法話18回

朝の法話
第十八回
十月十六日
全校の皆さん、おはようございます。
冬服となり、二週間が過ぎました。制服の色が落ち着いた色に変わ
った中、学校生活も落ち着いた気持ちで取り組めているでしょうか。
二年生の皆さんは、先週、東本願寺研修がありましたね。研修前日
の校長先生や講師の先生の話の中にもありました「少し立ち止まって
自分のことを考える」ことはできたでしょうか。今回のような機会を
生かして、更なる成長が出来る自分でありたいものですね。
さて、今朝も釈尊についてお話します。釈尊はその時その場の状況、
そして一人ひとりの人格に合わせて教えを説いたと言われています。
親指の爪で砂をすくって、「人間に生まれるということは、この地上
の砂の中から、今この爪の上にすくった砂の数ほどのまれな確率なの
だ。それほど、私が人間として、今いのちを受けていることはまれで
尊いことなのだ。」といった内容の教えを説いたり、ある時、弟子に向
かって「人間にはめったに生まれられない。そして、いのちほど尊い
ものはない。また、仏さまの正しい教えを本当に聞くということも、
またなかなかできないことである。」という内容の事を語られたことも
あります。
今、私は人間として尊いいのちを受けて、ここにこうして座ってい
ますが、私が人間としてのいのちを受けたということには、どんな意
味があるのか。私は人間としていかに生きるべきなのか。このことが、
私という一人の人間に対し与えられた一生涯の課題である。そういっ
たことを教えてくださっている言葉です。私は何のために生きている
のか。私はいかに生きるべきか。その事を生涯かけて問い続ける生き
方をしないで、ぼんやり生きているとしたら、それほど恐ろしいこと
はないというのが釈尊の教えです。
仏教の授業で私たちは合掌し、「人身受け難し、今すでに受く。仏法
聞き難し、今すでに聞く。」と三帰依文をとなえています。本校に学ぶ
ということは、仏教の授業などを通して、人と生まれた私が、人にと
って最も大切な「問い」を忘れずに、生涯をかけて学び続ける歩みを、
今始めているということなのです。
これで朝の法話を終わります。