名目 600 兆円という政策目標について

2015 年 10 月 1 日
名目 600 兆円という政策目標について
(2015 年 10 月 9 日「社会の見方・私の視点」放送分のメモ)
一橋大学 齊藤 誠
経緯:
首相は、9 月 24 日の自民党両院議員総会の後の記者会見で名目 GDP600 兆円という政策
目標を掲げた。
翌 25 日、甘利経済再生相は、その政策目標の達成時期を 2020 年の東京オリンピック後
とした。
反応:

そもそも、名目 GDP とは、日本経済全体の 1 年間の生産活動の規模を貨幣単位で測っ
たもの。

一般の人々は、そもそも名目 GDP600 兆円が何を意味するのかよくわからなかったの
でないだろうか。

多くの人々は、現在の名目 GDP がどの程度の水準にあるのかさえも知らない。

数年前、ある資格試験の問題に、「現在の名目 GDP に一番近い水準を選びなさい」と
いう択一問題に対して、①5 兆円、②50 兆円、③500 兆円、④5000 兆円の選択肢を与
えたが、3 割以上の解答者が、正解の③以外の選択肢を選んだ。

ちなみに、2014 年度の名目 GDP は、490.8 兆円。

要するに、現在の名目 GDP の大体の水準さえあまり知らない人々に向かって、
「名目
GDP600 兆円」の政策目標を掲げても、ピンとこないであろう。

今回の政策目標は、安保法制成立後に掲げられたこともあって、安保闘争後の 1960 年
に掲げられた「所得倍増計画」との類似性を指摘されることが多いが、名目 GDP600
兆円という政策目標には、
「所得倍増計画」のような分かりやすさはまったくないとい
ってよい。
実現性:

2014 年度の名目 GDP が 490.8 兆円なので、2020 年度末に 600 兆円の目標を達成する
と、向こう 6 年間で年 3.4%の成長率を維持しなければならない。

しかし、こうした高い成長率は、1990 年代以降、実現していない。名目 GDP の年成
長率を見てみると、
1960 年代が 16.3%、
1970 年代が 12.7%、
1980 年代が 6.2%
に対して、
1990 年代が 1.2%、
2000 年度から 2014 年度は、マイナス 0.3%
であった。

ラジオ放送なので、視覚的なイメージを伝えるのが難しいが、1960 年度から 2014 年
度までの名目 GDP の推移を描いたグラフは、1990 年代半ばに 500 兆円前後のところ
で横ばいで推移し、21 世紀に入ると、緩やかに低下しているというのが、現実の日本
経済の姿。

こうした現実の日本経済を踏まえると、仮に、2020 年度末までに名目 GDP600 兆円の
目標が達成されるには、今からロケットスタートして、かつての拡大基調を取り戻す
必要が生じる。

そのようなことがにわかに実現するとは考えにくい。
21 世紀の名目 GDP 低迷の背景:

通常、日本経済の名目 GDP 低迷の背景として、「日本銀行の金融政策が消極的であっ
たために、日本経済全体の需要が停滞し、その結果、物価がデフレ傾向に陥ったから」
と説明されることが多いが、こうした説明が妥当するのは、1990 年代からせいぜい 21
世紀初頭までで、それ以降の日本経済の動向に対しては、そうした説明を適用するこ
とは難しい。

むしろ、名目 GDP の背景にあったのは、日本経済が海外との交易で得られる利ざやが
極端に少なくなったところに大きな原因がある。さらにその背後には、2014 年半ばご
ろまで、原油や液化天然ガスが高騰し、一部の製造業の国際競争力が著しく落ちた事
情がある。

金融政策の影響が限定的であったのは、2013 年春より、異次元金融緩和という大規模
な金融緩和を発動し、さらに、2014 年 10 月末には、異次元金融緩和をさらに加速さ
せたにもかかわらず、名目 GDP が増加基調に転じる気配が一向になかったことからも
推測できる。
無理矢理にも名目 GDP 目標を達成させるには…:

金融政策の効果が限定的な中にあって、
600 兆円の名目 GDP 目標を達成するためには、
政府が国債発行で調達した資金で大規模な財政政策を継続的に実施するしかないであ
ろう。

GDP 統計の“癖”といってもいい面なのであるが、公的部門(政府や地方自治体など)
に多くの人を雇い入れ、公的部門を拡大させると、その分、
「行政サービスが生産され
た」とみなされるので、名目 GDP は拡大することになる。

あるいは、国債発行で調達した資金で、民間投資と競合しないような形で公共投資を
増やしても、名目 GDP は拡大していく。

政治状況や国際情勢によっては、防衛費の拡大を加速させていくことで、名目 GDP を
拡大させる可能性が考えられないことでもない。

いずれにしても、無理矢理に名目 GDP 目標を達成しようとすればするほど、日本政府
の財政状況は悪化していくことになる。

その結果、名目 GDP に対する国債の発行残高は、雪だるま式に増えていくことになる
であろう。
まとめ:

日本経済の正味の実力や日本政府の厳しい財政状況からみると、名目 GDP600 兆円と
いう政策目標は、日本の経済社会の身の丈にまったくあっていない、あまりに無謀な
目標設定だと思われる。