レジュメ - GACCOH

2015/06/21
GACCOH 教養講座
「知らなかったよ!ハンス・ヨーナス」
第二回
ヨーナスと哲学
ナビゲーター・戸谷洋志
1. はじめに
本日はご来場頂き、ありがとうございます。今回の講座は、5 月 31 日に開催された第一
回「ヨーナスと人生」に続くものです。皆様の中には、第一回にご参加くださった方もい
れば、今回初めてお越しになった方もいらっしゃると思いますが、今日はヨーナスに関す
る伝記的なお話は省略し、彼の哲学を紹介していこうと思います。
今回お話するのは、彼の主著『責任という原理』を中心にした議論であり、いわゆる未
来倫理の思想です。未来倫理というのは、まだ生まれていない、遠い未来の人類に対する
責任を主題にした倫理学の一領野である、とさしあたり考えておいてください。
一言で倫理学といっても、そこには様々な立場があり、またその定義も多様です。です
が、今回の講座では、さしあたり倫理学を次のように定義しましょう。すなわち、善いこ
ととは何か、悪いこととは何か、そして人間はどう行為するべきなのか、という問題を扱
う学問が、倫理学である、と。そうした意味で理解される未来倫理とは、“私たちはこれ
から生まれてくる人類を守るべきである、そうした責任を負うべきである”、という規範を
説明する学問として理解することができるでしょう。
直感的に、そうした未来倫理に疑問を抱く人は少ないかも知れません。倫理学に詳しく
ない人だって、きっと後の世代への責任が大切であるということには頷くのではないでし
ょうか。しかし、私たちは、何であれ「倫理」と名がつくものには、格段の注意力を傾
け、眼を光らせる必要があります。というのも、倫理はある場合には恐ろしい暴力にも転
化しうるからであり、そうした暴力を正当化し、暴力に対する人間の感度を麻痺させるこ
とがあるからです。特に日本に限れば、3.11 の後、「未来への責任」という言葉は盛んに
語られるようになりました。しかし、その表面的な力強さとは裏腹に、この言葉が突き詰
められて考えられているとはいえません。
ヨーナスは、哲学史において初めて未来倫理を基礎づけた哲学者です。その際、彼は未
来倫理がもつ独特な困難さと苦闘しました。彼の哲学を追跡していくことは、未来倫理の
一般的な問題系を考える上で最良の手引きになるはずです。それはおそらく、「未来への
責任」を盛んに叫ぶ昨今の日本社会を、新しい光のもとで捉える可能性を提供してくれる
でしょう。1
1
以下、引用をする際に、邦訳が存在する場合には原則としてそこから引用をしていま
1
2. 未来倫理の条件
最初に、未来倫理の基本的な条件についてお話したいと思います。そもそも、何故、遠
い未来の世代に対する責任を考える必要があるのでしょうか。そして、その責任はどのよ
うな特徴をもっているのでしょうか。
未来倫理の必要性をもっとも分かりやすく示しているのは、放射性廃棄物の問題です。
高濃度の放射性廃棄物の放射線量が、自然放射線レベルにまで低下するには、少なくとも
10 万年の期間が必要であるといわれています。そうである以上、私たちは、放射性廃棄物
が少なくとも 10 万年間は自然界に漏出しないよう管理しなければなりません。もし、数
万年後に廃棄物処理場で事故が起き、高濃度の放射線が放出されてしまったら、私たちは
数万年後の人類を傷つけることになってしまいます。
まず注目して頂きたいのはこの事態そのものです。私たちは、数万年後に生まれてくる
遠い未来の人類を傷つけるだけの威力をもっています。20 世紀以前までは、人類はそうし
た強大な力をもっていませんでした。この力を私たちに与えたものこそ、科学技術文明に
ほかなりません。この遠い未来を脅かす力が、現在生きている私たちに責任を要求するこ
とになります。
しかし、この責任はどのようにして正当化されるのでしょうか。
確かに、未来の人類は、現在の私たちの行為によって被害を受ける可能性があります。
しかし、それは未来においてであって、現在の話ではありません。現在においては、未来
の人類はまだ存在していないのであって、従ってまだ被害も発生していないのです。それ
どころか、未来の人類がまだ存在していないのである以上、未来の人類にはいかなる人権
も認められません。何故なら、存在しないものに権利はないからです。そうであるとした
ら、未来の人類への責任を私たちが引き受けなければならない理由はどこにあるのでしょ
うか。
逆の視点からも疑問を挟む余地があります。現在の私たちが未来の人類に対する責任を
引き受けたとしましょう。しかし、未来の人類は、そんな責任など求めていないかも知れ
ません。未来の人類からしたら、それはまったくのありがた迷惑かも知れません。たとえ
ば――これはあまり考えたくない想定ですが――未来の人類は、「もっと早く世界が滅亡
していたらよかったのに、私たちなど生まれてこなければよかったのに」、と考え、現在
の私たちの責任ある行為を非難するかも知れません。しかし、未来の人類と現在の私たち
は決して出会えないのであり、議論することも合意形成をすることもできません。つま
り、未来の人類への責任は、当事者同士が同じ時代に生きていないために、民主主義によ
っては正当化することができないのです。
従って未来倫理は、人権概念と民主主義という、近代社会の基本的な原則によっては説
明することができません。そのため、未来倫理はまったく新しい倫理理論として構築され
す。ただし、必要に応じて訳を変更した箇所もあります。
2
ていく必要があります。ヨーナスは次のように述べています。
人間の行為の本性は変わった。人間の行為が生み出す成果は巨大で新しい。こうした
成果は、人間の地球的規模での未来に大きなインパクトを与える。これによって、さ
まざまな道徳的問題が派生する。従来の倫理は、狭い空間地平と時間地平の内部で人
間が同時代人と直接かかわる行為に向けられていた。だから、従来の倫理では、新し
く派生した道徳的問題に対する準備が私たちにはできない。こうした問題に対処する
ためには、いろいろな倫理的原理について――応用される機会がなかったために従来
は沈黙したままだった原理も含めて――新しく反省してみることが必要である。2
前述の通り、未来倫理を説明するためには、人権概念も民主主義の理念も有効には機能
しません。そうした概念装置に固執している限り、未来倫理を説得的に語ることはできま
せん。たとえば――またしても極端な想定ですが――「私は未来の人類なんてどうでもい
い、いまが幸せならそれでいい、自分が死んだあとならば世界が滅んでも構わない」とい
った考えをもつ人が政治家になり、大きな権力をもって危険な環境破壊を繰り返すような
事態に陥ったとき、この政治家に「未来への責任」を認めさせるためには、未来倫理はそ
れなりに強固な根拠づけをもっている必要があります。では、実際に未来倫理はどのよう
にすれば基礎づけることができるのでしょうか。
一つの可能性は、未来の人類の存在そのものに責任の根拠を見出すことです。つまり、
未来の人類がもつ権利や、未来の人類との民主主義的な合意を根拠にするのではなく、そ
、、、、、、、、、、、、、
もそも未来の人類が存在するという事実そのものを、責任の根拠にするということです。
分かりにくいかも知れないので、少し簡単な例で説明します。たとえばここに一匹の猫
がいて、そして「この猫は守られるべきだ」というルールがあるとします。このルールを
正当化するロジックはいくつか考えられます。権利の概念を使えば、
「この猫は守られる
権利をもつから、守られるべきだ」と説明できますし、民主主義の概念を使えば、「みん
ながこの猫を守るべきだという意見で一致したから、守られるべきだ」と説明することが
できます。これに対してヨーナスが採るのは、
「この猫は、ただ存在するだけで守られる
に値するから、守られるべきだ」という説明の仕方です。存在そのものに責任の根拠を見
出すというのは、さしあたりそういうことだとご理解ください。
しかし、この説明方法は実に前途多難です。ヨーナスが基礎づけようとする未来倫理
は、少なくとも二つのハードルをクリアしなければなりません。次に、そのハードルを検
討していきましょう。
2
ハンス・ヨーナス『生命の哲学――有機体と自由』細見和之・吉本陵訳、法政大学出版
局、2008、ⅹ頁
3
3. 未来倫理が直面する二つの困難――科学的存在論と歴史的相対主義
権利概念と民主主義の理念を用いない、ということは、西洋の近代社会の基本的な枠組
みから逸脱するということを意味しています。ですから、未来倫理を基礎づけるという作
業は、小手先の屁理屈で切り抜けられる代物ではありません。その作業は、倫理だけを問
題にするだけでは不十分であり、そもそも存在とは何か、という問いにまで遡ることを要
求します。そうした作業を遂行するにあたり、ヨーナスは現代社会において主潮を占める
存在論と、倫理のあり方を診断していきます。未来倫理の基礎づけはその二つと真っ向か
ら衝突します。そしてもちろん、これをクリアしなければなりません。
3.1 科学における没価値的な存在論
存在論とは、存在とは何かを問う学問の領野です。これに対しては哲学史の中でも様々
な見解がありますが、そうしたことは一旦脇に置いておき、日常的な感覚に即して考えて
みましょう。私たちにとって、あるものが存在するかしないかを決定する、一番の基準は
、、、、、、、、、、、、
何でしょうか。恐らく、多くの場合には、それは科学的に証明できるか否か、ということ
になるように思います。例えば、幽霊は、たとえ古くから文学作品に登場しているのだと
しても、実際には科学的に証明できないから、存在しない、と私たちは考えます。あるい
は逆に、放射線は決して知覚することができないけれど、科学的には証明できるから、存
在する、と私たちは考えます。こうした存在の捉え方を、ここでは科学的な存在論と呼ぶ
ことにしましょう。
科学的な存在論は、客観的な観察態度を要求します。客観的な、というのは、主観的な
判断を交えずに、事物をありのままに観察する、という態度です。例えば、実験結果を自
分の出世に都合の良いように改ざんしたり、実証された事実を信仰に従って否定したりす
ることは、科学的な態度ではありません。主観を交えずに観察するということは、価値観
を除外するということと同義です。ですから、科学者は、自分の趣味や信念や倫理観から
自由に、科学の営みに従事しなければなりません。
従って、科学的な存在論に即す限り、倫理は問題になりません。科学が対象とするのは
客観的な事実であって、これに対して倫理が対象とするのは規範であり、事実と規範は原
理的に区別されるべきであるからです。科学的な存在論は、その意味で原則的に没価値的
です3。没価値的、というのは、善でも悪でもなく、そうした判断を受け付けない、という
ことです。科学的な存在論に依拠する限り、この世界にあるのは事実だけであり、存在の
うちに倫理を基礎づけることは不可能になり、責任の根拠を求めることもできなくなりま
Jonas, H. 2004: “Aktuelle ethische Problem aus jüdischer Sicht”, hrsg.v. Bӧhler, D
und Brune, J. Orientierung und Verantwortung: Begegnung und Auseinandersetzung
mit Hans Jonas, Kӧnigshausen & Neumann, 59-69. S. 60
3
4
す。遠い未来の人類が存在するか否か、という問題は、あくまでも客観的な事実の問題で
、、
あり、そこから人類が存在するべきか否かという倫理的な判断は導き出せないからです。
未来倫理は、まずこの科学における没価値的な存在論によって、出鼻を挫かれることにな
ります。
3.2 歴史的相対主義
科学的な存在論に従う限りは、倫理はあくまでも主観的なものであり、客観的な事実に
は関わりません。主観的なものでしかない、ということは、倫理は人によって違うのであ
り、それらを一つにまとめることはできない、ということを含意しています。ここから直
ちに帰結するのは、倫理は相対的なものでしかない、ということです。ヨーナスは、現代
社会におけるそうした相対的な倫理観の傾向を、歴史的相対主義4と呼びます。
あらゆる倫理的な規範は、その規範が属する文化や歴史や共同体によって制約されてい
ます。そうである以上、どのような倫理も、絶対的な妥当性をもつなどと主張することは
できません。倫理が妥当なものとして通用するのは、その倫理が属する共同体の中だけで
あり、その外に出れば妥当性は失われてしまうからです。それは、言い換えるなら、普遍
的な倫理、あるいは客観的な倫理がもはや不可能であるということを意味しています5。
この考え方は、未来の人類への責任を決定的に疑わしくさせます。何故なら、この責任
はあらゆる人々に課せられるマクロな義務として考えられるからです。歴史的相対主義の
立場に従えば、あらゆる倫理は相対的な妥当性しかもたないのだから、あらゆる人々に課
せられる責任などを基礎づけることはそもそも許されない、という帰結に至ります。その
ため、未来倫理はそもそも倫理学的には成り立たない、という判定が下されたとしても、
不思議ではありません。
以上において、科学の存在論と、歴史的相対主義が、未来倫理にとって致命的な障害に
なることを確認しました。この二つの考え方を素朴に受け入れている限り、未来倫理の基
礎づけはまず不可能です。しかし、ヨーナスの思索の撃鉄はここから引き起こされます。
ヨーナスは、この二つのハードルをクリアすることのできる、新しい存在論の構築に着手
します。まず、科学の存在論に対してヨーナスが向ける批判を検討してきましょう。
4
5
前掲書、S. 62
前掲書、S. 62
5
4. 生命の哲学――没価値的な存在論への批判
科学の存在論を批判するといっても、それはなにかオカルトじみた思想を訴えることで
はありません。現代において科学が極めて有力な学問であることに疑いの余地はありませ
ん。しかし、ヨーナスに拠れば、少なくとも科学の存在論に依拠する限りは説明不能な自
、、
然現象が存在します。それが生命です。
生命を対象にする科学の領域は生物学です。生物学は、生命現象を解明するために、生
命を構成する諸要素を分析していきます。つまり、生命を理解するために、その生命を構
成しているより小さな物質に注目していくわけです。たとえば、人間の身体を構成してい
る物質は、炭素、金属、水、尿素などの、様々な物質です。生物学は、そうした諸物質が
どのように組み合わさり、どのように機能しているかを解明しようとします。しかし、言
、、、、、、、、、、、、、、、、
うまでもありませんが、このとき炭素原子そのものは生きていません。人体を構成する諸
物質は、それだけを分解して取り出してしまうと、生きていないものに、言い換えるなら
死んだものになってしまいます。そうだとしたら、生物学的な生命の理解は、生命を死ん
だものの構成物として理解する、ということを意味することになります。ヨーナスは、こ
うした生物学的な生命理解について、次のように述べています。
死においてはじめて身体は不可解ではなくなる。すなわち、死において身体は、生き
ているという不可解で非正統的なあり方から、すべての物質世界の内部にある一つの
物体の、明白で「親しい」状態へと戻ってくる。この物質世界の一般法則があらゆる
理解可能性の規準なのである。有機体の法則をこの基準に近づけること、したがって
この意味において生死の境界を消し去ること、すなわち、死の側から、死体の状態の
側から、生と死の本質的差違を廃棄すること、これが、世界に存在する事実としての
生命に関して近代的思索が向けられている方向である。こんにちの私たちの思想は、
死の存在論的優位のもとにあるのだ。6
しかし、こうした科学的な存在論=死の存在論だけを絶対視する必要はありません。た
とえそうした生命理解がどれほど有効であったとしても、私たちは一方で、生と死の明ら
かな違いを知っているからです。そうした違いをまず私たちに知らせるのは、生物を構成
している諸物質の観察ではなく、自分自身が生きているという事実です。少し堅い表現を
用いれば、生命の理解は、客観的な観察態度によって初めて得られるのではなく、前理論
的な日常性に得られているものなのです。
ヨーナスは、そうした日常的な生命の直観を説明しようと試み、その思想を「生命の哲
学」と名付けます。「生命の哲学」は、私たちが生命として生きているという事実を、あ
6
ハンス・ヨーナス『生命の哲学――有機体と自由』細見和之・吉本陵訳、法政大学出版
局、2008、20 頁
6
りのままに記述することによって、生命を生命として理解する可能性を模索する、という
「現象学的記述と批判的分析」7という方法論を採ります。
ヨーナスが生命の根本的な特徴として注目するのは、「新陳代謝」8の働きです。程度の
違いはあれ、新陳代謝を一切しない生命は考えることができません。呼吸、摂食、発汗、
排泄などに代表される新陳代謝の機能は、自分の外にある物質を身体の中に取り込み、今
まで自分の身体の一部であった物質を外に排出する、というものです。もちろん、新陳代
謝そのものは、生物学的な概念でもありますが、ヨーナスはこの概念を実存論的に解釈し
ていきます。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
新陳代謝をして生きている、ということは、絶えず自己を構成する物質を交換しながら
、、、、、
生きている、ということです。それは、かつては他者であって物質を一時的に自己の一部
にし、また自己の一部であった物質を他者のもとに追放する、ということです。そうであ
る以上、生命は、自らの存在を還元することができるような物質の塊のようなものをもっ
ていません。今日私たちの身体になっている物質と、明日私たちの身体になっている物質
は違います。たとえば、ある瞬間にある生物の身体を組成する物質を切り取り、それをも
って「これがこの生物の存在である」ということはできるかも知れません。しかし、少な
くともそれは死んだ身体であり、生きた身体ではありません。生きた身体とは新陳代謝を
する身体であり、そうである以上身体を組成する物質は変わり続けなければならないから
です。従って、生命の存在を物質に還元することはできません。言い換えるなら、生命は
物質の世界から解放されているのであり、「存在論的自由」9をもつ、とヨーナスは指摘し
ます。
しかし、この自由は、いわゆる自由意志とは大きく異なるものです。生命にとって新陳
代謝の停止は死を意味します。そうである以上、生命には「行為する自由はあっても、行
為しない自由はない」10と考える必要があります。私たちは呼吸を止めれば直ちに苦しく
なりますが、好きで苦しくなっているのではありません。呼吸をすることによって、私た
ちは物質の世界から自由でありながらも、しかし呼吸をしないという自由は最初から与え
られていないのです。この逆説的な自由のあり方をヨーナスは「窮乏する自由」11と表現
しています。新陳代謝をしながら生きるということは、物質に窮乏しながらも、決して物
質の世界に同化することを許されない、という不安定な存在のあり方をとることです。そ
れは言い換えるなら、絶え間なく新陳代謝の停止(死)の脅威にさられ続けるということ
を意味しています。ヨーナスは次のように述べています。
7
前掲書、ⅴ頁
前掲書、7 頁
9 前掲書、160 頁
10 前掲書、157 頁
11 前掲書、148 頁
8
7
新陳代謝のこの二重の側面――その能力と窮乏――によって、非存在が存在自身に含
まれた選択肢として世界に登場した。このことによってはじめて「存在すること」は
一つの強調された意味を手に入れる。自らが否定されるという脅威によってそのもっ
とも深い内奥において性格づけられることで、存在はここで自らを主張しなければな
らなくなる。存在が主張されるとき、それは重要な関心事としての現存在(Dasein)
となる。非存在の可能性が生命にとって不可欠であるがゆえに、生命の存在それ自身
が本質的にこの深淵の上に漂うものとなり、この深淵の縁に沿って棚引いているもの
となる。12
こうした分析に基づきながら、ヨーナスは科学による没価値的な生命理解を批判しま
す。新陳代謝をしながら生きるということは、死に対して「自らを主張」するという仕方
、、、、、、、、、、、、、
で生きる、ということを意味しています。そうである以上、生命の存在は決して没価値的
、、、、、、、、
ではありえません。生命はあくまでも自らの存在を肯定するという仕方で存在しているの
であって、自分の存在に無関心でいることは不可能だからです。
12
前掲書、7 頁
8
5. 生命の傷つきやすさと責任の感情
生物学的な生命理解と、ヨーナス的な生命理解の違いは、次の点にあるともいえるでし
ょう。すなわち、私たちが何らかの他の生命に出会うとき、何をもって「ああ、この他者
は生きている」と感じるか、ということです。恐らく、私たちが他者の生命を感じるの
は、その他者を構成している諸物質を知ったときではなく、その他者が、死の脅威にさら
されながら、自分の生命を主張するような仕方で存在していることを知ったときではない
、、、、、、、、、
でしょうか。つまり、生命の傷つきやすさに出会ったときではないでしょうか。
たとえば、次のような状況を想像してください。あなたが街を散歩していると、そこに
傷ついた猫が佇んでいます。猫はいまにも死にそうなくらいに弱っていて、あなたが助け
なければ、場合によってはもう長くはもたないかも知れません。猫があなたを弱弱しく見
つめます。もはや鳴く気力すらありません。さて、この状況において、あなたは、何も感
じないでいることができるでしょうか?もしそこで何かを感じるのだとしたら、あるいは
足が止まってしまうのだとしたら、それが他の生命との出会いを意味する出来事なのだと
思います。
前述の通り、生命は自らの生存を主張するという仕方で存在しており、自らの存在のう
ちに「強調された意味」をもっています。この「強調された意味」は、「呼び声」13となっ
て周囲に発せられます。傷ついた猫の前で、もしあなたが立ち止まることがあるとした
ら、あなたは猫の「呼び声」に耳を傾けたのです。言うまでもなくこの「呼び声」は、鳴
き声のようなものではなく、存在の「呼び声」であり、その猫の実存的な存在様態を知ら
せるものです。ヨーナスはここから、存在論から倫理学への移行を試みます。この「呼び
声」は、「私」に対して、その生命を守るよう訴えかけます。あなたが傷ついた猫の前で
、、、、、、、、、、、
足を止めたとき、あなたはその猫の生命を実感するだけでなく、その猫を守らなければな
、、、
らない、と感じるのではないでしょうか。あるいは、少なくとも、もし自分が守らなけれ
ばこの猫はどうなってしまうのだろう、という気持ちを抱くのではないでしょうか。
ヨーナスは、生命の傷つきやすさを前にしたこの情動を、
「責任の感情」14と呼びます。
すなわち、生命の傷つきやすさは、その存在において他者に責任を要請するのです。
この責任概念をもう少し構造的に考えてみましょう。あなたは、傷ついた猫を守ること
も、あるいは放置することによって傷つけることもできます。それに対して、猫は弱って
おり、あなたが助けなければ死んでしまいます。つまり、猫はあなたの力に依存してお
り、あなたは猫からその存亡を託されていることになります。ヨーナスが責任の対象とし
て考えるのは、そうした「私」に対して依存的な仕方で存在するものです。
13
ハンス・ヨナス『責任という原理――科学技術文明のための倫理学の試み――』加藤尚
武監訳、東信堂、2000、152 頁
14 前掲書、152 頁
9
「何かに対する責任」のその「何か」は私の外部にあり、そうでありながら私の力の
影響の圏内にあり、私の力に委ねられ、あるいは脅かされている。その「何か」は自
分が存在することへの権利を、その「何か」が何であり、あるいは何でありうるかと
いうことから、私の力に対置する。そしてその「何か」は、倫理的な意志によって、
私の力をその義務へともたらすのである。15
ここで重要なのは、責任の対象としての資格をもつのは、傷ついた生命であって、人間
には限定されないということです。それは言い換えるなら、対象となるものが「私」と同
じ共同体(あるいは種族)に属するか否かは、
「私」の責任に何らの影響も与えない、と
いうことです。「私」は、目の前で誰かが傷ついていたら、その相手が何者であろうと責
任を感じます。すなわち、責任の対象としての資格をもつのは、私以外のすべての生命、
つまり他者です。
責任の対象は、滅びゆくものであり、滅びゆくからこそ責任の対象となる。そうする
と、この対象と私との間には、ともに滅び行くという共通点があることになる。そう
であるにも関わらず、この対象は、古典的倫理学の超越的な対象のどれと比べても、
あずかることの少ない「他者」、私に対立する「他者」である。この他者は、抜きん
出て一層よいものというわけではなく、ただ自己に固有の権利を備えながらそれ自身
であるというだけである。しかもこの他者のもつ他者性は、私がこの他者に近づくこ
とによっても、またこの他者が私に近づくことによっても、架橋されるべきものでは
ない。ほかでもないこの他者性が、私の責任の対象であることを要求している。16
まとめましょう。ヨーナスは、生命の理解をめぐって科学的な没価値的な存在論を批判し
ます。もし私たちが生と死とを区別する日常的な生命理解を守ろうとするなら、生命のうち
には「強調された意味」が見出されます。ヨーナスはここに責任の根拠を見出そうとするの
です。その根拠とは、生命の傷つきやすさであり、そこから発せられる存在への「呼び声」
、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、
です。この考え方に即せば、責任の対象となる資格をもつものは、傷つきやすい他者の存在
、、、
である、ということになります。17
15
前掲書、165 頁
前掲書、156 頁
17 この論証は少なくとも二つの仕方で正当化されます。第一に、もしヨーナスの哲学的生
命論を批判し、あくまでも科学的な存在論に固執するなら、それは「死の存在論的優位」
を承認することになり、私たち自身の生命をも否定することになり、不合理です。第二
に、生命の傷つきやすさがそれに出会う者を立ち止まらせる力をもつということは、私た
ちにとって日常的に馴染み深い現象であり、ヨーナスの説はこの現象をよく説明すること
ができる、ということです。
16
10
6. 人類の存続への責任――歴史的相対主義の克服
さて、以上において「生命の哲学」から導き出される責任概念を確認しました。それ
は、傷つきやすい他者の存在のうちに責任の根拠を求めるものであり、人権概念や民主主
義の理念とは異なった原理で、人間の責任を説明しうるものです。とはいえ、ここから未
来倫理を直接に説明することはまだできません。責任の対象になる資格をもつものが、傷
つきやすい生命であるならば、何故、他の生物種ではなく、人類だけが特別に責任の対象
として認められうるのかが説明されていないからです。これを説明するためには、さらに
もうワンクッション、考えを深める必要があります。
ここがヨーナスの哲学の中でもっとも難解で抽象的な部分です。どのような哲学でも、
基礎づけは退屈なものだと相場が決まっていますから、どうぞご辛抱下さい。
私たちは先ほど、責任の対象について考察しました。しかし、責任は、責任を引き受け
る主体が存在しなければ、そもそも成り立ちません。では、責任の主体としての資格と
は、一体何なのでしょうか。ヨーナスに拠れば、その資格をもつものは人間に限定されま
す。人間は、傷つきやすい生命に出会ったとき、そこで何かを感じ、立ち止まることがで
きるからです。言い換えるなら、生命の「呼び声」を聴くことができるからです。ヨーナ
スは次のように述べています。
われわれは、まず「人間という存在者」というあらゆる関係の基礎となる事象に注目
しよう。これは、危なっかしい、傷つきやすい、取り消し可能ななどという、あらゆ
、、
、、
る生物に共通する性格を――儚さのまったく独特な様態を――備えている。保護とい
うことが必要なのは、こういう性格を持つものに限られる。またそのうえに、人間は
、、、
人間性を責任あるもの(責任主体)と共有している。責任主体は、人間性を要求す
る、唯一とは言わないまでも、もっとも根源的な権利を持っている。どんな生物も自
己目的である。自己目的であるという点は何の正当化も要さない。この点について
は、人間も、他の生物にまさっているわけではない。もっとも、人間だけが他の生物
、、、
に対してさえも、つまり彼らの自己目的の追求に手を貸すことに対しても、責任をも
、、、
つことができる。この点については、人間は他の生物にまさっていると言える。18
ヨーナスに拠れば、「他の生物に対してさえも」責任を引き受けることができるのは、
人間だけです。このヨーナスの考え方を素直に受け入れることができるか否かは、人によ
るかも知れません。人間以外の生物だって、他の生物種に対して(たとえば犬が猫に対し
て)責任を感じることはあるかも知れないからです。しかし、とりあえずここではそうし
た可能性は留保しておきましょう。
ヨーナスは、責任の主体を人類に限定します。「盲目的に働く〔生命の〕「然り」が義務
18
前掲書、173 頁
11
付ける力を獲得するのは、人間の洞察する自由においてである」19。それは言い換えるな
ら、人類が存在しなければ、責任という現象は成り立たない、ということです。ヨーナス
は次のように述べています。
「あなたは~するべきである」という声を聴くことができ、自発的にその声に反応で
きるように調律されており、さらにその声に聴き従いもする人が誰もいなければ、ど
のような「あなたは~するべきである」も存在することはできない。20
このことは、少し堅い表現を用いれば、次のように言い換えることができるでしょう。
すなわち、人間が責任の主体として存在することは、責任という現象が可能であるための
条件である、とヨーナスは考えているのです。
そうであるとすれば人類は、責任の対象としての資格をもちながら、同時に責任の主体
でもるという意味で、特殊な立場に置かれていることになります。もし人間が存在しなく
なれば、あらゆる責任現象は不可能になります。そうである以上、例えば、人類を滅ぼし
て他の生物種への責任を果たす、という考え方はそもそも成り立ちません。何故なら、人
類の存在を否定するということは、責任が成立する可能性をも否定することを意味し、責
任現象が成り立つこと自体を否定しているのと同じであるからです。つまり、人類の存続
への責任は、それが責任という現象の可能性の条件であるために、必然的に優先される、
ということです。ヨーナスは次のように述べています。
何よりも最初に来るのは、人類の実在(生存)である。人類はこれまで過ちを積み重
ね、そしてこれからもおそらく積み重ね続けるだろうが、その過ちのために人類が実
在するに値するか否かは別問題である。人類が実在し続けることによって、人類自身
を拘束する可能性、いつでも超越的な可能性が、開かれ続けなければならない。この
可能性を保持し続けることは宇宙的責任である。これこそが実在に対する義務に他な
らない。端的に言うと、責任が存在するという可能性が、すべてに先行する責任であ
る。21
注意して頂きたいことがあります。人類の存続への責任は、あくまでも人類が唯一の責
任の主体であるという理由によって正当化されるのであり、人類が生き残るに値するよい
種族であるからではありません。そうである以上、この責任は、人類のために課せられる
ものではなく、むしろ責任という現象が可能であり続けるために課せられるものである、
と考えるべきでしょう。ここにヨーナスの思想の大きな特徴があります。つまり、彼の訴
19
20
21
前掲書、146 頁
前掲書、154 頁
前掲書、176 頁
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、、、、、、
える未来倫理は、責任への責任なのです。
こうしたヨーナスの考え方は、非常に回りくどいし、抽象的で分かりにくいかも知れま
せん。しかし、彼の基礎づけのロジックは、歴史的相対主義を克服する可能性をもつ、と
いう大きなメリットをもっています。
確かに私たちは多様な価値観をもっていて、そのいずれもが等しく承認されなければな
りません。しかし、どのような道徳的責任も、その責任を遂行しうる人類が存在すること
は前提にしなければならないはずです。そうである以上、人類自身を破滅に追い込むよう
な行為は、道徳的責任としては正当化されません。すなわち、反道徳的行為として批判さ
れるに値します。この意味で、ヨーナスの未来倫理は、倫理学をめぐる歴史的相対主義の
中に一つの共通の規範を課すことができます。ただし、その規範は道徳的責任が可能であ
、、
ることだけを義務付けるものであるために、倫理の多様性そのものを失わせることはあり
ません。その意味で、相対主義を批判しつつも、価値観の多元性を擁護し続けることがで
きます。ここに、ヨーナスの未来倫理の大きな強みがあります。
13
7. 未来の他者の自由
ここまで、未来倫理の基礎づけを検討してきました。どんな哲学でもそうですが、基礎
づけは厳密に論理的である必要があり、そのために飲み込みにくく、具体性に欠く議論が
中心になりがちです。恐らく、ヨーナスの哲学もその例外ではないでしょう。結局のとこ
ろ、ヨーナスが主張する未来の人類への責任は、どのようなものとして考えればよいので
しょうか。
ここまでの議論を振り返ってみます。人間は責任の対象であると同時に主体でもありま
す。責任の対象は、傷つきやすい生命であり、同時に「私」とは決して同化することのな
い他者でした。他方、責任の主体は、この他者が発する「呼び声」に耳を傾けることがで
きる存在者であり、そうした「洞察する自由」をもった人間です。そして未来の人類への
責任は、責任という現象が可能であり続けるために、責任の主体である人間を第一の対象
とする責任でした。ここから導き出されるのは、私たちにとってまったくの他者である未
来の人類が、
「洞察する自由」を失わないでいることへの責任です。あえて一言で表現す
、、、、、、、、
るなら、未来の人類への責任とは、未来の他者の自由を守る責任として解釈することがで
きるはずです。
未来の他者の自由を守る、とは具体的にはどういうことでしょうか。これをより明確に
するために、子供に対する親の責任を例にとって考えてみましょう。子供は親によって保
護されなければ死んでしまうのであり、親は子供を守る責任を負います。この責任がどこ
まで及ぶかは、家庭によって変わるでしょう。ただ衣食住を保証するだけで十分と考える
家庭もあれば、それを超えて、たとえば将来のために学費の高い私立の学校に行かせた
り、サッカー選手に育てるためにスポーツ教室に通わせることこそが、親の責任と考える
家庭もあるかも知れません。しかし、同時に私たちは次のことをも認めなければなりませ
ん。すなわち、子供にはそうした親の期待を裏切ることが許されている、ということで
す。この、期待通りにならないという点に、ヨーナスは人間の自由の特徴を洞察します。
〔人間の行為の性質とは、〕人間の行為がその都度、そして繰り返し、まだ身近にな
いもの、期待されていないもの、そして意外なものを生み出し、つまり原理的に予測
不可能なものを生み出すという性質である。この性質は、まさに〔他者による〕
「期
待」を挫折させるということを意味している。それは〔他者による〕作為的な「目
標」とも、隠された「目標」とも関係がない。そして、私たちがあまりにもよく知っ
ているように、その性質は、他者から望まれているということとも必然的にまったく
関係がない。22
そうだとすれば、親が子供に対して、その子供がもつ他者としての自由を守る、という
22
前掲書、188 頁
14
ことは、自分の子供が自分の思い通りにはならないかも知れない、という可能性を認める
ことを意味しています。回りくどい言い方になっていますが、それは親の責任に関する極
めて一般的な考え方でしょう。しかし、この洞察を未来倫理の文脈に当てはめれば、ヨー
ナスの主張は一層明確になります。
、、、、、、、、
すなわち、未来の他者の自由を守る責任とは、未来の他者にとって、私たちの期待を裏
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切るような生き方が可能であるように配慮することを意味しています。ヨーナスは、未来
の人類がもつ自由を、私たちには到達できない「超越的な地平」と呼び、次のように論じ
ています。
〔他者の自由という〕超越的な地平を考慮すれば、まさに全体的な意味での責任に
は、規定的な態度をとるよりはむしろ、可能にさせるという態度(つまり、用意を整
え、留保し続けるという態度)をとることが許されている。責任の対象が固有の未来
を持っていることが、責任のもっとも本来的な未来という側面である。責任が最高の
仕方で果たされるのは――責任はあえてそれを試みることができるのでなければなら
ないが――、その成長の世話をしてはきたが、まだ成長を終えたわけではないものの
権利を認めて、潔く身を退くことである。23
つまり、未来の人類への責任は、未来の人類の生き方までをも、現在の視座から規定す
ること意味するのではありません。むしろ、現在においてはまだ予測できないこと、まっ
たく新しいことを、未来の人類に「可能にさせる」ということが、その責任の内実です。
たとえば、高濃度の放射性廃棄物が漏出すれば、それによって未来の人類の健康が侵害
され、場合によっては壊滅的なダメージが与えられるかも知れません。それは未来の人類
の自由を著しく制約するものであるため、私たちはそうした事態を回避する責任を負うこ
とになります。別のテクノロジーに関しても同じことが言えます。ヨーナスは、脳科学や
化学薬品によって人間の行動を制御する技術に一貫して批判的な態度を取り続けました。
それは、そうした仕方で人間の価値観を強制的に限定する行為が、いまとは違った新しい
価値観を作り出す自由を、未来の他者から奪うからです。
科学技術文明は、様々な仕方で、未来の他者からその他者性を奪う可能性を秘めていま
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す。これに対してヨーナスは、「救いの予言よりも、不吉な予言にこそ耳を傾けよ」24とい
う命法によって表される、「恐怖に基づく発見術」という方法論を提唱します。たとえば
脳科学の発達は、人類に様々な恩恵をもたらすかも知れません。しかし、それによって生
じる人類への弊害をこそ重視するべきだと、ヨーナスは主張します。何故なら、一度生活
に浸透してしまったテクノロジーは容易には修正することのできないものであり、そうで
あるにも関わらず、その弊害は未来の他者の自由を致命的に傷つけうるからです。
23
24
前掲書、188 頁
前掲書、56 頁
15
8. 神が私に救われるために
ヨーナスは科学技術文明に対して常に悲観的な態度をとります。もちろん、テクノロジ
ーの進歩は人類の生活を豊かにもするものです。場合によっては、ブレイクスルーのよう
な革新的な進歩が起こって、それまでの技術的な問題が一気に解決される可能性だってあ
るはずです。それでも、ヨーナスは、あくまでも「恐怖に基づく発見術」の必要性を強調
し、テクノロジーの危険性にこそ注目しなければならないと主張します。
悲観的な態度をとるということは、幸運な偶然を信じないということです。ヨーナスに
とって、歴史が人類に幸運を与えるという可能性は決してあてにすることのできないもの
でした。それは彼がアウシュヴィッツで母を失ったことと大きく関係しています。
第一回でお話した通り、ヨーナスの母は高名なラビの娘であり、彼は由緒正しいユダヤ
系の家庭で育ちました。その母はアウシュヴィッツ強制収容所で殺害されます。ヨーナス
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にとって母の死が意味していたのは、神はユダヤ教徒を救わなかった、ということです。
ユダヤ教においては、世界は神によって創られたものとして考えられています。そうであ
る以上、神は望んでアウシュヴィッツが存在する世界を創った、ということになります。
これは、もちろん、ユダヤ教への信仰を崩落させるに十分すぎる事態です。
しかし彼は神の存在までをも疑ったわけではありませんでした。ユダヤ教の神は存在し
ないかも知れません。しかし、神は違った仕方で存在するかも知れない、とヨーナスは考
えます。彼にそう考えるきっかけを与えたのは、母と同じくガス室で殺害されたある若い
ユダヤ人女性の手記です。それは次のような内容のものでした。
神よ、あなたが私をお見捨てにならないように、私はあなたを助けましょう。でも、
私はあらかじめ何も保証することができないのです。ただひとつのことだけが私には
ますますはっきりしてきました。あなたは私たちを助けることができず、私たちがあ
なたを助けなくてはならないということです。そうすることで、私たちはついには私
たち自身を助けることになりましょう。肝心なのはただひとつのことです。私たちの
なかにあるあなたの一部を救うこと、神よ。……ええ、神様、あなたにしても、この
状況の多くを変えることはできないようにみえます。……私はあなたから説明を求め
ません。あとになって、あなたは私たちに説明を求めるでしょう。ほとんど心臓が脈
打つたびに私にますますはっきりしてくるのは、あなたが私たちを助けることができ
ず、私たちがあなたを助けなくてはならないということ、私たちの内にあるあなたの
住処を最後の最後まで守らなくてはならないということです。25
この手記で綴られているのは、こういうことです。神は本来なら全能であるにも関わら
25
ハンス・ヨーナス『アウシュヴィッツ以降の神』品川哲彦訳、法政大学出版局、2009、
107 頁
16
ず、アウシュヴィッツ的事態の発生を許しました。しかし、それは、神がこの事態を望ん
だからではなく、神にはこの事態の発生を防ぐことができなかったからだ、とこの女性は
解釈しています。つまり、神は全能ではなく、その力は制約されている、ということで
す。それに対して、この女性は「私はあなたを助けましょう」と語ります。人間が神を助
ける、というのです。それは、神が人間によって保護される対象であり、神よりも人間の
方が有力である、ということを前提にした考え方です。この言葉がユダヤ教徒の口から出
てくることが、いかに異常な事態であるかは言を俟ちません。
ヨーナスはこの手記から大きな感動を受けます。私たちにはもう幸運を期待することが
できません。もしこの世界に神が存在するとしても、その神にはもう私たちに幸運を与え
る力がないからです。だから、私たちは悲観的な態度で、未来の人類への責任を引き受け
なければならない、とヨーナスは考えます。ここであえて神の存在を仮定するなら、むし
、、 、 、、、、、、、、
ろこう語ることができるでしょう。神が「私」に救われるために、未来への責任が果たさ
れなければならない、と。ヨーナスはこう述べています。
義務は常に存在していたが、技術を介して人間の力がこの地上の生き物の住処全体に
とって危険なものとなるまでに成長したことで、焦眉の具体的な義務となっている。
〔……中略……〕私たちは今や私たちによって脅かされつつある世界のなかの神的な
事柄を私たちの手から守らなくてはならない。私たちにたいしてそれ自身では無力な
神的なるものを助けなくてはならない。これは知の力をもつゆえの義務であり――宇
宙的義務である。というのも、私たちが私たちの手で挫折させてしまうことができ、
私たちのなかで台無しにしてしまうことのできるものは、宇宙規模でなされた実験に
ほかならないからだ。26
もちろん、これは創作された神話でしかありませんし、この神話が未来倫理の合理的な
基礎づけに直接関係しているわけではありません。しかし、この発想の転換――神が私を
救うのではなく、私が神を救う、という転換――は、未来倫理をイメージする上で有用か
も知れません。いずれにせよ、幸運を信じないこと、救う神の存在を信じないことが、未
来倫理の基本的な態度であることは疑いえないことです。
26
前掲書、106 頁
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9. 結びにかえて
以上において、ヨーナスの未来倫理の思想を概観してきました。ナビゲーターとして、
可能な限り体系的に、分かりやすくお話しするよう努めましたが、実際のところどうであ
っかには自信がありません。それほどまでに、ヨーナスの哲学は独創的であり、多岐のテ
ーマに及ぶからです。ただし、それはヨーナスの哲学者としての手腕の問題というより
は、未来倫理という問題に起因することのように思います。私たちが自明視している「未
来への責任」は、本気で説明しようとすれば様々な困難と衝突します。そうした困難を乗
り越えるためには、近代社会が前提としている人権概念や民主主義から逸脱しなければな
りません。そうである以上、未来倫理は私たちの目からすれば異様なものにならざるをえ
ないのです。
ヨーナスの未来倫理には様々な反論の余地がありますが、ここではその一つ一つを挙げ
ることはしません。最後に、次回の第三回「ヨーナスと現在」への布石として、さしあた
り次の点をヨーナスの未来倫理の帰結として指摘しておきます。
・ 未来倫理は、科学技術文明による人間の力の増大によって求められる。
・ 未来倫理は、未来の他者の自由を守る責任を、私たちに課す。
・ 未来倫理は、科学技術文明を楽観視してはならず、その危険性をこそ重視する。
次回は、この三つの要点を光源に用いながら、福島第一原発事故以降の日本の思想の中
に、新しい未来倫理の可能性を模索してみたいと思います。取り上げるのは、大澤真幸、
中沢新一、古市憲寿、宮台真司、黒瀬陽平、宇野常寛、東浩紀などです。ヨーナスの基礎
づけた未来倫理の文脈の中に、原発事故に対する日本の知性たちの応答はどう位置付けら
れるのか、そしてそこから翻って浮かび上がってくる、ヨーナスの未来倫理の今日的意義
を明らかにすることが、次回のテーマです。
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