2009 年はドイツにとっては、歴史的に非常に重要な転換時期である

2009 年はドイツにとっては、歴史的に非常に重要な転換時期である
岡
田
昌
義
前神戸大学第二外科教授、同同門会名誉会長(昭和 36 年卒)
2009 年は、ドイツにとっては実に重要な転換期と言える。それは基本法制定によるドイツ連邦共和
国が誕生してから 60 周年を迎えたのに加えて、ベルリンの壁が崩壊してから 20 周年経過したという、
まさに記念すべき年号となったのである。ここでは、ドイツを分断した「ベルリンの壁」を中心に述べ
ることとする。
1945 年 5 月にドイツは日本より早く降伏したが、その後 12 年間にわたるナチスの独裁によって人種
の迫害と第二次大戦とで実に 6000 万人にも及ぶ人命を落としたのである。その後 1949 年 5 月 23 日に
連合軍によってドイツ連邦共和国(西ドイツ)とソ連軍は東部占領地区(東ドイツ)を同年 10 月 7 日
付けで統括することになった。西ドイツは、同年 8 月 14 日に最初の連邦議会の選挙によってキリスト
教民主同盟のコール・アデナウアーが初代の連邦首相に就いたのである。これによりドイツは、完全に
東西の二つに分断されたのである。
その後は、西ドイツは西側民主陣営への編入政策を導入して、通貨改革やアメリカの欧州復興計画(マ
ーシャルプラン)などや、社会的市場経済政策が奏功して著しい発展を遂げたのである。
ところが、1960 年頃には、東西ドイツの貧富の差が歴然としており、西側への人々の流出に危機感
を抱いた東ドイツ政府は、東西ドイツの国境閉鎖に踏み切ったのである。それまでは東西ベルリンの往
来は完全に遮断されていなかったのであるが、1961 年 8 月 13 日に、突如として東側によって遮断され
たのである。そのいわゆる「ベルリンの壁」が 28 年間とい
う長きにわたって東西ドイツを分断してしまったのである。
それからが本当に寂しい悲劇が持続したのである。その壁の
高さは、4mと高く、その長さは155km(東西ベルリン
の間は43km)と続き、思い出すだけでも本当に嫌な感じ
を抱かせるものであった。とくに、ブランデンブルク門の前
では、ベルリンの壁越しに「ここを抜けると、今貴方は西ベ
ルリンを去ることになるのですよ」という看板が一目でわか
るように立っていたのである。
その手前には、アメリカ、イギリス、フランスなどの連合軍の兵隊が銃を持って立っているのである。
このような時に、私はこれらの国境警備隊に聞いたのであるが、一人でも逃がすとブランデンブルク門
の屋上で番をしているソ連兵に狙撃されると言っていたのを昨日のように思い出されるのである。24
時間輪番制で東から西へ逃れる人がないように番をしているのである。このベルリンの壁を越えようと
して死亡した人は、総数588人(うち10人はスプレー川での溺死、25人は東ドイツの国境警備隊)
に達しているのである。
1963 年には、アメリカのケネデイ大統領が西ベルリンを訪
問し、ベルリン市の自由を保証するという名演説を行い、好
評を得たのである。この秋にアデナウアーが退陣したあとは、
キリスト教社会同盟のゲオルグ・キージンガーが首相になり、
不足した労働力を補充するために南ヨーロッパから 200 万
人以上の多くの外国人労働者を受け入れたのであった。
1960 年代の後半における流れは、西ドイツ社会の硬直した
社会や価値観に対する知識人や大学生などの大規模な抗議
行動ばかりであった。これにより、西ドイツの政治文化と社
会のありかたに深く持続的な変化をもたらしたのである。1969 年社会民主党のヴィリ―・ブラントが
政治家としてはじめて連邦の首相に就任したのであった。1970 年 12 月 7 日にブラント首相は、条約調
印のため訪問したワルシャワで、ユダヤ人ゲットー跡の記念碑の前で哀悼の念を抱きながら跪いたが、
この映像は世界中に隈なく放映されたのである。この調印された西ドイツとポーランドとの国交の正常
化の条約は、東方条約の一つとして新しい平和秩序の基礎となったのである。アデナウアーは、西側統
合政策の成功を収め、ブラントは東側への扉を開いたのである。このような働きにより、1971 年ブラ
ント首相はノーベル平和賞を受賞したのである。1970 年代は、外交面で平和路線が促進されたのであ
るが、内政的な面では不穏な状態が持続していたのであった。
ところが、1980 年代に入ると、ドイツに「緑の党」という新たな政党が誕生し、平和運動や環境保
護運動が促進されていったのである。1982 年には、キリスト教社会同盟からヘルムート・コールが首
相に就任することになった。
一時は平穏無事な時期が経過したのであるが、1989 年 11 月 9 日に突如としてベルリンの壁が崩壊す
ることになったのである。このようなことになろうとは、東西のドイツ人は誰しも想像すらしなかった
ことなのである。丁度この頃、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領の改革やポーランドとハンガリー
での民主化運動の影響で、東ドイツにも多くの人達が国に対する不満を明らかに表明する雰囲気が生ま
れ、このようなムードはハンガリーとチェッコスロバキアから逃亡するという事実が明らかにされるよ
うになってきたのである。これは「月曜日のデモ」とも呼ばれ、1989 年 9 月すでにライプツイヒのニ
コライ教会の前で始まったのである。また、同年 9 月 10 日には、ドイツ民主共和国の亡命者のために、
ハンガリー政府は国境を開放したである。一方、11 月 16 日には、ドイツ民主共和国は、祖国の民主化
を求めて、
「我々はドイツ人である」というスローガンのもとにライプッヒで 12 万人もの人が大きなデ
モを行ったのである。このように大きな動きが見られるようになり、1989 年 10 月 18 日に、遂にドイ
ツ社会主義統一党のエールリヒ・ホネカーは、書記長と国家評議会議長とを辞任することになったので
ある。その後、11 月 9 日夜、政治局員であり東独政府スポークスマンであったギュンター・シャボフス
キが、突然に個人旅行者に対する旅行制限を緩和した改正旅行法を即刻発行するという発表を行ったの
である。すると、直ちに何千人、あるいは何万人という多数の東ドイツの市民が西ベルリンとの国境に
殺到し、東ドイツの境界警備兵は何の指令も受けないまま、多くの境界通過点を開いたのである。この
事実は、ドイツ人にとっては、まさに夢うつつの気分であったようにさえ思われるのである。ようやく
28 年振りに壁が崩壊して、東西ベルリンは歓喜にあふれたのである。
その後、同年 12 月 22 日には、ブランデンブルク門は、解
放されたのである。
また、その後 1990 年 10 月 3 日は、
「ドイツ統一」の記念す
べき祝日となったのである。このように 1990 年代は、ドイ
ツには「ドイツの統一」と東部地域の政治的、社会的並びに
経済的な格差をなくするための重大な経済負担がのしかか
っていたのである。1999 年には、連邦会議と政府や省庁な
どをボンからベルリンにそのほとんどを移転させたが、これ
は円滑に行われたようである。その後、ゲルハルト・シュレ
ーダーが首相に任命されたのである。2005 年 11 月には、ドイツで初めて
女性のアンゲラ・メルケルが首相を務めているのである。一方、2006 年に
はドイツでワールドサッカーが、盛大に繰り広げられたことは、まだ記憶
に新しく残っていることであろう。
このように第二次世界大戦後、ドイツは分断されて大変な時期を迎えた
のであるが、今やその反動ともいえる状態で先進国としてユーロ圏でのリ
ーダーシップをとっている事実は、大変立派であるといえる。