企業が直面する2つの誤解

ネットワークエンジニアが世界を変える⑫
企業の競争力を高める IT 投資って、どういうこと?-①
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企業が直面する2つの誤解
皆さんの会社の中で、以下のような会話を聞くことはありませんでしょうか?
「これはうちの仕事ではないので、そっちでやってください」
「いいえ。私の職務記述書にはそのような内容は含まれていませんし、私も忙しくて、とてもそれどころ
ではありません」
「○○さん、××商事さんからの依頼の件、よろしくお願いしますね。
」
「部長ちょっとまってください。それは私の評価項目になっていないではないですか。思いつきで私の仕
事を増やさないでください。
」
「△△さん、急な話で申し訳ないが、明日の役員会議で先日受注した大型案件の報告をしたいので、概要
をまとめておいてくれないか?」
「すみませんが、今日はクロス・ファンクショナル・チームの活動予定が入っています。
」
「ああ、いいよ。俺からリーダーに欠席の連絡をしておくから。
」
私は、このような現象を、昨今話題になることの多い「エンパワーメント」
「見える化」の弊害であると考
えています。
ただし、
「エンパワーメント」や「見える化」自体を否定するつもりではなく、従業員の意識や働く環境の
改革を伴わない中途半端な導入に問題があると思います。
エンパワーメントは、従業員が主体性を持って意思決定を行い、企業活動をスピードアップしていく事が
狙いであったはずですが、旧態依然としたピラミッド型の組織体制と、従業員どうしの自由なコミュニケ
ーションを阻害するような部署毎に仕切られたオフィス空間など、従来の体質を残したままで導入してし
まうと単なる権限委譲となり、自組織の利益だけを追求する部分最適のマネージメントを増やすことにな
ります。
見える化は、コア・コンピタンスを明確にし、経営判断の正確性とスピードアップを図ることで企業競争
力を向上させる事が主たる目的と考えられますが、その反面で、見えない物を評価しようとしない風潮が
出来てしまう恐れもあります。
例えば、商談の種まきをしたマーケティング担当者など潜在的な貢献者が適切に評価されない、現場 SE
が肌感覚で感じている品質問題を軽視してしまう、といったことが考えられます。
知識創造企業
さきほどの例に共通する問題は、従業員や管理職が自組織もしくは自分自身の評価を最重視し、会社全体
の利益や顧客満足に目を向けていないことにあります。
では、大企業病とも呼ばれるこの状態から回復するためには、どうすれば良いのでしょうか?
ナレッジ・マネージメントの世界的な権威であり、カリフォルニア大学バークレー校で知識学の特別名誉
教授も務められている一橋大学大学院の野中郁次郎教授は、自著の中で以下のように記しています。
「不確実性の存在のみが確実にわかっている経済下において、永続的な競争優位性の源泉の一つとして、
企業が信ずべきものは『知識』である。
」
(知識創造企業/ハーバード・ビジネス・レビューより)
(野中氏は 2008 年 5 月ウォールストリートジャーナルの「世界で最も影響力のあるビジネスの思想家」
の 20 人に日本人として唯一選出された)
以降では、野中教授が考案した知識創造の基本パターンである SECI(セキ)モデルを拠り所として、人材
育成、マインド形成、オフィス環境、IT 環境、人事評価制度など、なるべく包括的な見地で今後の企業が
取り組むべき施策を考えてみたいと思います。
SECI モデル
野中教授は、多くの企業のマネージメントを長年調査、分析した結果、成功した企業やプロジェクトには
共通する知識創造のプロセスが存在することを発見し、SECI(セキ)モデルとしてまとめました。
以下に、野中教授の論文「知識創造企業」より、松下電器(現パナソニック)のホーム・ベーカリー(家
庭用自動パン焼器)の開発過程を例として引用し、SECI モデルについて簡単に説明します。
①
1985 年、松下電器はホーム・ベーカリーの開発に取り組んでいたが、機械に正しく小麦粉を練らせ
ることが出来ず、行き詰っていた。
そんなとき、開発担当者が大阪で一番という定評のあるパン職人の下で、練(ねり)の技術を研究し
た。
パン職人が有しているような技能や知識は、簡単に言葉で説明できるものではなく、経験によってのみ得
ることができるノウハウです。このような種類の知識を「暗黙知」と呼びます。
松下電器の開発者は、パン職人の作業を実際に時間をかけて観察し、模倣し、練習することを通じて、職
人の暗黙知を共有しようと試みました。
これが「共同化(Socialized)
」です。共同化では経験を共にすることが重要であり、多くの人と一度に知
識を共有することが難しい側面があります。
②
パン職人の技術を学んだ開発担当者は、プロジェクト・チームのエンジニアと知識を共有しながら開
発を進めた。その過程において、機械内部の特殊なリブを追加するなど新たな製品仕様が作られた。
製品仕様のように文書化・言語化された知識を、暗黙知に対して「形式知」と呼びます。パン職人から学
んだ暗黙知をプロジェクト・チーム内で共有するためには、製品仕様という形式知に変換する必要があり、
これを「表出化(Externalization)
」と呼びます。
暗黙知を形式知に変換することは表現できないものを表現するということであり、比喩的な表現による対
話を繰り返すことで徐々に体系立てた文書へ変換することになります。この例の場合であれば、暗黙知を
学んだ担当者が「こんな感じで練りたい」と身振り手振りを交えて説明し、それを聞いたエンジニアが「そ
れなら、この部品の形を変えてみてはどうか」などといったディスカッションが沢山あったのではないか
と想像されます。
この段階では、様々な背景を持つプロジェクト・メンバー(ソフト開発者、エンジニア、マーケティング
担当など)が、五感をフルに発揮してコミュニケーションすることが重要です。
③
一年の試行錯誤の結果、
「中メン法」と呼ばれる技法を編み出し、パン職人の技術を再現することに
成功した。松下電器のホーム・ベーカリーは、キッチン家電としては記録的な売り上げを達成した。
製品として製造、販売するためには、製品仕様に基づいて機構設計や電気回路設計が行われ、製造工程、
試験工程を経て出荷されます。すなわち、すでに形式知となっている設計ガイドラインや品質基準と設計
仕様書とを組み合わせて、新たな形式知である設計図や試験手順書、更には製品そのものを生み出してい
るとも言えます。
このように形式知を集めて新たな形式知を作り出す段階を「連結化(Combination)
」と呼びます。
④
新製品を開発・出荷するまでの様々な試行錯誤の経験を通じて、このプロジェクトに関わったメンバ
ーは、机上の学習では得られない知識を得た。
製品を出荷するまでの工程において、開発に携わったメンバーはもちろんのこと、製造や試験の担当者な
ど松下電器内の他の従業員にも、ホーム・ベーカリーのような機械がパン職人と同じくらいおいしいパン
を作れるということや、それを実現した中メン法の仕組みなどが認知され、当然の知識基盤となっていき
ます。
このように形式知を個人が取り込んで咀嚼(そしゃく)し、腹に落とすことを「内面化(Internalization)」
と呼びます。
そして次の製品開発は、各自が以前よりも高いレベルの暗黙知を持った状態から始まることになります。
すなわち SECI モデルとは、異なる背景を持つ人と人とが暗黙知を共有することで新たな暗黙知を生み出
し(共同化)
、それを形式知に変換する努力を通じて新たな方法論や技術論を編み出し(表出化)
、それに
よって得られる利益を文献や製品の形で多くの人に提供し(連結化)
、新たな知識の基盤や常識になる(内
面化)スパイラル状のプロセスを表したものです。
SECI モデルと IT の役割
SECI モデルを注意深く読み解くと、
「創造のフェーズ」と「伝達のフェーズ」に大別できることが解りま
す。つまり、共同化と表出化の段階で行っていることが新たな何かを創造する活動であり、連結化と内面
化の段階は情報を組み合わせ、規定のフォーマットに変換するなど体系化され、実際の製造活動などを支
援しています。
ERP やグループウェアに代表される過去の IT 投資は、形式知を効率的、統合的に扱うことを主眼とした
もので、SECI モデルに照らすと連結化と内面化、すなわち伝達のフェーズを支援する機能が中心であった
と考えられます。
対して創造のフェーズである共同化、表出化の段階では、属人的なマネージメントが行われてきました。
先の松下電器の事例にしても、開発担当者がパン職人の下で修行することを業務として認める判断があっ
たからこそ実現したはずで、その判断の根拠は明確なものではなく、強烈な目的意識を持った担当者と、
現場を信じる経営層の主観的な判断があったと考えられます。
同じように、ホンダ、ソニーやキャノンなど、革新的な製品を生み出してきた企業の多くでは、現場の肌
感覚を持ったカリスマ経営者によって、暗黙知を重視したマネージメントが行われてきました。
昨今の「見える化」ブームによって IT が企業に深く浸透したことは、一方で目に見えない暗黙知が軽視さ
れる風潮を作っている可能性もあり、
「創造のフェーズ」を支援する IT の効果的な活用方法を見出すこと
が今後の企業活動の課題と考えられます。
次回は、SECI モデルを拠り所としながら、知識を最大の企業資産と捉え、常に顧客の満足と会社全体の最
適化を目指し、継続して競争力を発揮できる組織を作るための方法について検討してみたいと思います。
Written by Keiichi Takagi.
as of Jun 24,2010