つ。東南アジアにおいて最初に上座仏教を本格的に受 容したタトン王国(10 ∼ 11 世紀)は一般的にはモン民族の王国とされているが,パオの伝承 は,この王国にはモンとパオの両方の王統があり,歴代のタトン国王にはパオの王も含まれ ているとする。古代仏教王国タトンとパオを結びつけるこの伝承により,パオの人々は自らを タトン王国以来の敬虔な仏教徒であるとし,仏教を自らの民族文化の基礎として位置づけてい 。 る[Christensen and Sann Kyaw 2006: 4–5] クリスチャンセンとサンチョーは,現在みられるパオの集住地域はシャン州南部とモン州の ,後者に居住する人々 タトン周辺の 2 地域であると指摘し,前者に居住する人々を「高地パオ」 7) また人口の分布では を「低地パオ」と呼び,両者の間には言語的な差異もあるとしている。 故地とされるタトン地域よりもシャン州南部の方がパオの人口が多く,度重なるビルマ王朝に よるタトン地域への侵略と占領やビルマ王朝と中部タイのシャム王朝との間の戦争から逃れる ため,タトン周辺地域から北方のシャン州へと移住を繰り返し行ってきたことをその理由とし 。本稿では主としてシャン州南部のパオの事例を考察する。シャン て挙げている[ibid.: 8–9] 州全体の人口構成ではシャンが多数を占めるが,シャン州南部のタウンジー県のホーポン ,シーセン(Hsiseng) ,ピンラウン(Pinlaung) ,チャウタロンジー(Kyauktalonegyi) (Hopong) 8) の 4 つの郡ではパオが多数を占める。 II–2 パオの民族主義運動 パオは,20 世紀半ばから民族意識を強め,20 世紀後半は自らの民族の自立を求める運動を 展開してきており,このことはパオの仏教に関する諸活動の背景となっている。ここでは, シャン州南部を中心にしたパオの民族主義運動の流れを簡単に確認しておこう。 シャン州南部の伝統的な政治体系のもとでは,パオの多くはシャンの諸土候国(moeng)の 6) パオの土着の精霊信仰の宗教実践に関しては十分な資料を得ておらず,その研究に関しては今後の課 題としたい。シャン州南部でのパオのキリスト教布教は,第二次大戦後の 1945 年にアメリカのバプテ スト教会の宣教師によって始められた。パオのキリスト教徒は人口の約 1%程度とされる。PNO スタッ フとのインタビューより(2010 年 8 月 27 日,タウンジー市内) 。 7) タンタン アウンはシャン州南部の高地パオは独自の言語や伝統的な衣装などの文化を維持している が,タトン周辺の低地パオの大部分は「ビルマ化」しているとする[タンタン アウン 2013] 。 8) 本稿ではミャンマーの地方行政区画の khayaing(District)を県,myone(Township)を郡と訳している。 47 東南アジア研究 53 巻 1 号 臣民となっており,シャンの国主の支配下に置かれていた。唯一の例外として,シャン州南部 でパオが最も集住していたサートゥン国(Hsa-tung)では,パオの小国主(myoza)が支配し 9) 19 世紀末にシャン州が英領植民地下に入った後も,シャンの国主たちは政 ていたとされる。 治的な実権を担っていたため,シャンの国主たちによるパオの統治体制は継続していた。その ためパオを巡る政治的環境が大きく変動するのは,20 世紀半ばの第二次大戦からビルマ連邦 (ミャンマー)独立にかけての時期となる。英領ビルマ時代にはカレンの民族主義運動が植民 地体制下で活性化し,ビルマ連邦の独立前後に大きな政治的運動として興隆し,ビルマ連邦独 立直後から自らの国家の建設を求め武力闘争を開始する。これらのカレンの民族主義運動の影 響を受けて,パオも民族としての意識を高めていった。 1940 年代にいたるまでカレン民族主義運動と一体となって活動していたタトンを中心とした パオの民族主義活動家たちは,1946 ∼ 47 年頃にはカレン民族運動とは協力関係を保持しなが らも一線を画し,独自の民族主義運動を志向するようになる。日本占領下のバモー政権で林業 大臣を務め,カレン民族同盟(Karen National Union, KNU)の副書記長の経験もあるパオ人政 「パオ民族組織」 治家ウー・フラペ(U Hla Pe)が主導し,タトン地域のパオが中心となって, (Pa-O National Organization)が結成される。1948 年のビルマ連邦独立直後には,これまで使わ れてきたビルマ語の他称の民族名「タウントゥー」に代わり,自らの民族を「パオ」と呼ぶこ 。 とを主張するデモ活動をタトンで行った[Christensen and Sann Kyaw: 18] (Pa-o loung bu, Pa-O Solidarity)が結成され, 一方,シャン州南部でも,1947 年に「パオ連帯」 旧シャン土候国の国主たちによる「封建体制」を批判し,民主的な政治体制を要求する運動が 。注目すべき点は,シャン州南部でのパオの民族主義運動の端緒は, 開始される[ibid.: 18–19] パオの僧侶たちによって開かれたということである。当時シャン州政府の歳入源としてケシの 栽培,アヘン窟の経営,賭博場などが盛んになり,また各家庭での酒の製造が認められた。そ のためパオを含めたシャン州に居住する人々の間で,アヘンの吸引や飲酒の習慣が急速に広が り,また賭博での散財によって経済的困窮に陥るものが多数出てきた。このような悪弊を止め 10) 当初はシャン国主やその支配への させるよう立ち上がったのが,パオの僧侶たちであった。 直接的な対抗ではなく,道徳的衰退から生じる社会的問題を解決するため悪弊の放棄と仏教的 道徳への回帰を主張していたが,そののち在家の運動家も参加する政治的な運動へと変化し, 9) サートゥン国は,シャン州の州都タウンジーの南東に位置し,現在のシーセン(Hsiseng)郡に当たる。 サートゥンはビルマ語読みにするとタトンとなり,モン州のタトンから移住してきたパオが新しい居 。 住地に故地の名前を付けたとされる[cf. Scott and Hardiman 1900–01] 10) 主導的役割を果たした僧として,トゥリヤ(Thuriya)師,トゥナンダ(Thunanda)師,ガンダマ (Gandama)師らの名前が挙げられる。トゥナンダ師は 1957 年にパオ文字の改訂を行い新パオ文字の 教科書を編纂した学僧。またガンダマ師は,1948 年に「村落防衛」のためチャウタロンジーにおいて, 自営軍事組織を結成し武力闘争を開始したパオ民族闘争の創始者とされる[タンタン アウン 2013: 335]。 48 村上: 「パオ仏教」の創出? 悪政を行うシャンの国主たちの支配からの独立を求める運動として発展し, 「パオ連帯」の結 。上記の社会的問題が当時のシャンの国 成へと至る[ibid.: 18; タンタン アウン 2013: 327–328] 主たちの失政のみに起因するかどうかは別として,シャン州南部における最初期のパオの民族 主義運動は,シャンの非道徳的な「封建的支配」からの独立による, 「仏教的道徳の回復」の ための闘争として意味づけられていた。その後,パオの民族主義者たちは,タウンジー県南部 の農村部を中心にシャン国主支配体制へ武力闘争を展開する。 このシャン州南部のパオの民族主義運動組織は,ほぼ同時期に活動を始めたモン州タトンの パオの民族主義運動と協働関係をもっていた。1950 年には,パオ民族組織のウー・フラペが活 動拠点をモン州のタトンからシャン州南部へと移し,シャン州南部がパオ民族主義運動の中心 地となる。 「パオ連帯」を中心とするシャン州南部のパオ民族主義運動はタトンから移ってき (United Pa-O Nationalist Organization, た「パオ民族組織」と統合し, 「パオ統一民族主義組織」 UPNO)を構成し,パオの自治権の確立をめざし,独立以降も依然としてシャン州の政治権力 の中枢を担っていたシャンの旧国主勢力やミャンマー政府との武装闘争を展開し,1950 年代 にはシャン州南部で最も強力な軍事力をもつ武装民族組織へと成長する[Christensen and Sann Kyaw 2006: 22–23]。 UPNO は 1950 年代末には一時ビルマ政府と停戦協定を結ぶが,1962 年の軍事クーデターに よってネ・ウィン将軍率いる軍事政権が成立すると再び軍事闘争を開始する。しかし,その後 パオの民族主義運動は,中国共産党の影響を受けたビルマ共産党と共闘する「赤パオ派」 (Red Pa-O)と,共産主義思想を受け入れない「民族主義パオ派」(Nationalist Pa-O)に分裂し,パオ 民族運動組織同士の内部闘争が生じ,統一性を急速に失っていく。ビルマ国内での共産党の影 「民族主義パオ派」がパオ民族 響が低下した 1970 年代半ばには「赤パオ派」の勢力は減退し, 運動の主流を占めるようになる。1976 年には「民族主義パオ派」が,1940 年代半ばにタトン で結成された最初の組織名である「パオ民族組織」 (Pa-O National Organization,以下 PNO と略) を名乗り,シャン州地域内の他の民族主義組織や武装勢力と協力や対立を繰り返しながら,民 族の自立・自治権の拡大のための闘争を継続していった。しかし,最終的に 1991 年にミャン 。 マー政府と停戦協定を結ぶ[ibid.: 26–38; タンタン アウン 2013: 329–331] ミャンマー政府との停戦協議の見返りとして,PNO は軍事組織の温存,シャン州南部におけ 11) インレー湖を中心としたシャン州南部の観光 る実効支配地域「パオ自治地域」の割り当て, 11) ミャンマー政府と停戦協定を結んだ「反政府組織」のいくつかは,実効支配地域を認められている。 このような実効支配地域は「自治地域・自治管区」 (Self-Administered Zone/Self-Administered Division) と呼ばれ,パオ自治地域を含め現在 6 つの地域が設定されている。cf. Myanmar Information Management Unit,“Myanmar Location of States, Regions and Self-Administered Zones,”http://www.themimu.info/ sites/themimu.info/files/documents/Country%20Map_MIMU1053v01_Self%20Admin%20Zones_20Aug13_ A4.pdf(2015 年 1 月 26 日最終アクセス) 49 東南アジア研究 53 巻 1 号 事業とミャンマー北部カチン州のミッチーナでの宝石鉱山の営業権を政府から認められてい る。パオの民族主義運動の一部にはこの休戦協定を不服として,タイ・ミャンマー国境地域で 武力闘争を続ける分派も出現しているが,休戦協定の見返りを得たことでシャン州南部での PNO の政治的・経済的重要性が増している。PNO に認められた「パオ自治地域」は,現在の ミャンマー政府の行政区画に従えば,シャン州南部のタウンジー県内の 4 つの郡にまたがって 12) 設定されている。 III パオの仏教概観 III–1 パオの仏教実践 先述したように,パオは自らを敬虔な仏教徒と自任しており,実際シャン州南部のパオの 村々を訪ねると,村の中に建てられた寺院,その寺院に止宿し,剃髪してサフラン色の僧衣を まとった僧侶や見習い僧が仏道修行生活を送っている姿,そしてその修行生活を支える在家信 者の積徳行をみることができる。パオの仏教の歴史がタトン王国の時代に遡るのかどうかは不 明であるが,現在のパオの多くは,ビルマ,シャンといった近隣の仏教徒と同様に,スリラン カの大寺派の伝統を受け継ぐ仏教徒である。パーリ語経典(ビルマ文字表記)を聖典とし,在 家と出家は明確に区別され,またビルマ,シャン,タイ北部と同様に見習い僧の一時出家の慣 行がある。 ここでは,シャン州南部タウンジー郊外のパオ村落で聞き取りを行った内容から,パオの 人々による仏教実践の内容を紹介しておこう。 ,見習い僧をボウェシャン(bwe shan) パオ語では,僧侶のことをボウェチャーン(bwe cang) と呼ぶ。僧侶と見習い僧の区別は他の上座仏教徒と同じく,年齢(見習い僧= 20 歳未満,僧 侶= 20 歳以上)と遵守する戒律の条数(見習い僧 10 条,僧侶 227 条)によって区別されてい 13) 僧侶の中でも寺院の住職はボウェボン(bwe bon)と呼ばれる。また出家者ではないが, る。 八戒を遵守する女性修行者(ビルマ語ではティーラシン)はメーシーラ(me sila)と呼ばれ 14) これに加え,寺院の雑務を手伝う在家の「寺子」 (ジャウンター kyaung-thah)も寺院に止 る。 12) PNO 独自の地方行政では,スリヤー郡,クンプラボワー郡,ミエンモー郡,サンダ郡,スヴァナ郡タ トンの 5 つの地方行政区に分けられている[タンタン アウン 2013: 331] 。 13) ちなみに,本稿とほぼ同じ地域(タウンジー市南方のパオ村落)を対象とした 1953 年のハケットの報 (コーイン ko-yihn) ,僧侶として 告によれば,パオの出家者は 20 歳未満の出家者である「見習い僧」 出家し 10 年未満の「若年僧」 (ピィンシィン pyihn-sihn) ,10 年以上の出家歴を有し寺院の住職を務め る資格を持つ「僧侶」 (ボウェブン bwe-bun)の 3 段階に分かれるとしている。また,ハケットは,当 時のパオのあいだでは女性修行者ティーラシンはほとんどいないとしている[Hackett 1953] 。 14) 近年,パオの女性修行者は増加の傾向にある。タウンジー市南方の郊外に 2006 年にパオのティーラ シン寄宿教学院バドウンマサーイージャウンサウン(Badounma-sayi-kyaun-saun)が建設された。2012 ↗ 50 村上: 「パオ仏教」の創出? 住している。 シャン州南部のパオの僧侶が止住する寺院は,ミャンマー政府が設定しているサンガ組織の 中に位置づけられている。この政府設定のサンガ組織の管区は行政上の区分に対応しており, 僧侶や住職の民族出自とは無関係に,タウンジー県管区,その下の郡管区,村管区という形で 構成されている。一方,パオの僧侶たちは,政府設定のサンガ組織とは別に,パオの僧侶が止 住する寺院のみで構成される寺院組織を有している。このパオの寺院組織は, 「中央サンガ組 織」と呼ばれる。詳細は次章で述べるが,現在の本部はシーセン郡にあるパオ寺院に置かれて いる。政府設定のサンガ組織と同様に管区に分かれて組織されているが,その管区は行政上の 管区の範囲と一致しておらず,独自のものとなっている。 パオの在家信者は積徳行として寺院や僧侶への喜捨を熱心に行うが,その中でも集会堂を建 設し寺院に寄進した者,仏塔を建築した者は大きな功徳を享受するとされ,前者にはジャウン タガー(kyaung tagah) ,後者にはパヤータガー(phaya tagah)という篤信の仏教徒を指す称号 。パオ語の「タガー」 (tagah)は,シャン語の「タカー」 (taka) が与えられる[Hackett 1953: 686] と同じく,ビルマ語で在家信者を指すダガー(daga)を語源としている。ビルマやシャンの仏 15) このような篤信の信者は寺院の 教実践においても同様の寄進者に称号を授ける慣習がある。 世話役などをしばしば務めており,在家信者の代表的な位置を占める場合が多い。また見習い 僧の一時出家の慣行では,自らの息子を見習い僧として出家させたものは「見習い僧の父」 (シャン・パー shan pa) , 「見習い僧の母」 (シャン・ムー shan moe) ,僧侶として出家させたも のは「僧侶の父」 (チャーン・パー cang pa) , 「僧侶の母」 (チャーン・ムー cang moe)と呼ばれ る。自らの子ども(男子)の出家式の費用を出して出家させた親に対して称号を付与する慣習 。 は,タイ国北部のシャンの間にもみられる[村上 1998] さらに在家信者の仏教実践に関して注目すべき点は,在家の朗誦師モー(maw)の存在であ る。モーは在家信者の中でもジャータカや仏教説話の写本を朗誦する役割を担うもので,通 常は布薩日(持戒日)の午後,寺院に集まった持戒者たちが招来し,その朗誦を拝受する。ま た,布薩日以外にも,葬儀前の通夜に葬家にモーを招来し,朗誦を通夜に集まった人々が拝聴 ↘ 年 9 月の訪問時には,ティーラシン(メーシーラ)102 名が止宿し,共同生活を送りながら,仏教教 理を学習していた。教学院長サヤージー・ドー・バドウンマサーイー(Sayagyi Daw Badounma-sayi) は,20 歳でティーラシンとして出家し,32 年間の修行生活を送っているパオのティーラシンで,人々 から多大な尊敬を集めている。この寄宿教学院はサヤージー・ドー・バドウンマサーイーが主導し, 篤信者の喜捨を募って建設されたものである。彼女はこの施設建設の以前に,ニャウンシュエにもパ オのティーラシンが修行するための同様の寄宿教学院を建設している。 15) 中国雲南省の徳宏地区のシャン(徳宏タイ族)の寄進儀礼の主催者に対して授与される称号に関して は T’ien[1986]に詳しい。ビルマ語にも「寺院建造者ジャウンダガー」 (kyaun daga) , 「仏塔寄進者パ ヤーダガー」 (phaya daga) , 「僧の後援者ヤハンダガー」 (yahan daga)という称号はあるが[飯國 2013: 33],積徳儀礼主催による功徳を称号によって明示するシャンやパオに比較すると,ビルマ仏教徒にお いては称号の形で明示化される傾向は弱い。 51 東南アジア研究 53 巻 1 号 する。モーの朗誦を聴くことで僧侶の誦経や説法を聴くのと同じように功徳を積むことができ 。在家の朗誦師によるジャータカや仏伝,仏教説話の るとされる[cf. Hackett 1953: 575, 637] 朗誦拝聴の慣習は,パオだけではなく,シャンの仏教徒の間にも見られる[Murakami 2009; Crosby and Khur-Yearn 2010]。但し,シャンの朗誦師はテキストが書かれた書物を目の前に置 き,聴衆の前に座って, 「朗読」するスタイルで朗誦を行うのに対して,パオの朗誦師は,座 す聴衆の前に立ち,書物は手に持たず, 「暗誦する」スタイルをとる。このテキストに対する 態度の違いをここでは十分に議論できないが,パオの朗誦スタイルの方がより「口承」的であ 16) シャンの朗誦師の方はよりテキストに忠実な「書承」的な特徴を有しているといえる。 り, III–2 パオ人僧侶の移動歴 パオの仏教を概観すると,近隣の民族であるビルマやシャンの仏教実践との共通性・連続 性を強く印象付けられる。このような隣接する仏教徒との共通性・連続性は,出家者のネッ トワークにも見られる。次にパオ人僧侶の経典学習とそれにともなう「移動」の経験を見て いこう。 2010 ∼ 12 年の 3 年間の間に,シャン州南部のパオ村落地域の寺院を訪問し,主として寺院 の住職の簡単なライフヒストリーの聞き取りを行った。その聞き取りから,パオ人僧侶の教学 と移動の一定のパターンが見えてくる。聞き取りを行ったパオ人僧侶には,見習い僧として出 家し,そのまま還俗せずに僧侶の得度をおこない,出家生活を続けるものが多かった。見習い 僧の出家は,生地のパオの村落かその近隣のパオの村落の寺院にて行い,数年の後に,シャン 州南部の大きな教学寺院へと移り,仏教教理の勉強に励む。シャン州南部のこれらの教学寺院 はビルマ系,インダー系の寺院の場合もあり,必ずしもパオ系の寺院というわけではない。そ の後,僧侶によってはさらに上ビルマや下ビルマの有名教学寺院へと移動し,さらなる教学の 研鑚を積む。そして一定期間の後にシャン州南部の生地の村の寺院,あるいはパオ居住区内の 寺院に戻るというパターンである。 以下に,例を挙げておこう。 16) 今回の調査では,実際のパオの朗誦師の朗誦を観察することができなかったため,書かれたテキスト と実際の朗誦の間にどれだけの違いがあるのかを確認することはできなかった。今後の課題としたい。 但し,パオの朗誦師が「口承」的な性格を強く有しているとはいえ,朗誦師は書かれたテキストを朗 誦することが前提となっている。今回の調査のインフォーマントは,パオの朗誦師「モー」はビルマ 語では「サーホーサヤー」 (sa haw saya)つまり「書物(を読む)説法師」となると説明しており,パ オの朗誦師の朗誦は書かれたテキストに基づいた口承での上演となる。その意味で「口承文芸」とい う語が相応しい。パオを含んだミャンマーにおける在家の朗誦師/説法師についての比較研究につい ては小島[2015]を参照のこと。 52 村上: 「パオ仏教」の創出? OB 師(W 寺院,チャウタロンジー郡 W 村) W 寺院住職。38 歳。W 村生まれ。8 歳から 3 年間近隣の村落の政府の小学校に通ったのち, 11 歳で W 村の W 寺院にて見習い僧として出家。出家直後にビルマ中部のタウングー17)のシュ エサンドー(Shwesandaw)寺院にてビルマ語とパーリ語を学ぶ。この教学寺院は,OB 師と同 様に教理学習をする学生僧が 100 名ほどいる規模であった。20 歳になって,W 村寺院にて得度 式を行い僧侶となった後,再びタウングーの同寺院に戻り教学に励む。26 歳までタウングーの ,現在の W 寺院に戻る。 寺院に滞在し(約 15 年間の滞在) KD 師(T 寺院,チャウタロンジー郡 T 村) T 寺院住職。54 歳。KD 師はシャン州南部では著名な瞑想指導者であり,T 寺院は在家信者 が瞑想修行を行う瞑想センター18)ともなっている。パオのみならず,他の民族の信者も多く瞑 想修行を行っている。 KD 師は T 村の隣村生まれ。初等教育 4 年まで政府の小学校に通う。1 年家業の農業を手伝っ たのち,T 寺院にて 14 歳で見習い僧として出家。出家後すぐにシャン州南部の町ピンロンの パオの寺院に教理学習に行く。そこでは,ビルマ語とパーリ語,それにパオ文字の基礎を学ぶ。 20 歳で T 寺院に戻って得度し僧侶となった後,約 15 年のあいだにミャンマー国内の各地を移 動して瞑想修行を行う。まずシャン州南部のアウンバンの寺院に一時滞在した後に,ヤンゴン 19) ティイェートー(Tiyeto)寺院20)での一時滞在を 市内のジャウッタチー(Kyauktachi)寺院, 経て,マハースィー瞑想センター(Mahasi Yeiktha)にて瞑想修行を行う。その後一時期中部 ビルマのバゴーとピンロンの寺院に滞在した後,再びヤンゴンに戻り,シュエダウンゴン瞑想 センター(Shwedaungon Yeiktha)にて再び瞑想修行を行う。1991 年に T 寺院に戻り,住職と なり現在に至る。 RW 師(N 寺院,タウンジー郡 N 村) N 寺院住職。48 歳。シーセン郡のパオの山村 C 村にて生まれる。7 歳の時に,シャン州ニャ ウンシュエ郡シュエニャウン市21)のパオ寺院で見習い僧として出家する。3 年その寺院で過ご した後に,同じくシュエニャウン市内にあるカンジー(Kangyi)寺院に 5 年間滞在し,教理学 習に励む。カンジー寺院は当時ビルマ・サンガのシュエジン派の僧長が住職を務める有名教学 17) バゴー管区,カレン州やカヤー州に近い。 18) 瞑想センター(yeiktha)とは,僧俗を問わず瞑想修行を行うことができる施設で,特に在家信徒のた めの比較的短期の瞑想修行コースなどを提供している。 19) ヤンゴン市内の巨大な涅槃仏で有名な寺院。 20) ヤンゴン市ラマドン区に立地。 21) インレー湖のほとりにある町で,旧シャン土候国の一つニャウンシュエ国の中心地。 53 東南アジア研究 53 巻 1 号 寺院であった。その後,バゴーの教学寺院チャカーワイン(Kyakawain)寺院にて 5 年滞在する。 この寺院には 1,000 人もの僧侶・見習い僧が止宿していたという。20 歳になって,生地のシー セン郡の C 村に戻り,C 寺院にて得度式を行い,僧侶となる。11 年間 C 寺院に滞在し,後進の 見習い僧の教育を担当した。また麓から山中の C 村までの道路建設事業も行った。その後 C 寺 院を離れ,サガイン管区のマンダレーに 1 年,カヤー州のローイコーに 1 年,シュエニャウン に 2 年,シャン州南部のホーポンに 2 年滞在した後,再び C 寺院に戻る。C 寺院に 4 年滞在し た後,前出の KD 師が住職を務めるチャウタロンジー郡の T 寺院で 1 年間瞑想修行を行った後 に,現在の N 寺院の住職となる。 以上の 3 例の僧侶の移動歴は,高度な教理学習を志すパオ人僧侶たちが,パオの寺院の範囲 を超えて,広くビルマ仏教世界のなかで教学や瞑想の修行を行っていることを示している。高 度な教学や瞑想修行の環境は,パオの民族的なネットワークや居住地域内では満たされないた め,向学心の高い僧侶ほど移動の範囲は広がっていく。これらのパオの僧侶たちの移動は,村 落部から都市部へ教学寺院を結節点として移動を繰り返すビルマ仏教の若年出家者の移動パ ターンとよく似ている。藏本はミャンマーにおけるこのような出家者の移動を「教学の巡礼」 と名付け,ミャンマーの出家者の間に「制度的な枠組みとは別の次元で,ミャンマー・サンガ 。 というつながり意識と教学的同質性をもたらしている」と分析している[藏本 2014: 69–70] 確かにこのような移動の経験によって,パオの出家者もビルマ仏教の教学の知識を身につけ, ミャンマー・サンガの一員としてのふるまいを体得するのであろう。このような民族居住地域 や民族境界を越えた「教学の巡礼」とその後の出身村やパオの居住地域への「帰還」は,パオ の仏教に近隣民族の仏教,特にビルマ仏教との連続性を持たせるものである。しかし,上記の 3 名の僧侶とも修行のための移動は繰り返していながらも,ビルマの仏教世界のなかに埋没す るのではなく,僧侶となる得度式の際には出身村の寺院に戻り,また最終的に出身村や近隣の 村,パオの居住地域の寺院にて住職としての務めを果たしている点が共通している。これらの 22) 僧侶には,出身村とのつながりやパオの僧侶としての自覚も観察することができる。 III–3 パオの仏教へのアプローチ ここまで,主として東南アジアの上座仏教圏の連続性のなかでパオの仏教実践を紹介してき た。上座仏教徒に共通の特徴,また近隣のビルマやシャンといった民族との共通性・連続性が 良く分かる。このようなパオの仏教実践の共通性や連続性は,東南アジア地域の民族史・民族 間関係を背景として考察すると,近隣民族からの仏教伝播の結果として語ることが可能であろ 22) 興味深いことに,近年はタイ国に僧侶として滞在歴のあるパオ人僧侶が増えてきている。これは 1990 年代から進むミャンマーからタイへの労働者の流出を背景としていると考えられる。 54 村上: 「パオ仏教」の創出? う。例えば, 「パオはビルマ南部にモンのタトン王国が繁栄した時期に仏教を受容した」 ,ある いは「それよりももっと遅く,近隣の多数派仏教徒であるモン人やビルマ人,シャン人から仏 教を受容したのだ」という説明である。このような「伝播論」的な視点からでは,パオの仏教 実践は近隣仏教徒民族の強い影響を受けた形で継承されてきた東南アジアの少数民族による仏 教実践の一変種とされ,周縁的な事象としてみなされる。しかし,本研究が関心を払うのは, パオの仏教受容に関する歴史的事実の検証作業ではなく,現在自らを仏教徒として自任してい るパオの人々が,近隣の仏教徒民族との関係のなかで,また 20 世紀半ば以降のパオを巡る民 族論的状況のなかで,自らの仏教実践をどのように位置づけようとしてきたかという点であ る。この点にアプローチするためのトピックとして,第 IV 章ではパオ人出家者・パオ寺院の 組織化について,第 V 章では仏塔修復事業を取り上げる。 IV パオの出家者・寺院の組織化 IV–1 パオ教理学習組織会議 シャン州南部のパオの出家者が止住する寺院において聞き取りを行うと,パオという民族範 疇を基盤とした寺院・出家者の組織化が始まるのは,1940 年代末頃である。ここではパオ人僧 侶が住職を務め,寺院に止住する出家者の多数がパオ人である寺院を「パオ寺院」と呼んでお (Pa-o く。1940 年代後半になってパオの出家者とパオ寺院による「パオ教理学習組織会議」 liksantaik nikaya swenwepwe)が構想され,1948 年に第一回会議がシャン州の州都タウンジー にて開催された。この会議には,シャン州南部のパオ寺院の住職や僧侶が集まり,以後毎年 1 回開催されることとなった。会議の目的は,ビルマ・サンガの教法試験を受験するパオ人の僧 侶・見習い僧の教理学習振興・教理教育向上であった。 当時から現在に至るまでシャン州南部のパオ人僧侶・見習い僧はビルマ・サンガの教法試験 を受けているのであるが,試験での使用言語がビルマ語であるため,ビルマ語を母語としない パオ人僧侶・見習い僧にとってはビルマ語母語者よりも不利となる。特に,ビルマ語教育があ まり普及していなかった 1940 年代にはパオ人僧侶・見習い僧のためのビルマ語・パーリ語を 中心とした教理教育の環境が不十分であり,この会議においてビルマ・サンガの教学試験の成 績を上げるための情報交換や学習内容の向上を目指したのである。会議開催の契機は 1948 年 にタウンジー市内に初めてパオ人僧侶が住職を務めるパオ寺院,タウンチャウンジー(Taun Kyaung Gyi)寺院が建設されたことである。この寺院の初代住職バッダンダ・ナリンダ (Baddanta Narinda)師の呼びかけで,この会議が開催されるようになった。ナリンダ師はモン 州タトン出身のパオ人僧侶で,パオ人の僧侶・見習い僧の教理教育に力を注いだことで知られ ている。 55 東南アジア研究 53 巻 1 号 1946 ∼ 47 年ごろにはモン州タトンで PNO が結成され,またほぼ同時期にシャン州南部でも パオ人僧侶による悪習改善運動が始まり,それが 1947 年の「パオ連帯」の結成へとつながっ ていったという 1940 年代後半のパオをめぐる民族―政治状況の変化がこの会議の開催の背景 にあることは推測できる。但し,この会議はビルマ・サンガの教法試験で優秀な成績を残せる 教学に秀でた僧侶・見習い僧の育成を主眼とした教学のためのネットワークのようなもので あった。1950 年代にタウンジー南方のパオ村落で調査を行ったハケットによれば,パオの寺院 や僧侶を主管する大寺院はタウンジー市内にあるが, 「主管寺院」の住職はそれらの寺院・出 。シャン州南部のパオ人出家 家者の「相談役」に過ぎないとしている[Hackett 1953: 668–670] 者・パオ寺院の主管寺院とは先述のタウンチャウンジー寺院のことであろう。以上のことか ら,当時のシャン州南部地域のパオの寺院や僧侶は,各地域ごとに区分された管区の階層構造 をもつ組織ではなく,地域としての緩やかな統合を保ちつつも,それぞれが自律性を有する寺 院や出家者からなる寺院・僧侶のネットワークであったと考えられる。 このパオの出家者・寺院のネットワークは,ビルマ・サンガの教法試験への「予備校」的な 機能を果たす一方で,1957 年にはパオ語・パオ文字教科書の編纂事業も行っている。この教科 『新版パオ文 書は, 「パオ・サンガ仏教保護協会」 (Pa-o sankha sasana rekita aphwe)が出版し, (Pa-o akkhara likhmu tasa)と名付けられている[Thunanda and Nyana 1957] (図 1 参 字教科書』 照) 。ティーティン(Thithin)寺院のトゥナンダ(Thunanda)師とタムパヤー(Thanphaya)寺 院のニャーナ(Nyana)師の 2 名の僧侶が教科書の編者として記されていること,また「パオ・ サンガ仏教保護協会」という名称であることから判断して,この協会はパオ人出家者・パオ寺 院のネットワークである「パオ教理学習組織会議」の活動の一部をなすものと考えられる。そ れまで写本の手書き文字が中心で,綴り字も一定していなかったパオ文字の標準化を図り,印 23) 学校教育での教授を念頭に置 字体を作成し,活版印刷技術を使って印刷されたものであり, いたものではあったが,実際には寺院における見習い僧や在家信者子女への教育に使われた。 この『新版パオ文字教科書』は 1993 年に改訂され,後述するパオの「中央サンガ組織」から『パ (図 2 参照) 。 オ文字基本書』 (Pa-o lik hmu zong)として出版されている[Pa-o likleng zu lita 1993] 2012 年にインタビューをしたタウンジー市内のパオ寺院の住職はこれらのパオ文字教科書の 出版とそれを使った寺院教育について次のように語っている。 仏教をパオのことばで理解し伝えるためには,正しいパーリ語の学習と同時に,自らのこ とばについてもしっかりと学ぶ必要がある。パオの僧侶がビルマ語でパーリ語を学んで, 23) パオの文字改革運動と前後する形で,シャン州においては 1940 ∼ 50 年代にかけてシャン文字の改革 運動も生じている[cf. 村上 2002] 。この時期に興隆するシャン州内の少数派民族の文字改革間の関係 については今後の研究課題としたい。 56 村上: 「パオ仏教」の創出? 図 1 『新版パオ文字教科書』の表紙 出所: [Thunanda and Nyana 1957] 図 2 『パオ文字基本書』の表紙 出所: [Pa-o likleng zu lita 1993] ビルマ語で説法しても,パオの在家信者には十分理解されない。仏教の教えをパオのこと ばで説明できるためには,パオ語の学習も大切である。 パオの出家者・寺院のネットワークは,一方ではビルマ・サンガの教法試験への対応という 形でパオという民族境界を越えたビルマ仏教との越境・交流を目指しつつ,それと同時に自ら の言語の文字の改定とその文字を使った民族語(文字)教育の整備も行っている。それは仏教 の教えを自らの言語を使って継承していくという「土着化」への試みでもあった。 IV–2 パオ中央サンガ組織 四分五裂していたパオの民族運動の主導権を「民主主義パオ派」が 1970 年代半ばには掌握 (PNO)を名乗る。その 2 年後の 1978 年 3 月には PNO がパオ し,1976 年には「パオ民族組織」 人僧侶たちと協力し「パオ民族の日」の祝典を行い,この機会にパオ民族全体への仏教教理教 育振興,パオ民族文化の継承・振興を目的とした「中央サンガ組織」 (baho sangkha chu-nu)が 結成された。これにより,1948 年以降上記の教学ネットワークによって緩やかなまとまりを もっていたシャン州南部のパオの出家者・寺院は,パオという民族的範疇に沿って構成される 出家者・寺院の組織へと改編された。この組織は,前節で紹介したビルマ・サンガ教法試験受 57 東南アジア研究 53 巻 1 号 図 3 パオ・中央サンガ組織概念図 験のための教学ネットワークであった「パオ教理学習組織会議」とは性格を異にしており,明 確な境界を持つ管区とその下に置かれる下部組織という形の階層構造をもつ。 「中央サンガ組 織」はその管轄範囲をパオが多数居住するシャン州南部とし,この地域を 5 つの管区(khayeng) 。 に分け,さらに管区の下に「地区・市区」 , 「村区」を置いている(図 3 参照) ①タウンジー管区:インレー湖東岸のタウンジー市とその周辺地域(タウンジー県内のニャ ウンシュエ,ヤートサウ,タウンジー,チャウタロンジー郡区) ②ピンラウン管区:インレー湖西岸地域(タウンジー県内ピンラウン,ナウンタヤー郡区) ③ホーポン管区:タウンジー県内ホーポン郡区に相当 ④ローイリン管区:シャン州南部の東部(ローイリン県,モークマイ県) ⑤シーセン管区:タウンジー県内シーセン郡区に相当 管区は複数の地区(weng-ne)・市区(weng)から構成されており,さらに地区・市区は複 数の村区(oeng)からなり,村区は複数の村落の寺院からなる。2012 年 9 月の時点では,「中 央サンガ組織」の第一僧長はシーセンのサワナラマ(Sawanarama)寺院住職ゴーウィンダ (Gowinda)師で,第二僧長はタウンジー市内のエーゼーディー寺院住職ラッカナターミ (Lakkhanathami)師が務めている。 ,タウンジー市内にて行 「中央サンガ組織」の全体会議は,年に 2 回(おおよそ 7 月と 12 月) われる。会場は市内の 5 カ所のパオ寺院が持ち回りで担当する。24) なお,「中央サンガ組織」 24) タウンチャウンジー(Taun Kyaun Gyi)寺院,エーゼーディー(E Zedi)寺院,ミャーウ(Mya U)寺院, アウンマンカラー(Aun Mangkala)寺院,オウタラヨン(Ou Tayayon)寺院の 5 寺院である。 58 村上: 「パオ仏教」の創出? の地理的範囲は上記の 5 管区であるが,シャン州以外では⑥モン州タトン県アランタヤー (Alantaya)地区,⑦カレン州パアン(Hpa-an)地区,⑧バゴー管区タナッピン(Thanatpin) 25) 地区のパオ寺院,パオ僧侶とも関係を有している。 現在パオの出家者や寺院はこのような組織を結成してはいるものの,ミャンマー政府が設定 したビルマ仏教サンガ組織から独立しているわけではない。現在シャン州には,ミャンマー全 体のサンガの地方組織にあたるシャン州サンガ組織がある。これはミャンマー政府の行政単位 ごとに構成される「宗教行政組織」と考えてよい。パオ人出家者(僧侶・見習い僧)は宗教行 政上,このシャン州サンガ組織に所属する。そのため,シャン州南部のパオ人僧侶たちは,宗 教行政上のビルマ仏教サンガ組織に所属しつつ,パオの「中央サンガ組織」にも所属している。 「中央サンガ組織」の区割りは必ずしもミャンマー政府の地方行政単位とは一致しておらず, 政府の制定するシャン州仏教サンガ組織の区割りとも当然一致していない。例えば,政府制定 のビルマ仏教サンガ組織では,タウンジー郡区の僧長はタウンジー市内のオウタラヨン寺院の 住職であり,同時にシャン州管区全体の僧長を兼職している。一方,パオの「中央サンガ組 織」ではタウンジー管区の僧長はタウンジー郊外のパーモン村の寺院の住職が務めている。 また,ミャンマーのサンガ組織は 1980 年に政府によって公認された 9 宗派(gain)から構成 されるが,パオの僧侶やサンガ組織にとってミャンマー・サンガ内の宗派の所属は重要性を持 たない。シャン州南部のパオ寺院のほとんどは名目上在来派で最大宗派のツーダンマ派に所属 し,少数の一部の寺院は厳格派のシュエジン派に所属する。しかし,パオのサンガ組織は宗派 の所属は無関係に構成されている。僧侶の個人レベルでも,パオ人僧侶はビルマ仏教の宗派の 違いにはあまりこだわりがなく,ツーダンマ派からシュエジン派へ,またその反対の所属の変 更もよく見られるという。 IV–3 在家対象の教化活動 「中央サンガ組織」はその活動内容を「パオ民族全体への仏教教理教育振興,パオ民族文化 の継承・振興」としている。パオ人僧侶と寺院の自発的な組織活動ではあるが,ミャンマー政 府の宗教省から活動の承認も受けている。 「中央サンガ組織」の中心的な活動は,具体的には 在家信者向けのパオ語による教理教育とそれに基づいた教理試験の実施である。パーリ語とパ オ語による仏教教理の学習をすることで,仏教の教えを母語であるパオ語で理解し,話せるよ うにすることが目的である。 旧暦 5 月の満月の布薩日後から 8 日間の教理学習指導者の集中研修を行う。シャン州南部各 地から僧侶約 200 名,在家信者約 800 名が研修会場の寺院に集まり,研修を受ける。2012 年の 25) チャウタロンジー郡の WY 寺院住職 O 師とのインタビュー(2012 年 9 月 17 日)。 59 東南アジア研究 53 巻 1 号 研修はタウンジー管区のパーモン寺院で行われ,2013 年の研修はピンラウン管区ナウンタヤー 地区内の寺院で行われた。研修会場は上述の①から⑤の順番で 5 管区が持ち回り担当する決ま りとなっている。この集中研修を受けた者がそれぞれ出身地に戻り,指導者・教師として各地 の寺院にて在家信者の教理教育を行う。 「中央サンガ組織」の管区,市区・地区,村区の各レ ベルにそれぞれ教理教育を管掌する委員会を構成し,教理教育を組織的に実施する体制をとっ ている。教理教育の対象は,小学生(5 ∼ 6 歳)から 20 歳までの未婚の在家信者とされ,理念 上は該当するすべての男女が受けるべきとされる。また,シャン州以外の南方のパオ居住地 (上述の⑥∼⑧の地域)には,雨安居明けに研修を受けた僧侶 200 名が派遣され,各地で約 1 週間の集中教理学習会を開催している。 教理学習の内容は,毎年 3 教科と決まっている。1 科目はパオ語で教理学習をするための基 本知識となる「パオ語・パオ文字」の科目で,1993 年に改訂出版された『新版パオ文字教科 書』を使用する。残り 2 科目は仏教教理科目である。仏教教理科目の教本は毎年 1 冊ずつ作成 され,当年に新しく作成された教本と,前年に作成された教本の 2 冊,つまり 2 科目を学習す (Zat る。例えば,2012 年の教理学習会では,2011 年に刊行した第 29 号教本『ジャータカ物語』 (Dhammapada amai 7)の 2 教科 wutthu)と 2012 年に刊行された第 30 号教本『法句経 その 7』 (図 4 参照) 。両書とも執筆者は「中央サンガ組織」第一僧長 であった[Gowinda 2011; 2012] 図 4 パオ語教学教本 29 号『ジャータカ物語 550 話』の表紙 出所: [Gowinda 2011] 60 村上: 「パオ仏教」の創出? であるゴーウィンダ師である。毎年旧暦 3 月の満月の布薩日から旧暦正月ティンジャンまでの 間に,各管区に 1 カ所の会場寺院を決めて,教理試験を行う。試験問題は管区ごとに異なって おり,同一のものではない。試験合格者には証明書が出され,優秀な成績を収めた者は表彰さ れる。 V カックー仏塔群修復事業 V–1 カックー仏塔群 カックー仏塔26)は,タウンジー市の南方約 40 km,畑作地が広がる台地の端(標高 1,030 m) にあり,大小あわせて 2,400 基を超える仏塔が,南北 151 m,東西 306 m のそれほど広くはない 楕円形の敷地内に群立している仏塔遺跡である。大仏塔が広大な平原に点在するパガンの仏塔 遺跡の風景とも,金箔と宝石で飾られてヤンゴンの街中にそびえ立つシュエダゴン仏塔の威容 とも異なり,緑豊かな農村地帯に「こぢんまり」とまとまって林立する多数の小仏塔群の姿は, 長年続けられてきたこの地域の仏教徒の積徳行の結果であり,小さなものが多数集積すること 。現在カックー仏塔群は,PNO が統治する「パ が発する独特の存在感がある(写真 1,2 参照) オ自治地域」内にあり,PNO によってシャン州南部の観光地の一つとして整備され,シャン州 南部の観光地として広く国内外の観光客・参詣者を集めている。カックー仏塔群に個人の外国 人観光客として訪問するには,まずタウンジー市内でタクシーをチャーターして,タウンジー 市内にある PNO の事務所で入域料 3 ドルを支払い,5 ドルで PNO 所属のガイド兼通訳を雇用 27) し,同行させる必要がある。 この地の伝承による仏塔群形成の経緯は次のとおりである。仏塔群のなかで一番大きな仏塔 は,紀元前にアショーカ王の命を受けた仏教布教団がこの地を訪れて建立したものとされ,二 番目に大きい仏塔は 12 世紀にこの地を訪れたパガン朝のアラウンシードゥー王(Alaungsithu 在位 1113–67)によって建立されたとされる。そしてその後,近隣のパオやシャンの在家信者 たちがこの二つの仏塔の周りにそれぞれ小仏塔を建てていき,現在のような仏塔群となったと される。アショーカ王の仏教使節団の伝承はもとより,アラウンシードゥー王の仏塔建造も伝 承の域を出ておらず,歴史的事実として証明されたわけではない。仏塔の様式からみると 17 ∼ 18 世紀のものが多いとされるが,それ以前に建立されたものの可能性もあり,正確な年代を確 。 定することはできない[Dannhorn 1996; cf. U Thanwe n.d.] カックー仏塔群はインレー湖東側の山地の周縁部に立地し,仏塔群の西側の丘陵地にはパオ 26) ビルマ語ではケックー(Kekku)と表記されるが,パオ語,シャン語の原音に近いカックー(Kakku) と本稿では表記する。 27) 2010 ∼ 12 年の調査時点での料金。 61 東南アジア研究 53 巻 1 号 写真 1 カックー仏塔群(筆者撮影) 写真 2 修復された小仏塔(筆者撮影) の村落と畑作地が広がり,東側の盆地はシャンの村落と水田が広がっている。旧土候国の領 域でみると,シャンのニャウンシュエ国とパオのサートゥン国(現在のシーセン地域)の接点 に位置しており,「カックー」という名は,パオ語で境界線を意味する「カム・クー」 (kam ku) 62 村上: 「パオ仏教」の創出? 28) が語源とされている。 丘陵地と盆地の境に立地するこの仏塔は,歴史的に見てパオ,シャン 共通の信仰対象であり,仏教実践の場であった。仏塔建立はパオ,シャン両方の在家信者の積 29) 但 徳行によると考えられる。現在でも参詣する信者には,近隣地域のパオとシャンが多い。 し,カックー仏塔群は,長い間地域の仏教徒の信仰対象ではあったが,シャン州南部地域以外 ではその存在はほとんど知られておらず,経年劣化により 1990 年代までには全壊または一部 30) が崩れた仏塔が多数あったようである。 この仏塔群がシャン州南部の地域の外に広く知られるようになったのは,1990 年代半ばから 始まる大規模な修復作業が行われるようになってからである。2001 年には当初計画していた仏 塔修復事業が終了し,仏塔までの道路や仏塔周辺の境内の整備などが済んだのち,外部の観光 客や参詣客に開放されるようになり,現在に至っている。 V–2 パオの仏教聖地の「創造」 このカックー仏塔群の修復作業は,1991 年にミャンマー政府と PNO の間で停戦協定が結ば れた後,1990 年代半ばごろから開始される。作業自体は PNO を母体としたパオ人在家信徒た ちによって行われたが,その資金の多くを提供したのはシンガポールの大乗仏教の寺院の信者 たちであった。多くの西側諸国が 1988 ∼ 90 年にかけてのミャンマー政府による民主化運動弾 圧を非難して経済制裁を行うなか,シンガポールは経済援助を続けていた数少ない国の一つで あった。詳細な経緯は不明であるが,このような両国間の密接な関係を背景にシンガポールの 護国金塔寺の住職である法照師(Mahassadhamma Jotikadhaja, Shi Fa Zhao)が PNO の推進する カックー仏塔修復事業を知り,自らの私財と同寺院の信徒の喜捨を集めて,修復資金の寄進を 行った。仏塔群敷地内に建つ「修復作業終了記念碑」によれば,修復作業は 2001 年に完了し, 12 月 23 日に修復終了記念式典が開かれた。その際には,ミャンマー政府の国家安全発展委員 会(State Peace and Development Council, SPDC)のタンシュエ議長,シンガポールの護国金塔 寺の法照師,シャン州仏教サンガ僧長,シャン州政府行政官,PNO のアウン・カムティー議長 28) カックーの語源にはもう一説あり,この地に仏塔が建てられるきっかけは,豚がこの場所の土を掘り 返すところを眺めていた農民が,土中から金色の光が放射されるのを見て掘り返してみると,仏像や 仏遺物が出土したことによるという。豚が仏像や仏遺物の発見を手助けしたということから,ビルマ 語の「豚」 (ウェッ we)+「助ける」 (クー ku)でウェックーとなり,それが転訛してカックーとなっ たという。ここでは, 「豚」説よりも,パオの視点からみた「境界」という点に注目している。 29) 年に 1 回の仏塔祭りの日には,ホーポン郡区のリス(高地に住むチベット・ビルマ系の民族)の仏教 徒も多数参詣にくるとされる。 30) ニャウンシュエ国国主の娘サオ・サンダーの回顧録に,1930 年代頃のカックー仏塔群への行幸の写真 が掲載されており,ニャウンシュエ国内ではそれなりに知られていたと考えられる[Sao Sanda 2008: 107]。しかし,スコットの『上ビルマ・シャン州地誌』(1900 ∼ 01 年)や 1950 年代にシャン州南部の パオの調査を行ったハケットの研究にもカックー仏塔に関する言及はなく,名所旧跡として広く知ら れていたわけではないようである[cf. Scott and Hardiman 1900–01; Hackett 1953] 。 63 東南アジア研究 53 巻 1 号 が式典に出席している。停戦協定後間もない時期に,民間の宗教団体とはいえ,民族組織の自 治区内の仏塔修復がミャンマー政府と蜜月関係にあるシンガポールからの支援によって始め られたことは,ミャンマー政府の承認あるいは積極的な関与がなければ実現しなかったであ ろう。仏塔修復は停戦協定締結後のミャンマー政府と PNO との良好な関係を象徴する事業と して行われたと想像することができる。 先述したようにカックー仏塔群はパオとシャンの両仏教徒の信仰対象・聖地であり続けてい るが,修復作業が開始された 1990 年代半ばから対外的にはパオの仏教遺跡として紹介される ようになっている。例えば,ミャンマー政府が「ミャンマー観光年」 (Visit Myanmar Year)と して観光産業振興を行った 1996 年のタイ国際航空の国際線機内誌『サワッディー』には,カッ クー仏塔群を紹介した記事が掲載され,敬虔な仏教徒であるパオによって築き上げられ,守ら 。また,PNO はミャンマー政府の停 れてきた仏教遺跡として紹介されている[Dannhorn 1996] 戦合意 15 周年を記念しパオ民族を総覧する記念本を 2000 年代に出版しているが,そのなか でパオ自治区内の 19 の著名な仏塔リストを掲載し,その筆頭にカックー仏塔群を挙げている 。パオの居住地域には数多くの仏塔が建てられており,規模の点でもカッ [PNO n.d.: 64–65] クー仏塔群内の最大の仏塔よりも大きなものも数多くあるが,カックー仏塔がパオの仏塔の中 で「第一」であるとされる。 ビルマ仏教世界における仏塔とは,在家信者の積徳行によって建設されていく俗人の宗教実 。つまり俗人の世界が色濃く反映される 践の領域であることはよく知られている[髙谷 1993] 宗教空間でもある。ミャンマー政府の承認のもと,PNO の管理下で行われた仏塔修復事業は, それまでのパオ,シャン両民族の境界を越えた仏教実践の対象であったカックー仏塔群を「パ オの仏教遺跡」として作り変える過程と捉えることができる。古くからの仏教遺跡を新しくす るという意味では仏教聖地の再生・復興であるが,少なくとも PNO の視点からみればカックー 仏塔群は「パオとシャンの聖地」としてではなく, 「パオの聖地」として再生・復興されたと いうことになろう。 但し,これは政治的な言説のレベルでのことであって,実際の仏教実践はシャンを排除して パオのみで行われてはおらず,依然としてパオ・シャンの境界を越えたものは存続している。 VI まとめ これまで述べてきた 20 世紀半ば以降のパオの仏教実践は,パオの民族運動と連動して,仏 教の自言語化,サンガ組織の領域化(サンガ組織に管区を割り振り,空間的に管理すること) ・ 中央集権化,敬虔な仏教徒としての自尊心を満たすような仏教聖地の創造を行ってきた。 「ミャンマー仏教」という現在の国家の枠に沿った仏教のあり様に対して,パオが仏教を自ら 64 村上: 「パオ仏教」の創出? のものとすること,つまりパオの民族性の中に囲い込んでいく過程のように見える。しかし, もしこの活動が, 「ミャンマー仏教」 「タイ仏教」 「シャン仏教」 「モン仏教」と並置される排他 的な範疇を形成する「パオ仏教」を目指しているのであれば,道半ばの印象を受ける。 パオの「中央サンガ組織」の場合,在家信者に関わる部分に関しては,領域化と自言語化の 進行が顕著にみられる。しかしその領域化と自言語化を進めているサンガの構成員である僧侶 や見習い僧は,依然としてミャンマー中央部のビルマ系の寺院に移動して,仏教の修行に励ん でいる。このように,在家信徒は領域化・自言語化していくのに対して,出家者には依然とし て越境・交流の傾向が見られる。 また「中央サンガ組織」は出家者の組織であるにもかかわらず,その結成の目的は在家者へ の教理教育であるという点で,他の上座仏教社会のサンガ組織と比較してかなり特殊な事例と なっている。その特殊性の背景として,1980 年以降国内のサンガ組織を 9 宗派に固定化した ミャンマーの仏教行政がある。現在のミャンマーの仏教行政ではパオ人のみによる排他的な出 家者組織を構成することは認められないが,パオの「中央サンガ組織」は在家者の教化・民族 文化の振興を目的とする組織として認められており,ミャンマー政府の行政的サンガ組織と二 重構造になっても大きな問題が生じない。在家者教化のための出家者の組織という一見矛盾し た組織理念が,サンガ組織のように見えるが実は民族運動的な仏教実践であり,民族運動的な 仏教実践でありながらサンガ組織の形式をとるという両義性をもたらしている。言い換えるな らば,パオの「中央サンガ組織」自体が出家と在家の論理の越境の上に成り立っていると見る こともできる。 カックー仏塔の修復作業は,周辺地域の複数の仏教徒の共通の聖地をパオの仏教聖地として 作り上げるものであったが,経済的にはミャンマー政府と密接な関係にあるシンガポールの大 乗仏教徒信徒の貢献に負うところが大きく,完全に自前で修復作業を行えたとは言い難い。ま た実際には,カックー仏塔はパオのみがその威徳を独占できる仏塔ではなく,シャン州南部地 域の複数の仏教徒の聖地として機能している。 以上のように,いまだ「パオ仏教」は未完のままであると言えよう。しかし,別の問いを立 てることもできる。本稿で見てきたパオの仏教徒の活動は,「ミャンマー仏教」に対抗する 「パオ仏教」を志向しているのであろうか。仏教がその土地の人たちのものになるということ と,領域で区切られ,排他的な「∼仏教」として構成されることとは,必ずしも同義ではない であろう。本稿で見てきた 20 世紀後半からのパオの人々の仏教に関する諸活動は,境界づけ られ自己完結的な「パオ仏教」を創出する過程ではなく, 「ミャンマー仏教」に取り込まれる ことを避けつつも排他的になるのではなく,ミャンマーや近隣の諸仏教徒民族,時には大乗仏 教徒との交流(越境)を行いつつ,自らのサンガ組織,仏教の教えを語ることば,仏教聖地を 自らのものにしようとする努力であると解釈することができる。 65 東南アジア研究 53 巻 1 号 謝 辞 本研究は JSPS 科学研究費・基盤(A) 「東南アジア大陸部における宗教の越境現象に関する研究」 (課題 番号:22251003,研究代表者:片岡樹)からの助成を受けたものです。またシャン州南部での調査におい ては,多くの方々からご支援・ご協力を頂きました。ここに記して感謝申し上げます。 参 考 文 献 Chauksuvanit Teeranoot. 2010. Ariyaka Characters: The Concept on Thai Natural Language Processing.『大阪 大学世界言語研究センター論集』3: 167–190. Christensen, Russ; and Sann Kyaw. 2006. The Pa-O: Rebels and Refugees. Chiang Mai: Silkworm Books. Crosby, Kate; and Khur-Yearn, Jotika. 2010. Poetic Dhamma and the Zare: Traditional Styles of Teaching Theravada amongst the Shan of Northern Thailand. Contemporary Buddhism 11(1): 1–26. Dannhorn, Robin. 1996. Hidden Faces of Asia. Sawasdee, Thai Airways International 25 (September, 1996): 24–28. Gowinda, Bwe-bon. 2011. Zat wutthu 550[ジャータカ物語 550 話].Hsiseng: Pa-o likleng zu lita, Pa-o sankha zunu. ―. 2012. Dhammapada amai 7[法句経 その 7] .Hsiseng: Pa-o likleng zu lita, Pa-o sankha zunu. Hackett, William Bunn. 1953. The Pa-O People of the Shan State, Union of Burma: A Sociological and Ethnographic Study of the Pa-O (Taungthu) People. 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