古墳文化が花開くまで①

古墳文化が花開くまで①①
瀬古墳とヤマト王権のつながり﹂
今年 月 日・ 月1 日、第 回
国民文化祭において大崎町では﹁横
で、 南 九 州 の 動 植 物 が 全 滅 し た
数百倍も大きいといわれるほど
デ ラ の 噴 火 は、 桜 島 大 正 噴 火 の
火 砕 流 ﹂ と 呼 ば れ る。 姶 良 カ ル
が 開 催 さ れ る。 そ れ に む け て、 約
が花開くまでの背景を探っていきた
台地であり、南部の台地は海岸線に
1 5 0 m ∼ 2 0 0 m の 丘 陵 地 帯・
う た ん 形 を し て い て、 北 部 は 標 高
き る。 大 崎 町 は 南 北 に 細 長 い ひ ょ
へ広がる大崎南部の台地を一望で
る 展 望 所 か ら は、 志 布 志 湾 と 海 岸 線
子どもの頃に訪れた人も多いと思
われる草野丘。新たに整備されてい
層の中で最も古いことになる。田原
私たちの地域で見ることのできる地
頂 上 部 分 だ け が 残 っ た 状 態 で あ る。
てほとんどが埋まってしまい、山の
あるが、入戸火砕流の堆積によっ
高く連なる山々であったはずで
野 丘 や 四 季 の 森 は、 本 来 も っ と
と 呼 ば れ る 地 層 が み ら れ る。 草
い。
向かい緩やかな傾斜をなす起伏の少
川と持留川の水源をたどっていく
地は、たった一週間程度のうちに堆
町内の大部分がシラス台地であ
る。高さ100m にも及ぶシラス台
分断するかのように存在している。
いて、まるで大崎町の北部と南部を
にかけての一帯が丘陵地帯となって
いる。草野丘から西持留の四季の森
約5500年∼約4500年前に形
ら れ る。 古 い と さ れ る 横 瀬 砂 州 は、
を多く含む泥質の土︵泥炭層︶もみ
州・砂丘によって河川の流路が妨げ
高い﹁砂丘﹂が形成されている。砂
風によって運ばれた砂が堆積した小
海岸近くの低地では、河川から流
れ込む土砂が堆積した﹁砂州﹂と海
年前︶に形成された﹁日南層群﹂
ない平坦な地形になっている。その
と、この丘陵地帯に行き着く。
積した火砕流によって形成されてい
成されたと考えられている。
られた一帯が湿地となり、植物遺体
る。その火砕流は約29000年前
つの河川が南流し志布志湾に注いで
台地を菱田川・田原川・持留川の3
丘陵地帯には、古第三紀の︵約
6500万年前∼約2400万
と考えられている。
30
1550年前に大崎の地で古墳文化
11
に起きた鹿児島湾奥部の姶良カル
さて志布志湾に少し着目してみる
と、海が広がったり陸地になったり
12.5 万年前の大隅半島(イメージ図)
万年前に大
肝属山地
万年∼約
万5000年前
現在の大隅半島
前は、下永吉から菱田にかけて海岸
進のピーク時にあたる約6000年
ある。さらに時代が下って、縄文海
た。志布志湾は存在しなかったので
けて海岸線となり陸地が広がってい
そのため都井岬沖から内之浦沖にか
1 2 0m ほ ど 低 か っ た と い わ れ る。
かった時期である。海抜は現在より
前は氷河期にあたり、海面が最も低
ス台地が形成された約29000年
になっていたことになる。またシラ
考えられている。大崎の大部分が海
志湾と鹿児島湾がつながっていたと
に遡ると、海面の上昇もあって志布
前の約
戸火砕流によって埋めつくされる以
噴火した阿多カルデラの火砕流や入
の 過 程 を 経 て い る。 約
姶良カルデラ
12
31
デ ラ の 大 噴 火 に 伴 う も の で﹁ 入 戸
肝属山地
13
18
広報おお
広報
おお
おさ
さき
き 201
015.
55
5.
線となっていた。海の浸食を受けた
シラス台地の先端部が﹁海食崖﹂と
して残っていて、当時の様子を想像
することができる。
海・ 河 川・ 台 地・ 丘 陵 と い っ た そ
れぞれが壮大な時間の流れの中で影
響を与えあいながら、大崎の自然豊
かな環境を織り成している。その中
で先人たちは自然と共存しながらど
のように風土を育んでいったのであ
ろうか。次回から先人たちの足跡を
たどっていきたい。︵続く︶
︻参考文献︼
て﹄春苑堂書店.
・大木公彦︵2000︶﹃鹿児島湾の謎をおっ
﹄
・鹿児島大学総合研究博物館︵2008︶
ws Letter No .
﹃Ne 屋大学年代測定試料研究センター.
14C年代による﹂﹃名
史
テフラとAMS
古屋大学加速器質量分析計業績報告書﹄名古
鹿児島大学総合研究博物館.
・永迫俊郎ほか︵1998︶﹁肝属平野の形成
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高隈山地
阿多カルデラ
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高隈山地
阿多カルデラ
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姶良カルデラ